キスシーンを観てしまった私は「困ったなあ」と思いながら帰路についた。「なんでやねん」とも思っていたし、「明日からどうしよう」とも思っていた。
そもそも話をするところまでしか想像していなかった私は、こうして帰り道に制服を着た人の群れを逆行しながら帰ることとなることを完全に忘れきっていた。気分は産卵期の鮭だ。ただ、恥ずかしいという気持ちは動揺の中でぎりぎり誤魔化されていた。
もちろん、小学校の集団登校などに比べれば高校の通学路にいる学生の数なんてたかが知れているが、その声量は小学生に勝るとも劣らない。私は雑念を消し去るべく、思考の渦に身を沈めた。
今回の件は私に非はないはずである。そもそも、今回待ち合わせに選んだあの場所は二人しか知らない場所のはずである。あの話の内容から察するに彼女が話してしまったのだろうか。
思い返せば、瑞羽ちゃんと口付けをしていた女には見覚えがあった。あんな長身な癖して、更に靴底の高さでかさ増しまでしようという人間はこの学校には一人しかいない。十中八九、秋窪紅葉だろう。
三年生の先輩である彼女は、世間に疎い私でも知っている唯一の先輩であった。聞き耳を立ててみると、この通学路からでも近頃の秋窪紅葉の様子を探ることができるほど、有名な人物である。
近くを歩いていた後輩と思しき女の子達の会話に意識を集中する。
「あれみた?秋窪さんの。やばない?」やばいらしかった。
「めっちゃ歌うまいよね」。もう片方の子が答える。どうやら秋窪は歌がめっちゃ上手いらしい。
今度は同級生の会話にチューンを合わせる。
「あれみた?秋窪さんの。どう思う?」
この校区では定例として、秋窪紅葉の近況を報告しあわなければいけないらしい。
もう片方の丸っこい女の子が答える。
「ね!瑞羽ちゃん、どうするつもりなのかな」
突然の友達の名前にびくっとする。なぜここで彼女の名前が出てくるのだろうか。
「え、でもわざわざ二人で出かけるってことはそういうことなんじゃないの」
私が聞き取れたのはそれまでだった。そういうことなの?
私は基本的にはSNSもやっていなければ見てもいない。いや、厳密にいえば見てはいるんだけど、同級生との交友を持っていなかった。
しかしこの場合秋窪紅葉、いや秋窪さんがストーカーでではなくてよかったというべきなのだろう。それにしたってあれほど私と共にいる時間の長い瑞羽ちゃんが隠し事をしているとも思えないが、私と住む文化圏が違う私達に、秘密の交友関係があったとしても何も不自然なことはないだろう。私にはないけど。
家の扉を開くと、気を持ち直しつつある私を無音が迎え入れた。両親は私が告白の失敗を果たすまでのわずかの間に働きに出ていたようだ。制服にシワができることも気にせず自室のベッドに倒れ込む。
脳内では常にあのシーンが再生され続けていた。秋窪が覗かせたあの、渦巻き、狂った瞳。彼女の周辺のあの空間のみが、普段の高校ではないかのように景色がピンク色に歪んで見せていた。秋窪の視線の意味は分からないが、私の気持ちの大半を占めている思いは変な誤解をされていたら面倒くさいなということだった。
私の3センチ足らずの脳には死期の告白を愛の告白と誤解したお花畑な秋窪紅葉が、焦って瑞羽ちゃんに迫ったのだというようなお粗末な少女漫画的展開が幾度となく思い浮かんでいた。
脳内瑞羽ちゃんが言う。
「ごめんオソノイ!私秋窪さんとお付き合いすることになったからオソノイとは…え?愛の告白じゃない?またまた~照れちゃって。安心して!これからもオソノイとは仲良くするから…ってえ~~~~ほんっとに違うの?大事な話っていうからてっきり!ごめんごめんごめん!怒らないでぇ」
うむ。普通に言いそうである。脳味噌が3センチ足らずで頭お花畑なのは瑞羽ちゃんなのかもしれない。
平時の私であれば瑞羽ちゃんを任せられるかどうか秋窪さんに対して査定の一つでもしてやったかもしれないが、今の私は所詮散りゆく身である。流石に死ぬ間際に人の恋愛に口は出せない。瀬戸際の人間の「瑞羽ちゃんは任せた」は後押しではなく遺言という。
まあ、秋窪紅葉とやらは歌もうまいらしいしここは任せてやってもいいだろう。
「私と瑞羽ちゃんは、いいお友達」
うん。突然のキスシーンで動揺してしまったが、口に出せばだんだんと落ち着いてきた。
「私と瑞羽ちゃんは、いいお友達」
大分落ち着いて来たぞ。気が晴れると、今度は喉が渇いた。節操のないぞ!私の身体!
水を飲みに一階に下ると、リビングの机には母親が置いていってしまったのか書類が散乱していた。「あ~あ」と溢しながら私は四隅を揃えようと束を手にとった。すると、その中の一枚の書類が不意にこぼれた。
「入院保険…ねえ」
書類を拾い上げると、そこには私の医療費のことが書かれていた。気になって書類を全て広げると、内容のほとんどが病院のことや保険のことだった。
両親の働く時間は、私が病気になってから増えた。いつも大変そうな、辛そうな顔をしている両親を見ると、心の底から「私のたった半年の延命のためにそこまでしなくてもいいよ」と言いたくなる。余命が残り半年増えたところで、それが親の財産を絞り尽くした上で成り立っているのであれば素直に喜べる気がしない。
それでも、「私ね、たかが数ヶ月寿命が伸びたところで嬉しくなんてないからお金の事頑張らなくていいよ」なんて口に出せば両親が悲しみ、怒り出す姿が目に浮かぶから、なんとなく親の前では精一杯生き延びたがっているフリをしている。気が滅入るったらない。
書類を見られたと知った母が気にしすぎないように書類をもう一度散乱させ、私は自室に戻りベッドに倒れ込んだ。
瑞羽ちゃんのこと、病気のこと、余生のこと。私は、目を背けてしまっているんだろうか。でも悩むのはもう、しんどい。
そのときだった。
不意に、心臓が痛んだ。続いて動悸が増し、喉がつまる感覚がやってくる。身体の上半分が急速に活動を止め、肺の停止により呼吸困難の苦しみが、胃と食道の停止による吐き気が、そして何より心臓そのものの停止による痛みがそれぞれ同時に来る感覚。発作が来たのだとすぐ分かった。
気づくと汗まみれになって、突然の嵐のような苦しみを私はシートを噛み締めることによってやり過ごしていたようだ。耐えるだとか、耐えないだとかじゃない痛み。立ち上がると、頭に血がのぼっていたのか、よろめいて床に倒れた。
私は「散々だな」と笑って、二度と着ることのない制服を脱ぎ捨てた。
XXX
あの日、瑞羽ちゃんに死期を打ち明けようとした日から五ヶ月が経った。逃げ帰った私は、当初の予定通り学校には行かなくなっていた。というか引きこもりになった。
服はスウェットとTシャツ以外を着ることはないし、部屋の外に出るのはコンビニか、図書館くらいだった。
引きこもりになった理由は、生徒Aこと小林さんにめちゃくちゃドヤりながら瑞羽ちゃんを任せてしまったことも関係している。あの時はその場のノリで任せてしまったが、今思えば非常に重い圧をかけてしまった。私死ぬのに。そもそもなんで小林さんに任せたのか自分もよく分かってない。
でも、「やっぱり任せない」と言えば今から死ぬ感じ丸出しだしな。という感じで、ここ最近は「死ぬ人間はめっちゃ気を遣う」ということを学んだ以外には何をするでもなく、ぼんやりと過ごしていた。
いや、ぼんやりと過ごしていたは嘘だな。割とうじうじ悩んでいた。まず帰った当日、10月20日。その時の私は、絶対に瑞羽ちゃんから連絡が来ると思っていた。何事もなくとも電話がかかってくるのだ。かかってくると思うのは当然の帰結である。
そして翌日。一日中携帯をチラ見していた。その次の日もだ。思えば、あの頃は余裕があった。自分と瑞羽ちゃんが連絡を取らなくなる時が突然訪れるなんて、思いもしていなかった。
連絡の貰えない日々が、ある程度過ぎると脳内で瑞羽ちゃんが話し始めるようになってしまった。
「ごめん!オソノイ!紅葉さんとお付き合いすることになったからあんまりお話できなくなった!」「オソノイ!私はオソノイの事を待ってたのに、だらだらしてるから秋窪先輩に取られるんだよ」「オソノイって特別な存在だと思ってたけど、本当に特別な人っていたんだね!」「一緒にいたら、お互いにとってもよくないと思うんだ!」「オソノイとのお話ってあんまり楽しくないんだよねぇ」大振りのジェスチャーに、表情筋をこれ以上ないほどうざく使いこなした瑞羽ちゃんがそんな事ばかり言ってくる。
その度に私は脳内で、「瑞羽ちゃんはそんな事言わない!」と気を持ち直す。だが、結局電話がかかってくることがない以上、完全に否定は出来ないのだった。一度、大変なのは私だけではなく、彼女も窮地にあるのかもしれないと思いインスタグラムを探ったりもしたのだが、彼女は秋窪紅葉と楽しそうに過ごしていた。みなとみらいとか、シーパラダイスとか、横浜にばっか行っていた。瑞羽ちゃんが横浜好きとか聞かないし、秋窪さんの趣味に染まってしまったのだろうか。
私はそういった画像を見る度に瑞羽ちゃんのことが一切分からなくなり、横浜が嫌いになっていくのだった。もし今の私の悩みを解決したいのであれば、一言「私のこと憶えてる?」とダイレクトメッセージを送るだけでいいのだと言うことは分かっていた。
でも、そんなことを言える人間はこの世界に果たしてどれほどいるだろうか。私の場合更に、そこから半年間言い出せなかった余命のカミングアウトもしなければならないのだ。
「私のこと憶えてる?」
「あ~!オソノイ久しぶり!ごめん最近忙しくて連絡できなくてさ。あ、そういえば最近学校来てなかったけどどうしたの?」
「私、もうすぐ死ぬんだよね」
地獄である。できるわけがない。
そんなこんなで引きこもっていた私が何をしていたかというと、良い出会いがあったのだ!余命5ヶ月で出会った「小田之瀬 積み香」との日々は、とても素晴らしいものだった。
彼女のピンク髪は先端に向かうにつれて蒼銀に変わり、アイドルのような衣服に身を包んでいる。目がとっても大きくてちょっと子供っぽい。俗に言うVtuberなのだった。
私が彼女に出会った理由は瑞羽ちゃんと交わした最後の会話が関係しているのかもしれないし、私みたいなTwitterとYoutuberに巣食っている人間はいずれこうなるべきだったのかもしれないという気もしている。気づけば私は、インターネット上で追っかけのような事をするようになっていた。積み香ちゃんの話についていけない事が嫌で、Vtuberの歴史もばっっっちり抑えたしね!
初のスーパーチャットも積み香ちゃんで卒業した。その日は積み香ちゃんの昔のエモ話に感化され、瑞羽ちゃんのことを思い出していたのだ。その時の配信は何度も見返している。
「えー「友達に黙って引っ越したのですが、以降全く連絡がありません。会話したいのですが、連絡しづらい状況にあり、切り出し方がわかりません」。Rinさん、スパチャありがとうございます」
Rinは私のアカウント名だが、急造なため全然感慨がない。コメント欄は「お前が悪い」や「連絡しろ」といったコメントに溢れていたが、積み香ちゃんはどこまでも天使だった。
丁寧に返事をして、こんな話もしてくれた。
「実は私も同じような経験あるんだよね。仲めっちゃ良かったんだけどさ。私の方から連絡断っちゃって。そうなると今更どの面下げて連絡取ればいいんだって感じでさ」
私は積み香ちゃんが自分と全く同じ経験をしているということに感動して「一緒です!」とコメントしたが、色のついていない私のコメントは読まれることもなくすぐ流れてしまう。
それでも、積み香ちゃんは話を続けてくれた。
「でも、私はさ。そんなに気にするなら話しかけちゃえよって思うんだよねえ」彼女は「他人事だからね」と笑いながら付け加えた。そこから彼女は再び、その頃の思い出を語ってくれた。
幼馴染の女の子がいた事、事件に巻き込まれた事、裏切られたと勘違いして、別れてしまった事、それから会話をしなくなってしまった事。このスパチャを通したやり取りから、話を聞いて似た状況にあった私は彼女に心の底から惚れ込むことになったのだ。
しかし、感動することと、実行に移せるかは別だと思う。私は、彼女の対応に感動を覚えつつも、結局瑞羽ちゃんに連絡はできずじまいなのだった。
ただ、彼女は私が過去を思い出す機会を与えてくれた。
思い出すのは、瑞羽ちゃんとの出会いの記憶だ。
中学の頃の私は『メトロトレミー』というコンテンツにドハマリしており、高校の自己紹介でそこに登場する辻凜花というキャラのなりきりをネット上でしていたことを何も考えずに発表した。
すると休み時間ご丁寧に瑞羽ちゃんが、
「あんまり人前でネットでしてる活動のことを言わない方がいいよ」と教えてくれたのだった。
それから突然「オソノイ!一緒に帰ろ!」と登下校を共にするようになったのだ。
『メトロトレミー』の事を思い出すと、瑞羽ちゃんと頻繁に会話していた事を思い出した。彼女は度々、「黒歴史だから、『メトロトレミー』の話、外でしちゃダメなんだからね!」と、私に注意する。私が彼女に注意することはあっても、彼女が私に注意することはそれくらいだ。
彼女の反応は流石に過剰だと思うが、『メトロトレミー』にはそう言われても仕方のない事情がある。
『メトロトレミー』という、コンテンツは、
小説で、漫画で、SNSで、時には動画投稿サイトで多方向に展開された。まだSNSを使ったビジネスが発展途上だった5年前において、それはもう大勢の人間に衝撃を与え、かくいう私も大ファンだったのだ。あの時は本当に楽しかった。四方四季の状態、人生の頂点にあったといっていいだろう。
だが、そんなフィーバーは私が中学三年生の頃に急速に陰りを生んだ。理由はずっと計画されていた舞台の頓挫だ。天才と呼ばれたアーティスト、在野恵実によって作られたこの『メトロトレミー』はその斬新さから過激なファンとアンチを大量に生み出した。
舞台化決定に界隈が賑わっているある日、一部の過激ファンが主人公の亜萌天子役に抜擢された子役、中田愛弓に大量の脅迫文が送りつけられたのである。こうして私が預かり知らぬところで私の人生の絶頂は終了したのだった。
「そういえば、あのくじらの小部屋ってまだ残ってるのかな?」
そこからふと思い出して、参加していたなりきりチャットルームである「くじらの小部屋」の内容を一から全て読み直したりもた。中学時代の私は常になりきりチャットに張り付いていて、読み返すだけで、当時を思い出して気分が落ち着くのが分かった。さながら、死期の近い私の安楽椅子である。当時のなりきりチャットのメンバーは『メトロトレミー』ブームの終了と共に消え去ったが、今頃何をしているのだろうか。とふと思った。
それと、ただただ悪いニュースもあって、発作が増えた。余命が近いのである意味当たり前だといえるが、色々考えて両親には黙っている。やはり後数ヶ月寿命を延ばすためだけに両親の貯金を食い潰すような事はしたくなくて、最近は発作の時に息を止めてみたりもしている。遠回りな自殺ではあるのだが、一番すっきり死ねそうな気がして、最近は発作を待っているような面もある。
死んでしまえば積み香ちゃんの配信を観れなくなることだけがひたすらに残念なのだが…。10回目の自殺失敗を迎えたときはちょっとへこんだりもしたが、最近では私を熱心に見てくださったお医者さんのために一年という与えられた余命はまっとうした方がいいかなとも思っている。
ここ半年は大体そんな感じだった。心残りはあれど、良い人生だったと振り返ることはできるだろう。
ただどうやら神様はそんななあなあはお嫌いなのかもしれない。
私はあってはならない『メトロトレミー』の舞台の告知を目にしながら、そんなことを考えていた。
そもそも話をするところまでしか想像していなかった私は、こうして帰り道に制服を着た人の群れを逆行しながら帰ることとなることを完全に忘れきっていた。気分は産卵期の鮭だ。ただ、恥ずかしいという気持ちは動揺の中でぎりぎり誤魔化されていた。
もちろん、小学校の集団登校などに比べれば高校の通学路にいる学生の数なんてたかが知れているが、その声量は小学生に勝るとも劣らない。私は雑念を消し去るべく、思考の渦に身を沈めた。
今回の件は私に非はないはずである。そもそも、今回待ち合わせに選んだあの場所は二人しか知らない場所のはずである。あの話の内容から察するに彼女が話してしまったのだろうか。
思い返せば、瑞羽ちゃんと口付けをしていた女には見覚えがあった。あんな長身な癖して、更に靴底の高さでかさ増しまでしようという人間はこの学校には一人しかいない。十中八九、秋窪紅葉だろう。
三年生の先輩である彼女は、世間に疎い私でも知っている唯一の先輩であった。聞き耳を立ててみると、この通学路からでも近頃の秋窪紅葉の様子を探ることができるほど、有名な人物である。
近くを歩いていた後輩と思しき女の子達の会話に意識を集中する。
「あれみた?秋窪さんの。やばない?」やばいらしかった。
「めっちゃ歌うまいよね」。もう片方の子が答える。どうやら秋窪は歌がめっちゃ上手いらしい。
今度は同級生の会話にチューンを合わせる。
「あれみた?秋窪さんの。どう思う?」
この校区では定例として、秋窪紅葉の近況を報告しあわなければいけないらしい。
もう片方の丸っこい女の子が答える。
「ね!瑞羽ちゃん、どうするつもりなのかな」
突然の友達の名前にびくっとする。なぜここで彼女の名前が出てくるのだろうか。
「え、でもわざわざ二人で出かけるってことはそういうことなんじゃないの」
私が聞き取れたのはそれまでだった。そういうことなの?
私は基本的にはSNSもやっていなければ見てもいない。いや、厳密にいえば見てはいるんだけど、同級生との交友を持っていなかった。
しかしこの場合秋窪紅葉、いや秋窪さんがストーカーでではなくてよかったというべきなのだろう。それにしたってあれほど私と共にいる時間の長い瑞羽ちゃんが隠し事をしているとも思えないが、私と住む文化圏が違う私達に、秘密の交友関係があったとしても何も不自然なことはないだろう。私にはないけど。
家の扉を開くと、気を持ち直しつつある私を無音が迎え入れた。両親は私が告白の失敗を果たすまでのわずかの間に働きに出ていたようだ。制服にシワができることも気にせず自室のベッドに倒れ込む。
脳内では常にあのシーンが再生され続けていた。秋窪が覗かせたあの、渦巻き、狂った瞳。彼女の周辺のあの空間のみが、普段の高校ではないかのように景色がピンク色に歪んで見せていた。秋窪の視線の意味は分からないが、私の気持ちの大半を占めている思いは変な誤解をされていたら面倒くさいなということだった。
私の3センチ足らずの脳には死期の告白を愛の告白と誤解したお花畑な秋窪紅葉が、焦って瑞羽ちゃんに迫ったのだというようなお粗末な少女漫画的展開が幾度となく思い浮かんでいた。
脳内瑞羽ちゃんが言う。
「ごめんオソノイ!私秋窪さんとお付き合いすることになったからオソノイとは…え?愛の告白じゃない?またまた~照れちゃって。安心して!これからもオソノイとは仲良くするから…ってえ~~~~ほんっとに違うの?大事な話っていうからてっきり!ごめんごめんごめん!怒らないでぇ」
うむ。普通に言いそうである。脳味噌が3センチ足らずで頭お花畑なのは瑞羽ちゃんなのかもしれない。
平時の私であれば瑞羽ちゃんを任せられるかどうか秋窪さんに対して査定の一つでもしてやったかもしれないが、今の私は所詮散りゆく身である。流石に死ぬ間際に人の恋愛に口は出せない。瀬戸際の人間の「瑞羽ちゃんは任せた」は後押しではなく遺言という。
まあ、秋窪紅葉とやらは歌もうまいらしいしここは任せてやってもいいだろう。
「私と瑞羽ちゃんは、いいお友達」
うん。突然のキスシーンで動揺してしまったが、口に出せばだんだんと落ち着いてきた。
「私と瑞羽ちゃんは、いいお友達」
大分落ち着いて来たぞ。気が晴れると、今度は喉が渇いた。節操のないぞ!私の身体!
水を飲みに一階に下ると、リビングの机には母親が置いていってしまったのか書類が散乱していた。「あ~あ」と溢しながら私は四隅を揃えようと束を手にとった。すると、その中の一枚の書類が不意にこぼれた。
「入院保険…ねえ」
書類を拾い上げると、そこには私の医療費のことが書かれていた。気になって書類を全て広げると、内容のほとんどが病院のことや保険のことだった。
両親の働く時間は、私が病気になってから増えた。いつも大変そうな、辛そうな顔をしている両親を見ると、心の底から「私のたった半年の延命のためにそこまでしなくてもいいよ」と言いたくなる。余命が残り半年増えたところで、それが親の財産を絞り尽くした上で成り立っているのであれば素直に喜べる気がしない。
それでも、「私ね、たかが数ヶ月寿命が伸びたところで嬉しくなんてないからお金の事頑張らなくていいよ」なんて口に出せば両親が悲しみ、怒り出す姿が目に浮かぶから、なんとなく親の前では精一杯生き延びたがっているフリをしている。気が滅入るったらない。
書類を見られたと知った母が気にしすぎないように書類をもう一度散乱させ、私は自室に戻りベッドに倒れ込んだ。
瑞羽ちゃんのこと、病気のこと、余生のこと。私は、目を背けてしまっているんだろうか。でも悩むのはもう、しんどい。
そのときだった。
不意に、心臓が痛んだ。続いて動悸が増し、喉がつまる感覚がやってくる。身体の上半分が急速に活動を止め、肺の停止により呼吸困難の苦しみが、胃と食道の停止による吐き気が、そして何より心臓そのものの停止による痛みがそれぞれ同時に来る感覚。発作が来たのだとすぐ分かった。
気づくと汗まみれになって、突然の嵐のような苦しみを私はシートを噛み締めることによってやり過ごしていたようだ。耐えるだとか、耐えないだとかじゃない痛み。立ち上がると、頭に血がのぼっていたのか、よろめいて床に倒れた。
私は「散々だな」と笑って、二度と着ることのない制服を脱ぎ捨てた。
XXX
あの日、瑞羽ちゃんに死期を打ち明けようとした日から五ヶ月が経った。逃げ帰った私は、当初の予定通り学校には行かなくなっていた。というか引きこもりになった。
服はスウェットとTシャツ以外を着ることはないし、部屋の外に出るのはコンビニか、図書館くらいだった。
引きこもりになった理由は、生徒Aこと小林さんにめちゃくちゃドヤりながら瑞羽ちゃんを任せてしまったことも関係している。あの時はその場のノリで任せてしまったが、今思えば非常に重い圧をかけてしまった。私死ぬのに。そもそもなんで小林さんに任せたのか自分もよく分かってない。
でも、「やっぱり任せない」と言えば今から死ぬ感じ丸出しだしな。という感じで、ここ最近は「死ぬ人間はめっちゃ気を遣う」ということを学んだ以外には何をするでもなく、ぼんやりと過ごしていた。
いや、ぼんやりと過ごしていたは嘘だな。割とうじうじ悩んでいた。まず帰った当日、10月20日。その時の私は、絶対に瑞羽ちゃんから連絡が来ると思っていた。何事もなくとも電話がかかってくるのだ。かかってくると思うのは当然の帰結である。
そして翌日。一日中携帯をチラ見していた。その次の日もだ。思えば、あの頃は余裕があった。自分と瑞羽ちゃんが連絡を取らなくなる時が突然訪れるなんて、思いもしていなかった。
連絡の貰えない日々が、ある程度過ぎると脳内で瑞羽ちゃんが話し始めるようになってしまった。
「ごめん!オソノイ!紅葉さんとお付き合いすることになったからあんまりお話できなくなった!」「オソノイ!私はオソノイの事を待ってたのに、だらだらしてるから秋窪先輩に取られるんだよ」「オソノイって特別な存在だと思ってたけど、本当に特別な人っていたんだね!」「一緒にいたら、お互いにとってもよくないと思うんだ!」「オソノイとのお話ってあんまり楽しくないんだよねぇ」大振りのジェスチャーに、表情筋をこれ以上ないほどうざく使いこなした瑞羽ちゃんがそんな事ばかり言ってくる。
その度に私は脳内で、「瑞羽ちゃんはそんな事言わない!」と気を持ち直す。だが、結局電話がかかってくることがない以上、完全に否定は出来ないのだった。一度、大変なのは私だけではなく、彼女も窮地にあるのかもしれないと思いインスタグラムを探ったりもしたのだが、彼女は秋窪紅葉と楽しそうに過ごしていた。みなとみらいとか、シーパラダイスとか、横浜にばっか行っていた。瑞羽ちゃんが横浜好きとか聞かないし、秋窪さんの趣味に染まってしまったのだろうか。
私はそういった画像を見る度に瑞羽ちゃんのことが一切分からなくなり、横浜が嫌いになっていくのだった。もし今の私の悩みを解決したいのであれば、一言「私のこと憶えてる?」とダイレクトメッセージを送るだけでいいのだと言うことは分かっていた。
でも、そんなことを言える人間はこの世界に果たしてどれほどいるだろうか。私の場合更に、そこから半年間言い出せなかった余命のカミングアウトもしなければならないのだ。
「私のこと憶えてる?」
「あ~!オソノイ久しぶり!ごめん最近忙しくて連絡できなくてさ。あ、そういえば最近学校来てなかったけどどうしたの?」
「私、もうすぐ死ぬんだよね」
地獄である。できるわけがない。
そんなこんなで引きこもっていた私が何をしていたかというと、良い出会いがあったのだ!余命5ヶ月で出会った「小田之瀬 積み香」との日々は、とても素晴らしいものだった。
彼女のピンク髪は先端に向かうにつれて蒼銀に変わり、アイドルのような衣服に身を包んでいる。目がとっても大きくてちょっと子供っぽい。俗に言うVtuberなのだった。
私が彼女に出会った理由は瑞羽ちゃんと交わした最後の会話が関係しているのかもしれないし、私みたいなTwitterとYoutuberに巣食っている人間はいずれこうなるべきだったのかもしれないという気もしている。気づけば私は、インターネット上で追っかけのような事をするようになっていた。積み香ちゃんの話についていけない事が嫌で、Vtuberの歴史もばっっっちり抑えたしね!
初のスーパーチャットも積み香ちゃんで卒業した。その日は積み香ちゃんの昔のエモ話に感化され、瑞羽ちゃんのことを思い出していたのだ。その時の配信は何度も見返している。
「えー「友達に黙って引っ越したのですが、以降全く連絡がありません。会話したいのですが、連絡しづらい状況にあり、切り出し方がわかりません」。Rinさん、スパチャありがとうございます」
Rinは私のアカウント名だが、急造なため全然感慨がない。コメント欄は「お前が悪い」や「連絡しろ」といったコメントに溢れていたが、積み香ちゃんはどこまでも天使だった。
丁寧に返事をして、こんな話もしてくれた。
「実は私も同じような経験あるんだよね。仲めっちゃ良かったんだけどさ。私の方から連絡断っちゃって。そうなると今更どの面下げて連絡取ればいいんだって感じでさ」
私は積み香ちゃんが自分と全く同じ経験をしているということに感動して「一緒です!」とコメントしたが、色のついていない私のコメントは読まれることもなくすぐ流れてしまう。
それでも、積み香ちゃんは話を続けてくれた。
「でも、私はさ。そんなに気にするなら話しかけちゃえよって思うんだよねえ」彼女は「他人事だからね」と笑いながら付け加えた。そこから彼女は再び、その頃の思い出を語ってくれた。
幼馴染の女の子がいた事、事件に巻き込まれた事、裏切られたと勘違いして、別れてしまった事、それから会話をしなくなってしまった事。このスパチャを通したやり取りから、話を聞いて似た状況にあった私は彼女に心の底から惚れ込むことになったのだ。
しかし、感動することと、実行に移せるかは別だと思う。私は、彼女の対応に感動を覚えつつも、結局瑞羽ちゃんに連絡はできずじまいなのだった。
ただ、彼女は私が過去を思い出す機会を与えてくれた。
思い出すのは、瑞羽ちゃんとの出会いの記憶だ。
中学の頃の私は『メトロトレミー』というコンテンツにドハマリしており、高校の自己紹介でそこに登場する辻凜花というキャラのなりきりをネット上でしていたことを何も考えずに発表した。
すると休み時間ご丁寧に瑞羽ちゃんが、
「あんまり人前でネットでしてる活動のことを言わない方がいいよ」と教えてくれたのだった。
それから突然「オソノイ!一緒に帰ろ!」と登下校を共にするようになったのだ。
『メトロトレミー』の事を思い出すと、瑞羽ちゃんと頻繁に会話していた事を思い出した。彼女は度々、「黒歴史だから、『メトロトレミー』の話、外でしちゃダメなんだからね!」と、私に注意する。私が彼女に注意することはあっても、彼女が私に注意することはそれくらいだ。
彼女の反応は流石に過剰だと思うが、『メトロトレミー』にはそう言われても仕方のない事情がある。
『メトロトレミー』という、コンテンツは、
小説で、漫画で、SNSで、時には動画投稿サイトで多方向に展開された。まだSNSを使ったビジネスが発展途上だった5年前において、それはもう大勢の人間に衝撃を与え、かくいう私も大ファンだったのだ。あの時は本当に楽しかった。四方四季の状態、人生の頂点にあったといっていいだろう。
だが、そんなフィーバーは私が中学三年生の頃に急速に陰りを生んだ。理由はずっと計画されていた舞台の頓挫だ。天才と呼ばれたアーティスト、在野恵実によって作られたこの『メトロトレミー』はその斬新さから過激なファンとアンチを大量に生み出した。
舞台化決定に界隈が賑わっているある日、一部の過激ファンが主人公の亜萌天子役に抜擢された子役、中田愛弓に大量の脅迫文が送りつけられたのである。こうして私が預かり知らぬところで私の人生の絶頂は終了したのだった。
「そういえば、あのくじらの小部屋ってまだ残ってるのかな?」
そこからふと思い出して、参加していたなりきりチャットルームである「くじらの小部屋」の内容を一から全て読み直したりもた。中学時代の私は常になりきりチャットに張り付いていて、読み返すだけで、当時を思い出して気分が落ち着くのが分かった。さながら、死期の近い私の安楽椅子である。当時のなりきりチャットのメンバーは『メトロトレミー』ブームの終了と共に消え去ったが、今頃何をしているのだろうか。とふと思った。
それと、ただただ悪いニュースもあって、発作が増えた。余命が近いのである意味当たり前だといえるが、色々考えて両親には黙っている。やはり後数ヶ月寿命を延ばすためだけに両親の貯金を食い潰すような事はしたくなくて、最近は発作の時に息を止めてみたりもしている。遠回りな自殺ではあるのだが、一番すっきり死ねそうな気がして、最近は発作を待っているような面もある。
死んでしまえば積み香ちゃんの配信を観れなくなることだけがひたすらに残念なのだが…。10回目の自殺失敗を迎えたときはちょっとへこんだりもしたが、最近では私を熱心に見てくださったお医者さんのために一年という与えられた余命はまっとうした方がいいかなとも思っている。
ここ半年は大体そんな感じだった。心残りはあれど、良い人生だったと振り返ることはできるだろう。
ただどうやら神様はそんななあなあはお嫌いなのかもしれない。
私はあってはならない『メトロトレミー』の舞台の告知を目にしながら、そんなことを考えていた。