どうしてだろう。
一年間の春夏秋冬は、日照時間の長さが違う。
なぜだろう。
午後7時を過ぎても公園で遊ぶ子供達の声が響く夏。
早く陽が落ちる冬は、夜が来るのがとても早く感じる。
髪で隠しきれない耳が、紅色に染まっているのを想像した。見えなくてもこの寒さで、耳の色は予想つく。触るとひんやりと、冷たさを感じた。
もうマフラーが欠かせない時期が来るのか。
冬がくる。冬が来た。
夜が来るのが早くなる。
「早く…早く…」
制服を着た私は、走っていた。絡まりそうになる足を懸命に動かした。前へ、前と。
自分が通っている高校は、家から一時間弱ほど時間がかかる場所にある。
毎朝、朝は午前七時半に家を出て登校。そして、帰宅時間は午後五時前後。通学路の交通手段は、電車と徒歩である。
例えば今日の帰り道。学校から徒歩で15分ほど並木街を歩き、最寄り駅に着く。そこから20分ほど電車に乗り、五つ目の駅で降りる。そして到着した駅から徒歩10分ほど住宅街を歩くと、私の家に着く。
学校周辺は、通勤・帰宅の時間帯に車が何台も通っている街で、人通りが多い。だけど私の家の近くの住宅街は少し静けさがあるところだ。
部活をしておらず、習い事もしてない。放課後、一緒に帰ったり、一緒に寄り道して遊ぶ友達もいない。
学校が終わればすぐに帰る準備をする。
それにはひとつ、理由があった。
それは。
ーーーーー灯がおちて、夜が来るまでに、早く帰らなければならない理由があるから。
帰宅時間の一分一秒の世界が、私にとって重要なことである。
だから、そう。
あの日も学校の授業が終わるといつも通りに帰宅の準備をした。
…だけど時間計算外のことが起きたんだ。
「はーーい、静かに!おい、そこうるさい!聞いとけよー大事な連絡だから。ここ最近、通り魔事件があったらしい。被害者は中学生で、軽症だった。犯人はまだ捕まっていない。特徴は、50代くらいの男で髪は白髪交じり。体格は大柄で、上下黒のジャージを着ていて、それで・・・。」
毎日変化のない、いつもと変わらないホームルーム。
高校入学してから半年が経つ教室は慣れ親しんだ会話が飛び交っていた。窓際の席から見える空一面の景色は、オレンジ色に染まった秋雲が浮いている。そんな景色をじっと見つめ、焦りを感じていた。早く、ホームルーム終わらないかな。先生の話をよく聞かずに空の色ばかりを気にする。
「とりあえず、旭町に住んでる生徒は特に気をつけなさい」
ーーーー旭町。その言葉が聞こえてきて先生の方に目線を向けた私、西野莉子は生まれてから16年間、旭町付近に住んでいる。
旭町で通り魔事件が出たという情報。その言葉の響きが怖い。
旭町は住宅が集う町で交番もあるし、人通りもある。
だけど、最近の世の中は怖いニュースばかり、目に付く。普段テレビに映っている自分とは関係ない場所や他人に起こっている悪い事件が、いつ自分の目の前に襲いかかるのか誰にだって予想はつかない。
「以上で連絡は終わり。ホームルーム終了!みんな気をつけて帰りなさい」
その一言でホームルームは簡潔に終えた。教室の中は騒ぎ始め、通り魔事件の話を一瞬で忘れたかのようにそれぞれ帰宅準備をし始める。
そんな話を聞いたばかりだから、その日は早く帰りたかった。だけどそんな日に限って、予定の帰宅時間が大幅にずれることになったのだ。
ーーー〈電車遅延情報〉
教室を出る前に携帯のサイトを見てその情報が入ってきた。いつも帰りにチェックをしている内容だ。人身事故の為、電車が遅延しているとのことだった。その電車は普段乗っている路線だった。その情報を見て急いで教室から出た。
歩く足が自然と幅を広げていく。意識のないままがむしゃらに走っていた。
ーーーー早く帰らなければならないのに。
間に合わないかもしれない。
心臓が暴れるのを止められず、息が上がるばかりだった。放課後がまだ始まったばかりの賑やかな教室を通りすぎる。
靴箱へと繋がる廊下に、窓からオレンジ色の光が指していた。
学校から出ると最寄り駅へと向かった。駅へと続く並木道は帰宅をする会社員や学生が歩いていて、私は人を避けながらぶつからないように走った。
駅に着き、電車を心落ち着きなく待っていた。
遅延情報が流れる電光掲示板を見上げている人達の群れに混ざり、何も出来ずに立ち止まる。その時間はとてつもなく長く感じた。
しばらく待っているとやっと止まっていた路線の電車が動き始める。しかし、いつも乗る時間より1時間も遅い発車となった。
電車に乗り、四つの駅を過ぎて五つ目の駅に停車。ホームに降りるとそのまま急ぎ足で改札から出た。そのとき、秋の冷たさを感じる風が莉子の横を通り過ぎた。
最寄駅から出た目の前の景色は辺りが暗い。地元の街に帰ってきたときには既に日は暮れていた。駅から出て二本の並木道に挟まれた一本の道路には、ライトの灯りをつけた数台の車が走っている。
上を見上げるとまだ少し明るい空にぼんやりと浮かぶ白い月。ソレはだんだんと顔を出してきた。
自分が乗る電車がここまで遅くなることはなかったから油断したのだ。
いろんなことを予測して逆計算をして時間通りに帰っていればこんなことにはならなかった。なぜそれができなかったのか、と後悔が押し寄せていた。中学生の頃から持っているお気に入りの腕時計の針を見ながら。
制服のスカートがめくれるのを気にせず走っていた。絡まりそうになる足を懸命に動かした。
前へ。前へと。走らなければならなかった。夜が来る前に、私は帰らなければならない一つの理由があるから。
「早く…早く…」
唱えるように、心のなかで言い続けた。
駅から家までの道のりは、人通りが少ない。街灯がある道ではあるが、時間帯によっては静けさが漂う道だった。
下校時間がとっくに過ぎている小学校を通りすぎ、誰もいない公園がある街角を曲がると少し斜度がある坂をのぼっていく。
走る足音に反応したのか、近所の家の庭で放し飼いをしている犬が吠え声をあげる。
その音を敏感に感じて思わず体を震わせた。
そして、だんだん自分の息遣いが荒くなる。
既に見慣れた帰り道は暗闇の空間へと変わっていた。
あと数十メートルで私の家にたどり着く。
汗ばむ手で家の鍵を握っていた。
そしてあともう少しのところだった。
私は何かの存在を察した。そちらのほうを見ると、道路を挟んで並んでいる家の側に立ってある電柱に、人らしき影があった。
何かが。誰かが。
私を見ている。
走っていた自分の足は、地面から冷たさが上り詰め、体を震わせた。今日のホームルームで話していた先生の声が頭に重く響く。
ーーーー《《「旭町の住宅地に」》》
ーーーー《《「上下黒のジャージ」》》
目の前にいる「何者か」の特徴が、先生が言っていた通り魔事件の犯人の特徴と一致しているのかは分からなかった。
ーーーーーー50代くらいの人で白髪混じりと聞いたが、帽子を頭深くかぶっているから分からない。だけど嫌な予感がした。背格好からして女ではなく男が立っているということは分かる。ただの通りすがりの人だと思いたかった。
だけど、「恐怖」しか感じなかった。
何も気にしてないふりをしてその男の前を通り過ぎようとしたが、その男は、私に向かって歩き始めて近寄ってくる。
暗闇からだんだんと見えてくる、男の顔。街灯がその男の顔を露わにしていく。男の口元は緩み、笑みがこぼれていた。
このとき咄嗟に、確実な危険を感じた。この男から逃げなければならない、と。
しかしその瞬足な判断さえも遅いと嘲笑うかのように、男が私に向かって手を伸ばしてきた。
その行動に思わず足を止め、全身の動きを止めた。恐怖で体が動かなかった。目の前にいるのは不審者だ。きっと当たっている。
だけど、自分の判断は遅かった。もう目の前まで男の影が近づいている。
喉の奥が震え、声が漏れた。
「あ、っ」
しかし体が動かなくても、声は出るということは分かった。
叫べ。叫ぶんだ。
ーーーー「誰かーーーーー!!」
今まで出したこともないような張り詰めた声を、お腹の底から押し出した。自分でも声の大きさに驚くほど。
その瞬間、私の背後から誰かが走ってくる足音が聞こえた。
背後から誰かが近づいてきた。
その人影は私の横を通り過ぎ、目の前にいる不審者の男へ向かった。
まるで守ってくれるように私の前に立ちはだかり、その背中は大きな壁となった。
見上げた先には、同じ高校の制服を着ていた背の高い男子生徒がいた。
彼の突然の登場に、不審な男はすぐに別の方向へ振り返りその場を離れて走り出した。
「逃げるなよ!」
男子生徒が叫ぶ。勢いよく走り出した不審な男の後を、男子生徒も追いかけて走り出した。
ものすごいスピードの展開に私はまたパニックを起こしそうになる。
「…待って!」
行かないで、と思った。こんな暗い中、1人にしないで、と。
誰かも分からない目の前の男子生徒を呼び止める。彼はすぐに不審な男を追いかけるのをやめた。
見ず知らずの人に何を求めているのだろう。だけど今この暗闇で一人きりになる方が恐怖だった。
追いかけることをやめた彼はゆっくり近づいて来た。
不審な男はとても足が早く、道の先の一角を曲がり姿を消した。
「立てる?」
男子生徒にそう言われて、恐怖で足の力が抜けて地面に座り込んでいたことにやっと気づいた。
足に力が入らない。そんなに怖かったのか、と自分の非力さに情けなくなる。
すると彼は、私の腕に静かに触れてきた。その行動に、また体を震わせてしまう。
そんな反応を見て彼は躊躇したのか、一瞬動きを止めた。だけどもう一度、私の腕に触れて、少し力強く持ち上げた。
「そんなところに座っていたら、汚いから」
「・・・・あ、」
「スカートが汚れるよ」
その力強さに頼りながら、ゆっくりと立ち上がることができた。そのときには、不思議と、体の震えが消えていた。
「大丈夫?とりあえず…家はどこ?帰れる?」
「すぐ…そこです」
「近くて良かった。じゃあもう大丈夫だね」
「あ、あの、…ありがとうございました」
そうお礼を言うと、彼は優しく笑った。
街灯に照らされてハッキリと顔が見えた。
彼は綺麗な顔をしていた。
それが、清宮廉との出会いだった。
※ ※ ※
清宮廉は私にとって覚えのある顔だった。彼は学校で有名な人だったから。
容姿端麗で頭脳明晰。そんな完璧な言葉が似合うような男子生徒。
私よりも2個上で3年生の先輩。入学した頃からクラスの女子が話題にされるほどの人気ぶりだった。
その話題には入れてないがいつも耳にはその先輩の名前が各々から聞こえてきた。
そんな彼を初めて見たのは1ヶ月くらい前のこと。
一度、何の用事か分からないが彼は人を探したような雰囲気で教室を見渡しに来たことがあった。
「清宮先輩だ」
誰かの声で、初めて彼の顔と、噂で聞いていた名前が一致した。
この人があの清宮廉。いつも女子生徒の中で話題になってる人。
私が今まで見たことある男性の中でも1番顔が整っているといっていいほど美形。
制服を下手に着崩すことをしなくてもスタイルが良いってだけで見栄えが良い。きっと自分でそれを分かってて、ちゃんと制服を着こなしているんだ。颯爽とした姿だった。
ドアに立っている清宮廉は、廊下の窓からさす木漏れ日の光が柔らかい髪を照らして、さらに眩しく見えた。
そんな彼を見て、教室はざわついていた。
立っているだけで話題になるような人。
その時の記憶ははっきりと残っている。
人探しの彼が、一瞬こちらを見たのだ。
時が止まったような感覚が走った。自分を見たなんて勘違いだろうと思うだろうけど、それさえも疑うほどハッキリと。瞬間的に彼と目を合わせると、すぐに自分の机と向かい合った。
そして、こんな自分に用事があるわけでもないのに目が合ってしまったことで恥ずかしさを感じた。
自分と清宮廉との存在なんて、それくらいの差があった。違う環境の人間だと思っていた。
私にはクラスにも普段から気軽に話せるような人が一人もいない。高校に入って半年も経つのに仲の良い友達はいなかった。
友達の定義がどんなものかは分からないが、誰とも挨拶はしない・誰とも一緒にお弁当を食べない・誰とも話すことはない。
誰に聞こうとも、私と『友達です』と公言する人は一人もいないだろう。
高校に入学してから何度か、話しかけてくれる人はいた。
「どこの中学から来たの?」からの自己紹介から、
「どこの部活に入る?」の質問、そして
「一緒に帰らない?」の放課後の遊びのお誘い。
初対面での自己紹介はうまく話せたとしてもほぼ全てのお誘いをお断りしていた。
「ここの部活に一緒に入らない?」や、「帰り、みんなで買い物に行かない?」や、休日の「どこか遊びに行こうよ」のお誘い。
すべてを断っていた。理由は、
《「はやく帰らないといけないから」》の一言。
最初は変に思われなかったが、毎回そのような理由で断る度に、クラスメイトに変な風に思われるようになった。
たしかに毎回、早く帰らないといけない、という理由では変に思う人もいるはずだ。だから、今度は違う理由で用事があるから、とか色々な断り方もしているうちに私を誘う人は少なくなった。
ーーそして、いつのまにか「西野さんはそういう人」。
誘っても断られるよ、一人が好きな人だよ、と完全にクラスで浮くような人になってしまった。
断るということは、私にとって決して相手を拒否してる訳ではなかった。だけど、そういう形になってしまった。
仕方がなかった。本当に。学校が終わると、早く家に帰らなければいけなかったのだから。
そして、誰にも誘われず、話しかけられず、一人でいることに慣れてしまった自分にも大いに問題があるがそれで良かったと思っていた。
きっと、これからも一人で静かに学校生活を送る。
そんな陰にいるような目立たない私が、清宮廉と同じ線に立つことは一度も想像さえしたことがなかった。
だけど、あの日不審者に助けられた日から、清宮廉は私の前に毎日姿を現すようになった。
※ ※ ※
不審な男から彼が助けてくれた次の日のことだった。
昼の休憩時間。騒いでいる教室が更に騒がしくなった。
ドアの付近にあの有名は清宮廉が立っている。その景色は前にも一度あった。また人探しに来たのか。
だけど、前回とは違うのはあからさまに私がいる方向を見ている廉がいた。
勘違いだ、きっと勘違いだ。
自分と彼は全く別の世界。
正確に言えば次元の違う人間同士。
もはや、違う種類!
だけどまた彼を一瞥すると、明からさまにこっちに手を振りながら笑顔を向けてきた。
ええ…違います、絶対に違います。
用事がないと自分に言い聞かせていたが、あるクラスメイトが私に近づいてきた。
「あの、たぶんだけど、たぶん人違いだと思うんだけど、清宮先輩が西野さんのこと呼んでるよ…?」
と、同じクラスなのに一度も話したことない女子生徒が苦笑いを浮かべながら声をかけてきた。的確な一言だと思い、私も同じような苦笑いを返す。
うん…私もきっと人間違いだと思います。
その女子生徒の信じられないことが起こったような表情は自分にとっても納得のいくものだった。
一応クラスメイトの言われた通りに従い、彼の方へと歩き出した。
清宮廉は私に向かってまた笑みを溢した。
「昨日ぶり。あれから大丈夫?」
クラス全体は私たちの会話を聞こうと静まっていたため、普通の音量の声さえも教室の隅まで届いていた。その一言でざわっとまた騒ぎ出すクラスメイト。
驚愕の声というか、信じられないような納得のいかない叫びというか。
私だって信じられないし納得できない。
昨日の帰宅時間までは縁のなかった人、絶対知り合うことはない人に呼び出されて声をかけられて。
「えっと、とりあえずここじゃなくて別のところで話してもいいですか?」
周りの目線に耐えられなくなり、その場を避けるように提案した。清宮廉は「なんで?」という顔をしたが、「そっか。そうだよね。昨日の話は誰にも聞かれたくないよね」と続けて言った。
彼は昨日の話をしようと自分の元に来たらしい。私たちの達の釣り合わないツーショットを見て騒がられているこの状況を抜け出したいってこと。
それに気づいてない彼は少し天然なのだろうか。とにかくそんな自分の魅力に気づいてない
彼を連れ出して人目の避ける場所へと逃げた。
私たちが去ったあとの教室は、しばらく騒ぎ声が止まなかった。
自分たちが一緒に歩いているのを誰にも見られないように彼より一歩先に前進して歩いた。
なるべく誰もいない場所を探して辿り着いたのは、校舎の裏影に隠れている駐輪場だった。
昼休憩の間に下校する生徒はいないだろうからとこの場所を選んだが、人気がなさすぎて2人きりの空間は逆に空気が重苦しかった。
何を話せばいいのだろう。まず昨日のお礼をこちらから言わないといけない。そもそも、何故この人は私を呼び出したのだろう。いろいろ考えているうちに、先輩から喋り始めた。
「昨日は大丈夫だった?たぶん、昨日の不審な男、最近学校に情報が回ってきた通り魔事件の犯人の特徴と一緒だった?」
先輩は優しく問いかけてきた。
「いや…私も昨日、ホームルームで先生から不審者情報を聞いたんですけど」
「たしか、通り魔は全身黒で統一された服装で、年齢は50代くらいって言ってよね。でも思ったけど、昨日追いかけようとしたとき、若いやつかな?って思った。だいぶ走るのが速かったから。それに体格は大柄って聞いてたけど、昨日の男は若干細身の身体だったような…」
先輩は眉を寄せて考えながら言った。
帽子で隠れて顔はハッキリ見えなかったが、確かに俊敏な動きでその場から逃げ去った不審な男はもう少し若そうなイメージがあった。
「あの、昨日は助けてもらってありがとうございました。清宮先輩はなぜあの場にいたんですか」
改めてお礼を伝えて質問する。先輩は目を丸くした。
「なんで、俺の名前知ってるの?あ、改めて清宮廉です」
まずお互いの自己紹介からだった。
「とにかく有名です。名前は前から知ってました」
「なんで有名?なんか俺有名なことしたかな?」
やはり自分の魅力に気づいてない人なのか、と勝手に解釈する。何故有名なのかはここでは長く説明しなかった。
「改めて、私、西野と言います。一年です」
「西野莉子ちゃんだよね。知ってる」
変な展開だ、と思った。疑問が浮かんで次に 話が進めない。お互いが初対面なのにお互いの名前を知っていた。
清宮先輩は有名だから名前を知っていたけど、なぜ私の名前を彼は知っているのか。
怪しんでいる表情が素直に出たのか、清宮先輩は慌てて付け足すように言った。
「ごめんごめん。そんなに怖い顔しないで。怪しいよね、俺。さっき、莉子ちゃんのクラスの子に名前を聞いたんだ」
と、言われ、さっきの質問の問いに続けて答えた。
「俺も旭町に住んでるんだよ。昨日俺と莉子ちゃんが会ったところから進んだ先に図書館あるでしょ?家がそこの近くなんだ。よくそこの図書館で勉強してたんだ」
私の住んでいる家から10分ほど歩いた先、住宅街から抜けたところに街が広がっていてそこには古くから続いている図書館がある。
そこの図書館は建物も敷地もそこまで大きくないが館内は綺麗に整備されている。
近郊の小学校の区域内の図書館でもあるため学生も多く通っている所だ。先輩は今年受験生で勉強真っ最中のはずだ。だからその日も受験勉強でそこの図書館に通う予定だったらしい。その行く途中で私を見たという。
「俺も先生から聞いていた不審者の情報が頭に残ってた。だけど、あの男と莉子ちゃんが2人並んでいても違和感はなかった。知り合い同士にも見えたから。もし莉子ちゃんが大声で助けを求めてなかったら、俺は気づかないままだったと思う」
「そうですか…声を出してよかった。怖くて声が出ないかと思ってたけど、意外と大声が出ました」
「その声が聞こえたから駆けつけた。先生には昨日のこと伝えた?」
「一応、伝えました。だけど、やっぱり先生と話してて思ったのは学校に回ってきた不審者情報と昨日見た男の風貌が一致しなかったんです。昨日の男は先輩の言う通り少し…若そうでした。体格も聞いていた情報とは違った気がします。」
「俺も、そう思う。だけど、通り魔事件も旭町で起こって、昨日の男も莉子ちゃんの家の近くにいた事実は確かだ。だからどちらにしても気をつけないといけないよね」
先輩の言葉に黙って頷いた。
そして、申し訳なく思いながら上を見上げる。
出会ったばかりで話したこともない人が不審者に出くわしたところを偶然見かけてしまった上、ここまで気を使わなければならないなんて。
そして次の彼の言葉に、私の気が動転することになる。
「ところでさ、提案なんだけど。俺、今日から莉子ちゃんと一緒に帰るから」
いきなりの発言に、目をまん丸の形にした。
提案、と挙げている割には、語尾が強制的にも聞こえる。
「いや、俺もそっち方面に帰るし、図書館で勉強するしさ。あ、そういえば莉子ちゃんは何か部活入ってる?いつも帰りは何時ごろ?」
「えっと、部活はしてないです。いつも早く帰ってます」
「ちょうどいい。俺もすぐ学校終わったら図書館に直行してる。一緒に帰ろう」
質問されたことには答えるが、こちらが質問する余裕がない。ついていけない状況を整理して、心を落ち着かせようと一息ついた。
「あの、なんで一緒に帰るんですか?私が…先輩と?」
「だって、怖いでしょ。昨日のことがまた同じようにあったらどうするの?」
怖いのは怖い。だけどなぜ、先輩がそこまで自分に気を遣ってくるのか分からない。
「また昨日の男が莉子ちゃんを狙って待ち伏せしてるかもしれない。昨日のあの状況を見てしまった以上、俺も莉子ちゃんを一人で帰らせるわけにはいかないよ」
「でも迷惑かけますし…」
頭の中で思考を回転させながら、遠回しに断る理由を考えていた。断る理由は決まっていた。
不釣り合いな私と先輩が関わることは平凡な日常を大きく覆しそうな気がしたからだ。だけど先輩はその不安を乗り越えるぐらいの堂々とした言葉を発してきた。
「まぁ、これは後からつけた口実かもしれないかな。俺が莉子ちゃんと一緒に帰りたいから」
先輩の言葉に、私は何も言えなくなった。
何を言われたのかも、頭の中から飛んでいった。先輩は、何の恥ずかしさもなさそうに言った。
「俺、莉子ちゃんのことが気になってるから」
※ ※ ※
頭に何度もあの言葉が浮かぶ。
「俺、莉子ちゃんのことが気になってるから」
とはどういうことなんだろう。先輩の言葉が意味深だった。
そして本当に先輩は自分と一緒に帰るつもりなのだろうか。私は胸がモヤモヤしていた。
何故こんな展開になったのだろう。
結局あの後、先輩から携帯番号を聞かれ、それも断る理由もなく素直に教えた。
昼休憩を終わりそうなので、先輩と別れた私は足早に教室に戻った。教室にいるクラスメイトと目を合わせないように俯きながら自分の席に戻る。
さっき、先輩と出て行った騒ぎを思い返して、とても気まずい思いだった。
席に戻った私に、同じクラスメイトがさっそく話しかけてきた。
「ねえ、西野さん。聞きたいことあるんだけど」
そう声をかけてきた女子生徒は、桑田雅。彼女は大きな瞳が印象的で顔が整った綺麗な子。髪は肩のあたりで内巻きにカールしていて大人びた美人な顔をしている。彼女は真っ直ぐとした目で私を見て言った。
「廉くんと知り合いだったの?西野さんが」
少し口端を上げて微笑んでいるあたりが落ち着いてるようにも見えたが、口調は厳しかった。
なぜ西野さんみたいな人が人気者の先輩と一緒にいたのか?と2人の格差を比較されたような言い方にも聞こえた。
彼を『廉くん』と呼ぶあたりが仲の良さが伺える。桑田さんは清宮先輩と幼馴染の関係で小さい頃から知り合いだということはクラスの女子の会話から聞いたことがあった。時々2人が一緒に帰っている光景も何度か見たことがある。幼馴染を通り越して付き合っているのではないか、と噂をされていたが桑田さん本人は否定をしていた。だけどその顔もまんざらではなさそうだった。
でも2人が付き合っているといわれても何とも違和感はなかった。2人が並んだらまさに美男美女だった。
「いや、知り合いではないけど…」
「じゃあ知り合いじゃなかったら何で2人で話してたの?どこかに行ってたし、どーゆう関係?」
否定した言葉に重なって、桑田さんの追求が続いた。
さっきよりも声量は強くなっていた。
たしかに、自分たちはどんな関係なのだろう。
昨日の不審者の話から説明するのには抵抗があるし、伝えたとしても自分と清宮先輩の関係は突然に始まったばかりで自分にとってもついていけない展開ではあった。
そして正直、私にとって桑田さんは苦手な部類の人であった。第一印象は入学して間もない頃、彼女に話しかけられことがあった。
「どこの中学から来たの?一緒にお弁当食べる?」と、一人きりで席に座っているとそう声をかけられたが、人見知りで緊張していた私は上手く答えることが出来なかった。
その時に仲間内に「喋りにくいわ、あの子」と小声で漏らしていたのが聞こえた。
せっかく誘ってくれたのに上手く対応できなかった自分が悔しかった。
私とは違ってクラスでも目立って可愛く、そしていつも人に囲まれている彼女に対して自分とは程遠い存在だった。
「廉くんとどんなこと話したか分からないけど、廉くんはすごい人気だから。あんまり関わらない方がいいよ。周りもどんなふうに思うか分からないし」
その遠回しな一言で、桑田さんは私のことを良く思ってないということが聞き取れた。
きっと、桑田さんと先輩が付き合っているのかただの幼馴染の関係なのか分からないが、先輩のことを好意的に思っているのは読み取れた。だから、こんなふうに高圧的な態度を取られているのだろう。
「それに廉くんも優しいから断れない人だし、西野さんもあんまり誘ったりしないほうがいいよ」
桑田さんの中では私から誘ったことになっていた。少し勘違いをされていて間違いを訂正をしようと言葉を考えている間に、彼女ははその場を離れた為、何も否定することができなかった。
やはりこうなるだろうとは思ってたけど、やはりこうなった。
学校で人気がある先輩と関わると、更に自分の居心地が悪くなることは想像できていた。
先輩に急に呼び出されたり一緒に帰ろうと誘われたり…自分だって何故こんな展開になったのか分からない。
そして自分のことは1番に自分が分かっている。
自分みたいな目立たないような人間が、清宮先輩のような目立つ人に関わったらいけない。
普段の何もない日常が壊れるかもしれない。
私が作り上げた、一人きりの世界が崩れてしまう。
改めて思う。なぜこんなことになったのか。
突然の桑田さんとの接触にショックを受けた私は、その日の放課後まで気持ちが落ち着かなかった。
放課後になり、誰よりも早く帰る準備をすると私は教室から飛び出した。清宮先輩がまた教室に来るような気がして、なるべく足早に人目を気にしながら玄関へと向かった。
「一緒に帰ろう」という先輩の誘いを無視することにした。少し罪悪感を感じながらも逃げるように移動する。
結局学校の門を出るまで、先輩と出会すことはなかった。
学校から歩いて駅に着くと電車に乗った。
慣れた景色を眺めながら、ふと思う。今日はとくに疲れた一日だった、と。
いつものように5つ目の駅で降りて徒歩で家まで向かった。
先生が話していた通り魔事件の内容を思い出しながら私は歩いていた。
現場は旭町の駅の東口から歩いて線路沿いの道で起こった。私の家はその反対方面を歩いたところにある。
たしかに現場は辺りが暗い工業団地で夜になると人通りが少なくなる。同じ旭町に住む私も普段は通らないが、よく知ってる道ではあった。
昨日に出会した不審者の特徴を思い浮かべた。ーー若い男。深く被った黒い帽子。細身。通り魔事件の犯人とは一致しない特徴。
それが心の中でずっと引っかかっていた。
現在は16時半。秋雲が浮いていて、寒そうな夕焼けの空だ。辺りもまだ明るく、何人か通り人とすれ違った。
ふと、すれ違うときに誰かに突然刺されたらどうしよう、と嫌な妄想をする。急に体全体が震えて、怖くなってきた。
悪い想像をすればするほど、それが現実に起こりそうな気がして気分が悪くなる。並木道を歩き、よく人が出入りして車も多く停まっているコンビニを通り過ぎて、住宅街に入る手前。
そこで私は気づいた。気付くのが遅かった。
嫌な予感が当たってしまうことがある。
ふと、後ろの方へ目線を向ける。そこには10メートル離れた先に全身黒色の服を着た男が近づいていた。不審者に敏感になって自意識過剰になっていただけだと思ったが、駅からずっと同じ道を歩いている気がした。
まさか、ついてきてる?、と思った。あまり後ろを振り返ってちらちら見ることは出来ないが、後ろを追われているような気がした。
よく見ると、先日会った男の風貌に似ている気がした。顔はよく見えないが、黒色の帽子を被っていて、細身で…。
「…どうしよう」
1人きりなのに声に出してつぶやいた。
まさか、昨日の男なのか。ここから先は住宅街。家まではあと10分程歩かないといけない距離だ。だけど、すぐ近くにコンビニがある。そこに逃げた方がいいのではないか。
真っ直ぐ道の先を歩けば家に着くが、私は咄嗟に方向転換し、コンビニへと走って向かった。
昨日の男だとしたらこのまま家の所在を知られても困るし、とにかくどこか人気がある建物に入った方が安全であると思った。
走ってコンビニに入り、雑誌コーナーに向かう。そこから本を読むふりをして外の窓の景色を確認した。
男は喫煙所辺りまで近づき、携帯を取り出して画面を見ている。駐車場に停まっている車の間から見えるその姿をじっと観察した。
やはり、昨日の男だ。なんとなく、顔を覚えている。背の高さも同じくらい。靴は白で灰色のラインとブランドマークが入った運動靴。昨日も履いていた気がする。
今日はマスクをつけて顔がハッキリ見えないが、雰囲気もすべて同じだった。
どうしよう、このままコンビニにいた方が良いがこのままずっとここで居座るわけには行かない。
あの男が帰ったらコンビニから出ようと思うが、男がいつそこから離れるか分からなかった。勘違いかもしれない、だけどあの男が怖い。
監視されているような気がしてならない。
私は携帯を取り出し、誰かに助けを求めようとしたが、動かしていた指を止めた。
連絡先の選択画面で静止する。いったい、誰に助けを求めたらいいのだろう。まず、母の携帯番号の情報を探し出したが…。
ーーお母さん。いや、だめだ、お母さんにこんなことで頼るなんて。そもそも、《あの事件》以来、一回も目を見て話したことがないのだから。
あの事件。
もう思い出したくもないつらい過去が、私にはあった。
あれから母親と良い関係が保てていない。お互いに連絡をすることもなく、ただ何も会話もせずに同じ家に住んでいるだけの親子関係。私は大きくため息をついた。
じゃあ、いったい誰に連絡したらいいのだろう。携帯の画面と睨めっこを続ける。私には頼れる友達もいない。
次の瞬間、持っていた携帯が震えた。心臓も震えるほど驚いた。普段から鳴ることのない携帯が目を覚ました。
そこにはーー清宮先輩の名前の文字。
今日の朝、登録をしたばかりの名前。だけどよく知っている名前。今でもその名前が自分の携帯に映るなんて考えられなかった。だけど確実に先輩から着信がかかっていた。
安心して、泣きそうになるのを堪える。誰でもよかった。今、誰かから連絡が来たことへの奇跡に感謝をしたくなる。
外にいる男の方を一瞥すると、男ははっきりとこっちを見ているような気がした。
もう、今、救ってくれるのはこの人しかいないと思えた。震える携帯を耳に当てて、助けの声を求めた。
「清宮…先輩ですか?」
「莉子ちゃん、繋がった。今どこにいる?教室探しに行ったけど、莉子ちゃんいなかった」
優しい声だった。そして、少しからかったような笑う声が聞こえた。
「先輩、…助けてください。私、今誰かに追われてます。もしかしたら、昨日の男かもしれないです」
私は外にいる男を見ながら、震える声で懸命に伝えた。