天秤ばかりとは、片方に質量を調べたい物体を置き、もう片方に質量が判明している(おもり)を置くことで、物体の質量を測定する道具である。
 ビー玉と鉄球を置いている今、鉄球の方に秤が傾いているのは、鉄球の方が質量が大きいからだ。
 ビー玉や鉄球という物体を構成する要素を丸ごと取り替えでもしない限り、この結果は覆りようがない。
 本来であれば、そのはずだ。
 しかし七家が天秤ばかりに手をかざし間もなくして、秤が不自然に動き出す。
 質量が大きいはずの鉄球の秤が持ち上がり、逆にビー玉の秤が下がっていく。
 そしてその変化は、二つの秤がちょうど平行になる位置で停止した。

「……よし! ふふん、どう? これが私の魔法! すごいでしょ!」

 七夏が得意げに胸を張る。
 一方で、それを見せつけられた栞里はと言えば、ただただ困惑のままに七夏と天秤ばかりを交互に見た。

「……えっと……なにこれ?」
「ふっふっふ……見ただけじゃわからなかったかな? 私の魔法で、ビー玉と鉄球の質量を同じにしたの! それで秤が平行になったってわけ!」
「…………手品?」
「違うよ!? 魔法だよっ!」
「いや……でもこれ、どう見ても手…………あ、うん。魔法……だね?」
「そんな微妙な反応しないでよ!? ちゃんと魔法だから! 種も仕掛けもないの! ほ、ほら! 好きなだけ確かめてみていいから!」

 七夏に促されるがまま天秤ばかりに近づいて、その周囲を観察したり、秤を触ってリしてみる。
 見た感じ、糸や紐と言った変なものがついているわけでもない。
 片方の秤を上から手で押してみれば、きちんと下まで下がって、手を離せばまた平行に戻る。
 秤の上に置いてあったビー玉と鉄球も持ってみた。

(……本当に同じ重さだ……)

 見た目はビー玉と鉄球で全然違うのに、右手と左手に持ったそれぞれの重量は確かに同じであるように感じられた。

(けど……)

 なんというか、あっ! というような驚きがない。
 魔法ではなくて、やはり手品を見せられたような感覚が抜けない。
 それもそうだ。だって、秤に乗せられていたビー玉と鉄球の重さがほぼ同じだということがわかっただけである。
 もし秤が激しく上下に動き始めたり、七夏の意思で自由に動き始めたりとかしたら、多少は魔法の可能性を疑ったかもしれない。
 しかし実際は、二つの秤が同じ高さになっただけ。
 この程度なら事前にビー玉や鉄球に細工をしておけばどうとでもなるのでは? なんて思ってしまうのは極々自然なことだ。
 それほどまでに、変化があまりに地味すぎた。

「うぐぐ……そ、そうだ! 今ここで魔法を解除してみればいいんだ!」

 栞里の反応があまりに微妙だったためか、焦った七夏が名案とばかりに手を叩く。

「いくよ? えい!」
「あ……」
「わ、わかった? 今、栞里ちゃんの手の中にあるビー玉と鉄球の質量が元に戻ったの! わかったよね!?」
「……なんとなく?」

 確かに七夏が掛け声を上げた途端、ビー玉が軽く、鉄球の方が少し重くなったように感じられた。
 しかしこうなってくると、今度はさっき重さが同じに感じていたこと自体が気のせいだったのではないかと感じられてくる。
 元々、ビー玉も鉄球もどちらも指で摘めるくらいの大きさしかない。多少の重さの違いは感覚の誤差で片付けることができてしまう。

「な、なんとなくって……うぐぐ……事前にちゃんと解説しておかないのがダメだったのかな……よ、よし。それなら……」

 いい? と、七夏は未だ芳しくないリアクションを取る栞里へと机越しに詰め寄った。

「これは《調和》って言ってね、私だけが使える特別な魔法なの」
「七夏だけの?」
「そう! この魔法はね、私の魔力が干渉した二つのものの力の大きさを同じにできるの! イメージ的には、足して二で割る感じね」
「……同じにしかできないの?」
「し、しかって……お、同じにするって結構すごいんだよ? 今回は質量にしたけど、他にもいろいろいじれるから応用の幅だって広いし!」
「そうなの?」
「そうなの! たとえば……えっと……あ! 片手で空振りのストレートを打ちながらもう片方の手でデコピンすれば、超強いデコピンとかできるよ!」

 シュッシュッ! と唐突にシャドーボクシングを始める七夏。
 それは普通にストレートで殴った方が早くなかろうか。

「あと、重い物を持つ時とか結構便利だったりするかな。近くの別の軽い物と重さを共有させて、重い方を相対的に軽くできるの!」
「なるほど。それはなかなか実用的」
「でしょ!? 他にもね、これを応用すると、甘い物食べすぎて太っちゃったかなって時とか体重を詐称したりできるんだよ!」
「……詐称?」
「うん! 重さを共有させるものは結構選ばないといけないけどね!」
「……」
「……え。な、なんでそんな目で見るの……?」

 わざわざそれをたとえに出すということは、七夏はそれを実際にやったことがあるんだろうか……。
 栞里に可哀想なものを見る目を向けられていることに気づいた七夏は、いたたまれなくなったように大きく咳払いをした。

「と、とにかく……! そんな感じでいろいろと便利なの! 役に立つの! 手品なんかじゃない、立派な魔法なんだよ!」
「そう……なんだ?」
「う、ううぅ……そうなんだよぉ! 疑問形やめてぇ! 傷つくんだよ私でもぉ!」

 目元に涙を滲ませた七夏はそう叫ぶと、力尽きたようにガックリと机に突っ伏した。
 さすがに泣かせるつもりはなかった栞里はどうしたらいいかわからず、思わずたじたじになってしまう。
 そんな栞里に助け舟を出してくれたのは沙代だった。
 彼女は栞里に優しく微笑んだ後、静かに席を立つと、七夏の湯呑みに新しいお茶を注いで、慰めるように彼女に差し出した。
 七夏はその気遣いと湯呑みを遠慮なく受け取って、ゴクゴクと一気に飲み干す。

「ぷはぁ……うぅ。私の特異魔法って実は結構地味なんじゃっていうのは薄々思ってたけど……ここまで露骨な反応されると、さすがに凹むなぁ……」

 未だ元気がなさそうに眉尻が下がっているものの、お茶のおかげで少しは調子を取り戻したようだ。
 栞里は素直に頭を下げた。

「その……ごめんなさい」
「え? あはは、大丈夫だよ。こんな地味な魔法じゃ、そういう反応されてもしかたないし……別に気にしてない。そう、気にしてないから……」
「そ、そう……」

 明らかに気にしていたが、本人が気にしてないと言うならそういうことにしようと思い、栞里はそれ以上口を挟むことをやめた。

「はぁ……でも、これじゃまだ魔法のこと信じてもらえないかぁ……沙代の魔法ならどうかな?」
「私? うーん、使うのは構わないけれど……私の魔法って、どう使えば魔法らしく見せられるかしら」
「あー、沙代の特異魔法って《模倣》だもんね。模倣元ありきだし、こういうのには向いてないか……」

 どうすれば栞里に魔法の実在を信じてもらえるのかと、七夏と沙代は揃って頭を捻る。

「いっそのこと変身を見せてあげるっていうのはどうかしら。変身自体もそうだけど、変身状態なら補助具を使って他の魔法も見せてあげられるじゃない?」

(変身……)

 眩い光とともに一転、華やかな衣装を身に纏い、魔法を駆使して舞うように戦う。
 魔法少女に対する世間一般的なイメージと言えば、やはりそれだ。
 七夏は今、高校の制服のまま魔法を使ってみせたが、どうやら変身という概念も存在しているらしい。
 しかし変身はどうかという沙代の提案に、七夏はあからさまに嫌そうに顔を歪ませる。

「……変身って、私がするの?」
「そうね。七夏ちゃんは部長だもの。七夏ちゃんがするのが一番いいんじゃないかしら」
「……でも私、変身あんまり好きじゃないし……」
「そう? 私は七夏ちゃんの魔法少女衣装、結構好きよ?」
「私は嫌いなの! あんなもの私の中学時代の負の遺産だよ!」

 ガタッ! と椅子を退けて、七夏が激しく拒絶の意を示す。
 沙代は困ったように苦笑した。

「七夏ちゃんの気持ちはよく知ってるわ。でもね、もし今後栞里ちゃんと一緒に活動していくなら、結局見せることは避けられないと思うわよ? 遅いか早いかの違いじゃないかしら」
「それはそうかもだけど……うぅ。私じゃなくて、沙代の変身じゃダメなの?」

 お願い! と、ねだるような上目遣いに、沙代はしかたがなさそうに肩をすくめる。

「そうねぇ。まあ、七夏ちゃんが嫌なら、無理強いはできないわね」
「じ、じゃあ!」
「ええ。七夏ちゃんの言う通りにしましょうか。ひとまずは、栞里ちゃんに魔法の存在を確信してもらうことが先決。そのためにも、ここで私の変身を見せて――」
「――ううん。その必要はないよ」

 沙代が腰を上げかけた瞬間、この場にいる誰でもない別の声が部屋の中に響いた。

(この声……どこかで聞いたような……)

 声がした方向、このオカルト部の部室の入口に目を向ける。
 いつの間にか戸が人一人が通れる程度に開いていて、そこから一人の少女が顔を出していた。
 とても幼い風貌の少女だ。この高校の制服を身に纏ってはいるが、その背丈は澪や七夏よりもずっと低い。せいぜいが小学校高学年程度しかないだろう。
 銀と緑の二つの色が入り混じった、膝まで届きかねないほど無造作に伸ばされた髪は、ところどころが寝癖のように跳ねている。
 なによりも異様なのは、前髪の隙間から覗くその瞳だ。
 瞬きを一つするたびに、見る角度をわずかに変えるたびに、その都度、瞳の色彩が変化する。赤や青、黄色や緑、他にも無数の色が彼女の瞳の中に混在する。

「あら、レンダちゃん。こんにちは」

 沙代が微笑んで挨拶をすると、少女は「うん。こんにちは」と同じく笑顔で返した。

(レンダ……七夏が言ってた、あのレッサーパンダと同じ名前? けど……)

 今レンダと呼ばれた彼女は、どう見てもレッサーパンダではない。人間だ。

(いや……人間? ……本当に?)

 確かに、人の形はしている。
 けれど、なにか栞里の心が言い表しがたい違和感を訴えていた。
 あまりに幻想的かつ、現実味のない――まったく別の生き物を前にしているかのような。
 たとえば、そう。この少女の瞳の中に発生している、見る角度によって無数の色が混在して見える現象。
 これは多色性と言い、本来、鉱石や宝石などに見られる性質だ。
 まず間違いなく人間の瞳に見られるような特徴ではない。

「っ……」

 レンダと呼ばれた少女は、訝しげな栞里と視線を合わせると、かすかにだが緊張したように肩を震わせた。
 それから小さく深呼吸をすると、意を決したように足を踏み出し、とことこと栞里の方へとまっすぐに向かってくる。

「……」
「……」

 栞里が座る椅子の目の前で、レンダと呼ばれていた少女はピタリと立ち止まる。
 ただ見つめ合うだけで、どちらも口を開かない時間が続いた。

(……なにか、言った方がいいの?)

 無言の時間が続き、そんな風に栞里が考え始めた頃に、レンダはホッと安心したように肩の力を抜いた。

「よかった……朝と違って、この姿なら問答無用で退治しようとしてきたりはしないんだね」
「朝と違って……?」
「あれ? もう七夏と沙代から聞いたんじゃないの?」
「……本当に、あのレッサーパンダなの?」
「やっぱり聞いてたんだ。君のことだから、聞いただけじゃ信じないと思うけど……これなら信じるでしょ?」

 そう言ってレンダが指パッチンをすると、ポンッ! とレンダの姿が白い煙で包まれた。
 突然の事態に目を見開くが、驚愕はそれだけでは終わらなかった。
 煙が晴れると、そこにはもうレンダの姿はなかった。
 いや、正しくは、そこにいたはずの少女の姿がなくなっていて、別のものがそこに現れたのだ。
 そしてその別のものとは、レッサーパンダである。
 大きさも毛色もなにもかも、今朝見たものとまったく同じ個体。それがいつの間にか栞里のすぐそばの床に立っていた。
 これを手品と呼ぶには、あまりにも面妖すぎる現象。
 魔法――その二文字が、栞里の頭をよぎる。

「もういっちょ!」

 少女の時とまったく同じ声音でレッサーパンダが叫ぶと、再びポンッ! と煙が発生する。
 そして次の瞬間には、さきほどいなくなったはずの不思議な外見の少女が目の前に立っていた。

「……これが、魔法?」

 栞里が呆然と呟くと、レンダは口の端を吊り上げながら頷いた。

「そう、これも魔法。天秤ばかりがあるってことは、七夏の魔法も見せてもらったんだよね?」
「あの手品のこと?」
「え、手品……? ま、まあうん……一応、あれもれっきとした魔法だからね……?」

 視界の端で七夏ががっくりと項垂れていたような気がしたが、今の栞里にそんなことを気にするほどの心の余裕はなかった。

(これが、魔法……? ……本当に……実在した……)

 七夏の魔法を見せてもらった時は、まだ半信半疑だった。
 いや、半分も信じていたか怪しいものだ。なにせあんまりにもしょぼかった。
 だから冷静に反応も、会話もできた。
 しかし一瞬にして動物と人間の姿を入れ替えるこの現象は、手品なんかでは説明がつかない。
 栞里は半ば無意識に自分の頬を摘んで、ぐにーっ! と抓っていた。
 だけど、その痛みの感触は紛れもない本物だ。夢なんかではない。
 ……どうやら、認めざるを得ないらしい。

「……わかった」
「わかったって?」
「魔法のこと。そして、魔法少女のこと。あなたたちのことを、信じる」

 言葉を大切にすることが栞里の信条だ。一度口にした以上は、もう疑うことはない。
 栞里の真摯な表情から、レンダたちもそれを察したのだろう。七夏と沙代、そしてレンダはそれぞれ顔を見合わせると、嬉しそうにその頬を緩めた。