言葉を大切にしなさい。
栞里はそう、母からよく言われたものだ。
言葉には不思議な力が宿っていて、現実の出来事になにかしらの影響を及ぼす。
感謝のように良い言葉を口にすれば良いことが起きるし、誰かを嘲るような悪い言葉を口にすれば悪いことが起こる。
言霊。日本のみならず、全世界で信じられている概念だ。
言霊によって良い変化が起きた実例は、世界中に数多く存在している。
たとえば、感謝を捧げて育てた植物はのびのびと育ち、罵声を浴びせ育てた植物はすぐに枯れてしまうという。
体が弱かった人が、健康と日々唱え続けることで本当に健康になったなんて話もある。
生物ではない生肉や卵のような食べ物にしたって、かける言葉によって腐る早さが変わってくるそうだ。
だから栞里は、自分の言葉に責任を持つことを第一としている。
「えぇっと……栞里さん? 急に黙り込んで……どうかしましたか?」
学校の教室。ホームルームの最中。
前方の戸から入ってすぐのところで停止した栞里は、一つの切実な悩みに苛まれていた。
(……遅刻した理由、どう説明したらいいんだろう……)
栞里の信条は、自分の言葉に責任を持つことだ。
ならば本当のことを言うべきなのだろうか?
しかし、なぜか玄関前にいたなぜか人語を話せるレッサーパンダ……のような未確認生物を交番に届けに行っていた、なんて言っても信じてもらえるか、だいぶ怪しい。
事実は小説より奇なり。そんなことわざがあるように、時として事実は架空の物語よりも信じがたい真実を突きつけてくる。
実際に体験した栞里ならばともかく、なんの関係もない第三者が、話に聞くだけでその奇妙な事実を認めろという方が無茶な話だ。
(む……むむ……しかたない……少しだけ本当のことを伏せて話そう)
言葉を大切にすることが母の教えだ。だから、できるだけ嘘はつきたくない。真実を伏せる程度が限界だ。
本当のことを話さないことも嘘の一つなのでは? なんて言われたら言い返せないけれど、それが栞里にとってのギリギリの許容範囲だった。
「あのー……」
栞里が教室に立ち入ってからずっと無言で立ち尽くしているせいで、すっかり困り顔になってしまっている。
そんな担任の先生と、栞里はようやく視線を合わせた。
「なぜか玄関前でウロウロしていたレッサーパンダを交番に届けに行っていて遅刻しました。事情聴取が思っていたより長引いてしまって……入学式にも出席できず、申しわけありません」
「れ、レッサーパンダですか? ……え、交番にっ!?」
「はい。見逃した際の危険を考慮し、なんとか捕獲して連れて行きました。どうしてレッサーパンダがいたのか、どこから来たのかはわかりません。しかし」
「し、しかし?」
「猫でも犬でも狸でもなく、あれは間違いなくレッサーパンダでした。事情は警察の方にも説明いたしましたので、真偽のほどは問い合わせていただければと」
至って真剣な顔で栞里は言い切った。
嘘にしてはだいぶお粗末で、真実にしては荒唐無稽な話だ。当然のごとく教室がざわめき立つ。
なお、栞里が隠した真実とは、あのレッサーパンダがしゃべっていたということである。
あれが本当にレッサーパンダだったのか、それともレッサーパンダの形をしているだけの未確認生物だったのかはわからない。だが少なくともレッサーパンダの見た目をしていたことと、それを交番に届けたことは確かな事実だ。だから残念ながら、そこを隠すことはできなかった。
レッサーパンダなんて単語が出てきている時点で到底信じがたい話であることは栞里もわかってはいるが、何度も言うように、レッサーパンダを交番に届けたことは一つの事実として確かに存在する。
交番に連絡さえしてもらえれば、たとえどれだけ信じられない内容だったとしても、栞里の言葉が真実だったことは容易に証明できる。
「……わ、わかりました。栞里さんの言うことを疑っているわけではありませんが、念のため確認を取ってきます。栞里さんも席について、皆さんと待っていてください」
「はい。ご足労おかけします」
担任の先生はそう言うと、そそくさと足早に教室を出ていった。
教室の前の方に一人残された栞里は、未だざわついているクラスメイトたちをよそに、自分の席を黒板に貼られた紙で確認して移動する。
(うーん……せっかく念入りに準備してたのに、初日から遅刻しちゃったな。学校が近いからって登校を遅くしたのがダメだったのかも……次からは、急にレッサーパンダに遭遇しちゃっても間に合うくらいの時間に登校しよう)
そもそも登校中にレッサーパンダに会うことがまずないのでは? なんて疑問も一瞬栞里の中に浮かんだが、実際問題、今回は遭遇したのである。
ならば二度目がある可能性も否定できない。
元々ざわついてはいたが、一時的に先生がいなくなったこともあって、次第に教室内に無秩序な喧騒が溢れ始める。
「えっと……栞里、ちゃん? で、いいのかな?」
自分の名前を呼ぶ声に、栞里は反射的に隣の席を見た。
けれどわずかに目線が合わず、少しだけ視線を落とす。
第一印象は、可愛い、という至極単純なものだった。
栞里より一回りほど背丈が低い関係で、その少女は覗き込むようにこちらを見つめてきている。
まだ幼さが多く残る顔立ちをしていることもあって、高校の制服を着ていなければ中学生にしか見えなかったかもしれない。
穏やかな雰囲気を放つ栗色の瞳は、見ているとなんだか安心感を覚える。
声をかけられた時、遅刻理由について興味本位で根掘り葉掘り聞かれることを警戒していた栞里だったが、そういうわけではなさそうな空気にホッと息をつく。
「うん。花乃栞里。あなたは?」
「わたしは澪。凪沢澪。よろしくね」
「うん。よろしく、澪」
澪は少し面食らったように目をぱちぱちと瞬かせた。
なにかおかしな返しをしてしまっただろうかと栞里が首を傾げていると、澪はショートカットの髪を揺らして、照れくさそうに頬をかいた。
「えへへ……いきなり呼び捨てにされちゃった」
「ダメだった?」
「ううん。わたし、一年くらい前にちょっと遠くの方から引っ越してきたばっかりで、お友達って少なかったから。栞里ちゃんとお友達になれたらなって思ってたから、すごく嬉しい」
嫌がるようなら名字呼びに変えようかとも思っていたけれど、澪がそう言ってくれるなら、わざわざ変える必要もないだろう。
どうやら澪は、隣の席である栞里と友達になりたくて話しかけてくれたらしい。
それは栞里にとっても歓迎すべきことだ。
自分から誰かに声をかけることが少なく、同年代の子からはとっつきづらいとよく言われてしまう栞里ではあるが、友達を作りたくないわけでは決してない。
次第に会話に花が咲き、話が広がっていく。
そうして話題はやがて、栞里が語った遅刻理由について移行していった。
「それで、栞里ちゃん。さっきの話って、本当……なんだよね?」
「さっきの……レッサーパンダのこと?」
「うん。レッサーパンダを交番に届けてきたって……」
澪もやはりあれは気になるようだ。
……真実を伏せて語ったことであるため、あまり追及されたくはなかった。嘘が苦手な栞里では誤魔化しきれないかもしれないから。
だけれど、澪は無理に聞くつもりはなさそうだ。話したくないなら話さなくてもいい。彼女の優しげな瞳はそう言ってくれている。
だから栞里も、興味本位ではなく、純粋に友達になりたいと声をかけてくれた澪になら話してもいいかと思い直した。
栞里は周囲に聞かれないよう声を潜め、澪の耳に顔を近づける。
澪も少々不思議がりながらも、栞里に合わせて少し栞里の方に体を傾けた。
「澪にだけ言うけど……実は、あれは嘘なの」
「え、嘘だったの?」
「……やっぱり嘘じゃないかも」
「ど、どっちなのっ?」
言葉を大切にすることが心情なだけに、嘘だったのかと言われると途端に罪悪感が湧き出てしまう。
思わず否定してしまったが、栞里はふるふると頭を左右に振ると、気を取り直して続きを話した。
「あれ自体は嘘じゃないんだけど……私が交番に届けたのは、正しくはレッサーパンダじゃなくて、しゃべるレッサーパンダ……みたいななにかだったの」
「しゃ、しゃべるレッサーパンダ……」
「うん。もしあのままにしてたら被害が出たかもしれないから、どうしても放っておけなくて」
「え? ひ、被害って?」
「……そのレッサーパンダみたいななにか、魔法少女がどうこうって言ってたの。レッサーパンダは基本的に草食だけど、あれはレッサーパンダみたいななにかだし、肉食じゃないとは言い切れない……だからきっと、魔法少女って単語で年端もいかない女の子をおびき出して食い物にしてるんじゃないかって思って」
「…………」
澪はあっけに取られたように口を半開きにしていた。
それもしかたがないか、と栞里は思う。
しゃべるレッサーパンダなんて、栞里だって話に聞いただけだったなら信じていたか怪しい。
それでも澪にだけは信じてもらいたいと感じた栞里は、少しでも誠実な態度を示すために澪の目をまっすぐに見つめた。
「信じられないかもしれない……でも、事実なの。何度も触って確かめたから間違いない。頭がおかしいって思うかもしれないけど……」
「あ、ううん! 違うの! 信じてないわけじゃなくて……ただちょっと、栞里ちゃんの行動が予想外すぎてついていけなかったというか……」
「澪、私の話を信じてくれるの?」
「え。う、うん。信じるよ。だって栞里ちゃん、こんな真剣に話してくれてるんだもん。友達なら信じなきゃ」
「……そっか。澪は優しいね……よしよししてあげる」
「ふぇ? あ、ありがとう……?」
宣言通り、よしよし、と澪の頭を撫でる。
一方で澪は、同級生の頭を撫でる栞里を見上げ、「もしかして栞里ちゃんって結構変な人なのかな……?」なんて内心思っていたが、口に出すことはしなかった。
(うぅーん……それにしても、しゃべるレッサーパンダって絶対あの子のことだよね……だ、大丈夫かなぁ)
そして澪は、心当たりがある正体を密かに思い浮かべながらそんなことも考えていたが、栞里にそれを知る由もない。
「澪? どうかした?」
「あ、ううん!」
ほんの少し不安そうな表情をする澪が気になり、顔を覗き込んだ栞里だったが、澪は慌てたように首を横に振った。
「ごめんね。なんでもないの。ちょっとぼーっとしちゃってただけで……」
「そう?」
「うん。心配してくれてありがとね、栞里ちゃん」
「ん。どういたしまして」
担任の先生が来るまで、また他愛のない雑談でも始めようとしたところで、ガラガラと教室の戸が開く。
「はいはい静かに。先生が戻りましたよー」
さきほどは少々慌てた様相で教室を出て行った先生だったが、今はもうすっかり落ちついていた。
「栞里さん。レッサーパンダの件は警察の方に確認が取れましたので、今回の遅刻に関しては目を瞑ります。ですが、今後遅刻や欠席をする場合はできる限り事前に学校へ連絡するようにしてくださいね。あと、あまり危険な真似はしないように」
「はい。気をつけます」
「いい返事です。それではホームルームを再開します」
レッサーパンダの件が警察に確認が取れた、とのことでまた教室が騒がしくなり始めたが、先生が何度か注意するとそれも収まった。
「栞里さんも来たので、改めて。あなたたちの学級担任となる古本紡木です。担当する教科は国語と地理歴史。よろしくね」
先生こと紡木が「それでは、また続きからお願いします」と言うと、窓際の生徒の一人が立ち上がった。
どうやら自己紹介の途中だったようだ。
自己紹介が一つ終わるたび、パチパチと拍手が鳴る。
端から順々に自己紹介が行われているようだが、席順は窓際から五十音順なので、ハ行で始まる花乃栞里よりもナ行の凪沢澪の方が先だ。
澪の順番が来ると、栞里は立ち上がる彼女を少し期待を込めて見上げた。
「凪沢澪です。好きな食べ物は砂糖で甘く焼いた卵焼きです。一年くらい前にこちらに越してきてまだあまり知り合いがいないので、よければ仲良くしてください!」
自己紹介を終えて席につくと、澪は栞里の方を向いて、かすかに赤くなっていた頬をかいた。
「うぅ。知らない人ばっかりで緊張したー……」
「うまくできてたよ。おいしいよね、卵焼き」
「お、おいしいけど……なんだか恥ずかしいな」
雑談もほどほどに、栞里の順番がやってくる。
栞里が起立すると、栞里は自分に、他の同級生が自己紹介した時と比べて多くの視線が集まったように錯覚した。
いや、実際の視線の数自体は同じだ。しかしその興味の度合いが違う。皆、好奇心の塊のような目で栞里を見ていた。
無論、原因はレッサーパンダの一件であろう。見事に悪目立ちしてしまっている。
異様な雰囲気に澪が心配そうに見上げてくる中、栞里は、まったく臆することなく堂々と口を開いた。
「花乃栞里」
「………………えっと、それだけですか?」
それ以外なにも言わないので念のため紡木が確認を取ると、栞里は少し考えてから、再び堂々と言い放つ。
「一五歳」
「そ、それはそうでしょうけど……」
入学したての高校生は皆一五歳である。
あまりにも当たり前の事実を口にしただけなのだが、栞里はまるでなにかを成し遂げたように満足気に頷いた。
「これでよし。よろしく」
「あ、はい……よ、よろしくお願いします。で……では、次の人ー」
戸惑いがちに拍手が鳴る。
いったいなにがよしなのか。栞里以外誰も理解できなかったが、ここまで自信満々に言い切られてしまったら拍手する以外になかった。
(あはは……レッサーパンダを交番に届けたってところから薄々思ってたけど、やっぱり栞里ちゃんってちょっと変な人なんだなぁ……)
何事もなかったように着席し、次の自己紹介を聞き始める。
そんな栞里を横目で見て、澪は一人、かすかに苦笑いを浮かべるのだった。
「それではホームルームを終わります。起立、礼」
紡木の号令に、ありがとうございました、と大勢の声が鳴り響く。
紡木が教室を後にすると、静かだった教室ががやがやと騒ぎ始めた。
そのまま教室で駄弁り始める者もいれば、早々に帰り支度を始める者もいる。中学からの知り合いにでも会いに来たのか、他のクラスの生徒が教室内に入ってきたりもしていた。
栞里はと言えば、早々に帰り支度を始める者うちのの一人だった。
「栞里ちゃん、お昼はどうするか決めてる?」
澪も栞里と同じように帰り支度をしている。
今日は入学初日ということで、入学式と顔合わせのホームルームしかなかった。
学校に食堂はあるが、あらかじめ早めの解散が決まっていたために、今日は開いていない。
「家に帰って、適当に作るつもり」
「へえー。家庭的なんだね。栞里ちゃんの家は学校から近かったりするの?」
「歩いて一〇分くらい」
「わっ、近い! って言っても、私も自転車で一〇分くらいだけど」
「む……私も自転車で通学したい」
「ふふ、近すぎるとダメなんだっけ?」
そんな他愛のない話をしながら、一緒に教室を後にする。
廊下を歩く最中、ふと窓の方に顔を動かせば、中庭の光景が目に入る。
弁当を持ってきていた生徒もいたようで、はらはらと桜の花びらが舞い落ちる中、ベンチに腰を下ろして友達と食べている姿が窺える。
栞里は自分が社交的な性格とは言いがたいことを自覚している。中学時代、あんな風に一緒に昼食を食べるほど親しい友人はいなかった。
羨ましいわけではないが、仲良く昼食を食べる姿が幸せそうに映って、自然と少し足を止めていた。
そんな栞里の視線の先に、ひょこっと澪が顔を出す。
「ね、栞里ちゃん。さっきは栞里ちゃん、家に帰ってなにか作るって言ってたけど……よかったら、お昼どこかで一緒に食べて行かない?」
「一緒に?」
思いもよらぬ誘いに栞里は目を瞬かせる。
「……うーん……」
「あ、ダメだったらいいんだよ! 栞里ちゃんがよかったら、だから」
栞里が他の生徒が仲睦まじくお昼を食べている光景をボーッと眺めていたものだから、脈ありなのでは? と澪は思ったのだ。
しかし予想外に芳しくなかった反応に、澪は少し気落ちしてしまう。
「わたし、今帰っても家に誰もいないし……一人でご飯食べるのって、なんだかちょっと寂しくて。その、ダメかな」
「ダメ、ってわけじゃない……けど」
「けど?」
「……外食はお金がかかる」
「そ、それはそうだけど」
真剣な顔でお金が理由だと語る栞里に、澪はなんとも言えない気持ちになる。
もしかして友達よりお金の方が大事な人なのかな……なんて失礼なことも密かに考えてしまったり。
しかしそんな澪を横目で見て、これはわかっていないなと感じた栞里は、ずずいと一気に顔を寄せる。
突然のことに面食らう澪の瞳を、逃さんとばかりにジーッと見据えた。
「澪……いい? よく聞いて。お金は大事。これがないと私たちは生きていけない」
「へ? う、うん……」
「私たちが着てる服も、食べてるものも、全部お金が関わってるの。お金で買えないものもあるって、人は言う。でも、人間社会において九割以上のものはお金で買えるの。お金、とても、大事」
「は、はい」
かなりの剣幕だったので若干引き気味になってしまいつつ澪が首を縦に振ると、栞里は満足気に頷いた。
「……でも、勘違いはしないでほしい。私は澪と一緒に食べるのが嫌なわけじゃない」
「そう、なの?」
「そうなの。澪の誘いはとても嬉しかった。私も澪と一緒に食べたい。だから澪、もしよかったら外食じゃなくて、これから一緒に私の家で――」
そこで不意に、栞里の言葉が止まる。
不思議に思った澪が「どうかしたの?」と問いかけようとしたところで、栞里のその視線が澪の後ろの方へ凝視するように注がれていることに気がついた。
気になった澪が振り返ってみれば、そこには一人の女子生徒がいた。
無論ここは廊下だから、何人もの人が行き交っている。女子生徒という名詞に該当する人は山ほどいる。
しかしその中でも、件の女子生徒だけは確かに栞里を見つめており、まっすぐに栞里の方に向かって歩いてきていた。
「……栞里ちゃんの知り合いの人?」
「ううん。知らない」
「……そっか」
(ならあの人、もしかして……)
澪はその正体になんとなく心当たりがあったが、しかしだからこそ、ここはなにも言わず静観することに決めた。
「こんにちは。私は架空七夏。あなたが花乃栞里ちゃん、でいいんだよね?」
栞里が入学した間子葉高校では、学年ごとにリボンとスカートの色が違う。
栞里や澪と言った一年生は赤。二年生は緑。三年生は青と区別されている。
一年が経過すると、一年生と二年生の色はそれぞれ上の学年に切り替わる仕組みであるため、買い換える必要はない。
そして今目の前にいる、七夏と名乗った女子生徒の色は緑。
つまりは二年生だった。
「……」
下級生が知らない上級生に話しかけられるという事態は、通常、下級生側が少なからず圧力を感じるものだ。
だけど今回、栞里はその圧力を感じなかった。
それはおそらく、この七夏という少女の気質に起因しているのだろう。
明るく透き通った声は澄み渡るように耳に入る。
初対面であるにもかかわらず、親しい人に向けるかのようにあどけない微笑みは、見る者の心を弛緩させた。
くりくりと少し大きな瞳は琥珀のように鮮やかな反面、無邪気な子どものような好奇心も見え隠れしている。
ふとした仕草でふりふりと揺れるツインテールはまさしく尻尾のようで、彼女の快活さを表しているように感じられた。
(……カツアゲかなにかかと思ったけど……悪い人ではなさそう? けど……)
あなたが栞里でいいのかどうか。
栞里は少し悩んでから、それに対する返答を決めた。
「かけぞらななか、先輩でしたか。お名前、どんな字で書くのでしょうか」
「うん? 空に架かる七つの夏って書いて、架空七夏だけど……」
不思議そうな顔をしつつ答えてくれた七夏に、栞里はうんうんと頷いてみせた。
「なるほど……良い名前ですね。空に架かるという鮮やかで綺麗な名字に加えて、何度も訪れる夏のイメージ。とても奔放で爽やかな印象を受けます」
「そ、そうかな? なんか急に褒められた……へへ、ありがと」
「では、私たちはこれで失礼します。人探し頑張ってください」
「あ、うん。あなたも気をつけて帰るんだよー…………ん? ……あれ?」
栞里は確かに、七夏のことを悪い人ではなさそうだと判断した。
だがそもそもの話、そもそも栞里には知らない上級生から話しかけられるような心当たりがない。
仮にあるとするなら、今朝のレッサーパンダ騒動くらいだ。
もしもあれがすでに上級生の間にまで広まっているのだとすれば、誰かが好奇心で栞里に話しかけに来てもおかしくない。
見てくれが良い人っぽそうでも、七夏がそういう輩ではないとは限らないのだ。
ここはさっさと逃げるに限る。
「行こう、澪」
「え、えっ?」
しかし自ら話を打ち切った栞里はともかく、澪の方は突然の状況の変化についていけなかったようで、うろたえた様相で栞里を見上げた。
「……あ、あの、いいのっ? し、栞――」
「塩焼きがいいの?」
「はぇ?」
「鮭の塩焼き。私の家で一緒に食べよう」
澪に名前を呼ばれて七夏に聞かれたらおしまいなので、半ば強引に言葉をかぶせつつ、栞里は澪の手を引いてそそくさと離脱を図る。
「いやちょ、待って待って!」
だが残念ながら、栞里が澪を連れて立ち去るよりも、七夏が立ち直る方が早かったようだ。
誤魔化された直後こそ呆然としていた七夏だったが、すぐさまハッとすると、慌てて栞里の進行方向に回り込んだ。
「えっと、あなたが栞里ちゃんでいいんだよねっ?」
困惑を隠せない声色で問いかける七夏に対し、栞里はスッと人差し指を見せつけるように立てる。
「……栞という一文字の漢字は、本に挟む長方形の厚い紙の意味が広まっていますが、元々は木の枝を加工して作った道標の意味も持ちます」
「う、うん?」
「里へ、帰るべき場所へ導く道標。一緒にいると心が落ちつく人。その名前にはきっとそんな意味が込められています」
「そう、なんだ?」
「はい。それでは失礼しますね。人探し頑張って――」
「いやもうそんなんじゃ誤魔化されないから!」
さきほどと同じように切り抜けようとしたが、さすがに二度も同じ手は通じないようだ。
ササッと脇を抜けようとしたところで、体を滑り込ませるようにして塞がれる。
むぅ、と栞里が内心で唸る一方、七夏もまた不満そうに口を尖らせた。
「もー。なんでそんな避けようとするのかな……もう一度、っていうか聞くの三回目だけど、栞里ちゃんってあなたのことで合ってるんだよね?」
「……ほら、窓の外を見てください。青い空、白い雲。ああ、今日はとてもいい天気ですね」
「ねえさっきから思ってたけど話題のそらし方露骨すぎない!? さすがに天気で騙される人はいないよ!」
そう言われても、言葉を大切にすることが母の教えなのだから、悪意ある嘘をつくわけにはいかないのである。
というか、その露骨なそらしにものの見事に引っかかっていたのが最初の七夏である。実にちょろかった。
正直、もうこれ以上は誤魔化しきれそうにもなかったが……あの時のちょろさがまた発揮されないかというワンチャンに賭けて、栞里はもう少しだけ抵抗を試みる。
「ところで、なぜ空が青いのか知っていますか? 光は大気中の粒子に当たると錯乱を起こしますが、特に青い光は波長が短く錯乱が起こりやすく――」
「あーもう! そんな必死に誤魔化したって無駄なの! あなたが栞里ちゃんだってことは本当は最初からわかってるんだから! 私、間違えないようちゃんと事前に写真で確認してきたもん!」
「……写真?」
「そう! 写真! だからどんな内容で言い逃れようとしたって無……だ? ……あー……」
言葉の途中で、徐々にぎこちない笑顔になった七夏が、ギギギ、と壊れた機械のように首を傾ける。
「えっーっと……これ、言っちゃダメなやつだった、っけ……?」
「……」
今、この七夏という上級生は写真と言ったか。
だけど栞里は今まで自分の写真を誰かに上げた記憶はない。
これが中学時代の同級生ならば、卒業名簿の写真で見たなどの可能性も考えられる。
しかし相手は今日会ったばかりの上級生だ。
レッサーパンダ騒動で少し悪目立ちしているかもしれないけれども、しょせんまだ起きて間もない出来事だし、写真が出回るほど有名になっているわけでもない。
それなのにこの少女は、栞里のことを写真で見て知っていると言う。
事前に確認してから接触を図ってきたと。そう言っている。
(……怪しい。悪い人ではなさそうと思ってたけど、そういう技術だった? プロの詐欺師とかってすごく優しそうな人に見えるって言うし……ストーカー……いや、やっぱり本当にカツアゲ……?)
七夏はダラダラと冷や汗を流して、明らかにテンパっている。
だがそれも演技である可能性を視野に入れて、栞里は七夏へとジトッと訝しげな視線を送る。
「あ、あはは……その、これは誤解で……」
途端に精神的劣勢に立たされた七夏は視線を右往左往とさせながら、なんとか弁明を図る。
「と、とりあえず話を聞いてくれないかな? そうすれば今のこともちゃんと説明できるから……」
「……わかった」
「も、もちろん変なことはしな……へっ? い、いいの?」
これまでの手応えのなさからして簡単には話を聞いてくれないと思っていたのだろう。
栞里があっさりと承諾すると、七夏はポカンと呆ける。
けれど当然ながら栞里は警戒を解いたわけではない。むしろこれ以上ないほどに高まっている。
「本当は無視して帰りたい。けど、私のことをどうやって調べたのか、今のうちに知っておかないとまた同じ目に合うかもしれないから」
「あ、そういう理由なんだ……」
不審者でも向けるかのような目と言葉。
抱きかけた期待から一転、七夏は一気に落胆した様子で肩を落とした。
ついでに言えば、栞里が使っていた七夏への敬語もいつの間にかなくなっている。
七夏は最低限栞里が抱いてくれていただろう先輩への尊敬の念が彼方へと吹き飛んでしまっている現実に直面しつつも、なんとか気を取り直そうとかぶりを振った。
「はぁ……まあでも、話を聞いてくれるならそれでいっか……じゃあちょっと、とりあえず人気のないところに――」
「待って。その前に、話を聞く条件が一つ」
「ん? 条件って?」
「簡単なこと。あなたが話そうとしてたこと、私の写真のこと。その全部をここで話して」
「こ、ここでっ?」
今栞里たちがいる場所は、廊下だ。栞里たち以外にも多くの生徒が行き交っている。
「どうして迷うの? もしあなたの話とやらが後ろめたいことじゃないなら、ここでも話せるはず」
「そ、それはそうかもだけど……」
七夏はあからさまに引きつった顔で辺りを見渡している。
やはり、なにか人前では話しにくい事情があるらしい。
栞里は七夏を睨むように鋭く目を細めた。
「それができないなら、話はこれで終わり。あなたが話してくれないなら私はこれから職員室に行って、あなたが私の写真を持ってることについて知らないか問い詰めに行く。学校側から漏れたのかもしれない……場合によっては警察も必要かも」
「そ、そこまでっ!?」
「当たり前。これは肖像権にも関わるかもしれない大きな問題。このジョーホー化社会で、私が把握してない範囲で私の個人情報が広まってる可能性がある以上、放ってはおけない」
「め、目が本気だ……」
情報化という単語がなんか片言じみて聞こえたのはきっと気のせいだ。
ここで引いてしまえば栞里は本当に事を大きくする気だと悟った七夏は、観念したように顔を伏せる。
「うぅ……わ、わかったよ。話す……ちゃんとここで話す……」
「じゃあ、どうぞ」
栞里が聞く姿勢に入ると、ちゃんと話すと言った割に、七夏は躊躇するように閉口した。
いや、実際には何度か口を開いて言おうとはしているのだが、そのたびに周囲を気にして、誰かが近くを通るとすぐに言うのをやめてしまう。
恥ずかしそうに耳を赤くして、聞こえないくらい小さな声で口をもごもごとさせて。
そんなことを何度も繰り返しているものだから、いい加減栞里も付き合っていられず、さっさと立ち去ろうかという思考が頭の隅をよぎり始める。
そんな時だった。七夏の口から、その言葉がぽつりと漏れたのは。
「栞里ちゃんは、その……魔法少女って……興味ある?」
「っ……」
それは、昨日までの栞里なら「テレビアニメの話?」と軽く受け流すだけだろう単語だった。
だけど今日の栞里は、彼女の発言をそのように一蹴することはできなかった。
なぜなら七夏は今、しゃべるレッサーパンダもどきが今朝言っていたことと同じ単語を口にしたのだ。
「私さ、魔法少女なんだ。そしてあなたにも、魔法少女になれる資格がある……あなたも、私と同じ魔法少女にならない?」
「……」
栞里はレッサーパンダがしゃべること、そしてそのしゃべった内容を、澪以外に話していない。
澪はずっと一緒に行動していたので、澪が言いふらしたなんてこともありえない。
なのに七夏は、あのレッサーパンダとまったく同じことを言っている。
チラチラと周りを確認しながら、他の人に聞かれないように小声ではあるものの……確かに同じことを。
そんな七夏を呆然と眺め……すべての真実を悟った栞里は、七夏に近づくと、その肩にポンと優しく手を置いた。
「……大丈夫?」
「へ? だい、大丈夫? え、な、なにが?」
突如柔らかい声で心配されて、七夏は呆けた声を上げる。
いつの間にか、栞里の警戒心の一切が消え去っていた。
そして七夏を見つめる彼女のその瞳は、なにやらまるでかわいそうなものを見つけたような憐憫のそれに変貌している。
あまりの態度の急変化に七夏の理解が追いつかない中、栞里は静かに瞼を閉じる。
「あなたのこと、悪い人かと思いかけてた。でも、違った……あなたもあのレッサーパンダの被害者だったんだ」
「ひ、被害者? た、確かに関係者ではあるけど……」
「大丈夫……わかってる。私と違って、あなたは騙されちゃってるんだよね。あのレッサーパンダの妄言に……でも、安心して。あのレッサーパンダはもう交番に送り届けたから。きっと今頃動物園とか研究施設とかその辺に送られてる」
「いやあの、そのレッサーパンダの子はなんていうか……私の友達、みたいな……? 決して騙されてるとかじゃなくてね……?」
「……」
栞里はうんうんと同調するように頷いた後、七夏の手を自分の両手でそっと包み込んだ。
「大丈夫。大丈夫だから。ちゃんと全部わかってる」
「ほ、ほんとに? 本当にわかってくれてる?」
「もちろん。なにも心配することなんてない。だから……一緒に、病院で頭見てもらおう?」
「いや別に頭おかしいわけじゃないよ!? 全部本当のことなんだってば!」
「わかってる……全部わかってる。今まで辛かったよね」
「なんにもわかってくれてないけどっ! くっ……ダメだこの子、話を聞いてそうでまるで聞いてくれてないっ!」
とにかくちゃんと話を聞いてくれと七夏は必死に主張するが、栞里は耳を貸さない。
なぜなら栞里にとって、すでに七夏は「件のレッサーパンダに洗脳されて頭がかわいそうになってしまった人」だったからだ。
つまるところ、まともに取り合うことそのものが無駄と思われてしまっていた。
この言い争いは、どこまで行っても平行線だ。
「だから頭を打ったとかじゃないんだってばー!」
あまりにギャーギャーとやかましく騒ぐものだから、何事かと次第に周囲の視線が集まり始める。
少し離れた場所で物珍しげに観察する人だかりさえ出来始める始末だ。
七夏はせめてこの場で目立たずに話すことを望んでいたのだろうが(その割には一番騒いでいるが)、ここまで注目を集めてしまえば、もはやそれは叶わぬ願いだ。
そんな中、二人に折衷案を持ち出したのは、これまでずっと黙っていた澪だった。
「あ、あのっ、栞里ちゃん! ……このままだと先生呼ばれちゃうかもだから、とりあえず別の場所で話を聞いてあげたらどうかな……?」
「澪……? でもこの人は」
「大丈夫だよ。栞里ちゃんが言ったように、この人はきっと、そんなに悪い人じゃないから。だから……ね?」
「……澪……」
逃げるなら、澪と一緒に。
初めからそう考えていた栞里は、その澪から話を聞くように提案されてしまって、困ったように立ち尽くした。
(栞里ちゃんって、レッサーパンダ……ううん。しゃべってたあの子を問答無用で捕まえて警察に届けちゃったんだもんね。こうなっちゃうのも、よく考えたら自然な流れだったのかも……)
……実のところ澪は、七夏がどのような意図で栞里を訪ねてきたのか、そして魔法少女がどういう存在なのかを知っている。
だが、それを栞里に話すことは澪の役割ではない。
だから栞里と最初に顔を合わせてからこれまで、魔法少女についてはずっと話さず伏せていたし、本当は、栞里と七夏のやり取りも最後まで静観するつもりだった。
しかしここまで騒ぎが大きくなってしまったからには、もうそんな悠長なことを言っているわけにもいかなかった。
「……わかった」
栞里は自分の心を落ちつけるように息をついた後、コクリと頷いた。
「澪がそう言うなら、話を聞くこともやぶさかじゃない」
「ありがとう、栞里ちゃん」
澪にそう屈託のない笑みを向けられると、栞里もなんだか嬉しくなって、ちょうどいい位置にあった澪の頭を撫でた。
一方、七夏は納得のいかなそうな顔で栞里をジトーッと見つめる。
「なんかあっさり言うこと聞いてる……私がなに言っても聞いてくれなかったのに……」
「澪は常識人だから」
「その言い方だと私が非常識みたいになるんだけど」
「……魔法少女にならないかって人前で言い出すのは、非常識だと思う」
「人前で言う羽目になったのはあなたのせいだからねっ!? ……ま、まあいいや。これ以上ここにいたくないし……とりあえずついてきてくれる? ちょうどいい場所があるからさ」
返事も聞かず、七夏はそそくさと踵を返す。
一瞬、このままついていかずに昇降口へ直行する選択が栞里の頭をよぎった。
正直な話、これ以上頭のおかしい妄言に付き合わされるのはごめんだ。
しかし栞里はこれでも言葉を大切にすることを信条にしている。
一度は話を聞くことを了承した手前、約束を違えることはどうしてもはばかられた。
どうしたものかと、栞里がなんとなく澪の方に顔を向けてみると、ちょうど彼女も栞里の方を見ていて、二人の目が合った。
澪は栞里にこくりと頷いてみせると、先に足を踏み出し、振り返って言った。
「行ってみよう? 栞里ちゃん」
「うん」
栞里は迷いなく首肯する。
いずれにしても、栞里は七夏がどうやって栞里の写真を入手したのか知らなくてはならない。
そうでなければ、この先どんな目に合うかわかったものではないのだし。
(鬼が出るか、蛇が出るか……)
一抹の不安を覚えつつも、栞里は澪とともに七夏の後を追うのだった。
「ついたよ。ここなら周りを気にせず話ができる」
七夏に案内されてたどりついたのは、部室棟にあるオカルト部の部室の前だった。
オカルトとは、神秘的なこと、超自然的なこと、あるいは目に見えず隠れているもののことを指す言葉だ。
昨今においてはそれとは別に、幽霊だったり魔術だったり超能力だったり、果ては宇宙人だったり、そういう妄想の産物に過ぎない代物を大雑把にまとめてオカルトと呼んだりもする。
オカルト部とはとどのつまり、そういった超常現象を解明しようとする部活という認識で相違ないだろう。
(いよいよ胡散臭くなってきた……)
栞里はもうこの時点で回れ右して帰りたい気分だった。
しかし七夏が栞里の写真を見るに至った経緯が未だわかっていない以上、このまま知らんぷりして立ち去るわけにもいかない。
まったく気は乗らないけれども、ひとまずは話を聞く必要がある。
「ささ、遠慮なく入って。もちろん澪ちゃんもね」
「お、お邪魔します!」
「……お邪魔します」
(……部屋の中は、案外普通かな)
オカルト部などと言うくらいなので、黒いカーテンで窓からの光が遮られていたり、不気味な置物が各所に設置されているような陰気な室内をイメージしていたが……予想に反し、中はなんてことのない普通の一室だった。
窓のカーテンは確かに閉められていたが、別に黒くもない普通のカーテンだ。そんなに遮光性も高くないことから外の光が漏れてきている。
不気味な置物なんかも特になかった。それどころか加湿器やヒーター、電子ポットやお茶っ葉、果てはお菓子の小袋なんかもあったりして、休憩室のごとく過ごしやすい快適な環境が整っている。
「あら?」
そしてそんな部屋の中には一人の先客がいた。
まっすぐに背を伸ばしてイスの一つに腰を下ろし、丁寧に本のページをめくる理知的な姿は、一枚の絵画のようにも感じられた。
「ふふ。こんにちは」
「……こんにちは」
「こ、こんにちは!」
入ってきた三人に気づいて、微笑みとともに挨拶を投げてきた彼女に、栞里と澪も会釈を返す。
(この人も、この七夏っていうのと同じ二年生……)
リボンとスカートの色が七夏と同じ緑色なので、二年生だ。
(同じ……同じ? ……本当に同じ二年生? というか、高校生……?)
読書を嗜んでいた彼女のある一部分を見て激しい疑問を抱く。
具体的に言うと胸である。およそ成人していない学生とは思えないほど大きく膨らんでいて、視線が吸い寄せられずにはいられない。
なお余談だが、同学年のはずの七夏は哀れなほどのへなちょこぺったんこだ。
栞里が心の中でそんな失礼な比較をしている間に、七夏は栞里たちを歓迎するように、長机の前に置かれたイスを指し示した。
「さ、二人とも遠慮なく座って。沙代、悪いけどお茶出してもらってもいい?」
「わかったわ。ここまで案内ご苦労さま、七夏ちゃん」
「うん……うぅ、ここまで連れてくるの本当に苦労したんだー……」
「ふふ。大変だったのね」
「それはもうすっごく」
七夏と沙代と呼ばれた少女はそれなりに親しい間柄のようだ。愚痴を言う七夏を沙代は慣れた様子で慰めながら、席を立って電子ポットへと向かった。
一方で七夏は、沙代が座っていたイスの横に腰かける。栞里と澪は顔を見合わせてから、七夏たちと対面になる位置に腰を下ろした。
沙代が人数分の湯呑みを用意している姿を尻目に、七夏は自分の胸の前に手を置いた。
「それじゃあまずは改めて、もう一度自己紹介から……私はこの間子葉高校の二年生、架空七夏。一応、このオカルト部の部長ってことになってるね。で、こっちは初めての紹介になるけど、今お茶を淹れてくれてるのが副部長の」
「宮姫沙代よ。よろしくね」
お茶を淹れながら、振り返って笑顔で言う。
「凪沢澪です。よろしくお願いします」
「花乃栞里。一五歳」
「う、うん? まあそりゃ入学したてだし一五歳だろうけど……」
(あはは……ここでも年齢主張するんだ)
教室での栞里の自己紹介を覚えている澪は、謎の年齢主張に心の中で苦笑した。
「はい、どうぞ。粗茶ですが」
「わ、ありがとうございます! えっと、宮姫先輩……?」
「ふふっ。沙代でいいわよ?」
「沙代先輩……」
大人らしい体つきもさることながら、上品で落ちついた雰囲気、優美な立ちふるまい、優美な仕草、美しく綺麗な微笑み。沙代はこの中で一番女性らしい魅力があった。
沙代からお茶を受け取った澪は、憧れの人でも見つけたかのように目を輝かせる。
「はい。栞里ちゃんもどうぞ」
「……どうも」
一方で栞里は、未だこのオカルト部という部活に対して胡散臭さが抜け切れずにいた。
少し失礼だとは思いつつも、つい素っ気ない態度を取ってしまう。
「ごめんなさいね。栞里ちゃんや七夏ちゃんの様子からして、たぶん七夏ちゃん、だいぶ強引に栞里ちゃんたちを連れてきたでしょう?」
「別に……どんな経緯であれ、話を聞いてみることに決めたのは私の意思だから。謝られるようなことじゃない」
「ふふ。そう。なら私は七夏ちゃんのお友達として、謝罪じゃなくてお礼を言うべきなのかしらね。七夏ちゃんを信じてくれてありがとうね、栞里ちゃん」
(……別に、七夏を信じてついてきたわけじゃないけど……)
七夏は栞里の写真を事前に確認してきていたり、未だその出処を明かさなかったりと、怪しいところ満載だ。
あからさまになにかを隠そうとしている輩を、そう簡単に信用できるはずもない。
どちらかと言えば栞里が信じたのは、澪の判断だ。
七夏の話を聞いてみてもいいんじゃないかと澪が言ったから、栞里もそんな彼女を信じて了承した。それが今の状況である。
「じゃ、自己紹介も終わったし、そろそろ本題に入ろっか」
全員に湯呑みを配り終えた沙代が元の席に戻ったのを確認すると、七夏がコホンと咳払いをした。
澪が姿勢を正すのに習って、栞里も一応背筋を伸ばした。
「まず勘違いされないよう初めに言っておくけど、この部活、オカルト部っていうのは単なる建前ね。私……ううん。私たち魔法少女の活動をカモフラージュするための、いわば表向きの立場でしかない」
「また魔法少女……」
ただの部活の勧誘だったなら話が単純で助かったのだが、やはりそういうわけにもいかないようだ。
「あいかわらず信じてないね、栞里ちゃん……でもいいよ。ここまで来てくれたなら人目もないし、証明するのはそう難しいことじゃないから」
「証明?」
「ま、それは後でね。まずはとりあえず私の話を聞いてほしいな」
「……わかった」
魔法少女など実在しない。いつまでもそう頭ごなしに否定していたって進展はない。
相手に話したいことがあるというのなら、聞き手に徹し、理解に尽力すること。きっとそれが、スムーズに話を進めることに繋がる。
数十分前廊下で言い争いをした時と違い、栞里が理知的に話を聞いてくれる様子を見て取ると、七夏は嬉しそうに微笑んだ。
「ね。栞里ちゃんは魔法少女って聞くと、どんなイメージが湧く?」
「どんなって……」
栞里は幼かった頃に見た魔法少女のアニメをうろ覚えで思い出す。
「……ひらひらした華々しい衣装を纏って、魔法を使って悪者を倒したり、人を助けたりする……純粋で幼い、正義の味方?」
「うんうん。良いイメージだね。私たちもね、魔法少女って名乗ってる通り、その栞里ちゃんの想像に限りなく近い存在なんだ。魔法を使って、人知れず悪いモノを退治する……それが魔導協会から私たち魔法少女に与えられてる主な仕事なんだ」
「魔導協会?」
「うん。あ、魔導協会のことも教えておかないとね」
聞き慣れない単語について、七夏は丁寧に教えてくれる。
「魔導協会は、魔法の存在を知る者だけで構成された秘密組織だよ。主な構成員は魔法少女と精霊と、あと魔法を知ってるだけの一般人。基本的に表立って活動するのは私たちみたいな魔法少女で、他は裏方とかサポートって感じかな」
「魔法はまだわかるけど、精霊って?」
「あなたが今朝捕まえて警察に連れて行ったっていうレッサーパンダのこと、覚えてる?」
「もちろん覚えてるけど……」
「あれが精霊だよ。魔法少女になれるだけの資格を持つ者がああいう精霊と契約することで、人は魔法少女になれるの」
――君、魔法少女に興味ないかい?
例のレッサーパンダが放っていた一言が栞里の頭をよぎる。
「あの子みたいな精霊はね、その人が魔法少女になれる資格を持つかどうかを見極めることができる力を持っているの。廊下で会った時に私、言ったよね? あなたにも魔法少女になれる資格があるって」
「うん……」
「この前のこの学校の受験の日にね。魔導協会の仕事の一環で、新しく魔法少女の資格を持ってる人がいないかって試験を受けに来た子全員を、あのレッサーパンダ……んー、レンダちゃんって言うんだけど、レンダちゃんが観察してたんだ。その時に見つかった資格を持つ者……それがあなたなの」
七夏はそこまで言うと、一旦湯呑みを口に傾ける。
栞里もそれに習うようにして、自分の湯呑みを口につけた。
「ふぅー……魔法少女の資格って言われてもよくわかんないと思うけどね。それに関しては私も沙代もよくわかってないんだ。そういうのって精霊にだけ見えるものらしくて」
「……そう」
「あはは、いろいろ一気に話しすぎちゃってちょっとついていけてない感じかな。それじゃあちょっとこの辺で、栞里ちゃんが気になってたことを教えておこうかな」
「私が気になってたこと?」
「私があなたの写真をどうやって確認したのか」
「……なるほど」
元はと言えばそれを確かめるために栞里は七夏の話を聞くことに決めたのだ。
「あれはね……魔導協会って結構裏の世界の影響力、みたいなものがあってね。その中でも特に学校って施設とは関わりが深いんだ。だから、入学希望者の写真を入手するくらいなら簡単にできるんだよ。あんまり面白味のない理由で申しわけないけど……」
「裏の影響力……ヤクザ的な?」
「ヤ、ヤクザ? ぶ、物騒なたとえだね……あながち間違ってないかもだけど……」
「間違ってないんだ……」
「あ、あながちね! あながち! こほん! は、話を戻すけど、栞里ちゃんはさっき言ったように新しい魔法少女候補だったからね。間子葉高校所属の魔法少女のリーダーとして、新しい魔法少女候補ってことで協会の方から写真を見せてもらってたの」
「……なるほど」
「まあ当初はレンダちゃんが勧誘する予定だったから私の方から向かう予定はなかったんだけど。誰かさんが交番になんて送り届けちゃったものだから急遽私がね」
「む。まるで私が悪いみたいに言わないでほしい。あれはあのレッサーパンダが怪しすぎたのが悪い。いきなり魔法少女がどうかか言われたら誰だって誘拐を疑う」
「誰だっては言いすぎだと思うよ!?」
適当に七夏をあしらいつつ、栞里は思索にふける。
とりあえず当初の目的であった写真の出処については聞き出すことができた。
魔法少女、魔導協会、精霊。
七夏の言うことが全部信じているかと言われれば口を閉ざさざるを得ないが、仮にすべて本当だったとするなら、写真の件で栞里がいくら騒いでも無駄であろう。
強大な権力を持つ組織を相手に下手に反抗したところで、栞里が損をかぶるだけの結果に終わることは想像に難くない。
無論、何度も言うようにまだ完全に信じているわけではないが。
「あ、そうそう。栞里ちゃんが警察に届けたあの子、レンダちゃんだけど、たぶん今頃学校に戻ってきてるところじゃないかな」
「え。実験施設とかに送られてるわけじゃなくて?」
「じ、実験施設って……えぇと、うん。魔導協会が手を回したからね。幸い大事には至ってないよ。さっきスマホに連絡も来てたし。もうすぐここにも来ると思う」
「また裏の影響力ってやつ? ……もしかして魔導協会って、悪の組織?」
「んー、見方によってはそうかもね。でも、あくまでそれは魔法の存在を知られないように……言い換えるなら、人を守るためにしていること。それだけは知っておいてほしいかな」
「魔法の存在を秘匿することが、人を守ることに繋がるの?」
「繋がるよ。魔法が知れ渡れば、当然世界は大騒ぎになる。そして、急激な変化は必ず多くの人を不幸にする。戦争を引き起こす火種にだってなりかねない」
栞里の目を真正面から見据え、至極真剣な顔で七夏は言い切った。
その覇気に、栞里はなにも言えなくなる。
「あとは……そうだね。魔導協会の活動方針について少し話しておこうかな」
七夏は少し気まずくなってしまった空気を解すように表情を緩める。
それから指を一本、二本と続けて立てた。
「魔導協会の主な目的は二つあるの。一つは今言ったように、魔法を知られないようにすること。そしてもう一つは、魔法の力で悪意の怪物を倒し、人の心の秩序を守ること」
「……? 魔法を知られたくないのに、魔法を使うの?」
「それ突かれると痛いんだけどねー……最初に言ったよね? 魔法少女は悪いモノを退治する存在だって。その悪いモノっていうのは、世界中に蔓延る悪意の塊……協会はヘイトリッドって呼んでるんだけど、それは魔法みたいに魔力を介した現象じゃないと干渉できないんだ」
だからしかたなくね、と七夏は肩をすくめた。
「……私は今まで生きてきて、そのヘイトリッドっていうの、一度も見たことがない」
「それは当然だよ。あれは魔力を通さないと見えないから。魔法少女なら目に魔力を集めれば見えるようにできるけど……栞里ちゃんは魔法少女になれる資格はあっても、まだ魔法少女じゃないからね」
「なら、次の質問。そのヘイトリッドっていうのは、そもそも退治する必要があるものなの?」
悪意の塊と表現するくらいなのだから、なにか悪いものだということはわかる。
だけど、それが具体的にどういう被害を及ぼすのかが明確になっていない。
「小さいうちは特に害はないかな。魔力を介さないと干渉すらできないように、ヘイトリッドは物理的な性質をほとんど持たないからね。でも、ヘイトリッドはお互いに集い、一つに合わさる性質があるんだ。そうして大きな力を持ったヘイトリッドは、人に寄生するようになる」
「寄生? 寄生……して、どうなるの?」
「悪いことした人が、よく魔が差したとか言うでしょ? ああいう状態にするんだよ。人の悪意を増大させて、誰かを傷つけたり、お金を盗んだり……命を奪ったりね」
「命……」
「もちろん、そういう行為のすべてがヘイトリッドのせいってわけじゃないよ。でも、ヘイトリッドがそういう悪意ある行動を助長しているのは紛れもない事実なの。だから少しでもその被害を減らすために、私たち魔法少女がヘイトリッドを退治する必要があるんだ」
「……」
(……魔導協会……魔法少女……ヘイトリッド)
……こんな話、根拠もなしに、とても信じられるようなことではない。
だけど魔法少女について語る七夏の顔は真面目そのもので、その目から一切の嘘や冗談が窺えないこともまた確かだった。
栞里には、魔法少女になることができる資格とやらがあるという。
そしてそれに目をつけた魔導協会という組織が、栞里を勧誘したがっている。
要約すると、これはそういう話だ。
(なんとなく話はわかった、けど……やっぱりこんなの、聞くだけじゃ到底信じられない。これ以上のことは、なにか決定的な証拠がないと……たとえば、そう――)
「そろそろ実際に魔法を見せてほしい、とか言い出しそうだね」
栞里が口を開くよりも早く、七夏が得意げに栞里の心の先を口にした。
栞里が素直に首肯すると、七夏は沙代に軽くアイコンタクトを送る。
それだけで沙代はなにかを察したようで、席を立ち、部屋の隅にある棚へと足を向けた。
そしてその棚の中で一際異彩を放っていた天秤ばかりを取ってくると、それを七夏の前に置く。
「……なにをするつもり?」
「ふふん。まあ見てて見てて。私のとっておきの魔法を見せてあげるから」
七夏は懐から、二つの小さな球体を取り出す。
見たところ片方がビー玉で、もう片方はそれと同じ程度の大きさの鉄球のようだった。
七夏が天秤のそれぞれにビー玉と鉄球を乗せれば、秤は当然、質量が大きい鉄球の方へと傾く。
「さて……ここからが私の魔法の見せどころだよ」
七夏が自信満々に天秤ばかりへと両手をかざし、ムッ! と眼力を込める。
その次の瞬間――それは起きた。
天秤ばかりとは、片方に質量を調べたい物体を置き、もう片方に質量が判明している錘を置くことで、物体の質量を測定する道具である。
ビー玉と鉄球を置いている今、鉄球の方に秤が傾いているのは、鉄球の方が質量が大きいからだ。
ビー玉や鉄球という物体を構成する要素を丸ごと取り替えでもしない限り、この結果は覆りようがない。
本来であれば、そのはずだ。
しかし七家が天秤ばかりに手をかざし間もなくして、秤が不自然に動き出す。
質量が大きいはずの鉄球の秤が持ち上がり、逆にビー玉の秤が下がっていく。
そしてその変化は、二つの秤がちょうど平行になる位置で停止した。
「……よし! ふふん、どう? これが私の魔法! すごいでしょ!」
七夏が得意げに胸を張る。
一方で、それを見せつけられた栞里はと言えば、ただただ困惑のままに七夏と天秤ばかりを交互に見た。
「……えっと……なにこれ?」
「ふっふっふ……見ただけじゃわからなかったかな? 私の魔法で、ビー玉と鉄球の質量を同じにしたの! それで秤が平行になったってわけ!」
「…………手品?」
「違うよ!? 魔法だよっ!」
「いや……でもこれ、どう見ても手…………あ、うん。魔法……だね?」
「そんな微妙な反応しないでよ!? ちゃんと魔法だから! 種も仕掛けもないの! ほ、ほら! 好きなだけ確かめてみていいから!」
七夏に促されるがまま天秤ばかりに近づいて、その周囲を観察したり、秤を触ってリしてみる。
見た感じ、糸や紐と言った変なものがついているわけでもない。
片方の秤を上から手で押してみれば、きちんと下まで下がって、手を離せばまた平行に戻る。
秤の上に置いてあったビー玉と鉄球も持ってみた。
(……本当に同じ重さだ……)
見た目はビー玉と鉄球で全然違うのに、右手と左手に持ったそれぞれの重量は確かに同じであるように感じられた。
(けど……)
なんというか、あっ! というような驚きがない。
魔法ではなくて、やはり手品を見せられたような感覚が抜けない。
それもそうだ。だって、秤に乗せられていたビー玉と鉄球の重さがほぼ同じだということがわかっただけである。
もし秤が激しく上下に動き始めたり、七夏の意思で自由に動き始めたりとかしたら、多少は魔法の可能性を疑ったかもしれない。
しかし実際は、二つの秤が同じ高さになっただけ。
この程度なら事前にビー玉や鉄球に細工をしておけばどうとでもなるのでは? なんて思ってしまうのは極々自然なことだ。
それほどまでに、変化があまりに地味すぎた。
「うぐぐ……そ、そうだ! 今ここで魔法を解除してみればいいんだ!」
栞里の反応があまりに微妙だったためか、焦った七夏が名案とばかりに手を叩く。
「いくよ? えい!」
「あ……」
「わ、わかった? 今、栞里ちゃんの手の中にあるビー玉と鉄球の質量が元に戻ったの! わかったよね!?」
「……なんとなく?」
確かに七夏が掛け声を上げた途端、ビー玉が軽く、鉄球の方が少し重くなったように感じられた。
しかしこうなってくると、今度はさっき重さが同じに感じていたこと自体が気のせいだったのではないかと感じられてくる。
元々、ビー玉も鉄球もどちらも指で摘めるくらいの大きさしかない。多少の重さの違いは感覚の誤差で片付けることができてしまう。
「な、なんとなくって……うぐぐ……事前にちゃんと解説しておかないのがダメだったのかな……よ、よし。それなら……」
いい? と、七夏は未だ芳しくないリアクションを取る栞里へと机越しに詰め寄った。
「これは《調和》って言ってね、私だけが使える特別な魔法なの」
「七夏だけの?」
「そう! この魔法はね、私の魔力が干渉した二つのものの力の大きさを同じにできるの! イメージ的には、足して二で割る感じね」
「……同じにしかできないの?」
「し、しかって……お、同じにするって結構すごいんだよ? 今回は質量にしたけど、他にもいろいろいじれるから応用の幅だって広いし!」
「そうなの?」
「そうなの! たとえば……えっと……あ! 片手で空振りのストレートを打ちながらもう片方の手でデコピンすれば、超強いデコピンとかできるよ!」
シュッシュッ! と唐突にシャドーボクシングを始める七夏。
それは普通にストレートで殴った方が早くなかろうか。
「あと、重い物を持つ時とか結構便利だったりするかな。近くの別の軽い物と重さを共有させて、重い方を相対的に軽くできるの!」
「なるほど。それはなかなか実用的」
「でしょ!? 他にもね、これを応用すると、甘い物食べすぎて太っちゃったかなって時とか体重を詐称したりできるんだよ!」
「……詐称?」
「うん! 重さを共有させるものは結構選ばないといけないけどね!」
「……」
「……え。な、なんでそんな目で見るの……?」
わざわざそれをたとえに出すということは、七夏はそれを実際にやったことがあるんだろうか……。
栞里に可哀想なものを見る目を向けられていることに気づいた七夏は、いたたまれなくなったように大きく咳払いをした。
「と、とにかく……! そんな感じでいろいろと便利なの! 役に立つの! 手品なんかじゃない、立派な魔法なんだよ!」
「そう……なんだ?」
「う、ううぅ……そうなんだよぉ! 疑問形やめてぇ! 傷つくんだよ私でもぉ!」
目元に涙を滲ませた七夏はそう叫ぶと、力尽きたようにガックリと机に突っ伏した。
さすがに泣かせるつもりはなかった栞里はどうしたらいいかわからず、思わずたじたじになってしまう。
そんな栞里に助け舟を出してくれたのは沙代だった。
彼女は栞里に優しく微笑んだ後、静かに席を立つと、七夏の湯呑みに新しいお茶を注いで、慰めるように彼女に差し出した。
七夏はその気遣いと湯呑みを遠慮なく受け取って、ゴクゴクと一気に飲み干す。
「ぷはぁ……うぅ。私の特異魔法って実は結構地味なんじゃっていうのは薄々思ってたけど……ここまで露骨な反応されると、さすがに凹むなぁ……」
未だ元気がなさそうに眉尻が下がっているものの、お茶のおかげで少しは調子を取り戻したようだ。
栞里は素直に頭を下げた。
「その……ごめんなさい」
「え? あはは、大丈夫だよ。こんな地味な魔法じゃ、そういう反応されてもしかたないし……別に気にしてない。そう、気にしてないから……」
「そ、そう……」
明らかに気にしていたが、本人が気にしてないと言うならそういうことにしようと思い、栞里はそれ以上口を挟むことをやめた。
「はぁ……でも、これじゃまだ魔法のこと信じてもらえないかぁ……沙代の魔法ならどうかな?」
「私? うーん、使うのは構わないけれど……私の魔法って、どう使えば魔法らしく見せられるかしら」
「あー、沙代の特異魔法って《模倣》だもんね。模倣元ありきだし、こういうのには向いてないか……」
どうすれば栞里に魔法の実在を信じてもらえるのかと、七夏と沙代は揃って頭を捻る。
「いっそのこと変身を見せてあげるっていうのはどうかしら。変身自体もそうだけど、変身状態なら補助具を使って他の魔法も見せてあげられるじゃない?」
(変身……)
眩い光とともに一転、華やかな衣装を身に纏い、魔法を駆使して舞うように戦う。
魔法少女に対する世間一般的なイメージと言えば、やはりそれだ。
七夏は今、高校の制服のまま魔法を使ってみせたが、どうやら変身という概念も存在しているらしい。
しかし変身はどうかという沙代の提案に、七夏はあからさまに嫌そうに顔を歪ませる。
「……変身って、私がするの?」
「そうね。七夏ちゃんは部長だもの。七夏ちゃんがするのが一番いいんじゃないかしら」
「……でも私、変身あんまり好きじゃないし……」
「そう? 私は七夏ちゃんの魔法少女衣装、結構好きよ?」
「私は嫌いなの! あんなもの私の中学時代の負の遺産だよ!」
ガタッ! と椅子を退けて、七夏が激しく拒絶の意を示す。
沙代は困ったように苦笑した。
「七夏ちゃんの気持ちはよく知ってるわ。でもね、もし今後栞里ちゃんと一緒に活動していくなら、結局見せることは避けられないと思うわよ? 遅いか早いかの違いじゃないかしら」
「それはそうかもだけど……うぅ。私じゃなくて、沙代の変身じゃダメなの?」
お願い! と、ねだるような上目遣いに、沙代はしかたがなさそうに肩をすくめる。
「そうねぇ。まあ、七夏ちゃんが嫌なら、無理強いはできないわね」
「じ、じゃあ!」
「ええ。七夏ちゃんの言う通りにしましょうか。ひとまずは、栞里ちゃんに魔法の存在を確信してもらうことが先決。そのためにも、ここで私の変身を見せて――」
「――ううん。その必要はないよ」
沙代が腰を上げかけた瞬間、この場にいる誰でもない別の声が部屋の中に響いた。
(この声……どこかで聞いたような……)
声がした方向、このオカルト部の部室の入口に目を向ける。
いつの間にか戸が人一人が通れる程度に開いていて、そこから一人の少女が顔を出していた。
とても幼い風貌の少女だ。この高校の制服を身に纏ってはいるが、その背丈は澪や七夏よりもずっと低い。せいぜいが小学校高学年程度しかないだろう。
銀と緑の二つの色が入り混じった、膝まで届きかねないほど無造作に伸ばされた髪は、ところどころが寝癖のように跳ねている。
なによりも異様なのは、前髪の隙間から覗くその瞳だ。
瞬きを一つするたびに、見る角度をわずかに変えるたびに、その都度、瞳の色彩が変化する。赤や青、黄色や緑、他にも無数の色が彼女の瞳の中に混在する。
「あら、レンダちゃん。こんにちは」
沙代が微笑んで挨拶をすると、少女は「うん。こんにちは」と同じく笑顔で返した。
(レンダ……七夏が言ってた、あのレッサーパンダと同じ名前? けど……)
今レンダと呼ばれた彼女は、どう見てもレッサーパンダではない。人間だ。
(いや……人間? ……本当に?)
確かに、人の形はしている。
けれど、なにか栞里の心が言い表しがたい違和感を訴えていた。
あまりに幻想的かつ、現実味のない――まったく別の生き物を前にしているかのような。
たとえば、そう。この少女の瞳の中に発生している、見る角度によって無数の色が混在して見える現象。
これは多色性と言い、本来、鉱石や宝石などに見られる性質だ。
まず間違いなく人間の瞳に見られるような特徴ではない。
「っ……」
レンダと呼ばれた少女は、訝しげな栞里と視線を合わせると、かすかにだが緊張したように肩を震わせた。
それから小さく深呼吸をすると、意を決したように足を踏み出し、とことこと栞里の方へとまっすぐに向かってくる。
「……」
「……」
栞里が座る椅子の目の前で、レンダと呼ばれていた少女はピタリと立ち止まる。
ただ見つめ合うだけで、どちらも口を開かない時間が続いた。
(……なにか、言った方がいいの?)
無言の時間が続き、そんな風に栞里が考え始めた頃に、レンダはホッと安心したように肩の力を抜いた。
「よかった……朝と違って、この姿なら問答無用で退治しようとしてきたりはしないんだね」
「朝と違って……?」
「あれ? もう七夏と沙代から聞いたんじゃないの?」
「……本当に、あのレッサーパンダなの?」
「やっぱり聞いてたんだ。君のことだから、聞いただけじゃ信じないと思うけど……これなら信じるでしょ?」
そう言ってレンダが指パッチンをすると、ポンッ! とレンダの姿が白い煙で包まれた。
突然の事態に目を見開くが、驚愕はそれだけでは終わらなかった。
煙が晴れると、そこにはもうレンダの姿はなかった。
いや、正しくは、そこにいたはずの少女の姿がなくなっていて、別のものがそこに現れたのだ。
そしてその別のものとは、レッサーパンダである。
大きさも毛色もなにもかも、今朝見たものとまったく同じ個体。それがいつの間にか栞里のすぐそばの床に立っていた。
これを手品と呼ぶには、あまりにも面妖すぎる現象。
魔法――その二文字が、栞里の頭をよぎる。
「もういっちょ!」
少女の時とまったく同じ声音でレッサーパンダが叫ぶと、再びポンッ! と煙が発生する。
そして次の瞬間には、さきほどいなくなったはずの不思議な外見の少女が目の前に立っていた。
「……これが、魔法?」
栞里が呆然と呟くと、レンダは口の端を吊り上げながら頷いた。
「そう、これも魔法。天秤ばかりがあるってことは、七夏の魔法も見せてもらったんだよね?」
「あの手品のこと?」
「え、手品……? ま、まあうん……一応、あれもれっきとした魔法だからね……?」
視界の端で七夏ががっくりと項垂れていたような気がしたが、今の栞里にそんなことを気にするほどの心の余裕はなかった。
(これが、魔法……? ……本当に……実在した……)
七夏の魔法を見せてもらった時は、まだ半信半疑だった。
いや、半分も信じていたか怪しいものだ。なにせあんまりにもしょぼかった。
だから冷静に反応も、会話もできた。
しかし一瞬にして動物と人間の姿を入れ替えるこの現象は、手品なんかでは説明がつかない。
栞里は半ば無意識に自分の頬を摘んで、ぐにーっ! と抓っていた。
だけど、その痛みの感触は紛れもない本物だ。夢なんかではない。
……どうやら、認めざるを得ないらしい。
「……わかった」
「わかったって?」
「魔法のこと。そして、魔法少女のこと。あなたたちのことを、信じる」
言葉を大切にすることが栞里の信条だ。一度口にした以上は、もう疑うことはない。
栞里の真摯な表情から、レンダたちもそれを察したのだろう。七夏と沙代、そしてレンダはそれぞれ顔を見合わせると、嬉しそうにその頬を緩めた。
魔法の存在を信じたということは、七夏が言っていた他のことも信じることと同義だ。
魔法少女、魔導協会、ヘイトリッド。
そういったものが確かに存在している。そして、栞里はその魔法少女にならないかと勧誘されている。それが今の状況だ。
栞里の近くに立っていたレンダは、上座の方に移動し、彼女の身長と比べると少し大きめなイスによじ登る。
そうして腰を落ちつけると、レンダは七夏の方を見た。
「七夏、栞里にはどこまで話してくれた? 変身を見せようとしてたってことは、それなりに話してくれてたとは思うけど……」
「えーっと、資格を持ってる子が精霊と契約することで魔法少女になれるってことと、魔法少女がヘイトリッドを退治する存在だってこと。あと、魔導協会の活動方針とかかな」
「ありゃ、もうだいぶ話してくれてたんだね。なら、続きの話は僕の方からさせてもらおうかな。七夏は元々、僕の代理で話してくれてたわけだしね」
レンダはそう言うと、栞里の方に向き直る。
「まず――」
「待って。次の話に移る前に、まだ一つ聞いておかなきゃいけないことがある」
「お? なにかな」
栞里が引き止めると、レンダは素直に耳を傾けてくれる。
栞里は七夏から、確かにおおよその経緯と事情は聞いた。
それどころか、魔法を行使するところまで実際に見せてもらって、魔法の実在を信じるまでに至った。
そこまではいい。理解できる。
栞里に魔法少女になれる資格とやらがあって、彼女たちは勧誘しにきた。自分たちの話を信じてもらうために、魔法の実在を確信してもらう必要があった。
だけどそうなってくると、どうしても一つだけ不可解なことがある。
「話を聞く限りだと、あなたたちにとって魔法は隠すべきもののはず。でも、それならどうして澪に同席を許したの? どうしてあなたたちはさっきから、私にだけ話をしているの?」
そう。栞里が不思議に思ったのは、澪の存在だった。
澪はここに来る前も、ここに来てからも、ほとんどずっと黙って事の成り行きを見守っている。
そしてそれに対し、七夏も沙代もレンダも、なに一つとして口出しをしていない。
それどころかまるで意に介さないように魔法の話をして、秘匿すべき魔法を見せることさえした。
いったいなぜなのか。彼女たちにとって、澪はいったいどういう立ち位置なのか。
……いや、本当はなんとなく栞里も予想がついていた。
だけど、きちんと確認を取っておかなければ次へは進めない。
「それは、わたしも魔法少女だからだよ」
答えたのはレンダでも七夏でも沙代でもなく、澪自身だった。
(やっぱり、そうなんだ)
栞里が確信めいた視線を澪へ送ると、澪は申しわけなさそうに目を伏せた。
「その、ね。わたし、七夏先輩や沙代先輩に会うのは今日が初めてだったけど、レンダちゃんとは以前にも何度か会ってるの。それで、その時に魔法少女にしてもらっててね……七夏先輩が説明してくれてたことだって、本当は全部知ってたんだ」
「……そうだったんだ」
「ごめんね、栞里ちゃん。ずっと黙ってて……栞里ちゃんはわたしを信じて、七夏先輩についていくことにも了承してくれたのに。こんな騙すみたいなことして……ごめんなさい」
自責の念からか、澪は段々と顔を俯かせていく。
一方で栞里は、澪の思わぬ落ち込み具合に栞里は目を瞬かせた。
栞里としては、今の質問はただ単に確認したかった以外の意図などなにもなかった。
騙されていただなんて、別に欠片も感じていなかったのである。
だから栞里は、澪を安心させるためにも、初めて会った時と同じように彼女の頭に手を置いた。
「栞里、ちゃん?」
「大丈夫、澪。私はなにも気にしてないから。むしろ、黙ってくれてて助かったかも。もし最初から澪が七夏と同じこと言ってたら、たぶん私、澪のことも七夏と同じ非常識な人扱いしてた」
「そ、それは確かに嫌かも……」
「あのー、私は別に非常識じゃないんですけどー。むしろ常識を考えてこっそり話をしようとしてたんですけどー」
七夏が不満げに茶々を入れてくるが、栞里は特に意に介さず澪の頭を撫で続ける。
「私は澪と仲良くなれてよかったと思ってる。だから大丈夫。澪と友達になれたこと、私は少しも後悔なんかしてないよ」
「……えへへ」
頬を染め、照れくさそうに笑みをこぼす。
いじらしい澪の様子に、栞里の胸がポカポカと温かくなった。
「……えー、こほん! ……そろそろ話を進めてもいいかな?」
「あ、うん」
「は、はい。ど……どうぞ!」
わざとらしいレンダの咳払いを受けて、栞里と澪は慌てて姿勢を正した。
もう特に確認したいこともない。素直にレンダの話に耳を傾ける。
「魔法少女がどういう存在か、七夏の方から大体は話してくれたよね。だからここからは、魔法少女そのもののの実態……魔法少女になることで、具体的になにが変わるかを知ってほしいと思う」
「魔法少女の実態……」
「これからの話を全部聞いて、その上で決めてほしいんだ。魔法少女になってくれるか、どうか」
「……」
「あ、もちろん断ってくれても大丈夫だからね。魔法少女の主な役割はヘイトリッドの退治……つまり、戦いだ。相手にしてもらうのはほとんどが小型のヘイトリッドだけど、それでも危険はあるから」
「……」
「……えっと、どうかしたのかい? なんかすごく意外そうな顔してるけど……」
「てっきり……」
「てっきり?」
「てっきり私は、無理矢理魔法少女になれって言ってくるかと思ってた。魔導協会って、そういう組織かと」
「……栞里……君は本当に疑り深いというか、警戒心が強いというか……」
やれやれと首を振るレンダの感想は嫌に実感が伴っていた。
実感もなにも、初対面で疑われまくって問答無用で鞄を叩きつけられたのだから、当然と言えば当然なのだが。
「七夏からも聞いたよね? 魔導協会の目的はあくまでも人の心の秩序を、ひいては世界の安寧を守ることだ。綺麗事だけじゃ世界は回らないし、そりゃあ魔法を秘匿するためなら悪どいこともちょっとはやったりするけどさ……少なくとも、嫌がる女の子を無理矢理戦わせるような外道じゃないよ。もしそんな組織なら、僕はとっくに離反してる」
「私もしてるねー」
「私もしてるかしら」
「わ、わたしも!」
「魔法少女がいなくなっちゃったよ……」
七夏、沙代、澪の順番で声が上がり、最後にレンダが呆れたように嘆息した。
「まあでも……そういうこと。七夏たちは皆、自分の意思で魔法少女になってくれたんだ。そしてその逆で、資格があっても魔法少女になりたくないって言った子たちにはちゃんと普通の生活を送ってもらってる。だから無理強いなんか絶対にしないよ。約束する」
「……なるほど」
七夏の話によれば、レンダは精霊と呼ばれる、人間とは根本的に異なるであろう人外の存在だ。
しかしこうして面と向かって話してみた限りでは、感性も良識も、なんだか普通の人間とあまり変わらないように思えた。
別に精霊の心のあり方を疑っていたわけではないけれど、誠実に話をしてくれる彼女をそばで見て、信用できると感じていた。
「さて、ここで一つ質問だよ。栞里。魔法少女は、どうして魔法少女なんだと思う?」
「……? 魔法を使う少女だから、魔法少女じゃないの?」
「そうだね。魔法を使う少女だから、魔法少女。その認識は間違ってない」
なにを言いたいのかわからず、栞里は首を傾げる。
「これがどういうことかって言うとね。魔法少女っていう存在は、少女……つまり、まだ成人していない女の子しかなれないんだ」
「成人してない女の子しか? どうして?」
「んー……これは僕たち精霊にしかわからない感覚だし、なんて言えばいいのかな……ほら、基本的に女の人より男の人の方が力が強いでしょ? それも、成長するに連れて顕著になる。どうしてかな?」
「……根本的に、男女で体の構造が違うから?」
「そうだね。これもそれと同じことなんだ。女の子しか魔法を使えるようにならないのは、心の構造的に当然のことなんだよ」
「……心の構造……」
そういえば七夏は、魔法少女の資格を見抜けるのは精霊だけだと言っていた。
精霊であるレンダには、なにか人とは違うものが見えているのだろう。
「思春期の女の子の心の形はさ、本当に不安定なんだよね。些細なことで影響を受けて、簡単に形が変化する。でもそれは逆に言えば、どんな形にもなれるってことでもあるんだ」
「どんな形でも……魔法を使えるようになる心の形や状態があるってこと?」
「栞里は勘がいいね。ご明察。君のように心が固まり切ってない未成年で、なおかつ特別な資格を持つ女の子の心に僕たちが触れることで、その子は魔法が使えるようになる……魔法少女になるってわけだ」
「……」
にわかには信じがたい話だが、精霊と魔法少女という存在は確かに今ここに実在しているものだ。
「ちなみに未成年の子しかなれないとは言ったけど、一度魔法を使えるようになったなら、その後は大人になっても魔法を使えるよ。だから協会には大人の魔法少女もいる。その逆の、大人になってから魔法少女になるのは無理だけどね」
「大人なのに、まだ少女って呼ぶんだ」
「魔法を使える状態に心が変化できるのは、少女と呼ばれる時期の間だけ。だから魔法少女。そういう考え方から名付けられたものだからね。あとはまあ、まとめて呼べた方がいろいろ楽でしょ?」
まあでも、とレンダは腕を組む。
「実際は、大人になると魔法少女呼びが恥ずかしいって嫌がる人もいっぱいいてね……広義では魔法少女の分類だけど、大人の魔法少女は区別する意味でも魔女って呼ぶことが多いかな」
「なるほど」
確かに、妙齢の女性が魔法少女を名乗る光景なんかを想像してみたら、痛々しいなんてレベルでは済まされない。
魔女ならまだ大人っぽい雰囲気があるし、全然マシだ。
「で、これが一番重要なことなんだけど……」
少し声色を重いものに変えて、レンダはじっと栞里を見つめた。
「実を言うとね……魔法少女になったら、元に戻れないんだ。だから一度魔法少女になったら、その後はずっと魔導協会の管理下で生きていくことになる」
「……」
一度魔法少女になってしまったら、もう戻れない。
それは確かに重要な事実だ。
魔法の存在を秘匿することも魔導協会の目的の一つなのだから、魔法少女を手放すわけにもいかなくなってしまうのも道理である。
「あ、でも今、ちょっと誤解されかねない言い方しちゃったかも……」
「誤解、って?」
「えっとね、管理下って言っても、ずっと魔導協会に監視されるとか、魔導協会の下で働かなきゃいけないとか、そういうわけじゃないんだ」
「そうなの?」
「うん。嫌になったら、いつでも魔法少女を引退して協会を離れたっていい。協会はそれを許してる」
「じゃあ、協会の管理下で生きていくっていうのは……?」
「あくまで住所とか電話番号とか、そういうのを常に協会が把握してるよってだけの話。定期的に調査が入るかもだけど……それ以上のことはなにもしないから安心して」
「……魔法をむやみに使ったり見せたりしなきゃ、自由に生きていいってこと?」
「そういうこと。医者にでも学校の先生にでも、なりたいものがあるなら自由になってくれて大丈夫。魔法を秘密にさえしていれば、協会はなにも口出しはしないから」
なるほど、と栞里は顎に手を添えた。
魔法少女になるかどうかは強制ではなく、本人の意思に委ねられる。
一度魔法少女になったら戻れないが、魔法少女になる道を選んだとしても、人生の選択権は残る。協会の方針に従って魔法を隠してさえいれば、普通に生きることもできる。
それを留意した上で、決めてほしいということだ。
「それじゃ、そろそろ聞いてみようかな。花乃栞里――君、魔法少女に興味ないかい?」
魔法少女に、なるかどうか。
「さっきも言ったように、無理強いはしない。戦うことが怖くなって引退する魔法少女だって結構いるんだ。そして引退したところで、一般人には戻れない……戦うことがなくなっても、ヘイトリッドを見ることができる力は決して消えない」
「……」
「それでも君は、魔導協会に入って、僕たちと一緒に戦ってくれるかい?」
その答えは、そう簡単に出せるものではなかった。
レンダもすぐに返答が来る用件ではないことは承知しているようだ。
栞里が答えを出すまで待っていると告げると、栞里に断りを入れて、七夏や沙代と軽い談笑を始める。
魔導協会の一員の中で、唯一澪だけはそちらには参加せず、ただ、不安そうに栞里を見つめていた。
(……どうするかな……)
魔法少女とは、七夏いわく、世界中に蔓延る悪意の塊、ヘイトリッドを退治する存在だ。
もし魔法少女になることを選んだ場合、栞里も当然、そのヘイトリッドと対峙することになる。
実際に見たことがない栞里には、ヘイトリッドがどういうものなのか、まだよくわからない。想像すらできない。
だけど戦いだ。ヘイトリッドの人に寄生するという性質から鑑みても、必ず危険が存在する。
(それに……)
魔法の存在が秘匿されるべきである以上、魔法を使う魔法少女もその対象だ。
それはつまり、どれだけの恐怖に耐え忍んで戦い続けたとしても、助けたはずの誰からも感謝されないということでもある。
人知れず人を守る。言うほど簡単なことではない。
どんなに世のため人のために尽くしたところで、その功績が公に讃えられることはない。誰に認められることもない。
(でも、七夏や沙代……そして澪は、その道を自分で選んだ)
栞里はずっと自分に視線を向けている、澪の方へと顔を向けてみる。
視線が合いそうになると、澪は取り繕うように慌てて顔を伏せた。
ただそうした後も、時折気づかれないように、ちらちらと栞里の顔を覗いてきている。
……気づかれないようにというか、全部バレバレだけど……。
(……澪は)
澪はたぶん、栞里に自分と同じ魔法少女になってほしいと思っている。
だけどそれはあくまで栞里が決めることだと。そうも感じているのだろう。
自分に気を遣って魔法少女になろうとするだなんて、そんなことだけは絶対にないように。
そう思っているからこそ、彼女は今、決して栞里と目を合わせようとしないのだ。
……まあ、そんな気持ちも全部栞里には筒抜けなのだが。
「……いくつか聞きたいことがある」
澪から視線を外し、栞里がレンダに言葉を投げかけると、彼女は七夏たちとの会話を打ち切って姿勢を正す。
「なにかな?」
「あなたは初めて私と顔を合わせた時、『今なら期間限定でスペシャルにプレミアムな魔法少女に』って言ってた。あれはどういうこと?」
「へ? あ……え、質問そこ? うん、っと……その、そ、それはねぇ……」
なぜか突然あたふたとし始める。
なにかやましいことでもあるのかと栞里が訝しげに睨むと、見かねた七夏が呆れ混じりに答えてくれた。
「そんなのないよ。全部嘘。口からでまかせ。大方、栞里ちゃんの気を引こうと思ってテキトーなこと言ってたんじゃないかな」
「い、いや、そんなことは……ない、こともないんじゃないかなぁ?」
「つまり、そんなことあるんだね」
じとーっとした七夏の視線にレンダは言葉を詰まらせた後、いじけたように口を尖らせた。
「むー……だって七夏、聞いたよ僕。人間って期間限定とかプレミアムとか、そういう単語に弱いんだって。ああ言えば前向きに検討してくれると思ったんだよ」
「実際は話も聞いてもらえず鞄叩きつけられたんだっけ? ふふ、それで私が勧誘に行く羽目になったんだもんね。聞いた時さすがにちょっと笑っちゃった」
「笑いごとじゃないよ……あれ、僕の一生モノのトラウマだよ……」
ぶるぶると体を震わせるレンダ。
最初この部屋に入ってきた時に栞里を見て一瞬ビクッと肩を震わせていたことといい、冗談抜きで恐ろしい出来事だったらしい。
ちょっと申しわけなく感じる栞里だったが、栞里の中ではあれがあの場での最適解だったため、特に謝罪とかはしなかった。怪しい方が悪いのである。
「なら、二つ目の質問。もしこの話を断ったら、魔法の存在を知ってしまった私はどうなるの?」
「別にどうもしないよ。今日ここで見たこと、話したことを黙ってさえいてくれればね」
誰かに話したらどうなるかは聞かないでおく。別に口外するつもりもないのだし。
「三つ目。この学校に七夏と沙代、澪以外に魔法少女はいる?」
「魔女が一人。あとは魔法少女ではないけど、事情を知る大人が何人かかな。未成年の女の子しか魔法少女になれない以上、そういう子たちが通う学校という場所は魔導協会にとっても重要だからね。実を言うと結構裏で繋がってるんだ」
「四つ目。魔法少女になれば、本当にヘイトリッドと戦えるようになるの? 七夏の魔法はそんなに強そうに見えなかった」
「なんか今日私の魔法、酷評されまくってるんだけど……」
七夏はもはや落ち込むのも疲れた虚無の表情をしている。
沙代はなにも言わずそんな七夏の背中をポンポンと叩いていた。
「七夏の魔法は地味なだけで結構強いんだけどねぇ……それはともかく、七夏が使ってみせたのは特異魔法って言って、普通の魔法とは少し違うんだ」
「得意魔法?」
「特異魔法。特別の特に、異質の異ね。簡単に言うと、魔法少女個人個人が持つ固有の魔法だよ」
「そんなのあるんだ」
「魔法少女になれば栞里も使えるようになるよ。それ以外にも変身もできるようになるし、変身状態なら他の普通の魔法もある程度使えるようになる。なんなら普通の魔法だけでも、そんじょそこらのヘイトリッドには遅れを取らないよ」
「なるほど」
最悪、七夏が見せてくれたような魔法一つで戦わなくちゃいけないことも想定していたが、そういうわけでもないようだ。
栞里が黙り込んだのを見て、レンダはこてんと小首を傾げる。
「……これで質問は終わりかな?」
「ひとまずは」
「なら、そろそろ答えを聞かせて……っとと、急かすのはよくないね。本当なら何日か考えてから答えをもらうような話だ。実際に日を改めてもらっても構わないけど……どうする?」
「大丈夫。ここで答えを出す」
「ん、了解。じゃ、考えがまとまったら教えてね。それまでいくらでも待ってるから」
言っていた通り、無理に勧誘はせず、あくまで栞里の出した結論を尊重するようだ。
栞里はあまり人付き合いが得意な方ではない。レンダにはろくに話も聞かずに初手で鞄を叩きつけたし、七夏は非常識人扱いしてしまった。
けれど皆、そんな栞里に根気強く話をして、一緒に頑張ろうと手を伸ばしてくれている。
レンダも七夏も、沙代も澪も、皆、良い人ばかりだ。
彼女たちと同じ存在となり、肩を並べて戦うことは、他のどんなものにも代えがたい経験になる気がした。
……しかし。
「……ごめんなさい。私は魔法少女にはなれない」
最終的に、栞里はそう言って頭を下げた。
そういう返事も聞き慣れているのだろう。レンダは少し落胆しながらも、しかたがなさそうに首を左右に振った。
「そっか……残念だけど、それが栞里の選択なら受け入れるしかないね。一応、理由を聞いてもいいかな」
「高校に入ったら、ずっとやりたいって思ってたことがある。中学の時は校則でできなかったけど……ここなら許可を取ればできるから」
「……? えっと、そのやらなきゃいけないことって?」
「それは……恥ずかしくて言えない」
「あ、そう……なの?」
もとより栞里は表情の変化に乏しいが、恥ずかしいと言う割になんの変化もない真顔だったので、答えるレンダも疑問形だった。
(中学の時はできなくて、高校に入ったらできること……? 部活、じゃないよね。許可が取れれば……って?)
一方で澪は、栞里が語る魔法少女になれない理由について、なにかが頭の中で引っかかっていた。
こうして引っかかるということは、これまで見た栞里の言動になんらかのヒントがあった……ということだろうか。
そんな風に感じた澪は、今日、栞里と出会ってからの出来事を一つずつ振り返ってみる。
(レンダちゃんを警察にお届け……初対面で頭撫でてもらって……栞里ちゃんも卵焼きが好きなんだっけ。あと栞里ちゃんは一五歳で……)
まだ一日にも満たない付き合いだが、思い返すと変なことばかりだった。
(家が学校から近くて……それから、お金は大事って急に真面目な顔で語り出して……あっ)
お金が大事。
栞里がそう語った場面が頭の中に浮かんだ瞬間、中学ではできず高校では許可を取ればできることについて、一つの予想が澪の中に生まれた。
そしてもしも澪のこの予想が正しいのだとすれば、ただ一つの事実を伝えてあげるだけで、栞里の断る理由はなくなるはずだった。
その一つの事実とは――。
「あの、栞里ちゃん。魔法少女の活動は、ちゃんとお給料もらえるよ?」
「魔法少女は素晴らしい職業だと思います。ぜひ私もなりたい。ヘイトリッド死すべし」
レンダが伝え忘れていただろうことを澪が耳元でこっそりと教えてあげると、栞里は即座に手のひらを返した。まさしく一瞬の出来事であった。
心変わりがあまりに早すぎてレンダが椅子から転げ落ちそうになっていたが、まあ些細なことであろう。
(あはは……栞里ちゃんが言ってたのって、やっぱりアルバイトのことだったんだ……)
新しい友人は、思っていたよりもお金にがめつかった。
(でも……ちょっとだけ安心したかも)
七夏や沙代も澪と同じ魔法少女だが、あくまで彼女たちは先輩だ。
本音を言えば、対等に付き合える相手がいなくて澪は少し不安だった。
でも、栞里が一緒なら。
あの時――廊下で七夏に声をかけられる直前。
澪が栞里を、お昼ご飯に誘った時。
栞里は、外食はダメだけれど、家で一緒にご飯を食べようって言いかけてくれていた。
ほんの些細なことかもしれないけれど、あの時、澪は本当に嬉しかったのだ。
だから澪は、栞里以外の他の誰にも気づかれないように、そっと栞里の手を握った。
どうしたの? と視線で問いかけてくる彼女に、よろしくね、と澪は笑って返す。
栞里はパチパチと目を瞬かせた後、ほんのわずかに微笑んで、澪の手を握り返した。
それが、澪が初めて見た栞里の笑顔だった。
「では、この文を金森さん、お願いします」
黒板にチョークが走る音。その文字を、ノートにペンでなぞる音。ろくに話したこともないクラスメイトが、教科書を朗読する声の音。
そのすべてをバックグラウンドミュージックのごとく聞き流しながら、栞里は一人、ぼーっと考え事をしていた。
その考え事とは、魔法少女のことだ。
つい先日、栞里は魔導協会からの熱烈な勧誘の果てに、ついには魔法少女となることを決意した。
元々栞里は高校に入ったらアルバイトを始めようと思っていた。だから当初こそ拒む姿勢を見せたものだけども、魔法少女としての活動もちゃんと給料がもらえるのであれば断る理由はない。
もちろん、お金だけが理由ではない。
世のため人のために尽くす、立派な奉仕の精神もちゃんとある。
ちゃんとあるけれども……やっぱり世の中、お金も大事なのである。
(……古本紡木先生。あの人も魔法少女……魔女なんだっけ?)
この学校には澪と七夏、沙代の他にあと一人、魔女がいる。
そしてその最後の一人とは、栞里と澪のクラスの担任である紡木であったらしい。
聞くところによると魔導協会は、おおよそ学校一つにつき一人、教師役の魔女を送り込んでいるそうだ。
そして魔法少女やその資格がある新入生が現れた場合には、その子たちを同じクラスにし、教師を兼任するその魔女が担任の先生となるよう、クラス編成を操作しているらしい。
この間子葉高等学校でも、魔法少女である澪、そして魔法少女になれる資格があった栞里が同じクラスになっているのだから、例に漏れずと言ったところだ。
しかも、だ。
隣で真面目に授業を聞いている澪を、栞里は横目で盗み見る。
しかも、五十音順に生徒を並べると二人の席が隣同士になるようにも調整されていた。
花乃栞里。凪沢澪。ハ行とナ行は隣同士だから、こういう席順になっても不自然はない。
偶然である可能性もあるが、まあ故意であろうと栞里は結論づけている。
クラス編成は魔法少女をまとめて管理するためだとしてまあ良いとしても、席を隣同士にするためだけに権力を使うのは、少々しょうもないという面が否めない
とは言えそれが澪と仲良くなるきっかけでもあったから、その点については栞里は魔導協会に感謝をしていた。
「チャイムが鳴りましたね。今日はここまでにします。起立、礼」
昨日と同様に紡木の号令で授業は終了し、教室内が騒がしくなり始めた。
今の国語の授業が昼休み直前の四時間目だったので、これから昼休みだ。
「ね。栞里ちゃんって、もしかして頭いいの?」
栞里が教科書とノートを机の中にしまっていると、澪がこてんと小首を傾けて問いかけてきた。
「どうして?」
「今日の授業中、なんだかずっと上の空みたいだったから。これくらいなら勉強する必要もないくらい頭がいいのかなーって」
「……」
授業を聞いていなかった不真面目さを、ここまで好意的に捉えてくれるとは……なんと純粋で良い子なのだろうか。
栞里は思わず、よしよしと澪の頭を撫でていた。
澪はちょっと困ったように苦笑いしつつも、栞里の手を払い除けたりはしなかった。
「頭がいいかどうかはわからないけど、まだ中学の復習の範囲だから問題ない。全部覚えてる」
「わっ、すごいなぁ栞里ちゃん。わたし結構忘れてたよー」
「上の空に見えたのは、考え事をしてたからだと思う」
「考え事……? あのね、栞里ちゃん。余計なお世話かもしれないけど、もしなにか悩みがあるなら相談してね。わたしにできることなら力になるから」
「……」
「あ、あれ? また頭撫でられた……」
真面目に授業を聞き、他人の言動を好意的に捉え、些細なことでも人を気遣うことができる。
絵に描いたような良い子だ。
一方で自分はどうだろう、と栞里は自問自答してみる。
まず、授業は完全に聞き流していた。マイナス一点。
そして昨日七夏が最初声をかけてきた時、栞里は好意的に捉えるどころか、彼女の話を冗談だと決めつけて信じていなかった。マイナス二点。
最後に人を気遣う心だが、栞里が魔法少女になることを決めた最後の要因は、人を思う奉仕精神とかではなく給料である。マイナス三点。
まごうことなき悪い子であった。
自分はいったいいつからこんな不良娘になってしまっていたのだろうか。
悲しい現実に栞里は打ちひしがれる。すぐ立ち直るが。
「ねぇ、栞里ちゃん。一緒に食堂に……」
澪の言葉が途中で止まる。
それというのも、栞里が弁当箱を取り出しかけていたからだろう。
「あ、えっと、やっぱりなんでもない。あはは……わたしは食堂に行ってくるね。お弁当持ってきてないし、学食頼まないと」
「待って。私も行く」
「え? でも」
「食堂でお弁当を食べればいいだけだから。私は澪と一緒にお昼を食べたい」
「……えへへ。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
弁当箱を持って、嬉しそうに頬を緩ませた澪と一緒に教室を出た。
食堂に向かう道中で、ふと思い出したように澪は声を上げる。
「そういえば栞里ちゃん、入部届ってもう出した?」
「出した。澪は?」
「出したよー」
七夏や沙代が所属しているオカルト部は、魔法少女の活動を誤魔化すためのカモフラージュの一つだそうだ。
魔法少女になるのなら、オカルト部に入部しなくちゃいけない。
ちなみにオカルト部の役職としては、部長が七夏、副部長が沙代。顧問が古本紡木。そしてレンダは、紡木が預かっている子ども……という設定のようだ。
「そういえば入部届を渡した時、まずは相手の話をちゃんと聞きましょうね、って紡木先生に言われた。あれはなんだったんだろう」
「あはは……レンダちゃんを回収するために裏から手を回したのはたぶん古本先生だからね。ほら、栞里ちゃんが警察に送り届けたって言った時、慌てて教室を出ていったでしょ?」
そういえば、と栞里は遅刻した理由を話した時のことを思い出す。
栞里がレンダの話を一切聞かずに気絶させて警察に届けたものだから、そのことを入部届を出した際に軽くお説教されていたらしかった。
「紡木先生は、この学校の魔法少女と精霊の監督者でもあるんだって。だからわたしたちみたいなヘイトリッドの退治じゃなくて、別の特別な役割を協会から与えられてるの」
「特別な役割?」
「わたしたちの働きを記録したり、わたしたちの代わりに情報の規制や隠蔽に動いてくれたり。協会にはそういう裏方専門の部隊もあって、古本先生はわたしたちの監督者でもあると同時に、その部隊のリーダーでもあるの」
「なるほど……」
魔法少女がヘイトリッドを退治し、その裏方専門の部隊とやらが痕跡を抹消する。
そして監督者はその二つの間を取り持ち、管理する存在。
「魔導協会……か」
「すごいよねぇ。学校だけじゃなくて警察とかにも顔が利くし……いったいいつ頃からあるのかなぁ」
「澪も知らないの?」
「うーんと……実は、わたしも二、三週間くらい前に魔法少女になったばかりでね。詳しいことは知らないんだ。ヘイトリッドの退治だって、まだ一度もしたことないし……」
「え? そうだったんだ」
てっきり中学に通っていた頃くらいから魔法少女をやっていたのだろうと思っていた栞里は、目を瞬かせた。
「わたし、ちょっと不安だったんだ。ヘイトリッドの退治だなんて怖そうなこと、わたしなんかにうまくやっていけるかどうか……だからね、栞里ちゃんも魔法少女になってくれて、すごく心強いなって思ったの。ありがとうね、栞里ちゃん」
「それは私が私のために決めたことだから、礼を言われるようなことじゃない……けど」
「けど?」
「どういたしましてって、言っておく」
「そっか。えへへ……栞里ちゃんは、いつもわたしが嬉しいって思う言葉を言ってくれるね」
はにかんだような笑顔は、可憐な花が咲いているかのようだった。
そうこうしているうちに食堂につき、澪はお昼買ってくるね、と栞里から離れていった。
一足先に席を確保し、弁当箱の包みだけ解いて、箱は開けずに澪を待つ。
すると背後から声をかけられた。
「いやー、二人とも昨日会ったばっかりって聞いたけど、なんだかすごく仲良さそうだったね」
振り向けば、食事が乗ったトレーを持った七夏が挨拶するようにひらひらと片手を振っていた。
反対側いい? と聞いてくる七夏に栞里が頷くと、七夏は栞里の対面に腰を下ろした。
「見てたの?」
「うん。一緒に食堂入ってきてたよね? 仲睦まじくていいなーって思いながら見てたよ」
「……仲、良さそうに見えたんだ」
「あれ? 違った?」
「違うなんてことはない。断じて」
「そ、そう? それならいいけど」
無表情のまま、ずいっ! と勢いよく顔を寄せてきた栞里に、七夏は「おおぅ……」と少し気圧される。
「まあその、なんて言うのかな。澪ちゃんもそうだけど、私は栞里ちゃんのことも結構気に入ってるからね。へへ。今後の活躍にも期待してるよ、新米魔法少女ちゃん」
「……意外」
「へ? なにが?」
「七夏は私のこと、嫌ってるかと思ってた」
「え? なんで?」
「なんで、というか……」
「……もしかしてそっけない態度ばっかり取っちゃってたこと、気にしてるの?」
「……」
図星を突かれて栞里が黙り込むと、七夏はぷふっと吹き出した。
「ふ、ふふっ、あはは! 栞里ちゃんも結構可愛いところあるんだねぇ」
「……別に可愛くはない」
「大丈夫大丈夫。あんなことで栞里ちゃんを嫌いになんてならないよ。ふふふ……そっかー。栞里ちゃん気にしててくれたんだー」
「……」
コロコロと頭を揺らし、まるで微笑ましいものでも見るかのような七夏の目に、栞里は知らずしらずのうちに口を尖らせていた。
「なんていうか、不器用なんだね。栞里ちゃんは」
「む……心外。裁縫は得意。超得意」
「いや手先の器用さじゃなくて」
「なんだか楽しそうね、二人とも」
と、談笑する二人に声をかけてきたのは沙代だ。
「お。沙代ー、隣空いてるよ」
「ええ。ありがとう七夏ちゃん」
「……そのお弁当、一人で食べるの?」
沙代は栞里と同じで弁当を持参しているようだ。ただ、その容器が少しばかり目を引いた。
三段の重箱。学校に持ってくる弁当箱にしては珍しく、見るからに量も多そうだ。
沙代はかすかに朱に染まった頬に手を当てる。
「ふふ……お恥ずかしい話なのだけど、私、これくらい量がないと満足できないの」
「沙代はいつも重箱だよ。しかも全部自分で作ってるんだって」
「これを自分で……? ……中、見せてもらっていい?」
「もちろん大丈夫よ。はい」
沙代が蓋を取ると、カラフルな料理たちが顔を出す。
きんぴらごぼう、黒豆、栗きんとん。焼き物や煮物もあり、三段目の箱には赤飯が詰められていた。
「おせち料理みたいだよね」
「むむ。これを毎日……沙代、すごい」
「ふふ、お褒めに預かり光栄だわ」
「はぁーあ。こんなに食べてるのに、なーんで沙代は太らないんだろうね。その栄養どこに行ってるのかなー」
わざとらしくそう漏らす七夏の視線は、恨めしげに沙代の豊かな双丘に注がれている。
そんな七夏と、ちょっと困ったように笑う沙代を見比べて、ふーむ、と栞里は顎に手を添えた。
「七夏は、胸が小さいの気にしてるの?」
「んぐっ。い、いや、別にそういうわけじゃ……」
「確かに、女性の成長期は高校一年生くらいまでで、七夏はもう二年生だから少なくとも身長の成長は絶望的だけど、胸なら一応まだ希望がないわけじゃない……と思う。たぶん……だから元気出して」
「それなぐさめてくれてるんだよね? そんな言い方じゃ元気出ないからね!?」
「……正直」
(正直、今の時点でその大きさじゃ……)
一瞬言いかけてしまったものの、栞里は直前で首を横に振った。
「……いや、なんでもない」
「なんでもないの? 本当になんでもないのっ?」
「…………」
「そこで目をそらさないでよ!? 不安になるじゃん! うぅー……! 紗代ー、栞里ちゃんが私をいじめるよぉー!」
うわぁーん! と涙目で机に突っ伏す七夏を見て、沙代は難しい顔で唸った。
「でも七夏ちゃん、大きくてもそんなにいいことなんてないわよ? 重くて肩が凝るし、蒸れるし、あと寝る時に結構邪魔で……昔はもっと気が楽だったのに、今後一生このままかと思うとちょっと嫌になっちゃう」
「そんな現実的な話をしてるんじゃないの! 男の子がヒーローに憧れるように、胸が大きいのは女の子のロマンなんだよ!」
「えっと、そう言われても私にはわからないけれど……そうなの? 栞里ちゃん」
「七夏はきっとそう思い込まないと正気を保てないの。そっとしておいてあげた方がいい」
「栞里ちゃんそっけない態度取ってたこと気にしてた割にまだ私への態度厳しくない!?」
そんなこと言われても、だって栞里は別に胸が大きくなりたいと思ったことはない。
残念ながら七夏の味方ができるほど理解が深くないのである。
「栞里ちゃん、お待たせー!」
七夏が負けじとなにか言いかけたところで、栞里の待ち人が戻ってきた。
栞里が隣の席を勧めると、澪は小さくお礼を言って、ちょこんとそこに腰を落ちつけた。
「沙代先輩たちも一緒なんだね。こんにちはー、です」
「こんにちは、澪ちゃん」
「こんちはー……」
「……七夏先輩、ちょっと元気ない? なにかあったんですか?」
「……」
……七夏の視線は完全に澪の胸に向いている。凝視だ。
七夏は自分と同じくちんまりとした澪の胸を見ると、少し安心したようだった。
「うぅ、私の味方は澪ちゃんだけだよー。お互い強く生きていこうね」
「……? はい!」
なんだかよくわからないという顔をしつつも、先輩を立てて元気に首を縦に振る。澪はまごうことなきいい子であった。
その後、澪は沙代の重箱を見ると、わぁ、と感嘆の声を上げた。
それを沙代の手作りだと七夏が説明すれば、「すごい!」と、栞里とまったく同じ感想を漏らす。
「あ、そういえば栞里ちゃんもお弁当だったよね。栞里ちゃんはどんなお弁当なの?」
「ん。こんなお弁当」
栞里も弁当箱の蓋を外す。
ご飯とおかずでそれぞれ分けられた二段の弁当箱で、一つ一つ丁寧に作られたおかずは見る者の食欲を誘う。
沙代のように華やかではない、至って普通の弁当ではあったが、ある一つの献立だけ異様に量が多く、澪の目を引いた。
「これって……」
そしてその量が多い献立とは、卵焼きだ。
一つの弁当箱のおよそ半分を埋め尽くしている。
「澪、甘い卵焼きが好きって言ってたから。いっぱい作ってきた。できれば食べてほしいって思って」
「……いいの? 栞里ちゃん」
「うん。ぜひ」
澪の箸がゆっくりと伸びる。
最初は一番大きい卵焼きを選ぼうとして、そこから遠慮したのか一番小さい方に箸先が行きかけて、でもやっぱり量が多い方が嬉しいのか、最終的には中くらいのサイズの卵焼きを摘んだ。
「……おいしい」
初めは咀嚼するだけでとても静かだったが、味わった卵焼きが喉を通ると、澪はぽつりとそう漏らした。
「栞里ちゃん、これすっごくおいしい!」
「本当?」
「うん! 甘くて、安心する味……これ、もう一つ食べてもいい?」
「もちろん。好きなだけ。澪のために作ってきたから」
「ありがとう、栞里ちゃん!」
ぱあぁ! と輝いているかのような屈託のない笑顔に、栞里の心もポカポカと温まるようだった。
「いやぁ、微笑ましいねぇ」
「そうね。七夏ちゃんも私のお弁当、一段食べる?」
「一段もいらないって……でも、私も卵焼きだけもらおうかな。見てたら食べたくなってきた」
「うふふ。どうぞ」
魔法少女と言えど、今はただの高校生だ。
なんてことのない日常が緩やかに過ぎていく。
しかしそれも、すべての授業が終わるまでの話。
放課後になれば、部活動と称した魔法少女としての活動が始まるのである――。
「魔法少女の活動は、基本的にパートナーを組んでやるんだ。一人じゃ予期しないトラブルがあった時とか危ないからね」
オカルト部――魔法少女としての活動の隠れ蓑として作られた部活だ。
そのオカルト部の部室で、計四人の魔法少女の顔を見渡しながら、レンダが魔法少女の活動について軽く説明をする。
今はもう放課後で、これから栞里の初めての魔法少女活動が始まるところだ。
「だから原則として行動は常に二人一組。もしも一人で力のあるヘイトリッドに遭遇することがあっても、絶対に戦っちゃいけない。合流が最優先。これを肝に銘じておいてね」
「はい!」
元気よく返事をする澪を見て、レンダはうんうんと機嫌よさそうに頷いた。
「いずれは栞里と澪で正式なパートナーを組んでもらうつもりだけど、まだ二人とも経験が浅いからね。しばらくは七夏と沙代、先輩二人のどちらかと組んでもらうことになる」
「よろしくねー」
「ふふ。よろしくね、栞里ちゃん。澪ちゃん」
「こちらこそよろしくお願いします!」
「よろしく」
食堂で一緒に昼食を食べたこともあり、四人はずいぶんと打ち解けていた。
レンダも彼女たちの漂う空気が昨日と比べて緩んでいることに気づいたのか、安心したように頬を緩めた。
「じゃ、とりあえず今日は七夏と栞里、沙代と澪で別れて活動しようか。明日はその逆で沙代と栞里、七夏と澪ね」
「了解ー」
「わかったわ」
「二人とも、魔法少女の戦い方とか心得とかちゃんと教えてあげるように。じゃ、活動開始ー!」
レンダは号令を終えると、ふにゃふにゃと机の上に崩れ落ちた。
机に上に顎を乗せて、全身の力を抜いて、だらーっとし始める。
「おーい栞里ちゃーん、行くよー」
「……レンダはあれでいいの?」
「え? あー、レンダちゃんは仕事する時はそこそこ真面目だけど、普段は結構怠け者だから。日向ぼっことか好きなんだって」
「心外だなぁ。僕は怠けてるんじゃなくて、目一杯休んでるだけだよ。ほら、例の事件で最近物騒だろう? ここ数週間はその調査で働き詰めでさー……僕にとっては今は休憩時間だし、好きにだらけたっていいじゃないか」
「だってさ。まあ本当にサボってたら紡木ちゃん……あー、古本先生が叱るだろうし、私たちは私たちのやるべきことをやろっか」
「わかった」
例の事件、とやらが少し気になったものの、今から魔法少女としての初活動が始まるのだ。余計なことを考えるのは集中力の低下に繋がる。
また機会があれば聞けばいいだろうと心に留めつつ、七夏に続いて部室を出た。
部屋の外では先に出ていた沙代と澪が待っていた。
「七夏ちゃん。澪ちゃんはヘイトリッド退治は未経験だけど知識はあるから、私たちは校外に見回りに行こうと思うわ」
「お、じゃあそっちは任せようかな。私と栞里ちゃんは学校の敷地内でも見て回るよ」
「そうなると、明日は私と栞里ちゃんが外で、七夏ちゃんと澪ちゃんが学校の敷地?」
「だねー。二日も外の見回り任せちゃって悪いけど」
「いいのよ。じゃ、行ってくるわね」
「うん。澪ちゃんも、なにかあったら遠慮なく沙代を頼るんだよ」
「はい! 行ってきます!」
栞里ちゃんもまた! と手を振って去っていく澪と沙代に手を振り返す。
二人の姿が見えなくなると、さてと、と七夏が栞里の方に向き直った。
「私たちも行こうか」
昇降口方面へ進んだ沙代たちとは逆の方へ、栞里と七夏も歩き出す。
いったいどこへ向かうのか、ヘイトリッドは校内にも存在しているのか、どうすれば見つけることができるのか。
栞里はいろいろと聞きたいことはあったが、そんなことは七夏も承知の上だろう。
歩き始めて間もなく、七夏は説明を始める。
「ヘイトリッドは世界中に蔓延る悪意の塊だって前に言ったけど、それだけじゃわからないことも多いよね。たとえば、どうしてヘイトリッドは世界中に存在するのか、そもそもどうやって生まれてくるのか、とかね」
「私もそれはずっと聞きたかった」
「うんうん。昨日はあんまり一気に情報与えちゃうと混乱しちゃうだろうからって思って端折ったけど、今日はちゃんと説明するつもり。わからないことがあったら遠慮なく聞いてねー」
これから栞里が自分の手で対処しなければならなくなる存在のことだ。言われずとも遠慮するつもりはない。
七夏はこほんと咳払いをした。
「まず、ヘイトリッドが世界中に存在する理由だけど、これは簡単だよ。ヘイトリッドは人間の負の感情がこぼれ落ちたものなの。だから、人が生息する場所にはいくらでも発生する」
「負の感情がこぼれ落ちたもの?」
「正しくは、人が亡くなった時に解き放たれる負の感情から、かな? これだけじゃわかんないと思うけど……」
七夏は自分の胸に手を当てて、ゆったりと続けた。
「私たちは過去から現在、そして未来に至るまで、いろんな感情を抱いて生きていくよね。人に刻まれるその記憶、思い出は、一種のエネルギーなんだよ」
「エネルギー?」
「そう。そしてそのエネルギーは人が生きている間、ずーっと心に蓄積されていって、その人が亡くなって魂が肉体を離れた時、そのすべてが外へと溢れ出る」
「……つまり、こぼれ出した思い出の中にあった負の感情が形になったものが、ヘイトリッドってこと?」
「お、栞里ちゃんは察しがいいね。その通り、だよ」
七夏は指をくるくると回して、その指の向きを上へ、下へと交互に動かす。
「温かい空気は上へと流れるよね? でも、冷たい空気は下に溜まる。それと同じなの。正の感情は天にのぼって残らないけど、負の感情だけはここに残っちゃうんだ。ヘイトリッドとしてね」
「でも、それじゃあヘイトリッド退治は、永遠に終わらないんじゃ……」
人が亡くなった時に解き放たれる感情が原因だとするのなら、人が存在する限りヘイトリッドも存在し続けるということにほかならない。
「そう、終わらない。だからずっと退治し続けていく必要があるんだよ。常に誰かが、魔法少女としてね」
真剣な表情で虚空を見据えながら、七夏は強い声音で言い切った。
ヘイトリッドを完全に根絶する方法はないのかと、そんなことを聞こうとして、けれどすぐに栞里は口を閉じた。
そんな都合のいい方法があるのなら、きっととっくに実行されている。
「ま、実際はそこまで難しく考えなくてもいいことなんだけどねー」
張り詰めてしまった空気を和らげるように、七夏は引き締めていた表情を緩め、栞里に気さくに笑いかけた。
「大きな戦争があった頃は深刻なヘイトリッドの蔓延状態だったらしいんだけどね。今は平和だし。それに、基本的にヘイトリッドより魔法少女の方が強いの。というか、力を持つ前に退治するのが私たちの仕事だから」
「魔法を秘匿すべきっていうのは、その大変な時代があったから?」
「かもねぇ。魔法が表沙汰になって、またでっかい戦争でも起きたら、どれだけの悪意がばらまかれるかわかったもんじゃないし。戦争とヘイトリッド……その二つでどれだけの犠牲が出るかもわからない」
「……」
「まーそんな難しく考えなくても大丈夫だって! 未来のことなんて誰にもわからないけど、少しでも良い未来になるよう頑張ることはできるでしょ? だから今の平和な時代があるんだもん。私たちもその先達にならって、同じようにただ頑張ればいいんだよ」
「頑張る、か……」
魔法少女とはつまり、人が存在する限り決して滅びることがない悪意を相手に戦い続ける者であるということだ。
それを理解した上で頑張るだけでいいだなんて、栞里にはとても言えそうになかった。
……でも、それに簡単に言ってしまえるような底抜けな前向きさこそが、七夏の一番の魅力なのかもしれない。
「さっき言った通り、ヘイトリッドは人の負の感情が形になったものなんだ。だから基本的には、負の感情が集まりやすい場所に好んで生息する」
「たとえば?」
「そうだねぇ……薄暗くてじめじめしたところとか、かな?」
「暗くてじめじめしたところ……ダンゴムシみたいな?」
「う、うん? そのたとえはちょっと……」
「じゃあ、ゴキブリみたいな」
「ひどくなったんだけどっ!? まず虫にたとえるのをやめよう? ね?」
良いたとえだと思ったのだけれど、と栞里はちょっと項垂れる。
ゴキブリは暗くてじめじめしたところが大好きであり、その体は雑菌、細菌が多く付着しているから、触れるだけで病気にかかる危険がある。
ヘイトリッドだって暗くてじめじめしたところを好み、人に寄生し危害を加える性質があるのだから、ゴキブリと似たようなものではないかと栞里は思ったのだ。
「なんでそんな残念そうな顔するのかな……とりあえず、まずはここから調べていこっか」
そうしてやってきた場所は、女子トイレだった。
間子葉高校では、主に普通教室がある棟を普通教室棟、理科室などの特別教室がある棟を特別教室棟と呼び分けている。
オカルト部の部室があるのは特別教室棟の方であり、この女子トイレも同じ棟の二階にあるトイレに当たる。
「薄暗くてじめじめしたところがヘイトリッドを発見しやすい場所の一つではあるけどね、実はそれだけじゃヘイトリッドが発生する条件が整うわけじゃないの」
「というと?」
「ただじめじめしてるだけでいいなら、適当な湿地とか密林とかにもヘイトリッドは存在して然るべきでしょ? でも、そういうところにはあんまりヘイトリッドはいないんだ」
「……ヘイトリッドは負の感情の塊。感情はそもそも人間が抱くものだから、負の感情が集まりやすい条件は、人間が活動する場所の近くでしか整わないってこと?」
「そ! 近場でたくさんの人が集まる機会が多いこと。それが二つ目の条件なの。特に、感情が大きく揺れ動く十代の子が多いところ……学校なんかはその代表かな」
「……なら、学校を魔法少女活動の拠点にしてるのは、校内を念入りに調査する効率化の意味も兼ねてる……?」
「お。これだけでそこまでわかるなんて。ふふ、将来有望な魔法少女だ」
と、そこで七夏はなにかに気づいたようにしゃがみ込む。
「……いきなり当たりを引いたね。ヘイトリッドがいた痕跡がある」
「痕跡……? ……私にはなにも見えないけど」
「最初に説明した時、目に魔力を通さないと見えないって言ったでしょ? 栞里ちゃんはそれをやってないからね」
「それはどうすればできるの?」
「んー、変身するのが一番手っ取り早いんだけどね。全身に魔力が通うから嫌でも見えるようになるし」
「じゃあ早速」
昨日魔法少女になるとレンダに告げた後、栞里はすでに魔法少女としての力の基本的な使い方は教わっていた。
その一つである変身をいざ実行に移そうとしたところで、ちょっと慌てたような七夏に手で静止された。
「いや待って待ってっ。変身はダメ!」
「ダメなの?」
「ダメなの。確かに私、栞里ちゃんに魔法少女にならないかって誘った時とか割と普通に沙代に変身してほしいってお願いしてたけど、本来変身ってそんな気軽にするものじゃないの」
「そうなの?」
「うん。特に今はね。まだ捜索段階だし、いつヘイトリッドが見つけられるかもわからない。変身解除後は一気に疲れが襲ってくるし、いざヘイトリッドに遭遇した時に力が弱まってたら話にならない。危険なの」
至って真剣な表情だ。本気で栞里の身を案じていることがわかる。
魔法少女や、その仕事であるヘイトリッド退治に関しては七夏が先輩だ。いや、普通に学校の先輩でもあるけれど。
栞里は素直に七夏の言うことを聞き入れて、ならばどうすればいいのかと七夏に視線で問う。
「栞里ちゃんはまだ魔法少女になって間もないから、変身してない状態だと特異魔法以外にはうまく魔力を使えないと思うけど……ちょっと待ってね。ちょうどいい道具を持ってきてるから」
「道具?」
「うん。えぇっと、確かこの辺にー……」
七夏は持ってきていた鞄の中に手を突っ込んで、がさごそと漁り出す。
そうして彼女が中から取り出したのは、一つの長方形の箱だった。
箱を開けると、じゃーん! と七夏は中のものを栞里に見せつける。
「これ!」
「……メガネ?」
「そ。私がまだ魔法少女になったばかりの頃に使ってたやつなんだー」
メガネとメガネケースを手渡されて、栞里は訝しげにそれを見下ろした。
どうやら度は入っていないようだ。見た目的には変哲もない伊達メガネに過ぎない。
しかしこんな場面で渡してくる代物だ。間違いなくなにか細工がある。
「かけてみて」
促されるまま、メガネをかける。
レンズを通して見える景色に、初めは違いがないように思えた。
しかしさきほど七夏が注視していた箇所に目を向けた時、メガネをかける前には見えていなかったものが見えることに気がついた。
黒く濁った、なにやら泥のような粘液がこびりついたかのごとき、半透明の薄い跡。それは這いずるようにして、窓の方へ続いていた。
今は窓が閉められていたが、栞里の視線の先を察した七夏が窓を開ければ、その跡が向こう側へと続いているのがわかった。
「これがヘイトリッドが残す痕跡、魔力の残滓。そしてそのメガネは、魔導協会が開発した魔道具の一つだよ。魔力を使えない一般人でもヘイトリッドが見えるようにするために開発されたんだって」
「魔道具……魔法が込められた道具ってこと?」
「ちょっと違うかな。あくまで魔法を使えるのは魔法少女と精霊だけ。魔力を目視することっていうのは魔法でもなんでもない基礎技能で、それはその基礎技能を擬似的に再現してるに過ぎないよ」
「そうなんだ」
「ま、魔導協会の構成員が全員魔法少女や精霊ってわけじゃないからね」
痕跡の先を確かめるため、外をしばしの間見渡してから、七夏は窓を閉め直す。
「そういう人たちが魔力やヘイトリッドの存在を正しく認識するためにも、こういう道具も自然と生まれてくるってものだよ」
「ふむ……」
「それは栞里ちゃんに上げるね。そのうち自然とできるようになるだろうけど、変身してない時の魔力操作に慣れない間はそれを使うと良いよ」
「もらっていいの?」
「私にはもう必要がないものだから。私のとこで埃をかぶってるより、栞里ちゃんが使ってくれた方が私は嬉しいな」
明るく、気持ちのいい笑顔だった。
「……わかった。ありがとう七夏。大切に使う」
「へへ。じゃ、昇降口に向かおっか。痕跡は外に続いてるみたいだからね。靴履いて行かなきゃ」
メガネ自体はかけたまま、メガネケースはしまい、栞里は七夏の後を追った。
昇降口で靴に履き替え、さきほど探索したトイレの真下まで来ると、栞里と七夏はそこに残っていたヘイトリッドの痕跡を調べ始めた。
「ヘイトリッドも千差万別でね。いろんな姿かたちのやつがいるの。一番厄介なのは飛行するやつかな」
ヘイトリッドの痕跡だという魔力の残滓は、校庭の影となる道に沿って続いていた。一応、日が当たる箇所も通った形跡はあるが、ほんのわずかだ。
負の感情が集まりやすい場所を好む性質は、こういうところにも現れているようだ。
「飛行型は空中に残滓が散ってて痕跡を追いづらいの。昼間はあんまり移動しないけど、夜はどこにでも飛んでいくし。捜索が本当に面倒でね……」
「今回のこれは、飛行型じゃない?」
「這いずったような跡だから陸上型かな。たぶんナメクジに近い見た目のヘイトリッドだと思う」
「ナメクジ……」
やっぱりダンゴムシやゴキブリのようだというたとえは的を射ていたのではないかと栞里は思ったが、それを言うと七夏が嫌そうな顔をするのは目に見えていたので、おとなしく口を噤んでおく。
「えっーっと……この方角は、ゴミ捨て場の方かな? 残ってる魔力の濃さから見ても、たぶんその辺でうろちょろしてるはず」
「そういうのもわかるんだ」
「まぁねー。あんまり時間が経つと魔力が散って痕跡が消えていっちゃうけど、それはその消え具合でどれくらい前の痕跡かも推測できるってことでもあるし」
「なるほど」
「具体的にどれだけ前のものかーっていうのは経験頼りだけどね。栞里ちゃんもこの先も魔法少女を続けていけば、いずれわかるようになるよ」
さて。と、七夏は鞄を校舎の影に置くと、ストレッチを始めた。
七夏にならって、栞里も軽く体をほぐしていく。
「まず今回のヘイトリッドについてだけど、おそらく体が粘液状の魔力でできたナメクジみたいな這いずるタイプ。全長は三〇センチから五〇センチ」
「うん」
「比較的小柄のヘイトリッドかな。たぶんそんなに強くない、けど……油断は禁物だよ。普通の人にはまだ無害でも、魔法少女にとってはその限りじゃない」
「……わかってる」
昨日、レンダから聞いた話が栞里の頭をよぎる。
魔法少女になる直前、最後に一つ言っておかなきゃいけなくなる、と前置きされて話されたことだ。
『いいかい? 人間の心っていうのは普段は殻で大事に包まれていてね、元々、脆弱なヘイトリッドなら寄せつけないくらいの強度があるんだ』
だが、強くなったヘイトリッドは心の殻そのものを破ってしまう力をも持つようになるという。
そうなる前に退治するのが、これから魔法少女になる君の役目だ。と、レンダは言った。
『で、まあ、ここからが一番重要なことなんだけど……実は、魔法少女にはその殻がない』
『殻がない……? それって、ヘイトリッドに対して完全に無防備ってこと?』
『んー、言い方が悪かったね。殻がないというより、殻が変質してるって表現の方が正しいかな』
『変質……』
『体力が肉体的な力だとすれば、魔力は心に生まれる力なんだ。でも、殻で完全に閉じ込めた状態じゃ、その心の力を行使できない』
『……人が魔力を操るためには、殻の形を変えなきゃいけない。心から魔力を取り出せるように』
『そういうこと。ヘイトリッドは完全なる精神的存在……だから同じ次元にある心の力、魔力を介した方法でしか干渉できない。でも、そんな風にヘイトリッドに対応するために、心を覆う殻の形を変えた魔法少女という存在は……』
無防備とは行かないまでも、普通の人と比べ、遥かにヘイトリッドの影響を受けやすくなってしまう。
それでも君は、魔法少女になるかい?
「……」
レンダから聞いたそんな話を思い返して、栞里は少し、緊張で体を強張らせた。
魔法少女になったとしても、本人が望みさえすれば、魔導協会から離れて魔法とは無縁の日常を送ることもできる。
そこだけ聞いた時は、また以前と同じ普通の日常を送れるようになると勘違いしてしまうだろう。
だけど違った。魔法少女になることには明確なデメリットがある。
魔法少女になったら戻れない――それはこれから先、ずっとヘイトリッドの脅威にさらされて生きていかなければいけないということだ。
もしヘイトリッドとの戦いに怯え、嫌になってしまったとしても、その身は変わらずヘイトリッドの格好の餌だ。
どんなに拒絶しようと、その気になれば見えてしまう。認識できてしまう。
(……それでも)
それでもあの時、魔法少女になるかどうかの最終確認で栞里は頷いた。
その選択に後悔はない。
「栞里ちゃん、行ける?」
「問題ない。いつでも行ける」
レンダいわく、魔法少女は二人一組で動くものだ。
今は栞里と七夏でパートナーを組んでいる。
その片割れが、こんなところでいつまでも怖気づいているわけにもいかないだろう。
「あはは。栞里ちゃんは本当に将来有望だなぁ。でも、そうだなー……ひとまず、先に変身しておこっか。目標のヘイトリッドが近くにいるのは間違いないし」
「そういえば……七夏は変身が嫌いなんだっけ?」
以前、栞里に魔法について信じてもらうため四苦八苦していた際、そんな感じのことを言っていた。
「……まあ、嫌いだけど……いやほんと嫌いだけど……これ以上ないくらい嫌いだけど……」
三回も繰り返して言う辺り、マジで嫌いらしい。
「仕事だからね……嫌なことでもやらなきゃいけないのが仕事なんだよ……」
きょろきょろと辺りを見回し、自分たち以外の人目がないことを確認すると、七夏は自分の右腕の袖をめくった。
その右手首には、橙色の小さな結晶が埋め込まれた腕輪が巻かれている。
「……輝け、開闢の星」
七夏がそのワードを口にした途端、七夏を中心に突風が吹き荒れた。
メガネのレンズを介して見えるその風は、橙色の軌跡を描いている。だけど、レンズの外側ではなんの色も見えない。
それはこの風が七夏の魔力が起こす現象であることを示していた。
拡散していた風が収束し、七夏のもとに集う。光となってその身を包み、彼女の衣装が変化する。
「……はぁー……」
変身を終えた七夏の口から真っ先に漏れたのはため息だ。
自身の格好を見下ろして、ものすごくげんなりする。
栞里は七夏の変身形態がそう悪いものには見えなかったが、いくつか気になるところがあったので聞いてみることにした。
「ねえ、七夏」
「……なに? 栞里ちゃん」
その瞳はなんだか、どうか聞かないでほしいと懇願しているようにも見えた。
が、もしかしたら魔法少女にとってなにか重要な意味があるかもしれないのだから、聞かないわけにもいかなかった。
「どうしてその衣装、そんな裾がボロボロなの?」
「……特に意味はないかな」
「どうして右腕だけ包帯巻いてるの? 怪我?」
「……特に意味はないかな」
「どうして包帯に変なフォントで英語みたいなの書いてあるの? 魔法の強化とか?」
「……特に意味はないかな」
「どうして今の七夏は片目の色が違うの? 変身の副作用?」
「……ただのカラーコンタクトかな……」
「どうして――」
「だぁあああーっ!」
まだまだ気になるところがあったので質問を続けようとしたが、ここで七夏が耐え切れないと言わんばかりに絶叫を上げた。
「全部意味ないから! この見るからに中二病感満載な衣装に意味なんて欠片もないからっ!」
「え。ないの?」
「ないんだよ! 特に怪我してるわけでも魔法を強化する意味合いがあるわけでも変身の副作用とかあるわけでもなんでもないの! ただの頭の悪いおしゃれなの!」
なぜか裾が擦り切れてボロボロな真っ黒な衣装。右手には変なフォントの文字が書かれた包帯、目には金色のカラーコンタクト。
黒と白、それぞれ基調とした二振りの剣を両手に携えていて、橙色の小さな結晶を二分割した物が鍔に半分ずつ嵌められている。
「うぅ……魔法少女の衣装は一度決まったら容易には変更できない。これは昨日聞いたよね?」
「う、うん」
割とガチで泣きそうな七夏に気圧されつつ、栞里は頷く。
いわく、変身の衣装は本人の憧れの姿が反映されるそうだ。
そして一度変身してしまうと、それが自分の魔法少女としての姿だと無意識領域に刷り込まれるため、衣装を変更することが難しくなるという。
つまり今の七夏の衣装は本来、いつかの彼女自身が望んだ憧れの姿ということになるはずなのだが……。
「……これはね、魔法少女になったばっかりの頃の、当時の私の憧れの姿だったの。あの頃の私はちょうど中二病の真っ盛りでさ。ウキウキ気分でいっぱいノートにありもしない設定書き込んだりしててさ」
いじけたように、それでいてこっ恥ずかしそうに。
手を合わせて、指先をいじりながら、七夏は続ける。
「変身は憧れの姿になれるって聞いたから、この衣装のためだけに絵の練習までしてね。これじゃないこれじゃないって連日書き込んで……」
「それで完成したのが、これ?」
こくり、と七夏は肯定する。
「でも、憧れなんてのは日夜変化していくものじゃん。あの頃の自分が中二病だったことを自覚して、治ってくるとさ? 過去の行いを全部忘れて闇に葬りたい衝動に駆られるんだよ……」
「そうなんだ?」
「そうなんだよ。でも私の場合、いくらノートを燃やしても忘れようと努めても、この衣装がいっつもあの頃の記憶を私に突きつけてくるの……変身するたびに中二病だった過去を思い出させてくるの!」
「う、うん」
「たまに会う他の魔法少女からも生温かい目で見られるしさ!? 別にもう私中二病じゃないのに! 闇に葬って忘れ去りたいのに! 好きでこんな格好してるんじゃないのにぃ!」
両手の剣を放り出し、栞里にしがみついて、一心不乱に涙目で主張する。
どう対応したらいいかわからず、栞里の目線はおろおろとした。
しかししばらく激情のままに叫んでいた七夏も、やがてその場に膝をつくと、どんよりと顔を伏せる。
「なんで……なんで私がこんな目に合わないといけないの? 私頑張ってるよ? いっつも頑張ってるよ? なのに、こんな仕打ち……うぅうー……やだ……もうやだぁ……」
「え、えっと……その……」
(な、なんて言えばいいんだろう……?)
どうにか七夏を励ましてあげたかったが、なかなか良い言葉が出てこない。
そもそも、栞里は人付き合いがあまり得意な方ではなかった。
こんな時にどんな言葉をかけてあげたら元気になってくれるかなんて、全然わからない。
「……よ、よしよし」
悩みに悩んだ末に栞里が行ったことは、なにか言葉を投げかけることではなくて、七夏の頭を撫でることであった。
大丈夫、大丈夫、と。なにが大丈夫なのかはわからないが、とにかくそんな三文字を繰り返しながら、頭を撫でる。
七夏はピタリと一瞬体の動きを止めたかと思うと、困惑した様子で栞里を見上げた。
「……えっと……なにこれ?」
「よしよし?」
「それはわかるけど……」
「その……私は七夏のこと、ちゃんとわかってる。たとえばその擦れた裾とか、あの敢えて破けたデザインにしてる……ダメージデニムみたいで格好良いと思う、よ?」
「いや、その、私この衣装気に入ってないから落ち込んでるんだけど……ていうかダメージデニムって。まあ発想の元は同じ、なのかなぁ?」
話しているうちに落ちついたようで、七夏は栞里から離れると、手放していた双剣を回収して立ち上がった。
涙の跡を拭い、ちょっとばかり気まずそうに笑う。
「なんていうか……ありがとね。励ましてくれて……」
「もう平気?」
「うん。もう大丈夫だよ。あはは、見苦しいとこ見せちゃったな……」
目の下が赤いが、気丈に振る舞う七夏を見て、栞里も気持ちを切り替えることにする。
「じゃ、次は栞里ちゃんも変身しよっか! やり方は覚えてるよね?」
栞里は首肯して、彼女と同じように制服の袖をめくった。
七夏と同じデザインの腕輪。唯一違うのは、嵌め込まれた結晶の色だ。
七夏の結晶は太陽の光のような橙色だったが、栞里のそれは深い海のごとき藍色である。
これは魔力結晶。魔導協会が精霊と協力して作り上げた、魔法技術の結晶だ。
魔法少女が魔法少女足り得るための核とも言える、重要な道具である。
「波打て、追憶の海」
魔法少女の変身は、特定のワードを口にすることで半自動的に行われる。七夏が言っていた「輝け、開闢の星」もそれだ。
あらかじめ決めておいた音の並びを合図に、この魔力結晶と本人の魔力とをリンクする。その相互作用によって心の活性を促し、奥底に眠る潜在能力を表側に引っ張り出すことで、平時とは比べ物にならない魔力出力と、超人的感覚の発揮を実現する。
それこそが変身の魔法である。
「ん」
蒼き魔力の風に包まれ、視界が鮮やかに弾けた。変身を終えると、眠気が覚めるかのごとく感覚が研ぎ澄まされる。
変身を行うと、変身前に身につけていたものはすべて結晶内に保存され、服装が完全に入れ替わる。
あの魔力を目視できるようになるメガネも一時的になくなるということだ。
しかしそれでも、今の栞里にはヘイトリッドの魔力の痕跡が変わらず見えていた。
変身による変化を実感していた栞里だが、横を見ると、まるで品定めでもするように七夏が栞里をじろじろと観察していた。
「ふーむ……栞里ちゃんの魔法少女衣装って、結構大胆だよね」
「そう、かな」
肩や腹、太ももが露出した機能性を重視するような装いの上から、幾何学的な模様が描かれた短めのマントを羽織っている。布地部分は柔らかく動きやすい素材で作られているから、少しの窮屈さも感じない。
腰に装着した二つのホルスターには二丁のハンドガンが収められており、本来なら安全装置がある部分に、二分割された藍色の結晶が嵌められている。
「なにかイメージの参考にしたものとかあるの?」
「ん……昔よくテレビのCMで見たなにかのゲームの主人公の服……を、うろ覚えで思い浮かべながら変身してみたらこうなった」
「だいぶ曖昧なイメージだね……でも、うん。大丈夫! 確かにちょっと大胆だけど、栞里ちゃんスタイルいいからね。ちゃんと似合ってるよ」
「ありがとう」
「じゃ、そろそろ行こっか。あ、認識阻害の魔法発動しておいてね。見られると面倒だし。使い方はわかる?」
「たぶん」
七夏はお手本でも見せるかのように、剣を大げさに掲げてみせた。
それと同時に七夏の全身がほんの一瞬、橙色の霧状の魔力で覆われる。認識阻害の魔法を使ったのだ。
これで終わりだと七夏が剣を下ろすのを見て、栞里もホルスターからハンドガンを抜いた。
重さは簡単なエアソフトガン程度なので、容易に片手で扱える。
(……認識阻害……)
魔法少女とは言っても、実のところ、特異魔法と呼ばれる固有の魔法以外は自力では使うことはできない。
それ以外の魔法を使うには、七夏の剣や栞里のハンドガンのような、魔法補助具が必要だ。
この魔法補助具には、魔法を記憶しておく機能がある。記憶した魔法は通常の状態では魔力の出力が足りず、効果を発揮できない。
しかし変身状態ならば魔力の出力が大きく高まるため、補助具に記憶された他の魔法も自由に行使できるようになるのである。
もっとも、補助具の魔法は特異魔法ほど自由に扱えるわけではない。そして魔法の記憶容量にも限界があり、強力で複雑な魔法ほど容量を多く埋めてしまう。
それでも、状況に応じて様々な魔法を使える利点は他のなににも代えがたいものだった。
(……不思議な感覚……)
双銃型の補助具に意識を集中させると、この中に封じられた魔法の存在とその使い方が、感覚的に理解できた。
これが元々自分の体の一部だったかのような感覚だ。
いや、正しく表現するのなら、体というよりも心の一部だろうか。
変身状態である今、栞里の魔力は魔力結晶とリンクしている。そしてさきほどまで腕輪についていた魔力結晶は、今は二つのハンドガンにそれぞれ半分ずつ嵌め込まれている。
魔力とは心の力だ。いわば栞里は、この双銃と心が繋がっている状態にある。
(……これかな?)
魔法を選び、引き金を引く。
カシュンッ! と、空気が弾けたような音。本物の銃にはほど遠い、軽い発砲音だ。
すると、栞里の全身が藍色の霧で包まれる。
――認識阻害。
微弱な魔力経由で見る者の心の向きをずらし、その現象に対して違和感を抱かせなくする。
つまりこの魔法を使っている間はどんな格好で、なにをしていても注目をされることはない。
これだけ聞くと便利そうだが、いかに魔法と言えど、万能というわけではない。
この魔法は、効果の適用範囲が非常に広い反面、非常に繊細で弱い魔法でもある。
例を言うと、この魔法の発動中すれ違う程度に軽く誰かと接触しただけで、その人にこの魔法は効かなくなる。
また、初めから見られている状態から使っても効果はない。自身の魔力をコントロールできる魔法少女や精霊にはそもそも効かない。他にもいろいろだ。
あくまでこの魔法は保険であり、これがあれば絶対に注目されなくなる類のものではないということである。
(今まで気がつかなかっただけで……私の近くでも、誰か魔法少女が戦ったことがあったのかな)
誰に感謝されることもなく、人知れず人を守る。その感覚をほんの少し、噛み締める。
先を進む七夏を追って、栞里はゴミ捨て場へと向かった。
「……よし、他に人はいないみたいだね。元々そんなに人が来るような場所じゃないけど」
最初に見かけた時よりも明らかに濃くなっているヘイトリッドの痕跡は、閉じられたゴミ収集庫にこびりつくようにして途切れていた。
「ヘイトリッドはあの中かな……栞里ちゃん。いつ襲われても大丈夫な心構えしておいてね」
「了解」
七夏はゴミ収集庫に近づき、鉄製の蓋へと慎重に手を伸ばした。
取っ手に手が届くと、それまでの慎重さとは裏腹に一気に蓋を開け放つ。
初めはただ、中にゴミが詰まっているだけに思えた。
しかしそのゴミの隙間の奥で黒く濁ったなにかがうごめいた途端、その中からなにかが七夏の顔にめがけて飛びかかってきた。
だが、すでに警戒していた七夏にその不意打ちは通用しない。
彼女は即座に上半身を後ろにそらすことで、飛びつきを難なく回避する。
そればかりか、彼女は回避した勢いのまま後方宙返りに移行したかと思うと、黒く濁ったなにかが自身の上を過ぎ去るよりも速くオーバーヘッドキックを決めた。
七夏の人間離れした反応の速さに栞里が瞠目する間に、蹴り飛ばされたそれが栞里の真横にベチャッと無様に墜落する。
「っ……」
栞里がこのまま七夏と同じように即座に攻撃へ移行できれば、百点満点の上出来と言えただろう。
が、なにぶんこれは栞里にとって初めて見るヘイトリッドで、初めて経験する戦いの場だ。
無意識のうちに心のどこかで怯えていたのか。
私の武器は銃なのだから、まずは距離を取らなければ、と。そんな変哲もない模範解答に則るように栞里は無意識のうちに後ずさってしまった。
そして栞里は、ゴミ収集庫から飛び出したものの正体をまともに注視する。
ナメクジのような、という七夏の表現はまさしく的を射ていた。
細長い二つの触覚。黒く、まだら模様に濁った、ぬめりのある全身。子犬ほどの大きさを持つその醜悪な塊に、生理的な嫌悪感を抱かずにはいられない。
そしてなによりも、触覚の下。生物であれば顔がある部分が自分の方へと向けられた途端、ぞわりと身の毛がよだつ。
人の、顔だ。
無感情に見開いた目。痩せこけたような頬。力なく半開きになっている口。泥のような色合いではあったが、間違いなく顔の形をしていた。
(これがヘイトリッド……人の負の感情が、形になったもの……)
「来るよ! 栞里ちゃん!」
注意を呼びかける七夏の叫び声から間を空けず、ヘイトリッドの背中がぼこぼこと隆起し始めた。
そうして三本の触手をかたどると、そのうちの一本を七夏へ、二本を栞里の両側から挟み込むようにして伸ばしてくる。
「照準補正!」
双銃型の魔法補助具は主に引き金を引いて魔法を発動するが、この照準補正の魔法だけは例外だ。
これは、栞里が狙った箇所に当たりやすくなるよう自動で照準を修正する。ただそれだけの魔法だった。
二丁のハンドガンの銃口をヘイトリッドへと向けて、連続で引き金を引く。
ガゥンッ! ――認識阻害の魔法を使った時とはまるで違う、鈍く重い強烈な銃撃音が鳴り響く。
音とともに銃口から発生した人の拳ほどの藍色の半透明な銃弾は、ヘイトリッドの二本の触手を撃ち抜いた。
七夏の方にちらりと視線を向ければ、彼女も難なく触手を斬り伏せている。
(次は本体を……)
カチャッ、と新たに照準を合わせようとしたところで、さらにヘイトリッドに動きがあった。
瞬時に新たに触手を生やしたかと思えば、その先端を地面へとつけて、そのしなりによって勢いよく跳び上がったのだ。
その向かう先は、栞里の方でも七夏の方でもなかった。少し遠くの校舎の壁にベチャッと貼りついて、さらにもう一度、触手を使って跳び上がる。
そんなことを繰り返しながら、どうやら校舎の屋上へと逃げようとしているようだった。
だけど、こちらの武器は銃だ。ここからでも攻撃は届く。
「あっ! 栞里ちゃん待って! あっちは撃っちゃダメ!」
「え。で、でも」
「ここは私に任せて!」
なぜ撃ってはいけないのか。今はその説明を求めている暇がないことは、栞里もわかっていた。
とにかく今はいつでもヘイトリッドを撃ち抜けるよう照準だけは合わせながら、言われた通り七夏に任せることにする。
「……これでいいかな」
任せて! なんて言った割に、七夏はヘイトリッドから目線を外していた。
代わりに七夏が見ていたものは、最初にヘイトリッドが潜んでいた金属製のゴミ収集庫だ。
(いったいなにを……?)
栞里の疑問をよそに、彼女は二振りある剣のうち、その片方の切っ先をゴミ収集庫に向ける。
刀身から橙色のオーラが陽炎のように揺らめき、広がって、ゴミ収集庫を包み込んだ。
しかしこれはおそらく、魔法でもなんでもない。ただ精神のエネルギーである魔力を無駄に垂れ流しているだけだ。
だけど七夏は自分の魔力がゴミ収集庫全体を覆ったことを確認すると、これでいいと言わんばかりに頷いた。
そしてゴミ収集庫に向けている方とは逆の手に持つ剣の切っ先を、すでに遠く、屋上にたどりつきかけていたヘイトリッドの方へと向けた。
「――《調和》」
七夏がそう呟いた直後、ゴミ収集庫がガタンッと少し音を立てて不自然にぐらつく。そして同時に、ヘイトリッドの様子にも変化が訪れた。
軽やかに跳び回り、屋上まで触手を伸ばしていたヘイトリッドの体が、突如なにか強い力に引きずられるかのように下へ下へと落ち始める。
触手を増やして周囲の出っ張りを手当たり次第に掴み、その力に耐えようとしたようだったが、それも無意味に終わる。
校舎からすべての触手が離れ、ヘイトリッドは無様に墜落する。
「栞里ちゃん! 今だよ!」
「わ、わかった」
最初に対峙した時のような軽やかさは見る影もなかった。
ぐぐぐ、と一所懸命に体を動かそうとしているようだったが、見た目通りのナメクジ程度の速度でしか移動できていない。
これで外すわけがない。
発砲音が一つ。
ヘイトリッドの体に風穴が空き、最後はなんともあっけなく、戦いに終わりが訪れた。
「おつかれさま、栞里ちゃん」
「……おつかれさま」
戦いの終わりを実感できず、未だ構えたままだった栞里も、そのやり取りでようやく銃を下ろした。
「へっへーん。どう? どう? 私の《調和》の魔法! すごかったでしょ?」
戦っている間は引き締まった真剣な表情をしていた七夏だったが、今はもうすっかり元の陽気な少女に戻っていた。
むんっ! と、あんまりない胸を張って自慢げだ。
「《調和》……そっか。あれが……確か、七夏の魔力が干渉した二つのものの力の大きさを同じにするって……」
「そう! 前に部室で見せた時とおんなじだよ。今回いじったのも重さ。あのゴミ収集庫とヘイトリッドの重量を足して二で割ったんだ」
なるほど、と栞里は納得する。
あの時ゴミ収集庫がぐらついたのは、急激に軽くなった影響だった。
そしてヘイトリッドが急に下へ引っ張られ始めたのは、逆に急に増した自重に耐え切れなくなったからだ。
ヘイトリッドは完全な精神的存在だ。体重計の上に乗ったところで、その重量を測れるわけではないだろう。
しかしどんな存在にせよ、地に足をついている時点で、少なからず重力の影響を受けていることに間違いはない。
元より、ヘイトリッドは天に昇らず地上に残った負の感情の塊だ。物理的に測ることはできずとも、なにかしらの重さの概念があるのだろう。
七夏はそれをいじったのだ。
「……七夏の魔法って……もしかして意外とすごい?」
「おっ、ようやくわかってくれたっ? そうだよ、私の魔法はすごいんだよ! 全然地味なんかじゃないんだよ!」
「いや地味だとは思うけど。でも、すごい」
「あ、うん……ありがと……」
別に前言を撤回するわけではない。だって普通に地味である。
地味ではあるが……すごい。それが七夏の魔法に対する栞里が出した最終的な感想だった。
「でも、いったいいつヘイトリッドにも七夏の魔力を?」
七夏の魔法は、二つの物体に自身の魔力を擦りつけなければ効果を発揮できない。
ゴミ収集庫を魔力で覆う場面は栞里も見ていた。
けれどそうなると、いつヘイトリッドの方にも魔力をつけていたのか。
「ほら。最初、ヘイトリッドがあのゴミ収集庫から飛び出してきた時。私、あのヘイトリッド蹴ってたでしょ?」
「……あの一瞬で?」
「そんなに難しいことじゃないよ。脚に魔力纏わせて蹴っただけだもん。栞里ちゃんでもその気になればすぐできると思うよ」
「……理屈的にはできる、かもしれないけど……」
今の栞里は自由に魔力を、魔法を使える。だから脚に魔力を纏わせることは、やろうと思えば確かにできるはずだ。
そして変身している状態では、閉じていた感覚が目を覚ましたかのように感覚が研ぎ澄まされる。
しかしそれでも、あの時の七夏のように、襲われた瞬間の一瞬でそれができるのかと言われれば、今の栞里では十中八九無理だ。
「じゃあ、あれは? あの、あっちは撃っちゃダメって」
ヘイトリッドが跳び回っていた校舎の方を栞里が指差すと、七夏は「それはねー」と言いながら、校舎とは別の近くの壁に剣の切っ先を向けた。
その壁には人の拳ほどの螺旋状の穴が二つほど空いている。
「ヘイトリッドは精神的な存在だから現実の事象に直接影響を及ぼせるわけじゃないけど、魔法は違うからね。魔力を介するからヘイトリッドと干渉し合うって特性はあるけど、基本的に物理現象なの」
「そっか……この穴って、私が撃った魔法の……」
ヘイトリッドが伸ばしてきた二本の触手。それを迎撃するために栞里は二丁のハンドガンで一回ずつ、計二回引き金を引いた。
七夏が剣で示した二つの螺旋状の穴は、触手を貫通した魔弾が衝突した場所だった。
「あっちの校舎の壁は窓があるでしょ? もしあれに当たったらガラスの破片が飛び散ることになっちゃう」
「……あの窓の向こうや下に、人がいないとも限らない」
「そう。私たちは人の心を守るために戦ってるんだから、そのために人を傷つけてちゃ意味がない」
「……」
自分の身を守り、ヘイトリッドを倒そうとすることで手一杯だったのだろう。他の被害なんて栞里は全然考慮できていなかった。
「あ、ちょっと厳しい言い方しちゃったかもだけど……栞里ちゃんが全然ダメだったってわけじゃないからね? むしろ栞里ちゃんは初めてにしてはほんっとによくできてたと思う」
「……そう、なの?」
「うん。普通は最初って、腰が抜けちゃってなんにもできなかったりするから」
魔法少女とは言っても、元はただ戦いとは無縁の生活を送っていた少女に過ぎない。
ヘイトリッド。あんなものを前にしてしまえば、七夏が言うような風になってしまってもしかたがない。
「けど、栞里ちゃんは冷静に魔法を使って攻撃までできた。私に頼らず、自分なりにヘイトリッドを倒そうとしてた。こんな子なかなかいないよ」
「そう、なんだ……」
「だからその、えーっと……うん。たいへんよくできましたっ!」
七夏が注意してくれなければ、窓を撃ち抜いて、誰かに怪我を負わせてしまっていたかもしれない。
その不甲斐ない事実に、七夏は栞里が落ち込んでいるように見えたようだ。
腕を大きく広げて、彼女は精一杯栞里を称賛する。
偉い! すごい! 一〇〇満点!
語彙がだいぶ怪しくて、褒め方がちょっぴりアホっぽいけれど、必死に元気づけようとしてくれる七夏の姿に、くすりと栞里の頬が緩んだ。
「あ、そうだ! いいこと思いついた……ちょっと腰低くして」
「腰? こう?」
「そうそう。ちょっとそのままでいてねー」
まるでいたずら好きな子どもみたいに笑いながら、七夏は栞里に手を伸ばした。
それから、ぽんっ、と。その手を栞里の頭の上に乗せる。
「よしよし。栞里ちゃん、よく頑張ったね」
「あ……」
それは魔法少女衣装のことで落ち込んでいた七夏を栞里が励まそうとした時と、逆の構図だった。
「栞里ちゃんは栞里ちゃんなりにちゃんとやってくれたよ。心配しないで」
栞里の頭を撫でながら、七夏は穏やかな口調で続けた。
「今の栞里ちゃんのパートナーは私だし、パートナーを支えるのは当然のこと。それにね、私ってこれでも先輩だから。ふふん。困ったこととか不安なこととかあったら、いつでも頼っていいんだよ。そういうのも先輩の仕事だし」
「ならこれも、先輩の仕事?」
「そう! ちゃんと頑張った可愛い後輩を甘やかすのも、先輩の仕事」
胸の内側がぽかぽかと温まって、なんだか安心する。
この感覚には、覚えがある。
いつかどこかで、これと同じものを味わったような――。
……いや、違うか。これは、そんな不確かな記憶ではない。
この懐かしい感覚を、栞里は今もよく覚えている。
「さて。それじゃ、残った勤めも果たさないとね」
七夏は栞里の頭から手を離すと、その足先を、崩壊したヘイトリッドの方へ向けた。
「残った勤め?」
「うん。ほら、見てみて栞里ちゃん」
七夏についていき、指し示された方向にあるヘイトリッドの残骸を見下ろす。
体の中心に風穴が空き、周囲に魔力の残滓を撒き散らしたヘイトリッド。普通の生物ならとっくに死んでいるところだろうに、未だその体はぴくぴくと動いていた。
「ヘイトリッドって結構しぶとくてね。栞里ちゃんが撃ち抜いたからしばらくは動けないだろうけど、このままじゃそのうちまた再生して動き出す」
「これでまだ生きて……」
「生きてるってのとはちょっと違うかな。元々生きても死んでもいない。ただの負の感情の塊だもん。今はその感情が散らばって弱ってるけど……言ったでしょ? ヘイトリッドはお互いに集い、一つになる性質があるって」
「なら残った勤めっていうのは、このヘイトリッドにとどめを刺すってこと?」
ほとんど確信を持った質問だったが、返ってきたのは煮え切れない答えだった。
「んー……ヘイトリッドを完全に消滅させるには、実はかなりの力がいるの。魔法少女がそれをやるのは効率が悪すぎるっていうか……」
「……? どういうこと?」
「後始末は別の、ヘイトリッド消滅の専門家に任せた方がいいってこと。で、その専門家さんにあとで渡すためにヘイトリッドを一時的に魔力結晶の中に捕獲するのが、さっき言った残った勤めなの」
「捕獲……消滅の専門家……」
なにやら、少しはぐらかすような言い方だ。
後ろめたいことを隠している……とは行かないまでも、なにかをあえて伏せているような。
栞里が引っかかっていることは気づいているようで、七夏は申しわけなさそうに苦笑いをした。
「ごめん。これは私の口からはあんまり詳しくは言えないや。最初はあの子に直接説明してもらわないとね」
「……なんだかよくわからないけど……わかった。今は聞かない」
「うん。ありがとう、栞里ちゃん。じゃ、早速ヘイトリッドを捕獲しよっか」
捕獲の魔法。補助具に意識を集中させれば、すぐにそれは見つかる。
「……感情吸収」
ヘイトリッドのそばにしゃがみ込み、その残骸に銃口を向け、引き金を引く。
すると銃口から藍色の渦が発生して、掃除機のようにヘイトリッドの残骸を吸い取っていった。
それに伴って、ハンドガンに埋め込まれた魔力結晶が、少し濁る。
「この魔法、こうやって弱らせる前に使うのはダメなの?」
ヘイトリッドの体を構成する負の感情を丸ごと吸収し、結晶の中に閉じ込めてしまう魔法。
非常に強力な魔法である。おそらく、この補助具に登録されている魔法の中でも一番強力な魔法だ。
そしてこの魔法は理屈で言えば、別にヘイトリッドを弱らせずとも問題ないはずだった。
「あー……まあ、それでも捕獲できると言えばできるんだけどね。これ、ものすごく強力な代わりに魔力消費がかなり大きくて危険なの。射程距離も短いし……」
「そうなん、だ……?」
ぐらり、と不意に視界がぐらついた。
そうなることがわかっていたように、倒れかけた栞里の肩を七夏が支えた。
「あ、あれ。どうして……」
「栞里ちゃんはまだ魔法少女になりたてだからね。今使った魔法の急激な魔力消費に体が……ううん。心がついていけなかったんだと思う」
栞里は七夏に支えられながら校舎の壁のそばに移動して、促されるまま、壁に背を預け腰を下ろす。
「変身中は疲れとかあんまり感じないから気づきにくいけど、ほら。この魔法使うと、こんな感じに一気に消耗しちゃうんだ」
「……そっか。もし外したりして、下手に調子を崩したら……」
「そう。ヘイトリッドに襲われる致命的な隙を作る。だからヘイトリッドを弱らせた後、一番安全な時に使うべき魔法なんだ」
「なるほど……」
「変身、もう解いていいよ。しばらく休憩にしよっか。栞里ちゃんがヘイトリッドを吸収してくれたぶん、後始末は私がやるから先に休んでて。あ、変身解除すると一気に疲労が来るから気をつけてね」
七夏は栞里に背を向けると、戦闘の余波で傷ついた箇所を回っていく。
傷ついた箇所と言っても、栞里が撃った魔弾による螺旋状の傷跡だけだが。
「修復」
七夏が魔法を発動すると、砕けた破片が集まって、傷ついた校舎の壁を埋めていく。
変身を解く前に補助具に意識を移して同じ魔法を確かめてみる。
どうやら、周囲の材質を参照して対象の箇所を修理、修復する魔法のようだ。
あまりに被害が広範囲に及ぶ場合は応援を呼んでもっと大がかりな魔法を使わなければならないようだが、銃痕程度なら散らばった破片を集めるだけで問題なく修復できるだろう。
(……これ、私の特異魔法とちょっと似てる……)
栞里の補助具に入っているのは基本の魔法だけだ。
魔法の種類はいろいろあるようだが、初めのうちは基礎を固めた方がいいというらしいので、そのままにしてある。
しかし少なくとも、栞里にこの修復の魔法は必要ない。
今度もっと別の魔法に入れ替えてもらおうと思いつつ、栞里は変身を解く。
「う……」
七夏の言った通りだった。
変身を解いた途端、急に全身が鉛のように重くなる。
ただでさえ急激な魔力消費で消耗していた栞里の体は、あっけなくぱたりと地面に倒れた。
(あんな小さなヘイトリッド一匹退治するだけでも、こんなに疲れるんだ……)
この疲労も、当然と言えば当然のことなのかもしれない。
人が全力でコンクリートの壁を殴ったところで、穴が空くわけじゃない。
しかし変身した魔法少女であれば、簡単な魔弾を撃つだけでもコンクリートの壁に穴は空く。
人が本来できない芸当をやってのけた反動としては、ただ疲れるだけだなんて、きっと安い方だ。
(とにかく、今は休もう。早く回復して、そうしたらまた七夏と、別のヘイトリッドがいないか探しに行かないと……)
間もなくしてやってきた眠気に、最初は抵抗していた。
けれどぼんやりとしてきた思考の中、休憩が終わりになればきっと七夏が起こしてくれるだろうと思い直す。
瞼を閉じ、ささやかな抵抗をやめた栞里の意識は、すぐに闇に飲まれていった。