花乃栞里の魔法少女生活。

 あの日の夜に振りかざした包丁より何倍も威力があるはずの澪の魔球は、何発放とうと当然のようにエプシロンには届かない。
 エプシロンの一、二メートルほど手前で見えない壁に衝突し、脆く崩れ去る。
 わかっていたことだ。魔力結晶の魔法では、精霊が行使する魔法の威力を上回ることはできない。
 勝機があるとすれば、おそらくただ一つ。
 精霊にはなく魔法少女にはある、精霊が魔法少女を恐れる理由たる唯一の力――特異魔法だ。

「受け止めてばかりもなんだから、私もちょっと手を出してみようかしらねぇ。殺さない程度に」

 エプシロンが手をかざすと、その背後に、魔力で形作られた一つの図形が現れた。
 魔法陣。人間には理解できない、精霊のみが解する世界の理だ。

「くっ……!」

 魔法陣から槍のように伸び、まっすぐに迫ってきた物質化した魔力の塊を、澪は間一髪で回避する。
 澪がいた箇所を通り抜けた細長い塊は、澪の背後に着弾すると、地面に穴を開け激しい土埃を撒き散らした。
 まともに受けたらただでは済まない。本当に殺さない程度に撃ったのかと疑うような威力だった。

「あらぁ? ちょっと加減を間違ったかしら。でもまあ大丈夫よねぇ。魔法少女は四肢をもがれても案外生きてたりするものだしぃ。まぁ、数分で死んじゃうけど」

 エプシロンが再び手をかざす。
 さきほどよりも魔法陣の数はさらに増え、四つとなっていた。

「ほらぁ。必死に避けなさいな。晩餐前の余興だもの。せいぜい楽しくいきましょう?」

 何度も何度も、絶え間なく魔槍が放たれる。
 変身の副次的効果で動体視力は飛躍的に向上し、ある程度身体能力も上がっているが、だからと言って簡単に避けられるわけではない。
 エプシロンがさきほど言っていたように、澪はまだ未熟な魔法少女だ。魔法少女になってからほとんど時間が経っておらず、戦闘経験も乏しい。
 今はなんとか避け続けることができているが、このままではやられるのは時間の問題だった。

「なら……!」

 ステッキに意識を集中させ、合計六つの魔球を一気に形成する。
 そして避けるために動かしていた足の先をエプシロンの方へ向け、一直線に走り出した。

「そんなもので私の魔法を相殺できるとでも?」

 エプシロンが魔槍を撃つ。
 狙いは澪の脚だ。逃げる手段をなくし、少しずついたぶるため。
 その槍の軌道を見極め、澪も魔球の一つを放った。
 エプシロンの言う通り、普通なら澪の魔球はエプシロンの魔槍を前に容易く消失し、澪の脚を射抜かれていたことだろう。
 だけどあくまで普通なら、だ。
 エプシロンが予見していたであろう未来に反し、澪の魔球と衝突したエプシロンの魔槍は、ともに脆く砕けるようにして消滅した。

「これは……」

 エプシロンは瞠目しつつも、二の槍、三の槍を射出する。
 明らかに澪の魔球より単純な威力は上の魔法だ。
 だがそのすべてに澪は自身の魔球を合わせ、さきほどと同じように相殺してみせる。
 ここまでやってみせれば、エプシロンもこの魔球がただの魔球ではないことに気がついたようだ。
 この魔球には澪の特異魔法、《破壊》の要素が混ぜ込まれている。
 そのせいで徐々に自壊が始まっており、持続時間が短いなどの欠点もあるが、その名の通り破壊力だけは折り紙つきだった。
 四の槍も同じく相殺し、エプシロンが四つの魔法陣を使い切ったことで、次の魔法を準備するまでの一瞬の間が生まれた。
 その隙を縫って、澪は五つ目の魔球をエプシロンに向けて放つ。
 その魔球はあと一歩エプシロンには届かず、少し前の地面に着弾し、激しく舞い上がった土埃がエプシロンの視界を遮る。

(槍の方はなんとかできても、自壊してる魔法なんかじゃ、きっとあの固い障壁は破れない……でも!)

 澪は迷いなく土埃の中に身を突っ込むと、最後の魔球を斜め上に向けて放つ。
 エプシロンは埃を払うように横切った魔球の方に目線がつられ、再装填した魔槍の先端を向けた。
 だが、澪がいるのはその反対側だった。魔球を放つと同時、身をかがめて左側に潜り込んでいる。

「直接わたしの魔法を打ち込めば……!」
「っ、背後を……」

 ステッキを振るい、障壁にぶち当てる。

(か、たいっ……! でも……!)

 力を入れれば入れていくほど、バキバキと魔力の障壁がひび割れていく。
 あの日の夜は破れなかった。だが澪のこの魔法は、この壁を打ち破るためにこそ発現したものだ。
 ならば打ち破れない道理などない。

「っ、やった……!」

 卵の殻が割れるかのようにパリンッと障壁が破れて、澪の顔に喜色が表れた。
 だが次の瞬間、ぞっとした感覚が澪の中を駆け抜ける。
 急に時間が遅くなったかのように鈍くなった感覚の中、ふと視線を上げれば、それまでの空気が一変し、冷徹に澪を見下す精霊獣の姿がそこにあった。

「調子に乗らないでよねぇ、獲物風情が」

 澪のステッキの先端がエプシロンに触れる――その寸前で、澪とは比較にならない凄まじいスピードで手が伸びてきた。
 その手はステッキを持つ澪の腕を難なく掴み、それから。
 バキンッ――と。
 なんの容赦なく、凄まじい握力をもって握りつぶす。

「ぎっ、あ――!?」
「ちょっと手加減してあげればいい気になって」

 新たに魔法陣が展開される。そしてその箇所は、澪の真下だ。
 痛みに吹き飛びそうになる意識をなんとか持ち直して、澪は体を後ろにのけぞらせて回避を図る。
 しかし完全に避けるには至らなかった。なにせ、澪の潰れた腕がまだエプシロンに掴まれている。
 脚が持っていかれた。魔槍が地面から天へと昇り、血しぶきの噴水が宙に上がる。

「おっと、危ないわねぇ」

 澪は自身の潰れた腕を介して、エプシロンの手に《破壊》を打ち込もうとした。
 しかし、今までの人生で一度として感じたことのない凄まじい痛みに意識が乱され発動が遅れ、危なげなくエプシロンに手を離されてしまう。
 澪は腕が解放されたことで、ぐちゃり、と自身の血溜まりの中に沈んだ。
 片腕と、両足。それが、今の攻防で使い物にならなくなった部位だ。
 腕は握られた前腕部分が見るも無残なほど細く圧縮され、前後の手首と後腕に押し出された肉が膨張し、ぶちぶちと皮膚を破って出てきている。
 脚は、膝から先がない。絶え間なく赤黒い液体がこぼれ続けている。

「は、ぁ……はぁ、ぁ……ぁ、あぁ……ぎ、ぅぅ……」

 視界が歪む。音が遠くなる。
 口の中が乾いて、おびただしい血の異臭に吐きそうだった。

「ぎっ!?」

 落としてしまったステッキを掴もうと伸ばした、無事だったもう片方の腕も、躊躇なく踏み潰された。
 声にならない悲鳴を上げて、這いつくばる。
 ステッキを握るための手も、逃げるための足も失った澪には、それ以外にできることがもうなかった。

「あなたのように自分の能力に振り回されるだけの小娘が、この私に太刀打ちできるわけないでしょうに……私の障壁を破って、よもや私に勝てるだなんて思い上がったのかしらぁ? 勘違いも甚だしいわ」
「あぐぅっ!?」

 腹を蹴りつけられる。腕を潰した時とは違い、殺さないようにある程度加減されているが、今の澪にはそれだけで形容しがたい激痛が走る。
 苦しみ、ひれ伏し、呻き声を上げる澪を眺め、多少溜飲を下げたのか、エプシロンの表情に笑みが戻った。

「まあ、いいわぁ。もう身のほどはわきまえてくれたみたいだしねぇ。余興はもうおしまい。そろそろあなた自身を頂くとするわ」
「ぁ……ぅ……」
「さようなら。そしていらっしゃい。私が待ちわびた、愛しい記憶」

 澪の首根っこを掴み、エプシロンが大きく口を開ける。
 魔法少女になった時と同じ、自身の心に触れられる感覚がした。

(……ごめんね……栞里ちゃん……)

 やはり結局一人では、エプシロンには敵わなかった。
 すべてを失う。その直前に澪が思い浮かべたのは、こんな自分とともに未来を生きたいと願ってくれた、一人の少女の姿だ。
 たくさんの初めての気持ちをくれた人。ただ一緒にいるだけで幸せで、自然と笑顔がこぼれた人。
 もっと一緒にいたい。その思いが溢れて止まらない。
 ……でもこの思いさえも、もうなくしてしまう。忘れてしまう。
 その事実に、澪の心は耐えられそうになかった。だけどすでに、澪に抗うすべなんて存在しない。
 失意のまま、ぽろぽろと涙をこぼすしかなくて。
 気がつけば、澪の口はぽつりと、最期の願いを紡いでいた。

「たす……けて……しおり、ちゃん……」
「――――っ」

 その願いは、叶うはずがなかった。
 澪は約束を破って、一人でここに来た。今はもう澪とエプシロンしか知らない思い出の場所へ。
 だから涙で滲んだ視界の向こうに、雲から顔を出した月を背にする彼女の姿が見えた時、澪は一瞬、それが幻覚ではないかと疑った。

「照準補正!」
「障壁」

 エプシロンが澪の記憶を喰らう行為を中断し、一度は澪に破られた全方位への障壁を再展開する。
 栞里が不意打ち気味に上空から放った魔弾は激しい衝突音を奏でたものの、エプシロンの障壁には傷一つつけられずに消えてしまう。

「どうやってここが……でも、無駄なことを。そんなものじゃ私の魔法には敵わない」

(栞里……ちゃん? 本当、に……?)

 もう会えないと思い込んでいた想い人の姿を見て、諦めていた澪の心に、再び小さな火が灯った。
 歯を食いしばり、激痛に耐えながら可能な限り上半身を捻って、その反動を乗せて潰れた両腕を思い切り振り回す。
 そしてその両手の指先が、エプシロンの体と障壁の内側、それぞれに触れた。

「っ、あなた……!」

 エプシロンの方は魔法の効果が及ぶ直前で澪を手放し体を離したことで、傷を与えることはできなかった。
 だけど障壁の方は違う。ほんの一瞬しか触れていないため壊すには至らなかったが、触れた箇所には大きな亀裂を入った。
 その亀裂に栞里の魔弾が炸裂し、エプシロンの障壁が砕け散る。
 エプシロンは小さく舌打ちをすると、続く魔弾を回避するため、澪を置いてその場を飛び退いた。
 そしてエプシロンが立っていた場所に入れ替わるようにして栞里が着地する。

「しおり、ちゃん……」

 エプシロンと相対する、幻ではない、確かにそこにいる大切な人の背中を見て、澪はその名を呼ばずにはいられなかった。
 倒れ伏す澪を見下ろすと、栞里はその凄惨な様相に顔をしかめた。

「……動かないで」

 澪のそばにかがんで肩に手を添えると、栞里の特異魔法が発動し、澪の傷が治り始める。
 潰れた腕は元の大きさを取り戻し、腫れていた皮膚も正常な色彩に変化する。
 飛び散った血は脚の中に戻っていき、失った部位さえ再生して、澪の肉体は万全の状態を取り戻した。
 ついさきほどまで絶えず感じていた耐えがたい激痛も嘘のように消え失せている。
 澪が栞里の魔法を見たのは彼女が包丁で手を切ってしまった時の一度きりだったので、ここまでの効力があったとは知らず、目を丸くした。

「これは、《回復》の特異魔法……? それも相当強力な……」

 あのエプシロンも、これには驚かずにはいられないようだ。

「立てる?」
「う、うん」

 起き上がり、体の状態を確認してみるが、違和感は少しもない。
 さすがに戦いで失った魔力までは戻らないが、それ以外の身体的な要素はやはりすべて、エプシロンと相対する前の不自由ない状態を取り戻している。
 これだけのことをしてみせたというのに、栞里にはほとんど疲労の色は見られない。
 これが特異魔法。精霊が唯一恐れる力なのだと、澪は再認識する。

「栞里ちゃん……わたし……」

 家族の記憶を取り返すためには半ばしかたなかったとは言え、澪は一緒にエプシロンを倒すという栞里との約束を破って、一人でここに来た。
 エプシロンに記憶を喰われる寸前にこそもう一度その顔を見ることを望んでしまったが、いざ目の前にするとどうにも合わせる顔がなくて、澪は目を伏せた。

「……澪。顔を上げて」

 栞里が澪の正面に立って、澪の両肩を掴んだ。
 澪はその時なんとなく、栞里は優しいから落ち込んだ自分をなぐさめてくれるのだろうと、そんな予想をしながら言われた通りに頭を上げた。
 しかしそんな甘い期待をしていた澪に炸裂したものは、思いっ切り振りかぶった凄まじい頭突きであった。

「ゔぇっ!? え、なん、えっ? い、いたっ、痛い……」
「っ、つぅ……」

 せっかく治ったのに新しい怪我が増えてしまった。だってこれ絶対たんこぶもんである。
 あまりの威力に、食らった澪ばかりでなく栞里までも頭を押さえて顔を歪めている。
 ちょっと遠くの方でエプシロンでさえ、唐突な頭突きにポカンと呆けていた。

「し、栞里ちゃん? なんでいきなりこんな……」
「……お母さん式お仕置き……昔危ないことした時に、一回だけやられた……」
「お、お仕置き?」
「平手だとぶたれた人だけ痛いけど、頭突きなら二人とも同じ痛みを味わえるから、って……でも、ほんとに痛い……」

 ふるふるとかぶりを振って、栞里は額に当てていた手を下ろした。
 赤く充血して、見るからに痛そうだ。きっと自分も同じ惨状になっているのだろう、なんて澪は思う。

「……一人で勝手に突っ走ったことは、これで許す。けど……」

 栞里は澪にふらふらと近づくと、澪の手をぎゅっと握りしめる。
 澪はそこでようやく、栞里が小刻みに震えていることに気がついた。

「本当に……心配したんだから」
「あ……」

 栞里は、今にも泣きそうな顔で怒っていた。
 栞里が震えている理由も、澪はすぐに察する。
 ここに来るまで、ずっと彼女は不安だったのだ。
 怖くて怖くてしかたがなかった。
 澪が無事かどうか。もう手遅れではないか。
 もしかしたら澪はもうすでに、病院で見た澪の家族と同じように、すべてを忘れた廃人になってしまっているかもしれない。
 したくもないそんな妄想が頭の中にこびりついて、離れてくれない。
 そんな思いを胸の内に抱えながら、きっと栞里はここまでやってきたのだ。

「……ごめんね。本当に……ごめんなさい」

 どんななぐさめの言葉なんかよりも、栞里のその思いこそが澪の心を強く打って、澪は本心から頭を下げた。
 栞里はそんな澪をじーっと見つめ、肩をすくめると、澪の頭を撫でる。
 だけどその撫で方はいつもと違って少々乱暴だ。
 なんというか、本当にわかってるの? って感じの疑わしそうな手つきで。
 ……どうやら申しわけないと思うと同時に、それと同じくらい心配してくれたことが嬉しいと感じていたこともバレてしまっているようである。
 澪がいたずらっぽく舌を出して笑ってみせると、栞里は追加のお仕置きと言わんばかりに人差し指で澪の額のたんこぶをつつく。
 それからようやく、栞里は安心したようにかすかに口元を緩めた。

「あらあら……のけ者にしてくれちゃって、妬けるわねぇ」

 栞里と澪のやり取りを傍観していたエプシロンが、冗談交じりによよと泣き真似をする。
 エプシロンの声を聞くだけで眉をひそめ、不快感をあらわにする澪を手で制し、栞里はエプシロンと相対した。

「……一応確認する。あなたが精霊獣エプシロンで相違ない?」
「ええ。そういうあなたは、そこの澪ちゃんのパートナーちゃんねぇ」
「……私のこと、知ってるの?」
「もちろん。なにせ今日は日がな一日、あなたたちを空から観察してたもの」
「空から……」

 栞里も精霊が動物に姿を変えられることは当然知っている。
 鳥類に変化し、尾行されていた。その答えにたどりつくまで時間はかからなかった。

「昨日の朝方、澪ちゃんが一人で私を探してる姿を見つけてねぇ。やっと協会の監視が外れたみたいだったから、昨日のうちにこの場所を作り上げて、今日はずっと機会を窺っていたの」
「……やっぱり(・・・・)

 驚くことなく、平坦な声音で栞里がそう返答すれば、エプシロンはぴくりと目元を動かした。

「やっぱり? どういうことかしらぁ」
「どうもこうもない。あなたが澪に目をつけていたことは知っていた。そして、いずれ必ずまた接触を図ることもわかってた。ただそれだけのこと」
「え……え? い、いつの間にそんな……?」

 栞里のその答えには、エプシロン以上に澪が瞠目する。
 当たり前だ。だってそんなこと、澪は栞里から一ミリたりとも聞いていない。
 だが、ハッタリではないだろう。栞里はなにか確固たる自分の考えを持ってそう言っている、と澪は感じた。
 栞里は困惑している澪の方に振り返ると、なにか言うか言わまいか迷うような素振りをしてから、結局言うことにしたようで口を開いた。

「……澪に教えると、自分を囮にするとか言い出しそうだから黙ってた」
「し、信用がない……」

 ……でも確かに言っていただろう。自分が狙われていると知っていたなら。

「澪には悪いけど……私にとっては澪の家族の仇を討つことよりも、澪の方が大事だったから。できることなら澪をそんな危険に晒したくなかった……ごめんね」
「……えへへ。気にしないで栞里ちゃん……ありがとね」
「……ん」

 結局は栞里のそんなささやかな望みは叶わず、二人が離れた隙に澪一人だけが誘導され、危惧したこととほとんど同じ展開になってしまったが……間に合ってよかったと栞里は心底から思う。
 加えて、こうして実際にエプシロンをあぶり出すこともできた。
 結果オーライと言うにはまだ早すぎるが、二人揃ってエプシロンと相対している今の状況は、決して悪いものではないはずだ。

「……どうして私の狙いに気づいたのか、参考までに聞いてもいいかしら」

 笑みを引っ込め、少し警戒したように。
 そんなエプシロンに、栞里はいつ攻撃されても対応できるよう神経を張り巡らせる。

「簡単な話。私は澪の家族があなたに襲われる夢を見た」
「夢……魔法少女同士が近くで眠りについた時にたまに起きるっていう、共鳴現象ねぇ」
「そう。そしてその夢を見た時から、私はずっと不思議でしかたなかった。どうしてあなたはあの時、澪を見逃したのか」

 あの時エプシロンは、気分がいいからだとか、もうすぐ協会が駆けつけてくるからだとか、適当な理由を口にしていた。
 上位の存在として振る舞い、哀れな澪に慈悲を与えてやろうと言わんばかりの、傲慢な態度。
 だけど、栞里にはどうもそれがしっくり来なかった。

「エプシロンは、人の記憶を食べたい欲に飲まれた低俗な化け物。そのくせして協会からは怯えて逃げ回るだけの、弱い者いじめが大好きな臆病者」
「……言ってくれるわねぇ」
「そんなエプシロンに、目撃者の澪をただ見逃す心の度量なんてない。もし本当に食べないつもりなら、その場で澪を殺してたはずだって私は思った。でも」

 栞里には精霊の常識はわからない。だけどそれを人間に当てはめれば、自ずと答えは見えてくる。
 エプシロンは人間社会で言うところの、連続殺人犯だ。警察に所属していながら、警察を恐れて逃げ続ける犯罪者。
 そんな犯罪者が、人をその手で殺めたところを誰かに見られた。そうなった時に取る行動なんて一つ以外にありえない。
 すなわち、その目撃者を始末すること。
 だけどエプシロンは、

「あなたは澪の記憶を食べず、殺しもしなかった。他の人間にはそうしていたはずのことをしなかった。その時点で、あなたの狙いが澪に関係するなにかであることは明白だった」

 魔導協会に所属しているのなら、わずかでも証拠を残す恐ろしさは身にしみて知っているはずなのに、必要もないそんなリスクをわざわざ冒して。
 今まで散々大勢の人間を手にかけてきたくせに、その大勢のうちの一人でしかないはずの澪だけは見逃した。
 澪をなんらかの目的のために利用する気満々だ。
 まさかそれが、今日すぐに起きる出来事とまでは読めてなかったけれど……。

「……なるほどねぇ。澪ちゃんと違って怒りや恨みに囚われていないぶん、物事の本質がよく見えているみたい。褒めてあげるわぁ」

 エプシロンは獰猛に口の端を吊り上げて、演説でもするかのごとく両手を広げた。

「あなたの言う通りよぉ。私の目的は、魔法少女の記憶を食べること。そろそろ協会の目を欺くのも難しくなってきたから、最後にそれだけは食べてみたくてねぇ」
「……そんなことのために澪を?」
「そんなこと、そんなことねぇ。おいしいものを食べたいという衝動は、全生物に共通する欲求でしょう? 私も、そしてあなたも」
「……」
「ふふ。自分の感情も制御できず、たった一人でも私を探そうとするだろう澪ちゃんは、まさしく適任だったのよ。いっそ愛おしいほどに愚かでしょう? 敵うはずがないことなんて本人が一番知っているはずなのにねぇ」

 くすくすとあざ笑うエプシロンを、澪は悔しそうに睨みつけた。

「でもねぇ……栞里ちゃん、と言ったかしら? あなたが言うことが本当だとして、それでもまだ一つわからないことがあるのよ」
「わからないこと?」
「簡単な話。あなたがどうやってこの場所を探し当てたのか、ということよ。目に魔力を通そうと、この結界領域の魔法は外からじゃ見えないはず。なのにこの短時間で、あなたはどうやってここまでやってきたのかしらぁ?」

 エプシロンが澪に招待状を送り、澪がスーパーを飛び出してから栞里が今この場にやってくるまで、さほど時間は経っていない。
 エプシロンは澪の行動を逐一注意して観察していたから、なにか目印を残していたというわけでもなかったはずだ。
 そんな状況で、この短期間でただ闇雲に探すだけでここに来るのはまず不可能である。

「それこそ簡単な話。澪とあなたの関係を知ってから、私は万が一に備えて澪に私の持ち物を持たせていた」
「えっ? そ、そうだっけ? で、でも、わたし、栞里ちゃんからなにも受け取ってなんか……あ」

 澪はそこで、昨日栞里を澪の家族のもとに連れて行く前、校門でクマ柄のお守りをもらったことを思い出した。
 もしかして、あれが?

「あなたの持ち物……ということは、追跡の魔法ねぇ」
「そう。服に匂いが移るように、長く持ち続けたものには少なからず魔力がこびりつく。それは本来、魔力を通した目にすら映らないくらい薄い。普通は、魔法を使おうと追跡することはできない……」
「でも自分自身の所有物に限れば、自身の魔力を手がかりに容易に追跡することができる、か……ふぅん、考えたわねぇ」

 栞里の知識はレンダからの受け売りだが、同じ精霊であるエプシロンも栞里が語った現象については把握しているようだ。納得したように頷く。

「で、でも、あれはレンダちゃんからだって……」
「……半分嘘。でも、半分は本当にした」
「本当にした?」

 余計わからないという風に疑問符を浮かべる澪を横目に、栞里は新しい魔法を魔力結晶に入れてほしいとレンダにお願いした時のことを思い出す。

『はい、これでご注文の魔法は入れたよ。代わりに修復とか、他の魔法をいくつか消しちゃったけどね』

 レンダから魔力結晶と腕輪を返してもらうと、栞里はそれを元の腕に取りつけた。
 そして今度は懐から別の物を取り出す。

『問題ない。あとレンダ、これ』
『うん? なにこれ。お守り? くれるの?』
『上げる。けど、すぐに返してほしい。澪に渡し忘れたから渡しといてって言いながら』
『ちょっと言ってる意味がわからないんだけど……』
『これを澪にプレゼントしたいけど、私のものだって知られると遠慮されると思うから、レンダのものってことにしたい』
『……それ、本当に一度僕に渡さなくても、そういうことにして渡しておくけどいい? って聞いておくだけでいいんじゃない?』
『……お母さんがよく言ってた。言葉は大切にしなさい、って。だから私はできることなら嘘はつきたくない。こうやって一度レンダに渡せば半分は本当になる。それが私のギリギリの許容範囲の嘘』
『はあ……不器用なんだねぇ、栞里は。まあでも、そこが君の魅力なのかもね。じゃあ、はい。澪に渡し忘れたから渡しといてー』
『承った』

 レンダはあの時、栞里が澪と心の共鳴を果たし、澪の夢を見たことに気がついただろう。
 直前に追跡の魔法を魔力結晶に入れてもらっていたから、お守りを渡す本当の意味にも気がついていたかもしれない。
 澪に万が一のことがあった時、駆けつけるようにするためのものだと。
 だけどレンダはそんな栞里を見逃した。
 理由は簡単だ。
 協会はまだ栞里と違って、澪が再度狙われる確率が高いことを把握していなかった。
 おそらく協会は、自分たちが駆けつけるのが早かったから澪が助かったと思っている。
 きっとエプシロンがそう見えるように細工したのだ。
 でなければ、ただ一人の生き残りである澪の監視を解いたりしなかったはずだ。
 お守りも魔法もしょせん万が一のためのもの。そう判断し、パートナーを心配する一心での栞里の行動を、レンダは見逃したのだ。

「そのお守りは元々は私の持ち物。子どもの頃、お母さんからもらったの……栞里のぬいぐるみと同じクマさんのお守りだって……」
「あっ……」

 そこで澪がした表情は、なんとも言えない苦笑いだ。
 だって栞里のぬいぐるみと言えば、あれだ。疑いようもなくコアラのぬいぐるみだ。
 澪はなんだか、母からそれを受け取った時、ぷくーっ、とむくれる幼い頃の栞里が目に浮かぶようだった。

「……今はもう澪の持ち物だから、あと数日もすれば私の魔力なんてすっかり消えてるはずだった。時期が悪かったね、エプシロン」

 過去を振り払い、エプシロンに銃口を向け、銃弾代わりに言い放つ。
 そんな栞里に、エプシロンは堪えられないという風に、くつくつと喉を鳴らした。

「時期が悪い? ふふっ、良いの間違いじゃなくてぇ?」
「……嬉しそうだね」
「もちろんよ。だって私、あなたの話を聞いて安心したもの。変に警戒して損しちゃったわぁ」
「安心?」
「あなた、他のどこにも行かず一直線にここまで来たでしょう? じゃないと早すぎるもの。電波妨害は今も使っているし、誰かに連絡できたわけでもない……つまり、他に増援が来ることはない」
「……」
「今日はずっとあなたたちを見てたから、私、知ってるのよぉ? あなた、まだ魔法少女になって間もないでしょう? メガネ、つけてたものねぇ」

 七夏からもらった、魔力の残滓を見られるようになるメガネ。
 見た目は普通のメガネで、時折見かけた協会の関係者らしき人にも気づかれなかった代物だが、さすがに一日中観察されていれば、その正体にも感づかれる。

「力の使い方もまともに知らない小娘が二人……ごちそうが一つ増えたのに、喜ばないはずがないじゃない」

 そこでエプシロンは一度、栞里と澪から視線を外す。
 そうして彼女が見たのは、この公園の時計台だ。

(とは言え……協会もバカじゃないから、あまり悠長にもしていられないわねぇ。遊べるだけの時間はまだまだありそうだけど、ね)

 エプシロンが両手を広げると、その背後の空中に魔法陣が出現する。
 それを見て、澪は表情を険しくした。
 澪一人だけが相手の時、エプシロンは手加減していたと言っていたが、どうやら本当だったようだ。
 澪を相手にする時は四つだったものが、今は倍の八つになっている。一人につき四つで、八つがちょうどいいとでも言うように。

「さぁ、行くわよぉ? 死んだらおいしくなくなっちゃうから、私のために、頑張って避けてねぇ? ふふっ」

 魔法陣が光り、魔法の槍が一斉に放たれる。
 栞里と澪はそれぞれ逆方向に飛び退いて、再び戦いの幕は上がった。
 栞里も澪も、今まで命をかけた戦いなんてものを経験したことはない。
 もっとも、それは栞里や澪だけでなく、この平和な国に住むほとんどの人間がそうだろう。
 命が脅かされることへの張り詰めた恐怖も、想像を絶する形容しがたい痛みも、ほとんどの人間が知らない。
 強いて挙げるのなら、この前ヘイトリッドと戦った時こそが、栞里にとって命がけの戦いに近い経験だった。
 ただあの時は、七夏がいた。栞里が危なくなったらすぐに助けられるようにしていてくれた。
 だが今、ここに七夏はいない。

「っ……!」

 魔法の槍が頬をかすめる。同時に、片耳が音を失った。
 耳が吹き飛んだ――その事実に気がついて、一瞬遅れて痛みがやってくる。
 即座に自分の耳を特異魔法で復元したものの、痛みに気を取られている間に、さらなる魔槍が放たれていた。
 寸前で左に避けたが、間に合わなずに今度は右腕が持っていかれる。赤黒い液体とともに、半壊し、潰れた片腕が宙を舞う。
 激痛に顔をしかめつつ、栞里はこの右腕もすぐに再生させた。
 飛び散った血は栞里の中に戻り、潰れた腕は宙を飛ぶ流れに逆らい元あった場所に帰還して、本来の形を取り戻す。

「やっぱり凄まじい回復力……自分の魔力が通っていれば一瞬で復元できるのねぇ」

 戦いが始まって、すでに数分が経過している。
 次々と休みなく放たれる魔槍を前に、栞里はなすすべがない。
 最初に一度、魔弾で迎撃しようとしたこともあったのだが、容易く粉砕され脇腹を貫かれてからは、もう試していなかった。 
 魔法陣は八つで、一つ撃てば一つが消える。だけど何発か撃つ間に新しい魔法陣が再び形作られ、同じ攻撃を放ってくる。
 これでは一斉に放った場合を除き、連続で射出している限り装填の隙がない。
 栞里が耐えられているのは、エプシロンのこの魔槍が、栞里と澪の二人に分散されているおかげだった。
 もしもこの八つの魔法陣がすべて栞里に向けられていたなら、とっくに勝負はついている。

「それにしても想像以上に粘るわねぇ。だったら今度は……」

 一度エプシロンの攻撃の嵐が止み、魔法陣が消える。
 そのタイミングで栞里は魔弾を、澪は魔球をそれぞれエプシロン目がけて放つものの、彼女はそんなものまったく意に介さない。
 そのエプシロンの態度を証明するかのように、栞里たちの攻撃は固い障壁にはばまれ、その一切が通らなかった。

「単純に増やしてみましょうか」

 そしてエプシロンが手を広げると、再び魔法陣が出現する。
 その数、合計一〇だ。さっきまでは八だったから、ただ二つ増えただけに過ぎない。
 だが、そのたったの二つが二人にとっては脅威だった。
 魔法陣は何発か魔法を放つうちに復活する。だけどその復活までのタイムラグのうちに魔法を撃ち尽くしてしまったら、一瞬の間が生まれる。だからその連射速度には限界があった。
 だが今この瞬間、魔法陣が一つ増えることによって、その限界の速度が上がったのだ。

「くっ……」

 このままではジリ貧だ。いつかやられる。
 激化した攻撃の最中でそう感じた澪は、ステッキを両手に持って意識を集中させると、その周囲に六つの魔球が出現させた。
 そして澪は魔槍を避け続ける選択肢を捨て、一直線でエプシロンへ向かって駆け出す。

「それはさっき見たわぁ」

 栞里へ向けられていた魔法陣がすべて、澪の方を向く。
 どうせ栞里の攻撃では障壁を傷つけられない。ならば危険なのはこちらだ。そんなエプシロンの思考が見て取れた。
 澪の魔球は六つしかない。これでは、これから放たれる一〇の魔槍すべてを迎撃することはできない。

「澪! そのまま走って!」

 一瞬足が止まりかけていた澪にそう叫びかけて、栞里は引き金を引いた。
 悔しいが、確かに栞里の魔弾ではエプシロンの障壁を突破することができない。
 最初にやってきた時に一度エプシロンの障壁を壊せたのは、澪が事前に綻びを作ってくれていたからに過ぎなかった。
 だから栞里が狙ったのはエプシロン本人ではなく、その背後だ。
 銃口から放たれた物質化した魔力弾が、今まさに再生成されたばかりの魔法陣そのものを貫き、消滅させる。

「っ、魔法陣の段階で……」

 二つ、三つ。栞里はここまでの戦いのパターンから魔法陣が再生成される箇所を予測し、発生と同時に魔弾が穿つように仕向ける。
 そしてその調子で四つ目も狙ったが、その時には魔法陣の出現箇所そのものを変えて対処され、栞里の魔弾は空を切った。
 まずい。これではまだ七つだ。澪の魔球は六つだから、一つ足りない。

「ありがとう栞里ちゃん!」

 しかし栞里の危惧とは裏腹に、澪はそう大声でお礼を言って、今度は足を止めようとはしなかった。
 撃ち尽くした後に装填の隙が生まれることもいとわず、エプシロンは七つの槍をフルオートの銃器にように乱射する。

(変身で動体視力が上がってる今なら……目で追える!)

 変身の魔法で引き上げられた動体視力をもって、澪はそのすべてを見極め、的確に魔球で打ち消していく。
 だけどそれができるのは六つ目までだ。最後の七つ目は対応できない。

「一つ、くらいならっ!」

 七つ目の槍を、澪は直前で体を低くして下を通り抜ける形で回避する。
 一歩間違えば、頭が吹き飛んでいた。澪の背筋をひやりと冷たいものが走る。
 だがいずれにせよ、遠距離から撃ち合っていただけでは、そう遠くないうちに二人ともやられていた。
 危険を冒しただけの価値はあったはずだ。なぜなら、またエプシロンに近づくことができたのだから。
 澪はステッキを、栞里はハンドガンを構えた。
 澪は障壁を破壊するため、そして栞里は障壁が破壊された瞬間を狙うためだ。
 完璧なコンビネーションだった。
 だが、

「それで? さっきも私に近づいて、いったいなにができたのかしらぁ?」
「え、壁がな――」

 ステッキを振るおうとした澪へと、エプシロンは自ら距離を詰めた。
 それは本来であれば、障壁が邪魔をして近づけない距離である。
 どういうわけか、今のエプシロンには障壁が存在しない――否、澪がすべての魔槍に対処したと同時に、エプシロンが自ら障壁の魔法を解いていたのだ。
 障壁を破壊しようとしていた澪と、その瞬間を狙っていた栞里は、同時に虚を突かれる。
 その刹那が命取りだった。

「あぐぅっ!?」

 少し前の再現をするように、エプシロンは近づいてきた澪の腕を尋常でない速度で掴むと、いとも簡単にへし折る。
 澪の苦痛の声を聞き、栞里が半ば反射的に発砲しようとすると、エプシロンは素早く澪の腕を引っ張って、栞里の射線上に彼女を置いた。
 そうなれば当然、栞里の引き金にかけた指は止まってしまう。
 エプシロンはそれに口の端を吊り上げると、澪を軽く上に放り投げ、彼女の腹に尋常ではない威力の回し蹴りを放った。

「あ――――」
「澪っ!」

 凄まじい速度で吹き飛ばされた澪の体は、木の幹に衝突して止まった。
 幹が軋み、舞い落ちた木の葉が、澪の吐いた血で赤く染まる。
 まだなんとか意識はあるようだったが、どうやら立ち上がることができないらしい。
 木を支えにして懸命に起き上がろうとするが、その足はがたがたと震えるだけで、まるで役に立たない。

(早く治さないと……!)

 澪の惨状を見た一瞬、栞里はその注意をエプシロンから澪に移してしまった。 
 自分なら治せる。その思考が隙を生んだ。

「判断ミスねぇ」
「っ、エプシロ」
「今の私には障壁がないのだから、とにかく撃ちまくればよかったのに」

 気がついた時には懐に潜り込まれていた。
 咄嗟に銃口を向けようとしたが、もう遅いとばかりに容易く手で払われて、顎を蹴り上げられる。

(い、意識が……)

 威力自体は大したことがなかった。後で記憶を食べるため、頭を吹き飛ばさないよう加減されている。
 一番の問題は、顎を通して脳を揺さぶられたことだ。
 《回復》の特異魔法を持つ栞里に、中途半端なダメージは無意味だ。どんな傷でも瞬く間に治すことができる。
 だがそれは、気絶さえしなければという注釈がつく。
 気を失えば、もう魔法を使えない。その時点で終わりだ。

(気絶、だけは……!)

 意識を強く保ち、特異魔法を行使する。脳の状態を復元する。
 完全に気を失う前になんとかそれには成功したが、その間、栞里は無防備だった。
 栞里がはっとした次の瞬間には、澪と同じようにエプシロンに蹴り飛ばされていた。

「がっ――! ぐっ、う……! は、ふぅ……はぁ、は、ぁ……」

 金属の柱が歪むほど強く衝突し、目の前で閃光が弾けて、体のあちこちが悲鳴を上げる。
 今の衝撃で途切れてもなんらおかしくなかった、未だ残る意識を懸命に繋ぎ止め、栞里はまた、特異魔法を使う。
 潰れた内臓も、折れた骨も、すべてが元通りになっていく。ちょうど背中に触れていた、歪んでしまった柱さえも。
 この力がなければ、栞里はもう何度死んでいたかわからない。
 栞里は苦々しく顔を歪めながら、時計台の柱を支えに立ち上がった。

「へえ、なかなか意思が強いのねぇ。まだ気絶しないなんて。でもこれでもう、澪ちゃんを助けには行けない」

 ご丁寧に、栞里が飛ばされた方向は澪とは逆方向にある、公園の時計台だった。
 澪を回復させるため、彼女が倒れている方へ行くためには、エプシロンを越えていかなければならない。

「……って、あらぁ? 澪ちゃんはもう動けないのかしら」

 障壁を再展開しながら、エプシロンは澪の方を振り返る。
 澪は栞里と違って《回復》の魔法がない。
 受けた傷も、流れ出た血も戻らない。
 重傷を負った澪は、つい数秒前までどうにか起き上がろうと奮闘していたが、もうそれもできないようで、ぐったりと木の幹に寄りかかっていた。

「ふふ。それなり手応えがあったし、肋骨はもちろん、もしかしたら背骨も折れてるかもねぇ。まぁ、澪ちゃんは後でおいしくいただくとして……さて、これで一対一ねぇ? 栞里ちゃん」
「……」

 栞里を気絶させることではなく、初めからこの状況が本命だったようだ。
 栞里と澪を相手にする上で、エプシロンにとって厄介だったものは二つあった。
 その二つとは、つまり特異魔法。自身の障壁を唯一打ち破ることができる澪の《破壊》と、中途半端な傷なら瞬時に治してしまう栞里の《回復》だ。
 だけどそれは片方だけなら問題にならない。
 澪一人なら障壁がどうこう以前に、地力で打ち勝てる。栞里一人なら、障壁を壊すことができない。
 エプシロンが恐れたことは、その二つがまったくの同時に襲いくることだ。
 すなわち、エプシロンの障壁を壊すことが可能な澪を栞里が延々と治し続け、次々に手を打たれること。
 それこそをエプシロンは警戒し、澪を動けない状態にした上で二人を引き離したのだ。

「仲間思い。良い言葉よねぇ? 澪ちゃんも栞里ちゃんも、あなたたちはお互いを思い合っている。でもだからこそ、どちらかが危機に瀕した時、もう片方が未熟を晒してしまう……」

 でもね、とエプシロンは微笑んだ。

「私、好きよ。そういう温かな感情は。だっておいしいもの」
「……あなたは……おいしいものを食べたい以外に、楽しいことはないの?」
「あるわよぉ? こうやって人間をいじめてる時間が好きだわぁ。だって私、弱い者いじめが大好き、らしいものねぇ」

 少し前に栞里に蔑まれたことへの意趣返しでも言わんばかりに、くつくつと笑う。
 対話は通じない。わかっていたことだ。
 相手は人間でもなければ、もはやレンダのようなまっとうな精霊でもない。
 ただの獣だ。自分が何者かなんて悩みもしない、己の欲望に従うだけの正真正銘の化け物に過ぎない。

「まだ抗うの? あなたの力じゃ、私の障壁は打ち破れないのに?」

 栞里が再び二つのハンドガンの銃口を向けると、エプシロンはバカにするように鼻を鳴らした。

「諦めたらぁ? どうせあなたじゃ私には勝てないんだから」
「……どうかな」

 栞里がレンダに入れてもらった魔法は、追跡の魔法だけではない。
 元々栞里は、精霊獣が澪に接触してくることを予想していたのである。
 ならばその対策のための魔法を入れてこないはずがなかった。
 ……もっとも、今まで使わずにいたことからわかるように、使い勝手が良い魔法だとはとても言えないが……。

(今、エプシロンは完全に油断してる。初撃は避けない……今なら必ず当てられる。どうにか、これで決められれば……)

 引き金に指をかける。
 魔弾ではエプシロンの魔法に敵わないことは、もう身にしみて理解した。
 だから栞里が今から使うのはごく単純に、それよりもずっと威力が高い、ただそれだけが取り柄の魔法だ。

「っ――これは……!?」

 栞里が二つの引き金を引くと、魔弾より太く鋭い藍色の閃光が宙を切り裂き、エプシロンに襲いかかった。
 魔弾や魔球の一発のみ発射するタイプとは違い、これは大量の粒子の集団を絶え間なく叩きつける、ビームに近い砲撃の魔法だ。
 基本的に魔力結晶の魔法はエプシロンには通じない。しかしこれだけの威力があれば、あるいは。

「ちっ」

 障壁に亀裂が入ると、エプシロンは素早く魔球を二つ出現させて栞里に放った。
 これまで何度も使っていた魔槍ではなかったのは、エプシロンも多少なりとも突然のことに焦っていたからだろう。
 魔槍よりも構造が簡単で、作るのが早い魔球が咄嗟に出た。
 そしてそのおかげで、栞里は間一髪助かったのだった。

「ぐっ……!」
「……あらぁ?」

 エプシロンが放った魔球は、なぜか避けようともしない栞里の両腕を難なく弾き飛ばし、砲撃を放つ手を止める。
 あまりにも簡単に自分の魔法が当たったことで、エプシロンは訝しげに眉をひそめた。
 エプシロンが栞里に与えた傷は当然ながら次の瞬間には傷一つなく完治するが、今の魔法が運良く魔球だったからその程度で済んだだけだ。
 もし魔槍であれば、治癒する間もなく死んでいただろう。

「……くふ、ふふふっ、ふふふふふふっ!」

 なにがおかしいのか、エプシロンは腹を抱えて笑い始める。
 そうして今の一撃で決められなかったことに唇を噛む栞里を見やり、からかうかのようにパチパチと拍手した。

「いやぁ、良い魔法だったわねぇ? この私の障壁に罅を入れるなんて、大した魔法だわぁ。ちょっと驚いちゃった」
「……」
「でも今の魔法、どうやら致命的な欠陥があるみたいねぇ」

 栞里が銃口を向ければ、呼応するようにエプシロンも魔法陣を生み出す。
 その魔法陣の数は、たったの一つ。
 だけどそれだけで、栞里が引き金にかけていた指は止まってしまった。

「やっぱり。その魔法、反動が大きすぎるんでしょう? あれだけの威力だもの。当然よねぇ。撃っている間は制御に手一杯で、まともに動くこともできない」
「……どうかな。できないふりをしてるだけかも」
「はぁ? なにその下手くそなハッタリ。棒読みすぎるわよぉ? ふふっ、これは傑作」
「…………」

 苦手なりに頑張って見栄を張ったのに一瞬で見抜かれた上に傑作とか言われて、栞里はイラッとして目元をピクつかせた。
 ……しかし実際のところ、すべてエプシロンの言う通りでもあった。
 この魔法は威力だけは折り紙つきだが、それ以外がてんでダメなのである。
 さきほどの魔球だって、あれが仮に魔槍だったら冗談抜きで栞里は死んでいた。
 だから今まで使わなかった……というよりも、危なすぎて使えなかったのである。
 だがここまで来たら、もう背に腹は代えられない。
 さきほどエプシロンの障壁を破りかけたことで、その威力のほどは証明できた。
 どうにかこれを使いこなし、エプシロンを退け、一刻も早く澪を助けなくては。
「遊べる時間はまだあるわぁ。ゆっくり遊びましょう?」

 栞里が背にする時計台の上を流し見して、エプシロンは両手を広げた。
 すでに一つだけ展開していた魔法陣にさらに四つが追加され、計五つになる。
 栞里と澪の二人を相手にしていた時は最大で一〇まで同時展開していたので、どこからどう見ても手加減モードだ。
 五個程度が栞里で遊ぶのにちょうどいい数だとでも言いたげである。
 ……いや、実際そうなのだろう。
 エプシロンにとって、こんなものはしょせん遊びなのだ。おいしいものを頂く前のスパイス。軽い運動に過ぎない。
 栞里が使った、大量の魔力粒子による砲撃――魔砲の威力は、すでにエプシロンにも知られてしまった。
 もう無防備に食らってはくれないだろう。

「……なら!」

 魔砲は隙が大きすぎるため一度控え、エプシロンを狙う素振りを見せつつも、直前で照準を変えて魔弾の引き金を引く。
 狙ったのは、五つある魔法陣のうちの一つだ。
 栞里の魔弾は澪が使う魔球ほどコントロールは効かない。だが速度だけなら、魔球どころか魔槍よりも数段速い。
 狙い通り、魔法が放たれる前に魔法陣の破壊に成功し、一時的に魔法陣の数を四つにできた。
 その次の瞬間には、その四つのうちの一つが魔槍が生成し、栞里目がけて発射される。
 それを上空に跳んで躱し、着地するよりも早く、栞里は魔法陣へと再度照準を合わせた。

(魔法の消費速度を早めさせる!)

 エプシロンの魔槍の魔法で脅威なのは、一発一発を休む間もなく連続で放たれる上、最後の一つを放つ頃には最初の魔法陣が再展開されていることだ。
 だけどそれは逆に言えば、同時に二つ以上の魔法を撃つことはしないということでもある。
 同時に使ったりなどして魔法の消費速度が早まれば、自ずと再展開が間に合わなくなり、魔槍を撃てない時間が生まれてしまう。
 栞里はその弱点を狙うことにした。
 栞里の補助具は双銃型。一度に二つまで魔弾を射出することができる。
 つまり、その二つの弾丸で同時に二つの魔法陣を狙えば、片方は必ず撃ち抜けるという寸法だ。

「へえ」

 栞里の狙いに気がついたエプシロンが、感心したように声を上げる。しかしまだまだ余裕そうだ。
 栞里が放った二つの魔弾の片方は確かに魔法陣を撃ち抜いた。しかしもう片方は、先に生まれた魔槍に打ち消される。

(これで、軌道を……!)

 空中にいる以上、まともな回避行動は取れない。
 だから栞里は片腕を動かし、明後日の方向へと魔弾を放つ。
 するとその反動で栞里の体は逆方向に押し出され、栞里の横を魔槍が横切った。

「あと、一つ」

 着地と同時にエプシロンの背後に展開されている魔法陣の数を再度確認し、これなら行けると判断して栞里は前へ飛び出した。
 最初に一つ破壊し、上に跳んだ際の同時撃ちでもう一つ破壊した。この時点でもう二回分の時間の余裕がある。
 走りながら、残った一つの魔法陣にも魔弾を撃つ。
 その栞里の攻撃は先に生み出された魔槍を前に消えてしまったが、それでいい。使わせることが目的だ。
 魔弾を撃っていた関係で回避できず、脇腹が穿たれ、臓器が混じった赤黒い血が宙を舞った。衝撃で下がりかけた体を、無事だった方の手に握ったハンドガンから撃ち出した魔弾の反動で支える。
 受けた傷はすぐに治した。そしてその頃にはもう、栞里はエプシロンの障壁の目前にいる。

「この距離なら!」

 装填する魔法を切り替え、二丁のハンドガンの銃口をエプシロンに向ける。
 だけど引き金を引く寸前で、エプシロンが小さく笑みを浮かべたことに気がついて、指が止まった。
 笑みと同時に、エプシロンの目線が一瞬だけ下を向いていた。もしかしたら。

「っ、つぅ……!」
「あら。なかなか勘が鋭いのねぇ」

 咄嗟に飛び退くと、一瞬前にいた地点の真下から魔槍が飛び出してきた。
 気づかないうちに、足元に魔法陣を作られていたのだ。
 しかしギリギリで回避は間に合った。今度こそ、至近距離から魔砲を撃ち込める。

「貫いてっ!」

 回避のために下がったぶんだけ踏み込み、二つの銃口から藍色の奔流を放射する。
 エプシロンが言っていた通り、この魔法は反動が非常に大きい。
 正しい姿勢で撃たなければ、腕が補助具の暴れを制御し切れず射線はめちゃくちゃになる。下手をすれば肩が外れることもあると言う。
 レンダからは魔力結晶に入れない方がいいと口酸っぱく注意された魔法だ。
 それでも、もしもの時のためにと無理を言って入れてもらった。これを強引に制御するための、魔力の膜を張る魔法とともに。

「くっ、ぅぅ……!」

 栞里は魔砲と同時に、背中の後ろと、それから腕を包み込むように、物質化した魔力の膜を張った。
 これは、反動でのけ反りそうになる栞里の肉体を無理矢理その姿勢に留めるためのものだった。
 こうすればどんな姿勢で撃とうとも関係ない。射線がそれることもない。
 だが、こんなことをすれば栞里の体には多大な負荷がかかるのは必然だった。
 本来ならのけぞり、空に逃げるはずの負担や衝撃が、余すことなく栞里の肉体に襲いかかる。
 骨が軋み、ぶちぶちと体の中から嫌な音がした。視界が白く弾けて、尋常でない激痛が体中を走り回る。
 通常であれば二、三秒で音を上げるか体の方が限界を迎えるところだが、栞里には唯一無二の《回復》の特異魔法がある。
 一瞬前の状態を常に復元し続けることで、その身はどんな負荷にも耐え続けることができた。
 もっとも、それは発射している間中、想像を絶する苦痛を味わい続けることにほかならないが。

「ぐ、ぎ……!」
「…………」

 障壁に亀裂が入る。あと少しだ。もっと出力を上げなくては。
 魔力を注ぐごとに、痛みが増していく。
 筋繊維がちぎれ、治り、またちぎれ、治り。骨が折れ、砕け、治ってはまた折れて砕ける。
 治ってしまうからこそ、常に鮮烈な激痛が駆け回っていく。
 体の内側から強引に引き裂かれ続けるかのようなそれは、外部からの刺激による苦痛とはわけが違った。

(でも、澪が味わった痛みに比べたら、こんなもの……!)

 エプシロンの向こう側の木の下でぐったりとしている、彼女の姿が目に留まる。
 澪は、優しい普通の女の子だった。
 いつも明るく、笑顔を絶やさない。
 自分がどんな境遇に置かれようと、誰かの力になりたいと自然に思えるような、心の優しい女の子。
 本当なら今だって、自分の家で、家族と当たり前の幸せを過ごしていたはずだった。
 普通に生きることができていれば、こんなところで血まみれで倒れ、苦しむこともなかった。
 エプシロン。澪の家族の仇。すべての元凶。
 許すわけにはいかない。
 倒さなくては。もう全部、ここで終わりにしなければ。
 この先の未来を、澪と一緒に歩くためにも、絶対に。

「…………残念。時間切れよ」

 だがそんな栞里の思いは、届いてはくれないようだった。
 エプシロンが片手を横に広げれば、新たに魔法陣が出現した。
 そしてそこから容赦なく魔槍が放たれる。
 魔砲の発射中は回避行動が取れない。
 死が目の前に迫る最中、栞里は咄嗟に腕と背を支えていた魔力の膜を解いた。
 すると途端に魔砲を制御し切れなくなり、凄まじい反動で栞里の体がのけ反る。
 だがそれでも、魔槍を完全に回避するまでには至らなかった。
 両足の膝から先を持っていかれ、魔砲の反動にさらに魔槍が地面に衝突した爆風が追加されて、栞里の体は勢いよく後方へ吹っ飛んだ。

「ごふっ……!」

 再び時計台の柱に背中を打ちつけ、口の中に血の味が広がった。
 一瞬遅れてぐちゃりと無様に地面に這いつくばる。
 破壊された両足からドバドバと血が流れ出ていた。意識が朦朧とし、体の感覚が希薄になっていく。

(早く、回復を…………あ、あれ……)

 これまでのように《回復》の魔法を使おうとした。
 だけどどうしてか、うまく使えない。
 エプシロンになにかされたのか? 魔法の発動を妨害する魔法?
 ……違う。そんなんじゃない。たとえ精霊でも、特異魔法を御することなどできるはずがない。

「魔力切れね。新米のくせして、あれだけの魔法を長時間使い続けたんだもの。当然ねぇ。むしろ今までよく持った方だわぁ」
「魔力……切れ……」

 栞里はまだ魔法少女になって日が浅い。元々ヘイトリッドと短い戦闘を行っただけでも、その後三〇分は寝込んでしまっていた。
 栞里の心はまだ、魔法を長時間使い続けられるほど仕上がっていないのだ。
 むしろエプシロンの言う通り、ここまでよく持ち堪えた方なのだろう。
 大量の出血に加えて、心の疲労。
 全身が鉛のように重い。指先一つ動かすことさえ億劫だった。

「だから言ったのにねぇ。人間は精霊には敵わないって」
「ぐ……ぅ……」
「どんな思いや覚悟を抱こうと、結局全部無駄なのよぉ。そんなものでどうにかできる世の中なら、私みたいなのが蔓延ってるはずがないもの」

 それは紛れもない正論だった。
 スポーツを始めたての人間がプロ選手と同じプレーなどできないように、残り時間わずかで大差がついてしまった試合で逆転などできないように。
 この世界には、思いの強さだけではどうにもならないことが星の数ほど存在する。
 これもまた、その一つに過ぎないのだ。
 栞里と澪の二人ではエプシロンには決して勝てない。
 エプシロンはそのことをわかっていた。だから殺すのではなく、瀬戸際を演じて遊んであげていたのだ。
 無駄な希望を抱く愚かな二人を、その希望ごと、後でまとめておいしくいただくために。

(……そうだ……私は、知ってた。最初から……)

 それは魔法少女になるよりも、高校に入学するよりも、ずっと前の記憶。
 あの頃もそうだった。
 しんしんと雪が降り積もり、枯れた木の葉が舞い落ちる。
 肌寒い空気から身を守るように、いつもマフラーに顔を埋めていた。

『ごめんね、栞里』

 母を想起する時、初めに思い出すのはいつもその言葉だ。
 昔からいつも、ずっと謝ってばかりだった。
 貧乏でごめんなさい。苦労をかけてごめんなさい。好きなことをさせてあげられなくてごめんなさい。
 病気になんてなってしまって、先にこの世を去ることになってしまって、ごめんなさい。
 栞里はそれが嫌いだった。ごめんなさいだなんて、そんなことを言ってほしいわけじゃなかった。

『一つ目は、言葉を大切にすること。言葉は力を持つから』

 なにを言ってほしかった? どんなことを言ってもらえたら満足だった?
 いくら考えても答えは出ない。もしかしたら、どんな言葉でも足りなかったのかもしれない。
 大切な思いはすべて過去に置き去りにしてきてしまった。もう二度と拾い上げることもできない。

『二つ目はね、あなたを大切にしてくれる人を、大切にすること』

 澪は栞里のことを、母を治してあげたかったのだと言っていた。だから《回復》の魔法が生まれたのだと。
 でも、それは違う。
 栞里は母を、治したかったわけじゃなかった。そんなことを願ったわけじゃない。
 栞里の願いはもっと醜く、独善的で、許されるはずもないことだ。

『あなたに大切にしてほしい、三つ目のことはね――』

 そこは、記憶の果て。
 白い病室で、あの人は弱々しく栞里の手を掴んで、嗚咽の混じった声で、続きを言った。

『あなた自身の幸せを、見つけること』
『私の……幸せ?』
『そう。あなたが楽しいと感じること、嬉しいと感じること……そういうものに耳を傾けてほしいの。栞里。あなたが幸せだって感じることってなにかしら?』
『……お菓子がいっぱい食べられたら幸せかも?』
『ふふっ。じゃあ、高校に入ったらアルバイトでも始めてみるといいかもしれないわね』
『アルバイト?』
『自分で稼いだお金で欲しいものを買ってみるの。きっと心に残る思い出になるわ』
『ふむぅー』
『他にはなにかないかしら? もしこうだったら幸せかもっていうこと』
『……』

 ずっとずっと、栞里は願っていた。
 許されるはずもなく、叶うはずもない、それを。
 栞里は迷った。それを、口にしてしまっていいのかと。
 言葉にしてしまえば、きっと自分は、今目の前にある現実を受け入れなくてはいけなくなる。
 怖かった。今まで当たり前のようにあった日常が崩れることが……いや、すでにそれが崩れ始めてしまった現実を、認めたくなかったのだ。
 幸せ。自分にとっての、幸せ。
 そんなもの、本当は考えるまでもない。

『お母さんと、ずっと一緒にいたい』
『……栞里……』
『明日も、明後日も、明々後日も……この先も、ずっと……もっと、いっぱい……』

 嗚咽が交じる。溢れ出した涙が止まらない。
 今日までずっと、なんてことないように装っていたのに。涙なんて出なかったのに。
 どうしてこんな、今になって。
 どうせこんな思い、叶わないのに。もう一緒にはいられなくなるのに。
 どうして……。

『……ありがとね、栞里』

 いつもそうするように、母は栞里の頭を撫でた。
 優しく温かい、安心する手のひらが。
 あとどれだけこの感触を味わえるのだろう。あとどれだけの時間、一緒にいられるのだろう。
 考えるだけで、胸が苦しくなる。泣き叫びたくなる。
 戻りたい。もっとずっと、昔に。
 なんの不安もなく笑い合えた、幸せな日々に。

『私は幸せだったわ、栞里。あなたがいてくれたから。今日までずっと笑っていられた』
『わた、しは……』
『大丈夫。あなたならきっと見つけられるわ。あなた自身の幸せを……』

 だから、ね。
 そう言って、母は栞里を抱き寄せた。

『……今だけは……あなたと一緒にいさせて』
『おかあさん……』
『……ごめんね。ダメなお母さんでごめんね。見送らなきゃいけないのに。もうすぐ別れなきゃいけなくなるのに……一緒にいたい。私ももっと、栞里と……』

 涙声で言いながら、震える手で、彼女はいつまでも栞里を抱きしめ続けた。
 どんなに強く願おうと、どんなに強く思おうとも、どうにもならない。
 それでも願わずにはいられなかった。
 ……母を亡くし、栞里は毎日を空虚に生きた。
 毎日毎日、同じことを繰り返す。
 家に帰って、ご飯を作って、帰りが遅い母を待つ。
 何十分も、何時間も、待ち続ける。
 今日は帰ってくるだろうか。明日はどうだろう。明後日は。
 時間が〇時を回ると、夜更しはダメだと母に怒られるような気がして、いそいそと寝支度をした。
 ラップをかけた一人分の夕食は、次の日の朝には捨てなきゃいけなくなるのに、ずっとそのままで。
 以前と同じ、変わらない日々を機械のように繰り返して、もう二度と帰らない人を待ち続ける。
 大好きだった母の温度が残った生活を、いつまでもいつまでも。
 そんな毎日だった。

『えっと……栞里、ちゃん? で、いいのかな?』

 そんな日々が変わったのは、あの時からだ。
 澪が声をかけてくれたあの時から、栞里の世界に再び色がつき始めた。
 澪がいなかったら、きっと魔法少女なんて信じもせずに一蹴していた。
 澪がしばらく家に泊まることになって、癖になっていた二人分の食事を作ることに、また意味が生まれた。

『えへへ。今のわたしは、栞里ちゃんの家族だよ』

 澪にとっては何気ない一言に過ぎなかっただろうその言葉が、栞里にとってどれだけ嬉しいものだったか、彼女は知らない。
 隣にいると、自然と笑顔になれた。母を亡くして以来、ずっと浮かべていなかった笑顔を浮かべることができた。

『……栞里ちゃんのお母さんは、きっと……栞里ちゃんと一緒にいられて、幸せだったんだね』

 あの時、栞里は本当は起きていた。
 ずっと忘れていたんだ。母を亡くした悲しみで、目を背け続けてきてしまった。
 一緒に過ごした日々を、母が幸せだと言ってくれたことを。
 もし母がこれまでの栞里を見ていたなら、どう思っただろう。
 一人でずっと、もう帰らない自分を待ち続けていると知ったら、どう思っただろう。
 澪の言う通りだ。栞里が母を大好きだったように、きっと母も栞里のことが大好きだった。
 だからこそ栞里は、過去に戻ることだけを望む生活を、もう終わりにしなきゃいけないと思った。

『わたしも、もっと皆と……栞里ちゃんといたい……いたいよ。栞里ちゃんと……いつの日か、正式なパートナーになりたい……』

 ……そうだ。
 栞里はもう知っていた。この胸の内に宿る感情を、なんと呼ぶのか。

「え……?」

 再生する。
 心の奥底から絞り出した魔力をもって全身の状態を《回復》し、時計台の柱に手をかけて、立ち上がる。
 凄まじい倦怠感だ。ヘイトリッドとの戦いの後、変身を解いた時とは比較にならない。
 それでも気力だけで立ち続け、睨みつける。驚いた表情でこちらを見るエプシロンを。

「……どうして? もう限界のはずでしょう? 無駄だってわかってるはずでしょう? なのに、諦めないの? まだ立ち上がるの?」
「……」
「…………ふ、ふふふふっ、あっははははは!」

 溢れる感情を抑え切れないように、高笑いが次第に大きくなっていく。
 そしてエプシロンは今までで一番の満面の笑みを浮かべ、恍惚とした眼で栞里を見つめた。

「いいわぁ、いいわぁっ! こんな絶望の中でも輝いて色褪せない思い……あぁっ、どんな味がするのかしらっ! もう楽しみでたまらないわぁ!」

 熱が混じった不快な声が嫌に響く。
 今すぐにでも栞里の記憶を食べてしまいたい。そんな思いが透けて見えるようだ。

「立ち上がろうと状況はなにも変わらないのよぉ? どんな思いも覚悟も無駄に過ぎないのに……ふふ、ふふふふっ、愚かだわぁ。愛おしいわぁ」
「……」
「私もしかしたら、あなたに出会うために生まれてきたのかしらぁ? そしてあなたは、私に食べられるために……あははっ! 運命だったのよ、この出会いはっ!」

 どうやら彼女は栞里が立ち上がったことに、いたく感動しているようだった。
 どうにもならないとわかっていながら、未だ立ち向かわんとする、そんな栞里に。
 だがそれは、勘違いも甚だしいことだった。
 この世界には、思いの強さだけではどうにもならないことが星の数ほど存在する。
 そんなことは栞里も重々承知だ。
 だから栞里が立ち上がったのは、思いの強さだけが理由ではない。
 確かに、栞里と澪が逆立ちしたところでエプシロンに勝てる確率は〇だろう。
 だが、それはあくまで栞里と澪の二人が、だ。
 もう時間稼ぎ(・・・・)はじゅうぶんだろう。

「もう我慢できない……いただくわぁ、あなたの記憶っ! あなたのすべてを、私に食べさせてぇっ!」

 栞里に触れるため障壁を解き、エプシロンが一直線に栞里に襲いかかる。
 今の栞里は気力だけでなんとか立っている状態だ。精霊の膂力に任せたその凄まじい速度に到底反応することはできない。
 動けずに立ち尽くす栞里に、ついにエプシロンの手が触れる――。
 寸前で、エプシロンの手が瞬きの間に斬り落とされた。

「なっ!?」
「――私の後輩を、ずいぶん可愛がってくれたみたいだね」

 いつの間にか、雷鳴のような速さで栞里とエプシロンの間に割り込んだ変身済みの七夏が、剣を振り切った体勢でそこにいた。
 信じられないようなものでも見たかのように、目を大きく見開く。
 そんなエプシロンを七夏は返しの刃でさらに斬ろうとしたが、寸前で後ろに飛び退かれ回避された。

(追っ手の魔法少女!? どういうこと!? まだそんなに時間は経っていないはず……!)

 切断された片手を押さえ、障壁を再展開しながら、エプシロンは時計台を見上げた。
 栞里と澪の二人と戦い始めてから、まだ五分くらいしか経っていない。協会の追っ手が来るまでは早くても一五分はかかるはずだ。
 自分自身も協会に所属して情報を入手し、空から協会の動きを観察することで随時調査状況も把握して、何度もこうやって犯行に及んできた。今まで一度だって予測が間違ったことはない。
 なのにどうして……。

(……待って。たったの五分? 本当に、たったそれだけしか経っていなかった……?)

 エプシロンは時計台を時折見て、時間を都度確認していた。
 だが、なにかがおかしい。自分の体内時計と実際の時間が噛み合っていないかのような、微妙な違和感。

(……いや、だとしても早すぎる!)

 いったいなにが起きている?
 わからない。わからないが、今はまず目の前の事象に冷静に対処しなければ。

「追っ手が来た以上、もう手加減はできないわよぉ?」

 両手を広げる。そうして現れた魔法陣の数は、栞里と澪の二人を相手にしていた時に出していた数の倍――二〇だった。
 ここまで来ると、もはや数えることすら大変だ。
 加えてその一つ一つが、コンクリートを穿つ魔弾を遥かに凌ぐ威力を誇っている。

「うげ、お粗末な結界領域作ってた割にはだいぶやばい魔法の腕してるね……紗代!」
「はいはーい。その魔法、《模倣》させてもらうわね」

 七夏の呼びかけに応じて着物姿の紗代が上からやってきて、持っていた薙刀を地面に突き刺すと、エプシロンを真似をするように両手を広げた。
 すると紗代の背後に、エプシロンとまったく同じ、二〇の魔法陣が一気に出現した。

(まったく同じ魔法!? 魔力結晶の魔法じゃこんなことは……ちっ、特異魔法ねぇ)

 だけれど、とエプシロンは口の端を吊り上げる。

(見た目は同じでも……ずいぶん弱い魔力。中身の再現度は三割ってところかしらぁ? どうやら劣化コピーの特異魔法みたいねぇ。これなら私の魔法が一方的に打ち勝つだけ)

「それじゃあ七夏ちゃん、お願いね」
「任せてー。消耗が大きいから連発はできないけど……魔力放出全開! 名づけて《調和》フィールド!」

 七夏が剣を振り上げると、その刀身から凄まじい量の魔力が放出される。
 最初こそエプシロンは警戒したものの、それが単体では他の存在になんの影響も与えない、物質化すらしていない本当にただの魔力だと察すると、ふんっと鼻で笑った。
 ヘイトリッドが残すような魔力の残滓と同じものを、やったらめったら振りまいているだけに過ぎない。
 そんなことに意味などない。
 躊躇なく、二〇の魔槍を同時に発射する。今までは順番に発射していたが、次の追っ手がいつ来るかもわからない以上、こっちの方が手っ取り早くて済む。
 紗代もまた、同じ数の魔槍を一気に発射した。それぞれの魔槍がエプシロンのそれと相打つように。
 エプシロンは自分の魔法が打ち勝ち、敵の魔法少女をまとめて吹き飛ばす光景を幻視した。
 だがしょせんそんなもの、幻に過ぎない光景だ。

「っ、打ち消された!?」

 威力は明らかにエプシロンの魔法の方が上だった。
 しかしそのエプシロンと紗代の魔法が衝突した瞬間、その二つはまったく同じ威力がぶつかったかのように互いに爆発し、相殺された。
 そして同時に、さきほど大気中に振りまかれていた大量の魔力が一気に減っていることにエプシロンは気がついた。

(ちっ……これも特異魔法ねぇ)

 だから特異魔法は嫌いなのよ、とエプシロンは心の中で悪態をつく。
 特異魔法。精霊でさえ理解できず、扱えない、魔法少女だけに許された力。
 昔からずっと気に食わなかった。なんでそんなものが存在しているのかと。
 精霊とは、人間よりも上位の存在だ。
 人間が犬や猫、猿などの動物を檻の中に押し込め、地上を支配しているように、精霊こそが人間を支配する上位の種族なのだ。
 他の生物では欠片も理解できない魔の理を解し、その身は魔法で作られたものであるがゆえに、並外れた身体能力を誇る。寿命だって存在しない。
 脆弱な他の生き物とは違い、肉体に重きを置かないために、たとえ頭を吹き飛ばされようと精霊は生きていられる。
 そしてその気になれば下等生物である人間のうち資格ある者を、魔法少女(さらに上のステージ)へ導くこともできる。
 そう。精霊とは他とは隔絶された、究極かつ至高の生命なのだ。
 だというのに。

「なぜ逆らうの? なぜ歯向かうの? あなたたちが他の生物を支配するように、あなたたちも大人しく支配されればいいじゃない。それが自然の摂理なんだから」

 エプシロンの心を満たすものは、怒りだった。
 魔導協会に所属する精霊は皆、腑抜けている。
 人間とともに歩む? 共存? なんだそれは。
 そんなくだらないものは必要ない。
 我らは支配者だ。この星に跋扈し、力を誇示し、人の心を喰らう者。

「もういいわぁ。全員ここで消えなさい。この結界領域ごと」

 両手を広げる。今度展開するものは、魔槍の魔法などではない。
 この小さな公園全体を包むほどの、巨大な魔法陣を上空に出現させた。
 さすがにこれほど大規模な魔法は想定していなかった七夏と紗代は、冷や汗を流す。
 天を覆う大量の魔力――。
 これはエプシロンがもしもの時のため、この公園を覆う結界領域に紛れさせて用意しておいた、とっておきの大魔法だった。
 これで障壁で守られた自分以外のすべてを吹き飛ばし、姿を消す。それでこの戦いはおしまいだ。
 栞里も澪も食えなくなるが、もう構わない。
 また良さそうな餌を見つけたら今度は自分で魔法少女にして、それを喰らえばいいだけなのだから。

「これは……やばいね」
「逃げるの間に合うかしら」

 七夏と紗代は栞里たちを回収して逃げ出そうとするが、もう遅い。

「さあ、これで終わりよぉ!」

 声を上げるとともに、エプシロンは大魔法を起動した。
 魔法陣が膨大な煌めきを見せるさまを見上げ、七夏は少しでも衝撃を和らげようと二本の剣を交差させ、紗代は薙刀を構える。
 ……だがどういうわけか、煌めく以上のことはなにも起こらなかった。
 それどころか、起動されたはずの魔法陣が不自然に明滅し、結界領域ごと端から少しずつ砕けていく始末だ。
 七夏は「あれ?」と首を傾げ、紗代も同様に目をぱちぱちとさせる。
 しかし一番驚いているのは、魔法を発動したはずのエプシロンの方だ。

「なっ、なんなの、これは……? どうしてこんな……」

 まったく予期していなかった正体不明の現象を前にしてエプシロンの頭によぎったのは、さきほどの七夏の言葉だった。
 ――お粗末な結界領域作ってた割には――。
 お粗末? そんなはずはない。この結界領域は澪を迎える時に備え、エプシロンが何日とかけて作り上げた魔法だ。
 なぜそれが粗末なものに見えたというのか。
 なぜ今、起動した魔法陣ばかりでなく、それを仕込んでいた結界領域ごと壊れているのか。
 ……壊れる……《破壊》?

(まさか、あの時)

 澪を一番初めにこの結界領域内に呼び込んだ時、彼女は出られるか確かめるように、結界領域の膜に触れていた。
 まさかあの時すでに《破壊》の特異魔法で、結界領域と、その中にあった大魔法の一部を、気づかれない程度に破壊していたのか?
 だから外からもこの場所が見えやすくなっていて、想定していたより早く追っ手が来た?

「……あの、小娘ぇ!」

 怒りで歯をギリギリと食いしばり、重傷で動けずにいる澪を睨みつける。

「……よくわかんないけど、チャンスってことでいいのかな? 紗代、一気に畳みかけるよ!」
「ええ。絶対に逃さないわ。ここで捕まえる!」

 七夏と紗代、そしてエプシロンが戦闘を再開する。
 七夏と紗代は栞里や澪とは違い、熟練した魔法少女だ。変身によって上がった自身の能力を使いこなしている。
 加えて二人の息は合っており、さきほど魔槍を打ち消したようにコンビネーションも多彩だ。
 しかしそれでも、エプシロンには簡単には届かない。
 たとえ結界領域に仕込んでいた大魔法が使えずとも、生半可な攻撃の一切を通さない障壁を常に全方位に展開し、二〇の魔法陣を自在に操る。
 栞里と澪を相手にしていた時とはわけが違う、一切の手加減がない本気のエプシロンは圧巻の一言に尽きた。

「くっ……」

 栞里は自分も戦いに参加しようとして、ぐらりと視界が揺れて膝をついた。
 限界のところ、気力で立ち上がっただけだったのだ。元よりまともに戦える状態ではない。
 あとはもう二人に任せてもいいのではないかと、そんな考えが一瞬頭をよぎる。
 だけど栞里はそれを迷いなく振り払って、前へと足を踏み出した。

「栞里ちゃん!?」

 七夏が慌てた声を上げる。紗代も驚いた表情をしていた。
 栞里はそんな二人に目配せして、力いっぱい叫ぶ。

「私が、エプシロンの障壁を打ち消す! だから二人は私を守って!」
「……了解!」
「わかったわ!」

 栞里はもうまともに回避行動すら取れない。魔法だってあと何度使えるかわからない。
 はっきり言って足手まといに近いだろう。
 だがそれでも、この状況でもなおエプシロンに立ち向かう栞里を見て、七夏も紗代も止めることはせず、そのフォローに回った。

「消えなさいっ!」

 無数に迫る魔力の槍を前にして、紗代は再びそれらすべてを《模倣》した。
 七夏は自身の魔力を辺りに振りまき、ぶつかり合うエプシロンの魔槍と紗代の魔槍の力の大きさを《調和》によって同じにする。
 だがその一瞬後には、すでにエプシロンの背後にいくつもの魔法陣が再生成されている。
 栞里や澪を相手にしていた時とは比較にならない生成速度だ。

「ちょっと早すぎるってば!」
「なかなかきついわね……」

 休む間もなく放たれ続ける魔槍を前に、紗代は三度目の《模倣》を使った。
 紗代の《模倣》と七夏の《調和》をかけ合わせた相殺は、そう何度も連続でできることではない。
 大量の魔力を散布する関係上、七夏の消耗が大きすぎるのだ。
 だから今度は別のやり方で対処する。
 単純な足し算だ。紗代が《模倣》した魔法は本来の三割ほどしか性能を発揮できないが、その着弾点を一つに集約させれば、およそ三つで本来の威力に近いものになる。
 だから紗代はエプシロンの魔槍一つに対して三つを同時にぶつけ、エプシロンの魔槍をかき消した。
 消し切れず、こぼれてしまった魔槍に対しては、自分たちに向かい来るものだけを見極めて七夏が魔力を纏わせた剣を振るう。
 七夏の魔力に触れた魔槍はその瞬間から《調和》の影響下に置かれ、刀身と衝突する頃には、その力のほどは七夏の斬撃と同じになっている。

「行って、栞里ちゃん!」

 七夏と紗代が必死に守ってくれる中、栞里はただひたすらに前へと駆けた。

(ありがとう。七夏、紗代)

 本当に、彼女たちには頭が上がらない。
 思えば最初に会った時から、そうだった。
 先輩だからと、たったそれだけの理由で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
 栞里の痛みも、澪の悲しみも、自分たちにはどうにもできないとわかっていながら、それでも心配し寄り添い続けてくれた。
 今だって、こんなヨレヨレで今にも倒れそうな栞里を、一寸の迷いもなく信頼してくれる。
 応えなければ。
 そうだ。たとえこの世界が、どんな思いを抱こうとどうにもならないことで溢れていようとも。
 母と過ごした日々を想起する栞里の心が、一つの魔法として形を成したように、思いは未来に繋がっている。
 だからきっと、その胸に抱いた思いは無駄じゃない。
 絶対に、無駄にはしない。
 七夏と紗代の決死の庇護のもと、栞里はついにエプシロンの前にたどりついた。
 そして栞里は銃を持つ手を障壁へと伸ばしていく。

(ふん、無駄よぉ。さっきの攻防でわかったわぁ。こいつの魔法じゃ障壁に亀裂を入れるのがやっとで、打ち破るまではできない。何度やっても、できないものはできないのよ)

 栞里なぞ、もはや放っておいても勝手に力尽きる。
 そう結論づけ、早くあの目障りな二人を片付けなければと、エプシロンは栞里を無視して七夏と紗代に魔法を放った。
 その直後の出来事だった。
 視界の端で、栞里はなぜか撃とうともせず、障壁をそっと撫でる。
 たったそれだけだ。
 そしてそのそれだけで、エプシロンの障壁の一切が一欠片も残さず消滅した。

「は……?」

 エプシロンの思考が停止する。
 なにが起きたのか、まったく理解できない。

「い、ったい……どういう――」

 魔力結晶の魔法ではない。そんなことは絶対にありえない。
 精霊が使う障壁を一瞬で消失させるなど、借り物の魔法ごときにできるものか。
 なら、まさか特異魔法か?
 違う、そんなはずはない。だってこいつの特異魔法は《回復》だ。
 壊れたものを修復することしか能がない、受け身な能力に過ぎない。
 そんなもので障壁をどうにかすることなど――。

(――あれ……? どうして障壁に使ったぶんの魔力が、私の中に戻ってきているの……?)

 ――違和感。
 撃ち出した弾丸を回収したところで再び使うことなどできないように、一度魔法として外界に具現した魔力は、たとえ魔法を解こうとも戻ってこない。
 なのに今、栞里が起こした正体不明の現象によって消失した障壁のぶんの魔力が、エプシロンの中に帰ってきていた。
 まるで時間がさかのぼり、障壁の魔法を展開する前の状態まで巻き戻ったかのように。

(……巻き、戻る? え、まさか……そ、そんなこと、ありえるはずが……!)

 さきほど時計台を見上げて、エプシロンはおかしいと思った。なぜ五分しか経っていないのかと。
 きっとその感覚は正しかった。実際、五分などとうに過ぎていたはずだ。
 栞里はこれまで何度も、時計台のそばで《回復》の特異魔法を使っていた。
 その時計台の柱に背をつけ、手をかける。それによって何度も栞里の魔法の影響を受け続けていた。
 そしてそのたびに、時計台の時間が巻き戻っていたのだ。

(くっ、こいつの魔法はただの《回復》じゃない! 対象の時を巻き戻す――時間逆流の特異魔法!)

 栞里がかつて願ったことは、母を治すことなどではない。
 過去に戻ることだ。
 もう一度、母に会いたい。会って、話したい。頭を撫でてもらいたい。
 許されるはずもなく、叶うはずもない、栞里の本当の望み。
 それこそが、栞里の特異魔法の根源だ。

(うまく、いった)

 時間を巻き戻すことでの障壁の打ち消しという発想は、最初から栞里の頭の中にはあった。
 しかし今まではまだ確実な勝機が見えなかったから、どうしても使うわけにはいかなかったのだ。
 もし下手に使って失敗してしまえば、きっと二度とエプシロンには近づけなくなる。
 ここまで使わずに取っておいたからこそ、今、栞里はこんなにも簡単にエプシロンに接近することができたのだ。
 それに七夏と紗代が応援に来てくれたことで、ようやく見えてきていた。
 活路が。エプシロンを、今この場で倒し切るまでの道筋が。

「この――」

 エプシロンが栞里を、無事な方の片腕で突き飛ばそうとする。
 だがその片腕を振りかぶった直後、その上腕の半ばから先が瞬時に切断された。
 七夏だ。障壁が消えたと同時に二本ある剣のうちの片方を投擲し、遠距離からエプシロンに攻撃を仕掛けていた。
 目を剥くエプシロンに対し、七夏は、にぃっ、と得意げに白い歯を見せる。
 その一瞬の攻防の間に、栞里のハンドガンがエプシロンに突きつけられる。
 レンダは精霊の存在を、その本質はヘイトリッドに近いものだと言っていた。
 だとすれば、この魔法が効果的なはずだ。
 魔力結晶の中にその存在を吸収し、引きずり込む、対ヘイトリッド用の魔法。

感情吸収(アブソープション)……!」
「がっ!?」

 途端にエプシロンの動きが鈍くなった。
 二つのハンドガンに取りつけられている魔力結晶が、少しずつその色を濁し始めていく。
 効いている。ヘイトリッドに使用した時と同じように、徐々にその存在を魔力結晶の中に引きずり込んでいっている。

「こ、の……」

 エプシロンの背後に新たに魔法陣が形成される。
 この至近距離で魔槍を放たれれば、間違いなくただでは済まない。
 しかしそんな危惧に反し、魔法陣はなんの現象も起こすことなく淡く霞んで消えていった。
 別に、七夏や紗代がなにかしたわけではない。
 今のエプシロンは感情吸収の魔法によって魔力の流れが乱され、まともに魔法を発動できなくなっている。それだけのことだった。
 この魔法はヘイトリッドと精霊にとって、本当に天敵とも呼べる魔法なのだ。

「あ、ああ、ああぁああああ……! わ、私の魔法がっ……全部、吸わ、れて……」

 吸収が進むごとに、ほんの少しずつエプシロンの体が溶けていった。
 髪が、皮膚が、肉が。それらすべてが泥のように変化し、色合いも徐々に黒く濁ったものに変質していく。
 ……人間の姿も動物の姿も、精霊自身が魔法で作り上げた姿だ。
 だが今、感情吸収の魔法によって魔力の正しい流れが失われ、その魔法が解けようとしている。
 人間と共存するレンダも、敵対するエプシロンも、どちらも共通して誰にも見せたがらない、精霊本来の姿――。
 その全身は痩せこけ、黒く、まだら模様に濁ったぬめりで覆われていた。
 顔の左側と左肩だけが異様に肥大化し、逆側の右肩から脇腹にかけては歪で小さな胎児のごとき腕がびっしりと何本も生え、なにかを探すようにうごめいている。
 髪は触手のようにまとまって、だらりと地面まで垂れ下がり、その先端に空いた穴は禍々しい瘴気を吐き散らかす。
 膨らんだ左側の瞼の中に二つの目玉が詰め込まれ、右目は大きく裂けた口と一体化していた。
 ――――醜悪。
 それ以外に言い表す単語など存在しないような、ひどくおぞましい姿だった。

「ア、ァァアッ! ワ、わタシの魔法、がァ……! よくモ……ヨくモ人間ノ分際デ……コの私ニ! コんな、醜イ姿ヲォッ!」

 口の隙間から白濁とした液体をよだれのように撒き散らし、エプシロンは咆哮した。
 七夏によって斬られ、失っていた左腕の切断部で、ボコボコと肉が泡立つ。
 エプシロンはそこから腕とも呼べぬ巨大な肉塊を形成し、栞里へと振り下ろした。
 今、栞里はまともに動ける状態にはない。
 七夏も紗代も、精霊本来の姿を見るのは初めてだったのか、あっけに取られてしまって援護が間に合っていなかった。
 ……だがここまで来て、栞里が押し潰される未来を許すことなどできはしないだろう。
 特に、すでに一度エプシロンに大切なものを奪われている、《《彼女》》にとっては。

「グァァアッ!?」

 栞里に振り下ろしていた途中の肉塊が、瞬く間のうちに塵となって崩壊する。
 エプシロンが驚愕で振り返ると、澪が決死の形相でエプシロンの肥大化した左肩にしがみついていた。
 肉塊の左腕が栞里に当たるより先に、《破壊》の特異魔法で崩壊させたのだ。

(ナゼ、コンナ近くニ)

 エプシロンの見立てでは、澪は木にぶつかって背骨が折れ、もはやただ立つことすら困難なはずだった。
 背骨の中には脊髄という、脳から全身へ命令を巡らせるための中枢神経もある。下手に傷つけば四肢は痺れ、動かなくなったまま一生治らない。
 なのにどうして、こんなにも近くにいるのか。
 エプシロンはその答えを、原型を留めないほどぐちゃぐちゃに抉れて潰れている、澪の右半身を見たことで理解する。

(コイツ……! 自分自身ニ魔球を当てテ、ソの衝撃でココまデ……!?)

 正気の沙汰ではない。
 すでに澪は重傷だった。たとえ病院に運ばれたとしても助かるかわからない、仮に助かったところで、後遺症でまともな生活など不可能な大怪我。
 そんな瀕死の状態の自分に魔球を撃ち込むなど、その瞬間に即死してもおかしくないような所業だ。
 だというのに、今エプシロンにしがみついているこの彼女には未だ意識があり、左手でステッキを強く握りしめ、離そうとしない。

(……ありがとう……栞里ちゃん)

 栞里は最初にここにたどりついた時、気がついたはずだ。この公園を覆う結界領域に綻びが生じていることに。
 エプシロンと会話する中で、エプシロンがそれを把握していないことを察し、澪の策だと理解した。
 そして栞里は澪が動けなくなった後でも、時計台を利用することでエプシロンの時間感覚を狂わせて必死に時間稼ぎに徹し、救援を間に合わせた。
 あまつさえ、あんな消耗し切った状態でも自分の体に鞭打って、自らの手でエプシロンを倒そうとまでしてくれている。
 こんなにも尽くされてしまったら、澪だっていつまでも倒れているわけにはいかないだろう。

感情、吸収(アブ、ソープション)……!」
「ガッ、ハッ……!?」

 澪も栞里と同じ魔法を発動し、エプシロンを魔力結晶の中に吸い込んでいく。
 栞里一人の時にはまだなんとか動けていたエプシロンだが、澪まで加わっては、もはや抵抗などできようもなかった。
 その身は少しずつ縮小していき、体がずるずると結晶の中へ引きずり込まれていくのを止められない。
 やがてしがみつくこともできなくなり、地面に倒れ落ちた澪だったが、ステッキを掲げ魔法を維持することだけはやめなかった。

「ありゃ……急いで来たんだけど、僕が出るまでもなかったみたいだね」

 少し驚いたような少女の声がして、エプシロンが目を向けると、そこには一人の少女がいた。
 それはエプシロンと同じ、見る角度によって色が変わる多色性の瞳を持つ、精霊の少女。

「助ケロォ! 手ヲ貸セ、私ニ!」

 すでに顔だけしか残っていないエプシロンが、大きく裂けたその口を開き、絶叫する。

「あんナモノを食べ続けル生活ナド、もウウンザリダ! オ前もソうダロウ!?」

 今ここに来るような精霊は、魔導協会に所属し、人間とともに歩むことを選んだ精霊ということはわかりきっていることだというのに、エプシロンはなおも主張し続ける。

「ナゼ私タチのよウナ上位生物ガ、人間ノ心ノ腐敗物を食べ続ケナくてハなラナイ! 不満ダろウ!? 屈辱だロうっ!?」
「……」
「精霊ガ二人……我らガ力ヲ合わセれバ、敵うものナドなイ! 人間ノ記憶ヲ、イくラデも貪レル! だかラ助ケろ、私ヲォ!」

 精霊の少女――レンダは神妙な表情でエプシロンを見やると、ふるふると首を横に振った。

「ナゼだ! ナゼ……!」
「……僕、今の生活が結構気に入ってるからさ。君と同じ化け物に過ぎない僕を、同じ人として見てくれる。それが嬉しいんだ」
「ふざケルナァ! ソんなモノ、侮辱以外のナニモのでモナイ! コンナ……コンナァ! 我、らハ……支配者、ダ……! コンナコと、アリえル……ハズ、ガァ……!」

 塵粒となり、消えるその一瞬まで怨嗟の声を吐き続ける。
 エプシロンにはわからなかっただろう。
 人が抱く思いや覚悟を無駄だと見下し、ただの食糧としか見ていなかった化け物には、人の思いが紡ぐ未来など。

「お似合いの……最期だね……エプ、シロン……」

 澪の言葉を最後に、エプシロンは魔力結晶に取り込まれて、この場から完全に消滅した。
 静寂が訪れた公園の中央で、エプシロンの消失を見届けた澪は、安堵で気が抜けたように失神する。
 栞里もまた同じように気を失いかけたが、すんでのところで踏みとどまった。
 まだ最後に、やらなければいけないことがある。
 一歩、二歩。おぼつかない足取りで倒れた澪に近寄って、そのそばに膝をついた。
 今のままでは澪は、数分とせずに死んでしまう。だから治さなければ。
 澪が綺麗だと言ってくれた、この力で。

「……《回、復》」

 澪の肉体が元の傷のない状態に戻ってすぐに、栞里もふらりと澪の隣に倒れ込んだ。
 視線を下げれば、瞼を閉じてぐっすりと眠っている澪の顔が近くにある。
 そんな彼女の頭の上に手を置いて、軽く頭を撫でてあげているうちに、栞里も意識を手放してしまっていた。
 栞里と澪の二人が目覚めてからレンダたちから投げかけられた言葉は、やはりと言うべきか、長時間に渡るお説教であった。
 協会がずっと手を焼いていたエプシロンを見つけ出し、足止めし、最終的に討伐した功績は非常に大きい。
 が、それとこれとは話はまったく別である。
 栞里は嘘をつくのが大の苦手なので、栞里と澪が休日にエプシロン探しを行っていたことは流れるようにバレた。
 降りかかる危険をできる限り避けるために二人一組で組ませていたのに、その二人が揃って危険に向かって全力疾走していたのである。叱られないわけがなかった。

「……行ってきます」

 いつものように、誰もいない家の中にそう告げて、栞里は玄関の扉を開けた。
 外の景色を見た時、ふと、レンダが初めて訪ねてきた日のことを思い出す。
 レッサーパンダの姿で、突然魔法少女にならないかと誘われた時のあれだ。
 最初から人間の姿で来てくれていれば、さすがの栞里も鞄を叩きつけて警察に突き出したりはしなかっただろう。
 せいぜいテレビアニメの中の魔法少女に憧れる幼い女の子ことレンダの頭を撫でていたくらいである。
 まあ……どちらにしても、魔法少女の実在を信じはしなかっただろうが。
 足元を見てみるが、当然ながら、あの日と違ってレンダはいない。
 肩をすくめて歩き出すと、栞里は塀の外で誰かが待ち伏せていることに気がついた。

「……澪?」
「あ、栞里ちゃん。おはようー」
「ん、おはよう」

 こんなところでどうしたの? と栞里が問いかけると、澪は照れくさそうに頬をかいた。

「えへへ。栞里ちゃんと一緒に学校に行きたいなって思って」
「なるほど……実は、私も澪と行きたいって思ってた」
「ほんとっ?」
「ん。一緒の家から学校に行くのとか、楽しみだったけどできなかったから」

 エプシロンは栞里と澪の魔法によって魔力結晶の中に封じられ、今はその身を協会に拘束されている。
 しばらく二人一緒に暮らすという話もそれに合わせて解除され、澪はすでに自分の家での暮らしに戻っていた。
 とは言え、澪は今も結構な頻度で栞里の家に泊まりに来ている。
 けれど、こうして一緒に学校へ行ったことはまだなかった。
 妙に嬉しそうな澪を伴って、栞里は歩いて学校へ向かう。

「それにしても、この前すごい怒られちゃったねー……」
「ん、当然と言えば当然。頭突きされてもおかしくなかった」
「あはは……叱る方法に頭突きを使うのは、栞里ちゃんと栞里ちゃんのお母さんくらいだと思うけどね」

 エプシロン探しの件で二人してお説教された過去をしみじみと振り返る。
 本来であれば、しばらく活動停止で魔力結晶も没収……という罰則がつくらしい。
 しかし今回に限っては、最終的にはエプシロンの討伐に成功したことや、人員不足だったとは言え澪への監視を簡単に外してしまっていた魔導協会側も悪かったということで、厳重注意にとどまった。
 もっとも、レンダたちに心配をかけてしまった事実は変わらないので、きっちり反省するように口酸っぱく言いつけられたが。
 学校につくと、朝に一度部室に寄るよう言われていたことを思い出し、栞里と澪はその足を部室へ向ける。

「そういえば、澪のお母さんたちは?」
「もうほとんどいつも通りだよ。まだ病院暮らしだけど、もうすぐ退院できるんだって。魔法少女とか精霊とか言われて、最初はすっごい混乱してたけどね」

 いわく、精霊とは自ら魔力を生成する力を持たないという。
 精霊は人間の記憶やヘイトリッドを喰らい、それを自身の内側に魔力として溜め込むことで魔法を使っている。
 つまるところ魔法として使われていなければ、エプシロンの中から記憶を抽出し、還元することで、被害者が記憶を取り戻すことができるというわけだ。
 栞里の家族の記憶が食べられたのは最近ということもあり、無事戻ってきたのである。
 母に名前を呼ばれた時、澪は感極まって抱きついてしまったほどだ。

「実は魔法少女のことで、もうそんな危険なことはやめなさい、って言われたんだ。エプシロンのこと、協会から聞かされたみたいで」
「……それで澪は?」
「えへへ。わたし、中学の頃とかもお母さんとか全然嫌いじゃなくて、反抗期とか全然なかったんだけどね……初めてムキになっちゃった」
「……澪は、それでよかったの?」

 エプシロンの件は栞里と澪が暴走した結果だが、魔法少女の活動が危険なことは間違いない。

「よかったよ。最後はお母さんも折れてくれた。それにまだわたし、栞里ちゃんとちゃんとしたパートナーにはなれてないもん。わたし、ずっと楽しみにしてるんだよ?」
「……そっか」

 栞里はなんとはなしに、ルリトウワタのヘアピンに指先で触れる。
 知らずしらず、澪が隣からいなくなるかもしれないと不安になっていたようだ。

「あ、そうだ! 聞いてよ栞里ちゃん! 最近かほが栞里ちゃんに会いたい会いたいって駄々をこねてて……一人でお見舞いに行くと『おねえちゃんだけかぁ』とか言ってため息漏らすんだよっ? わたしお姉ちゃんなのに!」
「会いたがってるなら私も行った方が」
「ダメ! 栞里ちゃんつれていくと、ずっとかほのお願い聞いて頭撫でたり遊んであげたりしてるでしょ? 胸の中に飛びつかれても引き剥がさないでされるがままだし!」
「ちっちゃい澪が甘えてくるみたいでかわいいし、それくらい私は構わない」
「かわっ……!? わ、わわ、わたしが構うのーっ!」
「なぜ澪が……」

 ポコポコと叩かれて、RPGで言うところの混乱の状態異常に苛まれる。栞里はたまに澪の言動が理解できなかった。
 顔を真っ赤にして頬を膨らませている澪を引き連れて、部室の前までやってくる。
 中からは何人かが談笑している様子が聞こえてきた。
 レンダだけでなく、七夏や紗代もいるようだ。

「……入ろうか、澪」
「栞里ちゃん、楽しそうだね」
「そうかな」
「そうだよ」
「……そっか」

 母が亡くなってから、少し前まで楽しいなんて気持ちを味わったことはなかった気がする。
 栞里は社交性があまり高くなかったし、深い付き合いの友達もいなかった。母がいればそれでいいと思っていた。
 その自分のすべてだったものを失い、どこに進んでいいのかまるでわからず、母が亡くなる前と同じ生活を続けていた。
 でも今は、少しずつ前に進むことができている。
 母と過ごした日々に感じていたものと同じ、今この胸の内に宿る感情を、きっと幸せと呼ぶのだ。
 栞里が取っ手に手を伸ばすと、同時に伸ばしていた澪の手とぶつかってしまって、互いに手を引っ込めた。
 栞里も澪も、どちらかに譲ろうとするも、どちらも一向に手を出さない。
 じゃあ私が、と再び手を出そうとすれば、また同時に伸ばした手が触れ合って、顔を見合わせた。
 二人して笑って、せっかくだからと一緒に戸を開ける。

「――おはよう」

 挨拶を投げかければ、それぞれに言葉が帰ってくる。
 そうして今日もまた高校生として、そして魔法少女としての栞里の生活が始まるのだった。

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