言葉を大切にしなさい。
栞里はそう、母からよく言われたものだ。
言葉には不思議な力が宿っていて、現実の出来事になにかしらの影響を及ぼす。
感謝のように良い言葉を口にすれば良いことが起きるし、誰かを嘲るような悪い言葉を口にすれば悪いことが起こる。
言霊。日本のみならず、全世界で信じられている概念だ。
言霊によって良い変化が起きた実例は、世界中に数多く存在している。
たとえば、感謝を捧げて育てた植物はのびのびと育ち、罵声を浴びせ育てた植物はすぐに枯れてしまうという。
体が弱かった人が、健康と日々唱え続けることで本当に健康になったなんて話もある。
生物ではない生肉や卵のような食べ物にしたって、かける言葉によって腐る早さが変わってくるそうだ。
だから栞里は、自分の言葉に責任を持つことを第一としている。
「えぇっと……栞里さん? 急に黙り込んで……どうかしましたか?」
学校の教室。ホームルームの最中。
前方の戸から入ってすぐのところで停止した栞里は、一つの切実な悩みに苛まれていた。
(……遅刻した理由、どう説明したらいいんだろう……)
栞里の信条は、自分の言葉に責任を持つことだ。
ならば本当のことを言うべきなのだろうか?
しかし、なぜか玄関前にいたなぜか人語を話せるレッサーパンダ……のような未確認生物を交番に届けに行っていた、なんて言っても信じてもらえるか、だいぶ怪しい。
事実は小説より奇なり。そんなことわざがあるように、時として事実は架空の物語よりも信じがたい真実を突きつけてくる。
実際に体験した栞里ならばともかく、なんの関係もない第三者が、話に聞くだけでその奇妙な事実を認めろという方が無茶な話だ。
(む……むむ……しかたない……少しだけ本当のことを伏せて話そう)
言葉を大切にすることが母の教えだ。だから、できるだけ嘘はつきたくない。真実を伏せる程度が限界だ。
本当のことを話さないことも嘘の一つなのでは? なんて言われたら言い返せないけれど、それが栞里にとってのギリギリの許容範囲だった。
「あのー……」
栞里が教室に立ち入ってからずっと無言で立ち尽くしているせいで、すっかり困り顔になってしまっている。
そんな担任の先生と、栞里はようやく視線を合わせた。
「なぜか玄関前でウロウロしていたレッサーパンダを交番に届けに行っていて遅刻しました。事情聴取が思っていたより長引いてしまって……入学式にも出席できず、申しわけありません」
「れ、レッサーパンダですか? ……え、交番にっ!?」
「はい。見逃した際の危険を考慮し、なんとか捕獲して連れて行きました。どうしてレッサーパンダがいたのか、どこから来たのかはわかりません。しかし」
「し、しかし?」
「猫でも犬でも狸でもなく、あれは間違いなくレッサーパンダでした。事情は警察の方にも説明いたしましたので、真偽のほどは問い合わせていただければと」
至って真剣な顔で栞里は言い切った。
嘘にしてはだいぶお粗末で、真実にしては荒唐無稽な話だ。当然のごとく教室がざわめき立つ。
なお、栞里が隠した真実とは、あのレッサーパンダがしゃべっていたということである。
あれが本当にレッサーパンダだったのか、それともレッサーパンダの形をしているだけの未確認生物だったのかはわからない。だが少なくともレッサーパンダの見た目をしていたことと、それを交番に届けたことは確かな事実だ。だから残念ながら、そこを隠すことはできなかった。
レッサーパンダなんて単語が出てきている時点で到底信じがたい話であることは栞里もわかってはいるが、何度も言うように、レッサーパンダを交番に届けたことは一つの事実として確かに存在する。
交番に連絡さえしてもらえれば、たとえどれだけ信じられない内容だったとしても、栞里の言葉が真実だったことは容易に証明できる。
「……わ、わかりました。栞里さんの言うことを疑っているわけではありませんが、念のため確認を取ってきます。栞里さんも席について、皆さんと待っていてください」
「はい。ご足労おかけします」
担任の先生はそう言うと、そそくさと足早に教室を出ていった。
教室の前の方に一人残された栞里は、未だざわついているクラスメイトたちをよそに、自分の席を黒板に貼られた紙で確認して移動する。
(うーん……せっかく念入りに準備してたのに、初日から遅刻しちゃったな。学校が近いからって登校を遅くしたのがダメだったのかも……次からは、急にレッサーパンダに遭遇しちゃっても間に合うくらいの時間に登校しよう)
そもそも登校中にレッサーパンダに会うことがまずないのでは? なんて疑問も一瞬栞里の中に浮かんだが、実際問題、今回は遭遇したのである。
ならば二度目がある可能性も否定できない。
元々ざわついてはいたが、一時的に先生がいなくなったこともあって、次第に教室内に無秩序な喧騒が溢れ始める。
「えっと……栞里、ちゃん? で、いいのかな?」
自分の名前を呼ぶ声に、栞里は反射的に隣の席を見た。
けれどわずかに目線が合わず、少しだけ視線を落とす。
第一印象は、可愛い、という至極単純なものだった。
栞里より一回りほど背丈が低い関係で、その少女は覗き込むようにこちらを見つめてきている。
まだ幼さが多く残る顔立ちをしていることもあって、高校の制服を着ていなければ中学生にしか見えなかったかもしれない。
穏やかな雰囲気を放つ栗色の瞳は、見ているとなんだか安心感を覚える。
声をかけられた時、遅刻理由について興味本位で根掘り葉掘り聞かれることを警戒していた栞里だったが、そういうわけではなさそうな空気にホッと息をつく。
「うん。花乃栞里。あなたは?」
「わたしは澪。凪沢澪。よろしくね」
「うん。よろしく、澪」
澪は少し面食らったように目をぱちぱちと瞬かせた。
なにかおかしな返しをしてしまっただろうかと栞里が首を傾げていると、澪はショートカットの髪を揺らして、照れくさそうに頬をかいた。
「えへへ……いきなり呼び捨てにされちゃった」
「ダメだった?」
「ううん。わたし、一年くらい前にちょっと遠くの方から引っ越してきたばっかりで、お友達って少なかったから。栞里ちゃんとお友達になれたらなって思ってたから、すごく嬉しい」
嫌がるようなら名字呼びに変えようかとも思っていたけれど、澪がそう言ってくれるなら、わざわざ変える必要もないだろう。
どうやら澪は、隣の席である栞里と友達になりたくて話しかけてくれたらしい。
それは栞里にとっても歓迎すべきことだ。
自分から誰かに声をかけることが少なく、同年代の子からはとっつきづらいとよく言われてしまう栞里ではあるが、友達を作りたくないわけでは決してない。
次第に会話に花が咲き、話が広がっていく。
そうして話題はやがて、栞里が語った遅刻理由について移行していった。
「それで、栞里ちゃん。さっきの話って、本当……なんだよね?」
「さっきの……レッサーパンダのこと?」
「うん。レッサーパンダを交番に届けてきたって……」
澪もやはりあれは気になるようだ。
……真実を伏せて語ったことであるため、あまり追及されたくはなかった。嘘が苦手な栞里では誤魔化しきれないかもしれないから。
だけれど、澪は無理に聞くつもりはなさそうだ。話したくないなら話さなくてもいい。彼女の優しげな瞳はそう言ってくれている。
だから栞里も、興味本位ではなく、純粋に友達になりたいと声をかけてくれた澪になら話してもいいかと思い直した。
栞里は周囲に聞かれないよう声を潜め、澪の耳に顔を近づける。
澪も少々不思議がりながらも、栞里に合わせて少し栞里の方に体を傾けた。
「澪にだけ言うけど……実は、あれは嘘なの」
「え、嘘だったの?」
「……やっぱり嘘じゃないかも」
「ど、どっちなのっ?」
言葉を大切にすることが心情なだけに、嘘だったのかと言われると途端に罪悪感が湧き出てしまう。
思わず否定してしまったが、栞里はふるふると頭を左右に振ると、気を取り直して続きを話した。
「あれ自体は嘘じゃないんだけど……私が交番に届けたのは、正しくはレッサーパンダじゃなくて、しゃべるレッサーパンダ……みたいななにかだったの」
「しゃ、しゃべるレッサーパンダ……」
「うん。もしあのままにしてたら被害が出たかもしれないから、どうしても放っておけなくて」
「え? ひ、被害って?」
「……そのレッサーパンダみたいななにか、魔法少女がどうこうって言ってたの。レッサーパンダは基本的に草食だけど、あれはレッサーパンダみたいななにかだし、肉食じゃないとは言い切れない……だからきっと、魔法少女って単語で年端もいかない女の子をおびき出して食い物にしてるんじゃないかって思って」
「…………」
澪はあっけに取られたように口を半開きにしていた。
それもしかたがないか、と栞里は思う。
しゃべるレッサーパンダなんて、栞里だって話に聞いただけだったなら信じていたか怪しい。
それでも澪にだけは信じてもらいたいと感じた栞里は、少しでも誠実な態度を示すために澪の目をまっすぐに見つめた。
「信じられないかもしれない……でも、事実なの。何度も触って確かめたから間違いない。頭がおかしいって思うかもしれないけど……」
「あ、ううん! 違うの! 信じてないわけじゃなくて……ただちょっと、栞里ちゃんの行動が予想外すぎてついていけなかったというか……」
「澪、私の話を信じてくれるの?」
「え。う、うん。信じるよ。だって栞里ちゃん、こんな真剣に話してくれてるんだもん。友達なら信じなきゃ」
「……そっか。澪は優しいね……よしよししてあげる」
「ふぇ? あ、ありがとう……?」
宣言通り、よしよし、と澪の頭を撫でる。
一方で澪は、同級生の頭を撫でる栞里を見上げ、「もしかして栞里ちゃんって結構変な人なのかな……?」なんて内心思っていたが、口に出すことはしなかった。
(うぅーん……それにしても、しゃべるレッサーパンダって絶対あの子のことだよね……だ、大丈夫かなぁ)
そして澪は、心当たりがある正体を密かに思い浮かべながらそんなことも考えていたが、栞里にそれを知る由もない。
「澪? どうかした?」
「あ、ううん!」
ほんの少し不安そうな表情をする澪が気になり、顔を覗き込んだ栞里だったが、澪は慌てたように首を横に振った。
「ごめんね。なんでもないの。ちょっとぼーっとしちゃってただけで……」
「そう?」
「うん。心配してくれてありがとね、栞里ちゃん」
「ん。どういたしまして」
担任の先生が来るまで、また他愛のない雑談でも始めようとしたところで、ガラガラと教室の戸が開く。
「はいはい静かに。先生が戻りましたよー」
さきほどは少々慌てた様相で教室を出て行った先生だったが、今はもうすっかり落ちついていた。
「栞里さん。レッサーパンダの件は警察の方に確認が取れましたので、今回の遅刻に関しては目を瞑ります。ですが、今後遅刻や欠席をする場合はできる限り事前に学校へ連絡するようにしてくださいね。あと、あまり危険な真似はしないように」
「はい。気をつけます」
「いい返事です。それではホームルームを再開します」
レッサーパンダの件が警察に確認が取れた、とのことでまた教室が騒がしくなり始めたが、先生が何度か注意するとそれも収まった。
「栞里さんも来たので、改めて。あなたたちの学級担任となる古本紡木です。担当する教科は国語と地理歴史。よろしくね」
先生こと紡木が「それでは、また続きからお願いします」と言うと、窓際の生徒の一人が立ち上がった。
どうやら自己紹介の途中だったようだ。
自己紹介が一つ終わるたび、パチパチと拍手が鳴る。
端から順々に自己紹介が行われているようだが、席順は窓際から五十音順なので、ハ行で始まる花乃栞里よりもナ行の凪沢澪の方が先だ。
澪の順番が来ると、栞里は立ち上がる彼女を少し期待を込めて見上げた。
「凪沢澪です。好きな食べ物は砂糖で甘く焼いた卵焼きです。一年くらい前にこちらに越してきてまだあまり知り合いがいないので、よければ仲良くしてください!」
自己紹介を終えて席につくと、澪は栞里の方を向いて、かすかに赤くなっていた頬をかいた。
「うぅ。知らない人ばっかりで緊張したー……」
「うまくできてたよ。おいしいよね、卵焼き」
「お、おいしいけど……なんだか恥ずかしいな」
雑談もほどほどに、栞里の順番がやってくる。
栞里が起立すると、栞里は自分に、他の同級生が自己紹介した時と比べて多くの視線が集まったように錯覚した。
いや、実際の視線の数自体は同じだ。しかしその興味の度合いが違う。皆、好奇心の塊のような目で栞里を見ていた。
無論、原因はレッサーパンダの一件であろう。見事に悪目立ちしてしまっている。
異様な雰囲気に澪が心配そうに見上げてくる中、栞里は、まったく臆することなく堂々と口を開いた。
「花乃栞里」
「………………えっと、それだけですか?」
それ以外なにも言わないので念のため紡木が確認を取ると、栞里は少し考えてから、再び堂々と言い放つ。
「一五歳」
「そ、それはそうでしょうけど……」
入学したての高校生は皆一五歳である。
あまりにも当たり前の事実を口にしただけなのだが、栞里はまるでなにかを成し遂げたように満足気に頷いた。
「これでよし。よろしく」
「あ、はい……よ、よろしくお願いします。で……では、次の人ー」
戸惑いがちに拍手が鳴る。
いったいなにがよしなのか。栞里以外誰も理解できなかったが、ここまで自信満々に言い切られてしまったら拍手する以外になかった。
(あはは……レッサーパンダを交番に届けたってところから薄々思ってたけど、やっぱり栞里ちゃんってちょっと変な人なんだなぁ……)
何事もなかったように着席し、次の自己紹介を聞き始める。
そんな栞里を横目で見て、澪は一人、かすかに苦笑いを浮かべるのだった。
栞里はそう、母からよく言われたものだ。
言葉には不思議な力が宿っていて、現実の出来事になにかしらの影響を及ぼす。
感謝のように良い言葉を口にすれば良いことが起きるし、誰かを嘲るような悪い言葉を口にすれば悪いことが起こる。
言霊。日本のみならず、全世界で信じられている概念だ。
言霊によって良い変化が起きた実例は、世界中に数多く存在している。
たとえば、感謝を捧げて育てた植物はのびのびと育ち、罵声を浴びせ育てた植物はすぐに枯れてしまうという。
体が弱かった人が、健康と日々唱え続けることで本当に健康になったなんて話もある。
生物ではない生肉や卵のような食べ物にしたって、かける言葉によって腐る早さが変わってくるそうだ。
だから栞里は、自分の言葉に責任を持つことを第一としている。
「えぇっと……栞里さん? 急に黙り込んで……どうかしましたか?」
学校の教室。ホームルームの最中。
前方の戸から入ってすぐのところで停止した栞里は、一つの切実な悩みに苛まれていた。
(……遅刻した理由、どう説明したらいいんだろう……)
栞里の信条は、自分の言葉に責任を持つことだ。
ならば本当のことを言うべきなのだろうか?
しかし、なぜか玄関前にいたなぜか人語を話せるレッサーパンダ……のような未確認生物を交番に届けに行っていた、なんて言っても信じてもらえるか、だいぶ怪しい。
事実は小説より奇なり。そんなことわざがあるように、時として事実は架空の物語よりも信じがたい真実を突きつけてくる。
実際に体験した栞里ならばともかく、なんの関係もない第三者が、話に聞くだけでその奇妙な事実を認めろという方が無茶な話だ。
(む……むむ……しかたない……少しだけ本当のことを伏せて話そう)
言葉を大切にすることが母の教えだ。だから、できるだけ嘘はつきたくない。真実を伏せる程度が限界だ。
本当のことを話さないことも嘘の一つなのでは? なんて言われたら言い返せないけれど、それが栞里にとってのギリギリの許容範囲だった。
「あのー……」
栞里が教室に立ち入ってからずっと無言で立ち尽くしているせいで、すっかり困り顔になってしまっている。
そんな担任の先生と、栞里はようやく視線を合わせた。
「なぜか玄関前でウロウロしていたレッサーパンダを交番に届けに行っていて遅刻しました。事情聴取が思っていたより長引いてしまって……入学式にも出席できず、申しわけありません」
「れ、レッサーパンダですか? ……え、交番にっ!?」
「はい。見逃した際の危険を考慮し、なんとか捕獲して連れて行きました。どうしてレッサーパンダがいたのか、どこから来たのかはわかりません。しかし」
「し、しかし?」
「猫でも犬でも狸でもなく、あれは間違いなくレッサーパンダでした。事情は警察の方にも説明いたしましたので、真偽のほどは問い合わせていただければと」
至って真剣な顔で栞里は言い切った。
嘘にしてはだいぶお粗末で、真実にしては荒唐無稽な話だ。当然のごとく教室がざわめき立つ。
なお、栞里が隠した真実とは、あのレッサーパンダがしゃべっていたということである。
あれが本当にレッサーパンダだったのか、それともレッサーパンダの形をしているだけの未確認生物だったのかはわからない。だが少なくともレッサーパンダの見た目をしていたことと、それを交番に届けたことは確かな事実だ。だから残念ながら、そこを隠すことはできなかった。
レッサーパンダなんて単語が出てきている時点で到底信じがたい話であることは栞里もわかってはいるが、何度も言うように、レッサーパンダを交番に届けたことは一つの事実として確かに存在する。
交番に連絡さえしてもらえれば、たとえどれだけ信じられない内容だったとしても、栞里の言葉が真実だったことは容易に証明できる。
「……わ、わかりました。栞里さんの言うことを疑っているわけではありませんが、念のため確認を取ってきます。栞里さんも席について、皆さんと待っていてください」
「はい。ご足労おかけします」
担任の先生はそう言うと、そそくさと足早に教室を出ていった。
教室の前の方に一人残された栞里は、未だざわついているクラスメイトたちをよそに、自分の席を黒板に貼られた紙で確認して移動する。
(うーん……せっかく念入りに準備してたのに、初日から遅刻しちゃったな。学校が近いからって登校を遅くしたのがダメだったのかも……次からは、急にレッサーパンダに遭遇しちゃっても間に合うくらいの時間に登校しよう)
そもそも登校中にレッサーパンダに会うことがまずないのでは? なんて疑問も一瞬栞里の中に浮かんだが、実際問題、今回は遭遇したのである。
ならば二度目がある可能性も否定できない。
元々ざわついてはいたが、一時的に先生がいなくなったこともあって、次第に教室内に無秩序な喧騒が溢れ始める。
「えっと……栞里、ちゃん? で、いいのかな?」
自分の名前を呼ぶ声に、栞里は反射的に隣の席を見た。
けれどわずかに目線が合わず、少しだけ視線を落とす。
第一印象は、可愛い、という至極単純なものだった。
栞里より一回りほど背丈が低い関係で、その少女は覗き込むようにこちらを見つめてきている。
まだ幼さが多く残る顔立ちをしていることもあって、高校の制服を着ていなければ中学生にしか見えなかったかもしれない。
穏やかな雰囲気を放つ栗色の瞳は、見ているとなんだか安心感を覚える。
声をかけられた時、遅刻理由について興味本位で根掘り葉掘り聞かれることを警戒していた栞里だったが、そういうわけではなさそうな空気にホッと息をつく。
「うん。花乃栞里。あなたは?」
「わたしは澪。凪沢澪。よろしくね」
「うん。よろしく、澪」
澪は少し面食らったように目をぱちぱちと瞬かせた。
なにかおかしな返しをしてしまっただろうかと栞里が首を傾げていると、澪はショートカットの髪を揺らして、照れくさそうに頬をかいた。
「えへへ……いきなり呼び捨てにされちゃった」
「ダメだった?」
「ううん。わたし、一年くらい前にちょっと遠くの方から引っ越してきたばっかりで、お友達って少なかったから。栞里ちゃんとお友達になれたらなって思ってたから、すごく嬉しい」
嫌がるようなら名字呼びに変えようかとも思っていたけれど、澪がそう言ってくれるなら、わざわざ変える必要もないだろう。
どうやら澪は、隣の席である栞里と友達になりたくて話しかけてくれたらしい。
それは栞里にとっても歓迎すべきことだ。
自分から誰かに声をかけることが少なく、同年代の子からはとっつきづらいとよく言われてしまう栞里ではあるが、友達を作りたくないわけでは決してない。
次第に会話に花が咲き、話が広がっていく。
そうして話題はやがて、栞里が語った遅刻理由について移行していった。
「それで、栞里ちゃん。さっきの話って、本当……なんだよね?」
「さっきの……レッサーパンダのこと?」
「うん。レッサーパンダを交番に届けてきたって……」
澪もやはりあれは気になるようだ。
……真実を伏せて語ったことであるため、あまり追及されたくはなかった。嘘が苦手な栞里では誤魔化しきれないかもしれないから。
だけれど、澪は無理に聞くつもりはなさそうだ。話したくないなら話さなくてもいい。彼女の優しげな瞳はそう言ってくれている。
だから栞里も、興味本位ではなく、純粋に友達になりたいと声をかけてくれた澪になら話してもいいかと思い直した。
栞里は周囲に聞かれないよう声を潜め、澪の耳に顔を近づける。
澪も少々不思議がりながらも、栞里に合わせて少し栞里の方に体を傾けた。
「澪にだけ言うけど……実は、あれは嘘なの」
「え、嘘だったの?」
「……やっぱり嘘じゃないかも」
「ど、どっちなのっ?」
言葉を大切にすることが心情なだけに、嘘だったのかと言われると途端に罪悪感が湧き出てしまう。
思わず否定してしまったが、栞里はふるふると頭を左右に振ると、気を取り直して続きを話した。
「あれ自体は嘘じゃないんだけど……私が交番に届けたのは、正しくはレッサーパンダじゃなくて、しゃべるレッサーパンダ……みたいななにかだったの」
「しゃ、しゃべるレッサーパンダ……」
「うん。もしあのままにしてたら被害が出たかもしれないから、どうしても放っておけなくて」
「え? ひ、被害って?」
「……そのレッサーパンダみたいななにか、魔法少女がどうこうって言ってたの。レッサーパンダは基本的に草食だけど、あれはレッサーパンダみたいななにかだし、肉食じゃないとは言い切れない……だからきっと、魔法少女って単語で年端もいかない女の子をおびき出して食い物にしてるんじゃないかって思って」
「…………」
澪はあっけに取られたように口を半開きにしていた。
それもしかたがないか、と栞里は思う。
しゃべるレッサーパンダなんて、栞里だって話に聞いただけだったなら信じていたか怪しい。
それでも澪にだけは信じてもらいたいと感じた栞里は、少しでも誠実な態度を示すために澪の目をまっすぐに見つめた。
「信じられないかもしれない……でも、事実なの。何度も触って確かめたから間違いない。頭がおかしいって思うかもしれないけど……」
「あ、ううん! 違うの! 信じてないわけじゃなくて……ただちょっと、栞里ちゃんの行動が予想外すぎてついていけなかったというか……」
「澪、私の話を信じてくれるの?」
「え。う、うん。信じるよ。だって栞里ちゃん、こんな真剣に話してくれてるんだもん。友達なら信じなきゃ」
「……そっか。澪は優しいね……よしよししてあげる」
「ふぇ? あ、ありがとう……?」
宣言通り、よしよし、と澪の頭を撫でる。
一方で澪は、同級生の頭を撫でる栞里を見上げ、「もしかして栞里ちゃんって結構変な人なのかな……?」なんて内心思っていたが、口に出すことはしなかった。
(うぅーん……それにしても、しゃべるレッサーパンダって絶対あの子のことだよね……だ、大丈夫かなぁ)
そして澪は、心当たりがある正体を密かに思い浮かべながらそんなことも考えていたが、栞里にそれを知る由もない。
「澪? どうかした?」
「あ、ううん!」
ほんの少し不安そうな表情をする澪が気になり、顔を覗き込んだ栞里だったが、澪は慌てたように首を横に振った。
「ごめんね。なんでもないの。ちょっとぼーっとしちゃってただけで……」
「そう?」
「うん。心配してくれてありがとね、栞里ちゃん」
「ん。どういたしまして」
担任の先生が来るまで、また他愛のない雑談でも始めようとしたところで、ガラガラと教室の戸が開く。
「はいはい静かに。先生が戻りましたよー」
さきほどは少々慌てた様相で教室を出て行った先生だったが、今はもうすっかり落ちついていた。
「栞里さん。レッサーパンダの件は警察の方に確認が取れましたので、今回の遅刻に関しては目を瞑ります。ですが、今後遅刻や欠席をする場合はできる限り事前に学校へ連絡するようにしてくださいね。あと、あまり危険な真似はしないように」
「はい。気をつけます」
「いい返事です。それではホームルームを再開します」
レッサーパンダの件が警察に確認が取れた、とのことでまた教室が騒がしくなり始めたが、先生が何度か注意するとそれも収まった。
「栞里さんも来たので、改めて。あなたたちの学級担任となる古本紡木です。担当する教科は国語と地理歴史。よろしくね」
先生こと紡木が「それでは、また続きからお願いします」と言うと、窓際の生徒の一人が立ち上がった。
どうやら自己紹介の途中だったようだ。
自己紹介が一つ終わるたび、パチパチと拍手が鳴る。
端から順々に自己紹介が行われているようだが、席順は窓際から五十音順なので、ハ行で始まる花乃栞里よりもナ行の凪沢澪の方が先だ。
澪の順番が来ると、栞里は立ち上がる彼女を少し期待を込めて見上げた。
「凪沢澪です。好きな食べ物は砂糖で甘く焼いた卵焼きです。一年くらい前にこちらに越してきてまだあまり知り合いがいないので、よければ仲良くしてください!」
自己紹介を終えて席につくと、澪は栞里の方を向いて、かすかに赤くなっていた頬をかいた。
「うぅ。知らない人ばっかりで緊張したー……」
「うまくできてたよ。おいしいよね、卵焼き」
「お、おいしいけど……なんだか恥ずかしいな」
雑談もほどほどに、栞里の順番がやってくる。
栞里が起立すると、栞里は自分に、他の同級生が自己紹介した時と比べて多くの視線が集まったように錯覚した。
いや、実際の視線の数自体は同じだ。しかしその興味の度合いが違う。皆、好奇心の塊のような目で栞里を見ていた。
無論、原因はレッサーパンダの一件であろう。見事に悪目立ちしてしまっている。
異様な雰囲気に澪が心配そうに見上げてくる中、栞里は、まったく臆することなく堂々と口を開いた。
「花乃栞里」
「………………えっと、それだけですか?」
それ以外なにも言わないので念のため紡木が確認を取ると、栞里は少し考えてから、再び堂々と言い放つ。
「一五歳」
「そ、それはそうでしょうけど……」
入学したての高校生は皆一五歳である。
あまりにも当たり前の事実を口にしただけなのだが、栞里はまるでなにかを成し遂げたように満足気に頷いた。
「これでよし。よろしく」
「あ、はい……よ、よろしくお願いします。で……では、次の人ー」
戸惑いがちに拍手が鳴る。
いったいなにがよしなのか。栞里以外誰も理解できなかったが、ここまで自信満々に言い切られてしまったら拍手する以外になかった。
(あはは……レッサーパンダを交番に届けたってところから薄々思ってたけど、やっぱり栞里ちゃんってちょっと変な人なんだなぁ……)
何事もなかったように着席し、次の自己紹介を聞き始める。
そんな栞里を横目で見て、澪は一人、かすかに苦笑いを浮かべるのだった。