――どうやら私は夢を見ているらしい。
花乃栞里はそんな結論を出しながら、玄関の扉をバタンと締めて鍵をかけた。
時は、少し前に遡る。
少し前と言っても、本当に少し前だ。時間にして一分くらい前になる。
忘れ物はないか。身だしなみは恥ずかしいものではないか。
今日から高校一年生になる栞里は、初登校という晴れ晴れしい舞台に向けた準備の最終確認を行っていた。
そしてそれらの確認を終えると、新しく始まる日々に胸を踊らせながら、意気揚々と玄関に向かった。
「やあ」
「…………?」
だが扉を開けた瞬間、栞里の目に入ってきたものはいつもの景色などではなく、玄関前で仁王立ちをしたレッサーパンダだった。
それだけならまだいい。
……いやまあ、まったくよくないが。この時点ですでに意味不明なのだが。問題はさらにあったのだ。
最初こそ、鳴き声を聞き間違えただけかと思っていた。
レッサーパンダの鳴き声が、人の声のように聞こえただけなのだと。
「君、魔法少女に興味ないかい?」
だが次に続いたその流暢な可愛らしい声で、栞里はさきほどの声が幻聴でもなんでもなかったことを悟った。
そして栞里は無言で素早く扉を閉じ……冒頭に戻る、というわけである。
(……昨夜、睡眠はじゅうぶんに取ったはず……ちゃんと朝ご飯も食べたし、顔も洗った。頭はスッキリしてる。寝ぼけてるわけでもない……)
冷静に自分の体調を分析してみるが、特に異常があるとも思えなかった。
(やっぱりレッサーパンダじゃなかった……のかも。猫とか狸とかを見間違えたと考えた方がしっくりくる。なんかしゃべってたように聞こえたのは……そう、塀の向こうとかその辺で誰かが話してたのがレッサーパンダの声に聞こえただけ)
しゃべっていた理由づけに関してはやっつけ仕事も甚だしかったが、実際にレッサーパンダがしゃべる可能性と比べてみれば、そんなやっつけ理論の方が確率が高いのだからしかたがない。
偶然見間違えて、偶然聞き間違えた。
どんなに考えてみても、それが一番信憑性が高い答えだった。
そして野生の猫や狸なら、多くの場合、人間に見つかれば一目散に逃げていくはずである。
あの時、栞里は玄関の前にいたそれと確実に目が合った。だとすれば、もう扉の向こうにはいない可能性が高い。
そう結論を出した栞里は、自分の正しさを証明するためにも、再び玄関の扉を開いた。
「ちょっと! いきなりドアを閉じるなんてひどいなぁ。魔法少女だよ? 魔法少女。女の子なら誰しもが一度は憧れ――」
バタンッ! かちゃり。
(なんだあれ)
まごうことなきレッサーパンダだった。
そして間違いなくしゃべった。幻聴でも聞き間違えでもない。
その口を動かして、動物本来の鳴き声とはほど遠い、人間の子どもじみた高い声で魔法少女がどうのと確かに口にしていた。
(やっぱり、夢?)
頬を摘んで、ぐにーっ! と、力の限り引っ張ってみる。
痛い。普通にめっちゃ痛い。
じんじんと痺れが残る頬から手を離す。
(……信じられないけど……夢じゃなさそう。あの人語を話すレッサーパンダは確かに存在していて、魔法少女がどうだとか意味のわからないことを言ってる……)
魔法少女。
その名の通り、魔法、またはそれに準ずる不思議な力を行使する少女の総称だ。
華やかな衣装を纏い、悪を討つ正義の味方。
昔から日曜の朝などには魔法少女を題材としたテレビアニメがよく放映されていて、栞里も幼い頃は目を輝かせて見ていたことを覚えている。
そう、テレビアニメだ。
魔法も魔法少女も、それらはあくまで想像上の産物に過ぎない。
現実には存在しないのだ。
(……レッサーパンダがしゃべるのもおかしいけど……こっちはまだ現実味がある)
この世界は広いもので、人間の言葉を覚え、人間と似た発音で発することができる動物も存在する。
鳥類、インコやオウムなどが良き例だ。
そしてインコやオウムに限らず、元より彼ら鳥類は人間と同様に鳴き声の発音やその連なりで独自の文章を形成し、それを用いたコミュニケーションを取っていることが研究で確認されている。
一説によれば、インコやオウムが人間の言葉を覚えるのはそれを仲間の言葉として認識しているからだそうだ。
だとすれば、あのレッサーパンダも同じような存在である可能性はじゅうぶんに考えられる。
突然変異、あるいは遺伝子組み換え……そんな感じで、人間の言葉をしゃべることができる声帯を手に入れた特殊なレッサーパンダなのだ。
あんまりにも突飛なSFじみた妄想だったが、少なくとも魔法少女の実在なんかよりは現実味がある発想なのではないかと栞里は思う。
「ちょっとちょっと、おーい! なんで二度も締め出すのさー!」
栞里が未だ玄関の向こうにいるだろうSF生命体をどうするか迷っていると、バンバンと扉が叩かれ始める。
「僕のこと見えてるし、声も聞こえてるんでしょ? じゃないとこんな反応しないし! 開けてよー! ねー!」
(……次開けたら中に入ってきそう)
しゃべるレッサーパンダの目的がなんなのかはわからない。
だけど確かに言えることもある。
それは、このレッサーパンダが人間と同等の知性を備えているということだ。
なぜならこのレッサーパンダは、発音まで含めて人間の言語を使いこなしている。
ただオウム返しするだけのインコやオウムとは明らかに違う。人間の言語の仕組みを完璧に理解し、自分の意思で言葉を考えている。
だが相手は人間じゃない。レッサーパンダだ。
すなわち野生動物……ならばレッサーパンダの狙いは、野生動物らしく捕食狙いだと考えるべきだろう。
人間の言語を匠に使っているのは、おそらくは人をおびき寄せるための罠だ。
魔法少女という単語を口にすることで、それに憧れる幼気で純粋な女の子を油断させておびき寄せ、捕食するつもりなのだ!
きっとこれまでも、こうやって何人もの少女を手にかけてきたに違いない。
なんて卑劣なのだろうか!
……普通のレッサーパンダは基本的に草食だったはずだけども、今玄関の外にいるのはレッサーパンダの形をした別のなにかだし、本来のレッサーパンダと同じ定義には当てはまらないだろう。
「もー、なんでこうなるのさぁ……せっかく新しい資格者を見つけたのに。これは君にとっても悪い話じゃないんだよ? 今なら期間限定でスペシャルにプレミアムな魔法少女になれるんだ! だから開けてよー、僕の話を聞いてー」
(……これ以上、このレッサーパンダもどきの被害を出すわけにはいかない。真実に気づいちゃった以上は、私がここで悲しい犠牲の連鎖を終わらせなくちゃ……!)
栞里は片手に持っていた学生鞄の持ち手をギュッと握りしめる。
そしてゆっくりと鍵の開閉を行う部分へ手を伸ばしていく。
(体格は、見たところ三〇センチもなかった。力もそこまで強くないはず……私一人でも、うまくやれば対処できる)
かちゃり。
錠が解除されたその音は向こうにも聞こえたようで、扉が叩かれていた音がピタッと止まった。
きっと今頃この扉を隔てた先では、あのレッサーパンダもどきが扉が開く瞬間を今か今かと待ち構えている。
(さあ、いざ尋常に……勝負!)
すべきことを頭の中で反芻し、深呼吸をすると、栞里は取っ手を押して一気に扉を開いた。
――がちゃ。
「あ、やっと開けてくれ――」
「成敗!」
「――ぐぇっぶばはぁ!?」
扉を開けて即座に、取っ手を持っていた方とは逆の手に持っていた学生鞄を素早く振りかざす。
結果はクリーンヒット。
隙間から家内に入ってこようとしたレッサーパンダに見事攻撃を当てることに成功し、押しつぶされたレッサーパンダは潰れたような悲鳴を上げた。
いざ尋常に勝負とか言っておきながら全然尋常でもないまごうことなき不意打ちだったが、気にしてはいけない。
「……やった?」
一応、突然起き上がって逃げ出す可能性も考慮して二撃目の準備をしつつ、慎重にレッサーパンダの状態を確認する。
……どうやら気絶しているようだ。完全に気を失って脱力している。
「よし」
もし栞里が小学生や中学生だったなら、あるいはこのレッサーパンダもどきに騙されて、その毒牙にかかってしまっていたかもしれない。
だが本日が入学初日とは言え、あいにくと栞里はもう高校生なのだ。魔法少女なんて言葉に釣られるような年頃ではない。
しゃべるレッサーパンダの誤算……それは自らが人間以外の動物であるがゆえ、人間の加齢による思考体系の変化を考慮できなかったことであろう。
(とりあえず、このレッサーパンダみたいな未確認生物は交番に届けておこう)
栞里は一度家の中に戻ると、押入れから大きめのサイズの鞄を持ってきて、レッサーパンダっぽい未確認生物を中に入れる。
そしてそれをスクールバッグと一緒に担ぐと、今度こそ玄関の外に足を踏み出す。
「行ってきます」
一言だけそう呟いて、玄関の扉と鍵を締める。
入学式、間に合うかな。
そんなことを頭の端で思いつつ、栞里は意気揚々と交番に向けて歩き出した。
言葉を大切にしなさい。
栞里はそう、母からよく言われたものだ。
言葉には不思議な力が宿っていて、現実の出来事になにかしらの影響を及ぼす。
感謝のように良い言葉を口にすれば良いことが起きるし、誰かを嘲るような悪い言葉を口にすれば悪いことが起こる。
言霊。日本のみならず、全世界で信じられている概念だ。
言霊によって良い変化が起きた実例は、世界中に数多く存在している。
たとえば、感謝を捧げて育てた植物はのびのびと育ち、罵声を浴びせ育てた植物はすぐに枯れてしまうという。
体が弱かった人が、健康と日々唱え続けることで本当に健康になったなんて話もある。
生物ではない生肉や卵のような食べ物にしたって、かける言葉によって腐る早さが変わってくるそうだ。
だから栞里は、自分の言葉に責任を持つことを第一としている。
「えぇっと……栞里さん? 急に黙り込んで……どうかしましたか?」
学校の教室。ホームルームの最中。
前方の戸から入ってすぐのところで停止した栞里は、一つの切実な悩みに苛まれていた。
(……遅刻した理由、どう説明したらいいんだろう……)
栞里の信条は、自分の言葉に責任を持つことだ。
ならば本当のことを言うべきなのだろうか?
しかし、なぜか玄関前にいたなぜか人語を話せるレッサーパンダ……のような未確認生物を交番に届けに行っていた、なんて言っても信じてもらえるか、だいぶ怪しい。
事実は小説より奇なり。そんなことわざがあるように、時として事実は架空の物語よりも信じがたい真実を突きつけてくる。
実際に体験した栞里ならばともかく、なんの関係もない第三者が、話に聞くだけでその奇妙な事実を認めろという方が無茶な話だ。
(む……むむ……しかたない……少しだけ本当のことを伏せて話そう)
言葉を大切にすることが母の教えだ。だから、できるだけ嘘はつきたくない。真実を伏せる程度が限界だ。
本当のことを話さないことも嘘の一つなのでは? なんて言われたら言い返せないけれど、それが栞里にとってのギリギリの許容範囲だった。
「あのー……」
栞里が教室に立ち入ってからずっと無言で立ち尽くしているせいで、すっかり困り顔になってしまっている。
そんな担任の先生と、栞里はようやく視線を合わせた。
「なぜか玄関前でウロウロしていたレッサーパンダを交番に届けに行っていて遅刻しました。事情聴取が思っていたより長引いてしまって……入学式にも出席できず、申しわけありません」
「れ、レッサーパンダですか? ……え、交番にっ!?」
「はい。見逃した際の危険を考慮し、なんとか捕獲して連れて行きました。どうしてレッサーパンダがいたのか、どこから来たのかはわかりません。しかし」
「し、しかし?」
「猫でも犬でも狸でもなく、あれは間違いなくレッサーパンダでした。事情は警察の方にも説明いたしましたので、真偽のほどは問い合わせていただければと」
至って真剣な顔で栞里は言い切った。
嘘にしてはだいぶお粗末で、真実にしては荒唐無稽な話だ。当然のごとく教室がざわめき立つ。
なお、栞里が隠した真実とは、あのレッサーパンダがしゃべっていたということである。
あれが本当にレッサーパンダだったのか、それともレッサーパンダの形をしているだけの未確認生物だったのかはわからない。だが少なくともレッサーパンダの見た目をしていたことと、それを交番に届けたことは確かな事実だ。だから残念ながら、そこを隠すことはできなかった。
レッサーパンダなんて単語が出てきている時点で到底信じがたい話であることは栞里もわかってはいるが、何度も言うように、レッサーパンダを交番に届けたことは一つの事実として確かに存在する。
交番に連絡さえしてもらえれば、たとえどれだけ信じられない内容だったとしても、栞里の言葉が真実だったことは容易に証明できる。
「……わ、わかりました。栞里さんの言うことを疑っているわけではありませんが、念のため確認を取ってきます。栞里さんも席について、皆さんと待っていてください」
「はい。ご足労おかけします」
担任の先生はそう言うと、そそくさと足早に教室を出ていった。
教室の前の方に一人残された栞里は、未だざわついているクラスメイトたちをよそに、自分の席を黒板に貼られた紙で確認して移動する。
(うーん……せっかく念入りに準備してたのに、初日から遅刻しちゃったな。学校が近いからって登校を遅くしたのがダメだったのかも……次からは、急にレッサーパンダに遭遇しちゃっても間に合うくらいの時間に登校しよう)
そもそも登校中にレッサーパンダに会うことがまずないのでは? なんて疑問も一瞬栞里の中に浮かんだが、実際問題、今回は遭遇したのである。
ならば二度目がある可能性も否定できない。
元々ざわついてはいたが、一時的に先生がいなくなったこともあって、次第に教室内に無秩序な喧騒が溢れ始める。
「えっと……栞里、ちゃん? で、いいのかな?」
自分の名前を呼ぶ声に、栞里は反射的に隣の席を見た。
けれどわずかに目線が合わず、少しだけ視線を落とす。
第一印象は、可愛い、という至極単純なものだった。
栞里より一回りほど背丈が低い関係で、その少女は覗き込むようにこちらを見つめてきている。
まだ幼さが多く残る顔立ちをしていることもあって、高校の制服を着ていなければ中学生にしか見えなかったかもしれない。
穏やかな雰囲気を放つ栗色の瞳は、見ているとなんだか安心感を覚える。
声をかけられた時、遅刻理由について興味本位で根掘り葉掘り聞かれることを警戒していた栞里だったが、そういうわけではなさそうな空気にホッと息をつく。
「うん。花乃栞里。あなたは?」
「わたしは澪。凪沢澪。よろしくね」
「うん。よろしく、澪」
澪は少し面食らったように目をぱちぱちと瞬かせた。
なにかおかしな返しをしてしまっただろうかと栞里が首を傾げていると、澪はショートカットの髪を揺らして、照れくさそうに頬をかいた。
「えへへ……いきなり呼び捨てにされちゃった」
「ダメだった?」
「ううん。わたし、一年くらい前にちょっと遠くの方から引っ越してきたばっかりで、お友達って少なかったから。栞里ちゃんとお友達になれたらなって思ってたから、すごく嬉しい」
嫌がるようなら名字呼びに変えようかとも思っていたけれど、澪がそう言ってくれるなら、わざわざ変える必要もないだろう。
どうやら澪は、隣の席である栞里と友達になりたくて話しかけてくれたらしい。
それは栞里にとっても歓迎すべきことだ。
自分から誰かに声をかけることが少なく、同年代の子からはとっつきづらいとよく言われてしまう栞里ではあるが、友達を作りたくないわけでは決してない。
次第に会話に花が咲き、話が広がっていく。
そうして話題はやがて、栞里が語った遅刻理由について移行していった。
「それで、栞里ちゃん。さっきの話って、本当……なんだよね?」
「さっきの……レッサーパンダのこと?」
「うん。レッサーパンダを交番に届けてきたって……」
澪もやはりあれは気になるようだ。
……真実を伏せて語ったことであるため、あまり追及されたくはなかった。嘘が苦手な栞里では誤魔化しきれないかもしれないから。
だけれど、澪は無理に聞くつもりはなさそうだ。話したくないなら話さなくてもいい。彼女の優しげな瞳はそう言ってくれている。
だから栞里も、興味本位ではなく、純粋に友達になりたいと声をかけてくれた澪になら話してもいいかと思い直した。
栞里は周囲に聞かれないよう声を潜め、澪の耳に顔を近づける。
澪も少々不思議がりながらも、栞里に合わせて少し栞里の方に体を傾けた。
「澪にだけ言うけど……実は、あれは嘘なの」
「え、嘘だったの?」
「……やっぱり嘘じゃないかも」
「ど、どっちなのっ?」
言葉を大切にすることが心情なだけに、嘘だったのかと言われると途端に罪悪感が湧き出てしまう。
思わず否定してしまったが、栞里はふるふると頭を左右に振ると、気を取り直して続きを話した。
「あれ自体は嘘じゃないんだけど……私が交番に届けたのは、正しくはレッサーパンダじゃなくて、しゃべるレッサーパンダ……みたいななにかだったの」
「しゃ、しゃべるレッサーパンダ……」
「うん。もしあのままにしてたら被害が出たかもしれないから、どうしても放っておけなくて」
「え? ひ、被害って?」
「……そのレッサーパンダみたいななにか、魔法少女がどうこうって言ってたの。レッサーパンダは基本的に草食だけど、あれはレッサーパンダみたいななにかだし、肉食じゃないとは言い切れない……だからきっと、魔法少女って単語で年端もいかない女の子をおびき出して食い物にしてるんじゃないかって思って」
「…………」
澪はあっけに取られたように口を半開きにしていた。
それもしかたがないか、と栞里は思う。
しゃべるレッサーパンダなんて、栞里だって話に聞いただけだったなら信じていたか怪しい。
それでも澪にだけは信じてもらいたいと感じた栞里は、少しでも誠実な態度を示すために澪の目をまっすぐに見つめた。
「信じられないかもしれない……でも、事実なの。何度も触って確かめたから間違いない。頭がおかしいって思うかもしれないけど……」
「あ、ううん! 違うの! 信じてないわけじゃなくて……ただちょっと、栞里ちゃんの行動が予想外すぎてついていけなかったというか……」
「澪、私の話を信じてくれるの?」
「え。う、うん。信じるよ。だって栞里ちゃん、こんな真剣に話してくれてるんだもん。友達なら信じなきゃ」
「……そっか。澪は優しいね……よしよししてあげる」
「ふぇ? あ、ありがとう……?」
宣言通り、よしよし、と澪の頭を撫でる。
一方で澪は、同級生の頭を撫でる栞里を見上げ、「もしかして栞里ちゃんって結構変な人なのかな……?」なんて内心思っていたが、口に出すことはしなかった。
(うぅーん……それにしても、しゃべるレッサーパンダって絶対あの子のことだよね……だ、大丈夫かなぁ)
そして澪は、心当たりがある正体を密かに思い浮かべながらそんなことも考えていたが、栞里にそれを知る由もない。
「澪? どうかした?」
「あ、ううん!」
ほんの少し不安そうな表情をする澪が気になり、顔を覗き込んだ栞里だったが、澪は慌てたように首を横に振った。
「ごめんね。なんでもないの。ちょっとぼーっとしちゃってただけで……」
「そう?」
「うん。心配してくれてありがとね、栞里ちゃん」
「ん。どういたしまして」
担任の先生が来るまで、また他愛のない雑談でも始めようとしたところで、ガラガラと教室の戸が開く。
「はいはい静かに。先生が戻りましたよー」
さきほどは少々慌てた様相で教室を出て行った先生だったが、今はもうすっかり落ちついていた。
「栞里さん。レッサーパンダの件は警察の方に確認が取れましたので、今回の遅刻に関しては目を瞑ります。ですが、今後遅刻や欠席をする場合はできる限り事前に学校へ連絡するようにしてくださいね。あと、あまり危険な真似はしないように」
「はい。気をつけます」
「いい返事です。それではホームルームを再開します」
レッサーパンダの件が警察に確認が取れた、とのことでまた教室が騒がしくなり始めたが、先生が何度か注意するとそれも収まった。
「栞里さんも来たので、改めて。あなたたちの学級担任となる古本紡木です。担当する教科は国語と地理歴史。よろしくね」
先生こと紡木が「それでは、また続きからお願いします」と言うと、窓際の生徒の一人が立ち上がった。
どうやら自己紹介の途中だったようだ。
自己紹介が一つ終わるたび、パチパチと拍手が鳴る。
端から順々に自己紹介が行われているようだが、席順は窓際から五十音順なので、ハ行で始まる花乃栞里よりもナ行の凪沢澪の方が先だ。
澪の順番が来ると、栞里は立ち上がる彼女を少し期待を込めて見上げた。
「凪沢澪です。好きな食べ物は砂糖で甘く焼いた卵焼きです。一年くらい前にこちらに越してきてまだあまり知り合いがいないので、よければ仲良くしてください!」
自己紹介を終えて席につくと、澪は栞里の方を向いて、かすかに赤くなっていた頬をかいた。
「うぅ。知らない人ばっかりで緊張したー……」
「うまくできてたよ。おいしいよね、卵焼き」
「お、おいしいけど……なんだか恥ずかしいな」
雑談もほどほどに、栞里の順番がやってくる。
栞里が起立すると、栞里は自分に、他の同級生が自己紹介した時と比べて多くの視線が集まったように錯覚した。
いや、実際の視線の数自体は同じだ。しかしその興味の度合いが違う。皆、好奇心の塊のような目で栞里を見ていた。
無論、原因はレッサーパンダの一件であろう。見事に悪目立ちしてしまっている。
異様な雰囲気に澪が心配そうに見上げてくる中、栞里は、まったく臆することなく堂々と口を開いた。
「花乃栞里」
「………………えっと、それだけですか?」
それ以外なにも言わないので念のため紡木が確認を取ると、栞里は少し考えてから、再び堂々と言い放つ。
「一五歳」
「そ、それはそうでしょうけど……」
入学したての高校生は皆一五歳である。
あまりにも当たり前の事実を口にしただけなのだが、栞里はまるでなにかを成し遂げたように満足気に頷いた。
「これでよし。よろしく」
「あ、はい……よ、よろしくお願いします。で……では、次の人ー」
戸惑いがちに拍手が鳴る。
いったいなにがよしなのか。栞里以外誰も理解できなかったが、ここまで自信満々に言い切られてしまったら拍手する以外になかった。
(あはは……レッサーパンダを交番に届けたってところから薄々思ってたけど、やっぱり栞里ちゃんってちょっと変な人なんだなぁ……)
何事もなかったように着席し、次の自己紹介を聞き始める。
そんな栞里を横目で見て、澪は一人、かすかに苦笑いを浮かべるのだった。
「それではホームルームを終わります。起立、礼」
紡木の号令に、ありがとうございました、と大勢の声が鳴り響く。
紡木が教室を後にすると、静かだった教室ががやがやと騒ぎ始めた。
そのまま教室で駄弁り始める者もいれば、早々に帰り支度を始める者もいる。中学からの知り合いにでも会いに来たのか、他のクラスの生徒が教室内に入ってきたりもしていた。
栞里はと言えば、早々に帰り支度を始める者うちのの一人だった。
「栞里ちゃん、お昼はどうするか決めてる?」
澪も栞里と同じように帰り支度をしている。
今日は入学初日ということで、入学式と顔合わせのホームルームしかなかった。
学校に食堂はあるが、あらかじめ早めの解散が決まっていたために、今日は開いていない。
「家に帰って、適当に作るつもり」
「へえー。家庭的なんだね。栞里ちゃんの家は学校から近かったりするの?」
「歩いて一〇分くらい」
「わっ、近い! って言っても、私も自転車で一〇分くらいだけど」
「む……私も自転車で通学したい」
「ふふ、近すぎるとダメなんだっけ?」
そんな他愛のない話をしながら、一緒に教室を後にする。
廊下を歩く最中、ふと窓の方に顔を動かせば、中庭の光景が目に入る。
弁当を持ってきていた生徒もいたようで、はらはらと桜の花びらが舞い落ちる中、ベンチに腰を下ろして友達と食べている姿が窺える。
栞里は自分が社交的な性格とは言いがたいことを自覚している。中学時代、あんな風に一緒に昼食を食べるほど親しい友人はいなかった。
羨ましいわけではないが、仲良く昼食を食べる姿が幸せそうに映って、自然と少し足を止めていた。
そんな栞里の視線の先に、ひょこっと澪が顔を出す。
「ね、栞里ちゃん。さっきは栞里ちゃん、家に帰ってなにか作るって言ってたけど……よかったら、お昼どこかで一緒に食べて行かない?」
「一緒に?」
思いもよらぬ誘いに栞里は目を瞬かせる。
「……うーん……」
「あ、ダメだったらいいんだよ! 栞里ちゃんがよかったら、だから」
栞里が他の生徒が仲睦まじくお昼を食べている光景をボーッと眺めていたものだから、脈ありなのでは? と澪は思ったのだ。
しかし予想外に芳しくなかった反応に、澪は少し気落ちしてしまう。
「わたし、今帰っても家に誰もいないし……一人でご飯食べるのって、なんだかちょっと寂しくて。その、ダメかな」
「ダメ、ってわけじゃない……けど」
「けど?」
「……外食はお金がかかる」
「そ、それはそうだけど」
真剣な顔でお金が理由だと語る栞里に、澪はなんとも言えない気持ちになる。
もしかして友達よりお金の方が大事な人なのかな……なんて失礼なことも密かに考えてしまったり。
しかしそんな澪を横目で見て、これはわかっていないなと感じた栞里は、ずずいと一気に顔を寄せる。
突然のことに面食らう澪の瞳を、逃さんとばかりにジーッと見据えた。
「澪……いい? よく聞いて。お金は大事。これがないと私たちは生きていけない」
「へ? う、うん……」
「私たちが着てる服も、食べてるものも、全部お金が関わってるの。お金で買えないものもあるって、人は言う。でも、人間社会において九割以上のものはお金で買えるの。お金、とても、大事」
「は、はい」
かなりの剣幕だったので若干引き気味になってしまいつつ澪が首を縦に振ると、栞里は満足気に頷いた。
「……でも、勘違いはしないでほしい。私は澪と一緒に食べるのが嫌なわけじゃない」
「そう、なの?」
「そうなの。澪の誘いはとても嬉しかった。私も澪と一緒に食べたい。だから澪、もしよかったら外食じゃなくて、これから一緒に私の家で――」
そこで不意に、栞里の言葉が止まる。
不思議に思った澪が「どうかしたの?」と問いかけようとしたところで、栞里のその視線が澪の後ろの方へ凝視するように注がれていることに気がついた。
気になった澪が振り返ってみれば、そこには一人の女子生徒がいた。
無論ここは廊下だから、何人もの人が行き交っている。女子生徒という名詞に該当する人は山ほどいる。
しかしその中でも、件の女子生徒だけは確かに栞里を見つめており、まっすぐに栞里の方に向かって歩いてきていた。
「……栞里ちゃんの知り合いの人?」
「ううん。知らない」
「……そっか」
(ならあの人、もしかして……)
澪はその正体になんとなく心当たりがあったが、しかしだからこそ、ここはなにも言わず静観することに決めた。
「こんにちは。私は架空七夏。あなたが花乃栞里ちゃん、でいいんだよね?」
栞里が入学した間子葉高校では、学年ごとにリボンとスカートの色が違う。
栞里や澪と言った一年生は赤。二年生は緑。三年生は青と区別されている。
一年が経過すると、一年生と二年生の色はそれぞれ上の学年に切り替わる仕組みであるため、買い換える必要はない。
そして今目の前にいる、七夏と名乗った女子生徒の色は緑。
つまりは二年生だった。
「……」
下級生が知らない上級生に話しかけられるという事態は、通常、下級生側が少なからず圧力を感じるものだ。
だけど今回、栞里はその圧力を感じなかった。
それはおそらく、この七夏という少女の気質に起因しているのだろう。
明るく透き通った声は澄み渡るように耳に入る。
初対面であるにもかかわらず、親しい人に向けるかのようにあどけない微笑みは、見る者の心を弛緩させた。
くりくりと少し大きな瞳は琥珀のように鮮やかな反面、無邪気な子どものような好奇心も見え隠れしている。
ふとした仕草でふりふりと揺れるツインテールはまさしく尻尾のようで、彼女の快活さを表しているように感じられた。
(……カツアゲかなにかかと思ったけど……悪い人ではなさそう? けど……)
あなたが栞里でいいのかどうか。
栞里は少し悩んでから、それに対する返答を決めた。
「かけぞらななか、先輩でしたか。お名前、どんな字で書くのでしょうか」
「うん? 空に架かる七つの夏って書いて、架空七夏だけど……」
不思議そうな顔をしつつ答えてくれた七夏に、栞里はうんうんと頷いてみせた。
「なるほど……良い名前ですね。空に架かるという鮮やかで綺麗な名字に加えて、何度も訪れる夏のイメージ。とても奔放で爽やかな印象を受けます」
「そ、そうかな? なんか急に褒められた……へへ、ありがと」
「では、私たちはこれで失礼します。人探し頑張ってください」
「あ、うん。あなたも気をつけて帰るんだよー…………ん? ……あれ?」
栞里は確かに、七夏のことを悪い人ではなさそうだと判断した。
だがそもそもの話、そもそも栞里には知らない上級生から話しかけられるような心当たりがない。
仮にあるとするなら、今朝のレッサーパンダ騒動くらいだ。
もしもあれがすでに上級生の間にまで広まっているのだとすれば、誰かが好奇心で栞里に話しかけに来てもおかしくない。
見てくれが良い人っぽそうでも、七夏がそういう輩ではないとは限らないのだ。
ここはさっさと逃げるに限る。
「行こう、澪」
「え、えっ?」
しかし自ら話を打ち切った栞里はともかく、澪の方は突然の状況の変化についていけなかったようで、うろたえた様相で栞里を見上げた。
「……あ、あの、いいのっ? し、栞――」
「塩焼きがいいの?」
「はぇ?」
「鮭の塩焼き。私の家で一緒に食べよう」
澪に名前を呼ばれて七夏に聞かれたらおしまいなので、半ば強引に言葉をかぶせつつ、栞里は澪の手を引いてそそくさと離脱を図る。
「いやちょ、待って待って!」
だが残念ながら、栞里が澪を連れて立ち去るよりも、七夏が立ち直る方が早かったようだ。
誤魔化された直後こそ呆然としていた七夏だったが、すぐさまハッとすると、慌てて栞里の進行方向に回り込んだ。
「えっと、あなたが栞里ちゃんでいいんだよねっ?」
困惑を隠せない声色で問いかける七夏に対し、栞里はスッと人差し指を見せつけるように立てる。
「……栞という一文字の漢字は、本に挟む長方形の厚い紙の意味が広まっていますが、元々は木の枝を加工して作った道標の意味も持ちます」
「う、うん?」
「里へ、帰るべき場所へ導く道標。一緒にいると心が落ちつく人。その名前にはきっとそんな意味が込められています」
「そう、なんだ?」
「はい。それでは失礼しますね。人探し頑張って――」
「いやもうそんなんじゃ誤魔化されないから!」
さきほどと同じように切り抜けようとしたが、さすがに二度も同じ手は通じないようだ。
ササッと脇を抜けようとしたところで、体を滑り込ませるようにして塞がれる。
むぅ、と栞里が内心で唸る一方、七夏もまた不満そうに口を尖らせた。
「もー。なんでそんな避けようとするのかな……もう一度、っていうか聞くの三回目だけど、栞里ちゃんってあなたのことで合ってるんだよね?」
「……ほら、窓の外を見てください。青い空、白い雲。ああ、今日はとてもいい天気ですね」
「ねえさっきから思ってたけど話題のそらし方露骨すぎない!? さすがに天気で騙される人はいないよ!」
そう言われても、言葉を大切にすることが母の教えなのだから、悪意ある嘘をつくわけにはいかないのである。
というか、その露骨なそらしにものの見事に引っかかっていたのが最初の七夏である。実にちょろかった。
正直、もうこれ以上は誤魔化しきれそうにもなかったが……あの時のちょろさがまた発揮されないかというワンチャンに賭けて、栞里はもう少しだけ抵抗を試みる。
「ところで、なぜ空が青いのか知っていますか? 光は大気中の粒子に当たると錯乱を起こしますが、特に青い光は波長が短く錯乱が起こりやすく――」
「あーもう! そんな必死に誤魔化したって無駄なの! あなたが栞里ちゃんだってことは本当は最初からわかってるんだから! 私、間違えないようちゃんと事前に写真で確認してきたもん!」
「……写真?」
「そう! 写真! だからどんな内容で言い逃れようとしたって無……だ? ……あー……」
言葉の途中で、徐々にぎこちない笑顔になった七夏が、ギギギ、と壊れた機械のように首を傾ける。
「えっーっと……これ、言っちゃダメなやつだった、っけ……?」
「……」
今、この七夏という上級生は写真と言ったか。
だけど栞里は今まで自分の写真を誰かに上げた記憶はない。
これが中学時代の同級生ならば、卒業名簿の写真で見たなどの可能性も考えられる。
しかし相手は今日会ったばかりの上級生だ。
レッサーパンダ騒動で少し悪目立ちしているかもしれないけれども、しょせんまだ起きて間もない出来事だし、写真が出回るほど有名になっているわけでもない。
それなのにこの少女は、栞里のことを写真で見て知っていると言う。
事前に確認してから接触を図ってきたと。そう言っている。
(……怪しい。悪い人ではなさそうと思ってたけど、そういう技術だった? プロの詐欺師とかってすごく優しそうな人に見えるって言うし……ストーカー……いや、やっぱり本当にカツアゲ……?)
七夏はダラダラと冷や汗を流して、明らかにテンパっている。
だがそれも演技である可能性を視野に入れて、栞里は七夏へとジトッと訝しげな視線を送る。
「あ、あはは……その、これは誤解で……」
途端に精神的劣勢に立たされた七夏は視線を右往左往とさせながら、なんとか弁明を図る。
「と、とりあえず話を聞いてくれないかな? そうすれば今のこともちゃんと説明できるから……」
「……わかった」
「も、もちろん変なことはしな……へっ? い、いいの?」
これまでの手応えのなさからして簡単には話を聞いてくれないと思っていたのだろう。
栞里があっさりと承諾すると、七夏はポカンと呆ける。
けれど当然ながら栞里は警戒を解いたわけではない。むしろこれ以上ないほどに高まっている。
「本当は無視して帰りたい。けど、私のことをどうやって調べたのか、今のうちに知っておかないとまた同じ目に合うかもしれないから」
「あ、そういう理由なんだ……」
不審者でも向けるかのような目と言葉。
抱きかけた期待から一転、七夏は一気に落胆した様子で肩を落とした。
ついでに言えば、栞里が使っていた七夏への敬語もいつの間にかなくなっている。
七夏は最低限栞里が抱いてくれていただろう先輩への尊敬の念が彼方へと吹き飛んでしまっている現実に直面しつつも、なんとか気を取り直そうとかぶりを振った。
「はぁ……まあでも、話を聞いてくれるならそれでいっか……じゃあちょっと、とりあえず人気のないところに――」
「待って。その前に、話を聞く条件が一つ」
「ん? 条件って?」
「簡単なこと。あなたが話そうとしてたこと、私の写真のこと。その全部をここで話して」
「こ、ここでっ?」
今栞里たちがいる場所は、廊下だ。栞里たち以外にも多くの生徒が行き交っている。
「どうして迷うの? もしあなたの話とやらが後ろめたいことじゃないなら、ここでも話せるはず」
「そ、それはそうかもだけど……」
七夏はあからさまに引きつった顔で辺りを見渡している。
やはり、なにか人前では話しにくい事情があるらしい。
栞里は七夏を睨むように鋭く目を細めた。
「それができないなら、話はこれで終わり。あなたが話してくれないなら私はこれから職員室に行って、あなたが私の写真を持ってることについて知らないか問い詰めに行く。学校側から漏れたのかもしれない……場合によっては警察も必要かも」
「そ、そこまでっ!?」
「当たり前。これは肖像権にも関わるかもしれない大きな問題。このジョーホー化社会で、私が把握してない範囲で私の個人情報が広まってる可能性がある以上、放ってはおけない」
「め、目が本気だ……」
情報化という単語がなんか片言じみて聞こえたのはきっと気のせいだ。
ここで引いてしまえば栞里は本当に事を大きくする気だと悟った七夏は、観念したように顔を伏せる。
「うぅ……わ、わかったよ。話す……ちゃんとここで話す……」
「じゃあ、どうぞ」
栞里が聞く姿勢に入ると、ちゃんと話すと言った割に、七夏は躊躇するように閉口した。
いや、実際には何度か口を開いて言おうとはしているのだが、そのたびに周囲を気にして、誰かが近くを通るとすぐに言うのをやめてしまう。
恥ずかしそうに耳を赤くして、聞こえないくらい小さな声で口をもごもごとさせて。
そんなことを何度も繰り返しているものだから、いい加減栞里も付き合っていられず、さっさと立ち去ろうかという思考が頭の隅をよぎり始める。
そんな時だった。七夏の口から、その言葉がぽつりと漏れたのは。
「栞里ちゃんは、その……魔法少女って……興味ある?」
「っ……」
それは、昨日までの栞里なら「テレビアニメの話?」と軽く受け流すだけだろう単語だった。
だけど今日の栞里は、彼女の発言をそのように一蹴することはできなかった。
なぜなら七夏は今、しゃべるレッサーパンダもどきが今朝言っていたことと同じ単語を口にしたのだ。
「私さ、魔法少女なんだ。そしてあなたにも、魔法少女になれる資格がある……あなたも、私と同じ魔法少女にならない?」
「……」
栞里はレッサーパンダがしゃべること、そしてそのしゃべった内容を、澪以外に話していない。
澪はずっと一緒に行動していたので、澪が言いふらしたなんてこともありえない。
なのに七夏は、あのレッサーパンダとまったく同じことを言っている。
チラチラと周りを確認しながら、他の人に聞かれないように小声ではあるものの……確かに同じことを。
そんな七夏を呆然と眺め……すべての真実を悟った栞里は、七夏に近づくと、その肩にポンと優しく手を置いた。
「……大丈夫?」
「へ? だい、大丈夫? え、な、なにが?」
突如柔らかい声で心配されて、七夏は呆けた声を上げる。
いつの間にか、栞里の警戒心の一切が消え去っていた。
そして七夏を見つめる彼女のその瞳は、なにやらまるでかわいそうなものを見つけたような憐憫のそれに変貌している。
あまりの態度の急変化に七夏の理解が追いつかない中、栞里は静かに瞼を閉じる。
「あなたのこと、悪い人かと思いかけてた。でも、違った……あなたもあのレッサーパンダの被害者だったんだ」
「ひ、被害者? た、確かに関係者ではあるけど……」
「大丈夫……わかってる。私と違って、あなたは騙されちゃってるんだよね。あのレッサーパンダの妄言に……でも、安心して。あのレッサーパンダはもう交番に送り届けたから。きっと今頃動物園とか研究施設とかその辺に送られてる」
「いやあの、そのレッサーパンダの子はなんていうか……私の友達、みたいな……? 決して騙されてるとかじゃなくてね……?」
「……」
栞里はうんうんと同調するように頷いた後、七夏の手を自分の両手でそっと包み込んだ。
「大丈夫。大丈夫だから。ちゃんと全部わかってる」
「ほ、ほんとに? 本当にわかってくれてる?」
「もちろん。なにも心配することなんてない。だから……一緒に、病院で頭見てもらおう?」
「いや別に頭おかしいわけじゃないよ!? 全部本当のことなんだってば!」
「わかってる……全部わかってる。今まで辛かったよね」
「なんにもわかってくれてないけどっ! くっ……ダメだこの子、話を聞いてそうでまるで聞いてくれてないっ!」
とにかくちゃんと話を聞いてくれと七夏は必死に主張するが、栞里は耳を貸さない。
なぜなら栞里にとって、すでに七夏は「件のレッサーパンダに洗脳されて頭がかわいそうになってしまった人」だったからだ。
つまるところ、まともに取り合うことそのものが無駄と思われてしまっていた。
この言い争いは、どこまで行っても平行線だ。
「だから頭を打ったとかじゃないんだってばー!」
あまりにギャーギャーとやかましく騒ぐものだから、何事かと次第に周囲の視線が集まり始める。
少し離れた場所で物珍しげに観察する人だかりさえ出来始める始末だ。
七夏はせめてこの場で目立たずに話すことを望んでいたのだろうが(その割には一番騒いでいるが)、ここまで注目を集めてしまえば、もはやそれは叶わぬ願いだ。
そんな中、二人に折衷案を持ち出したのは、これまでずっと黙っていた澪だった。
「あ、あのっ、栞里ちゃん! ……このままだと先生呼ばれちゃうかもだから、とりあえず別の場所で話を聞いてあげたらどうかな……?」
「澪……? でもこの人は」
「大丈夫だよ。栞里ちゃんが言ったように、この人はきっと、そんなに悪い人じゃないから。だから……ね?」
「……澪……」
逃げるなら、澪と一緒に。
初めからそう考えていた栞里は、その澪から話を聞くように提案されてしまって、困ったように立ち尽くした。
(栞里ちゃんって、レッサーパンダ……ううん。しゃべってたあの子を問答無用で捕まえて警察に届けちゃったんだもんね。こうなっちゃうのも、よく考えたら自然な流れだったのかも……)
……実のところ澪は、七夏がどのような意図で栞里を訪ねてきたのか、そして魔法少女がどういう存在なのかを知っている。
だが、それを栞里に話すことは澪の役割ではない。
だから栞里と最初に顔を合わせてからこれまで、魔法少女についてはずっと話さず伏せていたし、本当は、栞里と七夏のやり取りも最後まで静観するつもりだった。
しかしここまで騒ぎが大きくなってしまったからには、もうそんな悠長なことを言っているわけにもいかなかった。
「……わかった」
栞里は自分の心を落ちつけるように息をついた後、コクリと頷いた。
「澪がそう言うなら、話を聞くこともやぶさかじゃない」
「ありがとう、栞里ちゃん」
澪にそう屈託のない笑みを向けられると、栞里もなんだか嬉しくなって、ちょうどいい位置にあった澪の頭を撫でた。
一方、七夏は納得のいかなそうな顔で栞里をジトーッと見つめる。
「なんかあっさり言うこと聞いてる……私がなに言っても聞いてくれなかったのに……」
「澪は常識人だから」
「その言い方だと私が非常識みたいになるんだけど」
「……魔法少女にならないかって人前で言い出すのは、非常識だと思う」
「人前で言う羽目になったのはあなたのせいだからねっ!? ……ま、まあいいや。これ以上ここにいたくないし……とりあえずついてきてくれる? ちょうどいい場所があるからさ」
返事も聞かず、七夏はそそくさと踵を返す。
一瞬、このままついていかずに昇降口へ直行する選択が栞里の頭をよぎった。
正直な話、これ以上頭のおかしい妄言に付き合わされるのはごめんだ。
しかし栞里はこれでも言葉を大切にすることを信条にしている。
一度は話を聞くことを了承した手前、約束を違えることはどうしてもはばかられた。
どうしたものかと、栞里がなんとなく澪の方に顔を向けてみると、ちょうど彼女も栞里の方を見ていて、二人の目が合った。
澪は栞里にこくりと頷いてみせると、先に足を踏み出し、振り返って言った。
「行ってみよう? 栞里ちゃん」
「うん」
栞里は迷いなく首肯する。
いずれにしても、栞里は七夏がどうやって栞里の写真を入手したのか知らなくてはならない。
そうでなければ、この先どんな目に合うかわかったものではないのだし。
(鬼が出るか、蛇が出るか……)
一抹の不安を覚えつつも、栞里は澪とともに七夏の後を追うのだった。
「ついたよ。ここなら周りを気にせず話ができる」
七夏に案内されてたどりついたのは、部室棟にあるオカルト部の部室の前だった。
オカルトとは、神秘的なこと、超自然的なこと、あるいは目に見えず隠れているもののことを指す言葉だ。
昨今においてはそれとは別に、幽霊だったり魔術だったり超能力だったり、果ては宇宙人だったり、そういう妄想の産物に過ぎない代物を大雑把にまとめてオカルトと呼んだりもする。
オカルト部とはとどのつまり、そういった超常現象を解明しようとする部活という認識で相違ないだろう。
(いよいよ胡散臭くなってきた……)
栞里はもうこの時点で回れ右して帰りたい気分だった。
しかし七夏が栞里の写真を見るに至った経緯が未だわかっていない以上、このまま知らんぷりして立ち去るわけにもいかない。
まったく気は乗らないけれども、ひとまずは話を聞く必要がある。
「ささ、遠慮なく入って。もちろん澪ちゃんもね」
「お、お邪魔します!」
「……お邪魔します」
(……部屋の中は、案外普通かな)
オカルト部などと言うくらいなので、黒いカーテンで窓からの光が遮られていたり、不気味な置物が各所に設置されているような陰気な室内をイメージしていたが……予想に反し、中はなんてことのない普通の一室だった。
窓のカーテンは確かに閉められていたが、別に黒くもない普通のカーテンだ。そんなに遮光性も高くないことから外の光が漏れてきている。
不気味な置物なんかも特になかった。それどころか加湿器やヒーター、電子ポットやお茶っ葉、果てはお菓子の小袋なんかもあったりして、休憩室のごとく過ごしやすい快適な環境が整っている。
「あら?」
そしてそんな部屋の中には一人の先客がいた。
まっすぐに背を伸ばしてイスの一つに腰を下ろし、丁寧に本のページをめくる理知的な姿は、一枚の絵画のようにも感じられた。
「ふふ。こんにちは」
「……こんにちは」
「こ、こんにちは!」
入ってきた三人に気づいて、微笑みとともに挨拶を投げてきた彼女に、栞里と澪も会釈を返す。
(この人も、この七夏っていうのと同じ二年生……)
リボンとスカートの色が七夏と同じ緑色なので、二年生だ。
(同じ……同じ? ……本当に同じ二年生? というか、高校生……?)
読書を嗜んでいた彼女のある一部分を見て激しい疑問を抱く。
具体的に言うと胸である。およそ成人していない学生とは思えないほど大きく膨らんでいて、視線が吸い寄せられずにはいられない。
なお余談だが、同学年のはずの七夏は哀れなほどのへなちょこぺったんこだ。
栞里が心の中でそんな失礼な比較をしている間に、七夏は栞里たちを歓迎するように、長机の前に置かれたイスを指し示した。
「さ、二人とも遠慮なく座って。沙代、悪いけどお茶出してもらってもいい?」
「わかったわ。ここまで案内ご苦労さま、七夏ちゃん」
「うん……うぅ、ここまで連れてくるの本当に苦労したんだー……」
「ふふ。大変だったのね」
「それはもうすっごく」
七夏と沙代と呼ばれた少女はそれなりに親しい間柄のようだ。愚痴を言う七夏を沙代は慣れた様子で慰めながら、席を立って電子ポットへと向かった。
一方で七夏は、沙代が座っていたイスの横に腰かける。栞里と澪は顔を見合わせてから、七夏たちと対面になる位置に腰を下ろした。
沙代が人数分の湯呑みを用意している姿を尻目に、七夏は自分の胸の前に手を置いた。
「それじゃあまずは改めて、もう一度自己紹介から……私はこの間子葉高校の二年生、架空七夏。一応、このオカルト部の部長ってことになってるね。で、こっちは初めての紹介になるけど、今お茶を淹れてくれてるのが副部長の」
「宮姫沙代よ。よろしくね」
お茶を淹れながら、振り返って笑顔で言う。
「凪沢澪です。よろしくお願いします」
「花乃栞里。一五歳」
「う、うん? まあそりゃ入学したてだし一五歳だろうけど……」
(あはは……ここでも年齢主張するんだ)
教室での栞里の自己紹介を覚えている澪は、謎の年齢主張に心の中で苦笑した。
「はい、どうぞ。粗茶ですが」
「わ、ありがとうございます! えっと、宮姫先輩……?」
「ふふっ。沙代でいいわよ?」
「沙代先輩……」
大人らしい体つきもさることながら、上品で落ちついた雰囲気、優美な立ちふるまい、優美な仕草、美しく綺麗な微笑み。沙代はこの中で一番女性らしい魅力があった。
沙代からお茶を受け取った澪は、憧れの人でも見つけたかのように目を輝かせる。
「はい。栞里ちゃんもどうぞ」
「……どうも」
一方で栞里は、未だこのオカルト部という部活に対して胡散臭さが抜け切れずにいた。
少し失礼だとは思いつつも、つい素っ気ない態度を取ってしまう。
「ごめんなさいね。栞里ちゃんや七夏ちゃんの様子からして、たぶん七夏ちゃん、だいぶ強引に栞里ちゃんたちを連れてきたでしょう?」
「別に……どんな経緯であれ、話を聞いてみることに決めたのは私の意思だから。謝られるようなことじゃない」
「ふふ。そう。なら私は七夏ちゃんのお友達として、謝罪じゃなくてお礼を言うべきなのかしらね。七夏ちゃんを信じてくれてありがとうね、栞里ちゃん」
(……別に、七夏を信じてついてきたわけじゃないけど……)
七夏は栞里の写真を事前に確認してきていたり、未だその出処を明かさなかったりと、怪しいところ満載だ。
あからさまになにかを隠そうとしている輩を、そう簡単に信用できるはずもない。
どちらかと言えば栞里が信じたのは、澪の判断だ。
七夏の話を聞いてみてもいいんじゃないかと澪が言ったから、栞里もそんな彼女を信じて了承した。それが今の状況である。
「じゃ、自己紹介も終わったし、そろそろ本題に入ろっか」
全員に湯呑みを配り終えた沙代が元の席に戻ったのを確認すると、七夏がコホンと咳払いをした。
澪が姿勢を正すのに習って、栞里も一応背筋を伸ばした。
「まず勘違いされないよう初めに言っておくけど、この部活、オカルト部っていうのは単なる建前ね。私……ううん。私たち魔法少女の活動をカモフラージュするための、いわば表向きの立場でしかない」
「また魔法少女……」
ただの部活の勧誘だったなら話が単純で助かったのだが、やはりそういうわけにもいかないようだ。
「あいかわらず信じてないね、栞里ちゃん……でもいいよ。ここまで来てくれたなら人目もないし、証明するのはそう難しいことじゃないから」
「証明?」
「ま、それは後でね。まずはとりあえず私の話を聞いてほしいな」
「……わかった」
魔法少女など実在しない。いつまでもそう頭ごなしに否定していたって進展はない。
相手に話したいことがあるというのなら、聞き手に徹し、理解に尽力すること。きっとそれが、スムーズに話を進めることに繋がる。
数十分前廊下で言い争いをした時と違い、栞里が理知的に話を聞いてくれる様子を見て取ると、七夏は嬉しそうに微笑んだ。
「ね。栞里ちゃんは魔法少女って聞くと、どんなイメージが湧く?」
「どんなって……」
栞里は幼かった頃に見た魔法少女のアニメをうろ覚えで思い出す。
「……ひらひらした華々しい衣装を纏って、魔法を使って悪者を倒したり、人を助けたりする……純粋で幼い、正義の味方?」
「うんうん。良いイメージだね。私たちもね、魔法少女って名乗ってる通り、その栞里ちゃんの想像に限りなく近い存在なんだ。魔法を使って、人知れず悪いモノを退治する……それが魔導協会から私たち魔法少女に与えられてる主な仕事なんだ」
「魔導協会?」
「うん。あ、魔導協会のことも教えておかないとね」
聞き慣れない単語について、七夏は丁寧に教えてくれる。
「魔導協会は、魔法の存在を知る者だけで構成された秘密組織だよ。主な構成員は魔法少女と精霊と、あと魔法を知ってるだけの一般人。基本的に表立って活動するのは私たちみたいな魔法少女で、他は裏方とかサポートって感じかな」
「魔法はまだわかるけど、精霊って?」
「あなたが今朝捕まえて警察に連れて行ったっていうレッサーパンダのこと、覚えてる?」
「もちろん覚えてるけど……」
「あれが精霊だよ。魔法少女になれるだけの資格を持つ者がああいう精霊と契約することで、人は魔法少女になれるの」
――君、魔法少女に興味ないかい?
例のレッサーパンダが放っていた一言が栞里の頭をよぎる。
「あの子みたいな精霊はね、その人が魔法少女になれる資格を持つかどうかを見極めることができる力を持っているの。廊下で会った時に私、言ったよね? あなたにも魔法少女になれる資格があるって」
「うん……」
「この前のこの学校の受験の日にね。魔導協会の仕事の一環で、新しく魔法少女の資格を持ってる人がいないかって試験を受けに来た子全員を、あのレッサーパンダ……んー、レンダちゃんって言うんだけど、レンダちゃんが観察してたんだ。その時に見つかった資格を持つ者……それがあなたなの」
七夏はそこまで言うと、一旦湯呑みを口に傾ける。
栞里もそれに習うようにして、自分の湯呑みを口につけた。
「ふぅー……魔法少女の資格って言われてもよくわかんないと思うけどね。それに関しては私も沙代もよくわかってないんだ。そういうのって精霊にだけ見えるものらしくて」
「……そう」
「あはは、いろいろ一気に話しすぎちゃってちょっとついていけてない感じかな。それじゃあちょっとこの辺で、栞里ちゃんが気になってたことを教えておこうかな」
「私が気になってたこと?」
「私があなたの写真をどうやって確認したのか」
「……なるほど」
元はと言えばそれを確かめるために栞里は七夏の話を聞くことに決めたのだ。
「あれはね……魔導協会って結構裏の世界の影響力、みたいなものがあってね。その中でも特に学校って施設とは関わりが深いんだ。だから、入学希望者の写真を入手するくらいなら簡単にできるんだよ。あんまり面白味のない理由で申しわけないけど……」
「裏の影響力……ヤクザ的な?」
「ヤ、ヤクザ? ぶ、物騒なたとえだね……あながち間違ってないかもだけど……」
「間違ってないんだ……」
「あ、あながちね! あながち! こほん! は、話を戻すけど、栞里ちゃんはさっき言ったように新しい魔法少女候補だったからね。間子葉高校所属の魔法少女のリーダーとして、新しい魔法少女候補ってことで協会の方から写真を見せてもらってたの」
「……なるほど」
「まあ当初はレンダちゃんが勧誘する予定だったから私の方から向かう予定はなかったんだけど。誰かさんが交番になんて送り届けちゃったものだから急遽私がね」
「む。まるで私が悪いみたいに言わないでほしい。あれはあのレッサーパンダが怪しすぎたのが悪い。いきなり魔法少女がどうかか言われたら誰だって誘拐を疑う」
「誰だっては言いすぎだと思うよ!?」
適当に七夏をあしらいつつ、栞里は思索にふける。
とりあえず当初の目的であった写真の出処については聞き出すことができた。
魔法少女、魔導協会、精霊。
七夏の言うことが全部信じているかと言われれば口を閉ざさざるを得ないが、仮にすべて本当だったとするなら、写真の件で栞里がいくら騒いでも無駄であろう。
強大な権力を持つ組織を相手に下手に反抗したところで、栞里が損をかぶるだけの結果に終わることは想像に難くない。
無論、何度も言うようにまだ完全に信じているわけではないが。
「あ、そうそう。栞里ちゃんが警察に届けたあの子、レンダちゃんだけど、たぶん今頃学校に戻ってきてるところじゃないかな」
「え。実験施設とかに送られてるわけじゃなくて?」
「じ、実験施設って……えぇと、うん。魔導協会が手を回したからね。幸い大事には至ってないよ。さっきスマホに連絡も来てたし。もうすぐここにも来ると思う」
「また裏の影響力ってやつ? ……もしかして魔導協会って、悪の組織?」
「んー、見方によってはそうかもね。でも、あくまでそれは魔法の存在を知られないように……言い換えるなら、人を守るためにしていること。それだけは知っておいてほしいかな」
「魔法の存在を秘匿することが、人を守ることに繋がるの?」
「繋がるよ。魔法が知れ渡れば、当然世界は大騒ぎになる。そして、急激な変化は必ず多くの人を不幸にする。戦争を引き起こす火種にだってなりかねない」
栞里の目を真正面から見据え、至極真剣な顔で七夏は言い切った。
その覇気に、栞里はなにも言えなくなる。
「あとは……そうだね。魔導協会の活動方針について少し話しておこうかな」
七夏は少し気まずくなってしまった空気を解すように表情を緩める。
それから指を一本、二本と続けて立てた。
「魔導協会の主な目的は二つあるの。一つは今言ったように、魔法を知られないようにすること。そしてもう一つは、魔法の力で悪意の怪物を倒し、人の心の秩序を守ること」
「……? 魔法を知られたくないのに、魔法を使うの?」
「それ突かれると痛いんだけどねー……最初に言ったよね? 魔法少女は悪いモノを退治する存在だって。その悪いモノっていうのは、世界中に蔓延る悪意の塊……協会はヘイトリッドって呼んでるんだけど、それは魔法みたいに魔力を介した現象じゃないと干渉できないんだ」
だからしかたなくね、と七夏は肩をすくめた。
「……私は今まで生きてきて、そのヘイトリッドっていうの、一度も見たことがない」
「それは当然だよ。あれは魔力を通さないと見えないから。魔法少女なら目に魔力を集めれば見えるようにできるけど……栞里ちゃんは魔法少女になれる資格はあっても、まだ魔法少女じゃないからね」
「なら、次の質問。そのヘイトリッドっていうのは、そもそも退治する必要があるものなの?」
悪意の塊と表現するくらいなのだから、なにか悪いものだということはわかる。
だけど、それが具体的にどういう被害を及ぼすのかが明確になっていない。
「小さいうちは特に害はないかな。魔力を介さないと干渉すらできないように、ヘイトリッドは物理的な性質をほとんど持たないからね。でも、ヘイトリッドはお互いに集い、一つに合わさる性質があるんだ。そうして大きな力を持ったヘイトリッドは、人に寄生するようになる」
「寄生? 寄生……して、どうなるの?」
「悪いことした人が、よく魔が差したとか言うでしょ? ああいう状態にするんだよ。人の悪意を増大させて、誰かを傷つけたり、お金を盗んだり……命を奪ったりね」
「命……」
「もちろん、そういう行為のすべてがヘイトリッドのせいってわけじゃないよ。でも、ヘイトリッドがそういう悪意ある行動を助長しているのは紛れもない事実なの。だから少しでもその被害を減らすために、私たち魔法少女がヘイトリッドを退治する必要があるんだ」
「……」
(……魔導協会……魔法少女……ヘイトリッド)
……こんな話、根拠もなしに、とても信じられるようなことではない。
だけど魔法少女について語る七夏の顔は真面目そのもので、その目から一切の嘘や冗談が窺えないこともまた確かだった。
栞里には、魔法少女になることができる資格とやらがあるという。
そしてそれに目をつけた魔導協会という組織が、栞里を勧誘したがっている。
要約すると、これはそういう話だ。
(なんとなく話はわかった、けど……やっぱりこんなの、聞くだけじゃ到底信じられない。これ以上のことは、なにか決定的な証拠がないと……たとえば、そう――)
「そろそろ実際に魔法を見せてほしい、とか言い出しそうだね」
栞里が口を開くよりも早く、七夏が得意げに栞里の心の先を口にした。
栞里が素直に首肯すると、七夏は沙代に軽くアイコンタクトを送る。
それだけで沙代はなにかを察したようで、席を立ち、部屋の隅にある棚へと足を向けた。
そしてその棚の中で一際異彩を放っていた天秤ばかりを取ってくると、それを七夏の前に置く。
「……なにをするつもり?」
「ふふん。まあ見てて見てて。私のとっておきの魔法を見せてあげるから」
七夏は懐から、二つの小さな球体を取り出す。
見たところ片方がビー玉で、もう片方はそれと同じ程度の大きさの鉄球のようだった。
七夏が天秤のそれぞれにビー玉と鉄球を乗せれば、秤は当然、質量が大きい鉄球の方へと傾く。
「さて……ここからが私の魔法の見せどころだよ」
七夏が自信満々に天秤ばかりへと両手をかざし、ムッ! と眼力を込める。
その次の瞬間――それは起きた。
天秤ばかりとは、片方に質量を調べたい物体を置き、もう片方に質量が判明している錘を置くことで、物体の質量を測定する道具である。
ビー玉と鉄球を置いている今、鉄球の方に秤が傾いているのは、鉄球の方が質量が大きいからだ。
ビー玉や鉄球という物体を構成する要素を丸ごと取り替えでもしない限り、この結果は覆りようがない。
本来であれば、そのはずだ。
しかし七家が天秤ばかりに手をかざし間もなくして、秤が不自然に動き出す。
質量が大きいはずの鉄球の秤が持ち上がり、逆にビー玉の秤が下がっていく。
そしてその変化は、二つの秤がちょうど平行になる位置で停止した。
「……よし! ふふん、どう? これが私の魔法! すごいでしょ!」
七夏が得意げに胸を張る。
一方で、それを見せつけられた栞里はと言えば、ただただ困惑のままに七夏と天秤ばかりを交互に見た。
「……えっと……なにこれ?」
「ふっふっふ……見ただけじゃわからなかったかな? 私の魔法で、ビー玉と鉄球の質量を同じにしたの! それで秤が平行になったってわけ!」
「…………手品?」
「違うよ!? 魔法だよっ!」
「いや……でもこれ、どう見ても手…………あ、うん。魔法……だね?」
「そんな微妙な反応しないでよ!? ちゃんと魔法だから! 種も仕掛けもないの! ほ、ほら! 好きなだけ確かめてみていいから!」
七夏に促されるがまま天秤ばかりに近づいて、その周囲を観察したり、秤を触ってリしてみる。
見た感じ、糸や紐と言った変なものがついているわけでもない。
片方の秤を上から手で押してみれば、きちんと下まで下がって、手を離せばまた平行に戻る。
秤の上に置いてあったビー玉と鉄球も持ってみた。
(……本当に同じ重さだ……)
見た目はビー玉と鉄球で全然違うのに、右手と左手に持ったそれぞれの重量は確かに同じであるように感じられた。
(けど……)
なんというか、あっ! というような驚きがない。
魔法ではなくて、やはり手品を見せられたような感覚が抜けない。
それもそうだ。だって、秤に乗せられていたビー玉と鉄球の重さがほぼ同じだということがわかっただけである。
もし秤が激しく上下に動き始めたり、七夏の意思で自由に動き始めたりとかしたら、多少は魔法の可能性を疑ったかもしれない。
しかし実際は、二つの秤が同じ高さになっただけ。
この程度なら事前にビー玉や鉄球に細工をしておけばどうとでもなるのでは? なんて思ってしまうのは極々自然なことだ。
それほどまでに、変化があまりに地味すぎた。
「うぐぐ……そ、そうだ! 今ここで魔法を解除してみればいいんだ!」
栞里の反応があまりに微妙だったためか、焦った七夏が名案とばかりに手を叩く。
「いくよ? えい!」
「あ……」
「わ、わかった? 今、栞里ちゃんの手の中にあるビー玉と鉄球の質量が元に戻ったの! わかったよね!?」
「……なんとなく?」
確かに七夏が掛け声を上げた途端、ビー玉が軽く、鉄球の方が少し重くなったように感じられた。
しかしこうなってくると、今度はさっき重さが同じに感じていたこと自体が気のせいだったのではないかと感じられてくる。
元々、ビー玉も鉄球もどちらも指で摘めるくらいの大きさしかない。多少の重さの違いは感覚の誤差で片付けることができてしまう。
「な、なんとなくって……うぐぐ……事前にちゃんと解説しておかないのがダメだったのかな……よ、よし。それなら……」
いい? と、七夏は未だ芳しくないリアクションを取る栞里へと机越しに詰め寄った。
「これは《調和》って言ってね、私だけが使える特別な魔法なの」
「七夏だけの?」
「そう! この魔法はね、私の魔力が干渉した二つのものの力の大きさを同じにできるの! イメージ的には、足して二で割る感じね」
「……同じにしかできないの?」
「し、しかって……お、同じにするって結構すごいんだよ? 今回は質量にしたけど、他にもいろいろいじれるから応用の幅だって広いし!」
「そうなの?」
「そうなの! たとえば……えっと……あ! 片手で空振りのストレートを打ちながらもう片方の手でデコピンすれば、超強いデコピンとかできるよ!」
シュッシュッ! と唐突にシャドーボクシングを始める七夏。
それは普通にストレートで殴った方が早くなかろうか。
「あと、重い物を持つ時とか結構便利だったりするかな。近くの別の軽い物と重さを共有させて、重い方を相対的に軽くできるの!」
「なるほど。それはなかなか実用的」
「でしょ!? 他にもね、これを応用すると、甘い物食べすぎて太っちゃったかなって時とか体重を詐称したりできるんだよ!」
「……詐称?」
「うん! 重さを共有させるものは結構選ばないといけないけどね!」
「……」
「……え。な、なんでそんな目で見るの……?」
わざわざそれをたとえに出すということは、七夏はそれを実際にやったことがあるんだろうか……。
栞里に可哀想なものを見る目を向けられていることに気づいた七夏は、いたたまれなくなったように大きく咳払いをした。
「と、とにかく……! そんな感じでいろいろと便利なの! 役に立つの! 手品なんかじゃない、立派な魔法なんだよ!」
「そう……なんだ?」
「う、ううぅ……そうなんだよぉ! 疑問形やめてぇ! 傷つくんだよ私でもぉ!」
目元に涙を滲ませた七夏はそう叫ぶと、力尽きたようにガックリと机に突っ伏した。
さすがに泣かせるつもりはなかった栞里はどうしたらいいかわからず、思わずたじたじになってしまう。
そんな栞里に助け舟を出してくれたのは沙代だった。
彼女は栞里に優しく微笑んだ後、静かに席を立つと、七夏の湯呑みに新しいお茶を注いで、慰めるように彼女に差し出した。
七夏はその気遣いと湯呑みを遠慮なく受け取って、ゴクゴクと一気に飲み干す。
「ぷはぁ……うぅ。私の特異魔法って実は結構地味なんじゃっていうのは薄々思ってたけど……ここまで露骨な反応されると、さすがに凹むなぁ……」
未だ元気がなさそうに眉尻が下がっているものの、お茶のおかげで少しは調子を取り戻したようだ。
栞里は素直に頭を下げた。
「その……ごめんなさい」
「え? あはは、大丈夫だよ。こんな地味な魔法じゃ、そういう反応されてもしかたないし……別に気にしてない。そう、気にしてないから……」
「そ、そう……」
明らかに気にしていたが、本人が気にしてないと言うならそういうことにしようと思い、栞里はそれ以上口を挟むことをやめた。
「はぁ……でも、これじゃまだ魔法のこと信じてもらえないかぁ……沙代の魔法ならどうかな?」
「私? うーん、使うのは構わないけれど……私の魔法って、どう使えば魔法らしく見せられるかしら」
「あー、沙代の特異魔法って《模倣》だもんね。模倣元ありきだし、こういうのには向いてないか……」
どうすれば栞里に魔法の実在を信じてもらえるのかと、七夏と沙代は揃って頭を捻る。
「いっそのこと変身を見せてあげるっていうのはどうかしら。変身自体もそうだけど、変身状態なら補助具を使って他の魔法も見せてあげられるじゃない?」
(変身……)
眩い光とともに一転、華やかな衣装を身に纏い、魔法を駆使して舞うように戦う。
魔法少女に対する世間一般的なイメージと言えば、やはりそれだ。
七夏は今、高校の制服のまま魔法を使ってみせたが、どうやら変身という概念も存在しているらしい。
しかし変身はどうかという沙代の提案に、七夏はあからさまに嫌そうに顔を歪ませる。
「……変身って、私がするの?」
「そうね。七夏ちゃんは部長だもの。七夏ちゃんがするのが一番いいんじゃないかしら」
「……でも私、変身あんまり好きじゃないし……」
「そう? 私は七夏ちゃんの魔法少女衣装、結構好きよ?」
「私は嫌いなの! あんなもの私の中学時代の負の遺産だよ!」
ガタッ! と椅子を退けて、七夏が激しく拒絶の意を示す。
沙代は困ったように苦笑した。
「七夏ちゃんの気持ちはよく知ってるわ。でもね、もし今後栞里ちゃんと一緒に活動していくなら、結局見せることは避けられないと思うわよ? 遅いか早いかの違いじゃないかしら」
「それはそうかもだけど……うぅ。私じゃなくて、沙代の変身じゃダメなの?」
お願い! と、ねだるような上目遣いに、沙代はしかたがなさそうに肩をすくめる。
「そうねぇ。まあ、七夏ちゃんが嫌なら、無理強いはできないわね」
「じ、じゃあ!」
「ええ。七夏ちゃんの言う通りにしましょうか。ひとまずは、栞里ちゃんに魔法の存在を確信してもらうことが先決。そのためにも、ここで私の変身を見せて――」
「――ううん。その必要はないよ」
沙代が腰を上げかけた瞬間、この場にいる誰でもない別の声が部屋の中に響いた。
(この声……どこかで聞いたような……)
声がした方向、このオカルト部の部室の入口に目を向ける。
いつの間にか戸が人一人が通れる程度に開いていて、そこから一人の少女が顔を出していた。
とても幼い風貌の少女だ。この高校の制服を身に纏ってはいるが、その背丈は澪や七夏よりもずっと低い。せいぜいが小学校高学年程度しかないだろう。
銀と緑の二つの色が入り混じった、膝まで届きかねないほど無造作に伸ばされた髪は、ところどころが寝癖のように跳ねている。
なによりも異様なのは、前髪の隙間から覗くその瞳だ。
瞬きを一つするたびに、見る角度をわずかに変えるたびに、その都度、瞳の色彩が変化する。赤や青、黄色や緑、他にも無数の色が彼女の瞳の中に混在する。
「あら、レンダちゃん。こんにちは」
沙代が微笑んで挨拶をすると、少女は「うん。こんにちは」と同じく笑顔で返した。
(レンダ……七夏が言ってた、あのレッサーパンダと同じ名前? けど……)
今レンダと呼ばれた彼女は、どう見てもレッサーパンダではない。人間だ。
(いや……人間? ……本当に?)
確かに、人の形はしている。
けれど、なにか栞里の心が言い表しがたい違和感を訴えていた。
あまりに幻想的かつ、現実味のない――まったく別の生き物を前にしているかのような。
たとえば、そう。この少女の瞳の中に発生している、見る角度によって無数の色が混在して見える現象。
これは多色性と言い、本来、鉱石や宝石などに見られる性質だ。
まず間違いなく人間の瞳に見られるような特徴ではない。
「っ……」
レンダと呼ばれた少女は、訝しげな栞里と視線を合わせると、かすかにだが緊張したように肩を震わせた。
それから小さく深呼吸をすると、意を決したように足を踏み出し、とことこと栞里の方へとまっすぐに向かってくる。
「……」
「……」
栞里が座る椅子の目の前で、レンダと呼ばれていた少女はピタリと立ち止まる。
ただ見つめ合うだけで、どちらも口を開かない時間が続いた。
(……なにか、言った方がいいの?)
無言の時間が続き、そんな風に栞里が考え始めた頃に、レンダはホッと安心したように肩の力を抜いた。
「よかった……朝と違って、この姿なら問答無用で退治しようとしてきたりはしないんだね」
「朝と違って……?」
「あれ? もう七夏と沙代から聞いたんじゃないの?」
「……本当に、あのレッサーパンダなの?」
「やっぱり聞いてたんだ。君のことだから、聞いただけじゃ信じないと思うけど……これなら信じるでしょ?」
そう言ってレンダが指パッチンをすると、ポンッ! とレンダの姿が白い煙で包まれた。
突然の事態に目を見開くが、驚愕はそれだけでは終わらなかった。
煙が晴れると、そこにはもうレンダの姿はなかった。
いや、正しくは、そこにいたはずの少女の姿がなくなっていて、別のものがそこに現れたのだ。
そしてその別のものとは、レッサーパンダである。
大きさも毛色もなにもかも、今朝見たものとまったく同じ個体。それがいつの間にか栞里のすぐそばの床に立っていた。
これを手品と呼ぶには、あまりにも面妖すぎる現象。
魔法――その二文字が、栞里の頭をよぎる。
「もういっちょ!」
少女の時とまったく同じ声音でレッサーパンダが叫ぶと、再びポンッ! と煙が発生する。
そして次の瞬間には、さきほどいなくなったはずの不思議な外見の少女が目の前に立っていた。
「……これが、魔法?」
栞里が呆然と呟くと、レンダは口の端を吊り上げながら頷いた。
「そう、これも魔法。天秤ばかりがあるってことは、七夏の魔法も見せてもらったんだよね?」
「あの手品のこと?」
「え、手品……? ま、まあうん……一応、あれもれっきとした魔法だからね……?」
視界の端で七夏ががっくりと項垂れていたような気がしたが、今の栞里にそんなことを気にするほどの心の余裕はなかった。
(これが、魔法……? ……本当に……実在した……)
七夏の魔法を見せてもらった時は、まだ半信半疑だった。
いや、半分も信じていたか怪しいものだ。なにせあんまりにもしょぼかった。
だから冷静に反応も、会話もできた。
しかし一瞬にして動物と人間の姿を入れ替えるこの現象は、手品なんかでは説明がつかない。
栞里は半ば無意識に自分の頬を摘んで、ぐにーっ! と抓っていた。
だけど、その痛みの感触は紛れもない本物だ。夢なんかではない。
……どうやら、認めざるを得ないらしい。
「……わかった」
「わかったって?」
「魔法のこと。そして、魔法少女のこと。あなたたちのことを、信じる」
言葉を大切にすることが栞里の信条だ。一度口にした以上は、もう疑うことはない。
栞里の真摯な表情から、レンダたちもそれを察したのだろう。七夏と沙代、そしてレンダはそれぞれ顔を見合わせると、嬉しそうにその頬を緩めた。
魔法の存在を信じたということは、七夏が言っていた他のことも信じることと同義だ。
魔法少女、魔導協会、ヘイトリッド。
そういったものが確かに存在している。そして、栞里はその魔法少女にならないかと勧誘されている。それが今の状況だ。
栞里の近くに立っていたレンダは、上座の方に移動し、彼女の身長と比べると少し大きめなイスによじ登る。
そうして腰を落ちつけると、レンダは七夏の方を見た。
「七夏、栞里にはどこまで話してくれた? 変身を見せようとしてたってことは、それなりに話してくれてたとは思うけど……」
「えーっと、資格を持ってる子が精霊と契約することで魔法少女になれるってことと、魔法少女がヘイトリッドを退治する存在だってこと。あと、魔導協会の活動方針とかかな」
「ありゃ、もうだいぶ話してくれてたんだね。なら、続きの話は僕の方からさせてもらおうかな。七夏は元々、僕の代理で話してくれてたわけだしね」
レンダはそう言うと、栞里の方に向き直る。
「まず――」
「待って。次の話に移る前に、まだ一つ聞いておかなきゃいけないことがある」
「お? なにかな」
栞里が引き止めると、レンダは素直に耳を傾けてくれる。
栞里は七夏から、確かにおおよその経緯と事情は聞いた。
それどころか、魔法を行使するところまで実際に見せてもらって、魔法の実在を信じるまでに至った。
そこまではいい。理解できる。
栞里に魔法少女になれる資格とやらがあって、彼女たちは勧誘しにきた。自分たちの話を信じてもらうために、魔法の実在を確信してもらう必要があった。
だけどそうなってくると、どうしても一つだけ不可解なことがある。
「話を聞く限りだと、あなたたちにとって魔法は隠すべきもののはず。でも、それならどうして澪に同席を許したの? どうしてあなたたちはさっきから、私にだけ話をしているの?」
そう。栞里が不思議に思ったのは、澪の存在だった。
澪はここに来る前も、ここに来てからも、ほとんどずっと黙って事の成り行きを見守っている。
そしてそれに対し、七夏も沙代もレンダも、なに一つとして口出しをしていない。
それどころかまるで意に介さないように魔法の話をして、秘匿すべき魔法を見せることさえした。
いったいなぜなのか。彼女たちにとって、澪はいったいどういう立ち位置なのか。
……いや、本当はなんとなく栞里も予想がついていた。
だけど、きちんと確認を取っておかなければ次へは進めない。
「それは、わたしも魔法少女だからだよ」
答えたのはレンダでも七夏でも沙代でもなく、澪自身だった。
(やっぱり、そうなんだ)
栞里が確信めいた視線を澪へ送ると、澪は申しわけなさそうに目を伏せた。
「その、ね。わたし、七夏先輩や沙代先輩に会うのは今日が初めてだったけど、レンダちゃんとは以前にも何度か会ってるの。それで、その時に魔法少女にしてもらっててね……七夏先輩が説明してくれてたことだって、本当は全部知ってたんだ」
「……そうだったんだ」
「ごめんね、栞里ちゃん。ずっと黙ってて……栞里ちゃんはわたしを信じて、七夏先輩についていくことにも了承してくれたのに。こんな騙すみたいなことして……ごめんなさい」
自責の念からか、澪は段々と顔を俯かせていく。
一方で栞里は、澪の思わぬ落ち込み具合に栞里は目を瞬かせた。
栞里としては、今の質問はただ単に確認したかった以外の意図などなにもなかった。
騙されていただなんて、別に欠片も感じていなかったのである。
だから栞里は、澪を安心させるためにも、初めて会った時と同じように彼女の頭に手を置いた。
「栞里、ちゃん?」
「大丈夫、澪。私はなにも気にしてないから。むしろ、黙ってくれてて助かったかも。もし最初から澪が七夏と同じこと言ってたら、たぶん私、澪のことも七夏と同じ非常識な人扱いしてた」
「そ、それは確かに嫌かも……」
「あのー、私は別に非常識じゃないんですけどー。むしろ常識を考えてこっそり話をしようとしてたんですけどー」
七夏が不満げに茶々を入れてくるが、栞里は特に意に介さず澪の頭を撫で続ける。
「私は澪と仲良くなれてよかったと思ってる。だから大丈夫。澪と友達になれたこと、私は少しも後悔なんかしてないよ」
「……えへへ」
頬を染め、照れくさそうに笑みをこぼす。
いじらしい澪の様子に、栞里の胸がポカポカと温かくなった。
「……えー、こほん! ……そろそろ話を進めてもいいかな?」
「あ、うん」
「は、はい。ど……どうぞ!」
わざとらしいレンダの咳払いを受けて、栞里と澪は慌てて姿勢を正した。
もう特に確認したいこともない。素直にレンダの話に耳を傾ける。
「魔法少女がどういう存在か、七夏の方から大体は話してくれたよね。だからここからは、魔法少女そのもののの実態……魔法少女になることで、具体的になにが変わるかを知ってほしいと思う」
「魔法少女の実態……」
「これからの話を全部聞いて、その上で決めてほしいんだ。魔法少女になってくれるか、どうか」
「……」
「あ、もちろん断ってくれても大丈夫だからね。魔法少女の主な役割はヘイトリッドの退治……つまり、戦いだ。相手にしてもらうのはほとんどが小型のヘイトリッドだけど、それでも危険はあるから」
「……」
「……えっと、どうかしたのかい? なんかすごく意外そうな顔してるけど……」
「てっきり……」
「てっきり?」
「てっきり私は、無理矢理魔法少女になれって言ってくるかと思ってた。魔導協会って、そういう組織かと」
「……栞里……君は本当に疑り深いというか、警戒心が強いというか……」
やれやれと首を振るレンダの感想は嫌に実感が伴っていた。
実感もなにも、初対面で疑われまくって問答無用で鞄を叩きつけられたのだから、当然と言えば当然なのだが。
「七夏からも聞いたよね? 魔導協会の目的はあくまでも人の心の秩序を、ひいては世界の安寧を守ることだ。綺麗事だけじゃ世界は回らないし、そりゃあ魔法を秘匿するためなら悪どいこともちょっとはやったりするけどさ……少なくとも、嫌がる女の子を無理矢理戦わせるような外道じゃないよ。もしそんな組織なら、僕はとっくに離反してる」
「私もしてるねー」
「私もしてるかしら」
「わ、わたしも!」
「魔法少女がいなくなっちゃったよ……」
七夏、沙代、澪の順番で声が上がり、最後にレンダが呆れたように嘆息した。
「まあでも……そういうこと。七夏たちは皆、自分の意思で魔法少女になってくれたんだ。そしてその逆で、資格があっても魔法少女になりたくないって言った子たちにはちゃんと普通の生活を送ってもらってる。だから無理強いなんか絶対にしないよ。約束する」
「……なるほど」
七夏の話によれば、レンダは精霊と呼ばれる、人間とは根本的に異なるであろう人外の存在だ。
しかしこうして面と向かって話してみた限りでは、感性も良識も、なんだか普通の人間とあまり変わらないように思えた。
別に精霊の心のあり方を疑っていたわけではないけれど、誠実に話をしてくれる彼女をそばで見て、信用できると感じていた。
「さて、ここで一つ質問だよ。栞里。魔法少女は、どうして魔法少女なんだと思う?」
「……? 魔法を使う少女だから、魔法少女じゃないの?」
「そうだね。魔法を使う少女だから、魔法少女。その認識は間違ってない」
なにを言いたいのかわからず、栞里は首を傾げる。
「これがどういうことかって言うとね。魔法少女っていう存在は、少女……つまり、まだ成人していない女の子しかなれないんだ」
「成人してない女の子しか? どうして?」
「んー……これは僕たち精霊にしかわからない感覚だし、なんて言えばいいのかな……ほら、基本的に女の人より男の人の方が力が強いでしょ? それも、成長するに連れて顕著になる。どうしてかな?」
「……根本的に、男女で体の構造が違うから?」
「そうだね。これもそれと同じことなんだ。女の子しか魔法を使えるようにならないのは、心の構造的に当然のことなんだよ」
「……心の構造……」
そういえば七夏は、魔法少女の資格を見抜けるのは精霊だけだと言っていた。
精霊であるレンダには、なにか人とは違うものが見えているのだろう。
「思春期の女の子の心の形はさ、本当に不安定なんだよね。些細なことで影響を受けて、簡単に形が変化する。でもそれは逆に言えば、どんな形にもなれるってことでもあるんだ」
「どんな形でも……魔法を使えるようになる心の形や状態があるってこと?」
「栞里は勘がいいね。ご明察。君のように心が固まり切ってない未成年で、なおかつ特別な資格を持つ女の子の心に僕たちが触れることで、その子は魔法が使えるようになる……魔法少女になるってわけだ」
「……」
にわかには信じがたい話だが、精霊と魔法少女という存在は確かに今ここに実在しているものだ。
「ちなみに未成年の子しかなれないとは言ったけど、一度魔法を使えるようになったなら、その後は大人になっても魔法を使えるよ。だから協会には大人の魔法少女もいる。その逆の、大人になってから魔法少女になるのは無理だけどね」
「大人なのに、まだ少女って呼ぶんだ」
「魔法を使える状態に心が変化できるのは、少女と呼ばれる時期の間だけ。だから魔法少女。そういう考え方から名付けられたものだからね。あとはまあ、まとめて呼べた方がいろいろ楽でしょ?」
まあでも、とレンダは腕を組む。
「実際は、大人になると魔法少女呼びが恥ずかしいって嫌がる人もいっぱいいてね……広義では魔法少女の分類だけど、大人の魔法少女は区別する意味でも魔女って呼ぶことが多いかな」
「なるほど」
確かに、妙齢の女性が魔法少女を名乗る光景なんかを想像してみたら、痛々しいなんてレベルでは済まされない。
魔女ならまだ大人っぽい雰囲気があるし、全然マシだ。
「で、これが一番重要なことなんだけど……」
少し声色を重いものに変えて、レンダはじっと栞里を見つめた。
「実を言うとね……魔法少女になったら、元に戻れないんだ。だから一度魔法少女になったら、その後はずっと魔導協会の管理下で生きていくことになる」
「……」
一度魔法少女になってしまったら、もう戻れない。
それは確かに重要な事実だ。
魔法の存在を秘匿することも魔導協会の目的の一つなのだから、魔法少女を手放すわけにもいかなくなってしまうのも道理である。
「あ、でも今、ちょっと誤解されかねない言い方しちゃったかも……」
「誤解、って?」
「えっとね、管理下って言っても、ずっと魔導協会に監視されるとか、魔導協会の下で働かなきゃいけないとか、そういうわけじゃないんだ」
「そうなの?」
「うん。嫌になったら、いつでも魔法少女を引退して協会を離れたっていい。協会はそれを許してる」
「じゃあ、協会の管理下で生きていくっていうのは……?」
「あくまで住所とか電話番号とか、そういうのを常に協会が把握してるよってだけの話。定期的に調査が入るかもだけど……それ以上のことはなにもしないから安心して」
「……魔法をむやみに使ったり見せたりしなきゃ、自由に生きていいってこと?」
「そういうこと。医者にでも学校の先生にでも、なりたいものがあるなら自由になってくれて大丈夫。魔法を秘密にさえしていれば、協会はなにも口出しはしないから」
なるほど、と栞里は顎に手を添えた。
魔法少女になるかどうかは強制ではなく、本人の意思に委ねられる。
一度魔法少女になったら戻れないが、魔法少女になる道を選んだとしても、人生の選択権は残る。協会の方針に従って魔法を隠してさえいれば、普通に生きることもできる。
それを留意した上で、決めてほしいということだ。
「それじゃ、そろそろ聞いてみようかな。花乃栞里――君、魔法少女に興味ないかい?」
魔法少女に、なるかどうか。
「さっきも言ったように、無理強いはしない。戦うことが怖くなって引退する魔法少女だって結構いるんだ。そして引退したところで、一般人には戻れない……戦うことがなくなっても、ヘイトリッドを見ることができる力は決して消えない」
「……」
「それでも君は、魔導協会に入って、僕たちと一緒に戦ってくれるかい?」
その答えは、そう簡単に出せるものではなかった。
レンダもすぐに返答が来る用件ではないことは承知しているようだ。
栞里が答えを出すまで待っていると告げると、栞里に断りを入れて、七夏や沙代と軽い談笑を始める。
魔導協会の一員の中で、唯一澪だけはそちらには参加せず、ただ、不安そうに栞里を見つめていた。
(……どうするかな……)
魔法少女とは、七夏いわく、世界中に蔓延る悪意の塊、ヘイトリッドを退治する存在だ。
もし魔法少女になることを選んだ場合、栞里も当然、そのヘイトリッドと対峙することになる。
実際に見たことがない栞里には、ヘイトリッドがどういうものなのか、まだよくわからない。想像すらできない。
だけど戦いだ。ヘイトリッドの人に寄生するという性質から鑑みても、必ず危険が存在する。
(それに……)
魔法の存在が秘匿されるべきである以上、魔法を使う魔法少女もその対象だ。
それはつまり、どれだけの恐怖に耐え忍んで戦い続けたとしても、助けたはずの誰からも感謝されないということでもある。
人知れず人を守る。言うほど簡単なことではない。
どんなに世のため人のために尽くしたところで、その功績が公に讃えられることはない。誰に認められることもない。
(でも、七夏や沙代……そして澪は、その道を自分で選んだ)
栞里はずっと自分に視線を向けている、澪の方へと顔を向けてみる。
視線が合いそうになると、澪は取り繕うように慌てて顔を伏せた。
ただそうした後も、時折気づかれないように、ちらちらと栞里の顔を覗いてきている。
……気づかれないようにというか、全部バレバレだけど……。
(……澪は)
澪はたぶん、栞里に自分と同じ魔法少女になってほしいと思っている。
だけどそれはあくまで栞里が決めることだと。そうも感じているのだろう。
自分に気を遣って魔法少女になろうとするだなんて、そんなことだけは絶対にないように。
そう思っているからこそ、彼女は今、決して栞里と目を合わせようとしないのだ。
……まあ、そんな気持ちも全部栞里には筒抜けなのだが。
「……いくつか聞きたいことがある」
澪から視線を外し、栞里がレンダに言葉を投げかけると、彼女は七夏たちとの会話を打ち切って姿勢を正す。
「なにかな?」
「あなたは初めて私と顔を合わせた時、『今なら期間限定でスペシャルにプレミアムな魔法少女に』って言ってた。あれはどういうこと?」
「へ? あ……え、質問そこ? うん、っと……その、そ、それはねぇ……」
なぜか突然あたふたとし始める。
なにかやましいことでもあるのかと栞里が訝しげに睨むと、見かねた七夏が呆れ混じりに答えてくれた。
「そんなのないよ。全部嘘。口からでまかせ。大方、栞里ちゃんの気を引こうと思ってテキトーなこと言ってたんじゃないかな」
「い、いや、そんなことは……ない、こともないんじゃないかなぁ?」
「つまり、そんなことあるんだね」
じとーっとした七夏の視線にレンダは言葉を詰まらせた後、いじけたように口を尖らせた。
「むー……だって七夏、聞いたよ僕。人間って期間限定とかプレミアムとか、そういう単語に弱いんだって。ああ言えば前向きに検討してくれると思ったんだよ」
「実際は話も聞いてもらえず鞄叩きつけられたんだっけ? ふふ、それで私が勧誘に行く羽目になったんだもんね。聞いた時さすがにちょっと笑っちゃった」
「笑いごとじゃないよ……あれ、僕の一生モノのトラウマだよ……」
ぶるぶると体を震わせるレンダ。
最初この部屋に入ってきた時に栞里を見て一瞬ビクッと肩を震わせていたことといい、冗談抜きで恐ろしい出来事だったらしい。
ちょっと申しわけなく感じる栞里だったが、栞里の中ではあれがあの場での最適解だったため、特に謝罪とかはしなかった。怪しい方が悪いのである。
「なら、二つ目の質問。もしこの話を断ったら、魔法の存在を知ってしまった私はどうなるの?」
「別にどうもしないよ。今日ここで見たこと、話したことを黙ってさえいてくれればね」
誰かに話したらどうなるかは聞かないでおく。別に口外するつもりもないのだし。
「三つ目。この学校に七夏と沙代、澪以外に魔法少女はいる?」
「魔女が一人。あとは魔法少女ではないけど、事情を知る大人が何人かかな。未成年の女の子しか魔法少女になれない以上、そういう子たちが通う学校という場所は魔導協会にとっても重要だからね。実を言うと結構裏で繋がってるんだ」
「四つ目。魔法少女になれば、本当にヘイトリッドと戦えるようになるの? 七夏の魔法はそんなに強そうに見えなかった」
「なんか今日私の魔法、酷評されまくってるんだけど……」
七夏はもはや落ち込むのも疲れた虚無の表情をしている。
沙代はなにも言わずそんな七夏の背中をポンポンと叩いていた。
「七夏の魔法は地味なだけで結構強いんだけどねぇ……それはともかく、七夏が使ってみせたのは特異魔法って言って、普通の魔法とは少し違うんだ」
「得意魔法?」
「特異魔法。特別の特に、異質の異ね。簡単に言うと、魔法少女個人個人が持つ固有の魔法だよ」
「そんなのあるんだ」
「魔法少女になれば栞里も使えるようになるよ。それ以外にも変身もできるようになるし、変身状態なら他の普通の魔法もある程度使えるようになる。なんなら普通の魔法だけでも、そんじょそこらのヘイトリッドには遅れを取らないよ」
「なるほど」
最悪、七夏が見せてくれたような魔法一つで戦わなくちゃいけないことも想定していたが、そういうわけでもないようだ。
栞里が黙り込んだのを見て、レンダはこてんと小首を傾げる。
「……これで質問は終わりかな?」
「ひとまずは」
「なら、そろそろ答えを聞かせて……っとと、急かすのはよくないね。本当なら何日か考えてから答えをもらうような話だ。実際に日を改めてもらっても構わないけど……どうする?」
「大丈夫。ここで答えを出す」
「ん、了解。じゃ、考えがまとまったら教えてね。それまでいくらでも待ってるから」
言っていた通り、無理に勧誘はせず、あくまで栞里の出した結論を尊重するようだ。
栞里はあまり人付き合いが得意な方ではない。レンダにはろくに話も聞かずに初手で鞄を叩きつけたし、七夏は非常識人扱いしてしまった。
けれど皆、そんな栞里に根気強く話をして、一緒に頑張ろうと手を伸ばしてくれている。
レンダも七夏も、沙代も澪も、皆、良い人ばかりだ。
彼女たちと同じ存在となり、肩を並べて戦うことは、他のどんなものにも代えがたい経験になる気がした。
……しかし。
「……ごめんなさい。私は魔法少女にはなれない」
最終的に、栞里はそう言って頭を下げた。
そういう返事も聞き慣れているのだろう。レンダは少し落胆しながらも、しかたがなさそうに首を左右に振った。
「そっか……残念だけど、それが栞里の選択なら受け入れるしかないね。一応、理由を聞いてもいいかな」
「高校に入ったら、ずっとやりたいって思ってたことがある。中学の時は校則でできなかったけど……ここなら許可を取ればできるから」
「……? えっと、そのやらなきゃいけないことって?」
「それは……恥ずかしくて言えない」
「あ、そう……なの?」
もとより栞里は表情の変化に乏しいが、恥ずかしいと言う割になんの変化もない真顔だったので、答えるレンダも疑問形だった。
(中学の時はできなくて、高校に入ったらできること……? 部活、じゃないよね。許可が取れれば……って?)
一方で澪は、栞里が語る魔法少女になれない理由について、なにかが頭の中で引っかかっていた。
こうして引っかかるということは、これまで見た栞里の言動になんらかのヒントがあった……ということだろうか。
そんな風に感じた澪は、今日、栞里と出会ってからの出来事を一つずつ振り返ってみる。
(レンダちゃんを警察にお届け……初対面で頭撫でてもらって……栞里ちゃんも卵焼きが好きなんだっけ。あと栞里ちゃんは一五歳で……)
まだ一日にも満たない付き合いだが、思い返すと変なことばかりだった。
(家が学校から近くて……それから、お金は大事って急に真面目な顔で語り出して……あっ)
お金が大事。
栞里がそう語った場面が頭の中に浮かんだ瞬間、中学ではできず高校では許可を取ればできることについて、一つの予想が澪の中に生まれた。
そしてもしも澪のこの予想が正しいのだとすれば、ただ一つの事実を伝えてあげるだけで、栞里の断る理由はなくなるはずだった。
その一つの事実とは――。
「あの、栞里ちゃん。魔法少女の活動は、ちゃんとお給料もらえるよ?」
「魔法少女は素晴らしい職業だと思います。ぜひ私もなりたい。ヘイトリッド死すべし」
レンダが伝え忘れていただろうことを澪が耳元でこっそりと教えてあげると、栞里は即座に手のひらを返した。まさしく一瞬の出来事であった。
心変わりがあまりに早すぎてレンダが椅子から転げ落ちそうになっていたが、まあ些細なことであろう。
(あはは……栞里ちゃんが言ってたのって、やっぱりアルバイトのことだったんだ……)
新しい友人は、思っていたよりもお金にがめつかった。
(でも……ちょっとだけ安心したかも)
七夏や沙代も澪と同じ魔法少女だが、あくまで彼女たちは先輩だ。
本音を言えば、対等に付き合える相手がいなくて澪は少し不安だった。
でも、栞里が一緒なら。
あの時――廊下で七夏に声をかけられる直前。
澪が栞里を、お昼ご飯に誘った時。
栞里は、外食はダメだけれど、家で一緒にご飯を食べようって言いかけてくれていた。
ほんの些細なことかもしれないけれど、あの時、澪は本当に嬉しかったのだ。
だから澪は、栞里以外の他の誰にも気づかれないように、そっと栞里の手を握った。
どうしたの? と視線で問いかけてくる彼女に、よろしくね、と澪は笑って返す。
栞里はパチパチと目を瞬かせた後、ほんのわずかに微笑んで、澪の手を握り返した。
それが、澪が初めて見た栞里の笑顔だった。
「では、この文を金森さん、お願いします」
黒板にチョークが走る音。その文字を、ノートにペンでなぞる音。ろくに話したこともないクラスメイトが、教科書を朗読する声の音。
そのすべてをバックグラウンドミュージックのごとく聞き流しながら、栞里は一人、ぼーっと考え事をしていた。
その考え事とは、魔法少女のことだ。
つい先日、栞里は魔導協会からの熱烈な勧誘の果てに、ついには魔法少女となることを決意した。
元々栞里は高校に入ったらアルバイトを始めようと思っていた。だから当初こそ拒む姿勢を見せたものだけども、魔法少女としての活動もちゃんと給料がもらえるのであれば断る理由はない。
もちろん、お金だけが理由ではない。
世のため人のために尽くす、立派な奉仕の精神もちゃんとある。
ちゃんとあるけれども……やっぱり世の中、お金も大事なのである。
(……古本紡木先生。あの人も魔法少女……魔女なんだっけ?)
この学校には澪と七夏、沙代の他にあと一人、魔女がいる。
そしてその最後の一人とは、栞里と澪のクラスの担任である紡木であったらしい。
聞くところによると魔導協会は、おおよそ学校一つにつき一人、教師役の魔女を送り込んでいるそうだ。
そして魔法少女やその資格がある新入生が現れた場合には、その子たちを同じクラスにし、教師を兼任するその魔女が担任の先生となるよう、クラス編成を操作しているらしい。
この間子葉高等学校でも、魔法少女である澪、そして魔法少女になれる資格があった栞里が同じクラスになっているのだから、例に漏れずと言ったところだ。
しかも、だ。
隣で真面目に授業を聞いている澪を、栞里は横目で盗み見る。
しかも、五十音順に生徒を並べると二人の席が隣同士になるようにも調整されていた。
花乃栞里。凪沢澪。ハ行とナ行は隣同士だから、こういう席順になっても不自然はない。
偶然である可能性もあるが、まあ故意であろうと栞里は結論づけている。
クラス編成は魔法少女をまとめて管理するためだとしてまあ良いとしても、席を隣同士にするためだけに権力を使うのは、少々しょうもないという面が否めない
とは言えそれが澪と仲良くなるきっかけでもあったから、その点については栞里は魔導協会に感謝をしていた。
「チャイムが鳴りましたね。今日はここまでにします。起立、礼」
昨日と同様に紡木の号令で授業は終了し、教室内が騒がしくなり始めた。
今の国語の授業が昼休み直前の四時間目だったので、これから昼休みだ。
「ね。栞里ちゃんって、もしかして頭いいの?」
栞里が教科書とノートを机の中にしまっていると、澪がこてんと小首を傾けて問いかけてきた。
「どうして?」
「今日の授業中、なんだかずっと上の空みたいだったから。これくらいなら勉強する必要もないくらい頭がいいのかなーって」
「……」
授業を聞いていなかった不真面目さを、ここまで好意的に捉えてくれるとは……なんと純粋で良い子なのだろうか。
栞里は思わず、よしよしと澪の頭を撫でていた。
澪はちょっと困ったように苦笑いしつつも、栞里の手を払い除けたりはしなかった。
「頭がいいかどうかはわからないけど、まだ中学の復習の範囲だから問題ない。全部覚えてる」
「わっ、すごいなぁ栞里ちゃん。わたし結構忘れてたよー」
「上の空に見えたのは、考え事をしてたからだと思う」
「考え事……? あのね、栞里ちゃん。余計なお世話かもしれないけど、もしなにか悩みがあるなら相談してね。わたしにできることなら力になるから」
「……」
「あ、あれ? また頭撫でられた……」
真面目に授業を聞き、他人の言動を好意的に捉え、些細なことでも人を気遣うことができる。
絵に描いたような良い子だ。
一方で自分はどうだろう、と栞里は自問自答してみる。
まず、授業は完全に聞き流していた。マイナス一点。
そして昨日七夏が最初声をかけてきた時、栞里は好意的に捉えるどころか、彼女の話を冗談だと決めつけて信じていなかった。マイナス二点。
最後に人を気遣う心だが、栞里が魔法少女になることを決めた最後の要因は、人を思う奉仕精神とかではなく給料である。マイナス三点。
まごうことなき悪い子であった。
自分はいったいいつからこんな不良娘になってしまっていたのだろうか。
悲しい現実に栞里は打ちひしがれる。すぐ立ち直るが。
「ねぇ、栞里ちゃん。一緒に食堂に……」
澪の言葉が途中で止まる。
それというのも、栞里が弁当箱を取り出しかけていたからだろう。
「あ、えっと、やっぱりなんでもない。あはは……わたしは食堂に行ってくるね。お弁当持ってきてないし、学食頼まないと」
「待って。私も行く」
「え? でも」
「食堂でお弁当を食べればいいだけだから。私は澪と一緒にお昼を食べたい」
「……えへへ。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
弁当箱を持って、嬉しそうに頬を緩ませた澪と一緒に教室を出た。
食堂に向かう道中で、ふと思い出したように澪は声を上げる。
「そういえば栞里ちゃん、入部届ってもう出した?」
「出した。澪は?」
「出したよー」
七夏や沙代が所属しているオカルト部は、魔法少女の活動を誤魔化すためのカモフラージュの一つだそうだ。
魔法少女になるのなら、オカルト部に入部しなくちゃいけない。
ちなみにオカルト部の役職としては、部長が七夏、副部長が沙代。顧問が古本紡木。そしてレンダは、紡木が預かっている子ども……という設定のようだ。
「そういえば入部届を渡した時、まずは相手の話をちゃんと聞きましょうね、って紡木先生に言われた。あれはなんだったんだろう」
「あはは……レンダちゃんを回収するために裏から手を回したのはたぶん古本先生だからね。ほら、栞里ちゃんが警察に送り届けたって言った時、慌てて教室を出ていったでしょ?」
そういえば、と栞里は遅刻した理由を話した時のことを思い出す。
栞里がレンダの話を一切聞かずに気絶させて警察に届けたものだから、そのことを入部届を出した際に軽くお説教されていたらしかった。
「紡木先生は、この学校の魔法少女と精霊の監督者でもあるんだって。だからわたしたちみたいなヘイトリッドの退治じゃなくて、別の特別な役割を協会から与えられてるの」
「特別な役割?」
「わたしたちの働きを記録したり、わたしたちの代わりに情報の規制や隠蔽に動いてくれたり。協会にはそういう裏方専門の部隊もあって、古本先生はわたしたちの監督者でもあると同時に、その部隊のリーダーでもあるの」
「なるほど……」
魔法少女がヘイトリッドを退治し、その裏方専門の部隊とやらが痕跡を抹消する。
そして監督者はその二つの間を取り持ち、管理する存在。
「魔導協会……か」
「すごいよねぇ。学校だけじゃなくて警察とかにも顔が利くし……いったいいつ頃からあるのかなぁ」
「澪も知らないの?」
「うーんと……実は、わたしも二、三週間くらい前に魔法少女になったばかりでね。詳しいことは知らないんだ。ヘイトリッドの退治だって、まだ一度もしたことないし……」
「え? そうだったんだ」
てっきり中学に通っていた頃くらいから魔法少女をやっていたのだろうと思っていた栞里は、目を瞬かせた。
「わたし、ちょっと不安だったんだ。ヘイトリッドの退治だなんて怖そうなこと、わたしなんかにうまくやっていけるかどうか……だからね、栞里ちゃんも魔法少女になってくれて、すごく心強いなって思ったの。ありがとうね、栞里ちゃん」
「それは私が私のために決めたことだから、礼を言われるようなことじゃない……けど」
「けど?」
「どういたしましてって、言っておく」
「そっか。えへへ……栞里ちゃんは、いつもわたしが嬉しいって思う言葉を言ってくれるね」
はにかんだような笑顔は、可憐な花が咲いているかのようだった。
そうこうしているうちに食堂につき、澪はお昼買ってくるね、と栞里から離れていった。
一足先に席を確保し、弁当箱の包みだけ解いて、箱は開けずに澪を待つ。
すると背後から声をかけられた。
「いやー、二人とも昨日会ったばっかりって聞いたけど、なんだかすごく仲良さそうだったね」
振り向けば、食事が乗ったトレーを持った七夏が挨拶するようにひらひらと片手を振っていた。
反対側いい? と聞いてくる七夏に栞里が頷くと、七夏は栞里の対面に腰を下ろした。
「見てたの?」
「うん。一緒に食堂入ってきてたよね? 仲睦まじくていいなーって思いながら見てたよ」
「……仲、良さそうに見えたんだ」
「あれ? 違った?」
「違うなんてことはない。断じて」
「そ、そう? それならいいけど」
無表情のまま、ずいっ! と勢いよく顔を寄せてきた栞里に、七夏は「おおぅ……」と少し気圧される。
「まあその、なんて言うのかな。澪ちゃんもそうだけど、私は栞里ちゃんのことも結構気に入ってるからね。へへ。今後の活躍にも期待してるよ、新米魔法少女ちゃん」
「……意外」
「へ? なにが?」
「七夏は私のこと、嫌ってるかと思ってた」
「え? なんで?」
「なんで、というか……」
「……もしかしてそっけない態度ばっかり取っちゃってたこと、気にしてるの?」
「……」
図星を突かれて栞里が黙り込むと、七夏はぷふっと吹き出した。
「ふ、ふふっ、あはは! 栞里ちゃんも結構可愛いところあるんだねぇ」
「……別に可愛くはない」
「大丈夫大丈夫。あんなことで栞里ちゃんを嫌いになんてならないよ。ふふふ……そっかー。栞里ちゃん気にしててくれたんだー」
「……」
コロコロと頭を揺らし、まるで微笑ましいものでも見るかのような七夏の目に、栞里は知らずしらずのうちに口を尖らせていた。
「なんていうか、不器用なんだね。栞里ちゃんは」
「む……心外。裁縫は得意。超得意」
「いや手先の器用さじゃなくて」
「なんだか楽しそうね、二人とも」
と、談笑する二人に声をかけてきたのは沙代だ。
「お。沙代ー、隣空いてるよ」
「ええ。ありがとう七夏ちゃん」
「……そのお弁当、一人で食べるの?」
沙代は栞里と同じで弁当を持参しているようだ。ただ、その容器が少しばかり目を引いた。
三段の重箱。学校に持ってくる弁当箱にしては珍しく、見るからに量も多そうだ。
沙代はかすかに朱に染まった頬に手を当てる。
「ふふ……お恥ずかしい話なのだけど、私、これくらい量がないと満足できないの」
「沙代はいつも重箱だよ。しかも全部自分で作ってるんだって」
「これを自分で……? ……中、見せてもらっていい?」
「もちろん大丈夫よ。はい」
沙代が蓋を取ると、カラフルな料理たちが顔を出す。
きんぴらごぼう、黒豆、栗きんとん。焼き物や煮物もあり、三段目の箱には赤飯が詰められていた。
「おせち料理みたいだよね」
「むむ。これを毎日……沙代、すごい」
「ふふ、お褒めに預かり光栄だわ」
「はぁーあ。こんなに食べてるのに、なーんで沙代は太らないんだろうね。その栄養どこに行ってるのかなー」
わざとらしくそう漏らす七夏の視線は、恨めしげに沙代の豊かな双丘に注がれている。
そんな七夏と、ちょっと困ったように笑う沙代を見比べて、ふーむ、と栞里は顎に手を添えた。
「七夏は、胸が小さいの気にしてるの?」
「んぐっ。い、いや、別にそういうわけじゃ……」
「確かに、女性の成長期は高校一年生くらいまでで、七夏はもう二年生だから少なくとも身長の成長は絶望的だけど、胸なら一応まだ希望がないわけじゃない……と思う。たぶん……だから元気出して」
「それなぐさめてくれてるんだよね? そんな言い方じゃ元気出ないからね!?」
「……正直」
(正直、今の時点でその大きさじゃ……)
一瞬言いかけてしまったものの、栞里は直前で首を横に振った。
「……いや、なんでもない」
「なんでもないの? 本当になんでもないのっ?」
「…………」
「そこで目をそらさないでよ!? 不安になるじゃん! うぅー……! 紗代ー、栞里ちゃんが私をいじめるよぉー!」
うわぁーん! と涙目で机に突っ伏す七夏を見て、沙代は難しい顔で唸った。
「でも七夏ちゃん、大きくてもそんなにいいことなんてないわよ? 重くて肩が凝るし、蒸れるし、あと寝る時に結構邪魔で……昔はもっと気が楽だったのに、今後一生このままかと思うとちょっと嫌になっちゃう」
「そんな現実的な話をしてるんじゃないの! 男の子がヒーローに憧れるように、胸が大きいのは女の子のロマンなんだよ!」
「えっと、そう言われても私にはわからないけれど……そうなの? 栞里ちゃん」
「七夏はきっとそう思い込まないと正気を保てないの。そっとしておいてあげた方がいい」
「栞里ちゃんそっけない態度取ってたこと気にしてた割にまだ私への態度厳しくない!?」
そんなこと言われても、だって栞里は別に胸が大きくなりたいと思ったことはない。
残念ながら七夏の味方ができるほど理解が深くないのである。
「栞里ちゃん、お待たせー!」
七夏が負けじとなにか言いかけたところで、栞里の待ち人が戻ってきた。
栞里が隣の席を勧めると、澪は小さくお礼を言って、ちょこんとそこに腰を落ちつけた。
「沙代先輩たちも一緒なんだね。こんにちはー、です」
「こんにちは、澪ちゃん」
「こんちはー……」
「……七夏先輩、ちょっと元気ない? なにかあったんですか?」
「……」
……七夏の視線は完全に澪の胸に向いている。凝視だ。
七夏は自分と同じくちんまりとした澪の胸を見ると、少し安心したようだった。
「うぅ、私の味方は澪ちゃんだけだよー。お互い強く生きていこうね」
「……? はい!」
なんだかよくわからないという顔をしつつも、先輩を立てて元気に首を縦に振る。澪はまごうことなきいい子であった。
その後、澪は沙代の重箱を見ると、わぁ、と感嘆の声を上げた。
それを沙代の手作りだと七夏が説明すれば、「すごい!」と、栞里とまったく同じ感想を漏らす。
「あ、そういえば栞里ちゃんもお弁当だったよね。栞里ちゃんはどんなお弁当なの?」
「ん。こんなお弁当」
栞里も弁当箱の蓋を外す。
ご飯とおかずでそれぞれ分けられた二段の弁当箱で、一つ一つ丁寧に作られたおかずは見る者の食欲を誘う。
沙代のように華やかではない、至って普通の弁当ではあったが、ある一つの献立だけ異様に量が多く、澪の目を引いた。
「これって……」
そしてその量が多い献立とは、卵焼きだ。
一つの弁当箱のおよそ半分を埋め尽くしている。
「澪、甘い卵焼きが好きって言ってたから。いっぱい作ってきた。できれば食べてほしいって思って」
「……いいの? 栞里ちゃん」
「うん。ぜひ」
澪の箸がゆっくりと伸びる。
最初は一番大きい卵焼きを選ぼうとして、そこから遠慮したのか一番小さい方に箸先が行きかけて、でもやっぱり量が多い方が嬉しいのか、最終的には中くらいのサイズの卵焼きを摘んだ。
「……おいしい」
初めは咀嚼するだけでとても静かだったが、味わった卵焼きが喉を通ると、澪はぽつりとそう漏らした。
「栞里ちゃん、これすっごくおいしい!」
「本当?」
「うん! 甘くて、安心する味……これ、もう一つ食べてもいい?」
「もちろん。好きなだけ。澪のために作ってきたから」
「ありがとう、栞里ちゃん!」
ぱあぁ! と輝いているかのような屈託のない笑顔に、栞里の心もポカポカと温まるようだった。
「いやぁ、微笑ましいねぇ」
「そうね。七夏ちゃんも私のお弁当、一段食べる?」
「一段もいらないって……でも、私も卵焼きだけもらおうかな。見てたら食べたくなってきた」
「うふふ。どうぞ」
魔法少女と言えど、今はただの高校生だ。
なんてことのない日常が緩やかに過ぎていく。
しかしそれも、すべての授業が終わるまでの話。
放課後になれば、部活動と称した魔法少女としての活動が始まるのである――。