星がちらほらと見え始めた空の下、栞里は一人、昇降口を出てすぐの柱に寄りかかり黄昏(たそがれ)ていた。
 部活を終え、帰宅していく生徒の姿がちらほらと見える。
 栞里が今日行っていたような魔法少女活動も、表向きはオカルト部の活動の一環ということになるので、部活動帰りの一人としてカウントしても差し支えないだろう。

(まだ少し、体が重いな……)

 数時間前のヘイトリッドとの初めての戦いの疲労が、未だ色濃く残っていた。
 体自体は大して動かしていないはずなのに、全力で運動をした後のように、ずっしりと重い倦怠感がある。
 七夏はこれを、急激な魔力消費に心がついていけなかったせいだと言っていた。
 心と体には密接な関係がある。病気になって体が弱れば心も弱気になってくるように、心が弱くなれば体にも影響が出てくる。
 要は、今の栞里は体ではなくて心が疲れているということだ。

「……そういえば、澪の方はどうだったのかな」

 同じ学年で同じクラス、隣の席の女の子のことに、思考を傾ける。
 確か、彼女も栞里と同じく魔法少女になって間もないと言っていた。ヘイトリッド退治をまだ経験したことがない、とも。
 澪は今日、沙代と一緒に外へ見回りに行っていた。
 澪の方はいったいどんな感じだったのだろうか。

「栞里ちゃーん!」
「澪」

 考え始めた矢先に、その当人が栞里の前に姿を現す。
 校門の向こう側から自転車に乗ってやってきた澪が、ハンドルから片手を離して振っている。
 栞里も小さく手を振り返していると、間もなくして栞里の近くまで来た澪は自転車を止めた。

「お待たせ。栞里ちゃん」
「ううん。待ってない」
「え。そう、なの? どう見ても待ってくれてたように見えるけど……」
「『待った?』みたいに言われた時は、『待ってないよ。私も今来たところ』って返すのが定番だって聞いた」

 むふん、と少し得意げに胸を張る。
 そんな栞里に澪は目をぱちくりとさせて、くすりと笑みを漏らした。

「あはは。漫画とかでよくあるデートの待ち合わせのことかな? でも今回は最初から待ってもらってたんだから、待ってないはちょっとおかしいかなぁ」
「なるほど。じゃあ……おかえり。澪」
「えへへ。ただいま! 栞里ちゃん」

 自転車を下りて、嬉しそうに返事をした澪を伴い、校外へと歩き始める。
 澪の自転車のバスケットには、学校用のそれとは違う、少し大きめの鞄が詰め込まれている。
 そこに入っているものは着替えや歯磨きと言ったお泊りセットだ。
 なぜ澪がそんなものを持ってきているのかと言うと、話は数十分前にさかのぼる。
 レンダが栞里に精霊について説明した後のことだ。
 あれから間もなくして沙代と澪の二人が戻ってきて、無事を祝う言葉もそこそこに、協会からの連絡事項をレンダが話し始めた。
 魔法少女活動が終了した後はいつも部室に集まって、なにかあれば通達するらしい。
 この役目は基本的にレンダのような精霊の役目で、監督者であるという紡木は、魔導協会や魔消隊との連携のほか、単純に教師としての仕事も忙しいため、普段は裏方が中心であるという。

『あと連絡することはー……例の事件についてで最後かな』

 手に持った書類をパラパラとめくって、レンダが言う。
 机に肘をついていた七夏は、その姿勢のまま小首を傾げた。

『事件の調査、なにか進展あったの?』
『特にはないね。残念ながら』
『じゃあ連絡っていうと、栞里ちゃんと澪ちゃんについてかな』
『そうそう。ただでさえ人手が足りないんだから、いつまでも澪の家に監視をつけてるわけにもいかないしね』

(監視……?)

 穏やかでない単語だ。
 おそらくはその事件とやらと関係があることなのだろうが……。

『栞里。さっき僕がした話、覚えてるよね?』
『さっき……精霊のこと?』
『そう。僕たちは人の心を糧に生きているんだって。普段はヘイトリッドを食べて生きているって、そう言ったよね?』
『うん』

 レンダは、どこか申しわけなさそうに目を伏せた。

『君は僕のことを化け物じゃないと言ってくれた。化け物だなんだのと悩める人は化け物じゃないと』
『うん』
『……でもね、精霊は皆が皆、僕たちみたいに人間との共存を望んでるわけじゃない。いるんだ。違うやつが……人の心を食べることを悩まない精霊が、さ』
『……』

 精霊について聞いてから、それは薄々予想していたことではあった。
 人間社会には法律というルールがあり、多くの人はそれを守って生きている。
 だが、そう。少数ではあるが、確かにいるのである。そのルールを意図せず破る、あるいは自らの意思で破ってしまう人間が。
 長い年月をかけて高度な文明を築いてきた人間でさえそうなのに、同じく知恵を持つ生き物たる精霊がどうなのかなど、言わずもがなだ。

『事件っていうのはそれのこと。人の心を容赦なく食べる精霊……精霊獣が、最近この辺に潜んでいる』
『精霊獣……って、精霊となにが違うの?』
『根本的には変わらないよ。君たち人間で言うところの、一般人と犯罪者みたいなものかな。呼び方が違うだけ。あとはまあ、蔑称の意味合いが強いかな。衝動、欲求に抗えない獣みたいな』
『なるほど』
『その事件が始まったのは、今から一ヶ月以上も前。この辺りのあちこちで、不自然に記憶を失う人々が現れ始めた』

 レンダは手に持った書類から数枚を抜き取ると、栞里へ差し出した。
 今回の事件、間子葉市精霊獣事件についての資料だ。
 資料では精霊獣のことが、個体エプシロンと呼称されている。

『その時はほんの短い間の記憶だけだったんだ。生活に支障のない、ちょっと違和感を覚える程度のね。でも被害者のなくした記憶の期間は、次第に延びていった』

 数ヶ月、数年、数十年。
 やがては生まれてから今に至るまでの記憶のすべてを失う者ばかりになった、と資料には記されている。

『こうなると魔導協会としても本格的に動かざるを得ない。だけどこの個体エプシロンはだいぶ狡猾でね。手がかりを見つけたと思っても、それは敢えて誘導されたものだったりして、全然尻尾が掴めないんだよ』

 栞里は今までの調査記録、という項目を見る。
 レンダが語った通りのようで、ほとんどの調査が空振りで終わっていた。
 奇跡的に無事だったというエプシロンの目撃者も一応、一人だけいるようだが……調査が進展するような有用な情報は得られなかったらしい。
 調査が空振りばかりとは言っても、時間をかけているおかげで少しは調査の成果が出ているのか、被害者の数自体は減ってきているようではある。
 けれど減ってきているだけで、ゼロになったわけでは決してない。
 仮に被害者の数がゼロになったのだとしても、それまでその個体エプシロンが人間の心を食い荒らした事実は変わらない。
 むしろ逆に、被害が忽然となくなることこそを協会は恐れているのかもしれない。
 調査がほとんど進展していない今の段階で消息が完全に絶たれてしまえば、もはやその正体にたどりつくことは絶望的だ。
 そうなってしまえば、いつまたどこで同じことが起こるかわかったものではなくなる。
 完全に手がかりが消える前に、なんとしてでも見つけ出さなくてはならない。

『このエプシロンについては、近々他の地域から応援も呼んで大規模な調査を予定してるんだ。そうすればたぶん少しは進展すると思う』
『ふむ……』
『でもそうなるとその間、他の警備が薄くなるだろう? ヘイトリッドの退治に手が行き届かなくなって、大型のヘイトリッドなんかが生まれたりするかもしれない』

 だから今はまだ準備期間なんだ、とレンダは言う。
 調査に総力を上げるため、事前にいつもよりヘイトリッドを多めに退治する準備期間。

『今日だってね。本当は魔法少女になって一日二日の子を戦わせたりしないんだ』
『え。そうなの?』
『うん。危ないから。だからその……ごめんね。無理させて』
『それはいいけど……私が危ない目に合わないよう、七夏がちゃんと見ててくれたし』
『そっか。ありがとね、七夏』

 七夏は照れくさそうに頬をかいた。

『ま、そんなこんなで魔導協会は調査で大忙しなんだ。で、そんな今、協会にとって一番の痛手ってなんだと思う?』
『なにって……人が不足すること?』
『そ。ただでさえ人手不足なんだから、ここからさらに減るのは勘弁願いたい。だから今は自衛のためにも、魔法少女の皆には一時的にパートナー同士で同居してもらってるんだ』

 レンダが七夏と沙代の方を見るので、栞里もつられてそちらを見やる。

『そうだね。最近はずっと私の家に沙代を泊めてるよ』
『ふふ。いつもお世話になってます。七夏ちゃん』

 顔を見合わせて、微笑む。いっそ羨ましくなるくらい仲睦まじい様子だ。

『ま、こんな感じ。ただ、パートナーがいない魔法少女に関してはそうもいかないんだ。たとえば、最近魔法少女になったばっかりの子とかね』

 言うまでもなく、栞里と澪のことだ。

『今までは澪の家には監視をつけてた。けど、いつまでもそうしてるわけにもいかないしね。今は新しく栞里も魔法少女になってくれた。だから……』

 その次の言葉は、栞里が予想していた通りのものだった。

『どうか二人には、しばらく一緒に暮らしてほしいんだ』

 栞里がちらりと澪に目線を送ると、彼女も栞里の方を見つめていた。
 二人でいることで安全性が高まるというのなら、断る理由はない。
 栞里が頷くと、澪は迷いなく了承してくれた栞里にはにかんだような笑顔を向けて、こくりと首を縦に振った。

「栞里ちゃん? どうかした?」

 回想ではない、本物の澪の声が耳元で聞こえて、栞里の意識が現実に引き戻される。
 見れば、澪が少し心配そうに栞里の顔を覗いていた。

「ん。ちょっと、さっきのこと思い出してただけ」
「さっきの?」
「しばらく一緒に暮らしてほしい、って言われた時のこと」
「あー……栞里ちゃん。急にごめんね。泊めてもらうことになっちゃって」
「そんなことで謝らなくたっていい。澪の安全には代えられないから」
「ふふ。そっか」

 頬を緩め、たまに指で前髪をくるくるといじったりして、なにやら嬉しそうな様子である。

「……でも、栞里ちゃん。やっぱりごめんね」
「やっぱり、って?」
「えへへ。なんていうか……友達の家に泊まるのって初めてだから、ちょっと楽しみだなぁ、って。わたし、そんな風にも思っちゃってるの。だからごめんね」

 栞里は目をぱちぱちとさせた。
 それから、かすかに笑みをこぼす。

「大丈夫。実は私も結構楽しみ」

 そんなこんなで二人で歩き続けて、栞里の家までやってくる。
 栞里の家は少し小さめの、古い一階建ての一軒家だ。
 澪の自転車を庭に置かせて栞里が玄関の鍵を開けて中に入ると、澪も「お邪魔します」と律儀に礼をして後に続いた。
 廊下を歩いていると、思い出したように栞里は澪の方へと振り返る。

「澪、アレルギーとか苦手な食べ物とかある? あと、好きな食べ物も」
「食べ物……夕飯、栞里ちゃんが作ってくれるの?」
「うん」

 澪は少し考えてから、ふるふると首を横に振った。

「アレルギーとかはないから、栞里ちゃんが作りたいもので大丈夫。でも……強いて言うなら、お味噌汁が食べたいかな」
「お味噌汁?」
「うん。お味噌汁って、なんていうか、その人の家庭の味みたいなのが詰まってる気がするから」
「なるほど……わかった。卵焼きとお味噌汁と、あとは冷蔵庫次第で」
「あはは……卵焼きは最初から確定なんだね」
「やめた方がいい?」
「大丈夫だよ。お昼にも食べたけど、好きなのは本当だから。それにね……」
「それに?」
「あ……う、ううん。なんでもない」

 澪は誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。
 頭の上に疑問符を浮かべている栞里に、澪は心の中で謝罪する。
 だって、「あの時くれた卵焼きが、お母さんが作った卵焼きと同じ味がしたから」だなんて。
 そんなことを面と向かって口にするのは、なんだか照れくさかったのだ。