昇降口で靴に履き替え、さきほど探索したトイレの真下まで来ると、栞里と七夏はそこに残っていたヘイトリッドの痕跡を調べ始めた。
「ヘイトリッドも千差万別でね。いろんな姿かたちのやつがいるの。一番厄介なのは飛行するやつかな」
ヘイトリッドの痕跡だという魔力の残滓は、校庭の影となる道に沿って続いていた。一応、日が当たる箇所も通った形跡はあるが、ほんのわずかだ。
負の感情が集まりやすい場所を好む性質は、こういうところにも現れているようだ。
「飛行型は空中に残滓が散ってて痕跡を追いづらいの。昼間はあんまり移動しないけど、夜はどこにでも飛んでいくし。捜索が本当に面倒でね……」
「今回のこれは、飛行型じゃない?」
「這いずったような跡だから陸上型かな。たぶんナメクジに近い見た目のヘイトリッドだと思う」
「ナメクジ……」
やっぱりダンゴムシやゴキブリのようだというたとえは的を射ていたのではないかと栞里は思ったが、それを言うと七夏が嫌そうな顔をするのは目に見えていたので、おとなしく口を噤んでおく。
「えっーっと……この方角は、ゴミ捨て場の方かな? 残ってる魔力の濃さから見ても、たぶんその辺でうろちょろしてるはず」
「そういうのもわかるんだ」
「まぁねー。あんまり時間が経つと魔力が散って痕跡が消えていっちゃうけど、それはその消え具合でどれくらい前の痕跡かも推測できるってことでもあるし」
「なるほど」
「具体的にどれだけ前のものかーっていうのは経験頼りだけどね。栞里ちゃんもこの先も魔法少女を続けていけば、いずれわかるようになるよ」
さて。と、七夏は鞄を校舎の影に置くと、ストレッチを始めた。
七夏にならって、栞里も軽く体をほぐしていく。
「まず今回のヘイトリッドについてだけど、おそらく体が粘液状の魔力でできたナメクジみたいな這いずるタイプ。全長は三〇センチから五〇センチ」
「うん」
「比較的小柄のヘイトリッドかな。たぶんそんなに強くない、けど……油断は禁物だよ。普通の人にはまだ無害でも、魔法少女にとってはその限りじゃない」
「……わかってる」
昨日、レンダから聞いた話が栞里の頭をよぎる。
魔法少女になる直前、最後に一つ言っておかなきゃいけなくなる、と前置きされて話されたことだ。
『いいかい? 人間の心っていうのは普段は殻で大事に包まれていてね、元々、脆弱なヘイトリッドなら寄せつけないくらいの強度があるんだ』
だが、強くなったヘイトリッドは心の殻そのものを破ってしまう力をも持つようになるという。
そうなる前に退治するのが、これから魔法少女になる君の役目だ。と、レンダは言った。
『で、まあ、ここからが一番重要なことなんだけど……実は、魔法少女にはその殻がない』
『殻がない……? それって、ヘイトリッドに対して完全に無防備ってこと?』
『んー、言い方が悪かったね。殻がないというより、殻が変質してるって表現の方が正しいかな』
『変質……』
『体力が肉体的な力だとすれば、魔力は心に生まれる力なんだ。でも、殻で完全に閉じ込めた状態じゃ、その心の力を行使できない』
『……人が魔力を操るためには、殻の形を変えなきゃいけない。心から魔力を取り出せるように』
『そういうこと。ヘイトリッドは完全なる精神的存在……だから同じ次元にある心の力、魔力を介した方法でしか干渉できない。でも、そんな風にヘイトリッドに対応するために、心を覆う殻の形を変えた魔法少女という存在は……』
無防備とは行かないまでも、普通の人と比べ、遥かにヘイトリッドの影響を受けやすくなってしまう。
それでも君は、魔法少女になるかい?
「……」
レンダから聞いたそんな話を思い返して、栞里は少し、緊張で体を強張らせた。
魔法少女になったとしても、本人が望みさえすれば、魔導協会から離れて魔法とは無縁の日常を送ることもできる。
そこだけ聞いた時は、また以前と同じ普通の日常を送れるようになると勘違いしてしまうだろう。
だけど違った。魔法少女になることには明確なデメリットがある。
魔法少女になったら戻れない――それはこれから先、ずっとヘイトリッドの脅威にさらされて生きていかなければいけないということだ。
もしヘイトリッドとの戦いに怯え、嫌になってしまったとしても、その身は変わらずヘイトリッドの格好の餌だ。
どんなに拒絶しようと、その気になれば見えてしまう。認識できてしまう。
(……それでも)
それでもあの時、魔法少女になるかどうかの最終確認で栞里は頷いた。
その選択に後悔はない。
「栞里ちゃん、行ける?」
「問題ない。いつでも行ける」
レンダいわく、魔法少女は二人一組で動くものだ。
今は栞里と七夏でパートナーを組んでいる。
その片割れが、こんなところでいつまでも怖気づいているわけにもいかないだろう。
「あはは。栞里ちゃんは本当に将来有望だなぁ。でも、そうだなー……ひとまず、先に変身しておこっか。目標のヘイトリッドが近くにいるのは間違いないし」
「そういえば……七夏は変身が嫌いなんだっけ?」
以前、栞里に魔法について信じてもらうため四苦八苦していた際、そんな感じのことを言っていた。
「……まあ、嫌いだけど……いやほんと嫌いだけど……これ以上ないくらい嫌いだけど……」
三回も繰り返して言う辺り、マジで嫌いらしい。
「仕事だからね……嫌なことでもやらなきゃいけないのが仕事なんだよ……」
きょろきょろと辺りを見回し、自分たち以外の人目がないことを確認すると、七夏は自分の右腕の袖をめくった。
その右手首には、橙色の小さな結晶が埋め込まれた腕輪が巻かれている。
「……輝け、開闢の星」
七夏がそのワードを口にした途端、七夏を中心に突風が吹き荒れた。
メガネのレンズを介して見えるその風は、橙色の軌跡を描いている。だけど、レンズの外側ではなんの色も見えない。
それはこの風が七夏の魔力が起こす現象であることを示していた。
拡散していた風が収束し、七夏のもとに集う。光となってその身を包み、彼女の衣装が変化する。
「……はぁー……」
変身を終えた七夏の口から真っ先に漏れたのはため息だ。
自身の格好を見下ろして、ものすごくげんなりする。
栞里は七夏の変身形態がそう悪いものには見えなかったが、いくつか気になるところがあったので聞いてみることにした。
「ねえ、七夏」
「……なに? 栞里ちゃん」
その瞳はなんだか、どうか聞かないでほしいと懇願しているようにも見えた。
が、もしかしたら魔法少女にとってなにか重要な意味があるかもしれないのだから、聞かないわけにもいかなかった。
「どうしてその衣装、そんな裾がボロボロなの?」
「……特に意味はないかな」
「どうして右腕だけ包帯巻いてるの? 怪我?」
「……特に意味はないかな」
「どうして包帯に変なフォントで英語みたいなの書いてあるの? 魔法の強化とか?」
「……特に意味はないかな」
「どうして今の七夏は片目の色が違うの? 変身の副作用?」
「……ただのカラーコンタクトかな……」
「どうして――」
「だぁあああーっ!」
まだまだ気になるところがあったので質問を続けようとしたが、ここで七夏が耐え切れないと言わんばかりに絶叫を上げた。
「全部意味ないから! この見るからに中二病感満載な衣装に意味なんて欠片もないからっ!」
「え。ないの?」
「ないんだよ! 特に怪我してるわけでも魔法を強化する意味合いがあるわけでも変身の副作用とかあるわけでもなんでもないの! ただの頭の悪いおしゃれなの!」
なぜか裾が擦り切れてボロボロな真っ黒な衣装。右手には変なフォントの文字が書かれた包帯、目には金色のカラーコンタクト。
黒と白、それぞれ基調とした二振りの剣を両手に携えていて、橙色の小さな結晶を二分割した物が鍔に半分ずつ嵌められている。
「うぅ……魔法少女の衣装は一度決まったら容易には変更できない。これは昨日聞いたよね?」
「う、うん」
割とガチで泣きそうな七夏に気圧されつつ、栞里は頷く。
いわく、変身の衣装は本人の憧れの姿が反映されるそうだ。
そして一度変身してしまうと、それが自分の魔法少女としての姿だと無意識領域に刷り込まれるため、衣装を変更することが難しくなるという。
つまり今の七夏の衣装は本来、いつかの彼女自身が望んだ憧れの姿ということになるはずなのだが……。
「……これはね、魔法少女になったばっかりの頃の、当時の私の憧れの姿だったの。あの頃の私はちょうど中二病の真っ盛りでさ。ウキウキ気分でいっぱいノートにありもしない設定書き込んだりしててさ」
いじけたように、それでいてこっ恥ずかしそうに。
手を合わせて、指先をいじりながら、七夏は続ける。
「変身は憧れの姿になれるって聞いたから、この衣装のためだけに絵の練習までしてね。これじゃないこれじゃないって連日書き込んで……」
「それで完成したのが、これ?」
こくり、と七夏は肯定する。
「でも、憧れなんてのは日夜変化していくものじゃん。あの頃の自分が中二病だったことを自覚して、治ってくるとさ? 過去の行いを全部忘れて闇に葬りたい衝動に駆られるんだよ……」
「そうなんだ?」
「そうなんだよ。でも私の場合、いくらノートを燃やしても忘れようと努めても、この衣装がいっつもあの頃の記憶を私に突きつけてくるの……変身するたびに中二病だった過去を思い出させてくるの!」
「う、うん」
「たまに会う他の魔法少女からも生温かい目で見られるしさ!? 別にもう私中二病じゃないのに! 闇に葬って忘れ去りたいのに! 好きでこんな格好してるんじゃないのにぃ!」
両手の剣を放り出し、栞里にしがみついて、一心不乱に涙目で主張する。
どう対応したらいいかわからず、栞里の目線はおろおろとした。
しかししばらく激情のままに叫んでいた七夏も、やがてその場に膝をつくと、どんよりと顔を伏せる。
「なんで……なんで私がこんな目に合わないといけないの? 私頑張ってるよ? いっつも頑張ってるよ? なのに、こんな仕打ち……うぅうー……やだ……もうやだぁ……」
「え、えっと……その……」
(な、なんて言えばいいんだろう……?)
どうにか七夏を励ましてあげたかったが、なかなか良い言葉が出てこない。
そもそも、栞里は人付き合いがあまり得意な方ではなかった。
こんな時にどんな言葉をかけてあげたら元気になってくれるかなんて、全然わからない。
「……よ、よしよし」
悩みに悩んだ末に栞里が行ったことは、なにか言葉を投げかけることではなくて、七夏の頭を撫でることであった。
大丈夫、大丈夫、と。なにが大丈夫なのかはわからないが、とにかくそんな三文字を繰り返しながら、頭を撫でる。
七夏はピタリと一瞬体の動きを止めたかと思うと、困惑した様子で栞里を見上げた。
「……えっと……なにこれ?」
「よしよし?」
「それはわかるけど……」
「その……私は七夏のこと、ちゃんとわかってる。たとえばその擦れた裾とか、あの敢えて破けたデザインにしてる……ダメージデニムみたいで格好良いと思う、よ?」
「いや、その、私この衣装気に入ってないから落ち込んでるんだけど……ていうかダメージデニムって。まあ発想の元は同じ、なのかなぁ?」
話しているうちに落ちついたようで、七夏は栞里から離れると、手放していた双剣を回収して立ち上がった。
涙の跡を拭い、ちょっとばかり気まずそうに笑う。
「なんていうか……ありがとね。励ましてくれて……」
「もう平気?」
「うん。もう大丈夫だよ。あはは、見苦しいとこ見せちゃったな……」
目の下が赤いが、気丈に振る舞う七夏を見て、栞里も気持ちを切り替えることにする。
「じゃ、次は栞里ちゃんも変身しよっか! やり方は覚えてるよね?」
栞里は首肯して、彼女と同じように制服の袖をめくった。
七夏と同じデザインの腕輪。唯一違うのは、嵌め込まれた結晶の色だ。
七夏の結晶は太陽の光のような橙色だったが、栞里のそれは深い海のごとき藍色である。
これは魔力結晶。魔導協会が精霊と協力して作り上げた、魔法技術の結晶だ。
魔法少女が魔法少女足り得るための核とも言える、重要な道具である。
「波打て、追憶の海」
魔法少女の変身は、特定のワードを口にすることで半自動的に行われる。七夏が言っていた「輝け、開闢の星」もそれだ。
あらかじめ決めておいた音の並びを合図に、この魔力結晶と本人の魔力とをリンクする。その相互作用によって心の活性を促し、奥底に眠る潜在能力を表側に引っ張り出すことで、平時とは比べ物にならない魔力出力と、超人的感覚の発揮を実現する。
それこそが変身の魔法である。
「ん」
蒼き魔力の風に包まれ、視界が鮮やかに弾けた。変身を終えると、眠気が覚めるかのごとく感覚が研ぎ澄まされる。
変身を行うと、変身前に身につけていたものはすべて結晶内に保存され、服装が完全に入れ替わる。
あの魔力を目視できるようになるメガネも一時的になくなるということだ。
しかしそれでも、今の栞里にはヘイトリッドの魔力の痕跡が変わらず見えていた。
変身による変化を実感していた栞里だが、横を見ると、まるで品定めでもするように七夏が栞里をじろじろと観察していた。
「ふーむ……栞里ちゃんの魔法少女衣装って、結構大胆だよね」
「そう、かな」
肩や腹、太ももが露出した機能性を重視するような装いの上から、幾何学的な模様が描かれた短めのマントを羽織っている。布地部分は柔らかく動きやすい素材で作られているから、少しの窮屈さも感じない。
腰に装着した二つのホルスターには二丁のハンドガンが収められており、本来なら安全装置がある部分に、二分割された藍色の結晶が嵌められている。
「なにかイメージの参考にしたものとかあるの?」
「ん……昔よくテレビのCMで見たなにかのゲームの主人公の服……を、うろ覚えで思い浮かべながら変身してみたらこうなった」
「だいぶ曖昧なイメージだね……でも、うん。大丈夫! 確かにちょっと大胆だけど、栞里ちゃんスタイルいいからね。ちゃんと似合ってるよ」
「ありがとう」
「じゃ、そろそろ行こっか。あ、認識阻害の魔法発動しておいてね。見られると面倒だし。使い方はわかる?」
「たぶん」
七夏はお手本でも見せるかのように、剣を大げさに掲げてみせた。
それと同時に七夏の全身がほんの一瞬、橙色の霧状の魔力で覆われる。認識阻害の魔法を使ったのだ。
これで終わりだと七夏が剣を下ろすのを見て、栞里もホルスターからハンドガンを抜いた。
重さは簡単なエアソフトガン程度なので、容易に片手で扱える。
(……認識阻害……)
魔法少女とは言っても、実のところ、特異魔法と呼ばれる固有の魔法以外は自力では使うことはできない。
それ以外の魔法を使うには、七夏の剣や栞里のハンドガンのような、魔法補助具が必要だ。
この魔法補助具には、魔法を記憶しておく機能がある。記憶した魔法は通常の状態では魔力の出力が足りず、効果を発揮できない。
しかし変身状態ならば魔力の出力が大きく高まるため、補助具に記憶された他の魔法も自由に行使できるようになるのである。
もっとも、補助具の魔法は特異魔法ほど自由に扱えるわけではない。そして魔法の記憶容量にも限界があり、強力で複雑な魔法ほど容量を多く埋めてしまう。
それでも、状況に応じて様々な魔法を使える利点は他のなににも代えがたいものだった。
(……不思議な感覚……)
双銃型の補助具に意識を集中させると、この中に封じられた魔法の存在とその使い方が、感覚的に理解できた。
これが元々自分の体の一部だったかのような感覚だ。
いや、正しく表現するのなら、体というよりも心の一部だろうか。
変身状態である今、栞里の魔力は魔力結晶とリンクしている。そしてさきほどまで腕輪についていた魔力結晶は、今は二つのハンドガンにそれぞれ半分ずつ嵌め込まれている。
魔力とは心の力だ。いわば栞里は、この双銃と心が繋がっている状態にある。
(……これかな?)
魔法を選び、引き金を引く。
カシュンッ! と、空気が弾けたような音。本物の銃にはほど遠い、軽い発砲音だ。
すると、栞里の全身が藍色の霧で包まれる。
――認識阻害。
微弱な魔力経由で見る者の心の向きをずらし、その現象に対して違和感を抱かせなくする。
つまりこの魔法を使っている間はどんな格好で、なにをしていても注目をされることはない。
これだけ聞くと便利そうだが、いかに魔法と言えど、万能というわけではない。
この魔法は、効果の適用範囲が非常に広い反面、非常に繊細で弱い魔法でもある。
例を言うと、この魔法の発動中すれ違う程度に軽く誰かと接触しただけで、その人にこの魔法は効かなくなる。
また、初めから見られている状態から使っても効果はない。自身の魔力をコントロールできる魔法少女や精霊にはそもそも効かない。他にもいろいろだ。
あくまでこの魔法は保険であり、これがあれば絶対に注目されなくなる類のものではないということである。
(今まで気がつかなかっただけで……私の近くでも、誰か魔法少女が戦ったことがあったのかな)
誰に感謝されることもなく、人知れず人を守る。その感覚をほんの少し、噛み締める。
先を進む七夏を追って、栞里はゴミ捨て場へと向かった。
「……よし、他に人はいないみたいだね。元々そんなに人が来るような場所じゃないけど」
最初に見かけた時よりも明らかに濃くなっているヘイトリッドの痕跡は、閉じられたゴミ収集庫にこびりつくようにして途切れていた。
「ヘイトリッドはあの中かな……栞里ちゃん。いつ襲われても大丈夫な心構えしておいてね」
「了解」
七夏はゴミ収集庫に近づき、鉄製の蓋へと慎重に手を伸ばした。
取っ手に手が届くと、それまでの慎重さとは裏腹に一気に蓋を開け放つ。
初めはただ、中にゴミが詰まっているだけに思えた。
しかしそのゴミの隙間の奥で黒く濁ったなにかがうごめいた途端、その中からなにかが七夏の顔にめがけて飛びかかってきた。
だが、すでに警戒していた七夏にその不意打ちは通用しない。
彼女は即座に上半身を後ろにそらすことで、飛びつきを難なく回避する。
そればかりか、彼女は回避した勢いのまま後方宙返りに移行したかと思うと、黒く濁ったなにかが自身の上を過ぎ去るよりも速くオーバーヘッドキックを決めた。
七夏の人間離れした反応の速さに栞里が瞠目する間に、蹴り飛ばされたそれが栞里の真横にベチャッと無様に墜落する。
「っ……」
栞里がこのまま七夏と同じように即座に攻撃へ移行できれば、百点満点の上出来と言えただろう。
が、なにぶんこれは栞里にとって初めて見るヘイトリッドで、初めて経験する戦いの場だ。
無意識のうちに心のどこかで怯えていたのか。
私の武器は銃なのだから、まずは距離を取らなければ、と。そんな変哲もない模範解答に則るように栞里は無意識のうちに後ずさってしまった。
そして栞里は、ゴミ収集庫から飛び出したものの正体をまともに注視する。
ナメクジのような、という七夏の表現はまさしく的を射ていた。
細長い二つの触覚。黒く、まだら模様に濁った、ぬめりのある全身。子犬ほどの大きさを持つその醜悪な塊に、生理的な嫌悪感を抱かずにはいられない。
そしてなによりも、触覚の下。生物であれば顔がある部分が自分の方へと向けられた途端、ぞわりと身の毛がよだつ。
人の、顔だ。
無感情に見開いた目。痩せこけたような頬。力なく半開きになっている口。泥のような色合いではあったが、間違いなく顔の形をしていた。
(これがヘイトリッド……人の負の感情が、形になったもの……)
「来るよ! 栞里ちゃん!」
注意を呼びかける七夏の叫び声から間を空けず、ヘイトリッドの背中がぼこぼこと隆起し始めた。
そうして三本の触手をかたどると、そのうちの一本を七夏へ、二本を栞里の両側から挟み込むようにして伸ばしてくる。
「照準補正!」
双銃型の魔法補助具は主に引き金を引いて魔法を発動するが、この照準補正の魔法だけは例外だ。
これは、栞里が狙った箇所に当たりやすくなるよう自動で照準を修正する。ただそれだけの魔法だった。
二丁のハンドガンの銃口をヘイトリッドへと向けて、連続で引き金を引く。
ガゥンッ! ――認識阻害の魔法を使った時とはまるで違う、鈍く重い強烈な銃撃音が鳴り響く。
音とともに銃口から発生した人の拳ほどの藍色の半透明な銃弾は、ヘイトリッドの二本の触手を撃ち抜いた。
七夏の方にちらりと視線を向ければ、彼女も難なく触手を斬り伏せている。
(次は本体を……)
カチャッ、と新たに照準を合わせようとしたところで、さらにヘイトリッドに動きがあった。
瞬時に新たに触手を生やしたかと思えば、その先端を地面へとつけて、そのしなりによって勢いよく跳び上がったのだ。
その向かう先は、栞里の方でも七夏の方でもなかった。少し遠くの校舎の壁にベチャッと貼りついて、さらにもう一度、触手を使って跳び上がる。
そんなことを繰り返しながら、どうやら校舎の屋上へと逃げようとしているようだった。
だけど、こちらの武器は銃だ。ここからでも攻撃は届く。
「あっ! 栞里ちゃん待って! あっちは撃っちゃダメ!」
「え。で、でも」
「ここは私に任せて!」
なぜ撃ってはいけないのか。今はその説明を求めている暇がないことは、栞里もわかっていた。
とにかく今はいつでもヘイトリッドを撃ち抜けるよう照準だけは合わせながら、言われた通り七夏に任せることにする。
「……これでいいかな」
任せて! なんて言った割に、七夏はヘイトリッドから目線を外していた。
代わりに七夏が見ていたものは、最初にヘイトリッドが潜んでいた金属製のゴミ収集庫だ。
(いったいなにを……?)
栞里の疑問をよそに、彼女は二振りある剣のうち、その片方の切っ先をゴミ収集庫に向ける。
刀身から橙色のオーラが陽炎のように揺らめき、広がって、ゴミ収集庫を包み込んだ。
しかしこれはおそらく、魔法でもなんでもない。ただ精神のエネルギーである魔力を無駄に垂れ流しているだけだ。
だけど七夏は自分の魔力がゴミ収集庫全体を覆ったことを確認すると、これでいいと言わんばかりに頷いた。
そしてゴミ収集庫に向けている方とは逆の手に持つ剣の切っ先を、すでに遠く、屋上にたどりつきかけていたヘイトリッドの方へと向けた。
「――《調和》」
七夏がそう呟いた直後、ゴミ収集庫がガタンッと少し音を立てて不自然にぐらつく。そして同時に、ヘイトリッドの様子にも変化が訪れた。
軽やかに跳び回り、屋上まで触手を伸ばしていたヘイトリッドの体が、突如なにか強い力に引きずられるかのように下へ下へと落ち始める。
触手を増やして周囲の出っ張りを手当たり次第に掴み、その力に耐えようとしたようだったが、それも無意味に終わる。
校舎からすべての触手が離れ、ヘイトリッドは無様に墜落する。
「栞里ちゃん! 今だよ!」
「わ、わかった」
最初に対峙した時のような軽やかさは見る影もなかった。
ぐぐぐ、と一所懸命に体を動かそうとしているようだったが、見た目通りのナメクジ程度の速度でしか移動できていない。
これで外すわけがない。
発砲音が一つ。
ヘイトリッドの体に風穴が空き、最後はなんともあっけなく、戦いに終わりが訪れた。
「おつかれさま、栞里ちゃん」
「……おつかれさま」
戦いの終わりを実感できず、未だ構えたままだった栞里も、そのやり取りでようやく銃を下ろした。
「へっへーん。どう? どう? 私の《調和》の魔法! すごかったでしょ?」
戦っている間は引き締まった真剣な表情をしていた七夏だったが、今はもうすっかり元の陽気な少女に戻っていた。
むんっ! と、あんまりない胸を張って自慢げだ。
「《調和》……そっか。あれが……確か、七夏の魔力が干渉した二つのものの力の大きさを同じにするって……」
「そう! 前に部室で見せた時とおんなじだよ。今回いじったのも重さ。あのゴミ収集庫とヘイトリッドの重量を足して二で割ったんだ」
なるほど、と栞里は納得する。
あの時ゴミ収集庫がぐらついたのは、急激に軽くなった影響だった。
そしてヘイトリッドが急に下へ引っ張られ始めたのは、逆に急に増した自重に耐え切れなくなったからだ。
ヘイトリッドは完全な精神的存在だ。体重計の上に乗ったところで、その重量を測れるわけではないだろう。
しかしどんな存在にせよ、地に足をついている時点で、少なからず重力の影響を受けていることに間違いはない。
元より、ヘイトリッドは天に昇らず地上に残った負の感情の塊だ。物理的に測ることはできずとも、なにかしらの重さの概念があるのだろう。
七夏はそれをいじったのだ。
「……七夏の魔法って……もしかして意外とすごい?」
「おっ、ようやくわかってくれたっ? そうだよ、私の魔法はすごいんだよ! 全然地味なんかじゃないんだよ!」
「いや地味だとは思うけど。でも、すごい」
「あ、うん……ありがと……」
別に前言を撤回するわけではない。だって普通に地味である。
地味ではあるが……すごい。それが七夏の魔法に対する栞里が出した最終的な感想だった。
「でも、いったいいつヘイトリッドにも七夏の魔力を?」
七夏の魔法は、二つの物体に自身の魔力を擦りつけなければ効果を発揮できない。
ゴミ収集庫を魔力で覆う場面は栞里も見ていた。
けれどそうなると、いつヘイトリッドの方にも魔力をつけていたのか。
「ほら。最初、ヘイトリッドがあのゴミ収集庫から飛び出してきた時。私、あのヘイトリッド蹴ってたでしょ?」
「……あの一瞬で?」
「そんなに難しいことじゃないよ。脚に魔力纏わせて蹴っただけだもん。栞里ちゃんでもその気になればすぐできると思うよ」
「……理屈的にはできる、かもしれないけど……」
今の栞里は自由に魔力を、魔法を使える。だから脚に魔力を纏わせることは、やろうと思えば確かにできるはずだ。
そして変身している状態では、閉じていた感覚が目を覚ましたかのように感覚が研ぎ澄まされる。
しかしそれでも、あの時の七夏のように、襲われた瞬間の一瞬でそれができるのかと言われれば、今の栞里では十中八九無理だ。
「じゃあ、あれは? あの、あっちは撃っちゃダメって」
ヘイトリッドが跳び回っていた校舎の方を栞里が指差すと、七夏は「それはねー」と言いながら、校舎とは別の近くの壁に剣の切っ先を向けた。
その壁には人の拳ほどの螺旋状の穴が二つほど空いている。
「ヘイトリッドは精神的な存在だから現実の事象に直接影響を及ぼせるわけじゃないけど、魔法は違うからね。魔力を介するからヘイトリッドと干渉し合うって特性はあるけど、基本的に物理現象なの」
「そっか……この穴って、私が撃った魔法の……」
ヘイトリッドが伸ばしてきた二本の触手。それを迎撃するために栞里は二丁のハンドガンで一回ずつ、計二回引き金を引いた。
七夏が剣で示した二つの螺旋状の穴は、触手を貫通した魔弾が衝突した場所だった。
「あっちの校舎の壁は窓があるでしょ? もしあれに当たったらガラスの破片が飛び散ることになっちゃう」
「……あの窓の向こうや下に、人がいないとも限らない」
「そう。私たちは人の心を守るために戦ってるんだから、そのために人を傷つけてちゃ意味がない」
「……」
自分の身を守り、ヘイトリッドを倒そうとすることで手一杯だったのだろう。他の被害なんて栞里は全然考慮できていなかった。
「あ、ちょっと厳しい言い方しちゃったかもだけど……栞里ちゃんが全然ダメだったってわけじゃないからね? むしろ栞里ちゃんは初めてにしてはほんっとによくできてたと思う」
「……そう、なの?」
「うん。普通は最初って、腰が抜けちゃってなんにもできなかったりするから」
魔法少女とは言っても、元はただ戦いとは無縁の生活を送っていた少女に過ぎない。
ヘイトリッド。あんなものを前にしてしまえば、七夏が言うような風になってしまってもしかたがない。
「けど、栞里ちゃんは冷静に魔法を使って攻撃までできた。私に頼らず、自分なりにヘイトリッドを倒そうとしてた。こんな子なかなかいないよ」
「そう、なんだ……」
「だからその、えーっと……うん。たいへんよくできましたっ!」
七夏が注意してくれなければ、窓を撃ち抜いて、誰かに怪我を負わせてしまっていたかもしれない。
その不甲斐ない事実に、七夏は栞里が落ち込んでいるように見えたようだ。
腕を大きく広げて、彼女は精一杯栞里を称賛する。
偉い! すごい! 一〇〇満点!
語彙がだいぶ怪しくて、褒め方がちょっぴりアホっぽいけれど、必死に元気づけようとしてくれる七夏の姿に、くすりと栞里の頬が緩んだ。
「あ、そうだ! いいこと思いついた……ちょっと腰低くして」
「腰? こう?」
「そうそう。ちょっとそのままでいてねー」
まるでいたずら好きな子どもみたいに笑いながら、七夏は栞里に手を伸ばした。
それから、ぽんっ、と。その手を栞里の頭の上に乗せる。
「よしよし。栞里ちゃん、よく頑張ったね」
「あ……」
それは魔法少女衣装のことで落ち込んでいた七夏を栞里が励まそうとした時と、逆の構図だった。
「栞里ちゃんは栞里ちゃんなりにちゃんとやってくれたよ。心配しないで」
栞里の頭を撫でながら、七夏は穏やかな口調で続けた。
「今の栞里ちゃんのパートナーは私だし、パートナーを支えるのは当然のこと。それにね、私ってこれでも先輩だから。ふふん。困ったこととか不安なこととかあったら、いつでも頼っていいんだよ。そういうのも先輩の仕事だし」
「ならこれも、先輩の仕事?」
「そう! ちゃんと頑張った可愛い後輩を甘やかすのも、先輩の仕事」
胸の内側がぽかぽかと温まって、なんだか安心する。
この感覚には、覚えがある。
いつかどこかで、これと同じものを味わったような――。
……いや、違うか。これは、そんな不確かな記憶ではない。
この懐かしい感覚を、栞里は今もよく覚えている。
「さて。それじゃ、残った勤めも果たさないとね」
七夏は栞里の頭から手を離すと、その足先を、崩壊したヘイトリッドの方へ向けた。
「残った勤め?」
「うん。ほら、見てみて栞里ちゃん」
七夏についていき、指し示された方向にあるヘイトリッドの残骸を見下ろす。
体の中心に風穴が空き、周囲に魔力の残滓を撒き散らしたヘイトリッド。普通の生物ならとっくに死んでいるところだろうに、未だその体はぴくぴくと動いていた。
「ヘイトリッドって結構しぶとくてね。栞里ちゃんが撃ち抜いたからしばらくは動けないだろうけど、このままじゃそのうちまた再生して動き出す」
「これでまだ生きて……」
「生きてるってのとはちょっと違うかな。元々生きても死んでもいない。ただの負の感情の塊だもん。今はその感情が散らばって弱ってるけど……言ったでしょ? ヘイトリッドはお互いに集い、一つになる性質があるって」
「なら残った勤めっていうのは、このヘイトリッドにとどめを刺すってこと?」
ほとんど確信を持った質問だったが、返ってきたのは煮え切れない答えだった。
「んー……ヘイトリッドを完全に消滅させるには、実はかなりの力がいるの。魔法少女がそれをやるのは効率が悪すぎるっていうか……」
「……? どういうこと?」
「後始末は別の、ヘイトリッド消滅の専門家に任せた方がいいってこと。で、その専門家さんにあとで渡すためにヘイトリッドを一時的に魔力結晶の中に捕獲するのが、さっき言った残った勤めなの」
「捕獲……消滅の専門家……」
なにやら、少しはぐらかすような言い方だ。
後ろめたいことを隠している……とは行かないまでも、なにかをあえて伏せているような。
栞里が引っかかっていることは気づいているようで、七夏は申しわけなさそうに苦笑いをした。
「ごめん。これは私の口からはあんまり詳しくは言えないや。最初はあの子に直接説明してもらわないとね」
「……なんだかよくわからないけど……わかった。今は聞かない」
「うん。ありがとう、栞里ちゃん。じゃ、早速ヘイトリッドを捕獲しよっか」
捕獲の魔法。補助具に意識を集中させれば、すぐにそれは見つかる。
「……感情吸収」
ヘイトリッドのそばにしゃがみ込み、その残骸に銃口を向け、引き金を引く。
すると銃口から藍色の渦が発生して、掃除機のようにヘイトリッドの残骸を吸い取っていった。
それに伴って、ハンドガンに埋め込まれた魔力結晶が、少し濁る。
「この魔法、こうやって弱らせる前に使うのはダメなの?」
ヘイトリッドの体を構成する負の感情を丸ごと吸収し、結晶の中に閉じ込めてしまう魔法。
非常に強力な魔法である。おそらく、この補助具に登録されている魔法の中でも一番強力な魔法だ。
そしてこの魔法は理屈で言えば、別にヘイトリッドを弱らせずとも問題ないはずだった。
「あー……まあ、それでも捕獲できると言えばできるんだけどね。これ、ものすごく強力な代わりに魔力消費がかなり大きくて危険なの。射程距離も短いし……」
「そうなん、だ……?」
ぐらり、と不意に視界がぐらついた。
そうなることがわかっていたように、倒れかけた栞里の肩を七夏が支えた。
「あ、あれ。どうして……」
「栞里ちゃんはまだ魔法少女になりたてだからね。今使った魔法の急激な魔力消費に体が……ううん。心がついていけなかったんだと思う」
栞里は七夏に支えられながら校舎の壁のそばに移動して、促されるまま、壁に背を預け腰を下ろす。
「変身中は疲れとかあんまり感じないから気づきにくいけど、ほら。この魔法使うと、こんな感じに一気に消耗しちゃうんだ」
「……そっか。もし外したりして、下手に調子を崩したら……」
「そう。ヘイトリッドに襲われる致命的な隙を作る。だからヘイトリッドを弱らせた後、一番安全な時に使うべき魔法なんだ」
「なるほど……」
「変身、もう解いていいよ。しばらく休憩にしよっか。栞里ちゃんがヘイトリッドを吸収してくれたぶん、後始末は私がやるから先に休んでて。あ、変身解除すると一気に疲労が来るから気をつけてね」
七夏は栞里に背を向けると、戦闘の余波で傷ついた箇所を回っていく。
傷ついた箇所と言っても、栞里が撃った魔弾による螺旋状の傷跡だけだが。
「修復」
七夏が魔法を発動すると、砕けた破片が集まって、傷ついた校舎の壁を埋めていく。
変身を解く前に補助具に意識を移して同じ魔法を確かめてみる。
どうやら、周囲の材質を参照して対象の箇所を修理、修復する魔法のようだ。
あまりに被害が広範囲に及ぶ場合は応援を呼んでもっと大がかりな魔法を使わなければならないようだが、銃痕程度なら散らばった破片を集めるだけで問題なく修復できるだろう。
(……これ、私の特異魔法とちょっと似てる……)
栞里の補助具に入っているのは基本の魔法だけだ。
魔法の種類はいろいろあるようだが、初めのうちは基礎を固めた方がいいというらしいので、そのままにしてある。
しかし少なくとも、栞里にこの修復の魔法は必要ない。
今度もっと別の魔法に入れ替えてもらおうと思いつつ、栞里は変身を解く。
「う……」
七夏の言った通りだった。
変身を解いた途端、急に全身が鉛のように重くなる。
ただでさえ急激な魔力消費で消耗していた栞里の体は、あっけなくぱたりと地面に倒れた。
(あんな小さなヘイトリッド一匹退治するだけでも、こんなに疲れるんだ……)
この疲労も、当然と言えば当然のことなのかもしれない。
人が全力でコンクリートの壁を殴ったところで、穴が空くわけじゃない。
しかし変身した魔法少女であれば、簡単な魔弾を撃つだけでもコンクリートの壁に穴は空く。
人が本来できない芸当をやってのけた反動としては、ただ疲れるだけだなんて、きっと安い方だ。
(とにかく、今は休もう。早く回復して、そうしたらまた七夏と、別のヘイトリッドがいないか探しに行かないと……)
間もなくしてやってきた眠気に、最初は抵抗していた。
けれどぼんやりとしてきた思考の中、休憩が終わりになればきっと七夏が起こしてくれるだろうと思い直す。
瞼を閉じ、ささやかな抵抗をやめた栞里の意識は、すぐに闇に飲まれていった。
夢を見ていた。
七夏のなんてことない行動に、昔の記憶を揺さぶられたからだろうか。
白い床。白い壁。白い天井。
そんな部屋で、あの人はいつものように、ベッドから体を起こして窓の外の雪景色を見つめていた。
『ごめんね、栞里』
それが彼女の口癖だった。
昔からいつも、ずっと謝ってばかりだった。
栞里はそれが嫌いだった。そんなことを言ってほしいわけじゃなかった。
なにを言ってほしかったのかと聞かれると、言葉には詰まってしまうけれど。
『私はもうすぐ、栞里のそばにはいられなくなっちゃうけど……』
いつもと変わらないはずのその横顔がどこか寂しそうに見えたのは、果たして、本当にあの人が寂しいと思っていたからか。
それとも、栞里自身が寂しいと感じていたから、そう見えただけだったのか。
追憶に浸るだけの今の自分には、もう、どちらが真実だったのかを知る由もない。
『どうか栞里には、私がこれから言う三つのことを大切にしてほしいの』
窓の外に向いていた彼女の顔が、栞里の方を向く。
その穏やかで慈しむような眼差しは、なにもかも優しく包み込んでくれる、静かな海を連想させる。
『一つ目は、言葉を大切にすること。言葉は力を持つから』
『……言葉』
『あなたの言葉が誰かを救うこともあれば、きっと、誰かを傷つけることもある。その責任は他の誰でもない、あなたのものなの』
これは、いつも栞里が言われていることだった。
感謝のように良い言葉を口にすれば、良いことが起こる。でも、誰かを嘲るような悪い言葉を口にすれば、悪いことが起こる。だから言葉を大切にしなさい。
これが、一つ目。
でも、そうなると残りの二つはなんなのだろう?
栞里は知らない。いつも言われているのは、言葉を大切にしなさい。ただそれだけだった。
『二つ目はね、あなたを大切にしてくれる人を、大切にすること』
『大切にしてくれる人?』
『そう。あなたにはまだ、ピンとこないかもしれないけど……』
『……』
『栞里?』
気がついた時には抱きついていた。
弱々しく、やせ細った体だ。少し前までは、もっと健康で力もあったのに。
でもその温もりだけは、どんな時も変わらない。
『お母さんは、違うの?』
『……』
今にも泣きそうな顔だった。
どうしてそんな顔をするのかわからなくて、栞里は、その零れてきそうなその涙を拭ってあげたくて、母の顔に手を伸ばす。
けれど母はそんな栞里を途中で止めた。
栞里の手を弱い力で掴んで、ふるふると首を左右に振って、彼女は、嗚咽の混じった声で続きを言うのだ。
『あなたに大切にしてほしい、三つ目のことはね――』
✿ ✿ ✿ ✿
「あ、栞里ちゃん起きた?」
目が覚めて初めに目に入ったのは、青空を背景にした七夏の顔だ。
いつも通りの明るい笑顔で、栞里の目覚めを出迎える。
(……膝枕……)
頭の下の柔らかな感触と、この体の近さはそれくらいしかない。
体を起こそうとすると、ぴっと人差し指で額を押し止められた。
「もうちょっと横になってた方がいいよ。まだあれから三〇分くらいしか経ってないから」
「あれから……そうだった。まだヘイトリッド退治の途中だった」
寝ちゃってごめん、と栞里は言おうとしたが、その言葉は七夏に遮られる。
「栞里ちゃんはまだ魔力を使うことに慣れてないから、休憩はちゃんと多めに取っておかないとね。動いた後はしっかり休む! これが一番大事なんだから、栞里ちゃんはなにも気にしないで」
「……ありがとう」
「ふふふ。いいのいいの。いいものも見れたしねぇ」
「いいもの?」
「栞里ちゃんの寝顔。可愛かったなー」
「……ねが、お?」
「うん。あ、寝言も可愛かったんだよ? お母さん、お母さーんって。ふふ、栞里ちゃんってば、お母さんのことが大好きなんだねー」
「…………」
なぜか、段々と顔が熱くなってくる。
なぜかというか、十中八九、羞恥から来る熱である。
(う、うかつだった……いくら疲れてたからって、簡単に人前で寝るなんて……)
勝手に寝顔を見た七夏のことを責めたくても、別に七夏は見ようとして見たわけじゃない。
栞里が勝手に寝てしまって、七夏はむしろ、そんな栞里を介抱してくれていたのである。
七夏を責めようと口をパクパクしたところで、お礼以外の言葉を口にできるはずもなく、結局は泣き寝入りするしかなかった。
「勝手に寝顔見てごめんね? でも大丈夫だよ。写真撮ったりとか、変なことはなんにもしてないから」
「……そう」
いっそのこと、なにかされていた方が、かえって正当に責めることができるのでよかったかもしれない。
感じ慣れない恥ずかしさで、そんなトンチンカンじみたことまで考えてしまいつつも、休息はしっかりと取る。
それからしばらくして七夏と学校の敷地内の探索を再開したが、幸いなことにあれが唯一のヘイトリッドだったようだ。
他の痕跡は見つからず、西の空は赤くなっていった。
✿ ✿ ✿ ✿
運動において、視覚機能はなによりも重要なものである。
動くものに継続して視線を合わせ、的確に識別する動体視力。その物体がどれほど遠くにあるか、あるいはどれほどの大きさがあるかを把握する深視力。一瞬で状況を把握する、瞬間視の能力が重要になる場面があるだろう。他にもさまざまだ。
運動をしている間、眼球はとにかく目まぐるしく動く。人は、自分が感じている以上に視覚に頼って体を動かしている。
つまり、暗くなればなるほど危険が伴うということだ。運動、ましてや戦闘においては。
そんなこんなで、魔法少女の活動は日が出ている間だけ行うという決まりがあった。
社会に出て、正式に魔導協会に所属している者たちは夜にも仕事を行うことがあるそうだが、学生と兼任である栞里たちには関係のない話である。
「他にも、調査とか退治とかが行き届かなくてヘイトリッドが力を持っちゃった場合とかね。そういうのの討伐みたいな危険なことは、ぜーんぶ正式所属の魔女と精霊たちの仕事なの」
「ふむ……」
「そのぶん給料も多いみたいだけどねぇ。私たち学生の魔法少女がやることなんて、結局は雑魚退治もいいとこなんだ」
学校の敷地の探索が終わったことや日が傾いてきたこともあり、少し早く部室に帰還した栞里と七夏であったが、まだ澪や沙代は戻っていないようだった。
沙代とケータイで連絡を取った七夏いわく、今こちらに向かっているとのことなので、その間、栞里は未だわからないことが多い魔法少女事情を七夏から学んでいた。
「雑魚退治万歳だよ。君たち学生の子たちが小さいヘイトリッドをたくさん狩ってくれるおかげで危険な仕事が減るんだから」
数時間前に栞里たちを見送った時と変わらず、だらーっと机に体を投げ出しているレンダも、こんな感じにちょくちょく口を挟んでくる。
「あー……最近の危険な仕事っていうと、やっぱりあれ?」
ちょっとだけ声を低くして、七夏がレンダの顔色をうかがう。
「あれ、だね。今日もこれから調査だよ……はぁー……」
「早く見つかるといいんだけどねー」
「ほんとだよ。僕たち精霊の品位にも関わることなんだから」
「……」
あれ、とか言われても栞里にはよくわからない。
聞けば説明してくれるだろうかと口を開きかけて、ふと、それとは別のことを思い出す。
(……そういえば、今日の昼に七夏が言ってたヘイトリッド消滅の専門家……あの子って……)
……試してみるか。
栞里は制服の袖で隠すようにして巻いていた魔力結晶付きの腕輪を外して、レンダの前に置いてみた。
「どうぞお納めします、専門家さん。捕まえたヘイトリッドです」
「お。ありがとー。うへへ、別の結晶に入れて今日のおやつにしよっと」
「あ、ちょっとレンダちゃ……あぁー……」
「……おやつ?」
七夏はレンダの発言を止めようとしたようだったが、あと一歩間に合っていなかった。
あちゃー、と顔に手を当てる七夏。
栞里は栞里で、レンダの口から出てきた気になる単語に食いついて、そこでようやくレンダも状況のおかしさに気づいたようだ。
「あ、あれ? 七夏まだ説明してなかったの?」
「あー……うん。私が下手に言うと変に誤解されちゃうかと思ったから、レンダちゃんに直接説明してもらった方がいいかなって」
「あぁ、そうだったんだ。でも、そんな隠すようなことでもないから大丈夫だよ。気を遣ってくれてありがと、七夏」
机から上半身を起こしたレンダが、どこから説明したものか、という具合に言いよどむ姿を前にして、栞里は少し身構える。
「どっちにしろ、近いうちにしておかなきゃいけない話だしね……僕たち精霊の話は」
「精霊の話?」
「魔法少女は人間の女の子。ヘイトリッドは負の感情の塊。じゃあ、僕たち精霊はいったいどういう存在なのか? そういう話さ」
人間と動物との二つの姿を持ち、自由に入れ替える魔法を使う。資格を持つ少女の心に触れることで影響をもたらし、魔法少女に変えてしまう力を持つ。
精霊について栞里が知っていることと言えば、せいぜいそれくらいだった。
その正体がいったいなんなのか、確かに栞里はまだなにも知らない。
「聞かせて。精霊のこと」
栞里が姿勢を正してレンダの方を向くと、レンダは神妙に頷いた。
「僕たち精霊は、ありていに言えば動物の一種かな。でもただの動物じゃなくて、物質ではなく精神を主体にした動物だ」
「精神を主体って?」
「――ヘイトリッドに近い存在ってことさ」
「……」
なるほど、と栞里は納得した。
だいぶデリケートな話である。これは確かに、本人に説明してもらった方がいいと七夏が言ったわけだ。
「まあ近いって言っても、あくまで根本的な部分だけの話。実際は人間と昆虫くらいの差があるよ」
人間と昆虫ともなれば、だいぶ違う。
呼吸をする。頭部のように、体のどこかに重要な器官が集中している部分がある。そのような、動物であるがゆえの特徴が一致しているくらいだ。
精霊とヘイトリッドもそれと同じで、根本的な部分以外はまったく違う存在ということだろう。
「精霊とヘイトリッドの違う点だけどね。まず知性と理性があって、生きていること。これ、一番重要なところね」
「確か、ヘイトリッドは生きても死んでもいないって」
「そう。でも僕らは違う。生きている。そして生きているからこそ、僕らはヘイトリッドとは違って完全な精神的存在ってわけじゃないんだ」
レンダは自分の存在を主張するかのように、自分の胸に手を置いた。
「僕らの存在。それはいわば一種の魔法だ。ただの感情の塊でしかないヘイトリッドと違って、僕たちの体は魔法を起源とした物質で作られている」
「魔法……? ……ああ、そっか。だからヘイトリッドと違って、魔法少女になる前からでもレンダが見えたんだ」
「うん。魔法はヘイトリッドみたいな精神的存在に干渉する特性があると同時に、れっきとした物理現象でもある。だから普通の人間にも見えるのさ」
今みたいな人間としての姿も、レッサーパンダみたいな動物としての姿もね。
そうレンダは続けて、指を一本立てた。
灯るようにして、その指先に小さな魔力球が発生する。綺麗な翠色の光だ。
「そして、僕らがヘイトリッドと決定的に違うのは、こんな風に魔法を使えるかどうか。物質と精神の間に位置する力、魔法の法則を理解しているかどうか……」
魔法の法則――聞くところによると、それは通常の法則のように、一定の形を持たないそうだ。
心の状態、感情の起伏、記憶の配列など、様々な精神的要素が絡まり合うことで不規則に変化し続ける。
それはいわば精神の計算式。それを理解、計算、実行することは、しょせんは人間に過ぎない魔法少女にはまず不可能なことらしい。
精霊だけがその法則を理解し、自在に魔法を使うことができる。
そして魔力結晶と魔法補助具は、そんな精霊の次元により近づくための魔導協会の叡智の結晶だという話だ。
もっとも、結局は魔力結晶と補助具も製作者には精霊が関わっていて、補助具に魔法を登録したり魔法を入れ替えたりと言ったことも精霊にしかできないそうなのだが……。
「ま、僕たちにも使えない魔法はあるけどね。君たちが使う特異魔法とか」
レンダはお手上げだと言いたげに両手を上げた。
「あれは君たち魔法少女特有のものだ。何度か真似ようとしたこともあるけど……なにをどーやったって同じ魔法を作るのは無理だった。あれだけは、君たちの心が導く唯一無二の魔法だよ」
「……そうなんだ」
「で、ここからが重要なところ」
「重要?」
「そ。ここまで僕が語ったのは、精霊とヘイトリッドの異なる点だ。でも今から語るのは、精霊とヘイトリッドで限りなく近い点」
同じ、とは言わなかった。
あくまで近い。
これからなにを語ろうとも、自分は決して人間の敵ではない。そう伝えたいのだろうと栞里は受け取った。
「まずこれは大前提だけど、僕たち精霊はヘイトリッドみたいに精神に重きを置く存在だから、ヘイトリッドが人の心に寄生することと同じように、人の心に触れることができる」
「知ってる。その精霊との接触が、私たちが魔法少女に覚醒する引き金になる。私が昨日レンダに触れられて、魔法少女になったように」
「そうだね」
つい昨日のことだ。
魔法少女になる時、手を出してほしいと言われて、栞里は言われた通りにレンダに差し出した。
その手にレンダが触れて、しばらく経った後、ドクンと心臓が強く脈打った。
きっとあの瞬間、レンダが栞里の手を通し、その心に触れたのだと思う。
胸の奥に小さな熱が生まれて、それは時間をかけて体の節々に広がっていった。気分が悪いとか、そういう感覚は一切なかった。
熱が体中を回った頃、唐突に自分の中で錠が外れたような感覚を覚え、次の瞬間には全身に感じていた熱が嘘のように消えてなくなっていた。
そうして栞里は魔法少女になった。
「僕らが持つ、この人の心に触れる力はね、ヘイトリッドのそれより遥かに強力なんだ」
レンダは、自分の手を静かに宙空に掲げた。
「人の心には殻がある。下手なヘイトリッドなんか寄せつけないくらい強固な殻だ。でもそんな殻、精霊には関係ない」
「関係ない?」
「簡単に壊せる。そもそも壊すまでもなく、すり抜けられる。そうやって人の心に干渉して、僕たちは魔法少女への覚醒を促してるわけだからね」
(……言われてみれば……)
心に殻がある云々は昨日も聞いたことだ。
だとすると確かに、どうやって精霊が殻の奥にある心に干渉して魔法少女へと変えていたのかは、不思議に感じるべき部分だった。
「そして僕らがこの力を持つことには確かな意味がある」
「意味……」
「人に口があるのはどうしてだい? 歯があるのは?」
唐突な質問だった。おそらく、ただのたとえ話だ。
だけど栞里はこのたとえ話から、精霊という存在の真実をなんとなく掴みかけていた。
「……物を食べるため。栄養を吸収するため」
「そうだね。そして、僕らがこの力を持っているのも同じことだ」
生物の体の部位や特性には、すべてなんらかの意味がある。
それが必要だから進化してきたのだ。
だとすれば、そう。彼女たち精霊が、わざわざ違う生き物であるはずの人間の心に触れる力を持つこともまた、それが彼女たちにとって重要な事柄を担うからにほかならない。
「僕らはヘイトリッドと違って生きている。生き物は栄養を取って生きていくものさ。そして精神に重きを置く僕らにとっての栄養は、君たち人間や普通の動物とは違う。僕らにとっての栄養……それは」
レンダはゆっくりと腕を上げ、真剣に話を聞いていた栞里の胸へと、その指先を向けた。
「君たち人間の精神。その心を形作る、記憶そのものさ」
自嘲気味に笑って、レンダはその重大な事実を告げた。
ふと、栞里の脳裏に、今日のヘイトリッドの捜索中に七夏から聞いた言葉がよみがえる。
――私たちは過去から現在、そして未来に至るまで、いろんな感情を抱いて生きていくよね。人に刻まれるその記憶、思い出は、一種のエネルギーなんだよ。
記憶がエネルギー。つまりそのエネルギーこそが、精霊の力の源というわけだ。
人の心を喰らい、生きるもの。それこそが、精霊の正体。
「……」
「……」
レンダはそれ以上なにも言おうとはしない。
栞里が今の話を咀嚼するまで待っているのだろう。
なにか質問があれば好きにしてくれていい。そう言ってくれている気もした。
「あ、あのね。栞里ちゃん」
そんな二人の静寂を破ったのは七夏だった。
おずおずと発言の許可を求めるように小さく手を上げている。
「今の話を聞くと、精霊もヘイトリッドと同じで人間の敵! みたいに聞こえるかもしれないけど……レンダちゃんを見てわかる通り、人間に友好的な子はいっぱいいるんだ」
「うん」
「魔導協会に所属してる精霊たちは皆そう。むやみに人の心を侵したりなんかしない。言うなれば、うーんと……私たちはギブアンドテイクの関係で成り立ってるの」
ギブアンドテイク。
お互いに与え合うこと。持ちつ持たれつの関係を意味する言葉だ。
「ほら、人の心が栄養ってことはね。つまり、負の感情が形になったヘイトリッドも精霊にとっては栄養ってことでもあるから」
「あ、そっか。それなら……」
「うん。私たち人間にとって、ヘイトリッドは駆除しなきゃいけない存在。精霊にとっては栄養。利害は一致してるよね?」
「魔法少女だけでヘイトリッドを完全に消滅させるのはかなり骨が折れる、んだっけ? でも、精霊なら簡単に食べて消してしまえる」
「そうそう。精霊は私たちに力を貸して、私たちがヘイトリッドを捕まえる。そうすれば私たちはヘイトリッドが減って助かるし、精霊は人間を敵にすることなく、労せずお腹が膨れるでしょ?」
それが人間と精霊のギブアンドテイクの関係なんだ、と七夏は締めくくった。
「……精霊のこと。一個だけいい?」
「ん。いいよ。なにかな」
栞里がレンダに声をかけると、どんなことでも答えるよ、という風にレンダは両手を広げた。
ならばそれに甘えよう、と。栞里は好奇心に導かれるまま、さきほどから気になってしょうがないことを聞いてみることにした。
「……ヘイトリッドって、おいしいの?」
「へ?」
レンダは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「……あ。う、うん。僕たちの味覚は人間とは違うから、うまくたとえづらいけど……とりあえずまずくはないよ」
「なるほど」
「…………え? 他には?」
「他? ……特にない」
「え……え? ほ、ほんとにこれだけなの?」
「これだけだけど……」
きょとんとした様子の栞里に、レンダは「なにか納得がいかない」という風に前のめりになった。
「いや、もうちょっとこう……ないの? こう、こんな化け物と一緒になんていられない! 私は家に帰らせてもらう! みたいな……」
なぜそんな推理小説で犠牲者になりそうな人みたいな言い方なのだろう。
「レンダって化け物なの?」
「その、そう受け取られてもしかたはないかなと……」
「ふむ……それはつまり、そんな精霊を鞄で叩いて退治してみせた私はさらにワンランク上の化け物ということになるのでは……?」
「なんで!? その、あれはあくまで動物形態だったからであって……だいぶ油断もしてたし。本来はあれくらい魔法で簡単に防げたんだよ……?」
「……そっか」
「『そういうことにしておいてあげるね』みたいな目やめてっ!? 本当なんだって! 本気の精霊って魔法少女の一人や二人じゃ相手にならないくらい強いの! すっごく怖いんだよ!」
「どんな感じに怖いの?」
「え。ど、どんな感じ……? …………えっと……」
レンダはしばらく悩むように沈黙した後、ばっ! と両腕を広げた。
「が、がおーっ!」
「すごい」
「なんて雑な感想なんだ……」
「じゃあ、超すごい」
栞里のからかうような反応に、レンダがちょっと頬を膨らませてむくれ始める。
栞里としては、別にからかっていたつもりではなくて、ただ本当に精霊を化け物だなんて思っていなかっただけなのだけど……きちんと言葉にしないとレンダは納得してくれなさそうだ。
言葉を大切にすることは母の教えでもあるので、栞里は正直に自分の気持ちを伝えることにする。
「私は、化け物だのなんだのと悩める人は化け物じゃないと思う」
「……どういうこと?」
「犬とか猫っているよね」
「へ? 犬? 猫?」
「ドッグ。キャット」
「別にスペルを聞き返したわけじゃないけど……」
唐突な話題転換にレンダの表情が困惑に染まっていた。
しかしこれは繋がりのある話である。それを説明するためにも、栞里はなおも続けた。
「犬も猫も、その気になれば人間を食べることとかできるの。特に犬は狼の子孫だから、人間より強い子もきっとたくさんいる。でも人間にとって実際は犬も猫も可愛いから大人気なの」
「う、うん」
「精霊も、それと同じことだと思う。人の心を食べる力があるけど、そんなことは些細な問題なんだ」
「それが些細な問題って、結構すごいこと言うね……」
「だって、世界にはライオンや虎、クマなんかを飼い慣らす人だっている。第一、人間だって包丁とか持てば簡単に他人を傷つけることができる。なのに精霊だけ化け物扱いはおかしい……と私は思う」
栞里は席を立つと、レンダの近くまで移動して、そっと手を差し出した。
「……? これは?」
「お手」
「はい?」
「お手」
「…………えっと……」
レンダは散々悩んだ後、栞里の指示通りに自分の手を栞里のそれに重ねる。
すると栞里は満足したように、もう片方の手を伸ばして、レンダの頭を撫でた。
「よしよし」
「……なんだこれ……」
レンダは終始わけがわからなそうに困惑していたが、栞里はとしては伝えたいことはもう伝え終えたので、ただただ黙って頭を撫で続けた。
「あはは。たぶん栞里ちゃんは『少なくとも私はあなたを怖がらない』って言ってくれてるんだと思うよ」
「そうなの……かなぁ? でもなんだか、若干子ども扱いされてるような……」
「お手されてたし、どっちかと言うとペットじゃない?」
「どっちかで言うなら子どもであってほしいよ!」
犬や猫でたとえた後からの、お手である。
どっちかと言うとやはりペットである。
「というか僕、これでも一応君たちより全然年上なんだけど」
「関係ないんじゃない? 私も年上だけど容赦なくなでなでされたし」
「これ七夏もされたんだ……」
レンダはあいかわらず微妙な表情ではあったが、栞里なりの気遣いであると理解したからだろう。
「……ありがとう、栞里」
「ん」
頬を緩め、お礼を言う。
そんなレンダに、栞里も短く返した。
星がちらほらと見え始めた空の下、栞里は一人、昇降口を出てすぐの柱に寄りかかり黄昏ていた。
部活を終え、帰宅していく生徒の姿がちらほらと見える。
栞里が今日行っていたような魔法少女活動も、表向きはオカルト部の活動の一環ということになるので、部活動帰りの一人としてカウントしても差し支えないだろう。
(まだ少し、体が重いな……)
数時間前のヘイトリッドとの初めての戦いの疲労が、未だ色濃く残っていた。
体自体は大して動かしていないはずなのに、全力で運動をした後のように、ずっしりと重い倦怠感がある。
七夏はこれを、急激な魔力消費に心がついていけなかったせいだと言っていた。
心と体には密接な関係がある。病気になって体が弱れば心も弱気になってくるように、心が弱くなれば体にも影響が出てくる。
要は、今の栞里は体ではなくて心が疲れているということだ。
「……そういえば、澪の方はどうだったのかな」
同じ学年で同じクラス、隣の席の女の子のことに、思考を傾ける。
確か、彼女も栞里と同じく魔法少女になって間もないと言っていた。ヘイトリッド退治をまだ経験したことがない、とも。
澪は今日、沙代と一緒に外へ見回りに行っていた。
澪の方はいったいどんな感じだったのだろうか。
「栞里ちゃーん!」
「澪」
考え始めた矢先に、その当人が栞里の前に姿を現す。
校門の向こう側から自転車に乗ってやってきた澪が、ハンドルから片手を離して振っている。
栞里も小さく手を振り返していると、間もなくして栞里の近くまで来た澪は自転車を止めた。
「お待たせ。栞里ちゃん」
「ううん。待ってない」
「え。そう、なの? どう見ても待ってくれてたように見えるけど……」
「『待った?』みたいに言われた時は、『待ってないよ。私も今来たところ』って返すのが定番だって聞いた」
むふん、と少し得意げに胸を張る。
そんな栞里に澪は目をぱちくりとさせて、くすりと笑みを漏らした。
「あはは。漫画とかでよくあるデートの待ち合わせのことかな? でも今回は最初から待ってもらってたんだから、待ってないはちょっとおかしいかなぁ」
「なるほど。じゃあ……おかえり。澪」
「えへへ。ただいま! 栞里ちゃん」
自転車を下りて、嬉しそうに返事をした澪を伴い、校外へと歩き始める。
澪の自転車のバスケットには、学校用のそれとは違う、少し大きめの鞄が詰め込まれている。
そこに入っているものは着替えや歯磨きと言ったお泊りセットだ。
なぜ澪がそんなものを持ってきているのかと言うと、話は数十分前にさかのぼる。
レンダが栞里に精霊について説明した後のことだ。
あれから間もなくして沙代と澪の二人が戻ってきて、無事を祝う言葉もそこそこに、協会からの連絡事項をレンダが話し始めた。
魔法少女活動が終了した後はいつも部室に集まって、なにかあれば通達するらしい。
この役目は基本的にレンダのような精霊の役目で、監督者であるという紡木は、魔導協会や魔消隊との連携のほか、単純に教師としての仕事も忙しいため、普段は裏方が中心であるという。
『あと連絡することはー……例の事件についてで最後かな』
手に持った書類をパラパラとめくって、レンダが言う。
机に肘をついていた七夏は、その姿勢のまま小首を傾げた。
『事件の調査、なにか進展あったの?』
『特にはないね。残念ながら』
『じゃあ連絡っていうと、栞里ちゃんと澪ちゃんについてかな』
『そうそう。ただでさえ人手が足りないんだから、いつまでも澪の家に監視をつけてるわけにもいかないしね』
(監視……?)
穏やかでない単語だ。
おそらくはその事件とやらと関係があることなのだろうが……。
『栞里。さっき僕がした話、覚えてるよね?』
『さっき……精霊のこと?』
『そう。僕たちは人の心を糧に生きているんだって。普段はヘイトリッドを食べて生きているって、そう言ったよね?』
『うん』
レンダは、どこか申しわけなさそうに目を伏せた。
『君は僕のことを化け物じゃないと言ってくれた。化け物だなんだのと悩める人は化け物じゃないと』
『うん』
『……でもね、精霊は皆が皆、僕たちみたいに人間との共存を望んでるわけじゃない。いるんだ。違うやつが……人の心を食べることを悩まない精霊が、さ』
『……』
精霊について聞いてから、それは薄々予想していたことではあった。
人間社会には法律というルールがあり、多くの人はそれを守って生きている。
だが、そう。少数ではあるが、確かにいるのである。そのルールを意図せず破る、あるいは自らの意思で破ってしまう人間が。
長い年月をかけて高度な文明を築いてきた人間でさえそうなのに、同じく知恵を持つ生き物たる精霊がどうなのかなど、言わずもがなだ。
『事件っていうのはそれのこと。人の心を容赦なく食べる精霊……精霊獣が、最近この辺に潜んでいる』
『精霊獣……って、精霊となにが違うの?』
『根本的には変わらないよ。君たち人間で言うところの、一般人と犯罪者みたいなものかな。呼び方が違うだけ。あとはまあ、蔑称の意味合いが強いかな。衝動、欲求に抗えない獣みたいな』
『なるほど』
『その事件が始まったのは、今から一ヶ月以上も前。この辺りのあちこちで、不自然に記憶を失う人々が現れ始めた』
レンダは手に持った書類から数枚を抜き取ると、栞里へ差し出した。
今回の事件、間子葉市精霊獣事件についての資料だ。
資料では精霊獣のことが、個体エプシロンと呼称されている。
『その時はほんの短い間の記憶だけだったんだ。生活に支障のない、ちょっと違和感を覚える程度のね。でも被害者のなくした記憶の期間は、次第に延びていった』
数ヶ月、数年、数十年。
やがては生まれてから今に至るまでの記憶のすべてを失う者ばかりになった、と資料には記されている。
『こうなると魔導協会としても本格的に動かざるを得ない。だけどこの個体エプシロンはだいぶ狡猾でね。手がかりを見つけたと思っても、それは敢えて誘導されたものだったりして、全然尻尾が掴めないんだよ』
栞里は今までの調査記録、という項目を見る。
レンダが語った通りのようで、ほとんどの調査が空振りで終わっていた。
奇跡的に無事だったというエプシロンの目撃者も一応、一人だけいるようだが……調査が進展するような有用な情報は得られなかったらしい。
調査が空振りばかりとは言っても、時間をかけているおかげで少しは調査の成果が出ているのか、被害者の数自体は減ってきているようではある。
けれど減ってきているだけで、ゼロになったわけでは決してない。
仮に被害者の数がゼロになったのだとしても、それまでその個体エプシロンが人間の心を食い荒らした事実は変わらない。
むしろ逆に、被害が忽然となくなることこそを協会は恐れているのかもしれない。
調査がほとんど進展していない今の段階で消息が完全に絶たれてしまえば、もはやその正体にたどりつくことは絶望的だ。
そうなってしまえば、いつまたどこで同じことが起こるかわかったものではなくなる。
完全に手がかりが消える前に、なんとしてでも見つけ出さなくてはならない。
『このエプシロンについては、近々他の地域から応援も呼んで大規模な調査を予定してるんだ。そうすればたぶん少しは進展すると思う』
『ふむ……』
『でもそうなるとその間、他の警備が薄くなるだろう? ヘイトリッドの退治に手が行き届かなくなって、大型のヘイトリッドなんかが生まれたりするかもしれない』
だから今はまだ準備期間なんだ、とレンダは言う。
調査に総力を上げるため、事前にいつもよりヘイトリッドを多めに退治する準備期間。
『今日だってね。本当は魔法少女になって一日二日の子を戦わせたりしないんだ』
『え。そうなの?』
『うん。危ないから。だからその……ごめんね。無理させて』
『それはいいけど……私が危ない目に合わないよう、七夏がちゃんと見ててくれたし』
『そっか。ありがとね、七夏』
七夏は照れくさそうに頬をかいた。
『ま、そんなこんなで魔導協会は調査で大忙しなんだ。で、そんな今、協会にとって一番の痛手ってなんだと思う?』
『なにって……人が不足すること?』
『そ。ただでさえ人手不足なんだから、ここからさらに減るのは勘弁願いたい。だから今は自衛のためにも、魔法少女の皆には一時的にパートナー同士で同居してもらってるんだ』
レンダが七夏と沙代の方を見るので、栞里もつられてそちらを見やる。
『そうだね。最近はずっと私の家に沙代を泊めてるよ』
『ふふ。いつもお世話になってます。七夏ちゃん』
顔を見合わせて、微笑む。いっそ羨ましくなるくらい仲睦まじい様子だ。
『ま、こんな感じ。ただ、パートナーがいない魔法少女に関してはそうもいかないんだ。たとえば、最近魔法少女になったばっかりの子とかね』
言うまでもなく、栞里と澪のことだ。
『今までは澪の家には監視をつけてた。けど、いつまでもそうしてるわけにもいかないしね。今は新しく栞里も魔法少女になってくれた。だから……』
その次の言葉は、栞里が予想していた通りのものだった。
『どうか二人には、しばらく一緒に暮らしてほしいんだ』
栞里がちらりと澪に目線を送ると、彼女も栞里の方を見つめていた。
二人でいることで安全性が高まるというのなら、断る理由はない。
栞里が頷くと、澪は迷いなく了承してくれた栞里にはにかんだような笑顔を向けて、こくりと首を縦に振った。
「栞里ちゃん? どうかした?」
回想ではない、本物の澪の声が耳元で聞こえて、栞里の意識が現実に引き戻される。
見れば、澪が少し心配そうに栞里の顔を覗いていた。
「ん。ちょっと、さっきのこと思い出してただけ」
「さっきの?」
「しばらく一緒に暮らしてほしい、って言われた時のこと」
「あー……栞里ちゃん。急にごめんね。泊めてもらうことになっちゃって」
「そんなことで謝らなくたっていい。澪の安全には代えられないから」
「ふふ。そっか」
頬を緩め、たまに指で前髪をくるくるといじったりして、なにやら嬉しそうな様子である。
「……でも、栞里ちゃん。やっぱりごめんね」
「やっぱり、って?」
「えへへ。なんていうか……友達の家に泊まるのって初めてだから、ちょっと楽しみだなぁ、って。わたし、そんな風にも思っちゃってるの。だからごめんね」
栞里は目をぱちぱちとさせた。
それから、かすかに笑みをこぼす。
「大丈夫。実は私も結構楽しみ」
そんなこんなで二人で歩き続けて、栞里の家までやってくる。
栞里の家は少し小さめの、古い一階建ての一軒家だ。
澪の自転車を庭に置かせて栞里が玄関の鍵を開けて中に入ると、澪も「お邪魔します」と律儀に礼をして後に続いた。
廊下を歩いていると、思い出したように栞里は澪の方へと振り返る。
「澪、アレルギーとか苦手な食べ物とかある? あと、好きな食べ物も」
「食べ物……夕飯、栞里ちゃんが作ってくれるの?」
「うん」
澪は少し考えてから、ふるふると首を横に振った。
「アレルギーとかはないから、栞里ちゃんが作りたいもので大丈夫。でも……強いて言うなら、お味噌汁が食べたいかな」
「お味噌汁?」
「うん。お味噌汁って、なんていうか、その人の家庭の味みたいなのが詰まってる気がするから」
「なるほど……わかった。卵焼きとお味噌汁と、あとは冷蔵庫次第で」
「あはは……卵焼きは最初から確定なんだね」
「やめた方がいい?」
「大丈夫だよ。お昼にも食べたけど、好きなのは本当だから。それにね……」
「それに?」
「あ……う、ううん。なんでもない」
澪は誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。
頭の上に疑問符を浮かべている栞里に、澪は心の中で謝罪する。
だって、「あの時くれた卵焼きが、お母さんが作った卵焼きと同じ味がしたから」だなんて。
そんなことを面と向かって口にするのは、なんだか照れくさかったのだ。
「栞里ちゃん。わたしにもなにか手伝えることないかな」
軽く家の中を案内してもらった後、居間に荷物を置いた澪は、冷蔵庫の中を見て思案に耽っていた栞里へ近づいていく。
「澪はお客さんだから、ゆっくりしててくれて大丈夫」
「お客さんじゃないよ。これからしばらくお世話になるのはわたしの方なんだから」
「む。でも」
「いわば今のわたしは居候……だと、ちょっと味気ないかな……」
良いこと思いついた、という風に澪は人差し指を立てた。
「えへへ。今のわたしは、栞里ちゃんの家族だよ」
「家族?」
「うん。ただの居候が図々しいかもしれないけど……わたしは栞里ちゃんの家族がいい」
だからね、と澪は栞里の手を取った。
「家族なら栞里ちゃん一人に任せるのは違うと思うの。わたしも自分にできることをしたい」
「そっか……わかった。澪は本当にいい子だね」
「そう、かな? でも、子って……わたしは栞里ちゃんと同い年だよ」
確かに、体型はちょっと子どもっぽいかもしれないけど。
そんな風に、むーっ、と不満げに頬を膨らませた澪の頭に、すっと栞里の手が伸びた。
そして当然のように撫でる。
澪はこれを今までも何度かやられている。だからきっとこれは栞里なりの好感の示し方なのだろうと、なんとなくはわかっている。
けれど今だけは、なんだか年が離れた子どもとして見られているみたいで、ちょっと納得がいかなかった。
だから澪は必死に背伸びをして、自分より背の高い栞里の頭に目がけて手を伸ばした。
「んー……! んーっ……!」
「……なにしてるの?」
「わ、わたしも栞里ちゃんと同じことを……! よ、よしよし、よしよしー……!」
(……七夏にも同じことされたっけ。でも……)
七夏の時は事前にしゃがむように言われたので背が低い七夏でも普通に届いていたが、今の栞里は普通に立っているので、七夏よりもさらに小さい澪では、精一杯に手を伸ばしても全然届いていないようだった。
必然的にすぐそばで澪が背伸びしている姿を目にすることになって、あんまりに必死で頑張っているものだから、なんだか応援したいような気持ちになってくる。
「……う、うぅ……そ、そんな微笑ましいものを見るみたいな目で見ないでー!」
栞里の視線に気づいた澪は、顔をゆでダコみたいに真っ赤にして叫ぶと、膝を抱えてうずくまった。
澪を励ますため、また頭を撫でようとした栞里だったが、今の澪には逆効果だろうと直前で思い直し、手を引っ込める。
ならばどうすればいいのだろうと悩んで、思い浮かんだのは母の教えだ。
言葉を大切にすること。栞里のために頑張ろうとしてくれた彼女に言うべき言葉はすぐに見つかった。
「澪。ありがとうね」
「……うん」
しぼんだように小さな返事だったが、栞里はそれで満足した。
澪から視線を外し、作るものも決まったので、冷蔵庫の中に手を伸ばす。
(……ずるいなぁ、もう)
未だ熱が残る頬を撫でながら、澪は心の中で嘆息した。
栞里本人は気づいていないだろうけれど、ありがとうとお礼を言った時、彼女はかすかに笑っていた。
心のまま、精一杯の感謝と愛情を伝えるように。
そんなものを見せられたら、文句を言う気も失せてしまうというものだった。
「澪。これ」
いつまでもうずくまっているわけにもいかない。
澪が立ち上がると、栞里からエプロンを手渡される。
「制服に汚れがつくといけないから。それとも、制服から着替えてくる?」
「ううん。このままで大丈夫だよ。ありがとう、栞里ちゃん」
桃色のラインが可愛らしい、手作りと思しきエプロンだ。
一方で栞里が身につけているのも、藍色のラインが入った、同じく手作りであろうエプロンである。
(……どっちも使い古した感じ……?)
片方が使えなくなったから、もう片方を使ったという風ではない。
どちらも同じように使われていると感じた。
(栞里ちゃん、私がしばらく泊まるってことになった時も誰にも連絡してなかったし、てっきり一人暮らしなのかなって思ってたけど……違うのかな)
もしも他に誰か家族と暮らしているのなら、しばらくお世話になりますと挨拶をしなくてはいけない。
栞里がなにも言わないということは、きっと澪が泊まることに反対するような人ではないのだろうけれど……。
「澪。これの皮剥いてもらってもいい?」
「あ、うん」
台所には包丁なども置いてあるし、あんまり上の空でいると怪我をしてしまいかねない。
一旦考え事は保留として、澪はひとまず栞里の手伝いに集中することにした。
栞里はずいぶんと作り慣れているようで、効率よく調理を進めていく。
澪もたまに母の手伝いをしたり、母の帰りが遅い時は代わりに簡単なものを自分で作ることはあるけれど、栞里の慣れた手際は母のそれと同じだった。
いつもこうして一人で作っているのだろうか。作業に迷いがない。
(栞里ちゃん、授業も中学までの範囲なら全部覚えてるって言ってたし。勉強ができて、料理もできて、スタイルもよくて……たぶんだけど運動もできるよね? うーん……わたしとは比べ物にならないハイスペックだ……)
ちょっと変なとこもあるけど、と最後に付け足さざるを得ない部分も多々あるが。
「むー……栞里ちゃんって……なにか苦手なこととかあるの?」
「苦手なこと?」
「栞里ちゃん、わたしの中だとどんなことでもそつなくこなせる人って感じの印象だから。苦手なことってあるのかなーって」
「苦手なこと……んー……」
栞里は首を縦にも横にも振らず、曖昧なまま答える。
「苦手だなって思ったことは、苦手じゃなくなるまで続けるだけだから」
「わっ。努力できる人の言葉だなぁ……」
「でもそういう意味で言えば、魔法少女としての活動はまだ、苦手の部類に入るんだと思う」
いつもとは少し低いトーンで、苦い思い出でも思い返すように、栞里は言った。
今、栞里がなにを思っているのか、気にしているのか。
澪だからこそ、その内容には察しがつく。
「栞里ちゃんが言ってるのって、もしかして、今日の魔法少女活動のこと?」
「うん」
「やっぱり……なんていうか、すごかったね。先輩たち」
栞里はこくりと頷いて同意する。
澪もまた、今日の魔法少女としての初活動を頭の中で振り返ってみた。
「えへへ……わたし、ほとんどなにもできなかったや。ただ沙代先輩の後ろをついて行ってただけで……ヘイトリッドを見つけた時だって、子犬くらいのちっちゃい相手だったのに、庇われてばっかりだった」
「澪も?」
「うん。やっぱり栞里ちゃんも?」
「うん」
知らないことだらけ、初めて体験することだらけだったからしかたがなかったものの、栞里は結局のところ、七夏におんぶに抱っこだった。
ヘイトリッドを見つけるまでの道程はもちろんだが、遭遇した時だってそうだ。
きっと栞里はあの時、戦わせて《《もらっていた》》。
七夏は初め、自分の顔に目がけてヘイトリッドが飛びかかってきた時、攻撃を躱すとともに、ヘイトリッドに蹴りを入れていた。
だけどもしもあの時、蹴りではなく手に持った剣を振るっていれば、それだけで戦闘が終わっていただろう。
もちろん、飛びかかってきたのは突然のことだったし、蹴りを入れるのと剣を振るうのとでは体勢がまったく違うから、蹴ることと同じようにはできなかったかもしれない。
だけど栞里には、七夏にはそれだけのことができた、と。そんな確信があった。
七夏はあの時、蹴ると同時に自身の魔力をヘイトリッドに紛れ込ませて、いつでも《調和》を発動できる状況を作った。
不測の事態が起きようと即座に対処できるように仕組んだ上で、栞里の方へ蹴り飛ばし、わざとヘイトリッドと相対させたのである。栞里に経験を積ませるために。
実際は栞里などいなくとも、あれくらいのヘイトリッド、七夏一人でも簡単に退治できたはずだ。
「七夏は、私のことをパートナーだって言ってくれた。でもだからこそ……より一層情けなかった」
「少しでも先輩たちの役に立ちたかったね」
「……きっとパートナーっていうのは、お互いに助け合う存在だと思うから。もっと強くなりたい。いつか、七夏のパートナーを名乗っても恥ずかしくなくなるくらいに」
初めは魔法少女なんて存在、信じてもいなかった。
だけど今、湧き上がるその気持ちに、嘘偽りなど欠片もなかった。
「助け合う存在、かぁ……」
栞里の言葉を反芻した澪は、ふと、栞里の横顔をじっと眺め始めた。
それから一人でうんうんと頷いたり、わずかに笑ったり。
どうしたの? と栞里が首を傾げて問いかけてみると、澪は自らの両の手のひらをそっと合わせて、かすかに上ずった楽しげな口調で言った。
「ねぇ、栞里ちゃん。後で勉強会してみない?」
「勉強会?」
「うん。魔法少女の勉強会。レンダちゃんや先輩たちに教わったこととかを振り返ってみたりとかしたいなーって」
「ん、なるほど」
「それにね。わたし、栞里ちゃんよりちょっとだけ早く魔法少女になってるから、栞里ちゃんが知らないことをちょっとは知ってると思うの。それも教えてあげられたらな、って」
「いいの?」
「うん。パートナーはお互いに助け合う存在、なんだよね? レンダちゃんが言ってなかった? いずれはわたしと栞里ちゃんでパートナーを組んでもらうって」
「あ……そういえば言ってた」
「でしょ? だからわたしね……」
照れくさそうに、それでいて嬉しそうに、彼女は言った。
「パートナーとして、栞里ちゃんの助けになりたいの」
蕾が花開くかのような、いじらしく、可愛らしい微笑みだった。
打算など欠片もない、純粋な好意のみが織りなすその鮮やかな笑顔に、栞里はつかの間、目を奪われる。
栞里は自分があまり笑わない方だと自覚しているし、人付き合いも苦手な方だ。
こんな風に誰かから笑いかけられたのは、果たしていつぶりだっただろうか。
……いや。
もしかしたら、いつぶりというよりも。
……初めて、だったかもしれない。
「……栞里ちゃん?」
返事が来ないことを不思議に思ったのか、こてんと小首を傾げて、澪は栞里の顔を覗き込んだ。
それは本当になんてことのない、何気ない仕草だったが、ぼーっとしてしまっていた栞里は、ビクッと肩を跳ねさせてしまう。
そのせいで、ちょうど手に持っていた包丁を握る力が緩んで、その刃が指に落ちた。
「いっ――!」
「あっ! だ、大丈夫栞里ちゃんっ!?」
だいぶ深く切ってしまったようだ。
血が次々溢れ出てきて、まるで止まる気配がない。
「ばっ、絆創膏っ、絆創膏ー……じゃなくて、まずは消毒……? きゅ、救急箱は……!」
「澪、大丈夫……そんなに慌てなくても」
「で、でもこれ、たぶん骨まで……」
「大丈夫」
それは強がりでもなんでもなく、きちんとした根拠に基づいた返答だった。
栞里は、自分の中の魔力の存在を意識した。
魔法少女だけが使えるという、特異魔法を自分自身に行使する。
「全然大丈夫、じゃ……え……あれ? 怪我……なくなって……?」
瞬きする間に、栞里の傷は初めからなかったかのように塞がっていた。
突然の現象に理解が追いつかないように、澪は口を半開きにしている。
もしかして逆の手だった? と、澪が栞里のもう片方の手も確認したが、当然ながらそちらにも傷はない。
「だから言ったはず。大丈夫、って」
「……あっ。もしかして今の、栞里ちゃんの……?」
「そう。私の特異魔法」
「そっか……《回復》……それが栞里ちゃんの魔法……」
かつて七夏が天秤ばかりを使って《調和》を見せてくれたように、特異魔法は変身せずとも使うことができる。
無論、その出力や精度は変身している時と比べればだいぶ劣るが、包丁で誤って切ってしまった程度の切り傷であれば問題なく治すことが可能だった。
「生き物だけじゃなくて、壊れた物とかも元に戻せる。だから今補助具に入ってる修復の魔法とかはいらないかなって思ってる。近いうちに新しい魔法に変えてもらうつもり」
「確かに聞く限りだと、栞里ちゃんには必要ないかもね」
澪はほっと大きな息をつく。
「でも……うぅ、よかったぁ……大事に至らなくて」
「心配させてごめんね」
「ううん。包丁持ってるのに話しかけたわたしも悪かったから」
これからはちゃんと黙ってるよ! と、お口にチャックをする仕草を取る澪。
栞里はそんな澪の頭を撫でてやりたかったが、調理中の水洗い等で若干手が湿っていたため、しぶしぶ控えた。
どことなくしょんぼりとした栞里の様子に澪は首を傾げたが、ちゃんと黙っているという宣言通り問いただすことはせず、栞里の調理のサポートに回ったのだった。
「ごちそうさまー……ふぅー、おいしかったぁ。栞里ちゃん、料理本当に上手なんだね」
夕食を食べ終えた二人は、ゆったりと談笑していた。
澪の褒める言葉に栞里は満更でもなさそうに胸を張る。
「それにしても、澪は偉い。好き嫌いせずに全部食べた」
「偉いって……わたしもう高校生だよ? 仮に嫌いなものが入ってたって残すような真似はしないよ」
「でも、お母さんはピーマンが献立にある日はいっつもピーマン最後まで残してた」
「えぇ……あ。アレルギーとか?」
「特にそういうのはない」
「……まあでも、一つくらいはどうしても食べられないってものがあってもしかたはない、かも……? 人間ってそういうものだと思うし」
澪は自分よりはるか年上だろう人が恥ずかしげもなく好き嫌いしている事実に臆するも、栞里の母親ということで、なんとかフォローを試みる。まごうことなき良い子である。
しかし栞里は、はたと間違いに気づいたように首を横に振った。
「ちょっと誤解を招く言い方だった。残してるのは最後までだけで、一応、他のものが全部食べ終わった後には食べるの」
「あ、そうなんだ。すっごく苦手なんだろうに、偉いねぇ」
「うん。偉い。いつも最後に、『栞里……好き嫌いすると体の健康も心の健康も保てないから、どんなものもきちんと食べるのよ……』って言いながら、顔面蒼白で全身痙攣させながら涙目で食べてた」
「本当に偉いね……」
きっとこれ以上ないほどに苦手なんだろうに、娘の前だからと必死に頑張っていたのだろう……。
「あ、そうだ」
ここで澪は、なにかを思い出したようにスマホを取り出した。
「ね、栞里ちゃん。連絡先交換しよう? 七夏先輩たちとは明日しかできないけど、栞里ちゃんなら今近くにいるからすぐできるし」
「ん。それは別に構わない、けど」
「けど?」
「……スマホ、しばらく使ってないからどこにあるかわからない」
「つ、使ってない?」
「充電もたぶん切れてる」
「えぇ……」
ちょっと現代人にあるまじき発言だったが、澪が話を聞いた限り、自室のどこかに置いてあるのは確かなようだった。
すると、栞里が言う。
「澪。お風呂入れてあるから、先に入ってて。その間に探してる」
「え。わたしが先に入っていいの?」
「……? 一緒に入りたいの?」
「んえっ!? い、いやっ、そういうことじゃなくてね?」
なんてことないようにそんなことを言い出した栞里に、澪はあたふたとする。
なぜ先に入らせるか一緒に入るかの二択なのか。後に入らせるという選択肢はなかったのだろうか。
それに銭湯ならまだしも、普通の家の浴室だ。
高校生にもなってそれに友達と一緒に入るというのは、さすがにちょっと恥ずかしいものがある。
「えっと、一応わたし居候って立場だから、一番風呂なんて頂いちゃっていいのかなって」
「居候より家族がいいって言ったのは澪」
「それは……」
「とにかく、気にしなくていい。これからどれだけこうして一緒に過ごすことになるのかわからないし、気を遣ってばかりじゃ、きっと疲れる」
「……うん、そうだね。ありがとう、栞里ちゃん」
「ん」
満足そうに頷いた栞里は、テーブルの上に残った食器を手早く片付けると、足早に居間を出て行った。
残された澪は栞里に言われた通り、持ってきた荷物から着替えを取り出して、浴室へと向かった。
手前の脱衣所で服を脱ぎ、浴室で髪と体を洗って、浴槽に浸かる。
「ふわぁ……」
体の芯を温められていく心地よさに、つい息をこぼす。
浴室の外、少し遠くの方からは時折物音が聞こえて、ちょうど栞里が自室で探し物をしているだろう状況が容易に想像できた。
「栞里ちゃんのお母さん、かぁ」
さきほど食卓で行ったやり取りを思い返して、目を閉じる。
きっと、栞里ちゃんと同じように、美人さんで素敵な人なんだろうなぁ。
……でもやっぱり栞里ちゃんと同じように、ちょっと変わった人でもありそう。
澪は一人、栞里が語ってくれた内容から彼女の母親の人物像について想像を繰り広げた。
そんな折、ふと頭をよぎったのは、澪自身の家族のことだった。
母親と父親。歳の離れた一人の妹。澪は四人家族だった。
「…………」
湯船に浸かっているはずなのに、急にその温もりが嘘のように消えていく。
代わりに覚えるのは、心臓が冷たく鋭い金属の糸で強く締めつけられるかのような感覚。
温もりに溢れた記憶のはずだった。家族と過ごした日々は、その思い出はすべて、澪にとってかけがえのないものだ。
なのに家族のことを思い出した時、澪の心を満たすものは愛おしさなんかでは全然なかった。
その胸を襲うものは、痛みと苦しみと、悲しみ。
絶望。焦り。
そしてそのすべてを糧としてどうしようもなく膨らんでしまう、心の奥底に深く根付いた、強い一つの感情――。
「っ……!」
自身の内から思わず溢れ、暴れ出しそうになる心を抑えるように、ぎゅぅっと胸の前で手を握った。
それから家族の代わりに、栞里やレンダ、七夏や沙代と過ごしたこの二日間の出来事を思い返す。
今確かにここにある、温かな日常。それを意識することで、自分の内側で暴れ狂う感情から必死に目を背けた。
そのまま何度も深呼吸を繰り返すと、少しずつ心が落ちついてくる。
そしてその頃には、浴室の外で物音がほとんどしなくなっていることに澪は気づいた。
(……栞里ちゃん、ケータイ見つかったのかな? そろそろ出た方がいいかも)
胸の奥が、まだズキズキと痛む。気を抜いたら、また思い出してしまいそうだ。
だから澪は頭の中を栞里への考えと思いで埋め尽くして、早めに浴槽から出た。
澪がパジャマに着替えて浴室から出てくると、栞里は自室ではなく、台所で洗い物をしていた。
「わたしも手伝おっか?」
栞里はふるふると首を横に振った。
「こっちはもうすぐ終わるから大丈夫。手伝ってくれるなら、できればテーブルの方を拭いてほしい」
「はーい。任せてー」
二人で夕食後の後片付けを済ませると、澪は早速自分のスマホを持って栞里に歩み寄った。
「栞里ちゃん、スマホは見つかった?」
「うん。あれ」
と、栞里が指し示したのは、コンセントに接続して絶賛充電中のスマホだ。
「これって……結構古い機種?」
「たぶん? あんまり使わないし、詳しくもないからわからない」
「まあ、充電切れのまま部屋のどこかに放置してるくらいだもんね……」
「一応、ちょっとは充電したから、もう電源はつくはず……あ、ついた」
そんなこんなで起動の処理が終わると、二人は早速連絡先を交換しようとするのだが、栞里はなにやら操作に手こずっているようだった。
初めは久しぶりに自分のスマホを触っているからと解釈していた澪だったが、こっそり画面を覗き込んでみると、明らかにそれじゃないというアプリまで起動したりしていて、これではいつ連絡先を交換できるようになるかわからない、と言った状態であった。
「あの、栞里ちゃん? もしよかったら、わたしが栞里ちゃんのぶんも操作するけど……」
「……お願い」
「あはは。うん、任せて」
栞里のスマホを触るのは初めてだが、どんな機種であろうと同じ携帯電話という道具である以上、根本的な部分は変わらない。連絡先の表示くらいはスムーズにこなせる。
まずはお互いの電話番号をお互いに登録して、それから少し考えて、
「栞里ちゃん。栞里ちゃんのスマホに新しくアプリ一つ入れていいかな?」
「あぷり……いいけど、どんなの?」
「LEINって言う無料の通話アプリ。通話だけじゃなくて、個人同士や、好きな人たちとグループを作ってチャットなんかもできるんだよ」
「……それ、本当に無料?」
「うん」
「……澪。騙されちゃいけない。そんなおいしい話があるわけがないの。昔から、タダより安いものはないってよく言う。それはきっと巧妙で悪質な罠」
至って真剣かつ神妙に、栞里は言い切った。
若干気圧されつつも、澪は苦笑いで告げる。
「だ、大丈夫だよ。本当に無料だから。これ、今時の子なら皆入れてるアプリだもん。安全性は証明されてるよ」
「澪も?」
「うん。わたしも入れてる」
「……じゃあ、信じる」
「あはは……」
あいかわらずの栞里の様子に苦笑しつつ、とりあえず許可は得られたので、澪は自分と同じアプリを栞里のスマホにもインストールする。
栞里は苦手なことは苦手じゃなくなるまでやり続ければ、なんて言っていたが、ちゃんと苦手なことはあったようだ。
少なくとも、現代機械の扱いは苦手そうだ。
(今日はいろんな栞里ちゃんが知れるなぁ)
思わず笑みをこぼしてしまいつつ、澪は栞里にスマホを返した。
「えっとね、今インストールしたのはこれ。アプリの方にもわたしの連絡先も登録しておいたから……試しにチャット送ってみるね」
「うん」
澪が適当に文字を打って送信を押せば、栞里のスマホからピコンッと通知音が鳴った。
「おお……」
さながら初めてスマホを手にしたかのような反応だ。
目を輝かせ、画面に目が釘付けになっている。
澪と同じように栞里も文字を入力して、送信を押した。
「『明日のお弁当の献立なにがいい?』って……ふふ。今は近くにいるんだから、直接聞けばいいのに」
「じゃあ明日のお弁当の献立なにがいい?」
「んー、そうだねぇ」
考えるふりをしながら澪も同じくチャットを入力し、送信と同時に栞里に笑いかける。
「『卵焼き』、かな」
「澪は本当に卵焼きが好き」
「ふふ、ちょっと違うかな。栞里ちゃんの卵焼きがそれだけおいしいんだよ」
「そうかな」
「そうなんだよ」
見つめ合い、くすくすと笑い合う。
どうやら栞里はチャットが気に入ったようだ。
なんてことないこともチャットで話そうとする栞里に微笑ましい気持ちを覚えつつ、澪がさらにスタンプの使い方を教えると、栞里は早速それを使ってくる。
明るく、可愛らしいペンギンのスタンプだった。お辞儀をするペンギンの頭上に、尖ったフォントで『ありがトリ!』なんて文字が浮かんでいる。
「どういたしまして。でも栞里ちゃん、そろそろお風呂に入った方がいいと思うよ? あんまり遅いとお湯が冷めちゃう」
「あ。そうだった」
はっとした栞里が、少し慌てた様子で着替えを持って浴室へ向かう。
それを見送って、ぽつんと居間に一人ぼっちになると、なんだか少し寂しいような気分になる。
だからだろう。浴室の方からシャワーの音が聞こえ始めると、不意に栞里が言った一言が頭をよぎった。
――一緒に入りたいの?
(すごく当たり前みたいに聞かれたなぁ……)
もしあそこで頷いていたなら、本当に一緒にお風呂に入っていたのだろうか。
それはなんというか、やっぱり少し、いや結構……かなり相当、恥ずかしいことのような気がするけれど。
きっと楽しかっただろうなぁ、なんて。
そんなあり得たかもしれない一つの光景を想像してみると、お誘いをつい断ってしまったことが、なんだかちょっともったいないことのように思えた。
時が経つのも早いもので、夕食を作っていた頃は夕焼けに染まっていた空はすでに暗く、星々が煌めいている。
栞里と澪の二人は現在、栞里の自室にて絨毯の上に向かい合って座っていた。
「次は変身の魔法についておさらいするね」
二人の間に置かれたノートを指差しながら、澪が真面目な顔で言う。
澪が指差す先に描かれているのは、変哲もない棒人間と、そこから伸びる矢印。矢印の先には、打って変わってなんかすごそうなオーラを纏った棒人間が仁王立ちしている。
題は変身だ。魔法少女にとってもっとも馴染み深く、重要な魔法である。
夕食作りの最中に約束した通り、二人は入浴を済ませた後、魔法少女の勉強会をしていた。
今までレンダや先輩たちから聞いたこと。自分が実際に体験したこと。そして栞里は知らず、澪は知っていることを交えて復習している。
その時間はすでにかれこれ一時間近くにも及んでいた。
「まず、わたしたちみたいな魔法少女が特異魔法以外の魔法……つまり、この魔力結晶の中に保存してある魔法を使うためには、先に変身をしなきゃいけないの」
澪がピンクのパジャマの袖をめくると、可憐な桜色の宝石が埋め込まれた腕輪があらわになる。
「変身も魔法の一つだから、厳密には、特異魔法と変身以外の魔法を使うには……かな? 魔力結晶がないと変身できないし、身一つで使えるのは本当に特異魔法しかないんだけどね」
オーラを纏う棒人間の頭上に、澪は小さな宝石の絵を書き加える。
魔力結晶は、魔導協会が誇る魔法技術が生み出したものの中でも特に代表的なものだ。
魔力結晶はそれ自体がさまざまな機能を持つが、その本質は増幅器である。
精霊やヘイトリッドが持つ、他者の心に触れる能力。それを擬似的に再現、応用し、人の心と魔力結晶とを接続することで、本来その人物が持つ潜在能力を刺激し増幅させ表側へと引っ張り出す。
変身時の衣装の変化もまた、それらの一環だ。
その人物が心の奥底に抱く憧れを外部にも反映することで、その心と魔力結晶との繋がりをより強固にする役割がある。
「変身すると魔力の出力が上がって簡単に魔法を使えるようになるけど、それだけじゃないの。反射神経とか空間認識とか、そういう感覚的な能力もすっごく鋭くなるんだよ。頭の中の靄が晴れるみたいに」
七夏とともにヘイトリッドと相対した時の一幕を、栞里は思い出す。
七夏は最初にヘイトリッドに襲いかかられた時、危なげなく上半身をそらして回避したばかりか、流れるようにオーバーヘッドキックまで決めた。
あれが運動神経抜群な世界的なアスリートとかならばともかく、ただの一女子高生が当たり前のごとくやってのけるなど異常である。
「もちろんデメリットもあるけど……こんな感じで……」
なんかすごそうなオーラを纏う棒人間からさらに矢印が伸びて、今度はへなへなと情けなく倒れ伏す棒人間が描かれた。
「普段は眠ってる、もしかしたら死ぬまで目覚めないままの力を無理に起こしちゃうから、それだけで心と体の負荷がすごいの。一度変身して解除するだけでも、全力疾走した後みたいにどっと疲れちゃう……」
「ん……あれはなかなかきつかった」
それもまた今日体験したことの一つである。
ヘイトリッド退治を終え、変身を解いた時の疲労は如何ともしがたい。
あまりにもひどかったものだから、思わず意識を手放して眠ってしまったほどだ。
……そしてそのせいでその後、七夏に寝顔を見られてしまったのだが。
余計なことまで思い出してしまったせいで、栞里は頬が徐々に赤らんでいく。
「えっと、栞里ちゃん? どうかしたの?」
「な、なんでもない。私は至っていつも通り完璧に平静。絶対に間違いない」
「そう……? でも、なにか心配なこととか不安なこととか、頼りたいことがあったらなんでも言ってね。必ず力になるから。なんたってわたしは栞里ちゃんのパートナーだもん」
むんっ、と小さな胸を張る澪はなんとも頼もしく、そして可愛らしい。
「えへへ。んーと、それで次は……精霊についてだね」
ページをめくると、机に突っ伏してぐーたらしているレッサーパンダが現れる。
かなりデフォルメされており、なんとも可愛らしく気持ちよさそうに眠っていた。
言わずもがな、レンダである。わかりやすく視覚的に精霊の例を挙げるにあたって、一番身近なレンダが抜擢されたのだった。
「精霊は動物と人間、二つの姿を持つの。レンダちゃんの場合はレッサーパンダだけど、他の精霊はそれぞれ違う姿になるみたい。犬とか、猫とか? そこにいても不自然じゃない、人間にとって馴染み深い姿を選んで魔法で作ってるみたいだよ」
「不自然じゃない……?」
レッサーパンダは不自然じゃないのだろうか?
というか、不自然だったから栞里は初対面の時にレンダを鞄で張り倒し交番に送り届けたのだが……。
栞里が考えていることには検討がついているようで、澪は苦笑した。
「精霊は人とおんなじ姿になれるけど、本質的には人とは違うみたいだから。たぶん、小動物ならなんでも同じように見えるんじゃないかなぁ」
澪はレッサーパンダの絵の下に『かわいい』と書き加える。
「自分で選んで自分で作った姿だから、なにか愛着があるのかも? そういう感情なら、わたしたちでも少しはわかるでしょ?」
「ん……そうかも?」
栞里は自分のベッドの枕の横にある、ぬいぐるみを横目で見た。
クマなのかネズミなのかタヌキなのか、はたまたウサギなのか、なにがなんだかよくわからない拙い姿をしている。
あれは昔、栞里が自分で作ったものだった。
ずいぶんと古ぼけてしまっていて、色も変色している。
でも、たとえ拙くても、不自然でも、自分の手で作ったものなら、そこには確かになんらかの価値がある。
そんなことを栞里が考えている横で、澪はノートに、レッサーパンダから伸びる矢印を書いていく。
今度は変化できる姿についての記述のようだった。『動物』『人間』と書き連ねて、そこで終わるかと思いきや、澪はさらに三行目にペンの先を置いた。
だけどそこに書かれたものは、『?』のマークだ。
「これは?」
「えっとね……動物と人間。基本はこの二つの姿を使ってるみたいだけど、一応、そういうのとは別に本来の姿っていうのもあるらしくて」
「本来の姿?」
「うん。でも、それはあんまり見せたくないんだって。詳しいことはわたしも知らないけど……」
「ふーむ……あ。化粧してない顔を見られるのは恥ずかしいとか、そんな感じ?」
「ふふっ。そんな女の子みたいなこと……あれ? でも精霊とは言えレンダちゃんも女の子だし……ありえなくない、かも……? むむ……?」
そうなると人間と動物の姿を使い分ける形態変化の魔法を化粧目的で使っていることになってしまうのだが、いかがしたものだろう。
「ま、まあその話はまた今度にして、話を戻そっか」
澪が咳払いをすると、栞里もこくんと頷く。
「さっきは変身の魔法と魔力結晶について話をしたよね? 元をたどれば、それも精霊たちが魔導協会と協力して作ったものなんだよ。資格がある人間を魔法少女にできるのも精霊だけ……いわば精霊は魔法の祖と言ってもいい存在なの」
ぐーたらしているレッサーパンダの上に、今度は「実はすごい!」と集中線を伴って書き加えられる。
「魔法少女が魔力結晶を介さないと使えないいろんな魔法を、精霊は身一つで行使することができる。その力のほども、精霊と魔法少女とでは雲泥の差があるらしいの。魔法少女の魔法なんて、精霊にとってはおもちゃも同然とかなんとか……」
「精霊って、そんなにすごいの?」
「うん。初めてレンダちゃんと会った時に教えてくれたんだ。変身で出力を上げなきゃ使えないような魔力結晶の魔法じゃ、まず精霊の魔法には敵わないって」
「……」
魔力結晶の中には魔法を円滑に扱うための武具、魔法補助具が保管されている。
栞里の補助具は双銃型だ。一時的に質量を付加した魔力を放つ、魔弾という魔法を放つことにもっとも適しているとされる。
この魔弾の魔法には、コンクリートでできた校舎の壁に容易く穴を開けてしまうほどの威力がある。
だが、これもしょせんは魔力結晶の魔法であることに変わりはない。
つまるところ精霊が行使する魔法の前では、コンクリートの壁を穿つ程度の力ならば取るに取らないということなのだろう。
「レンダちゃんいわく、魔法少女に唯一精霊に抗える力があるとすれば、それは……」
「特異魔法……?」
「あ、先言われちゃった。えへへ……そう、わたしたち魔法少女だけが使える特別な魔法、特異魔法。これだけは唯一、精霊が使う魔法を上回る力を発揮できるって聞いたよ」
今のところ栞里が仔細を知る特異魔法は、二つだ。
自身の魔力が干渉した二つのものの力を同じにする、七夏の《調和》。
生命や非生命を問わず傷を修復し元に戻す、栞里の《回復》。
正直栞里にはそれらがそんなにすごい魔法には思えないのだが……魔法について他のどんな存在よりも熟知しているからだろうか?
魔法少女だけが使えるというその魔法は、精霊の目にはよほど異質に映るらしい。
「……そういえば澪の特異魔法、って――」
問いかけようとする最中、抗い切れない欲求に苛まれて、栞里は大きくあくびをした。
ただでさえ今日は初めてのヘイトリッド退治を体験した後だ。変身し、慣れない魔法を何度も使った心の疲れも未だ抜け切っていない。
自分の体調を自覚するとどんどん眠気が襲ってくるものだから、栞里は堪えるように目元をこする。
「ふふっ。今日はもうお開きにしよっか。思ってたより長引いちゃったし……栞里ちゃん疲れてるみたいだから」
「私はまだ……だいじょう、ぶ」
「む」
眠気を我慢するような栞里に、澪は見せつけるように指でバツマークを作った。
「めっ! だよ。夜更かしはお肌にも健康にもよくないの。栞里ちゃん、せっかく肌が綺麗なんだから大事にしないと」
「む、むぅ……お母さんみたいなことを……」
「えへへ。もしかして、よく言われてた?」
「そんなこと……………………ない」
「沈黙がすごい長かったけど……」
とにかく夜更かしはダメ! と強く主張する澪の根気に負けて、栞里はしぶしぶ了承した。
本当はやっぱり、もうちょっとだけ勉強会を続けていたい気持ちがあったけれど、
「よろしい」
なんて、まるで母親の真似をする子どものように澪に楽しげに笑われては、文句を言うこともできなかった。
そんなこんなで勉強会の片付けを終えると、栞里はベッドへ、澪はそのすぐ横に敷いた布団の中にいそいそと身を委ねる。
当初、澪が居候する期間がまだ明確でないことから、栞里は澪に個別の部屋を貸し与えようと思っていた。
いや、実際に近いうちにそうする予定ではある。ただ、今日はひとまず同じ部屋で寝泊まりするという話でまとまっていた。
というのも、澪に使ってもらおうと思っていた空き部屋がしばらく見ない間にずいぶんと埃が溜まっていて、衛生上あまりよくなかったからである。
栞里は謝ったが、その時の澪は、ほんの少しだけ嬉しそう、にも見えた気がする。
平日はあまり時間がないことも多いことから、明後日の休日にでも掃除をしようということとなり、それまでは一緒の部屋で寝泊まりすることが決まったのだった。
「……ね、栞里ちゃん」
照明を消した、静かで薄暗い部屋の中。
まだ起きているか確認するように澪が小さく呟いた。
すでに眠気でうつらうつらとし始めていたが、なんとか意識を保って栞里は相槌を打つ。
「栞里ちゃん、さっきそこのぬいぐるみ見てたよね? ……そのぬいぐるみって、もしかして――」
あんまりにも眠すぎて、寝起きでもないのに寝ぼけていたのか。
ぬいぐるみのことを聞かれて、栞里は半ば無意識のうちに、枕の横のそれを澪に差し出していた。
「そうだった……はい、おかーさん」
「栞里ちゃんがつく、え、えっ?」
話の途中で突然当たり前のようにベッドの上からぬいぐるみを手渡されて、澪は目を白黒とさせた。
「だって、おかーさんはこれがないとねむれな……あ」
もう半分以上瞼を閉じて、呂律もつたなくなっていた栞里が、はっとしたように声を上げた後、すっかり沈黙する。
澪からは角度的に栞里の顔は見えなかったけれど、なんとなく、顔を赤くしてどこか恥ずかしがってるような、そんな雰囲気だけは伝わってきた。
そんな栞里の様子に澪はちょっと頬を緩ませながら、改めて聞いてみる。
「これ、栞里ちゃんが作ったんだよね?」
「…………うん」
羞恥の奥から、絞り出すような声だった。
なんかちょっと可愛い、なんて思う澪。
「その、ごめん……寝起きでもないのに、ちょっと寝ぼけてた……」
「ふふ。眠いんだからしかたないよ。わたしこそごめんね。もうちょっとで寝れそうって時に話しかけて」
「澪は悪くない」
暗闇の中、カーテンの隙間から差し込むわずかな月明かりを頼りに、澪は目を細めてぬいぐるみの輪郭を捉える。
「んー……クマさん、かな? ふふっ。可愛いねー」
「……コアラ」
「え?」
「それ、コアラ」
「あ、はい」
なんとも言えない無言の圧力を感じ、反射的に敬語になる。
「……それは昔、お母さんにプレゼントしたものなの。お母さんは、よくそれを抱いて眠ってた。まだ裁縫が苦手だった頃に作ったものだから、継ぎ接ぎだらけで、出来も全然よくないのに……クマに見間違えられるくらいなのに」
「そ、そのー」
「気にしてない」
「あ、はい……」
どう見ても気にしていたが、本人がそう主張するなら尊重しなければならないだろう……。
「……もうこれがないと眠れないって、いつも大事そうにしてくれてた」
「そうなんだ……」
「四六時中家の中で抱えてて……肩にかける紐まで取りつけて……しまいには仕事にまで持っていって、一時的に没収されて泣いてた」
「た、大変だったんだね……」
(……でも……なんだか……)
栞里の口から聞く、彼女の母のエピソードは、どれもまるで思い出話を語るみたいで。
それを語る栞里もなんだか、とても大事な宝物を扱うかのように、楽しげで。
でもどこか……少し寂しそうにも見えた。
そんな栞里を眺めていると、ずっとずっと聞きたかった、でも踏み込めずにいたその質問を、澪は自然と口にしていた。
「ねぇ、栞里ちゃん。栞里ちゃんのお母さんは、今、どこにいるの?」
本当のことを言えば……その答えを、澪はもう半ば予想できてしまっていた。
澪がしばらく居候することになっても、誰にも連絡していなかったこと。
実際に家に来てみても、栞里以外の誰もおらず、帰ってくる気配もない。
二つあった、使い古したエプロン。
母のことを語る彼女の、ずっと遠い別の景色を眺めるような眼。
澪の質問に栞里は、ほんの少し間をおいて、ぽつりと答えを告げた。
「もう、いない。どこにも」
「……」
「私が中学三年生の時の……この前の冬に、病気で亡くなったから」
「……そっか……」
「……」
「……」
二人の間に、沈黙が落ちる。
気まずいような、そうでもないような。
澪は、今手元にある、栞里の母がいつも抱いていたという栞里の手作りのぬいぐるみを見下ろしてみた。
それから栞里の母がやっていたと言うように、ぎゅっと抱いてみる。
なんとなく、どこか安心するような、不思議な感覚だった。
(……この感覚を、栞里ちゃんのお母さんも覚えてたのかな……)
だとしたら。
「……栞里ちゃんのお母さんは、きっと」
ぬいぐるみを撫でながら、澪は微笑む。
「栞里ちゃんと一緒にいられて、幸せだったんだね」
「っ――――」
残念ながら、返事はなかった。
(んー……すごく眠そうだったし、さっきちょっと黙っちゃった時に、寝ちゃったのかな……)
だとしたら、明日、また謝らないといけないだろう。
今更だけれど、やっぱりよくなかった、と思うのだ。
勢いで聞いてしまったけれど、無遠慮に彼女のプライベートに踏み込んだことは。
ごろん、と栞里のベッドに背を向けて、澪は目を閉じる。
(……栞里ちゃんも、お母さんのことが大好きで……)
たとえ母がもうこの世にいないんだとしても、彼女にとってそれはずっと、綺麗な思い出のままで……。
今抱いているこの感情が、どれだけ汚く、醜いものなのかを澪は自覚していた。
栞里が感じたであろう悲痛を、なにも考慮していない。浅ましい嫉妬だ。
それでもそれを思わずにはいられなかったのは、澪自身が、失意のままにすべてをなくしてしまったから。
(ちょっと……羨ましいなぁ……)
ぬいぐるみを抱きしめて、暗い闇の中、澪は思い出していた。
一人になるといつも頭の中をよぎる、あの日のことを。
澪の家は、ありふれた家庭だった。
父と母と、澪自身と、年の離れた妹。四人家族。
両親の仲も良好で、姉妹仲も決して悪くはない。
母が作ってくれるお弁当の中には、いつも甘い卵焼きが入っていた。
妹は、毎日毎日同じ品物が入っていることに若干ふてくされていたけれど。というか澪も、さすがに毎日はきついなって思ってたけど……。
それでも残すようなことはしなかった。
幼い頃からずっと続いていた日々だったから、これからも、それがずっと続いていくんだろうと、無意識のうちに、そんな風に思い込んでいた。
でも、まだ魔法少女になる前の、あの日に。部活動が長引いてしまって、いつもより帰りが遅くなった、あの日。
突然すべてが崩れ落ち、それでいて淡い夢だったかのように、儚く消えてしまった。
『……? 明かりが消えてる……?』
家にたどりついた時、いつもと違う家の状態に澪は眉をひそめた。
いや、本音を言えば帰り途中からもうすでに、なにか言いようのない違和感を覚えていた。
これまでずっと同じだったはずのことが、どこか違うような。違う場所に、迷い込んだみたいな。
嫌な予感に急かされるように足早に帰路を歩いた。
帰りが遅くなったとは言っても、しょせんは中学の部活動の範囲だ。一九時までには家につくくらいの時間。
でも春に近い冬の頃だったその時はまだ、外が暗くなるのは早かった。
『鍵は……開いてる』
澪を置いてどこかに出かけているとか、そんな感じでもなさそうだった。
もしそうだったなら、どんなによかっただろう。
早く入らなければいけないような、理由もわからない焦燥を胸に、澪は家の中に足を踏み入れる。
その時だ。家の奥の方から、幼く甲高い悲鳴が聞こえたのは。
妹の声だった。
『っ、かほ!』
薄っすらと感じていた嫌な予感が形を伴って浮き上がり、妹の名を呼んで、声がした方向へ急ぐ。
居間の奥、台所の方に、妹のかほと『それ』はいた。
邪悪に口の端を吊り上げて笑う、闇の中にあって妖しく光る瞳を持った女性。
かほはそんな彼女を、尻もちをつき、恐怖を顔に張りつけて見上げていた。
『あらぁ? あなた、この子の家族? ふふっ、まだいたのねぇ。消音の魔法は使ってたはずなのに躊躇せず入ってくるものだから、一瞬ちょっと焦っちゃったわぁ』
光る瞳の女性が振り返って、唖然とする澪を見た。
そしてその時、ふっと気がつく。
さきほどまで、この女性の瞳の色は紫だった。
でも澪に視線を送る最中、その色が目まぐるしく変化していた。
角度によって、青に、赤に、黄色に、形容のしがたいさまざまな色に。
(人間じゃ……ない……?)
ぞっとした感覚で、後ずさる。
逃げなければ、と。そんな思考が頭をよぎる。
当然だ。だって、澪はまだ中学生の普通の女の子でしかない。こんな得体の知れないものを見て、恐怖を感じない方がおかしい。
けれど視界の端に映った、かほやこの女性とはまた別の、二人の人間の姿を見て、澪は後ずさる足を止めた。
『お、父さん……お母……さん……?』
うつ伏せで倒れた見慣れた背中。十数年ずっと見続けてきたのだ。見間違えようがない。
気を失っているだけで、外傷はなさそうだった。でもだからと言って、無事だという感想はまったく出てこない。
よくはわからない。わからないけれど。
なにか、もう取り返しのつかないことになってしまっているような、そんな予感がした。
『あぁ、それねぇ。なかなか美味だったわぁ。とても幸せな家庭だったのねぇ。幸せの味はおいしいから、私、好きよ』
『なに、言って……』
『だから期待してるの。あなたと、この子の記憶。それもさぞ美味なんでしょうねぇ、って』
言っていることはなに一つとして理解できない。
だけどわかったことが一つだけあった。
この女が、父と母をこんな風にして、そして今度は妹に手を出そうとしている、すべての元凶である。
縋るような眼で澪を見つめるかほの姿を見て、澪は胸の内を支配しかけた恐怖の感情を振り払った。
震える手を握りしめ、持っていた鞄を光る瞳の女性に向かって投げつける。視線を遮るように、顔に向けてだ。
女性がそれを振り払っている間に、澪はその横を駆け抜けた。
『かほ……!』
怯えて座り込んだ妹を抱きしめる。そして、そのままくるりと振り返った。
光る瞳の女性は愉快なものを見るような目で、澪とかほを二人を観察している。
どういうわけか、すぐに手を出してくる気配はなさそうだった。
『おねえ、ちゃん……』
『……かほ、落ちついて。大丈夫だから。お姉ちゃんが……なんとかしてあげるから』
最後に一度だけ笑って頭を撫でて、澪はかほを離した。
調理台の上に置きっぱなしだった包丁を素早く手に取って、光る瞳の女性に向けて構える。
『へえ』
なにやら感心したように、光る瞳の女性がぽつりと漏らした。
『はぁ……ふぅ……』
うるさく鳴り響く心の臓を落ちつけるために、懸命に呼吸を整える。
この光る女性を見た時、確かに澪は恐怖を覚えた。でも今感じている恐怖は、それとは別種のものだった。
刃物を、人を殺せる道具を人に向けるのが、こんなに怖いなんて。
だけど、それでも。
自分がやらなければ。どんなことになっても、せめて妹だけは守らなければ。
『お、おねえちゃん……』
『……わたしが隙を作るから……かほは、横を通り抜けて。それから外に出て、大声で助けを呼んで。怖いかもしれないけど……』
『……だい、じょうぶ……やれる、から』
澪の覚悟を汲み取ったのか、目に希望を取り戻して、こくりと頷いてみせるかほ。
未だ、光る瞳の女性は愉快げにこちらを眺めているだけだ。
澪は最後に一度深呼吸をして、きっと目を鋭く細めて駆け出した。
『かほ!』
走り出してすぐに、妹の名を呼んだ。背後でそれに反応して、同じように駆け出す音がした。
やることは一つだ。この包丁で、この女性を刺し貫く。
致命傷になろうと構わない。その後、過剰防衛とかなんとかで、逮捕されようと構わない。
そんな覚悟で、澪は女性の胴体へ包丁を突き出した。
――けれど。
『いいわねぇ。気に入ったわぁ』
『えっ?』
刃の切っ先が澪の頬を裂き、宙を飛ぶ。
なにが起きたのか、まるでわからなかった。
ただ、突き出した包丁が女性の体に届くよりも先に、なにもない空中で弾かれたのだ。なにか硬いものにでも衝突したように。
驚きで目を見開く澪の横を、かほが過ぎ去る。
ダメだ、と静止する暇もなく、かほは難なく光る瞳の女性に首を掴まれ捕まった。
『あぐっ――』
『っ、や、やめてっ!』
光る瞳の女性が首を掴んだかほを掲げ、大きく口を開く。
なにかを食べようとするかのようだった。
止めようとしても、見えない壁に阻まれて、澪はそれを、見ていることしかできなかった。
やがてかほが、だらんと両手を下げた。全身の力を抜いた。
そんな彼女を、光る瞳の女性は、もう用済みだと言わんばかりに両親と同じ方へ投げ捨てる。
死んでしまったわけでは、なさそうだった。
でも、やっぱり、なにか取り返しのつかないことになってしまったような、そんな感覚だけが心にこびりついて、離れてくれない。
『か……ほ……どうし、て……』
なんの役にも立たなかった欠けた包丁が、からんっと床に転がった。
かほのなにかを食べた光る瞳の女性は、なにやらご満悦そうに、恍惚に嗤っていた。
『子どもの記憶もいいわねぇ。量は少ないけど、純粋な記憶ばかりで質がよくて……』
絶望に膝をつき、頭を垂れるしかない澪を、光る瞳の女性は見下ろす。
……次はきっと自分の番なのだろう。澪はそう思った。
初めてこの女性を見た時、そして包丁を向けた時はこれでもかというほどの恐怖を感じたのに、なぜか今はなんの感情も浮かばない。
光る瞳の女性は、そんな澪に無邪気な悪魔のように笑いかけると、くるりと身を翻した。
『あなたはいいわ。もうお腹いっぱいだし、デザートも食べたしねぇ。そろそろ協会のやつらが嗅ぎつけてくる頃だし……あなたのその心だけは生かしてあげる』
『……え……?』
『今日は気分がいいからねぇ。ふふ、感謝なさい? こんなことは滅多にないのだから。無様に、惨めに、後悔しながら生きるといいわ。慎ましく……ね』
見下すようにそれだけ告げて、女性は去っていった。
追いかけることは、できなかった。しても無駄だということは澪自身が一番よくわかっていた。
家族を置いていくこともできない。
ただ膝をついたまま、呆然としていることしかできずに。
やがてやってきた魔導協会を名乗る人たちに、澪は保護された。
ギシリ、と小さな物音で目が覚めて、栞里は薄っすらと瞼を開けた。
(……み、お……?)
薄目の向こうに見える彼女は、寝る時に着ていたようなパジャマではなくて、制服を身につけている。
栞里を起こさないようにするためだろう。できる限り足音を立てないよう、静かに扉を開けて、澪は部屋を出ていく。
時計を見れば、まだ朝の五時で、外も薄暗かった。
学校は八時にでも家を出れば間に合うくらいなので、行くには少し早すぎる。
こんな時間に、いったいなにをしに行くのか。
声をかけようかとも思ったが、ほんの一瞬見えた彼女の横顔が、なにかとてつもなく重いものを抱えているように思えて、言葉が喉につっかえた。
そして同時に、直前に見たおかしな夢が頭をよぎる。
結局栞里は澪を呼び止めることはできず、再び眠ることもできず、横になったまま、ただ思考だけがぐるぐると回っていた。
✿ ✿ ✿ ✿
昨日は七夏と校内を見回ったが、今日は紗代とともに外の見回りだ。
放課後になると校門を出て、栞里は紗代から見回りの基本ルートを学びながら、二人で街を歩く。
「本当は、こんなに頻繁に見回りなんてやらなくてもいいのだけどね」
日があまり差し込まない裏通りを歩きながら、紗代は肩をすくめてみせた。
「日を置いて、週に二回くらいでいいの。二日連続で探したって見つからないことが多いし、せいぜい見つかってもネズミくらいのごくごく小さなヘイトリッドだもの。そんなに小さいと、変に逃げ回られて逆に退治しづらいしね……」
「……」
「でもレンダちゃんも言ってた通り、今は大規模な調査に向けての準備期間だから、いつも以上に念入りに退治しておかないといけないの。まだ魔法に慣れてない栞里ちゃんには負担をかけるけど……」
「…………」
「……栞里ちゃん?」
心配そうに紗代に顔を覗き込まれて、栞里ははっとした。
「ご、ごめん。ぼーっとしてた。話は聞いてたから……えっと……週に二回は大規模なネズミの準備期間だから、二日連続で逃げ回るレンダをいつも以上に念入りに退治しなきゃいけない……んだっけ?」
「それじゃあレンダちゃんがすっごく可哀想ね……」
どうやら間違っていたらしい。
栞里はバツが悪そうに顔を背けた。
「……栞里ちゃん、ちょっとじっとしててくれる?」
紗代はそう言うと、栞里の両頬を包み込み、自分の額を栞里のそれにくっつけた。
目をぱちぱちと瞬かせる栞里の目の前で、しばらく瞼を瞑って集中していた様子の紗代だったが、ほどなく栞里から顔を離す。
「熱はないみたい。よかったわ。もしかしたら、体調が悪いのに連れ回しちゃってたのかと思ってたから」
「むぅ……紛らわしくてごめんなさい」
「いいのよ。私、これでも先輩だもの。後輩の面倒を見るのは先輩の勤め。七夏ちゃんも同じようなこと言ってなかった?」
「……言ってた」
「でしょう? ふふっ、そういうことよ。だから気にしないで」
七夏も同じような言動はしていたが、紗代は彼女と違い、普段から纏う雰囲気が大人っぽい。体つきも出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ女性らしいものだ。
年上らしい魅力溢れた振る舞いに栞里は若干感嘆としつつ、こくんと大人しく頷いた。
「でも……熱がないんだったら、なにか困り事とか悩み事でもあるのかしら?」
図星だったので、栞里はビクンッと肩を跳ねさせる。
「今日、最初に会った時からずっと上の空って感じだったもの。それもなんだか、少し落ち込んでいるような感じで……言いたくないなら言わなくてもいいけれど……」
まるで自分のことのように眉尻を下げて悲しむような紗代を目にして、栞里は今朝の出来事を思い返した。
まだ外が暗い時間に一人で外出していた澪。
もっとも、その二時間後に彼女は何事もなく帰ってきたけれど……。
今、澪が栞里の家に居候しているのは、常に二人で行動して危険を減らすことが目的であるはずだ。
それなのに澪は栞里に一言も告げず、一人で外に出た。
……澪はきっとなにか、栞里に隠し事をしている。
そうでなければ、魔導協会の指示に逆らい、一人で危険を冒してまで外に出たりしないだろう。
しかし隠し事とは、隠したいから、知られたくないから隠し事と呼ぶのである。
それを、栞里が勝手に紗代に相談していいものだろうか。
そんな風に返事に詰まってしまう栞里を見て、紗代は答えてもらえなかったことに少し寂しそうに肩をすくめつつも、「ちょっと休憩しましょうか」と近くの石段を指し示した。
紗代が先に座り、その横に促されるまま腰を下ろすと、紗代は少し悩むように腕を組んだ。
「んー……ねえ、栞里ちゃん。魔法少女になるためには、その子に特別な資格が必要ってレンダちゃんが言ってたの、覚えてるかしら?」
栞里は首肯する。
栞里のように未成年で、なおかつ特別な資格を持つ少女。それが魔法少女になるための条件だったはずだ。
「それはね、素質でも資質でもなくて、あくまで資格なの」
「あくまで資格?」
「そう。素質や資質は生まれつきの能力のことを指すけれど、資格はそうじゃないでしょう?」
あえて素質や資質という単語を使っていない。
そこに意味があると紗代は言う。
「わかるかしら。魔法少女になるための資格というものはね、先天的にではなくて、後天的に備わる類のものなの」
「後天的に……」
「私や七夏ちゃんは中学に通っていた頃に魔法少女に勧誘されたわ。その時にはすでに資格が備わっていて、それを見初められたから。でも、あなたと澪ちゃんが誘われたのは高校に上がった後。あるいは、その直前に」
その意味がわかる? と、指を一つ立て、わかりきった答えを紗代は問いかけた。
「……私と澪に資格が備わったのは、まだ最近の出来事だってこと?」
「ご明答」
立てていた指をくるくると回し、紗代はその指先を自身の目に向ける。
「もちろん、精霊の目が常にこの街の人たち全員に行き渡ってるってわけじゃないから、多少のズレはあるけれどね」
「……魔法少女になるための資格って、いったいどういうものなの? なにがきっかけで、そんなものが私たちに備わったの?」
先天的にではなく、後天的に備わるもの。
だとすれば、なにかそれを得るための条件があるはずである。
その条件とは、いったいなんなのか。
ここまでもったいぶられたなら、聞かずにはいられない。
「……」
紗代は一旦沈黙し、瞼を閉じ、間もなくして再び口を開いた。
「その思想や心のあり方に大きな変革をもたらすような出来事を経験すること……それが、魔法少女の資格を得るための条件よ」
「大きな変革?」
「たとえば、そうね……大切だった人が亡くなったり、とかかしら」
「……」
そう言われて栞里が思い出したのは、まだほんの数ヶ月前、母が病気で亡くなった時のことだった。
毎日のように病院に通ったところでなにができるわけでもなく、母が亡くなる寸前まで、ただ見ていることしかできなかった。
「もちろん、資格を得るに至るまでどれだけの刺激が必要かには個人差はあるわ。人によっては、ちょっとした出会いや経験でも開花し得る。でもその条件さえ満たせば、心が不安定な十代以下の女の子なら誰しもが資格を手にできるとされているの」
「……なるほど」
「栞里ちゃんは……なにか、心当たりがあるのよね?」
栞里は自分が今どんな表情をしているかわからなかったが、紗代はなにか察したように、辛いことを思い出させてごめんね、と申しわけなさそうに微笑んだ。
(紗代は……どうしてこんな話、私にしたんだろう)
栞里がなにか悩んでいたり、落ち込んでいたりしていることを察して気にしてくれているのは、わかっていた。
でもそのことと、今のこの魔法少女の資格の話になんの関係があるのか。栞里にはまだ、その繋がりが掴めなかった。
もしかしたら単に雑談のつもりだったのかもしれないけれど、どうにも栞里には、紗代がこのタイミングでそんな他愛もない話をしてくるようなのんきな女性には思えなかった。
「……栞里ちゃん」
さきほどまでより力が入った確かな声音に促されるように顔を上げると、彼女は真剣な表情で栞里をまっすぐに見つめていた。
「実を言うとね。私と七夏ちゃんは、あなたと澪ちゃんの経歴を資料で把握してるの。だからあなたが抱えている痛みも……澪ちゃんが抱えている苦しみも、私たちは第三者として知っている」
「澪の苦しみ……?」
「そう。栞里ちゃんは、なにか夢を見なかった? たとえば、そう。悲痛に染まった、後悔ばかりが残るような、暗く冷たい夢……」
「……」
心当たりはあった。
そうだ。澪が一人で出て行ったことも、栞里が悩んでいる要素の一つでもある。
だけど一番は、その夢であった。
なんてことのない普通の中学生だった少女が、ある日突然光る瞳の化け物に――精霊獣にすべてを奪われる、そんな夢だ。
守りたかったものをなに一つとして守れず、自分だけが生き残ってしまった夢。
視点は完全にその少女のものだったから、それが誰の記憶なのかは正確にはわからなかった。
けれど今日の朝、澪が出ていく時に見せた最後の横顔が、その夢の少女の思いと重なってしかたがなかった。
だからこそ栞里は出ていく澪に声をかけることもできず、帰ってきた彼女に事情も理由も聞くことができずにいたのだ。
「……魔法少女の間では、密かに語られてるこんな話があるわ」
紗代は栞里から視線を外し、遠くの空を眺める。
「互いを思い合う魔法少女がそばで眠りについた時、お互いが資格を得るに至った夢を見る」
「それは……」
「私たちはそれを心の共鳴と呼んでいるわ。栞里ちゃん。あなたが見たその夢は、本当にあったことよ」
紗代はどうやら初めから、栞里の様子がおかしい原因におおよその検討がついていたようだ。
澪の過去の出来事と、心の共鳴という現象を知った上で、栞里と澪の二人が同じ家で寝食をともにした翌日、熱はなく体調に問題ない栞里の様子がおかしかった。
そうなれば確かに、なにがあったのかの答えなど自ずと導かれる。
「……とは言え、あなたと澪ちゃんの昔のことを多少知ってると言っても、私も七夏ちゃんも、しょせんは無関係の第三者」
紗代はふるふると首を横に振る。
「そんな私たちがどれだけ励まそうとしようとしたって、そんなもの、上から目線の押しつけがましい自己満足にしかならない。だからずっと知らないふりをして黙ってたの……ごめんね?」
「それは別にいい、けど……」
無関係の第三者。どれだけ励まそうとしても、しょせんは自己満足。
その言葉が栞里の心に重くのしかかる。
澪を元気づけたい。その悲しみを、ほんの少しでも和らげてあげたい。
今、抱いているこの思いも……そうなのだろうか。
結局は自己満足に過ぎず、澪には届かない。そんなものなのだろうか。
そんなことを考えていると、ぽんっ、と。不意に栞里の頭の上に手が置かれる。
紗代の手だ。
突然のことに目をぱちくりとさせる栞里に、紗代はくすりと笑みを漏らす。
「七夏ちゃんから聞いたの。栞里ちゃんはたぶん、気に入った人の頭を撫でる癖があるんだって」
「私にそんな癖が……」
「自覚なかったのね」
紗代は優しい手つきで手を動かしていく。
「きっとそれは、栞里ちゃんが知っているからなのよね。その温もりの大切さを。いつか誰かにこうして頭を撫でてもらうことが、栞里ちゃんは大好きだったのね」
「……」
「そんな辛い顔しなくたって大丈夫。あなたの思いは、きっと澪ちゃんに伝わるから」
心でも読めるのかというくらい、落ち込んだ栞里のためにかけてくれる言葉の数々は的確だった。
「さっきも言ったでしょ? 互いを思い合う魔法少女が……って。あなたが澪ちゃんをそうやって思っているように、澪ちゃんもまた、あなたを思っている」
「澪が……私を?」
「そう。あなたの力になりたい。助けになりたい。そんな風に思っている」
「あ……」
それはもう、澪の口からとっくに直接聞いていた言葉だった。
「栞里ちゃん。あなたは私や七夏ちゃんとは違うわ。澪ちゃんにとって、あなたは第三者なんかじゃない。夢を見たっていうのはね……そういうこと」
「紗代……」
「だから自分を信じて? 栞里ちゃん自身が、やるべきだと思ったことを貫くの。それが一番良い未来に繋がってるはずだって、私は思うわ」
なんて言うと、紗代は朗らかに微笑んだ。
……胸の内がぽかぽかと温かい。
紗代はさきほど、自分たちはしょせんは第三者だと言った。自分たちがなにを言っても、自己満足に過ぎないと。
それでも彼女たちは、ずっと栞里と澪のことを気にかけてくれていたのだろう。
過去の出来事は変えられないのだとしても、今日は、明日は、笑えるようにと。
「紗代」
「んー? なにかしら」
「ありがとう」
「ふふっ。ええ。ほんのちょっとでも力になれたのなら、よかったわ」
澪にどんな言葉をかけられるかは、まだわからない。
もしかしたら届かないかもしれないし、拒絶されるかもしれない。
だとしても、彼女を今のまま一人きりにさせてはいけないのだと栞里は思う。
たとえその過程が異なっていようとも、一人になることを寂しいと感じる気持ちは、同じはずだと思うから。