***

(中略)
 女学校への進学はあまり歓迎されませんでした。というのも、わたしが叔母へ口答えをしたのがきっかけだったように思います。今となってはなにを言って怒らせたのかが思い出せませんが。
 女学校時代はそれなりに楽しめました。恥ずかしながら、家では安心ができずにいました。それもわたしが極度に怯えていたからでしょう。
 父の死は衝撃でした。とにかく悲しく、いったいどうして父があんな死に方をしなくてはならなかったのかわかりません。それから、自然と新聞に興味を抱きました。
 しかし、父の死の真相はわかりませんでした。叔父の話によれば、やはり経済面での心配ごとがあったそうです。
 それにしても不思議なものです。父は前日まで、わたしたち家族の前では穏やかで、とてもそのようなことを考えているとは思えなかったので……。
 それでは、今回はここまでにさせていただきます。
 やはり、昔話は苦手です。つらいものが込み上げてしまいますゆえ。
 御鍵絹香

 絹香の手紙を移動中の車で読んだ敦貴は、難しい顔つきをしていた。手紙を封筒におさめ、上着の内ポケットに入れる。
 ──彼女はまだなにかを隠している。
 そう直感する。
 しかし、絹香の父親への思いがこんなにも赤裸々に語られるとは予想していなかった。書けと言ったのは自分なのだが、どうせまたつまらない報告をするのだろうと高をくくっていた。おそらく彼女も変わろうとしていることがうかがえる。あの夏の夜に見せた彼女の憂いを取り除きたい。
 彼女が秘めるものは確かに不幸そのもので、大層つらい目に遭ってきたことは明らかだった。それでもあのひどい叔父や叔母を配慮しようと心がけているようで、彼女の家族への情はとても清らかなものであると推察できる。
 その深い優しさに敦貴は感心しつつも呆れていた。家族に対して憧れもなければ情もない自分とは正反対であり、羨望すら感じる。反面、理解しがたい。ひどい仕打ちを受けてきたら、非情な性格になっていてもおかしくないだろうに。
「私は、こうはなれないな」
 絹香は「相手のことを案じ、思いやる心があれば愛せる」と言っていたが、まだまだその心構えが十分にできていないと感じていた。
「敦貴様、到着いたしました」
 運転席から米田が言う。どうやら停車したことに気がつかず、しばらく考え事をしてしまったらしい。
 今日は本家で父と会う。主に近況報告だけだが、沙栄との婚姻の話も進められるのだろう。気が重い。しかし、行かねばならない。
 絹香からもらった手紙を思い返しながら、敦貴は地へ降り立とうと足を踏み出す。すると、米田が言った。
「敦貴様」
「なんだ」
「絹香様のお父上についてを話題にしてみてはいかがです?」
「は……」
 米田の提案に、敦貴は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「毎回、義三郎(ぎさぶろう)様との会話が五分も持たないじゃありませんか。仕事の話だけでなく、たまにはこういう妙なところから攻めてみてはどうでしょう」
 まるで絹香からの手紙の内容を把握しているような言い方である。敦貴は不審を抱いた。バックミラーに映る米田の目からはなにも読み取れない。
「その助言はありがたく受け取っておこう」
「えぇ」
「だが、米田。手紙の中身まで監視しろとは言ってないぞ。それとも、誰かに聞いたか?」
「経験と勘による推察です。敦貴様もお得意の」
 米田はうつむき加減に笑った。それはなんだか、いたずらが成功したかのような子供っぽさだった。最近、彼とはこういう会話が増えた気がする。
 米田は信頼できる男だ。敦貴が子供の頃から唯一懐いた使用人だった。絹香が慕う父親や兄弟のような存在と言うにふさわしい。
 敦貴は座席に戻り、少し肩の力を抜いた。
「ちなみに、絹香の周辺で妙な動きがある者は見つかったか?」
 かねてより調査していたものである。この際だから進展を聞こう。
「はい、沙栄様への密告をしていた者は見つかりました。友永ゐぬがそうです。しかし、これに悪意はなかったようですね。問い詰めたところ、沙栄様からの圧力に耐えられなかったそうです」
 なんとなく想像がつく。沙栄のあのしつこさに、寡黙で人見知りなゐぬが耐えられるはずがない。さっさと白状し、仕事にかかりたいとでも思ったに違いない。そこまで考え、敦貴はため息をついた。
「そうか」
「しかし、絹香様の周辺はまだまだ不穏でございます。父上の自害に関する話にはなかなか黒い事情があるようです。お気をつけを」
「そのために我が父上に訊けばいいのだな。わかった。そういうことなら多少は乗り気になれる」
 敦貴は颯爽と車から降りた。そして、分厚い門をくぐり抜ける。
 長丘本家は敦貴が住む邸よりもさらに大きく、どっしりとした構えの迫力ある邸だ。切妻屋根がいっそうの風格を思わせる。
 広い庭園には秋桜(こすもす)の花が咲き乱れており、完璧なまでに手入れが行き届いている。
 玉砂利の中をしばらく歩けば、ようやく玄関が見えた。子供の頃は見上げるのもためらうほどに威圧的だったが、今は無遠慮にくぐれる。
 使用人が総出で迎え入れ、厳かに広間まで案内される。
 長い廊下を行き、ふすまを開けると父、義三郎が気難しい顔つきで座っていた。敦貴と同じくすらりとしており、白髪が混じった髪は衰えを知らない。丸メガネをかけているところを見ると、最近は目が悪くなったようだ。
「敦貴か」
「はい。お呼びくださり、誠に光栄でございます、お父様」
「まぁ、そこに座りなさい」
「失礼いたします」
 許しを得て、敦貴は静かに父の真正面に座った。
 さて、ここからが面倒だ。こちらから話しかけなければ、絶対に口を開かない父である。小学校時代、それでお互いになにも話さず日だけが暮れたことを何度か経験している。
「お久しぶりでございます。お父様の方もお変わりないようで」
 父は肘掛けにもたれかかっており、探るように息子をジッと見つめる。その目を見返し、敦貴は咳払いして話を続けた。
「お母様は今日はどちらに?」
 すかさず答えたのは、部屋に控える使用人だった。
「奥様は本日、私塾の方へ視察に」
「あぁ、なるほど。お母様も相変わらずのようですね。塾生だけでなく、講師たちも戦々恐々としているでしょうな。そろそろ控えさせた方がよろしいのでは」
 母、イツの厳格さはその辺りの私塾を凌駕(りょうが)するという噂である。母の熱心な教育方針のおかげで、敦貴も文武両道を極められたのだが──母は教育家であるが家庭には不向きな人であることは、ここにいる全員が知るところである。
 敦貴の提案に、父はただ唸るだけだった。
 呼び寄せておいてその態度はなんだと常々思うが、こんなことで憤るほど精神は薄弱ではない。
「沙栄はどうですか。最近よく、ここを訪れると聞きます。お父様、沙栄とは随分と親しくしていただいてるようですね。ありがとうございます」
「うむ……まぁ、扱いには困るが、可もなく不可もなくといったところかな」
「賑やかなことは結構ですがね。私も少々、手を焼いてます」
「御鍵の娘はどうだね」
 父にサラリと訊かれ、敦貴は目を見張った。
「あぁ……絹香のことを気にされているとは思いもしませんでした」
「突然、お前が招き入れたというから、そりゃあ気になるものだよ。そんなに矢住との婚姻が不満かね」
 核心をついた父の言葉に、敦貴は敗北を感じた。
 父に逆らっていると捉えられているのだろうか。いや、むしろ、それだけ息子のことを手厚く思いやっているのだろうか。
 沈黙を選ぶと父はニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「構わん。そもそもお前に浮いた話のひとつもなかったことが問題なのだ」
「絹香は、そういった相手ではありません」
「さて、どうかな」
 父は機嫌よく小刻みに肩を震わせて笑った。本当に性根が曲がった男だと心の奥深くで毒づく。
 昔から父は息子の綻びを目ざとく見つけてはそれをチクチクと回りくどくからかうのが趣味なのだ。心を読まれているような錯覚をする。そして、そんな父親にそっくりな自分に嫌気が差すのも常だ。
 なにを言っても反論のかっこうになり、すなわち肯定しているに等しい。ここは黙っておくことにする。
「で、どうだね。絹香とやら、確か御鍵商社の前社長……明寛の娘だったな」
「おや、ご存知でしたか」
 敦貴は上目遣いに見た。すると父は顔をうつむけ、足の爪をいじる。
 他人に無頓着な父が数年前の事件を覚えていることは珍しいと思った。同時に、父の言動を脳内で反芻(はんすう)し解釈する。
「お父様。以前、御鍵家となにかありましたか?」
 敦貴の問いに父はなにも答えない。では、もうひと押しだ。
「明寛氏の自害は当家と関係がありますか? 例えば、金融に関する不当などで揉めた、というような。明寛氏の自害は精神不安定だったからという報道でしたが、そこまで追い詰めるなにかがあったはずですよね」
 御鍵商社が頼りにしていた金融会社は、大本をたどれば長丘家が取り仕切る会社の系列である。直接の親交はなかったものの、いわば御鍵商社も長丘家の傘下であるようなものだ。もしかすると、理事を務める義三郎が当時、なんらかの圧力を加えたことによる不幸だったのかもしれない。
 すると、父はそんな息子の考えを見抜くようにまぶたを大きく開かせた。ぎょろりと大きな目玉があらわになり、敦貴はゴクリと唾を飲む。
 やがて、父がささやくように言った。
「お前、私を疑うのか?」
「えぇ、まぁ。端的に言えば、そうなりますね」
 正直に答えると、父はまた顔をうつむけて唸った。しばらく、広間には微弱な緊張が走る。
 敦貴にはなんの勝算もなかったが、父が声を荒らげることはないと踏んでいた。百戦錬磨をくぐり抜けて華族へのぼり詰めた父、義三郎である。『すべてを疑え』と敦貴に教えてきたのは他でもない父なのだ。その教えを忠実に守っているだけのこと。
 やがて、父は鼻を鳴らして唸った。
「敦貴」
「はい」
「御鍵商社の件、後のことはお前に任せる」
 その言葉に、敦貴はわずかに怯んだ。話の筋が見えない。しかし、御鍵家とはつい最近商談をした間柄である。仕事に関してだろうか。それとも、事件の全容をもっと調べてもよいという意味か。どちらにせよ、逆らうことはできない。
「承知いたしました」
 敦貴は素直に受け入れた。
「その絹香という娘も一度、こちらへ連れてきなさい」
「はい?」
 思わず聞き返してしまう。途端に父が(たか)のような鋭い目で睨んできたので、敦貴はすぐさま言葉を改めた。
「承知いたしました。そのように取り計らいましょう」
「うむ」
 それきり、父はなにも言わずに立ち去った。ふすまが閉じられ、敦貴だけが広間に残される。
 しばらくそのままの姿勢で座っていたが、もう戻ってくる様子もないので肩の力を抜いた。まったく、実家だというのに居心地が悪い。
 それにしても、父の思惑が読めない。
 やはり、御鍵家とのトラブルがあったのやもしれない。もしくは、関わりがあるのでは。なんにせよ、任されたからには役目をまっとうしなくてはならない。
 それから数分後、茶のひとつも出ないまま敦貴は長丘本家を後にした。

 ***

 その夜、いつものように敦貴の部屋へ向かった絹香は、彼の後ろでジッと座っていた。彼は着替えてから、文机に座ったまま黙りこくっている。
 こうしていると、なんだか恋人を通り越して夫婦のようだ。母もこうして父の後ろで静かに控えていたものだ。
「絹香」
 唐突に、敦貴が言った。
「私は君の父上について調べてみようと考えている」
「はい?」
 どういう意味なのか皆目わからない。困っていると、敦貴はチラリと振り返った。
「君の手紙を読んだ。父上の死は謎がある。どうも腑に落ちない。君もそうなんじゃないかね」
 その言葉に、絹香は思案げに宙を見る。
 確かに、父の死は不思議なところがある。警察の調べや叔父の言葉に違和感があったものの、嘆き悲しんでいる暇がなかった。
 どう答えたものか迷っていると、彼は左手で畳をトントンと叩いた。「来い」という合図だろう。絹香はおそるおそる近づき、横に座る。
「君のことを知るには、まず初めの事件から遡る必要がある。どうだ、不満か?」
「いえ……ありがたいお話ですが、なんとお答えしたらよいやら」
「それにしては浮かない顔だな」
 絹香は気まずくうつむいた。
「どうして、わたしのことをお知りになりたいのですか」
 ただの恋人役でしかないのに。もうすぐお別れをする間柄なのに。心の中にまで踏み込まれては困ってしまう。そんなわずかな恨みも込めて彼を見る。
 敦貴は眉をひそめた。そして、言葉を選ぶような素振りをする。
「君が『お互いを知ることから始めた方がいい』と言った」
 それは最初に手紙でこちらから提案したことだ。しかし、絹香は納得できない。
「もう十分では」
「不十分だ。私は君のことが知りたい」
「……敦貴様のお心が、わたしにはよくわかりません」
 いったい、なにを考えているのだろう。彼の表情は相変わらず無である。いや、彼の心を知ろうとしていないのは自分じゃないか。わずかにそんなひらめきが浮かぶ。
 もっと彼に寄り添ってもいいのかもしれない。これが役目なのだから。
「では、わたしも敦貴様のことが知りたいです。なにを考えて、わたしにこうして親しくしてくださっているのか、お聞かせ願えますか?」
 すると、敦貴は目をしばたたかせた。一瞬だけ、彼の感情が浮かんだ。その瞬間を見逃さないよう、少し距離を詰める。
「敦貴様?」
 彼が黙ったのを逆手にとり、絹香は悪知恵を働かせた。
「敦貴様、恋人には正直な気持ちを打ち明けるものです。わたしはもう言いました。熱烈な感情を語るまではなくとも、たったひと言だけでもよいのです。わたしを沙栄さんだと思って、今の敦貴様のお気持ちを教えてください」
 彼が踏み込んでくるならこちらもとことん踏み込もう。絹香の意思は固かった。
 だが、絹香の勢いに比例するかのように彼はふいっと顔をそむけた。
「敦貴様」
 少し焦れる。すると、彼は静かにも苛立たしげに返した。
「別荘で、君は言ったな。『わたしは人形ですか』と」
「え? はい……」
「『人形』とは言い得て妙だと思った。もしかすると、私も同じなのかもしれない」
 言葉の意味を考える。だが、自分はともかく彼がそうだとは考えにくい。
「敦貴様が人形だなんて、そんなこと……」
「いや、そうだ。私の表情が読み取れないのは、そういうことだ。つまり私は、感情が乏しい。求められたことにしか対応できない。つまらない人間なんだ」
 それは、いつか手紙に綴られていたことでもあった。
 地位も富もあり、なに不自由なく育ったものの愛情を知らずに大人になってしまったと自嘲気味に笑う彼の姿を思い出す。きゅっと胸が切なくなり、絹香は顔を歪めた。
「そんなことおっしゃらないでください」
 慰めにもならない気休めの言葉が出てくる。それは彼を気遣ってか、自分を守るためか、今の絹香には判然としなかった。
 敦貴は()ねた子供のように頑固に背を向けた。
「君が言えと言ったんだ」
「そうですけれど……」
「はっきりしないな。そういうところは直した方がいいぞ」
 そう指摘されてしまえばぐうの音も出ない。絹香は消沈し、唇を噛んだ。
「いいんだ。こんなことで怒ったりはしない。君はよく尽くしてくれている。私の妙なわがままに付き合ってくれているだけだからな」
 敦貴はぶっきらぼうに言った。そこに含まれる彼の感情はやはり見えない。でも、なにもないわけではないのだろう。もしかすると、彼自身が心に潜めた感情の正体に気づいていないのかもしれない。
「敦貴様、もしかして本当に拗ねてらっしゃいます?」
 無礼を承知で訊いてみれば、すぐさま彼は振り向いた。
「絹香、言葉がすぎるぞ。慎め」
「すみません。つい……」
 だが、恋人役としては十分な働きだったはずだ。こうやって彼の奥底に眠る感情を(ひも)解けば、沙栄にも心を開けるのではないだろうか。
 あともうひと押しだと手応えを感じていると、敦貴はもうお開きだとばかりに立ち上がった。着物の中に腕を入れ、絹香を冷たく見下ろす。
「それで話が逸れたが、君の父上について調べるから、そのつもりで。あとは一ヶ月後の週末、君を本家に招待することになった」
「え?」
「異論は認めない」
「あ、敦貴様?」
「以上だ。下がってよろしい」
 ピシャリと言い放たれてしまえば、もうどうすることもできない。絹香は渋々下がることにした。一礼して敦貴の部屋の障子戸を閉める。
 そして、今しがた宣告されたことを頭の中で復唱する。
「本家……って、長丘家の本家? どうして……?」
 絹香はこれから身に起こることが悪いものである予感がした。絶対によい話ではない。これはもしや、彼の心に踏み込んだ罰だろうか。
 しばらく廊下で佇み、よろよろと部屋へ戻る。その途中、大きな満月の光が差し込んできた。とっぷり更けた十五夜は眩しいばかりで、思わず顔をそむけた。

 ***

 瀬島行人は御鍵邸の居間のソファに腰かけ、主の前で小さく縮こまっていた。
 向かいに座る寛治は洋酒をたしなみながら、ただただ威圧的に瀬島を見つめている。彼は何度かため息を漏らし、そのたびに瀬島はビクビクと肩を震わせる。こういうことは今までに一度もない。
「瀬島」
 ようやく寛治の口が動く。
「はい、旦那様」
「最近どうだね。大学の方は」
「えっ……えーっと、まぁ、それなりに」
 言ってすぐ曖昧な返答をしたと後悔し、姿勢を正す。
「学業の方は問題ありません。成績も伸びましたし、これもひとえに旦那様のご支援のおかげでございます」
 機嫌をとるための言葉を並べてみるも、寛治は大して興味を持たなかった。
 またも沈黙が続く。こういう空気に耐えられない。瀬島は得体の知れない恐怖に駆られ、極度に緊張してしまう。
「……あの、旦那様」
 訊いてもいいだろうか。むしろ、訊いた方がよいのだろうか。
 瀬島はこの場から逃げ出したい一心で言った。
「今日はいったい、どういう……?」
 すると、寛治はゆっくりと視線を上げて瀬島を睨んだ。
「お前、絹香を好いていただろう?」
 その問いに、瀬島は息を飲む。喉元が絞まるかと思った。そんなこちらの反応を見て、寛治は嘲るように笑った。
「やはりそうか……」
「なにを急にそんなことをおっしゃるんですか? 僕が、絹香さんを……なんて」
「とある筋から仕入れた話だ。まぁ、気にするな。そこでだ、折り入って頼みがある」
 寛治は洋酒のグラスをテーブルに置いた。
 なにを頼むというのだろう。まったく想像ができない。瀬島はゴクリとつばを飲んで続きを待つ。だが、うまく飲み込めなかった。
「僕になにをさせるつもりですか?」
「今度、絹香を呼び戻すのだ。あれの弟が十二月に九州から上京してくるというから、どうしても戻らねばならないわけだ」
「そう、なのですか……あの長丘様がお許しになられますかね」
 弟の上京で、家出娘が戻ってくる。まったく、奇妙な話だ。
 彼女が出ていってからもう随分になる。これまで頑なに戻ろうとしなかったのに、弟の上京を理由に戻ってくる。その事実を何度か反芻するうち、心に闇が広がった。
「そこでだ、瀬島」
 寛治の言葉が続き、瀬島はハッと我に返る。
「絹香の一時帰宅中、なんとしてでもあいつを引き戻せ」
「は……」
「できるだろう? あんなのを好いているような物好きなのだし」
 瀬島は悩んだ。絹香を引き戻した場合、彼女はこの叔父に蔑まれて、ボロボロな布切れみたいに痛めつけられるのだろう。しかし彼女は治癒の異能を持つ。傷くらい平気なはず──自分の手元に置けるのならかえって好都合だ。
「わかりました。では、ひとつ、僕の願いを聞いてもらえませんか」
「いいだろう。金か? それとも絹香との婚姻か? 確約はできないが、考えてやらんでもないぞ」
 その言葉もどうだか。約束したところで守る気のない軽々しさがある。
 瀬島はカラカラに乾いた口で果敢に挑んだ。
「絹香さんとの婚姻は魅力的です。ゆくゆくは僕を会社に取り立ててもらいたいと思っています」
「そうか。うむ、いいだろう」
 寛治はあっさり了承した。会社の後を継ぐという意味合いも込めたつもりだが、きちんと伝わったのか心配なところだ。
 しょせん、守る気のない約束なのだろう。それでもいい。未来よりも現在(いま)が大事だ。
 瀬島は深々と一礼した。
「ありがとうございます。なんとしてでも、絹香さんを取り戻します」
 こちらも確約のできない約束だ。
 瀬島は拳を握り、こめかみから伝う汗を袴の上に滴らせた。

 ここ最近は、あの恒子と会う機会が増えた。子供の頃に世話になった姉のような存在である恒子には、絹香についてあれこれ話していた。
「まぁ、なるほどなるほど……それはまた坊っちゃんにとって一大事ですわね」
「そうなんだ。でも、絶対にやってみせるよ」
「うまくいくといいですわねぇ」
 橋にもたれてふたりで話し込む。灰色に濁った空が川面に映っていて陰鬱だ。
 傍から見れば、どう見えるのだろう。姉と弟のように見えるのか、それとも年の離れた恋人のように見えるのだろうか。そんなことを考え、思わず笑いが込み上げる。
「あら、どうかしました?」
「いや、なんでもない。恒子ねえさんは優しいな。絹香さんはいつも鬱々としていて、それが儚げで美しいわけなんだけれど……」
「女は愛されれば愛されるほど美しくなるのですよ」
「でも、どれだけ愛を注いでも彼女は返してくれないんだ。これじゃあ、僕ばかり焦がれてしまって、なんだか歯がゆいよ」
 あの頃はそれでも楽しかった。でも、彼女が家を出ていってからは変わった。今度はこちらが愛に飢えていて、勉強もままならない。寛治たちの機嫌をうかがうように、十分気を使っていかなくてはならない。精神的に負荷がかかって非常につらい。
 そんなこちらの心情を()み取るように、恒子は顔をしかめた。
「坊っちゃんのためになれるよう、恒子もがんばりますよ。なにかお手伝いさせてください」
「そうは言うけれど、恒子ねえさんは絹香さんの半分も知らないだろう? 会ったこともないし」
「いいえ、実は絹香さんらしき女性(ひと)を知っています。探してみたんです。おそらく間違いないかと」
 恒子は至ってサラリと白状した。思いも寄らない言葉に、瀬島はキョトンと目を丸くする。
「そうなんだ……そんなことまでしてくれているなんて」
 絹香を知っている、ならばもっと彼女の話をしてもいいだろうか。例えば、彼女の持つ秘密の数々を。
 胸の内に秘めているだけではもう限界なほど、瀬島の心は消耗していた。
「絹香さんは、とてもかわいらしい目をしているんだ。目鼻立ちが整っていて、綺麗な二重まぶたで、睫毛はしっとりと柔らかく長くて、華奢で、黒髪が綺麗で」
 思わず話をすれば止まらなかった。
「それで、彼女はとても不遇なんだ。両親が亡くなって……父親は自殺して、弟とも引き離されて、挙げ句、彼女は化け物と呼ばれていて」
 どんな傷もたちどころに治してしまう。そんな彼女は、とても神秘的で不気味だ。その不気味さが魅力でもある。
 いつまでも子供らしくて無邪気で、健気で愛しい、かわいそうで幸薄な女性。それでもなお勤勉に日々を生きていく(したた)かさもある。それが絹香を構成するすべてだ。
 恒子はすべてにうなずいてくれた。まったく懐の深い女である。
「坊っちゃんは、絹香さんのことを深く愛してらっしゃるのですね」
「あぁ、そうさ。僕は彼女を愛してる。この想いは誰にも負けないよ」
 絹香を愛している。深く深く真っ暗な海溝のごとく、彼女を心から愛している。
 自分の気持ちを再確認し、瀬島は大いに満足した。

 ***

「本家に招く」という宣言どおり、きっかりひと月後の日曜日、絹香は強引に本家へと連れていかれた。
 しかし、これまで当主である義三郎に挨拶もなしで長丘別邸に仮住まいさせていただいている身である。むしろ、挨拶が遅れた。この生活もすでに五ヶ月になろうとしているのに。
 こうなってしまった以上、気を引き締めて、十分に粗相のないよう挨拶をしなくてはならない。これまでの非礼を()びなくては。
 門をくぐる頃には、さすがに腹もくくれた。
「まぁ、言わずともわかるだろうが、緊張して臨めばよい」
 敦貴の助言は役に立たないものである。絹香はぎこちなく笑みを返した。
 長丘本家の中はひんやりと寒い。十一月に入って秋も終盤に差しかかり、庭園の紅葉が美しかったが愛でる余裕などない。
 絹香は黒い羽織に、薄橙と紅葉柄の着物でこの日を迎えた。
 いつになく表情が厳しい敦貴も今日は着物姿で、紺色の袴が凛々しい。
 すぐさま広間に通された。何畳あるのだろう。そんなことを考えていられないほどに足が震えて仕方ない。だが、すぐにその緊張感が途切れる。
「あ! 絹香ちゃん!」
 この場にそぐわない突き抜けた明るさを持つ沙栄の声が響いた。広間の中に沙栄と使用人がいる。
「わー! お久しぶり! んもう、連絡してくださいって言ったのに。敦貴さん、ご機嫌麗しゅう。沙栄が参りましたよ」
 うふふふ、と彼女は含むように笑う。
 敦貴を見ると、彼は目を細めて頬を引きつらせていた。
「父は?」
 わずかに不機嫌そうな声で問う。絹香はおろおろとふたりを交互に見た。
「もうすぐいらっしゃると思いますわ。今日はお義母様も揃っていらっしゃるのですよね。楽しみです」
 沙栄は満面の笑みを向けた。絹香は信じられないとばかりに目を見開いた。敦貴の目はますますどんよりと曇っていくようで、なんだか苦労を垣間見た気がする。そんなこちらの心情を、沙栄はまったく読み取らない。
「あ、いらっしゃったわ」
 はしゃぐ沙栄が絹香の腕を取った。しがみつくように寄り添われ、とにかくそのままにしておく。
 そうこうしているうちに、敦貴の父と母が揃って広間に現れた。
 三人とも、同時に一礼する。
「よう来たな」
 敦貴の父、義三郎がそっけなく声をかけ、上座へ向かう。その後ろを、厳格そうで筋張った初老の女性が歩く。敦貴の母、イツだ。彼女はニコリともせず、着席するなり黙想した。
 絹香は緊張で頭が上げられなかった。
「ごきげんよう、お義父様、お義母様。このたびはお招きいただき、光栄ですわ」
 すかさず沙栄が挨拶する。勝手知ったる家だとばかりに振る舞うも、この場の緊張を和らげる清涼剤のようにも思えてくる。一方、敦貴は堅苦しかった。
「ご挨拶が遅れましたが、御鍵絹香嬢を連れて参りました」
 これに、両親はどちらもなにも返さなかった。
「お母様、ご機嫌の方はいかがでしょうか」
「至って良好です。敦貴さんもお変わりないようでなによりですね」
「ありがとうございます」
「あぁもう、そんなふうにかしこまらないでいいじゃありませんか。ね、お義母様」
 沙栄が口を挟む。この場にいる全員、誰も彼女に注意をしないのが、絹香は奇妙に思えた。この両親は敦貴よりも心が読めないものの、沙栄への態度はゆるやかそうである。
「それで、絹香さんといったかしら」
 思案している間に、イツから声をかけられた。絹香はいっそう恐縮し、頭を下げ続けた。
「はい。御鍵絹香と申します。このたびはお招きいただき、恐悦至極に存じ奉ります。また、これまで幾度のご無礼をお許しくださいませ」
 思わず早口になってしまい、ひやりと肝が冷える。この時間が永遠に続くような気がし、途方に暮れた。そして同時に悟る。歓迎されていないということに。
「ご、ご挨拶が遅れ、誠に申し訳ありませんでした」
「まぁ、そんなふうに謝らなくってもいいのよ、絹香ちゃん」
 沙栄のうろたえた声が聞こえる。
「お義母様も、こう見えて怒っているわけじゃないのだから。ですよね、お義母様」
「えぇ。絹香さん、頭を上げなさい」
 沙栄への返答はとてつもなく早い。
 それもそのはず。絹香は敦貴が勝手に招き入れた、いわば長丘家では部外者に当たる。沙栄は敦貴の許嫁。差は歴然としている。
「絹香」
 敦貴に隣で短くささやかれ、おそるおそる顔を上げる。
 目の前に座る敦貴の両親は、絹香をジッと品定めしていた。とても耐えられるものではない。
 義三郎と目が合う。敦貴が老いたらこんなふうになるのだろうと思うほど、その顔は(うり)ふたつだった。だが、敦貴よりも迫力がある。敦貴の目鼻立ちはイツにも似ているような気もした。
 そんなふたりを前にしても沙栄は平気な顔で落ち着き払っているから、ますますこちらの分が悪いように思える。
 すると、義三郎がボソボソと言った。
「まぁ、愛人にするにはふさわしいツラだな。大いに結構」
 絹香は息を飲んだ。恐ろしさで全身が固くなり、着物の中で冷や汗が垂れた。呼吸するのも許されないような空気を感じ、なんとなく叔父の家での記憶が脳裏をかすめる。
「あなた、沙栄さんの前でそのようなことを」
 すぐさまイツがたしなめるが、義三郎はうるさそうに手で追い払った。
「冗談じゃないか。なぁ、沙栄」
「えぇ。心得ております」
 沙栄は戸惑いつつも上品に笑い飛ばした。
 だが、敦貴も絹香も笑えなかった。同時に、絹香もこの両親をようやく俯瞰(ふかん)で見ることができた。
 ──敦貴様が心を閉じられるはずだわ。
 叔父や叔母よりも品があるのだが、情はいっさい感じられない。しかし、このふたりと常に顔を突き合わせて生活していなかっただけまだよかったのだろうか。
 この長丘家の親子関係がまったくわからない。自分が知る家族像とは遠くかけ離れており、絹香はそれきりなにも言葉を発さずにいた。
 それからのことはよく覚えていない。いないものとして息をひそめるしかなく、沙栄との会話もままならなかった。
「絹香ちゃん、ずっと緊張してしまって、かわいそうに。無理もないわ。お義父様があんなことをおっしゃるから」
 帰る間際、沙栄がいたわるように言った。
「あぁ、顔色が悪いわよ。敦貴さん、絹香ちゃんのことお願いしますね」
 玄関までついてくる沙栄が敦貴に頼む。
「無論だ」
 敦貴は憤っていた。父の失言が許せなかったのか、珍しく感情的である。
 沙栄と使用人たちからの見送りにも気を回せないまま、絹香は車に乗り込んだ。ようやく呼吸ができ、張り詰めたものを解き放つ。
「米田、出せ」
 敦貴の不機嫌が車中に充満し、しばらく気まずい時間が流れる。ようやく長丘本家が見えなくなった頃合いで、敦貴の口が開いた。
「絹香、すまなかった」
「いえ……すべて覚悟の上でした」
「ああなることは確かに想定内だったが、あんなにも直接的に……」
 確かに、本家へ行くまでに再三言われていたものが、いざ目の前にすれば体は動かないものだ。蛇に睨まれたカエルの気持ちがよくわかる。
 そして、自分の立場を今一度、確認できたことで心が潔くなる。絹香は顔を上げて敦貴を見た。
「わたしは大丈夫です。なんだか、いろいろと吹っ切れました」
「なにをどうしたらそんな答えにたどり着くんだ」
 心底意味がわからないといった様子で敦貴が呆れる。そんな彼に対し、絹香は完璧な笑顔を向けてみせる。それは、叔父から強要された世間向けの笑顔のような、心を隠したものだった。
「どうぞ、お気になさらず」
 それまで曖昧だった境界に、明確な直線が引かれた。

 長丘別邸へ戻ると、玄関前に恒子が待っていた。車が見えた瞬間から、彼女は深くお辞儀して待っている。
 先に敦貴が降り、その次に絹香が降りる。
「お帰りなさいませ」
 恒子が言葉をかける。そして、彼女は主人ではなく、真っ先に絹香の方へ顔を向けた。
「絹香様、お手紙が届いております」
 恒子が差し出す封書を、絹香はすぐに受け取った。
「ありがとうございます」
 お礼を言うも、恒子はとくに反応を見せなかった。一方で、敦貴は不審そうに絹香への手紙を見やる。
 長丘邸に世話になると報告してから、一度も手紙をよこさなかった弟である。ようやく返事が届いたことに喜ぶべきだが、今の絹香にはあまり余裕がない。
「誰からだ?」
「弟の一視です」
 その答えに、敦貴は「そうか」となにやら安堵した。
 邸に入り、絹香は着替えがてらさっそく手紙を開封した。
 その内容に、すぐさま目を見張る。そして、すべてを読み終えて部屋を飛び出した。
「敦貴様!」
 思わず居間に飛び込むと、敦貴が驚いたようにこちらを見た。
「どうした」
「あ、あの……こんな時になんですが、一視が叔父の家に滞在するようでして……」
 絹香は手紙を持ったまましどろもどろに告げた。