ここはどこだろう。凛は薄暗く深い森の中に居た。
足音が聞こえてくる。誰かが近づいてくる。だけど、それが誰なのか、ハッキリとは分からない。

「あなたは誰ですかーー?」

思わず、その人に聞いてみる。だけど、何も喋らない。
その人は何も喋らず、ただニッコリと悪魔みたいな怪しい微笑みを浮かべて、急に顔を近づけてくる。

「ーー⁉︎」

凛はその人が誰なのか気になる筈なのに怖くて顔を見ることができなかった。
この状況から逃げたいのに、逃げ出せない。
先ほどまで暗い森の中に居た凛はいつに間にか体を壁に押し付けられて、身動きが取れなくなっていた。

怖い……誰か助けて……。
凛は謎の人物に髪を掬い上げられ、くるくると遊ばれる。
そして、耳元でこの謎の人物の声を初めて聞いた。

「君なんかよりもーーなーーを見つけたーー」

声を聞いた瞬間、こぽこぽーーと自分の意識が深い海に沈んでいくのを感じた。

「お待たせ〜!!!」
「あ、七海……」
「どうしたの?体調悪い?」
「ううん。暑くてぼーっとしちゃった」
「えー大丈夫?」

昨日は何だか怪しい夢を見た。朝目覚めたときは汗をぐっしょりかいていて、少し不気味で怖かった。今日は一日中、その夢のことを考えていてしまったていた。
ダメだ……ダメダメ!!今日は七海と遊ぶ日なんだから。

夏休み前半は学祭稽古の毎日だった。足は治り、すっかり良くなった為か、だいぶ莉子たちから厳しい言葉を言われることは少なくなった。まぁ、彼女たちの顔色を伺う日々は続いているけど…………。

「じゃあ、行こっか」

八月の夕焼けが辺り一帯を照らす。二人は浴衣姿だった。
境内へと足を踏み入れると、普段は厳かに感じる神社が、今日は一段と明るく陽気な雰囲気に包まれていた。沢山の屋台が道を挟むようにして立ち並び、花や蝶の模様の浴衣姿が所狭しと見える。屋台からはりんご飴やわたあめの甘い香りに、焼きとうもろこしやいももちと言った香ばしい匂いが鼻を掠める。

「うわぁ〜賑わってるね」
「誰か知り合い居るのかな?」
「こんだけ人が居るなら、誰かには絶対遭遇するねー」

「きゃはは」と小さな子どもたちがヨーヨーを手で弾ませながら、遊んでいる。
境内のポイントになる場所に設置されているスピーカーからは祭囃子の太鼓や笛の音が鳴り響いていた。凛は取り敢えず夏祭りの屋台の中で一番の大好物であるいももちを買う。七海はお好み焼きを買った。

境内の奥に進み、休憩スペースのテーブルに席を着く。

「これこそ、お祭りの醍醐味だよね〜」
「美味しそう」

透明なパックを開けると暖かい、いももちから小さな湯気が出ていた。上にはひとかけらのバターが乗っていて、先ほどから香っていた醤油の香ばしい匂いがたまらない。

「そういえば七海、改めて事務所決定おめでとう」
「ありがとう。またスタート地点に立たせてもらったばかりだから、頑張らないとだけどね」
「七海は凄いなぁ……私も見習わないと」
「凛は大丈夫だよ。ちゃんと凛の魅力に気づいてくれる人は居る」

七海はいつも前向きな言葉を掛けてくれる。
だけど、そんな七海とは正反対に凛の心は正反対の方向に向いていた。

凪くんも居たら良かったのに。

凛はどうして、凪を忘れることができなかった。
別れてから数日後も彼とは連絡を取り合っていた二人だが、トーク画面は凛の【今日は何してたのー?】のままだ。彼は既読を付けている。

仕事が忙しいのかな?と待っていたが、返信が返ってくることはなかった。インスタのストーリーには男友達と焼肉やカラオケに行ったという投稿がされていたので、きっと同性の友達の方が気を遣わなくて良いのだろうなって思ってしまう。

凪くん、お祭りどんな格好で来てたのかな。凪くん屋台は何が好きなんだろう。射的とか得意なのかな?あ、金魚掬いとかもできそう。やっぱり凪くんは炭酸が好きだから、ラムネとか飲むのかな。

凪のことばかり考えていると、凛はラムネが飲みたくなってきた。いももちを平らげ、七海がお好み焼きを食べ終わるのを待ってから、また二人で屋台へと向かった。

ラムネは焼き鳥の屋台の隣にあった。
沢山の氷水には赤、青、透明の三色のラムネが浸かっていた。お祭りの明かりも相まって、とても綺麗だ。

「へい、いらっしゃい!」

屋台のおじさんの元気な声が響く。

「ラムネ一本ください!」
「私も。赤いラムネください!」
「はいよ!一本、150円ね」

おじさんにお金を渡すと「好きなの選びな!」と言ってくれたので、七海は赤色、凛は青色のラムネを選んだ。
後ろにもお客さんが居るようだったので、二人はラムネを片手に別の屋台を見てみようと後ろに振り返った。

え……。

「俺、炭酸好きなんだよね。不健康でしょー」
「そんなことないですよ!私も炭酸大好きです!」

四つの瞳が視線が交差する。凛の眼前には目を剥くような光景が広がっていた。
その瞳は動揺を隠せず光が揺らいでいる。

凪くん……まさか……。

凪の横にはピンクの浴衣を着た可愛らしい女の子がちょこんと立っていた。

自分と同じくらいの身長、同じくらいの髪の長さ、そして少し親近感を感じてしまう雰囲気ーー。
隣の彼女を見て、自分自身を見ているんじゃないかと凛は錯覚をする。
よく見ると、同じ学校で他コースの後輩だ。

ゆっくりと凛の視線が自分の履いている下駄にまで下がっていった。
凪の視線はまだ頭で感じている。
一体、彼はどういう想いで見ているんだろう。怖くて見れない。
状況を察した七海に手を引かれた。彼らの横を通り過ぎると、女の子が「凪先輩?」と心配そうに声を掛けているのが聞こえる。

「何でもないよ。それより、彩葉ちゃんの今日のその浴衣、めちゃ似合ってる。可愛い!」

夜の風がするりと流れ、風鈴を揺らす。
普段は心地よく聞こえるその音色が凛の耳にはつんざく音色に変わっていた。
うるさい……うるさいうるさい!!!
耳を塞ぎたくなる。目を瞑りたくなる。
だけど、凛は七海に手を引かれながらも、見てはいけない景色を覗いてしまった。

「ラムネのビー玉って綺麗だよね」

凪は水色のラムネを少し空に掲げながら、透明で綺麗なビー玉を女の子と見つめ始める。隣の彼女は勇気を出して、凪の腕に優しく触れた。
距離が近づいた二人の頬はほんのり赤かった。

「凪先輩……」
「彩葉ちゃん……」

初々しい二人の姿。悔しいほどに二人が作り出すその世界はとても綺麗だったーー。
月が出ている夜。人口の明かりに照らされていた二人と水色のラムネは輝いていて、凛は何だか恋愛ものの番組か何かを見させられている気分になった。
きっとアニメでこういうシーンを見たら、感動していたに違いない。

目の前の景色が綺麗に映りすぎて、胸が苦しくなる。
あなたの隣を浴衣で歩いてみたかった。
まだ、その優しい瞳と見つめ合っていたかった。だけど、今の私にはそんな資格はない。許されない。

凪くんーー。

私はどこが足りなかったかな……?どこを直したら、また振り向いてくれるかな。
でも、もう無理なんだよね。この状況を見たら分かるよ。

「味方だから」

嫌だ……嫌だよ……私にはあなたが必要なんだ。
凛はこの状況を認めたくなかった。彼があの子と付き合う為に自分に嘘をついて、友達に戻るだけだという約束をいとも簡単に破ってしまったことを認めたくはなかった。いまだに凛の中では彼はヒーローだ。ヒーローで在り続けて欲しいのだ。
それじゃないと、凛は自分の心が壊れそうで怖かったーー。

「凛、大丈夫?」
「うん……大丈夫だよ……」

大丈夫だよと安心させるように、精一杯の笑顔を七海に向けた。
だけど、彼女は悲しそうに目を細めた。
本当に大丈夫だから、心配しないで……あなたには迷惑をかけたくないの。

「そんな悲しい顔しないで。私は本当に大丈夫だから」
「いや、凛は無理してる。大丈夫じゃなーー」
「大丈夫!」

力が込められた言葉が二人の間に響く。それから、七海はボソリと呟く。

「凛はもうあの人と関わらなくて良い。不幸になっちゃう」
「え、何で?」
「だって、あの人はきっと凛のこと……」

七海は急に黙ってしまった。

「私のことが何なの?」
「凛と付き合ったの遊びだったんだよ。きっと今の子も遊び。あの先輩はそういう人……」
「え、どういうこと」
「私も最近聞いたんだけどね……」

七海から聞いた彼の情報は凛にとっては信じ難いものだった。
実は一ヶ月周期で彼女が変わっていたこと、凛と別れた二日後には別の女の子と一緒に焼肉やカラオケに行っていたこと。
じゃあ、私が前に見たストーリーは男友達じゃなくて、女の子だったんだ……。

「だから、別れて正解だったんだよ。もし付き合ったままだったら、もっと傷つけられたのかもしれない」

信じたくない……そんなの……そしたらあの言葉はーー。

「凛ならできるよ。俺は応援してる」

何も想いなんて込もっていなくて、ただのセリフでしかなかったの?
私が救われた言葉は嘘?

「な、凪先輩はそんな人じゃないよ」
「……」

凛は思わず、好きな人を庇ってしまった。七海は本当に心配をしてくれているのに、彼女の言葉を否定するのも、好きな人を否定されるのも、どちらも同じくらいの悲しみがあった。

「私……知ってるもん。優しいの知ってるもん。怪我したときだって、家に駆けつけてくれたし、好きじゃなかったらそんなの面倒くさいでしょ?でも、頼ってねって言ってくれたし、味方だって……」
「凛……」
「それに、凪先輩は私がまだ好きなの知ってるよ。別の女の子と付き合ったら、私が傷つくの分かるよね……?何でそんな分かりきったことするの……?理解できないよ。傷つける行為だって分かってて、行動するの?おかしいじゃん……」

本気で好きになったんだ。救われたんだ。大好きなんだ。
あの人しか本気で好きになれなかったから。あの人のおかげで救われたことがあるから。私はまたあの言葉を言ってもらえるようにーー。

「いや、そういうことする人なんだよ。もう、忘れなよ……」
「ごめん、七海……」

凛はお祭りの人混みを見つめる。
きっとあの奥では二人が楽しそうに夏祭りを過ごしていることだろう。

「私はね、あの人にまた救って欲しいんだ。本気で大好きだから。また一緒に居たいんだ」
「そっか……」

ごめんね、七海。今ね、私ものすごく辛いの。だけど、あなたには言えない。
先生に迷惑かけるなって。私はずっと七海に迷惑をかけながら、生活してるって言われたの。
七海には絶対に言えない。だって、七海は凄く優しいから、自分のことほっといちゃう。そんなのはダメだから。私のせいで、何かを失って欲しくはないから。

だから、凪くん、私をもう一度だけ救ってよ。救えるのはあなたしか居ない。
あなたに振り向いてもらえるなら、頑張るよ。あなたが好きと言ってくれた笑顔を絶やさずに。

「分かったよ」
「え?」
「私は凛を応援する。確かに先輩と居るとき幸せそうだったから。私は凛に幸せになって欲しい」
「ありがとう。私、頑張るよ。役者の夢追いかけて頑張ったら、きっとまた一緒になれるって信じたいんだ」
「そっか……辛くなったら、言うんだよ?」
「うん!」
「よし!じゃあ、気を取り直して夏祭りを楽しもー!!!」

夏祭りから数日後、学生最後の夏休みは終わりを迎え、新学期が始まった。
学祭公演稽古や進路活動が本格化していく中、凛は改めて自分と向き合う。自分を知ることが大切だと思い、日々自分に対しての研究を始めた。

どういうメイクが一番、可愛く魅せてくれるのか。ファッションも姿勢も自分の演技も。役者の夢に一歩近づけば、凪はまた自分に振り向いてくれると信じて。
凛は彼が簡単に人を傷つける人じゃないと信じている。
だから、誰にも気づかれなくても、評価されなくても凛は努力を続けた。
努力はいつか叶うから。いつか自分を否定する人に証明してみせる。凪にも証明してみせる。

凪くんに振り向いてもらえたら、私には価値があるーー

「凪くん、これコーヒー」
「え、ありがとう!嬉しい!」

だけど、状況は変わらない。
凪と彩葉は正式に付き合った。凛は彼のインスタのストーリーで二人の関係を知ってしまった。
幸せそうに恋人繋ぎをしている写真を載せ、手書き風フォントの文字で「これから、よろしくね!」と書いてあったのだ。
限定公開じゃない。私でも見れてしまった場所で公開していた。

「もうバカ〜彩葉はおっちょこちょいだな〜」
「えへへ……」

凪はぽんぽんと彼女の頭を優しく撫でる。周囲の人のことなんて気にせず、二人だけの世界が作られていた。
凛はもう自分はその世界に入る権利がないのだと痛感する。
私になんて、見向きもしない。

凪は彼女を溺愛していた。休み時間になったら、常にあの子を横に並ばせ、帰りは必ず恋人繋ぎをして帰る。デートも頻繁に行き、おしゃれなカフェや美味しそうな焼肉を食べに行ったりしている。
全部、インスタに写真を載せているから知ってしまっている。

今まで「〇〇を弾いてみた」の動画で溢れていた彼の投稿はいつの間にか彼女の可愛い写真で埋め尽くされるようになっていった。
もちろん、いいねなんて押さない。押したくない。

彼に優しい手で頭を撫でられている彼女を見ると、うっとりと幸せそうな目で凪を見つめていた。とても、純粋な目だ。本当に心の底から彼が大好きなのだろう。

「今日も可愛い」

一つ一つの言葉に凛の心は曇っていく。
きっとあの子が主人公の少女漫画があったら、売れるかもしれない。
身長差カップルの甘い恋に読者はキュンキュンと胸をときめかせていたに違いない。

「そういえば、この前作ってくれたお菓子、すごい美味しかった!」

そして、私は嫌われ者の元カノ。二人の幸せを邪魔する悪者で、主人公にとっても読者にとっても嫌な敵。
主人公は絶対に大好きな人と結ばれて幸せになる。

「今度はどんなお菓子作ろうかな〜」

漫画の中で元カノは絶対に大好きな人と結ばれず、平凡な日々を送っていく。

「彩葉の今日の服、めっちゃ俺好みー」
「えー嬉しいな〜」

いや、家でやれよ。公共の場でイチャイチャするなよ。

「はぁ……」

あーあ、どうせ負け犬の遠吠えですよ。私は捨てられた元カノですよ……。
見てはいけないと分かっている。だけど、どうしても二人のやり取りを見てしまう。沢山の人がサロンで談笑しているのに凛には二人の会話だけが頭の中に響いていた。

「あ、これからまた新曲作るから、近くで見守っててよ」
「うん、もちろん!」

別れちゃえば良いのに。私の所へ戻って来てよーー。
嫌いだ……こんなことを思ってしまう私が嫌いだ。
本当なら、彼の幸せを願うべきなのに。私は二人の不幸を祈ってしまう。

凛は知っている。
きっとスマホのロックやホーム画面は彼女で、ラインのトークの一番上はピン付けされているあの子で、誰よりも最優先なのは彩葉ちゃん。

私の写真はとっくに消されているか、残っていたとしても、あの子の写真の量にはきっと負けている。

「お仕事は大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。余裕ー余裕ー!」

本当はきっと無理をしている。だけど、あの子の為なら頑張れるんだ。
私もそうだ。凪くんの為なら頑張れた。どれだけ、嫌なことがあっても頑張れたのだ。

「大好き」
「ごめんね」
「頑張るよ」
「味方だよ」

この言葉を言ってくれたときのこと、もう覚えていないんだろうね。
それじゃあーー、

「凛ならできるよ。俺は応援してる」

この言葉も忘れちゃった?
ずっとこの言葉が心の支えだった。どんなに辛いことがあっても、苦しくても頑張れた大切な言葉ーー。
いつかまた、一緒になれる日が来ると信じて疑わなかった。
だけど、もう無理だよね。だって、今の凪くん物凄く幸せそうなんだもん。私じゃ、だめだったんだ。こんな私じゃ……。
凛の劣等感はどんどん強くなっていく。

「彩葉は最高の彼女だよ!」

私は彼の最高の彼女にはなれなかったのだろう。
そう宣告された気がした。
サロンに居るのが辛くなった凛は誰も居ないであろう場所へ向かった。
凪は横を通り過ぎる凛の姿には一切気づかなかった。



この学校は縦長の建物で、各階に外に出られる場所がある。
凛は絶対に人が来ないであろうと読んで、七階の外階段の踊り場で空を見つめる。

「苦しい……苦しいよ……」

誰かに救って欲しい。このどうしようもない苦しさを、理解して欲しい。
目の前にある光に凛はどうしても、手が届かない。だけど、どうしてその光に触れたいと凛は麻薬を欲するかのような姿で思いっきり手を伸ばす。

足を怪我してから、凛には何も良いことが起こらなかった。それどころか、不幸の連続だ。舞台は降板してしまったし、そのせいで高原先生からの当たりは強くなった。同期には酷い言葉を投げかけられ、それでも凪が居たから耐えてきたのに。
凛は彼に振られてしまった。
そして、凪は凛に嘘をついて、約束を破るという行動をした。

ずっと強く耐えてきたのに。この悪い状況を変えたくて、努力しているのに、何で何も報われないんだろう。やっぱり、こんな私は不幸に生きることが運命だったのか。

今の自分はやつれた顔をしているだろう。心の底から疲れているのだ。最近、家で泣かない日はない。
いつだって、寂しくて辛くて、誰かに助けて欲しいのに言えない。

「凪くん……」

家に居るとふと、彼の気配を感じることがある。つい部屋を見渡してしまうが、もちろんどこにも凪の姿が見える筈なんてない。
事実を知るまで、凪と過ごした日々を思い出すことは苦ではなかった。寂しい気持ちを埋めてくれる大切な思い出だったからだ。
だけど、今はどうだろう。埋めるどころか、余計に心に穴を開けてくる。

凪と一緒に歩いた帰り道、一緒に迎えた朝、その何気ない日常を凪と過ごしたかった。特別なことなんてなくて良い。あの日常が幸せだったのだ。日常さえあれば頑張れたんだ。
心が暖かくなる優しい彼の匂いも覚えている。優しく笑う表情も、何よりイベント公演で魅了されたーー、

『朧げな世界の向こう側で、確かに強く輝いている星を見つけた』

あのとき感じた想いが強く、色濃く凛の心の中に残っている。
私はやっぱりーー。
凪くんに救って欲しい。「凛はできるよ。応援してる」あの言葉をもう一度だけ言って欲しい。
私を上手く騙して。騙したまま、幸せにして。もう、付き合いたいなんて我儘は言わないから。

ちゃんと、いつかは忘れるから。だけど、まだ私のヒーローで居てよ。
私は弱いから。才能がなくて無価値な人間だから。
ヒーローの存在が必要なんだ。

「あ……あぁ……あぁ……!!!」

凛は手の甲で零れてくる涙を拭った。本当は今、泣きたくなんてなかった。
好きだよ……まだ大好きだよ……。

この叫びも、あなたには聞こえてないよね。
今が最高に幸せなんだよね。無価値な私よりその子の方がずっと良いんだよね。
あぁ、私って最低な人間だな。
まだ、今の凪を応援することができない。好きな人の幸せは願うべきなのに、まだあなた縋り付いて何かを求めてしまう自分が惨めに感じる。

本当は気づいていたんだ……。
もう、私と過ごした日々を全部なかったことに書き換えていること。
もう一緒にはなれないこと。彼が女たらしでどうしようもない性格なのも。
気づいていたけど、気づかないフリをして心の中に蓋をしていたんだ。

気持ち悪い……私はなんて気持ち悪いんだ。
早く凪くんから離れろよ、早く忘れろよ。

そう思う度に彼との思い出を強く思い出してしまう。
急いでポケットからスマを取り出し、既読無視されたままのトークをタップする。
これを消せば変われる。そう自分に言い聞かせて、トークを消した。
次はアルバムを開く。お気に入りのフォルダには凪との思い出の写真が並んでいた。
どの写真も二人は幸せそうに笑っていた。本当に楽しかったからだ。
でも、今となっては凪の気持ちはどうだったのかは分からない。
本気で好きだったときがあったのか、それとも私は遊びだったのかーー。
全ての写真を選択し、消そうとする。

『本当に消去しますか?』

勇気を出して、『はい』をタップした。一瞬で思い出が消えていく。形として残らなくなった。
さらに頭の中では凪との思い出を思い出さぬように真っ黒な油性ペンで書き殴った。
忘れろ。忘れろ。凪くんから離れるんだ。彼にとって、私は必要のない存在なんだ。気持ち悪いから、忘れろ。

「大丈夫ーー?」

急に書き殴っていた手を止められたような気がした。
ゆっくりと後ろを振り返ると扉を開けたまま固まっている坂本響の姿が目に映った。彼はとても、心配そうな顔でこちらを見ている。
まただ、また見られてしまったーー。

「泣いてるの……?」
「な、泣いてない!」
「泣いてるじゃん」

響から顔を背けるが、彼が「どうしたの?」と横に並んでしまった為、逃げられなくなった。
ものすごく恥ずかしい……二度目だーー彼に涙を見られてしまったのは。

「少しでも話したら、楽になれると思うよ?」
「……」

ずっとこちらを見つめてくる響の視線に耐えられなくなった凛は渋々、彼に話をすることにした。

「あのねーー」

全部、話してしまったーー。
本当は少しだけ話すつもりだったのだが、どんどん止まらなくなり苦しかったことを全て話してしまった。
彼は沈黙を貫いたまま、話を聞いてくれる。

「もっと一緒に居たかった。繋がっていたかった。だけど、もう叶わない……ものすごく苦しいの……」
「凛はずっと頑張ってきたんだね。物凄く苦しい筈なのによく頑張ったね」

凛は恋愛でくよくよしていたら、「未練タラタラだ」とか「もう忘れなよ」と言われるかもしれないと覚悟していた。
でも、そんなことはなく、まだ凪のことが好きな凛の想いを響は優しく肯定をしてくれた。

「これから辛いことあったら、ここで話そう。俺はいつでも聞いてあげるから」

彼は優しく笑った。その笑顔に釣られて、凛も不器用ながらに笑う。この到底笑顔とは言えない表情は少なからず私の本心で素の姿だ。偽っていたら、もっと笑顔になるだろう。いつかまた心の底から思いっきり笑えるようになりたいと願った。

誰かに悩みを話すと関係が変わってしまうかもしれない。最悪の場合は関係が壊れてしまうかもしれない。恐怖で臆病な私は誰にも言えずにいた。

「言わなきゃ良かった」と後悔したくない。

その点、何にも関係がない響には話しやすかった。彼はアドバイスをするわけでもなく、無条件にただ、話を聞いてくれる。
そんな響の存在が今の凛にとって、有難い存在だった。
話を聞いてもらうと心がすうと軽くなる。また頑張ろうと思えるのだ。
だけど。

「あのね、今日はねーー」
「またイチャイチャしている所、見ちゃったーー」
「莉子たちにーー」

響に相談する回数が週に一回から、二回、三回と増えていった。しかも、毎回私が「話を聞いて欲しい」と呼び出している。
普通だったら、もうウザイと感じるだろう。しかし、響は微塵もそんな素振りを見せなかった。むしろ、話をする度に彼はニコニコと笑って、元気を与えようとしてくれた。

だけど。

響に話をしても、段々と満たされなくなる自分が居た。
凛を取り巻く環境は中々変わらない。
彼にどれだけ励まされても、それを追い越すように苦しみは重くのしかかってくる。いつの間にか、響の言葉の薬の効果は短くなっていった。彼の言葉が響かなくなっている。
今までの薬が効かなくなってくると、どんどん強いものを求めてしまう。

簡単には手に入らない、極上の救いの言葉。
やっぱり、凪の言葉が今の凛にとっては必要だった。

でも、怖い。凪に話しかけたときに怪訝な目をされたらどうしよう。私は捨てられた側なのに話しかけても良いのだろうか。いやダメだ。彼には彼女が居る。元カノの私が話しかけられる身分じゃない。でも、彼の言葉が欲しい。

凪の言葉が欲しいのに行動できない臆病者だ。
このどうしようもない欲求は響では満たされない。

『七海に話せば良いんだよ!』

急に知らない声が私に話しかけてくる。いや、これはーー。
声がのする方に振り向くと、そこには『私』が居た。十歳ぐらいだろうか。白いワンピースを着ていて幼い。
彼女は椅子に座って、こちらに向かってニコニコと子どもらしい素直な笑顔を見せていた。
凛は当たりを見渡す。少女と椅子以外は何も存在していなかった。

「あなたは?」
『私はあなた。あなたは私ーー』

ここからは分かりやすく彼女のことを少女と呼ぼう。
少女は私に話しかけて来たときの言葉を続ける。

『七海にお話ししたら楽になれるんじゃない?』
「絶対に話さないよ。というか話せない」

このことに関しては即答をした。ずっと決めていたことだ。

『どうして?』

少女は純粋な表情でこちらを見てくる。本当に小さい頃の私のようだ。
まだ世界も人間も綺麗だと思っていた私だ。

「ずっと親友で居たいの。七海は優しいから話したら、きっと私は依存しちゃう。七海に私の傷を背負わせたくない。七海をーー傷つけたくない」

『それは違うーー』少女は私の言葉を少し遮り、言った。

『君は他人を傷つけて、自分が傷つくのが怖いんでしょ。でも、響はなーんも知らない部外者だから特に傷つく要素がない。ただ、話を聞いてくれる存在であってくれれば良い』

私は少女のことをきつく睨む。彼女は「ふふふ」と可愛く笑うと、また話を続けた。

『ねぇ、あなたの本当の目的はなぁに?思い出してよ』
「じゃあ、あんたが教えてよ」
『それは言えない。自分で気づかないと意味がない』

少女は澄ました顔をする。全てを知っているような表情。
こいつは私の何を知っているのだろう。腹が立って、思わず少女の胸ぐらを掴んだ。

「大嫌い。ムカつく……」
『それ、自分に返ってきてるの自覚してる?』
「あんたは私でしょ?そんなの分かってる。だからーー」

パチンーーという音がいやに響いた。
私は少女の頬を叩いたのだ。心が軽くなった。
突然の出来事に彼女はしばらく放心状態だった。
赤くなった右頬を自分で触ると、ゆっくりと視線をこちらに向けた。
私はとびきり良いことを思いついてしまった。

『何で……』

七海には話せない。響もいずれ限界が来て、救われなくなる。凪はもっと難しい。
彼女を傷つけることで、ほんの少しでも満たされるならーー。
ここは誰も見ていない。邪魔もされない。

「私は大っ嫌いだから。あんたが」

少女の目は涙ぐんでいる。助けを求めている。
これは紛れもなく、『私』だ。泣き虫で弱い臆病者。
私の大嫌いな所を沢山集めた存在だ。見ているだけでイライラしてきた。

もう一度、少女の頬を叩く。気持ち良かった。

『やめてよ……痛いよ』

そうだよ。誰かを傷つけるよりは幾分かマシじゃないか。