「昔のお兄ちゃんはかっこ良かったよ!!きらっきらな笑顔でサッカー選手になりたいって言ってたじゃん!将来の夢を楽しそうに話してくれたじゃん!!」

パチンと演技が止まる。

「よし、良い感じじゃない?ちょっと休憩して、主人公の妹が出てくるシーンから今の所まで通してみようよ」
「おっけー凛、今のセリフの言い方すごい響いた。その調子」
「ありがとう。もっとレベル上げられるように頑張る」

よし、家で考えてきたことが表現できた。この調子だ。あとは慣れすぎないこと。
新鮮さはいつも忘れてはいけない。一つ一つのセリフや表情を大切にしよう。
凛は改めて演技の要点を頭の中で反復する。

「よし、じゃあ妹が走ってくる所から」

七海が手を強く叩いた瞬間、空気が変わる。
凛は主人公役の動きを見ながら、自分の出のタイミングを見計らい、勢いよく袖から飛び出し、主人公に向かって走り始めた。
登場はバシッと決めなきゃーー!!

「えーー」

グキリと嫌な音が聞こえてくると同時に足に電撃のようなものが走る。
本来は主人公の前で止まらなければいけないのに凛は止まることができずにそのまま、倒れてしまった。
何かにつまづいたわけでもない。それなのに何もない所で転んでしまった。
ストレッチだって事前にしっかりと伸ばした。一切抜かりなく。

「凛!大丈夫⁉︎」

みんなに駆け寄られて、凛は途端に冷や汗が止まらなくなる。どうしよう……私のせいで稽古を止めてしまった。本番は明日なのに……痛い、痛いけど立ち上がらなきゃ……笑わなきゃ……。

「あはは、転んじゃった。大丈夫大丈夫」

無理矢理立ち上がろうとしたが、足が思うように動いてくれない。七海に体を支えられても、足が痛すぎて歩けなかった。

「凛、大丈夫じゃないでしょ?」
「大丈夫だよ。ちょっとふらついただけ。稽古再開しよ?」
「ダメ。一回、高原先生に言わなきゃ」
「言わないで……」

七海の目を見つめ、心の底から懇願した。
私には今しかないのだ。怪我のことを高原先生に言えば、かなりの確率で舞台を降板させられてしまう。今、このチャンスを逃してしまったら、一生チャンスが来ないのかもしれないと直感した。

「あぁ、じゃあ他のシーン稽古しててよ。ちょっと休んだら治る筈だから。端っこで座ってるね」
「凛、どうしたの?いつもと何か違うよ……」
「ごめんね七海、体支えてもらっちゃって」
「そういうことじゃない。普段の凛なら絶対に無理しないのに」
「今は無理しなきゃいけない時期だから。せっかくチャンス貰ったの。このチャンスを無駄にしたくない……もっと頑張らなきゃいけない」

強く拳を握って悔しさを堪える。

「はぁ……」

左足の痛みは増すばかりだ。いつの間にか紫色の痣が大きくなっている。

「足痛い?一回、保健室行こう?」
「大丈夫。痛くない。七海も私なんかに構わないでみんなの稽古を見ててあげてよ。私、怪我とか病気すぐ治るタイプだから大丈夫」

だけど、「凛のこと見てる」と言い、七海は私の傍を離れなかった。
結局、少し休んだだけじゃ歩くことはできずに高原先生に報告しなければいけなくなり、病院に行った。

「少し重い捻挫ですね。幸い靱帯は傷ついていなかったので、包帯などで固定して安静にしましょう」
「あの、明日舞台の本番があるんです。テーピングとかして出られませんかね……?」
「中嶋さん、歩くのも辛いでしょ。そんな状態で足に負荷をかけたら、もっと大きい怪我に繋がってしまいます。残念ですが、明日の舞台は厳しいでしょう」
「そんな……」
「安静にしていれば二週間程で治ると思います。今はしっかり治して次の舞台に出られるように準備をしましょう?」
「はいーーありがとうございました……」

病院の先生に挨拶をすると凛は怪我した足を軽く引きずりながら、横開きの扉を開けた。そこには病院まで一緒に付いて来てくれた高原先生が居た。
絶望の目を高原先生に向けながら、凛は言いたくない言葉を口に出した。

「高原先生、明日の舞台、降板させてください……」
「分かった。役のことは心配しないで。七海に代役やってもらうから」

当たり前だし、自分のせいなのだからしょうがない。
代わりなんていくらでも居る。

「はい……すみません、ありがとうございます……」
「まずは足をしっかり治すこと。無理は絶対にしない」

せっかくのチャンスを泥の中に落としてしまった。
今日はもう高原先生に家まで送ってもらい、帰路に着いた。



【凪くん、怪我して舞台出られなくなった】

久しぶりに弱ってしまって彼に何となく連絡をした。

【え!!ちょっと待って!今から家行くわ】
【え、でも仕事は?】
【今、終わったから大丈夫!すぐに行くから!待っててね】

凪くん、ありがとう……あなたが駆けつけてくれるだけで、すごく強くなれるよ。

「凛、大丈夫⁉︎」
「稽古で足怪我しちゃった」
「もう、無理したんでしょ。取り敢えず座ってて」

凪に抱えられ、凛はベッドの上に座らせてもらった。

「うん。ありがとう」
「あ、晩御飯食べた?」
「まだ食べてない」
「その足じゃ、立ってるの辛いでしょ。取り敢えずコンビニ弁当なんだけど買ってきたから一緒に食べよう?」

そう言いながら、凪は袋からコンビニお弁当をテーブルに並べる。
わざわざ買って来てくれたんだ。何て申し訳ないことをさせてしまっているのだろう。絶対に仕事で忙しい筈なのに。

「本当に仕事は大丈夫……?」

最近、彼はずっと眠たそうだった。依頼の仕事が増えたからであろう。
今日だって無理をして来てくれたに違いない。

「取り敢えず大丈夫。今は凛の方が大事だから」
「ありがとう」
「どのぐらいで治りそうなの?」
「二週間ちょっとだって。靭帯とかは切れてない」
「そっか。切れたり折れたりしなくて良かった」
「今は安静にしときなさいって」
「当たり前だよ。きっと頑張りすぎたんだ。少しお休みしなさいってことなんだよ」

ポンポンと子どもをあやすみたく頭を撫でられた。

「良いかい?無理は絶対にしないこと。凛は頑張りすぎる癖があるから。辛いときや苦しいときは必ず言うこと」

少し笑いながら「はい」と答える。

「もう、笑いごとじゃないよー」
「何かお母さんみたい」
「俺は凛の彼氏ですよー!」

今度はくしゃくしゃと頭を撫でられる。

「やめて〜よし!私は〜こうだ!!」

思いっきり彼の脇腹をこしょこしょする。すると彼は「やめてー!」と笑いながら、ほんの少し瞳に涙を浮かべていた。
やめると今度は私がやり返された。二人で思いっきり笑う。
彼があまりにも優しくて眩しすぎるから、辛さを笑い飛ばせてしまった。今日は辛かった分、沢山笑おう。そうしたら、また頑張れる気がした。

次の日の本番は大成功したらしい。特に主人公の妹役の女の子の演技が素晴らしかったと絶賛されていたそうだ。



「あ、石田先輩居るよ」
「え⁉︎」

昼休みに七海と昼食を摂ろうとサロンに来た瞬間、彼女は凪が居る方向を指を刺した。サロンの奥の方にある小さなテーブルで真剣な表情をしながらパソコンと向き合っている彼が居る。今日姿を見たのはこれが初めてだが、いつにも増して険しい顔だった。何かあったのだろうか。
「行って来たら?」と七海に肘でコツンとされた。

「彼女の姿が癒しになるかもよ?」
「心配だからちょっと行ってくる」

「凪くん、お疲れ様」

凪は凛の存在に気づくと慌てて、ヘッドフォンを外した。

「あーお疲れ……どうしたの?」
「物凄く険しい顔してたから心配になって……あ、これ良かったら飲んで?」

凛は缶コーヒーを彼の手元に置く。

「ありがとう。ちょっと今依頼きてる仕事がかなり無茶振りなんだよね。それで困ってる……」
「そっか……私、見守ることしかできないけど、応援してるよ。凪くんならできる」
「ありがとう。今日、家に行っても良い?」

今日は火曜日だった。珍しいなとも思ったが、もちろん「良いよ」と言った。



「美味しいね」

今日の凪は本当に元気がなさそうだった。
いつもなら勢いよく食べてくれるご飯も今日はちょびちょびと食べていた。
表情もずっと暗いままだ。凪くん、どうしちゃったんだろう……。

「凪くん、大丈夫?」
「ん?あ、うん。大丈夫……今日、伝えたいことがあって来たんだ」
「どうしたの?」
「今は仕事に集中する期間にしたいから、しばらく一緒に帰ったりとか控えたい」

申し訳なさそうに彼は顔を歪める。

「そっか……うん。私は待つよ。いつまでも待ってるから、お仕事頑張ってね」
「ありがとう」

早く笑顔になって欲しいな。彼に何かしてあげられることはないだろうか。
そう考えていると私の考えを察したのか、凪はまた申し訳なさそうな表情で言う。

「あと、あまり心配しないで。俺、心配されると罪悪感、感じちゃう……俺、不器用だから……」
「あ……うん。分かったよ!」

私にできることは笑顔で見守ることだけだと悟った。
凛はいつも彼の笑顔に助けられていた。だから今度は自分が助ける番だと思い、笑顔で「応援してる」と伝えた。
また、いつか一緒に笑えるように今は我慢の時期なのかもしれない。
大丈夫だーー。一緒に居られる時間が少なくなっても、待てば戻ってくるのだから。



二階の職員室の隣にある談話室では凛と高原先生が対面して座っている。
進路に関する面談をする為だ。
凛はこの場から早く抜け出したいと顔を下に俯けていた。
足を怪我し、舞台を降板してしまったことで、凛は前よりも高原先生から強く当たられることが多くなった。
せっかく与えてくれたチャンスを私は逃してしまったのだ。自業自得と思うしかない……。

「凛ってーー居ても居なくてもどうでも良い存在だよね」

開口一番に言われたその言葉は凛の思考を停止させた。まるでナイフで心を刺されたみたいだった。それでも、先生は言葉を続ける。

「いつも、誰かに守られてばかりじゃない?誰かのエネルギーを吸い取って頑張ってる。それがどれだけ、他人に迷惑をかけているのか分かってるの?才能も何もないのにーー」

耳を塞ぎたいほどの言葉を並べられる。
凛はどんどん責められていった。苦しみの表情を浮かべても、先生はそんな凛を気にする素振りは見せずにとどめの言葉を刺す。

「あなた、役者になれないわ。本当に才能がないもの」

いつも言われ慣れていた筈のこの言葉が、今日は何だか物凄くムカついた。
何なんだよ……何様なんだよ……。

「あなたの存在価値って何ーー?」
「えと……あの……」

だけど、ダメだ……言葉が口から出てこない。凛は先生に言い返したいのに言い返せなかった。
私の存在価値、存在している意味ーーずっとずっと頭の中で考え続ける。早く答えを出さなきゃと思えば思うほど、迷路に迷い込んだみたいに分からなくなってしまった。

「誰かに寄生しなきゃ、生きていけないの?」

先生、今の私はどんな顔していると思いますか……私が傷ついているのが、分からないんですか?それとも、分かってて言ってるんですか。それなら、どうしてそんなことを言うんですか。悔しい……悔しい……こんな言葉を言われるのも、こんな酷い言葉を言われているのに何も言い返せない自分にも腹が立つ……。
私は強く生きていけます。一人でも生きていけます。そう言えたらかっこいいのに言えない。そう、私はそういう人間だ。強く生きていく覚悟も、それを伝える勇気もない。とことん、惨めな気持ちになっていく。

「それと、しばらくは七海と関わるを控えなさい。あの子、最終審査が残っているの」

何故、友人関係までも制限されないといけないのだろうか。

「……はい」

いつだって私は変われない。
談話室から出て、トボトボと廊下を歩き、サロンへ向かう。
凛はおもむろにスマホを取り出し、文字を打ち込んだ。

【凪くん、助けて】

だけど、凛はすぐにそのメッセージを消去した。
ダメダメと首を振る。私は強くならないといけない。
凪くんに頼ってばっかじゃいけない。今、凪くんは大切な時期なんだ。
凛は自分の心に大丈夫だよと言い聞かせて、我慢をする。

「あともう少し頑張れば夏休み……夏休みは一緒に居れる。頑張ろう。頑張れ私!」

よし!と意気込む凛。泣いてなんか居られない。夢を叶える為に、凪くんに誇ってもらえる彼女になれるように頑張るんだ!



「どうしよう……足が全然治んない……」

同期のみんなは次々と外部公演の舞台に出演し始めた。
私だけだ……何もしていないのは……。

「ねぇ、凛って足怪我してから結構経つよね。骨折じゃないのに」
「心配して欲しいから、わざと付けたままなんじゃない?」

そう言われてしまったから、包帯をしなくて良くなったときは喜んだ。
でも、痛みがまだ残っていて思うように動かせない。
だから、稽古前に行う筋トレができなかった。
どんどん周囲に置いて行かれてしまう。凛は焦りを覚えたが、何もできない自分に段々と腹が立ってきた。

「ねぇ、包帯外れてるのにまだ見学?」
「詐病なのかも」

大丈夫。こんな言葉は無視して良い。そんなことはない。
私は強いから耐えられる。あなたが居ればどんなことだって。
大丈夫だよ。あともう少しだもんね。

「中嶋、無理はしなくて良いからな。自分のペースで頑張れよ?」
「ありがとうございます……」

尾崎先生は優しく対応してくれたが、休んでいるわけにはいかない。
私は頑張らないといけないのに。だけど、何もできないこの状況が苦しくて堪らなかった。凪に相談したいがそれはできない。

七海……そうだーー七海!!!

「来週ね、東京行って来る。最終審査頑張ってくるわ!」
「あ、うん!頑張ってね……応援してる!」

これは私あくまでの問題だ。
七海に背負わせるわけにはいかない。だって、本来なら私なんかと七海は仲良くする必要なんてないんだから。彼女は私とは違う人間なんだから。
大丈夫。私には凪くんが居る。

どうしよう。誰にも何も言えない。
言える人たちはみんな忙しい。かといって、そんなに仲良くない同期からは理解してもらえない。
周囲の私を見る視線が次第に怖くなった。だから、本当は痛い足を治ったと先生たちに嘘をついた。バレないように必死に健康なフリをした。
あともう少しで夏休みだ。それさえ迎えれば凪に相談できる。
今までずっと不安だったんだ。待ってたんだよって彼に伝えたい。

「凛ーー」
「あ、凪くん……!!!」

かすかに見えたあなたに手を伸ばす。待ってたよ……頑張ったんだよ私ーー。

【別れたいと思ってる】

え……。 
星が綺麗な七夕の日。織姫と彦星が一年に一回会える。そんな素敵な日に私は凪くんと別れた。



学校から帰って来て、そういえば明日は七夕だったなということを思い出す。最近は身体的にも精神的にもしんどい思いをしたから、忘れてしまっていた。
でも、良いんだ。あと三日もすれば自由なんだ。
せっかくだから、童心に帰ってみよう。
適当な紙を探して、短冊状に切っていき、お願いごとを書く。

私と凪くんの夢が叶いますように。そう最大限の願いを込めて書いた。

【あのさ、明日の放課後会える?話したことあるんだけど】

スマホの画面に凪の言葉が表示される。いつものメッセージと何かが違う。
そうだ、ニコニコ顔の絵文字が付いていない。凪くん、仕事で疲れてるのかな。

【放課後は稽古があって、その後なら大丈夫だよ】

既読はすぐに付いたが、その後の返信が中々返って来なかった。
何となく違和感を感じ、胸騒ぎをし始める。凛のこういうときの予兆はだいぶ当たっている。

【やっぱり、今話しても良い?】

聞くのが怖い。だけど、その話を先延ばしにしても不安は消えないと思い、凛は【良いよ】と返信をした。

【別れたいと思ってる】

凛の手からするりとスマホが抜け落ちる。思考が停止した。

【どうして……?】

すぐさま返信をする。

【夢を追いかけることに集中したい】

それから、「最近仕事が忙しくて」や「恋愛に疲れちゃった」と言った文面が次々と送られてきた。
付き合う前から、忙しかったよね……自分のキャパは自分が一番よく分かっているんじゃないの……?仕事と恋愛の両立は大変なのは分かるけど、それは覚悟の上で私と付き合ってくれたんじゃないの……。

【あ、あのさ。しばらく距離を置くのはどうかな?お互い夢を追いかけることに集中する期間っていうことで。一緒に帰らなくて良いし、ラインもしなくて良い。私、ずっと待ってるから。いつまでも待てるから……】

待ってるから、置いていかないで。

【ごめん。もう好きっていう気持ちがない】

いつの間にか涙がポタポタとスマホの上に零れ落ちていた。
だけど、涙は透明だからーー【ごめん。もう好きっていう気持ちがない】という文面を隠してはくれない。メッセージはデジタルだからーー涙で文字を滲ませてもくれない。

そこには、ただ私を突き放す言葉が色濃く残っていた。

『凛、大好きだよ』
『あの、俺と付き合ってくれませんか?』

【別れたいと思ってる】
【もう好きっていう気持ちがない】

壊さないで。もう、私の心を壊さないでーー

「はぁはぁはぁ……」

何回も文字の打ち間違いをしながら、必死にデジタルの文字を打っていく。やっとの思いで文章が完成し、ボタンを押すと一瞬で送信された。

【ちょっと考えさせて。急過ぎて頭の理解が追いつかない。必ず答えは出すから、少し待ってて欲しい】
【うん、分かったよ】

スマホを適当に放り出し、凛はぼーっと天井を見つめる。

「はぁ……はぁはぁはぁ……!!!」

両手で口を塞ぎながら、声にならない叫び声が自分自身の頭の中に強く響いた。
別れたくない別れたくない別れたくない。
こんなにも大好きなんだ。離れて欲しくない。置いて行かれたくない。

だけど、好きじゃないって言われたら引き止められないじゃん……たとえ我儘を言ってそのまま付き合えたとしても、彼はもう私のことは好きじゃない。
一緒にケーキを食べても、ハグしても、頭を撫でてくれても、大好きだよと言われてもーーもう全てが嘘になってしまう。

嘘だって分かりきっているのに、仮面を付けてお互いに自分を偽る恋人関係を続ける精神は私にはない。本物じゃないといけない。
どうしたら、良い……?別れるのが正解?
でも、私のこの気持ちは、好きはどうでも良いの……?

どっちを選べば良いんだ。私ーー。

体が痺れてくるまで泣いて、呼吸が荒くなった。
凛はベッドに倒れ込み、近くにあったぬいぐるみを手繰り寄せ強く抱き締めた。

「別れたく……ない……」

どうしたら別れないで済むかな……思考を巡らせたが、どれだけ考えても、何も思いつきはしなかった。唇を噛み締め、涙を堪えようとしても止まらない。止まれない。

【明日、稽古終わりにちょっとだけで良いから、会ってくれない?そのときに答えを出す。私のわがままだけど、これだけは聞いて欲しい】
【分かったよ。また明日ね、おやすみ】

こんなにもときを戻したいと思ったのは初めてだった。



窓から刺す朝の光は凛の乾き切った目には痛いぐらいに眩しすぎる。
昨日は最大限まで涙を出し切り、疲れて気絶するように眠りについた。
胸に抱えていたぬいぐるみは少し形が変形してしまっている。

凛は鏡で自分の姿を確認すると、目の下がとても赤く腫れていることに気づいた。
これは冷やしても短時間では治らないと思い、洗顔をしてメイクで隠すことにする。
朝ご飯は食べれなかった。初めて食欲が沸かなかった。
凛は取り敢えず普通を装えるように身なりを整えて家を出る。

嫌だな……。

凛の学校への足取りは非常に重い。
行きたくない。行けば、私は言わなければいけない。

『ごめん。もう好きっていう気持ちがない』

私って重かったかな。何かしちゃったかな。凛は色々と考えてしまう。

学校に着いて七海の顔を見た瞬間、乾いていた瞳からまた涙がぽろぽろと頬を伝った。何事かと彼女に問われて、凛は泣きじゃくりながら話した。辛くて苦しい。
凪と別れたくないのにもう無理なんだと感じてしまったーーと。

授業中は泣かないように自分の気持ちを押し殺す。
先生の言葉が全然頭に音として響かない。何を言っているのか理解ができない。

そして、こんな日の一日はどうして進む時間が早いのだろう。
あっという間に約束の時間になり、凛は稽古を終えた後、急ぎ足で一階エントランスへと向かう。
そこには凪が椅子に座って待っていた。凛は壁に隠れて、泣いてはダメだ。
笑顔を心がけよう。私はこれでも役者の卵なんだから。

意を決して彼の元へ向かう。
すると凪はどこか落ち着いた様子で、優しく微笑み、「お疲れ様」と言葉を掛けてくれた。
凛は口角を意図的に上げて平然を装うように「お疲れ様」と返事をする。

「じゃあ、行こっか」
「うん……」

二人は一緒にエントランスから出て横に歩き始める。学校の近くにある大通公園へと向い、ベンチに腰掛ける。

何となく夜空を見上げる。凪も同じように空を見上げた。
今日は七夕を象徴するかのように夏の大三角が綺麗に輝いていた。
織姫と彦星は今、手を取り合って喜んでるんだろうな。
良いな……羨ましい。

街灯がスポットライトのような明かりで、二人のベンチを照らしていた。
周囲のカップルは肩を寄せ合い、手を重ね、星を見上げている。「綺麗だね」と笑っていた。凛も本当は凪とずっとあぁいう風に星を見上げてみたかった。

凛と凪の間には人が一人入れる分のスペースが空いている。
近づきたくても近づけない。近づいたときに彼から距離を取られてしまったらどうしようと不安が募り、動けないでいた。

「別れたい理由って……仕事が忙しいっていう理由以外に何かある?あるんだったら、嘘をつかないで正直に言って欲しい……」

言葉の端々が震えてしまう。ふっと凪の横顔を見ると、彼は一切こちらを振り向いてくれなかった。少し顔を俯かせながら、凪は語り出す。

「本当に仕事が忙しくて……最近は作曲だけじゃなくてバンドとしてライブ出演増えたり、今度はラジオにも出ることが決まったんだ。確実に夢に近づいてる。俺はそれを逃したくない。全力で音楽に力を注ぎたいんだ。だから、俺には音楽だけで十分なんだ……恋愛は疲れたんだよね」

そして、今まで伏せていた凪の瞳に凛の姿が映った。

「もう、凛のこと待たせたくないんだ」

私には凪くんをいくらでも待てる自信がある。
だって、こんなにも大好きなんだ。彼を離したくないんだ。
それでもーー凛は付き合っていたから、彼の表情を見て分かってしまった。
優しく微笑んでくれている凪の目はとても悲しそうだ。

無理だ……もう引き止められない……。
凪くんの顔を見たら分かっちゃうんだもん。もう、答えは決まってるんだよね。
私ががどんな言葉を掛けても、あなたの意志が揺らぐことはないんだよね。

そうだ、本当に大好きなら凪くんの幸せを考えるべきなんだ。

好きという自分の気持ちを押し殺してでも、凛は彼の意志を尊重するべきだと思った。彼の夢への近道を自分と付き合うことで失ってしまうなら、別れるべきなのだ。彼には夢を叶えて欲しい。もっと色々な世界を作って見せて欲しい。

凪くんはもっともっと、沢山の人を幸せにしたいんだもんね。
だから私は彼に伝える。

「私、凪くんが心の支えだったよ……恋愛になると男の人少し怖かったけど、凪くんは優しくて全然怖くなかった。最近ね、嫌なこと続いちゃって、凪くんと一緒に楽しいことしたいなって思ってたからさ……正直、悲しいーー」

ぽつりぽつりと凪への想いが口から零れる。

「俺、凛が思っている程、良い人じゃないよ……俺、仕事と凛を天秤にかけたら、仕事を取っちゃう気がする……そう思ったとき、俺のせいで凛が不幸になるのは嫌だって思ったんだ。俺じゃあ、君を幸せに出来ない」

凛が待つことは凪にとって重荷なのだ。私はあなたの邪魔はしたくない……。

でもね、凪くんは私のことを幸せにできないって言ったけど、そんなことはないよ。私はあなたと繋がっているだけで幸せだったよ。たまに傍に居てくれるだけで充分幸せを貰えていたよ。
彼を想えば想うほど、好きの気持ちは大きくなっていたが、凛はそれを必死に隠した。

「本当に別れたい理由はこれだけだよ。夢を追いかけることに集中させて欲しい」
「そっか……分かったよ」

自分が言うべき言葉を凛は分かっている。
口角を上げて、笑うんだ。本当は今にも泣き出しそうだ。離れないで欲しいと縋りつきたい。だけどーー言わないとね。

「お別れしても良いよ……」
「ありがとう。ごめんね……」

嘘だよ!ごめん!という悪い冗談を期待したが、そんなこといにはならなかった。

「ねぇ……私はこれからどう接せれば良い?敬語に戻した方が良い……?」
「凛が嫌じゃなければ、友達に戻りたい。凛は大切な人に変わりはないから」
「……嫌な筈ないよ」

本当は恋人で居たい。手を繋ぎたい。もっといろんな場所に行きたい。
だけど、その願いを叶えることはできない。だから、せめて友達として一緒に過ごし、凛は凪と繋がっていたいと思った。

「本当?ありがとう」

太陽のような笑顔を凪は見せる。
大好きだったの。その優しい顔が……今でも大好きなの。
だけど、何でかな……今は物凄く辛いや。でも大丈夫。
私は役者だから、演技であなたを騙す。
あなたを安心させたいから。私に気を遣って欲しくないから。

「じゃあ、これだけは約束して欲しい」

最後に抱き締めてよーーなんてヒロインが言いそうなセリフは言葉にしなかった。
その代わり、凛は一本の小指を凪に向かって出した。彼も私の意図に気づいてくれ、二人の小指はゆっくり絡み合う。

「私たちはお別れしても、仲が良い友達に戻るだけです」

凪は静かに頷く。

「指切りげんまんーー」

あぁ、泣きそうだな……辛いな……。

「指切った……約束だよ?」
「うん。絶対に守る。俺と凛は仲が良い友達」

嫌味かよと思ってしまうほどに夜空は輝いていた。
あの頃ーー初めて話したときを思い出す。そして、彼の表現力に圧倒され、涙を流したあの瞬間。今でも鮮明に思い出せる。私に強く衝撃を与えてくれたあの時間を。

「何か辛いことあったら言ってよ……?俺はいつだって、凛の味方だから」
「ありがとう。凪くんも何かあったら言ってね」

 彼はしっかりと頷き、「じゃあーー」

「さようなら」

その言葉は凛にとっては鉛のように重かった。

「……絶対に夢叶えようね」

「さようなら」なんて言えない。言いたくない。本当はまた明日ねって笑って別れたい。だけど、それは違ったような気がしてーー。
凪は後ろを振り返ることなく、真っ直ぐ前へと進んで行く。
そんな彼の背中を凛は見つめる。

本当は今すぐにでも彼の背中を追いかけたくて。後ろから抱きしめて、いかないでと伝えたくてしょうがない。
でも、無理だよね。分かってるよ。もうあなたは立ち止まらないってこと、ちゃんと理解してるよーー。

だから、せめて約束は守ってね……?
恋人らしいことはできなくても、「おはよう」とか「お疲れ様」は言い合いたいよ。たまにで良いから、他愛のない話をしたいよ。約束だよ……?
凛は彼の背中が見えなくなるまで、強く耐えた。
もう、良いよね。と自分の心に問いかけ、今まで堪えていた涙をどっと流す。
涙を流し続けながら、凛は自分の家の方向へ歩き出す。
 
綺麗な夜空の下でカップルが幸せそうに話したり、手を繋いで歩いている。自分とは正反対の光景を目にし胸が苦しくなった凛は駆け出した。そして、心の中で本音を叫ぶのだ。

凪くん……!!!大好きだよ!!!
でも、私は我慢するから。凪くんのこと見習って、凪くんが居なくても頑張るよ!!大丈夫、私には凪くんとの思い出があるから。
あなたの笑顔があるから、どれだけ苦しくても頑張れるよ。
もし数年後、お互いに夢を叶えてまた出会えたら一緒になりたいな。

「あ……!ごめんなさい……」
「いえ!こちらこそ、すみません」

凛はコンビニ前で誰かとぶつかってしまった。
すぐにぶつかった相手に謝罪の言葉を述べる。

「本当にごめんなさい」
「え……凛?」

凛は急に知らない相手から名前を呼ばれて、肩を大きく振るわせた。
相手の顔をゆっくり見てみると、その人は凛の知っている人物だった。

「ひ、響……」

それは俳優専攻の同期で奇才の坂本響だったーー。
きっとコンビニで買い物をしていたのだろう。買い物袋を手提げながら、こちらを凝視している。
偶然にも、見られてしまったのだ。しかも同期に。

「どうしたんだ?」
「ごめん!!!!!!!」

凛は大粒の涙を手の甲で拭い、家まで駆けて行った。