「わあ……」
 彼に案内されたのは書庫だ。壁一面が本棚になっていて、沢山の本が丁寧に詰め込まれていた。壁の本棚の他にも、ボックス型の本棚も置いてあり、そこにもちゃんと本が入っている。そこらの本屋より品ぞろえが良いんじゃないだろうか、と思う程の量だ。
 彼の家系の性格なのか、ちゃんとジャンル分けもされている。歴史書や純文学に童話等々……ここまで幅広い本を持っているのは稀ではないだろうか。
「沢山本があるんだね」
「そうだね。ほとんどが父が集めた本なんだけど……面白いんだって、彼曰く」
「え?」
「そうだろうな。本にして書き記すなんて人間にしか出来ない。俺でも面白いと思うよ」
 このりは近くにあった一冊の本をとり、ぱらぱらと捲る。
「本当に器用だよな。物語を綴るのも、本の中に世界を作ることも、写真を撮り、それをまとめる。絵を描いて、見て感銘を受ける。他の生き物では考えられないようなことをする」
 言われてみれば、そうかも?
 他の動物ではできないことを、人間は行っている。偶に絵を描くゾウとか猿とかテレビで見るけれど、それとは違う。自主的に己の表現を見つけて得ている。それはきっと、人間特有のものなのだろう。
「でも、君みたいな神様なら書けるんじゃない?」
「さあ、どうだかな。物好きは書いてるかもしれないけど」
 彼は雫玖くんの方を見て、薄く笑みを浮かべた。彼の視線を追う様に雫玖くんを見てみれば、彼は小さく笑みを浮かべていた。もしかして、アオさん何か書いてるのかな。
 それは、気になるな。神様の書くものってどんな感じなんだろう。ていうか、もしそれが世に出回ったらとんでもない騒ぎになるよね。深く考えるのは止めよう。

「そうだ、曙美さんに見せたいものが……こっちこっち」
 雫玖くんに案内されたのは、一つの本棚。彼曰く、ここは全部写真集なのだそうだ。へえ、と小さく声を零し、背表紙を眺めていく。日本国内の絶景集から、花々に関する写真集に、一つの観点に絞った風景写真に、旅に関するものまで。風景もあれば、動物の写真もある。種類が豊富なので、背表紙を眺めるだけでも楽しい。
 ぱっと手に取った写真集のタイトルは『死ぬまでに行きたい世界の絶景集』だった。タイトルに小さく吹きだしてしまったのは、バレなかっただろうか。取りあえず開いて、ぱらぱらと捲ってみる。世界遺産を生かす色鮮やかな写真で埋め尽くされ、一つ一つの写真から、正しく命が芽吹いているようで、空気やにおいなどの五感に響くような、綺麗な景色の写真で埋め尽くされている。
「すごいね、こんなに集めて……」
「うん。父はあまり家……領土から出ないからね。こうした写真に自然と惹かれていったらしい」
「成程」
 神様も色々なタイプが居るものだな。私の傍で立っているこのりのように自分の神社から飛び出しているのもいれば、自分の領土からは出ないようなタイプもいるのだろう。
「ていうか、このりは私と一緒にここに居て大丈夫なわけ?」
「ん? ああ、問題ない。本霊は置いてきてるし」
「本霊?」
「フレデリック・マイヤースの類魂説かな?」
 このりの言葉に首をかしげていれば、雫玖くんが写真集を手に取りながらこのりに対して問いかけてきた。
「なんだそれ」
「イギリスの古典文学者、詩人、心霊研究の開拓者のとある一節だよ。ある意味、彼は正解を言い当ててしまったのかもね」
 ふふ、と雫玖くんが小さく笑みを浮かべる。
 完結に彼は説明してくれた。『類魂説』とは、リーダー格である本霊を中心に、数十から数千にもおよぶ分霊が集まっているとされることを言うらしい。本霊と分霊達の意識は二つあり、一つは類魂による大きな意識体で、これは類魂全員がもつ共通した意識である。そしてもう一つはその霊の個性としての意識があるとされる。
 本霊は類魂のリーダー的な役割をはたす霊。分霊は体験した記憶や経験が、グループ(今回で言えばこのりグループとでも言えばいいのか)全体で共有されるとされている。まあ、分霊の霊格は同一とする説と、それぞれ違いがあるという説があるらしいが。
「成程。じゃあ、今のこのりは分裂みたいな状態なんだ」
「簡単に言えばそう。このこのりさんはあとで本霊に吸収されると思うよ」
 このりの方へ顔を向ければ、彼はこくりと頷いた。
 そっか、このこのりとは、そのうち会えなくなってしまうのか。それは、なんだか、寂しいな。

「話がそれたな。竜はどうやってこの沢山の本を集めたんだ?」
 私の表情を読み取ったのか分からないけれど、このりが話題を変える。それを察して雫玖は薄く笑みを浮かべた。
「父にも仲の良い相手はいるよ。その相手達が退屈だろうと沢山持ってきたらしいよ。父が言うには、だけど」
 ああ、でもたまに自分で買いに出かけることもあるみたいだ。と何か思い出したのかくすくすと笑い声を零した。
「小説も多いけれど、風景とか多いんだね」
「ああ、これはね、母の為らしいよ」
「雫玖くんのお母さん?」
「うん」
 そう言えば、未だに一度もお会いしていない。普通の家庭は、父より母の方が先に会う事の方が多そうなイメージなのだけれど。実際に、我が家も実家に帰れば、必ず家に居るのは母親の方だ。父親は遅れてやってくる。今の日本では、このパターンの方が多いと思う。
 まあ、この家に普通は今更通じないか。それに、アオさんはここに住む神様だもんね。神様が居続けるのは普通な事だろう。ていうか、居てもらわないと困ると思う。
 けれど、雫玖くんのお母さんか。確か人間と神のハーフと自身で言っていたから、お母さんは人間なのだろう。
 そんなお母さん……アオさんからすれば奥さんの為に、こうして沢山の写真集を集めるとは、アオさんかなり奥さん溺愛しているタイプ? その遺伝子を継いでいる雫玖くんも……いやいや、関係ないし、彼は関係ないし。
 頭の上に浮かんだ思考を払う様に、手をパタパタと動かした。
「母もね、曙美さんと同じ様に海に落ちてしまって、そこで父と出会ったんだって」
「へえ」
「当時の母も色々と悩みを抱えていたらしくてね、ここで過ごしていくうちに二人は親しくなっていったみたいだ。その時に、父はここの写真集を見せたんだよ」
「どうして?」
「母は、世界が狭かったから」
 とくん、と心臓が小さく跳ねたような気がした。まるで自分の事を言われているような気分がしたのだ。
 私の知っている世界は、今通っている学校の周囲(と言っても海以外本当に何も娯楽は無いが)と寮の自室、実家、それくらいで。漸く、友人の家という世界を知った。友人の家、にしてはインパクトは強かったけれど……。
「あの、お母さんは今は……」
「ん? ああ、トラベルライターをしてるよ」
「ええ!?」
 予想とは違う返答が帰ってきた。もしかしたら、最悪な展開もあり得るかもしれないと思ったから、さらりと返答されたこと、職業の内容の二つを合わせて、間の抜けたような声が零れてしまった。
 トラベルライター。つまり、旅行のガイドブックや雑誌、新聞、インターネットの編集生地を取材してくる仕事だ。日本は勿論、海外にも出向くのだから外国語のスキルも必要だろう。文章能力や人付き合いも大事だし、とても大変な仕事だと思う。
 驚いている私を横目に、雫玖くんは一冊の本を取り出す。
「これが母の初めて任せてもらえた雑誌」
 『夏に行きたい海絶景』というタイトルのトラベル写真集。ゆっくりと捲ってみれば、そこに広がるのは様々な表情を見せる青い海。夏の海って、濃い青のイメージがあったのだけれど、場所によって本当に違うんだ。
 パラパラと捲っていく。日本だけでなく、世界まで記載されている。これを、世界を知らない女性が、きっかけを得て沢山の世界を知り、一つの世界()を作り上げたんだ。
「凄いね……」
「うん。母は本が出来たら自分の本を持って帰ってくるんだけど、父はその時は外に出て自分で買いに行くんだ」
 頬を人差し指で掻きながら、雫玖くんは少し照れくさそうに言う。
「けれど、そっか。アオさんは雫玖くんのお母さんにとっては、先生でもあり、父でもあり、旦那さんでもあるんだね」
 海に落ちてしまった、狭い世界しか知らない女の子。そんな彼女に色々な世界があることを、写真を見せる事で教えてあげた。そして彼の事だ、彼女に対しては一等優しく、丁寧に、大切に接していたに違いない。
 そして、彼女は世界を知る為に、自ら道を選んだ。きっと簡単なことではなかっただろう。勉学に、就活に、仕事に就けたからと言ってもすぐに仕事が出来るわけでも、己の意見を通した事を任されるわけでもない。それでも、この人は、アオさんに救われて、そして己の世界を見つけたのだ。
 正直な話、恥ずかしいことだが、もしかして、アオさんは奥さんと私をどこか重ねて見ている節があるんじゃないだろうか。そう思っていた。
 だけど、烏滸がましいな。私と奥さんは、全然違うと思う。
 私は今だに沢山のモノに怯えて、自分に自信が無くて、高校2年生なのに夢という夢も無くて、それなのに将来の選択肢を選べるほどの手札を手にすることも出来ていなくて。

「だから、今度どこか遊びに行こうよ」
 顔を伏せて、明けない夜のような心地でいた私に向けて掛けられた彼の言葉は、まるで朝日が昇ってくるかのようだった。
 ゆっくりと顔を上げてみれば、優しい表情をした、愛しい物を見つめるような、淡く蕩けるような瞳で私の方を見つめていた。
「別に一つにこだわらないで良いよ。沢山見つけてほしい。それで、やってみたいことでも探してみても良いかもしれない」
「……でも、ちはるの誘いは断ったんじゃ」
「俺はね、曙美さんと一緒に思い出を作って、一緒に過ごしてみたいんだ」
「……私なんかで、良いの? 選べないよ、こんなに……」
 ぽつり、と一つの雫が写真の上に落ちた。そのまま、私の瞳から粒は零れて、ぽつりぽつりと、写真の海の上に水たまりを作っていく。
 そんな私の涙が浮かぶ目元を彼は優しく拭いながら、変わらず優しい表情を向けてくれる。
「これは受け売りなんだけどね。好きな物が一つだけだなんて、それだけじゃあ勿体ない。この世の中には、面白いものが沢山あるのだから」
 彼は小さく笑みを浮かべて、人差し指を立てながら柔らかい声色でそう言い、言葉を続ける。
 何でも良い。綺麗な風景を見るでも良い、美味しい物を食べるでも良い、思いっ切り体を動かすでも良い。歴史を辿るでも良い。冒険をするでも良い。やってみないと面白さってのは分からない。
 彼の言葉を聞きながら、写真集の方へ目を向けた。
 数々の綺麗な景色が、写真に収められていた。こんなに綺麗な景色を、私は知らない。死ぬまでに見たい景色、夏に行きたい海絶景、成程、言い得て妙である。
「好きな物は沢山あって良いのかな?」
「勿論だよ。まあ、俺も多い方ではないから、説得力はないかもしれないけれど……」
「はっ、意外と自分にハマってしまってそのまま深みに……なんて人間よくある話だ。好きも嫌いも、続けるも続けないも、上を目指すも目指さないも、決めるのはそこからだ。例え好きにならなくとも、得たものに無駄は無い」
 ずっと話を聞いていたらしいこのりが、尻尾で私の頬を優しく撫でながらそう言った。背中を向けて、少し捻くれたような口調の癖に、尻尾は優しさが隠せていないのだからズルい。彼の言葉は、神様だからだろうか。胸にストンと入ってくる。
「マイナスな事を考えるより、行ってみたいところ、やりたいこと、好きを見つけて、わくわくする方が楽しくないか?」
「……確かに」
 このりの言う通りかもしれない。
 写真集を今一度眺めてから、雫玖くんの方へ顔を向ける。彼は私の視線に気が付いて、優しく笑みを浮かべる。
 優しい友達である彼は、こうして、私を守って、そして送り出そうとしてくれる。それがなんだか、胸が温かくなるような気分がしたのだ。
 崖から落ちて死にそうになる私を助けてくれたり、泊りがけの勉強会をしてそれも丁寧に教えてくれるし、さらに同学年の女子からも庇おうとしてくれる。普通の人間がこうも沢山の物を与えてくれるだろうか。
 面倒事だから巻き込まないでほしい……だけど放り出してもその後がちょっと気にかかる。そんな考えの人が多数だと思う。
 そんな中、雫玖くんは私を受け止めて、滞在許可をくれた。
「雫玖くんって優しいよね」
 雫玖くんのお母さんが取材をしたという旅雑誌をめくりながら呟く私の言葉を聞いて、隣に居たこのりが瞬きをした。
「竜の子優しい?」
「うん」
「そう見える?」
「うん」
「そう」
 ……え、なに、その問いかけ。
 少し遠くを見る様な目で、ぽつりと言葉を返した彼に、心の中で焦る。汗がドッと流れ出てきたような気分がする。
 彼はそんな私に目をやり、そのまま顎に指を添えて考えるそぶりを見せた。かと思うと、彼は自身を指さして私を見る。「俺は?」と問われたようだ。
 小さな悪戯心が芽生えて首を傾げれば、頭をぐりぐりとされた。いたたっ!!
「痛かった……」
「俺の心だって痛かったんだぞ」
「ごめんって、このりも優しいよ」
 何だかんだ、今のぐりぐりだって手加減してくれたし。痛いのは痛いのだけれど。ぐりぐりされた頭の片側を、思わず手で擦る。少しでも痛みが和らぐようにと、半分おまじないの慰めだ。
 それに、わざわざ分霊を使ってまで私の傍に居てくれる。守ろうとしてくれる。これを優しいと言わずに何というのか。
 本心だ、というのを訴えるために真っ直ぐとこのりの目を見ていると、彼は少しだけジト目になってから顔を逸らした。
「……まあ、お前等は優しい人間なんだろうな」
「え、ありがとう」
「だからこそ、偶に不安になる。2人で共倒れになるんじゃないかと」
 とす、と彼の人差し指が、私の心臓がある部位に刺さった。実際に身体に刺さったわけではなく当てているだけだが、そのような気分になる。真っ直ぐで、けれども鋭い言葉が私に突き付けられたような気分がした。

 話していると安心する。一緒に居ると頼もしい。一緒に居ると楽しい。
 だから、つい、忘れてしまう。
 彼が神様だという事を。
 分かっているつもりだったのだけれど。だけれど、本当に優しいから。

「……俺が怖いか?」
 突然の彼の言葉に、少しだけ驚いた。
「時々」
 私は正直に答えた。
「だと思ってた。そもそも、お前は他人と関わるのも苦手だしな」
「それも、あるかもだけど……。君だけじゃなくて、神様と言う括りが」
 このりやアオさんが。今は友達のように気さくに話しかけてくれたり、優しく包み込むように接してくれたり、勘違いしてしまうけれど、彼等は神様なのだ。時折見せる鋭さ、影、重み、それらを感じると、神様と言う存在が少しだけ怖いなと思ってしまった。
 ごめんなさい、と謝ると、彼は謝らないで良いと優しい笑みと声で言う。
「俺はお前からすれば神様なんだろうけれど、まだまだ弱い存在だし、将来、お前を守り切ることがきっと出来なくなる」
「え?」
 心臓からそのまま指は上に、身体を沿って移動する。そしてそのまま首を撫でて、顎を人差し指で軽く上げさせられ、見下ろす彼と目が合う。
「だからその時までは、願われれば惜しまず力を貸そう。それは竜も同じだし、アイツは最期まで面倒は見るだろう。だが、雫玖は神の子ではあるが人間だ。お前と同じ人間だ。出来る事は限られていることを忘れるな」
「それで、共倒れ?」
「ああ、今のお前達は弱い。アイツだって、救ってくれたお前のためにと動いているが、互いにそれが当然だとは思うなよ」
 彼の指が離れると、自然と頭が下がる。神様の言葉は、とても深くて重い。
「だから、まずはお前に一つ試練を与えようかなと思ってる」
「へ?」
 このりは羽織の袂から何かを取り出した。何だろうと思いつつも受け取った。此方に差し出してきたものは、私のスマホだった。
 そういえば、この家に来てからスマホに全然触っていなかったな。画面をタップしてみれば、そこには、数多くの通知が届いていた。
 目を開き、思わずか細い悲鳴を零しながらスマホを放り投げた。とすん、と音を立ててスマホが画面を伏せるようにして落ちる。
 忘れていた。この家での優しい空間で暮らして、忘れていた。私は、自分の学年の女子に喧嘩を売ったのだ。数多くの人を、敵に回してしまった。
「どうしよう……」
 思わず口元に両手を添えて呟くと同時に、すらりと襖が開かれた。
「曙美さん……? どうしたの!? 大丈夫!?」
 身体を震わせて口元に手を添えている私を見て、雫玖くんが急いで駆け寄ってきて、私の方へ手を伸ばす。
 『共倒れ』その言葉が思わず脳裏に過って、過剰に反応してしまって、彼から少し離れるように後退った。その私の行為に、雫玖くんは驚いたように目を丸くする。そして、その瞳を見るだけで分かる。確かに、彼の心に傷を作ってしまったと。
「曙美さん?」
「ごめん、何でもない、何でもないの。何でもないのにごめんなさい」
 顔を見れずに必死にごめんなさいと謝る。意味がないと分かってる。
 謝る声はだんだんと掠れていく、何度謝ったか分からない頃、ぽんと優しく肩を叩かれた。ゆっくりと顔を上げた先に見えたのはこのりで、真っ直ぐと私見てから、小さく笑みを浮かべ、今一度スマホの画面を見せる。
 思わず顔を逸らそうとするけれど、すぐに「こっちを見ろ」と命令されて、ゆっくりと向き直した。
「よく見ろ。曙美は視野が狭くなる癖がある。気をつけろ」
 このりが示した指先には、とある人物からのメッセージが来ていることの通知だった。
「ちはる……」
「ああ、お前の友人だな?」
「そう、だけど……」
 そうだ。彼女は私の友人だけど、彼女は雫玖くんが好きで、一緒に遊ぼうと誘っていたのに、私はその彼と今一緒に居る。
 これは彼女への裏切り行為じゃないだろうか。そう思うと怖くて仕方がない。
「どうしよう……」
「ああ、だから今からこの女と連絡を取れ」
「え!?」
 なんて無茶を言うんだこの人は。いや、神様なのだけれど。
 絶望の目で彼を見れば、変わらずに真っ直ぐと私を見ている。
「本当に嫌だったらやめればいい。だが、そうなると曙美の性格からしてこの事はずっと重しになるだろう」
「……」
「選べ。曙美にはいくつもの選択肢がある」
 私の手をとって、彼は私の胸元に添えるように動かした。心臓がある部位だ。すぐに、少しだけドクンドクンと素早く動く心臓の振動が伝わってきた。
 正直な話、怖い。だけど、ここで逃げたら私は一生後悔するだろう。もしかしたら、友人の縁を切られてしまうのかもしれない。そんな不安を抱えて夏休みを開けるまでの時間を過ごして、あの時、連絡すれば何か変わっていたかもしれないと考えて。夏休みが明けて、学校に行って、彼女に会うのが怖くなる。そうしたら、私は確実に学校への恐怖で潰れてしまうだろう。
 胸元の服を握りしめて、小さく呼吸を繰り返す。心と体は連動でもしているのか、心臓もゆっくりと正常に戻っていき、心も落ち着いて来た。それでも、不安はまだ残る。
 顔を上げて、このりからスマホを受け取って、連絡ツールをタップした。
「頑張ってみる」
 私の声を聞いて、このりはにんまりと笑みを浮かべてから、ばしん、と雫玖くんの背中を叩いた。その突然の動作に彼は驚いたようで、叩いた当人に目を向ければ、このりは変わらずの笑みを浮かべていた。
「お前が傍で支えてやれよ、竜の子」
「っ、当然だ」
 雫玖くんはそういうと、私の方へ顔を向ける。
「俺に出来る事はある?」
 真っ直ぐと私を見てきた彼に、私は不格好ながら笑みを見せた。
「隣に居てほしいです」



 ちはるからのメッセージは、全部が私を心配しているような内容だった。そして、付き合っていることは本当なのか、という問い掛けも勿論含まれていた。
 だから、全部を説明するために、私は彼女にお願いをした。文章でのやり取りじゃなくて、通話で、声が聞こえる形で話がしたいと。
 そうメッセージを送ればすぐに既読の文字が付いて、『分かった。私から掛ける』と返事が返ってきた。
 私はドキドキとしながら、テーブルの上に置かれているスマホを眺めていた。
 感覚では数時間。だけれど実際の時間では数分も満たなかった。私のスマホが鳴った。慌てて手に取ってみるが、どうもただの電話じゃない。驚いて対応ボタンを押せば、画面にパッとちはるの顔が映し出された。
「えっ!?」
『曙美! 遅いんだけど!?』
 驚きの声を零すと同時に、画面の向こうの彼女が怒った表情をして、怒号を浴びせてきた。勢いが凄くて、まるで向かい風を浴びたような気分だ。
『もう、ほんっとうに……もう! 中々既読つかないし! 周りからは私に聞かれるし! 知らねーし! 私が聞きたいくらいだし! って! もう!』
「ご、ごめん……本当にごめん……」
 本当に怒っているのか、音声が割れている。私の謝罪の声が届いているのかも分からない。けれども謝ることしか出来ないので、彼女の怒号を全身で受け止めて、ごめんなさいと何度も謝っていれば、彼女も言いたいことは言い尽くしたのかスッキリしたのか、ふうと小さく息を吐いて、真っ直ぐと私の方を見てくる。
『それで、どこから聞けばいい?』
「えっと、逆にどこ聞きたい?」
『はー……そういうとこ。そうだなあ、じゃあ付き合ってるは本当なの?』
 いきなり確信突いて来たな。心臓がバクバクと暴れてきたのが分かる。隣に居る雫玖くんが心配そうに私を見ているのが分かる。
「……ちはるには正直に全部言うね。付き合っている、というのは嘘」
『嘘なんかーい!』
 ずこーっ! と自分で効果音を言いながら実際に自分も動いたのだろう、画面が激しく縦ブレして、彼女の部屋らしき背景が映った。
 それと同時に、一気に心が軽くなったのが自分でも分かった。まさか、そう反応が返ってくるとは思わなかった。「本当に? 皆から聞いたんだけど?」「何嘘ついてんだよ」「信じられない」とか怒られると思っていた。
 謎の流れに、逆に心臓がどきどきしている。胸元を握りしめていると、彼女も復活したらしい、画面に戻ってきた。
『何でじゃあそんな嘘が……』
「えっと、話すと長くなるんだけど……。私ね、今、希龍くんの家でお泊り勉強会してるんだ」
『……はい?』
「うん、だから、一緒に行動するなら付き合ってる設定の方が色々誤魔化し効くかなあって……だから本当は友達」
『待って待って。泊まり? 希龍くんの家に泊まってんの!?』
「う、ん……」
『はー……よく分からないな』
 だと、思う。どうしてそんな流れになってしまうのか、と普通だったら考えつくと思う。だけど、ほら、神様とかの説明とかできないし、言うわけにもいかないし……。
「あの、私が勉強に悩んでたら、希龍くんが助けてくれたの。講習に行くんだったら、自分が教えようかって……」
『それで、泊まりで勉強会なんだ……へー……』
「うん。だから、ごめん、ちはる」
『え? 何が?』
「だって、ちはるは希龍くんを誘おうとしてたじゃん。なのに、私なんかが、一緒に居るし。裏切り者、ってならない?」
 私が目線を泳がせながらも呟けば、目の前の彼女はきょとんと呆けた顔をしてから、すぐに深い溜息を吐いて眉間に皺を寄せる。
『そんなの、気にしてないんだけど?』
「え?」
『寧ろ、雫玖くんに感服してる。つよーって思ってる』
「は、はあ……」
『何? 私に色々言われたり、縁を切られるんじゃないかとか考えてた?』
 その問いかけに、素直にうなずくのは失礼なんじゃないかと思った。迷って上手く返事が出来ないでいると、正直に言えと喝を入れられて、謝りながら何度も首を縦に振った。
『馬鹿じゃん!? え、逆に私そんな信用無かった!?』
「ち、違う! ただ、私が……自信が無かっただけ」
 きっと、私は彼女にも依存していたのかもしれない。だから、彼女が離れられるのが怖くて、失うのが怖くて仕方が無かった。
「……ごめん」
『……うん、もう分かった』
「っ、」
『夏休み明けのアンタを楽しみにしてるわ!』
 思わず唇を噛みしめて伏せていた顔を、勢いよく上げてしまった。呆けていたのであろう、私の表情を見て、画面の向こうの彼女は大爆笑してる。
『誘われたとはいえ、頷いたのはアンタなんでしょ? 選んだのはアンタなんでしょ?』
「うん」
『じゃあ、その結果を私は楽しみにするしかないんだわ』
 けらけらと笑いながらちはるは言う。彼女の笑顔と、声色と、いつもと変わらない彼女の対応に、涙がこみ上げてきそうになる。
「あのさ、くだらないこと聞いても良い?」
『なに?』
「どうして、私を助けてくれるの?」
『助けられてるのかは分からないけど、決まっている。アンタが友達だからだよ、曙美』
 優しい、けれど芯が通った様な真っ直ぐな声色で彼女は言う。
 少しだけ涙が零れて、思わず目元を擦ると「何泣いてんだよ~」と少しだけ揶揄ってきた。それに、うるさいなと笑いながら声を返す。
 ああ、なんて杞憂だったのだろう。私は、もう少しで大切な友人を裏切る所だった。これからも一緒に居続ける権利を、自分で捨てる事になるところだった。
『そうだ。泊まってるなら希龍くん居るんでしょ? 呼んでよ』
「ん、隣に居る」
『マジか! このまま話したい!』
 目元をぐしぐしとこすりながら雫玖くんの方へ顔を向ければ、こくりと彼が頷いたので、ちはるに一声かけてから彼にスマホをパスした。
「……こんにちは」
『うわあ! 画面越しなのに顔が良いのが分かる! 悔しい! でもありがとう!』
 彼女の面食いも御存命らしい。
 二人が会話している横で目元を擦っていれば、頬に冷たい物がピトリと触れた。
 驚いて肩を跳ねらせながらも、前もこんな似たようなことあったなと思い出しつつ振り向けば、してやったり顔のこのりの姿がそこにあった。
「あまり擦りすぎるなよ。目が腫れるかもしれないし、これで冷やしておけ」
「ありがとう……」
 このりが差し出してきたのは冷タオルだった。そして、そのままテーブルの上に温かいほうじ茶も置かれた。飲め、という事だろう。
 ゆっくりと湯呑に手を伸ばし、そのままゆっくりと口の中にお茶を含んだ。相変わらず、温かくて優しくて香ばしい味。
 数口飲んでから、目元にタオルを押し当てていると、隣にこのりが腰かけた。
「どうだ? 安心したか?」
「うん……このりありがとう」
 タオルを一旦外してから、彼に笑みを浮かべながら礼を述べた。
 彼の言葉が無ければ、私はずっと後悔したままだっただろう。私には沢山の選択肢があった。けれど、私は今回、最善の選択が出来たんじゃないだろうか。それが何だか酷く安心して、それと同時に、何だか自分が少しだけ誇らしく思えた。
 自分が選んだものは間違っていなかった。素晴らしい友達がいるのだと分かった。それが誇らしいと思える、特に強い理由なのだろう。
 沢山の意味を込めた礼を述べれば、このりは満足そうにうなずいて、わしゃわしゃと私の頭を撫でてた。

「曙美さん」
 雫玖くんに名前を呼ばれて振り向けば、彼は少し疲れている様な雰囲気で、少しだけ眉を下げながら頬を掻いて、私にスマホを差し出して。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫。まあ、絞られたけど……」
「え?」
『人聞きが悪ーい! 友達の心配をしてるんですこっちはー!』
 友達の心配。その言葉に、思わずこころがムズムズする。口元がにやけそうになるのを必死に堪えるけれど、雫玖くんには丸分かりだったようだ。
 小さく笑みを浮かべてから、完全に私にスマホを任せてきた。
「素敵な子だね」
「……うん」
「俺も頑張らないとな」
 それはこっちの台詞でもあるんだけど。
『曙美』
 なんて思っていれば、ちはるに名前を呼ばれた。スマホと向き合う様に顔を向け、彼女の方へ目を向けてから、思わず首を傾げる。
「ん?」
『……た、』
「うん」

 ――楽しい?

 ちはるの問いかけてきた内容に、思わず目を丸くしたのが自分でもわかる。
 彼女は真っ直ぐと私を見ているけれど、少しだけ視線を泳がせている。少しだけ不安を感じているのが分かる。
『今のアンタは、沢山大変な目に遭って、辛い記憶があって、痛い思いもして、苦しい思いもして。それでも、楽しい? 今のアンタは、楽しい?』
 不安は感じているけれど、彼女の言葉は正しく私を心配しての言葉だった。今の私は、同級生に悪く言われいるのかもしれない。最後に講習に受けたあの時だって怖かった。心も少し、ううん、結構痛かった。その不安は、正直に言えば、まだ、ある。
 だけど。ゆるりと口元を緩ませて、笑みを浮かべた。
「楽しいよ」
 ホッ、と安堵の息が彼女から零れた。
「沢山考えてくれて、味方で居てくれる皆のおかげだね。ありがとう」
『それなら何より。じゃあ、偶には電話とかしてよ。ていうか偶にで良いから勉強会混ぜて』
「うん、勿論」
『やったね! それじゃあ、お二人の所失礼しました~! お邪魔虫は消えま~す』
「なにそれ!?」
 ちはるのからかうような言葉に、思わず顔を少し赤くしたけれど反論しようとした瞬間、通話が切られてしまった。
 く、悔しい……!
 少しだけ口先を尖らせながらスマホの画面を閉じて、テーブルの上に置いた。
「お疲れ様」
 雫玖くんの言葉に、へらりと笑みを浮かべ、ありがとうと礼を述べる事が出来た。
 お疲れ様、私。よく頑張りました。そう、自分を少しずつでも認めて褒めて行けたらと、そう思う。
『そうだ。泊まってるなら希龍くん居るんでしょ? 呼んでよ』
 電話の向こうで俺が呼ばれるのが聞こえて、そちらの方に目を向ける。
「ん、隣に居る」
『マジか! このまま話したい!』
 曙美さんは目元をぐしぐしとこすりながら、俺の方を心配そうに見つめてくる。もう大丈夫だと安心出来ているのだろう。恐怖におびえる瞳ではなくなっていて、安心を得た少女の瞳に変わっていた。
 その変化を、俺が行えたわけではない。俺じゃない。彼女の用心棒的立ち位置のこのりさんや、親友である彼女達が、曙美さんを救ったのだ。
 俺には、やっぱり、難しいのだろうか。
 そんな思いを悟られない様に、笑顔で頷けば、彼女は安堵の息を吐いてスマホを手渡してきた。
「……こんにちは」
『うわあ! 画面越しなのに顔が良いのが分かる! 悔しい! でもありがとう!』
 夏休みに入る前と同じテンションだ。思わず苦笑いを浮かべる。
 ちらりと横目で曙美さんを見れば、このりさんと話をしている。余程先程まで緊張し、恐怖していたのだろう。心底安堵した表情を見せる彼女を見て、少しだけもやりと胸が薄く霞がかった様な気分がする。
『希龍くんって私の事好きじゃないでしょ』
「え?」
 突然の問いかけに、慌てて画面に目を配れば、彼女は小さく笑みを浮かべていた。けれど、そんな言葉を発したはずなのに、彼女は微塵も傷ついている様な素振りを見せていなかった。そもそも、そんな簡単に、他人に問えるような内容でもなかったと思うに、彼女は率直に俺に聞いてきた。
 俺が上手く言葉を返せないでいると、気にしないで良いよと彼女はけらけらと笑っている。
『正直に言えば私は面食いだし、きっと希龍くんが一番苦手としているタイプの女子だと思う』
「……違うよ。御伽(おとぎ)さんはそうじゃないよ」
 俺の言葉を聞いて、今度は彼女の目が開く番だ。瞳を大きく開き、ぱちぱちと何度も瞬きをしてから、少しだけ疑うように目を細めて、じとりと俺の方を見てきた。
『マジ?』
「……確かに、俺は女性に対する苦手意識がある。見目を褒めてもらえるのは嬉しいよ、親からの授かりものだから」
『ほぉん。そう言えば、君の両親も見たことないな。君が言う程だから、そりゃあ顔が綺麗なんだろうね』
「うん。だから、自分の顔を恨んだことはない。だけれど、昔からどうも人と上手くいかなくてね」
 その顔なら運動できるとか、勉強できるとか、性格も完璧だろうとか。そんな期待に満ちた目で俺を見てくる周囲の人々。そして、その期待に応えるために、俺は勉学と運動を頑張ったけれど、どうも対人関係は上手くいかなくて。
 頑張って実力をつけて、期待に応えていたのに「完璧すぎて無理」だとか「調子に乗ってる」はよく言われた。その言葉の積み重ねは、次第に人と接する勇気を削がらせ、俺は人と接するのは諦めていた。
 そんな中、曙美さんと出会ったのだ。噂など気にせず、俺を個人として見て、普通に接してくれる。それがどれだけ救いだったか。
「こっちからすれば普通に生きてるだけなのに、勝手に期待されたり幻滅されたりした。それでも、曙美さんと君は違ったでしょ。俺が君の誘いを断っても、君は暴言を吐いたりしなかった。見るからに落胆していなかった。被害者面しなかった。流石曙美さんの友達だなって思ったよ」
『……何だろう、褒められたんだろうけれどマウントとられた気がする』
 まあいいか、と彼女は小さく呟いてから真っ直ぐと笑みを見せた。
『嫌われてないのなら上々! それじゃあ、友達としてよろしくね』
 類は友を呼ぶ、とはこういうことかもしれない。すぐ傍に居る曙美さんの事が頭に過って、小さく笑みを浮かべれば、何を笑っているのかと少し怒られたけれど。
 何でもない事、そしてこちらこそお願いしたいと言えば、彼女は満足そうにうなずいた。
「そういえば、君たち二人はいつから仲良くなったの?」
 俺達は偶々中学が一緒だったけれど、彼女は高校で出会ったはずだ。どういうタイミングで仲良くなったのかという疑問を問うてみれば、彼女は少し不満げな顔を浮かべた。
『なに? やっぱりマウントとりたいの?』
「違うよ! 単純に、君たちのことを知りたいだけだ」
 確かに今の俺と曙美さんは前よりは仲良くなっているだろうけれど、友達としては御伽さんの方が期間は長いだろう。それに、どうやって仲良くなったのか、彼女が真剣に曙美さんと向き合えている理由も知りたかった。
 じ、と彼女の目を見ていれば、彼女は少し遠くを見るように、昔を思い出すように斜めに目線を動かして、首の裏を掻いた。
『……入試に受かって、その後の制服採寸とかで学校に行った時かな。その時丁度目の前に曙美が居たの。誰とも話すそぶりも見せないし、少し不安そうだったし。少し暗い子だなとさえ思ってた』
「うん」
『だけど、合格祝に両親から貰った時計を私は落としてしまったの。大切な物だったから、どうしようって、まだ知り合いも友達もいないのにって、すっごい焦ったし泣きそうにもなった』
「そりゃあ焦るし泣きたくなるだろうね」
『そうしたら、曙美が話しかけてきたのよ。どうしたの? って、凄く緊張しながら。きっと凄い怖かったと思うよ。きっと当時あの子が仲良くしていたようなタイプの人間じゃないもん、私』
 確かに、クラスでは物静かで大人しい曙美さんと、明るくて誰とでも話せるような御伽さんという組み合わせは、最初は距離を測りかねて互いに少し疎遠しがちかもしれない。
『それで両親から貰った時計を落とした、って言ったの。知ってるでしょ? あの子、両親とも仲があまり良くない。当時は知らないから言えたし、今では彼女が少し戸惑ったのも知ってる。けれど、それだけ。知った今だから余計に尊敬する。私だったら嫉妬して見なかったフリをする』
 自分とは真逆のような強そうで明るい相手が、自分ではあり得ないような物を無くして困っている。これがもし俺だったら、どうだろう。そもそも、声を掛けるのも出来なかったかもしれない。それでも、曙美さんは声を掛けたのだ。困っているから、と。
『そしたら、一緒に探そうって言ってくれて。先生とかに一緒に聞きに行ったり、制服を採寸した場所まで行ったり』
「行動力が凄いね」
『うん、あの子はそうなんだよ。なんでも、自分より相手なんだ。天秤を掛けた時に、自分の方に傾くことは、きっと無い』
 そうだろう。彼女はそういう人だ。いつだって、自分より他人を優先する。他人の意見を真剣に聞き入れるから、いつだって自分を傷つける。
「だけど、その分、相手には一等優しく丁寧に接するんだよね」
『そう。結局、教室に落ちていたのを先生が拾っていて、良かったねって、自分の事のように喜んでくれて。本当に良い子なんだなって思って、仲良くなりたいなって思わせた。人たらしなところあるよね』
「そうだね。無自覚だけど」
『そう。だから、あの子との知り合い歴は私の方が短いけれど、私だってあの子が好き。優しいあの子につけ込んで、己の満足の為だけに利用するなら、許さない』
 つけ込んで己の満足の為だけに利用する。一瞬、首元を絞められたかのように思えた。彼女の鋭い目つきで睨まれて、俺達は画面越しで壁があり触れる事が出来ないはずなのに、俺の首を確実に狙ってくるような、そんな殺気を一瞬感じてしまった。
 思わず首元に指を添えるが、当然そこに手は回されておらず、彼女の気迫に気圧されているのだとすぐに分かった。
 神の子だと言うのに、ただの人間である相手に気圧されるなんて、情けないにも程があると思われるだろう。だが、それほどまでに、目の前の彼女にとっても、曙美さんは大切な存在なのだ。

 ――希龍くんは私の話を聞いてくれるし、一緒にやってくれるし。とっても嬉しいんだ。私、一緒に課題をやるの、希龍くんで良かった。ありがとう。

 初めて、俺自身と向き合って一緒に横に並んでくれた彼女。神様である故にとんでもない美貌を持っている父の遺伝子を継いだ俺は、幼少のころからどうも女運は悪かった。容姿が良いのなら俺の性格はどうでも良いと思われたり、逆に完璧を求められたり、俺をステータスにしたい人。性格は関係ないと言っておきながら、結局勝手に期待して幻滅する人。そんな人ばかりの中で出会った彼女は、正しく俺の救いだったと思う。それはきっと、俺が望んでいた「普通の優しさ」というものだったのかもしれない。
 きっと世界を見渡せば、彼女のように普通の優しさをくれる人だっているはずだろう。俺がよく周りを知ろうともせず、閉じこもって、見ていなかっただけで。
 けれど、彼女が良い。その理由は、きっと、明白で。 
 首元に添えた指を、そのまま少し撫でるように降ろしてから、小さく息を吸って、画面の向こうへ、真っ直ぐと目を向ける。
「俺も、好きだよ。だから、もし俺が踏み間違いそうになったら、止めてほしい……です」
 小さく頭を下げれば、彼女からの返事がなくて、恐る恐る顔を上げて画面を見てみると、本日何度目かの呆けた表情をしていて、そしてすぐにけらけらと笑い声を零した。
『あはは! 私の杞憂だったかも! 大丈夫、私同担歓迎タイプだから。応援するし相談にも乗るよ』
「同担歓迎タイプ……?」
 何のことを言っているんだと、今度はこっちが呆けた表情になるけれど、御伽さんは楽しそうにクフクフと笑うばかりで一向に解決しない。
 小さく溜息を吐くと、小さく謝りながら、最後に一つだけと真剣な声と表情を見せてきた。
『曙美を大切にしなかったら怒る!』
「うん、肝に銘じておく」
『よし! じゃあもう一回曙美に変わって』
 画面から目を離して曙美さんの方を見れば、このりさんと話をしながらタオルを目元に押し当てている所だった。

 ――将来、お前を守り切ることはきっと出来なくなる。

 このりさんのこの言葉。曙美さんは理解できていなかったようだけれど、俺からすれば少しばかり心当たりがある。
 そもそも、竜と狐というのは、それぞれ授けるモノが違う。水に関するモノに豊作に関するモノ。そして、それぞれの神に愛された者は、天気にも影響が出ると言われている。竜に愛されると雨男や雨女、稲荷に愛されると晴れ男晴れ女、と言ったように、これらは最近ではネットでも知られている情報らしい。
 俺は竜である父の愛があるからなのか、天気では雨に縁があり、よく雨男と言われているのを耳にした。それに反し稲荷のこのりさんに愛された曙美さんは太陽と相性が良かったようで、晴れ女だと聞いたことがある。あながち言い伝えも馬鹿に出来ないものだ。
 そして、こうとも言われている。
 晴れ女や男は、雨男や雨女と親密になると力を失う、とも。
 それはつまり、俺が曙美さんと仲良くし続けていたら、このりさんが曙美さんから離れてしまう日が近づいてしまう、ということなのだろう。だから、彼はそれを危惧していた。
 けれど、それはまだ分からない。まだ、俺達は友達なのだから。曙美さんが天秤をかけた時に、俺の方が軽ければ、このまま、彼が彼女の傍に居続ける事も、あるかもしれない。だからこそ、それは、まだ分からないのだ。
「曙美さん」
 彼女の名を呼び、頬を掻きながらスマホを渡そうとすれば、彼女は少しだけ慌てたようなそぶりを見せた。
「だ、大丈夫?」
 そういうところ、本当に優しくて、本人は自覚のない人たらしだ。小さく苦笑いが零れた。
「大丈夫。まあ、絞られたけど……」
「え?」
『人聞きが悪ーい! 友達の心配をしてるんですこっちはー!』
 友達の心配という言葉に、思わず心がムズムズするのだろう。口元がにやけそうになるのを必死に堪えようとしているけれど、丸分かりだ。少しだけ恥ずかしそうにしているのを可愛らしく思いながら、小さく笑みを浮かべて、スマホを返した。
「素敵な子だね」
 率直な感想だった。素敵な友人、とはこのことを言うのかもしれない。俺には、あまり縁の無かった存在。
「……うん」
 だけれど、今ではこうして素敵な相手が目の前に居る。友人である御伽さんは、応援はしてくれると言っていたけれど……。
「俺も頑張らないとな」
「え?」
 きっと、最大の壁にもなるのも彼女だろうと、俺は自然と察したのだ。
 朝からどうもアオさんが浮足立っている。
 決して目障りだとかそんな事はないのだけれど、見るからにソワソワとしているのが丸分かりと言うか。けれど本人は必死に隠せている、と思っているようだ。
 私が起きて身支度して部屋から出た時、朝食の準備をしているアオさんが鼻歌を歌っているのを背中姿だけど見ちゃったし。朝食の時も、ご飯を口に運ぶ度にいつも以上に口元が緩んでいたし。片付けの時も少し浮ついているのか、片付けの時間があっという間に過ぎ去った。
 分かりやすい神様だ。
「今日は何かある日なのか?」
 当然、彼の変化を察したのは私だけではなかった。このりが、勉強中の私と雫玖くんに問うてきた。私達に、というよりは雫玖くん単体に対してだろうけれど。
 つまりということになるが、誰から見ても彼は浮ついている、ということである。私も察しているとばかりに雫玖くんに目を向ければ、彼もバレているのを察していたのだろう、顔を少し赤くして、片手で顔を覆いながら苦笑いを浮かべた。
「まあ、そうだね」
「アオさんがあそこまでソワソワしているもんね」
 いつも落ち着いていて、私達の様子を温かく見守ってくれている神様。わくわくしている、という表情は最初の対面の時に数回見たけれど、今回の様な、まるで人間のようなアオさんは初めて見た。
「今日は……」
 雫玖くんが口にしようとして、このりと一緒に興味津々と言わんばかりに彼の方へ目を向けた瞬間、――リィン……と鈴の音が屋敷の中に響いた。
 思わず天井を見上げたけれど、案の定鈴はそこに存在していない。けれど、この鈴の音は聞き覚えがある。
 私がこの屋敷にはじめて訪れた時、そしてこうして屋敷に泊まることが決まって雫玖くんがドアに向けて鈴を差し出した時。
 つまり、この屋敷に訪れようとしたときに響く音だ。
 それに気づいて玄関のある方へ目を向けると同時に、バタバタと駆け足が縁側から聞こえた。シルエットで分かった……アオさんだ。
「今から来る人を、アオさんはずっと待ってて、楽しみにしてたって事……?」
「そういう、ことだね」
 雫玖くんは未だに顔を赤くして、片手で顔を覆っている。思わず首を傾げた。
 そりゃあ、ここは神様の家だけれど、私みたいな人間やこのりみたいな別の神様だってこの家に入れている。きっとアオさんに用のある神様だって、存在しているのだろうし、そんな神様達が家を訪れる事もあるのかもしれない。まあ、まだ一回も出会ったことはないけれど。
「大歓迎な様子だな。友人でも来たのか?」
「あ、それだともしかして、私達邪魔になるかな。自室とかに戻っといた方が良い?」
「あ、待って、大丈夫だから……」
 雫玖くんの静止の声も聞かずに、このりが障子戸を開ける。私もつられて立ち上がって、彼と同じく玄関の方へ向けて顔を出して覗き見た。
 玄関には、スッポリと覆い隠すように何かを力強く抱きしめているアオさんと、そんな彼に抱きしめられて少し苦しそうに彼の背中をトントンと叩いている手が見えた。
「ああ、ナツ久しぶり。会いたかったよ……!」
「ちょ、ちょっとアオさん苦しいんですけど!」
 声が聞こえて、相手は女性だと分かった。つまり男女の強い抱擁を目にしてしまって、思わず頬が熱くなった気がして、両手で口元を多い雫玖くんの方へ顔を向けた。
 彼は未だに座ったままで、額に数本の指を添えて、苦笑いを浮かべていた。
「雫玖くん、ナツさん……って」
「ああ、母だよ」
 先日聞いた、トラベルライターのお母さんだ。アオさんという神様と結婚して、雫玖くんというハーフの子を産んだお母さん。
 今一度覗き見てみると、未だにアオさんの抱擁は続いていた。相手はもう諦めたのか、訴えの背中叩きを止めてアオさんの背中を撫でていた。
 どうやら、神様から一等愛されている人が帰ってきたようだ。



「どうも初めまして、雫玖の母の希龍ナツです。アオさんから曙美ちゃんのことは聞いてたよ」
「え、えっと、狐坂曙美です……。雫玖くんとアオさんには本当にお世話になっていて」
 アオさんから解放された雫玖くんのお母さんことナツさん。居間の座卓を挟んで立ちながら向き合って、彼女はにこにこと笑みを浮かべながら話してくれた。私はと言えば、ぺこぺこと何度も何度も頭を下げているのだけど。
 結局アオさんの抱擁から解放されたのはあの後少ししてからで、彼女は苦笑い浮かべながらアオさんから離れた所で、覗いていた私達に気が付いた。
 やば、とこのりと共に声を零したけれど、彼女は怒ることも無く、アオさんと少し話してから私達に手を振って、そのまま二人で其々洗面所や台所などに移動して行った。
 そして、大きなキャリーバックを部屋の片隅に置いた彼女は、私達と改めて対面し、笑顔で挨拶をしてくれたのだった。
 ていうか、アオさんからどこまで聞いてるんだろう。家で私を預かる、というのは聞いたんだと思うけど、なんだか恥ずかしいな。
「えっと、この子は私についてきちゃったこのりで……」
「世話になってる」
 もう少し言葉使い気を付けて! と小声でささやきながら、彼の脇腹をつつく。
 そんな私達の様子を見ても、ナツさんは笑みをこぼすだけで、怒る素振りも気分を害している雰囲気も感じない。
「す、すみませんこの子ちょっと生意気で……」
「おい」
「全然大丈夫。寧ろ可愛いと思うよ」
 口元に手を添えて、あははと笑い声を零した。
 このりの頭を下げさせようと頭に手を乗せて力を込めて、逆に彼から反発の力が来て、二人で力比べのように戦っている私達を、微笑まし気に、そして少し面白そうに見ていた。
「まあいつまでも立ってないで、座って座って。ゆっくり話もしたいし」
 ほらほら、と私達に座ることを促してきたナツさん。家に勝手にお泊りしてる息子と同い年の女子高生を見ても、私だったらちょっと気圧されそうなこのりの生意気な雰囲気を見ても、相手は全然気にしない。懐が広いのか、それとも、深く考えないのか……。
 ちらり、と横目で雫玖くんの方へ目を向ければ、彼は苦笑いを浮かべているけれど。
「えっと、まあ、神の妻になっちゃったから……色々と縁があるんだよね」
「そうそう。それに比べたら、全然気にならないよ」
 ああ、きっと感覚がマヒしたんだ。
 あまりにもスケールのデカい内容に眩暈がしそうだった。そうだよね、神様……それもきっと上位格だろうアオさんの奥さんとなれば、同じように上位格な神様と会ったり話したり、縁もあるだろう。私では想像できないような凄い出来事も、きっと経験しているだろう。
 そもそも、彼女も私と同じ様に海に落ちてアオさんと出会ったと雫玖くんは言っていた。だから、この家に居る理由も多少は理解できているのかもしれないし。
「……悪かったな、生まれたばっかりの雑魚で」
「このり、そんな事……」
 機嫌を損ねたのか、口を尖らせながら、ぷいっとそっぽを向いた。
 そんな事ないと言いたかったのだが、思わず言葉が詰まる。彼の話を聞く限り、彼は私の実家の隣の稲荷神社の神様(狐)だから、見目は少年くらいだけれど、神様としての年齢としては、アオさん達からすれば赤ん坊くらいなのかもしれない。だから、アオさんはこのりの発言に一々怒ったりしない。だって、相手は赤ん坊だからね。
 でも、私からしたら、人間からしたら神様という存在はそれだけで充分凄いことではあって。だけど、彼はそんな言葉を求めてはいないんだろう。当然の事実なのだから。
 なんて声を掛ければいいのだろうと言葉に詰まっていれば、ぽん、とこのりの頭に手が乗った。
 彼も驚いたのか尻尾が立って、もふっと私の顔面に当たった。案外痛い。その尻尾をどけながら手の主に目を向ければ、どうやらナツさんだったらしい。
 このりも最初は驚いて目を開いていたが、慌てて手を振り払おうとするが、その前にナツさんは頭を優しく撫でていた。
「ごめんね、言葉が悪かったかな。君達神様はやっぱり難しいね」
「何だよ」
「確かに貴方は神様としては若いのだろうけれど、その分未来があるのよ。それは人間も同じだけど」
 彼女はこのりの頭を撫でながら、私と雫玖くんの方へも顔を向けて、にこりと笑みを浮かべた。
「若い子の特権は未来や希望で溢れている事。何かを成す為への時間がある事」
「何かを成すための時間……」
「そうだよ。先人達はその時間は過ぎてしまった。時間は戻らない。だから、先人達を超えるチャンスを後輩たちは持っているわけよ」
 ナツさんは手を離して、ぐっと両手を握って笑みを浮かべた。
「勿論、先人達はその過去の時間で得た物がある。それは素直に認めた方が良いのかもしれない。けれど時代はどんどん進化している。考え方だって力の得る方法だって容量が良くなったりして来ている。自分達だって負けないぞ、って気持ちも大切よ」
 ナツさんの言葉を聞いて、最初は呆けていたこのりだったけれど、次第にその口元は緩んでいき、笑みへと完全に変わった。
「まーね。じじい達とは違って成長の見込みしかないし? 向こうは衰えるばかりだもんな」
「失礼だなあ」
 台所の方から声がして皆で目を向ければ、アオさんが笑って立っていた。お盆を手にして、そこには人数分の湯呑と急須が置かれていて、彼はナツさんの隣に腰かけると、私達其々にお茶を配り始めた。
 いつから聞いてたんだろう、なんて考えちゃいけないかもしれない。
「ナツさん、ありがとうございます」
 ぺこり、と頭を下げれば気にしないでと彼女は優しい笑みを浮かべた。
 やっぱり、お母さん、なんだなあ。それも、神様に選ばれた。
「ナツも立派になったよね。昔はずっとマイナス思考だったのに」
「恥ずかしいからやめて下さいよ」
 目の前で夫婦のじゃれ合いを目にしてしまった。思わず目線を逸らしながら、湯呑に入っているお茶を啜った。雫玖くんは慣れているのか、それとも「また始まった」と言わんばかりの表情なのか、少し判断が難しいけれど、ジトリとした目で私と同じ様にお茶を啜っていた。彼にしてはお行儀悪く、少し音を立てながら。

 だけど、私の知らない光景だ。私の両親は、いつも言い合いをしていたような気がする。目の前の仲の良い掛け合いではなくて、声を荒げての掛け合いが多かった気がする。その時の大体の理由は、私が多かったと思う。
 私の成績が悪いのはどうしてだ。そんなの知らないわよ。
 そんな感じの討論が、聞こえる事が多かった。直接怒られているわけではないけれど、自分を否定されている気がして、私はいつもすぐにその場から離れていた。
 そもそも、私の母親は、あんな風に、私に優しい言葉を掛けてくれたことはあまり無かった。このりを見て、何だから羨ましいと感じてしまった。
 雫玖くんがどうして優しくて、私(他人)を気に掛けられるのか、言葉を選べるのかが分かった気がする。人間が好きで優しく見守る神様のアオさんと、相手の話を聞いて更にほしい言葉をくれるナツさんの子供だからだ。
 学校で孤立してしまったとしても、彼には、最大の味方が居たのだ。
「良いなあ」
 ぽつり、と無意識に言葉が零れた。
 ハッと意識を戻せば、どうやら隣に居た雫玖くんにもこのりにも聞こえていなかったようで、ホッと安堵の息を零した。
 こんな言葉、聞かれたくない。聞かれるわけにはいかない。だって雫玖くんは私を善意で助けてくれた人なのに。
 なのにどうして、謎のもやもやがあるのだろう。神様の注いでくれお茶を飲んで喉から身体の中に通って行ったけれど、もやもやは一緒に流れて行ってくれなかった。それがひどく悔しくて惨めで、こっそりと唇を噛みしめた。
 トラベルライターとは、海外旅行や国内旅行で訪れた場所の観光スポットやグルメ、ストーリーなどを紹介する仕事のことを言う。掲載先は雑誌やガイドブックなどの紙面に限らず、インターネット上の旅行サイトやアプリ、SNSなどを利用する場合もあるそうだ。
 当然外国に行く際にはその国の言葉、もしくは世界共通語の英語を使わないといけない。日本語が通じる国は増えてきたけれども。
 ということで、本日はナツさんを目の前に英語の課題をこなしている。現在進行形である。友人のお母さん、というだけで緊張するのだけれど、更に勉強を教わるとなると、さらに緊張が増す。汗が滝のように流れている。
「母さん、ここの文法あってる?」
「ん? ああ合ってるよ。けどこっちは単語間違えてる。今回は別の物を使った方が良い」
「そうか……じゃあこっちかな」
「そうだね。そっちが望ましいかな」
 雫玖くんは自身の母親だからなのか、疑問に思ったことや不安に思ったことはどんどんと問うている。ナツさんも彼の疑問に優しく、けれど自分から答えは決して出さない様に、丁寧に教えていた。
 この教え方、どこか面影が……。
 親子の方を見ていれば、ああ、と思い出す。雫玖くんの教え方によく似ているんだ。やっぱり節々に面影を感じるものなんだな。
「曙美ちゃんは何か聞きたいところある?」
 くるっ、とナツさんが私の方へ顔を向けてきた。二人の方へ目を向けていたので、自然と顔があってしまう。思わずビクッと肩を揺らしてしまった。
 えーっと、と視線を少しだけ泳がせて、彼女の視線から目を逸らす。
「い、今は大丈夫、です」
「了解」
 思わず顔を伏せてしまって、印象が悪く見えてしまったかもしれない。そんな杞憂を一瞬で抱えてしまったけれど、ナツさんは全然気にしないで、優しい声色で頷いた。
「じゃあいったん休憩しようか」
 ぱん、とナツさんが手を叩いて合図をし、私と雫玖くんは同時に顔を上げた。
 ナツさんはにこにこと笑みを浮かべながら、座卓に組んだ両腕を乗せて、少しだけ乗り出し気味な体勢になった。
「私、曙美ちゃんと少しお話してみたかったんだよね」
「え?」
「ふふ、やっぱり息子が初めて連れてきた友達だからさ~」
「母さん!」
 ナツさんが嬉しそうに、けれどどこか面白そうに口元に手を添えながら言えば、雫玖くんが顔を真っ赤にして叫んだ。
 何だろう、ちょっとデジャヴを感じる。
 夫婦は似てくる、とは言うけれど、他人同士とは言えナツさんとアオさんも似てくるんだろうか。少し小言を口にする雫玖くんを見ても、ナツさんはにこにこの笑顔を止めない。母は強い。
「父さんにも言われたみたいだし……はあ……曙美さん本当にごめんね?」
「え、ううん! 全然大丈夫。それに、前も言ったけれど、友達を家に招くのって緊張すると思うし……何より、今は毎日楽しいから」
「そっ、か……それなら良かったんだけれど……」
「……曙美ちゃんも友達をあまり家に呼んだことは無いの?」
 ナツさんの問いかけに思わず肩を跳ねらせた。どくん、と心臓も大きく跳ねたような気分がする。
 私が必死に、必死に抑え込んで心の奥に、奥に押し込んでいる何かが、出てきそうになってくる。それ必死に抑え込むように、薄く笑みを浮かべた。
「はい、そうなんです」
「そっか~奇遇だね。私もだよ」
「え?」
 ナツさんが自身を指さして、私の言葉に同意した。驚いて間の抜けた声を零すけれど、そういえばと思い出した。私とナツさんは、どこか似ている所があったって。
「私は田舎生まれなんだけど、そこの世界の狭さ? そういうのが本当に嫌で。更に両親が変に厳しくてさ。友達を呼ぶとか作るとかそんな暇ないでしょうって」
「わ、かります……!」
 ナツさんの言葉に、思わず賛同してしまった。
 服の胸元を握りしめて、少しだけ緊張したけれど、考える事も無く彼女の言葉に同意を示した。
「私も、親が厳しくて、一回友達を招いたら、その日の夕食時機嫌が悪くなってて……いけない事なんだって、思っちゃって」
「そうなの?」
 隣に居た雫玖くんが少し驚いたような表情で問いかけて、こくりと首を縦に振る。
「そっか、だから、俺の事も理解してくれたのか……」
「そう、なのかな? まあ、雫玖くんは家に招く、という行為が難しいからかもだけど」
「それは一理ある」
 小さく笑みを零せば、彼もつられて小さく笑みを零した。
「でも、お母さんとかにムカつかなかった?」
「え?」
「何でダメなの~! って。結果として私は窮屈な家を飛び出してるわけだし。色々と限界を迎えて、あとアオさんに促されてね」
 ああ、少し人の所為っぽくなっちゃったかな? とナツさんは思わず口元に手を添えて、周りに目を配らせる。アオさんに聞かれていなかったか、探しているのかもしれない。
 運が良いことに彼は居なかったので、彼女は安堵した表情をしてから、再度私の方へ顔を向ける。もう一度言葉にして聞かれなかったけれど、雰囲気で問いかけられているのはハッキリと分かる。
 ムカつく。そう思う事は、今まであっただろうか。
「私は出来損ないなので。怒る資格なんて、無いんですよ」
 言葉をつぶやきながら、ゆっくりと頭が下がっていく。
 両親が共に居る家は、重圧と畏怖に満ちた法廷そのものだった。その家に居る事が怖くなって、途中で長期休暇でも家に帰ることを辞めた。
 そして私は、そんな自分を、両親に怒りを抱きたくなる自分を、何よりも嫌った。

「怒っちゃいけない人なんて存在しない」
 スパン、と何かを斬り捨てるような真っ直ぐな言葉が、私の中の何かを真っ二つにした。
 思わず顔を上げる。私が抱えていた、大きな何かを斬ったような言葉を述べたのはナツさんだったようで、彼女は真っ直ぐと私達の方を見ていた。
「良い? 雫玖も聞きなさい。怒るというのはマイナスなイメージを持つかもしれないけれど、己を守る大切な感情の一つよ」
 胸に手を添えて真っ直ぐと言葉を述べる。
 私と雫玖くんは二人揃って目を開き、ぱちくりと瞬きをしてしまう。
「確かに意味も無く怒鳴り散らかすのはあまり良い物ではない。自己満足の為に相手を恐喝させる怒りも褒められたものじゃない。だけれど、抑えすぎないで。君達は神様でも仏様でも何でもないの。ただの人間で、感情を持って生まれた存在なんだよ。己自身の事を否定されたら怒って良いの。ムカついて良いの」
「……仏の顔も三度まで、って言うしね」
「そう! 仏様ですら4回目は無いぞ、怒るぞ! ってなるのに、人間である私達がそこまで自分を追い詰めて苦しめる必要はないのよ」
 ナツさんの力説に雫玖くんが小さく笑みを浮かべて言葉を述べれば、ナツさんが賛同した。
 そんな二人の姿を見て、思わずぽかんと間抜け面。
「見る限り二人共怒りって感情を諦めてるところあるからなあ。二人はもっと感情を出して、自分に正直になっても良いんだよ?」
「そんな事言われても、ねえ?」
 雫玖くんが私の方を見てくる。彼の視線による問いかけに、こくこくと何度も頷いた。
「ん~……じゃあ、怒りまでは言わないから、気持ちを口に出す練習しよう!」
「え?」
「私も昔は苦手だったんだけど、アオさんに特訓させられたの」
 たはは、と頭の後ろを掻きながらナツさんが言う。
 何だか、この夫婦の関係図が分かってきたぞ。何だろう、アオさんってナツさんを女性(妻)としても愛しているけれど、親子みたいな保護者的な意味でも愛しているんじゃないか?
 でも、アオさんに特訓させられているナツさんを想像すると、何だか可愛らしいな。なんて。
「じゃあ、そうだな……雫玖。曙美ちゃんに思ったことを口にしてみて」
「え? は!?」
「よーい、どん!」
「急すぎるだろ……!」
「あ、ちょっと怒ってる。良いぞ良いぞ~」
 にこにこと笑みを浮かべているナツさんは無敵だ。ぐ、と雫玖くんは悔しそうに歯を食いしばった。もう一度言う。母は強し、だ。
「あの、雫玖くん嫌だったら大丈夫だよ……?」
「嫌なわけがないよ! っと、ごめん。えっと、そう、だな……」
 顎に指を添えて、私の方を見ている雫玖くん。なんだか気恥ずかしくて、心というか、何かムズムズする……!
「曙美ちゃん不快だったら怒って良いんだよ~」
「え!? ぜ、全然大丈夫ですよ!?」
「あら、そっか~。じゃあ雫玖続けても大丈夫みたいだよ」
「母さん……!」
 ナツさんが温かい目をしてこっちを見ている。怒っても良いとは言ったけれど、全然不快じゃないし、怒りはわかない。多分、これが他人だったら不快感を感じたんだろうけれど。
 雫玖くんはと言えば、ナツさんを少しだけ睨んでから、今度は私の頭のてっぺんから膝(今は正座しているので)見ている。すると、あ、と声を零して、私の手を取った。
「曙美さんの手、凄い綺麗だね」
 しん、……と部屋が静まり返った。
 それと同時に、雫玖くんの顔に熱が集まっていくのがハッキリと分かる。だって顔が真っ赤になっていくんだもん。普段は冷静な彼がここまで真っ赤な顔になるの、初めて見たな。
「ご、ごめん! ていうか、セクハラだよね! 異性に、じろじろ見られたし、勝手に触れられてるし……!」
「だ、大丈夫だよ。もう何度か触れ合ってるし、お泊りをさせてもらってるくらいの仲、だし。男でも雫玖くんは特別だよ」
 だから気にしないで、と小さく笑みを浮かべれば、彼はきょとんと少し目を丸くしてから、片手で自身の口元を覆った。
「それはずるいな……」
「え?」
「いや、何でもないよ……」
「でも、ありがとう。褒められて凄い嬉しい」
 これは素直な気持ちだ。手が綺麗、と褒められるとは思ってもいなかった。そもそも今までこうして褒められたことがあまり無かったし、私だって女子だし、見目の一部を仲の良い彼に褒められれば嬉しいに決まっているのだ。
 彼は少し驚いたような表情を浮かべるけれど、すぐに優しい瞳になって、再度私の手を眺めた。
「じゃあ、続きなんだけど。白くて、指が長くてすらりとしてる。爪の形も綺麗だし。魅力的な手だね」
 勿論、手だけではないけれど。最後に、にこりと笑みを浮かべながら爆弾を落とす。そういうところですよ本当に。
 ぐ、と唇を噛んで、その顔面の良さに何とか耐える。そんな私を見て、彼は慌てて私の顔に彼の綺麗な顔を近づけてきた。
「どうしたんだい。噛んじゃ駄目だよ」
「くっ……!」
 唇は噛まないようにしたが、思わず小さな声が出た。くっ、なんて生まれて初めて言った。まさか自分が言う日が来るとは思ってもいなかった。
 ごめんなさい、と謝って、口内での力を抜く。そんな私に満足して、彼は私の手を再度眺めている。そんなに、面白い手だろうか……。自分でも自分の手を眺める。
「……私の手、褒めてくれるけど、雫玖くんの手も、綺麗だと思う」
「ん?」
 今度は私の番だ! 反撃開始だ! と言わんばかりに、彼の手をじっと眺める。
「なんというか……スラッとしてる? って感じ。指が長くて、けれど細すぎはしないで。大きくて。上手く言えないんだけれど……見てて、あ、綺麗だな~好きだな~って」
「え?」
「ん? ……あ、いえ、あの、手が……っ!」
「あ、手! そっか!」
 変な誤解を与えてしまっただろうか。思わず目線を逸らせば、汗がドバっと出る。目がぐるぐると回る気分がする。
 ごめんなさい! と両手を上げる姿勢になって、慌てて彼から手を離す。私こそセクハラになるんじゃないか!?
 うう、と小さくなりながら頬に手を添えて、少しだけ顔を伏せる。
 二人揃って顔を真っ赤にして、気恥ずかしさから思わず目をそらしてしまう。確かに自分の気持ちや感情には素直になったけれど、これは本当に恥ずかしい。
 自分の気持ちを伝えるのって、やっぱり難しくて恥ずかしいことなのだと、久方ぶりに思い出した。けれど、これも練習だし。自分の気持ちを素直に言ったり、感情に素直になる練習だし……!
 でも、恥ずかしいな……!

「……いやあ、二人とも素直で良い子だねえ。ブラックコーヒーでも飲もうかな」
 朝、起床時にはアラームは設定してあるがなかなか起きれない私の為に、雫玖くんが起こしにやってくる。その後このりと一緒にそれぞれ身支度を整えて、彼等の家族と共に朝食をとる。そして少し休憩してから、雫玖くんや偶にナツさんを含め、一緒に勉強をする。休憩時にはアオさんお手製のおやつなどが配られる。昼食も勿論この一家と共にとる。お昼の後は長めの休憩を取って、それぞれ好きな事をする。私は最近、ナツさんの話を聞くことが多い気がする。外の世界を知りたくて。そして休憩が終われば、勉強の再開。夕飯の時間になれば一日分の勉強会は終了。食事をとった後は各自自由に過ごす。雫玖くんと勉強の事を話したりだとか、ずっとつまらなそうにしているこのりと一緒に遊んだりだとか、お風呂に入らせてもらったり。
 そしてある一定の時間を過ぎれば、私はお借りしている自室に入り、復習を兼ねて勉強をするのだ。こんなに一日中勉強をスムーズに行えて、苦にならないのは本当に素敵だ。いっそ奇跡と言っても過言ではないだろう。以前の私では絶対にありえなかった。
 学校で勉強を受ける時は、いつ自分が指名されるかひやひやしたし、答えられなかったときの恐怖はとんでもなかった。分からないところが分からない、という状況も多かったから先生に聞くに聞けなかった。友人であるちはるに聞く、ということさえも難しかった。勇気も無かった。だからこそ分からない、がどんどんと積み重なって、それはもう手遅れに近い存在になってしまって、成績不振という形になってしまったのだろう。
 けれど、今の環境はどうだ。少しでも躓くとすぐに察して優しく教えてくれて、こちらの体調を気に掛けてくれる恩人が居る。私の事を第一に考えてくれる神様もいる。美味しい食事や心地良い環境を作り上げてくれる神様もいる。相談ごとに乗ってくれて、勉強も教えてくれる恩人の母親もいる。
 恵まれすぎていないだろうか。罰が当たらないだろうか、なんて考えてしまうのは、きっと私だけではないはず。だって、今まで得られなかったものを一気に摂取してしまっているのだ。不安になるのも当然だと言ってほしい。

「当然だよね?」
『そういうことにしといてあげる』
 通話の先、画面の先に映っているのはちはるだ。
 彼女とはこの時間……夜の22時付近に画面通話をし、一緒に勉強をしている。私が本日学んだことを伝え、時には教え、その逆のパターンもある。不安な事があればすぐに互いに問い掛けられるのだ。
 まさか、彼女とこうして夜に一緒に勉強が出来るとは思わなかった。彼女に頼るのは、どうも恐怖心があった。それは彼女が嫌いだから、とかそう言った理由なんかではなくて、単純に私が弱味を見せるのが怖かった、というのが正しい。弱みを見せてがっかりされて、嫌われたらどうしよう、という考えを持っていたから。
 けれど、今回の様々な出来事で、彼女には色々と弱みも見せてしまったし、今更過ぎるのだ。勉強の弱みなど、相手からすれば気にもならない程度だろう。彼女も、前と変わらず……寧ろ距離が近くなったような気がするし、多少は素直になる、頼る、という行為をするのも大切なのだと、この夏休みの短い期間で沢山学んでしまった。
「何だか微妙な返事だね」
『アンタに言われたくないわ』
「なにそれ」
『いやだって……やっぱり何でもない』
 何か言おうとしたけれど、彼女は小さく溜息を吐いて、再び自身の解いている問題に目を向けていた。思わず首をかしげて、私も自身が解いている問題と向き合う。
 今年の夏休みは、本当に特別な事ばかりだ。今までずっと諦めてきたものを手に入れ、恐怖を感じる事も特に無く、過去に比べて一番心穏やかに過ごせている。それはきっと、いや、絶対に雫玖くんのおかげで。もしあの時に彼と会って話をしていなかったら、私はきっとまだ学校で勉強していて、勉強や友人に関する恐怖に勝手に襲われて、己を余計に嫌っていたのだろう。

「曙美は竜の子が好きなのか?」
 私達が勉強していれば、部屋の隅で壁に寄り掛かっていたこのりが突然発言した。
 バッと勢いよく顔を上げれば、それと同時にちはるも顔を上げて「竜の子?」と問い掛けた。
「あ、あ~ほら、雫玖くんの苗字が希龍だから、かな? 偶にそう呼んじゃうみたい」
『成程。このりくんは不思議だね』
「まあ、お前からすればそう見えるかもな」
 ずい、とカメラに映り込むようにこのりが顔を寄せてきた。ちょっと、と文句を言っても彼は知らんぷりだ。
『けど、君もこの二人が気になっちゃうわけだ』
「当然だ」
『へえ~』
 にこにこ、というよりはにやにや、か。ちはるが頬杖をついて此方を見ている。そんな彼女の視線を感じて、思わず、ぐ、と唇を噛みしめた。

 ビデオ通話で夜に勉強を一緒にやろうと言い出したのは、私だった。心臓をバクバクにして友人にお願いをすれば、彼女はあっけらかんと何も気にしていないとばかりに「いいよ」と簡単に了承の返事をしてきた。それに思わず間の抜けた声を零し、顔も間抜けになっていたのはおわかりだろう。
 雫玖くんに勉強を教えてもらいながら、数々の問題を解く。けれど、それだけではやっぱり不安だった。だから、友人に、私達の事情を知っているちはるにお願いをしてみる事にしたのだ。勿論断られても仕方ないと思った。だって勉強のお誘いだし、毎日のように一緒にやるわけだし。けれど、彼女は全然大丈夫と了承してくれたのだ。安堵によって泣きそうになったのは秘密だ。
 そんな私達が勉強していれば、当然同室のこのりにも迷惑がかかってしまう。どうしようかと思っていれば、先に気が付いたのはちはるだった。
 『その子誰?』と問いかけてきた彼女の示す指先に居たのは、背を壁に預けて本を読んでいるこのりだった。夜中だと言うのに叫ぶところだった。彼も気が付いて、フードを更に深く被って、私の横に並んで座り、彼女に挨拶をしたのだ。
 「雫玖の親戚のこのりだ」と。そうすれば彼女は大して混乱することも無く、どこか納得もしているように見えた。まあ、顔が整っている同士だし、同じ家に住んでいるのだから、変ではない、だろうけれど……。
 『けれど何で曙美の部屋に居るの?』と問いかかれば「曙美を守るためだ」と返事をしたために、彼女は面白い物を見つけたような目で『あらあらあら』と声を零していた。この快楽主義者め。その時の私は顔を真っ赤にさせていただろうけれど、一つ咳をしてその場をやり過ごした。

 という経緯があって、彼女はこのりという存在も知ったことになる。更に言うと、この二人は変なところが気が合う。面白いことが好き同士、とも言えよう。もう一度言おう、快楽主義者め。
 現に先程の「曙美は竜の子が好きなのか?」という問題発言にも、彼女は乗り気だ。勉強のキリも丁度良いし、今夜はもう勉強は諦めた方が良いかもしれない。私は思わず額に手を添えて、シャーペンをくるりと回しながらぽつりと呟いた。
「やっぱり、変? かな?」
『変? とは?』
「いや、本当に付き合っているわけじゃないのに、こうして家に泊まってずっと一緒にいること……」
 改めて考えると、摩訶不思議な状況なんだよなあ。友人の家に泊まったこともない人間が、異性の家にお泊りしているんだからさ。
 普通こういう、異性のおうちにお泊りって、そういう順序があってから、が普通だよなあ。
『……変というか、こういうのってさ、他人がどう思うかってより、自分がどう思ってるかなんじゃないの? まあ、二人が今に不満がないのなら、そういうのも有りなんじゃないかな』
 当事者じゃないからわからないけれど、と最後に言葉を付け足したちはるの考えに、思わずぽかんと間の抜けた表情になってしまう。
「頭のいい人は言うことが違うなあ」
『なにそれ。まあ、実際の二人の状況はどうなのかなって思うけど。多少好意は持っていないと、異性の家には行こうとは思わないよね』
 優しい表情で笑みを浮かべる友人。一回だけ瞬きをしてから、ゆっくりと視線を下に下げた。
 事の発端は、私が崖から海落ちそうだったから、雫玖くんに助けてもらったからで。助けてもらった方法が、彼の家にお邪魔することだったってだけで。
 けれど、この家にいる人達の空気が居心地がよくて。
 次に訪れた理由は、雫玖くんに誘われたからで。それを、私はもちろん断る権利だってあった。だって、彼とはそこまで深い仲ではなかったのだから。まあ、あの時も、勢いとか流れとかもあったのだけれど……。
 それでも、この家にまた行きたいと思って。雫玖くんとアオさんたちが待っているこの家に行きたいと思って。ここに来ると、心が軽くなるような、息がしやすい気がするから。水の中の家なのに、息がしやすいなんて、魚になったような気分だけれど。
「その、私、誰かの家にお泊りするのって経験したことがなかったの。ていうか、遊びに行くことも無かったの……だから、」
『へえ~成程ねえ。じゃあ正解とかが分からないから混乱してるって感じかあ』
「そう! そうなの!」
 ちはるがまるで私の気持ちを代弁してくれたようで、顔を上げて声のボリュームも少し上がってしまった。
「ごめんね、こういうのは自分で解決するべきなんだろうけど」
『しょうがないでしょ。だって初心者だもん』
「初心者って……まあ間違いではないか」
 ははは、と乾いた苦笑いがこぼれた。
 そんな私の様子をじっと眺め続けていたこのりが、首をかしげながら、少しだけ顔をのぞかせて口を開く。
「結局、曙美はアイツが嫌いってことなのか?」
「いやっ違うよ!」
「ん? じゃあ好き、なのか?」
「0か100かなのか……!」
『はは、ハッキリしてる子だね。まあまだ難しいのかもしれないし』
「む、馬鹿にするな」
『ごめんごめん。けれど、好きにも種類ってあるんだよ』
「種類……」
 顔を赤くしている私をよそに、このりに優しく説明するちはる。彼は未だに完全に理解できているわけではなさそうだけれど。
 でも、彼は神様なわけだし、それに生まれて間もないって言っていたから、まだそういった感情とかには詳しくない、疎いのかもしれない。
 本能のままに行動する。この言葉が一番納得いく気がする。
「竜とあの人間は、好きなのか?」
「アオさんとナツさんね。あの二人は好きあってるよ。仲の良い夫婦だし」
 ナツさんが帰ってきた時のアオさんの抱擁の場面と、日常における中でのアオさんからナツさんへの優しくて熱い視線は、恋愛初心者の私でも分かる程、好きという感情があふれている。見てるこっちが照れるくらいだ。
 そんなアオさんの好き、愛を受け入れて、同じまでは返せていないかもしれないけれど、ナツさんもアオさんを見る目は優しくて、大切な人を見る目をしている。
「じゃあ、曙美も竜の子と、あんな風になりたいか?」
「ぐぅ、真っすぐすぎる……!」
『あはは! 何故何故期の子みたい』
 画面の向こうの彼女は私とこのりの掛け合いを見て笑っているし。私はこんな大きな子供を育てた記憶はございません。
 彼のいうあんな風に、というのは、夫婦のような関係のことを言うのだろう。
「あんな風になるには、まだ早いというか」
「そっか。成程」
 このりは少しだけ笑みを浮かべた。口元が少し緩んでいて、喜びを隠しきれていない、と言わんばかりである。
『もしかして、曙美が取られると思って焦っちゃってるんだ?』
「ああ。まあ、まだ大丈夫だなと思って」
『やば! 曙美モテモテじゃん!』
「テンション高いな」
 このりは相変わらずの笑みを浮かべて、友人であるちはるはにやにやしていて、思わずため息がこぼれた。

『それでもさ、曙美の気持ちは一旦置いておくとするでしょ?』
「うん」
『雫玖くんはね、曙美のことすっごく好きだと思うの』
「へ?」
 顔に熱が一気に集まった。ボンッ、と爆発したんじゃないかと思うくらいだ。
『男女の差は多少あるかもしれないけれど、人間的に好意を持つ相手以外は家に泊まらせないでしょ?』
「まあ、そうかもね?」
『それも、雫玖くんから誘ってるんでしょ? そんなの絶対好きじゃん! アンタにいいところを見せたくて張り切ってるんじゃん! は~雫玖くんも健全な男子だったわけね』
 少し興奮しているのかテンション高く、少しだけ早口な彼女の言葉に押されそうになる。最後の、雫玖くんも健全な男子だったわけ、というのには少し納得はしたけれど。
 まるで神様が作った(まあ神様の子ではあるんだけれど)ような造形美の容姿に、成績優秀運動神経抜群の文武両道で、儚い雰囲気から醸し出す、一つの宗教画のような彼が、他にもいるクラスの男子と同じような存在なのだと、漸く最近実感できている気がする。
 彼は人間なのだと、知っていたはずだけれど、やっと実感できている気がする。
『そんな男の子に好意を寄せられて、お泊りも誘われているわけですけど、実際どうですか?』
「え、えっと……」
『その場しのぎのフォローだったとはいえ、付き合ってる設定にしたのは貴方らしいですが、不快感はありませんでしたか?』
「ニュースのインタビューみたいに聞かないでよ」
 顔を半分手で覆い隠して、空いているもう片方の手で彼女の映るスマホのほうへ手を少しだけ寄せる。赤くなっているであろう自分の顔を、あまり見られたくなかったのだ。
 自分が見えないと同時に、相手の顔も見えないはずだが、彼女は相変わらずニヤニヤと笑みを浮かべているのは想像するのは容易い。
「そ、その……」
『うん』
「不快感は、なかった、というか……」
『フゥ~!』
「茶化さないでよ!」
『ふふ、ごめんごめん。嫌じゃなかったのは、雫玖くんだからだ』
 こちらを指さすように、まるで推理して出した答えが正解したかどうか相手に問うように、ちはるは言う。
 雫玖くんだから。その言葉がすごいしっくりときた。これが他の人だったらどうだろう、と考えたら、少し嫌だったかもしれない。
 あの時、私を誘ってくれた時、純粋に、真っすぐと私を見て、私の力になろうとしてくれた彼の好意が嫌じゃなかったから、私はこうしてこの家にずっとお世話になっているのかもしれない。
『曙美。さっきも言ったけど、今のアンタ達の状況は別に変とか考えないでいいんだからね』
「……うん」
『雫玖くんもさ、何かを特別に期待していたわけでもないと思うんだ。だから曙美も、「普通に好き」という感覚でいても良いんじゃないかな』
 普通に好き、か。なんだか、心が軽くなるような言葉だった。
 私は、ちはるが好きだ。アオさんが好きだ。ナツさんが好きだ。このりが好きだ。
 雫玖くんも、好きだ。
 普通に、好きだ。それはきっと、友情から少しずつはみ出してきている感情なのかもしれない。けれど、私は変わらずに、彼のことが普通に好きなのだ。
「ちはるありがとね。人生何周目? って思っちゃった」
『なにそれ、老けてるって言いたいのか!?』
「ごめんて、褒めてるの。凄い深い言葉をいっぱいもらっちゃったからさ」
『ふぅん。まあいいや。じゃあ、また詳しい話はまた後日だね』
 頬杖をつきながら、彼女はにたりと笑みを浮かべる。隣にいる狐の彼の面影をこっそりと感じてしまった。
『じゃあおやすみ』
「おやすみ」
 手を振って、通話終了のボタンを押す。そのままスマホを手に取って、アプリを閉じて、電源ボタンを軽く押せば、画面は真っ暗になる。そこに反射して写る私の顔は、聊か赤みを増しているように見えた。
 ノートに走らせていた赤ペンが、カスカスとインク切れを知らせてきた。
 そのまま意地になってノートにペンを走らせるが、ペン先のとがりによって紙が凹んでいるだけだ。今ここに鉛筆で塗りつぶせば、何か文字が浮かびあがてくるかもしれない。
 それは置いておいて、学生にとって赤ペンは切っても切り離せない、文具必需品だと思う。問題に丸つけに使用するは勿論、どうしてこの答えに至ったかの説明文を赤色で書いたりする人も多いだろう。私はもっぱらそれらである。
 だからインクの減りは元々早い方なのだが、ここ数日の勉強合宿によって使用率はうんと上がっている。つまり、赤ペンはすぐに寿命を迎えると言う事だ。
 予備を含めて三本ほど持ってきたのだが、全滅してしまった。己の勉強への熱心さを誇るべきか、それともまだ赤ペンが必要な程、学習内容は理解していないという事か。出来れば前者いてほしい。思わず額に指を添えてしまった。
「あの、雫玖くん。赤ペンが無くなってしまったので、お借りしても……?」
 添えた指を離してから、向かい合っている彼に問えば、彼は問題集と向き合っていた顔を上げて、私の話を聞く態勢になる。
「ああ、勿論……と言いたいところなんだけれど、実は俺も生憎赤色は切らしてしまっていてね」
 彼は申し訳なさそうに眉を下げながら、三色ボールペンをそれぞれカチカチと鳴らしている。透き通っているボールペンから見えるインク残量が、明らかに足りないのを物語っている。
「そっか、ごめんね、ありがとう」
「きにしないで。でも、そろそろ外にも出たい頃じゃない? ついでに買い物にでも行くかい?」
「え?」
 雫玖くんの提案を聞いて、思わず目がぱちくりと瞬きしてしまった。
「今日は勉強を休みにして、一緒に出掛けようよ」
 名案だと言わんばかりに人差し指を立てて、雫玖くんは少しウキウキしながら、声も少しだけ弾ませながら提案してくる。普段から大人びている彼の、こうした一面を見て、何だか可愛いと思ってしまった。
 小さく笑みをこぼしていると、彼は意図が分からずに首をかしげていたけれど、何でもないとはぐらかした。

 けれど、昨日の今日で彼と出かけるのか。
 ちはるに少し揶揄われながら、さらにそこに便乗したこのりの影響も合って、今日は何とも心が忙しなかった。
 チラチラと横目を盗んで思わず雫玖くんを見てしまったし。彼は視線に鋭いのか、その度にどうかしたのかと問うてきたので、その度に何でもないと顔を少し赤くしながら、首を横に振っていたんだけれど。
 もしかしたら、勉強に集中できていない私の気分転換も兼ねているのかもしれない。彼は相手の感情に敏感だから。烏滸がましい考えなのかもしれないけれど、私の為に思いついたのかもしれない、なんて。本当に思い上がりかな。
「えっと、どこに出掛けるの?」
「確か学校付近の駅から電車に乗って少しすると、ショッピングモールのある街に出るよね。そこに行かない?」
「電車かあ。そう言えば最近乗ってないなあ」
 学校のある地区から出る事も、勉強に必死になりすぎて最近は極端に減ったし、実家に帰ることもほぼ無くなったから、電車もここ暫く乗っていない。
「久しぶりに乗るとなんだか楽しくない?」
「分かる。人が少ないと余計に楽しい」
「ふふ、元々人の少ない線だし、きっと人は数えるくらいだと思うよ。どうかな」
「ぜひ!」
 久しぶりのお出かけ、という魅力的な言葉の数々につい乗り気になって頷いた。そんな私の様子を見て、雫玖くんはつられるように、嬉しそうに、少し頬を染めながらも笑みを浮かべたのだった。
「じゃあ父さん達に言ってくるね。1時間後に出発で良いかい?」
 準備時間までちゃんと用意してくれる……優しすぎではないだろうか。
「うん、大丈夫」
「それじゃあ、1時間くらいしたら呼びに行くね」
 そういうと、彼は勉強道具を先に片し始めた。私の性格をもう理解し始めている彼は、先に自身が片付ける事で、私も切り上げやすくしてくれているのだと察した。そんな優しさにも、思わず昨晩のことが頭に過って、首を横に振って考えを振り落とした。
 まあ、また心配はされたんだけれど。
 先に片付けた彼は、コップなども片して(慌てて私も片付けようとしたけれど、大丈夫だと言われてしまった)、そのままアオさんをいつもより大きな声で呼びながら歩いて行った。

「……でーとってやつじゃないか?」
「うわあっ! ビックリした!!」
 つまらなさそうにはしていたが、ずっと部屋には居て横になっていたこのりが、私に向かって言葉を投げかけた。
 驚いて変な声が零れたけれど彼は気にしないで、そのままゆっくりと起き上がって胡坐をかき、私を真っ直ぐと見てくる。
「曙美も嬉しそうな顔をしている」
「え、あ、うそっ?」
「本当」
 慌てて顔に手を添えて、このりから見えない様に隠すようにするけれど、もう見られた後だったので意味はないようだ。
「だって、ペンを買うためにわざわざ遠くに行くんだろ?」
「……そう、だね?」
 冷静に考えたらそうだった。何だったらコンビに行けば済む程度である。どっちみちこの屋敷から出る事にはなるけれど。
 思わず彼と向き合う様に、正座という体勢になってしまった。
「それで準備時間をくれるわけだ」
「うん……」
「ずっと毎日会っているのにな? すぐに一緒に行けばいいのにな?」
 その通りである。今の格好のまま出掛けても、問題はないのである。それでも、私に時間をくれたのだ。ただ単に、彼の優しさなんだろうけれど。
 女性は男性よりも準備がかかる、とはよく言うから、彼もそれに倣って時間の余裕をくれたのかもしれない。
「つまり、やっぱりデートだね」
「うわっ!?」
 突然の第三者の声に、思わず飛び跳ねた。正座のまま飛び跳ねてしまったと思う。
 声のした方へ顔を向ければ、そこに居たのは楽しそうに笑みを浮かべているナツさんだった。顎に親指と人差し指で沿う様に当てて、ふふんと言わんばかりの表情をしている。
「成程、あの子は行動から出るタイプだったのね」
「ナ、ナツさん……?」
「ごめんごめん、楽しそうな雰囲気を察しちゃった」
 ごめんね、と両手の掌を見せながら謝ってきた。お世話になっている家の方には何も言えまい。大丈夫です、と口角を少しだけ引きつらせながら答えた。
「でも、何だか嬉しくて! 曙美ちゃん、何かお気に入りの服とかある? ちょっとお化粧もする? ヘアアレンジもしちゃう?」
 ずいずいと乗り気なナツさんに気圧されて、少しだけ背中が反る。
「え、えっと……ふ、普通こういうのって、お母さんって少し微妙な気持ち、になったりするものじゃないですか?」
 ほら、嫁姑問題はよく聞く内容だし、息子に仲の良い女の子が居たら探り深くなってしまったり、あまり認めたくないと思ったりする母親もいたりするのでは? 自分は一人娘の家系なので詳しくは分からないけれど……。よく聞く感じでは、そういうイメージが強いのだけれど。
 私が少し驚いていれば、ナツさんは私よりはマシだけれど驚いたように目を開いて、ぱちくりと瞬きをした。
「どうして? 曙美ちゃんはこんなに良い子なのに」
「え?」
「それに、少し人間不信気味だったあの子が惚れこんだ子だもん。息子の気持ちに陥入できるほど親は偉くないよ」
 ナツさんの言葉に、私は呆けるばかりだ。惚れこんだ、という言葉は恥ずかしいので、一旦置いておこう。
 私からすれば、縁のない考えを持つ親御さんだ、と。
 私は兎に角、両親に認められるようにと、気持ちをあまり二人に言ったりすることも無かった。向こうも、あまり私の気持ちを聞こうとはしていなかった。だから、何だか不思議な気持ちになってしまうのだ。
「雫玖ね、本当に変わったなあって思った。まさか、こうして家に人を呼べるほど人を信頼できるようになれたんだ、とか。自分の気持ちを素直に人に言えるようになったんだとか」
「……確かに、雫玖くんはクールなイメージはありましたからね」
「まあ、まだ曙美ちゃんだけにしか心は開いていないのかもしれないけれど、それでもずっと誰も信頼出来ていない時からすれば、ずっと成長してる。それが嬉しいの。そして、その相手が曙美ちゃんで本当に嬉しくて良かったなって。ありがとうね」
 胸元に手を添えながら、優しい笑みを浮かべて、礼を言われてしまった。
 私は、大したことはしていないつもりだ。私の言葉や行動が、特別だったと思ったことも無い。けれど、私にとって特別ではなかったとしても、当人からすれば別問題で。心に残ってくれて、私に気を許してくれたのかと思うと、何だか嬉しくて、そして少しムズ痒い。
 顔に熱がこもるのを実感していると、ナツさんは最後ににこりと笑みを浮かべて、ポンと私の肩に手を乗せた。
「曙美ちゃんさえ迷惑じゃなかったら、これからも仲良くしてくれる?」
「は、はい! 勿論! 皆さんにとって迷惑でなければ!」
「全然迷惑じゃないよ、自信持って! ということで、おデートの為に少し準備しようか」
 にこり、の笑みからにやり、という笑みに変わった。思わず苦笑いが零れて、ヒュッと息が零れた。
「いやあ、私、娘も欲しかったのよね」
 うきうきとした声のナツさんの言葉は、聞かなかったことにしよう。
「気が早いなこの嫁は」
 このりの言葉も、聞かなかったことにしよう。



 海のすぐ隣を走る電車や、目の前に海が見える立地の駅、というのは海に囲まれている日本の割には案外数少なく貴重らしい。私達の今現在生活している学校周囲にある駅は、その一つに加わるようだ。偶に鉄道ファンらしき人を見かけることもある。
 元々田舎寄りの土地を走る、それも乗車人数が少ないこの線を走る電車は、少ない両編成で、ガタンゴトンと馴染みある音を立てて車体を揺れながら目的地まで走る。
 ちら、と電車の窓に目を向ける。
 窓の向こうには、青い海の水平線が見えた。窓の向こうの景色はとても綺麗で、まるでどこかのドラマやCMに使われそうなほどに爽やかなんだけれど、窓に反射して写っている自分の顔は、それに反して何とも言えない顔をしていた。
 ナツさんは、私の髪の毛を丁寧にアレンジにしてくれた。服は持参したものだけれど、ナツさんが化粧も少ししてくれて、反射して写る自分は、劇的な変化はないのだけれど、少しだけ明るい顔色で、多少は目もパッチリしているように見える。
 とまあ、これに関してはすごい嬉しいし感謝もしているし、ナツさんの技術に感服している。

 けど、さっきから雫玖くんと視線が中々に合わない。まあ、横列シートで並んでいるから、というのもあるんだけれど。彼はさっきからずっと、窓の外を見ているのだ。
 もしかして、私は大きな間違いをしているのでは? あの二人(二人、と数えていいのか?まあ良いとしてほしい)に、散々デートだ何だと少し揶揄われたり盛り上げられたから、少し心が調子乗っていたのかもしれないけれど……!
 そう考えると恥ずかしくなってきた。顔が真っ赤になって、思わずぎゅう、と拳を握った。
「あ、あの、何か気になる事があった……?」
「え? あ、ああいや、何も無いよ?」
「そ、そっか。えっと、窓の外見てるから、海が……アオさん達が気になるのかな? って思って」
「え? いや父さん達は何も……」
 そう言って彼は私の方へ顔を向けた。すると、彼は顔を少し赤くして、少しだけ視線を逸らした。

 ……ん?

 いや、流石の私でも少し察してしまった。
 確かに、恋愛経験がまともに無い初心者だし、そう言った類の知識も大した程持っている人間でもないけれど……。自分が何度も経験している、頬を染めるなどの変化理由は察せるくらい、一般的な人間だと思う。
 簡潔にまとめれば、そこまで、超鈍感……というわけではないはず、ということだ。
 なので、ちょっと、恥ずかしいけれど、聞いてみよう、かな。とか調子乗っちゃってみたりして。
「え、えっと、似合ってないかな……変だったり、する?」
 自身の髪の毛の先を摘まんで問うてみれば、彼は慌ててこちらの方へ視線を向けた。
「そ、そんなことないよ! いつもに増して可愛いし、何も不安になることは無……」
 彼も自身で何を言っているのか察したらしい、赤い顔はさらに真っ赤になった。つられて、彼の言葉も含めて、私の顔も爆発しそうな程に真っ赤になった。
 この褒め殺しマン!
 なんて彼に勝手なあだ名をつけてしまった。爆発しそう、ではなくて爆発した、なのかもしれない。
 ていうか、隣にかっこいいを通り越して美人な男性を連れてる時点で、もう心の中ではすみませんのオンパレードだったのに。
 ここに来るまでのすれ違う女性達の目が彼に釘付けなのは、もう丸分かりだったし。かっこいい男性を前にすると、女性はやっぱりテンション上がるよね、すっごい分かる。友人にもそういう類の人いるし。
 そんな彼の隣にいるのは、どうも気恥ずかしい。けれど、彼に褒められたのなら、少し、頑張ってみよう、なんて。何を頑張るのかなんて分からないけれど!

 二人で顔を真っ赤にしていれば、駅が近づいたことを知らせる音楽が鳴り響く。そして、駅員さんのアナウンスで、私達の目的地の駅名を告げられた。
「お、降りようか……」
「そうだね」
 顔を赤くしている男女が並んで歩いている姿は、他者から見れば大層滑稽だったと思う。


 私の普段生活から少し離れたこの街は、県内でも有数の(と言っても東京などに比べたらそこまでではないだろうが)都心である。駅から出た先は数々のチェーン店や、新たに出来たらしいSNS映えしそうなお菓子などが売られているお店などが並んでいる。
 そこから少し足を進めれば、大型のショッピングモールが存在する。私たちの学校に通っている子たちは、遊びに来るとしたらここを選ぶことが多いだろう。ここにくれば学校の子とすれ違う、誰かがいる、とはよく言われている。田舎あるあるかもしれない。

 早速目的地に着いた私たちは、まずは目的である赤ペンをそれぞれ無事にゲットし、ついでにノートなども追加購入した。
「久しぶりにこんなに文具が揃ってるとこ来たかも」
「いつも購買とか、コンビニとか、近くのところで済ませちゃうもんね」
「そう、そう!」
 このりの言葉が頭によぎってしまって、反射的に上ずった声をあげてしまった。少しだけボリュームも大きかったから、雫玖くんも少し驚いたようで、どうしたの? と問うてきた。ごめんね、何でもないんだ。
「折角だから、見て回ろうか」
「良いの?」
「勿論。むしろ、それが目的だったからね」
 にこり、と優しい笑みを浮かべられて、顔に熱が集まるのが分かる。
「じゃあ……本屋とか」
「良いよ。新刊とか発売だったりする?」
「えっと、あのね、ナツさんの写真集があったら、買いたいなって」
「母さんの?」
 雫玖くんは驚いたように目を丸くした。確かに、突然身内の本が欲しいと言われたら少しびっくりするよね。
 私は少し照れ隠しのように頬を掻き、小さく笑みをこぼした。
「雫玖くんの家で読ませてもらえたけれど、あくまであれは雫玖くんの家のものだから。私も、自分の、そういった写真集が欲しいなって思って」
「……今まで、そういった本は買ったことなかった?」
「よく考えたらそうかも。ずっと参考書とか、ドリルとか、偶に文学書とか。小さい頃は少女漫画とかおばあちゃんとかに買ってもらったけれど、捨てちゃったかな……」
 正しく言えば、捨てられた、が正しいかもしれない。祖父母が幼いころに亡くなって、その後に、両親は一層勉強をするようにと圧をかけてきていた。
 いらないよね? と言われて、捨てられた漫画は、祖父母との思い出を捨てられるような気分がして寂しかった。けれど、それを口にすることもできなかった。小さいころから、ずっと変わらずに弱虫だったんだなと思い出される。
「それじゃあ一緒に探してみようか」
「ありがとう、雫玖くん」
 彼の優しい声色に笑みを浮かべれば、彼もつられて優しい笑みを見せてくれた。
 雫玖くんと一緒に本屋に行って、ナツさんの旅の記録でもある写真集を一緒に探してみたところ、すんなりと見つかった。
 それほどあの人はこの界隈では有名なんだろうか。
 脳裏によぎるのはアオさんと並んで家事をしていたり、勉強を見てくれているときの優しい表情、そして母親としての子供を見守るような温かいまなざし。
 聞いた話によれば、彼女もあまり広い世界を知らなかったらしいし、色々な世界に行きたいと思ったのだろうし。そして、その世界の全てが美しく見えて、魅力的な写真が撮れ、こうした記事にもできるのだろう。
「こういうところ、行ってみたいなあ」
 ぽつり、とつぶやいてみれば、雫玖くんが私の言葉を拾ったらしい。小さく笑みを浮かべて、写真集に指を添える。
「どこがいい?」
 深い意味はなかったかもしれない。夏休み前にちはるが私に声をかけたような、軽いノリだったのかもしれない。
 それでも、その言葉が嬉しかった。
 私はどこにでも行ける自由があるのだと言われたような気がして、それがひどく嬉しかったのだ。
「色々なところ」
 へへ、と笑みをこぼしてみれば「それはいい考えだ」と優しく笑みをこぼした。
「それじゃあ、買ってくるね」
「それなら、俺が一緒に買っておくよ」
「え!?」
 雫玖くんがこちらに手を指し伸ばしてくる。何も疑問を持っていなさそうな表情に、私は激しく首を横に振った。
「そんな悪いよ!」
「俺も買いたい本があるし……それにほら」
 彼がさした場所に目を向ければ、そこには会計を待つ長蛇の列。その列を見て、思わず口元に手を添えて、うわあと間抜けな声をこぼした。
 そんな私の様子を見て、彼は小さく笑い声をこぼしたかとおもうと、するりと……それこそ何も違和感も感じないほど鮮やかに、私の手元から写真集を回収してしまった。
「あっ!」
「実は少し本を見て回りたいとも思っていたからさ。少しカフェで休んできなよ」
 彼が別の場所を指し示した。本屋さんの向かい側にある、全国チェーン店の人気な珈琲ショップ。期間限定のフラペチーノが、いつも話題に上がっているお店だ。
 いつも過ごしている地元にはお店がないおかげで、私はここ数年行っていなかったから、最近のフラペチーノはとても興味がある。
 思わず目を輝かせていれば、彼は再度小さく笑った。
「それじゃあ、ゆっくりしてて」
「え、あ、待って雫玖くん!」
「ん?」
「雫玖くんは何がいい!?」
 せめてお礼として、飲み物くらいはおごらせてほしい。ぐ、とこぶしを握りながら彼を凝視していれば、彼は少し驚いていたようだけれど、きれいな笑顔で言った。
「アイスのドリップコーヒーの一番小さいサイズかな」
 一番安いやつだ、それ。



 結局彼のリクエスト通りの珈琲と、私のフラペチーノを買った。店内は人がたくさんいたので、店外にあるソファに腰かけて雫玖くんを待つことにした。
 久しぶりのフラペチーノは冷たくて甘くておいしい。だけれど、これは最早おやつだなあ、なんて思いながらもストローから口は外せないでいた。

「あれ、もしかして狐坂さんじゃない?」
 少しだけ離れたところから掛けられた声に、思わず肩を跳ねらせる。
 聞き覚えのある声だった。顔を見ないでもわかる。声を掛けてきたのは、先日、お泊りを開始する前に雫玖くんにお誘いの声掛けをしていた女子だ。
 振り向きたくない。これが正直な感想。だけれど、振り向かないで無視をした方が後が怖いことも私は知っている。
 私は大人しく、少し縮こまりながらゆっくりと振り向いた。振り向いた視線の先に居たのは、案の定先日の彼女で、彼女を筆頭に数人に女子が固まっていた。
 全員見覚えがある。筆頭の彼女と仲の良い友人を含め、私のクラスメイトも居て、計4名でそこに居た。
「ど、どうも……」
 軽く頭を下げる。手に持っている期間限定のフラペチーノの容器がどんどんと汗をかく。ぎゅ、と少しだけ力を込めれば、ぺこりと少しだけ凹んだ。
「凄い偶然だねえ、でも今日は金髪のあの男の子居ないみたいだね?」
 きっとこのりのことを言っているのだろう。先日彼に言い負かされてしまったから、居ないことに対して安堵と共に、これ幸いと思っているのかもしれない。
 当人は、本日のお出かけについて行くか行かないかで少しひと揉めがあったが、ナツさんに宥められたこともあり、彼自身も納得してお留守番をしている。
 思考がぐるぐるとしている中、「ああ、まあ」なんて曖昧な返事をすることしかできなかった。それがどうも、彼女たちの琴線に触れてしまったようだ。
「学校には来てないけど、ここには来てるんだ」
 にこにこ、と笑みを浮かべながらも此方に投げてくる言葉は、表情とまるで比例していなくて、悪意に満ちていた。
 べこ、と更に容器が凹む音がした。
「えっと、講習には行っていないけれど、勉強はしてて……今日は偶々……」
「そうなんだ。そっか、希龍くんと付き合ってるんだもんね」
 彼女の声の温度が一気に冷えた。まるで鋭くて冷たい氷柱を喉元に添えられたような気分がした。
 怖い。そんな単語が頭に過る。体温が一気に低くなった気がして、小さく身震いをする。
 付き合っている『ということになっている』私達は、女子達に……特に私が認められていないのだと再度認識してしまった。
「その、」
「今日は希龍くんとデートでもしてるの? 余裕じゃん」
「そ、そう言うわけじゃ……!」
 彼女の言う余裕には、きっと色々な意味が含まれているのだと思う。
 私達なんか気にならないほど程仲良いじゃん。勉強しないで遊べるほど余裕なんだ。学校で勉強してる私達より頑張ってるんだ?
 皮肉も交えたような言葉達が、直接言われたわけじゃないのに、副音声のように聞こえてきてしまう。
 ここで言い返せない己の不甲斐なさにも嫌気がする。
 その通りだよ、って対等に向き合って言えるほどの勇気を私はまだ持っていなくて。言えたら、きっと自分に自信を持てるかもしれないのに。

「あ、そうだ。学校で思い出したんだけど、先生に聞かれたんだよね」
「え?」
「狐坂さんを知らないか、って」
 どくん、と心臓が大きく跳ねた。嫌な予感がして、背筋に汗がにじむ。
「知りませーんって答えたらね、先生なんて言ったと思う?」
「……」
「親御さんに確認してみるか、だって」
 ヒュッとか細い息を飲んで、全身から血の気が引いた。体温が急速に下がっていくのが分かる。恐怖しているのが分かる。
 私にとって、両親は絶対的存在だった。両親の満足のいく結果を示さない限り、そこに私の居場所はない。今の学校に通って、成績不振な私はことごとく幻滅され、その度に私は裁判で罪を言い渡される罪人のような気分になっていた。
 それが嫌で、逃げ出すようにずっと実家に帰っていなかった。
 だが、先生が両親に電話を入れたらどうなるか。火を見るよりあきらかだ。
 両親は、私を裁きにやってくる。
 思わず顔を伏せて震える私の様子を見て、彼女達は満足したらしい。片眉や口角を上げて、にんまりと笑みを浮かべる。

「曙美さん!」
 遠くから、慌てたような声がした。私が一番安心出来る声。頼ってしまう声の持ち主が、駆け寄ってきたのが分かった。
 雫玖くんは心底心配そうに、私と視線を合わせるように屈みこんで、私の顔を覗き込む。そして、私の表情を見て、驚いたように目を開いた。きっと、私が恐怖に震えて、顔に血の気が無いからだと思う。
「あれ? 希龍くんだ」
「今ね狐坂さんと話してたんだ。希龍くんとデートしてるの? って」
 ね? と此方に笑顔で問いかけられる。甘ったるいような、これこそ猫なで声というのだろうという声で、何も問題はなかったよね? と言わんばかりに私に問いかける。
 だが、声に反してその目は鋭い物で、確実に私の心に突き刺すような物だった。
 思わずゆっくりと首を縦に振れば、彼女達はまるで『よろしい』と言わんばかりに笑みを浮かべる。
「そうだ、希龍くん達も一緒に遊ぼうよ」
「……なんで?」
 一人が笑みを浮かべながら提案すれば、雫玖くんは少し眉を寄せながら問いかける。
「え~? 理由なんている? 希龍くん達と遊びたいんだけなんだけど。ダメかな?」
「こうして二人で来てるんだもん。勉強も余裕なんだよね」
 一人がにこりと笑みを浮かべて私の方を見てくる。私は何も言えずに、冷や汗が流れるのを自分で察することしか出来なかった。
「……悪いけれど、この後二人で勉強するんだ。だから、遠慮しておくよ」
「そうなの? 残念だなあ」
「それじゃあ、狐坂さん夏休み明け楽しみだね。勉強が実ってればの話だけれど」
 ずぐん、と心臓が痛む。
 どうして、私はここまで言われないといけないんだろう。そんな思いで、目頭が熱くなってきて、今にも涙が零れそうになるのを、唇を噛んで、頑張って堪えた。
「……人が人を貶す権利など、存在していると思っているのか?」
「え?」
「さっきから君達は俺達を囲ったままで、逃げ道を無くしているのか。特に曙美さんへの態度は少なくとも、遊ぶ仲の相手に向ける態度ではないだろう」
 雫玖くんはゆっくりと立ち上がる。彼女達より背の高い彼は、そのまま彼女達に言い放った。
「人の努力を貶す権利など、誰にも存在しない。それは俺と曙美さんをも含め、君たちもそうだ。だが、曙美さんは一度でも君達を貶したか? 存在を否定したか? 気を付けた方が良い」
 雫玖くんは手のひらを広げて、言葉を続ける。
「一度口にした言葉は戻らない。相手が受け止めてしまっているから、返してくれない。例え君達自身に振り戻ったとしても、俺達は君達に手を差し伸べる事はないだろうね」
 真っ直ぐな鋭い目で射貫かれて、更にその言葉を放つ彼の背後には、まるで大きな何かが存在しているように見えた。
 彼は人間のはずなのに、どこか、アオさんのような圧を肌で感じる。
 そんな圧を彼女達も察したらしい。思わず言葉を詰まらせて、そろそろと足を後ろへ滑らした。
「な、なんか希龍くん怖くない?」
「う、うん……」
 こそり、と耳打ちしている彼女達の言葉には同意してしまう。雫玖くんの言葉には強い威圧感がある。まあ普段の彼はどうか、と聞かれても、教室ではあまり言葉を発することが無く、他人と関わらないから、本来の彼を知っている人の方が稀なのだろうが。
 それでも、共通して言えるのは、彼は普段は穏やかな人だと言う認識だろう。それなのに、今の彼の存在はまさに神様のような圧を感じさせ、恐怖心を抱いてしまうのだろう。
「ま、まあ精々頑張ってね、狐坂さん」
 これ以上怖い思いをしたくない。切実にそんな思いが伝わってくるようだった。捨て台詞のような言葉を最後に、彼女達は私に背を向けて走り去っていく。そんな彼女達の背を、見送ることも出来ず、私は、ただ顔伏せるばかりだった。
 フラペチーノの砕かれた氷は完全に溶けて、見るからに味の薄いドリンクへとなってしまった。
「ごめん……! 俺が離れたばっかりに」
「雫玖くんは悪くないよ。だ、いじょうぶ、だし」
 不格好な笑みを浮かべて口にした言葉は歯切れが悪く、誰が聞いてもその通りに受け取ることはできないだろう。現に目の前の彼も受け取ってくれず、顔を伏せて、そっと私の両手を包み込むようにして握った。
「そ、そうだ……頼まれていた珈琲を……」
 そういってテイクアウトした珈琲を手渡そうとする。だけれど、その手は震えている。
 恥ずかしいな、怖がっていたのが彼にバレバレで。
 もう、すっかり大丈夫だと、思っていたのにな。
「曙美さん……」
 珈琲のカップを持つ私の手を包み込むようにして、彼の手が重なる。
 アイスコーヒーの入っているカップは冷たくて、カップは汗をかいているのに、彼の手は程よく温かくて、それがひどく安堵して、そしてそれと同時にさみしくて泣きたくなってしまった。
「ごめんなさい、雫玖くん」
「曙美さん」

 ぐるぐるとした頭の中、スマホが一通のメッセージが届いたことを知らせてきた。
 ゆっくりと雫玖くんに珈琲を手渡して、彼の手から自身の手を離す。そして、スマホをを見て思わず目を開き、体から血が一瞬で抜けたような寒気が走った。

『貴方に話があるから明後日にそっちに行く』

 お母さんからそうメッセージが届いた私の、血の気の引いた顔と言ったら
 私はきっと、いらない子供だった。誰にも欲しがられない。必要とされないで。嫌われて、放り出され転がり続けて、そうやって生きてきた。
 全てが出来損ないな半端物の私など。誰にも認められず、必要とされず。
 努力をしなければ、っていつも思ってて、頑張って生きてたけれど、結局それらが報われたことってあまり無くて。口だけが達者な、半端物。
 私は、薄れてしまったはずのひっかき傷の様な過去に、さらに深く爪を突き刺してしまった。そのまま傷口をえぐるような痛みが心臓に走る。
 忘れていた。すっかり忘れていたよ。
 今の今まで忘れていたのに、なぜか家族の表情や、その時感じた自己嫌悪までくっきり思い出す。
 雫玖くん達と関わるのが楽しくて、気持ちが軽くて。私を優しく受け入れて、優しく接してくれた。それなのに。
 やっと止まり木を見つけたかもしれないのに。
 そんな都合のいい話など、きっと無い。いつか、またその止まり木も折れる日が来る。またきっと、放り出される日が来る。私など、きっと、必要が無いと。

「曙美さん、曙美さん……!」
 肩を揺さぶられて、ドロドロとした黒い思考の中から、雫玖くんに引き戻された。彼の声につられるように顔をあげれば、そこには私を心配そうに見つめる、優しい神様の子がそこに居た。
「何かあったの」
「……親が、明後日、来るそうです」
 不格好な笑みを浮かべながら言えば、彼は心底驚いたように目を丸くしていた。
「そんな急に……!? どうして、」
「先生が、両親に連絡を取ったみたいです」
 当然だよね。普通だったら受講するべきである生徒が、ある日を境にぱったりと学校に来なくなった。
 もしかしたら、本当に心配もしてくれたのかもしれない。だから、クラスの子に聞いたのかもしれない。同じクラスの子で寮も同じクラスの子が知らないと答えたから、もしかしたら実家に帰ったのかもしれないとか考えたのかもしれない。
 きっと善意からの行動だったはずだ、先生は、きっと。そう考えないと、いまにも気がくるってしまいそうだった。
「夏休みの講習に来ていないと聞いたから、きっと、両親、怒っているんだと思います」
「……うん」
「だから、会わないとって、どうしようって」
 思わず頭を抱えて、ぐしゃりと髪を握りしめる。すると、彼は優しく私の頭をなでて、そのままゆっくりと手を握って、その手を下ろさせた。そして、ゆっくりと私の名前を呼ぶ。
 彼に名を呼ばれ、彼の顔を見る。真っすぐと、私を見つめていた。
「とりあえず、帰ろう。それで、一緒にどうしようか、みんなで考えよう」
「……うん」
 胸のざわめきは収まらない。気分転換のつもりだったお出かけは、最後にわだかまりを残して終わってしまった。
 折角のお出かけをして気分転換をしたはずなのに、私の表情は暗く、更に顔色が悪いときた。
 どうしたのかと問うてきたアオさんとナツさん、それとこのりに揃って顔を向けて、首を横に振った。このりはどういうことかと首を傾げたけれど、アオさんとナツさんは、私の身に何かが起こったのだとすぐに察したようだ。

 そのまま居間に移動して、アオさんは温かいほうじ茶を各自に配ってから「失礼」と私に一声かけてから、私のスマホを手に取り、その画面に映っている文面に目を通した。
「成程ね。親御さんが此方に来るわけね」
「これは覚悟した方が良いかもしれないな」
「い、嫌です! 私あの人たちと話すなんて、話になったことなんか一回も……!」
 震える手を覆う様に、両手を合わせて顔を伏せる。口角が引き攣って、目尻も少しだけ痙攣しているのか、顔はたいそう歪んでいて他者に見せられるものではないだろう。
 私は、両親のいる家に帰る長期休みが、何よりも嫌いだった。両親が共に居る家は、重圧と畏怖に満ちた法廷そのものだったのだ。私に反撃の余地はない。その資格は持ち合わせていないから。私の立場は、彼等よりうんと下に合って、発言を許されることはない。だからずっと親の期待に応えられるように努力し続けていた。
 だが、私の努力は実ることは無く、いつだって罪状を突き付けられる被告人の気持ちでいつも二人の前に立っていた。二人の期待に応えられない罪。
 そして私は、そんな自分を、何よりも嫌った。
「そっか……でも、これは逆に決着(ケリ)をつけるチャンスでもあるんじゃないかな」
 アオさんの正論に、思わず唇を噛みしめる。そうだ。ずっとずっと逃げ続けてきたツケが回ってきたのだ。
「大丈夫、俺達も行くから」
 雫玖くんが優しく私の頭に手を乗せて、そのまま髪の毛に沿って、壊れ物を扱う様に撫でた。
「学生と親が面会できるのは寮の共同スペースくらいだろうから、そこが良いかもしれない。そうメッセージを送ってくれる?」
「う、うん……」
 言われた通りに、寮の共同スペースで待ってると送信した。両親は過去に学校見学に来たし、寮の見学もしたからイメージもしやすいだろう。因みに、共同ペースは玄関入ってすぐの所にある。
 けれど、他の学生たちの目に入るんじゃないだろうか……。そんな心配していると、アオさんが心配ないよと口にする。
「一緒に行くときに結界をはっておく。部外者には見えないし声も聞こえないようにしておくさ」
「……何から何まで、ありがとうございます」
「良いかい。無理に良い子で居続けようとする必要はない。説得しようとはしないで良い。言いたいことは何でも言うんだ。フォローは俺達がする」
 アオさんが胸に手を添えて良い、ナツさんも優しい表情で頷いた。それだけで、ばくばくと暴れ続けていた心臓が、少しだけマシになった気がした。
 そんな私の手を掬って、雫玖くんが優しい笑みを見せた。
「大丈夫、一人じゃないから」
 その言葉が心強くて、意思を持って頷くことが出来た。



 明日、親が私に会いにやってくる。そう考えると、今更ながらどうしようだとか、どう聞かれるのだろうかとかどう受け答えしようかとか、色々な思考がぐるぐると回っていく。
 寝付こうと思っても、ずっと布団の中で寝返りを何度もうつだけ。最後に天井を見上げて、ゆっくりと上半身を起き上がらせ、はあと小さく息を吐いた。
 心臓がうるさい。バクバクと鳴り続けて、身体全体が心臓になったんじゃないかって、そんな心地の中に放り投げられている。うるさくて寝る事なんて無理だ。
「眠れないのか」
 私の隣の布団で横になっていたこのりが私に問うてきた。
「……うん。正直、不安で」
「だろうな」
 そう言うと、彼は仰向けの体勢で、頭の後ろで手を組んだ。天井を見上げながら、彼は言葉を続ける。
「お前達一家の事は、うっすらと知っていた。隣だったしな、よく見えたし聞こえた」
「え、恥ずかしい……」
「人間とは面倒くさくて大変な生き物だな。自由になるのも簡単じゃない」
「神様もそうじゃないの?」
 神様として祀られて、その土地を守る様に、豊作の祈りを叶えるために、その土地に居続ける。神様も、自由からほど遠いような気がするんだけど。
「俺を見てもそう思うか?」
「愚問だったね……」
「まあ多少不便はあるが、人間程面倒くさくないさ。自由に動けないなんて、俺じゃあ考えられない」
「……そっか」
 彼の言う己の自由とはどういうものなのか私には分からないけれど、少なくとも今の私は彼の自由の定義には収まっていないのだろう。だから、神様に可哀想な子だとも思われているのかもしれない。
「眠れないのなら、縁側に出てみたらどうだ?」
「……うん」
 布団から完全に抜け出して、障子戸を開けようとしたときに、ちらりとこのりの方へ目を向ける。彼は小さく笑みを浮かべた。
「大丈夫、そのうちそっちに行く」
「分かった……」
 彼が頷いたのを見て、ゆっくりと障子戸を開く。
 障子を開けると、外の空気が風となって此方に扇がれる。夜の風は、少し、冷たい。
 けれど、外の景色はとってもきれいなものだ。海の中の家だから真っ暗なのかと思ったけれど、何故だろうきらきらと、輝いている。きらめきは数えきれないもので、降りかかってくるかのように、一つ一つが輝いていた。
「綺麗だなあ……」
 なんてことを呟いてから、水に浸かっている中庭を眺めながら縁側に腰かけて、そのまま足を踏み入れた。ちゃぽん、と小さく音を立てて水は私の足を受け入れた。
 ひんやりとした冷たさが、足元からじんわりと上半身に向かって全身に伝わっていくようだった。
 星空のような光がちらちらと降って、庭の水面に染み込んでいく。そんな水面の上を、柔らかいけれど涼しい風が走る。染み込んだ光のざわめきが広がっていくようだ。
 水から上がってきた風だからだろうか、微かにしっとりとしている。まるで水のように体に纏わり付いて私の心を洗っていく様だった。しっとりした風が頬を撫でるので、まるで濡れてしまったんじゃないかと錯覚してしまった。頬に手を添えても、水滴一つついていない。
「眠れない?」
 上から声を掛けられて、斜め上の方へ視線を持ち上げる。
 私のすぐ横に雫玖くんは立っていて、穏やかな優しい笑みを浮かべて、私を見ていた。
 察されていたのだろうな。私が今晩寝れないだろうことも、そして誰かに助けを求める事もせず、一人で居ようとすることも。
 彼の問いかけに小さく頷いてから、ポツリと言葉を零した。
「そう、だね。けれど、綺麗な景色だなあって、思って」
 中庭に目を向けてそれだけを言うと、彼は少し瞬きをしてから、中庭の方へ目を向けて、苦笑いを浮かべる。
「ごめんね。今更だったけど、ここ、何も無くて。つまらなかっただろう?」
「ううん。そんなことなかった。なんだか、心が落ち着いて、安心出来て」
 何でなのかは分からないけれど。
 もしかしたら、神様であるアオさんがここに居る事によって、空気が神聖になっているとか? 浄化されているとか? いや、本当に分からないけれど。
「隣、座って良いかな?」
「どうぞ」
 許可とらないでも大丈夫なのに、律儀だなあ、なんて。
 私の隣を手で指し示せば、彼が私の隣にゆっくりと腰かける。
 私より身長が高く、脚が長いため、私と同じように縁側に腰かけると、どうも差が激しくてかなわない。
 長い脚を羨ましく眺めてから、少しだけ腰を捻って、彼の脚から私の脚を少しでも距離を取ろうとする。近いと、どうしても比べてしまうので。ちょっとでも、遠近法で誤魔化したい。
 っと、少し意識を戻そう。
「やっぱり、明日が怖いかな」
「……そうだね。心臓がずっと騒がしくて」
 胸元をぎゅうと握りしめながら呟けば、彼は私の方をじっと眺めてから、ゆっくりと私の背中を撫でる。そのぬくもりが、夜の涼しさの中、安心できる存在のように思えた。
「曙美さんからしっかりと聞いたわけじゃなかったけれど、君の態度を見ればわかるよ。沢山、頑張ってきたんだね」
「……そんな大したことじゃないですよ」
 誰にだって、それぞれの強い意志がある。強い感性がある。強い主張がある。曲げられない物がある。得意不得意なものがある。それらを全て完璧に理解して受け入れること、それら全てをモノにすることは、到底じゃないが無理だろう。だって私達はただの人間なんだから。私も両親も一般人なんだから。
 我々は優しい神様じゃない。例え神様でも、一人一人受け入れて受け止めてくれていないだろう。神ですら無理なんだから、私みたいな一般人には難易度が高いのは当然だ。
 そんなことはずっと理解はしていたはずなのに、やっぱり頭のどこかで『出来るはずだ』と思っていたかった。
 そんなこと、出来るはずがなかったのに。
 周りを見渡せば、周りは才能ばかりだった。そんな他人と比べて、いつだって心が簡単に折れる。きらきら輝いた宝石みたいな強い何かが、私も欲しかった。
「私は、両親に認めてもらいたかった……」
 ぽつり、と零れた言葉。何も考えないで、口から零れ落ちたこれが、きっと私の本音だったのだ。
 ずっと、隠して、隠して。決して誰にも見せない様に気を付けていたはずなのに、気が付けば私は彼に話していた。
「……そっか、だから、私はあの時」
 胸元を握りしめる手に力がこもる。
「曙美さんどうしたの?」
 彼に名を呼ばれて、彼の方へ顔を向けてから、すぐに顔を伏せた。
「私、最低だなって思って……」
「どうして?」
「……雫玖くんは私を善意で助けてくれた人なのに、貴方の事を大切にしている家族を見て羨んでしまった。ズルいって思ってしまった」
 拳をぎゅうと握りながら、声も震わせながら本音を口にする。
「雫玖くんだって大変な思いをしてきたのに、私と違うじゃないかって。勝手に酷いことを考えていたんです」
 そう考えたのは、一度ではなかった。彼が両親と仲良さそうに話しているとき、アオさんが雫玖と仲良くしてほしいとお願いしてきたあの時も、ふと気が付けば、そんな黒い嫉妬心がもやもやが渦巻いていた。
 それが酷く苦しくて、罪悪感につぶされそうで、大切な人なのに黒い感情をぶつけてしまいそうで、嫌で嫌で仕方がなかった。
 ぼろぼろと涙が零れてきて、しゃっくりも一緒に出てきて、肩を跳ねらせながら、嗚咽を零しながら懺悔のように言葉を紡いでいく。
 涙を必死に止めようと、両手を顔に押し付けて塞き止めようとする。その際に、ぐしゃり、と髪の毛も握りしめてしまった。けれど、そんな手の隙間を縫って涙が滴る。必死に、必死に嗚咽を我慢して、下唇を噛む。
「だから、私は最低で勝手な人間なんです。雫玖くん優しくされる資格も、何も無かったんです」
「……曙美さん」
 優しい声色で名を呼ばれ、驚いて目を開き、ゆっくりと顔を上げる。
 怒られる覚悟しかしていなかったのに、彼の声色は怒りなど微塵もにじませていなかった。
 こんなひどい懺悔を聞いても、彼は怒りもしない。それがまた酷く、申し訳なくなって涙がこぼれる。
 こんなボロボロな姿、見られたくなかった。こんな醜い私など、見られたくなかった。
 彼は私の方へ手を伸ばしてくるけれど、私は慌てて再度頭を下げる。見られたくない、触れられたくないという感情と共に、罪悪感で殺されそうだった。
「ごめんなさい、雫玖くん」
「曙美さん」
 丁寧に一言一言を紡がれて名を呼ばれ、自然と謝るのを辞めた。
 顔を伏せたままの私に、彼は丁寧に優しく「顔を上げて?」と言葉を続けた。ゆっくりと首を横に振ると、彼は今一度私の名を呼ぶ。
「曙美さん」
「……」
「大丈夫、顔を上げて」
 頬にゆっくりと手が触れられた。まるで、手負いの猫に触れるように優しく、彼は私の心も一緒に包んでくるようだった。
 そのまま顔を上げれば、彼の優しい、そして少しだけ寂しそうな笑みが見えた。
「曙美さん、話してくれてありがとう。でも、大丈夫。君のその感情は、至って普通な、人間なら誰だって持っている物なんだよ」
「でも、私……!」
「羨ましい、という気持ちは、持っている側が苦しい気持ちだよね。無い物を欲しいと思うのは、辛いよね。よく、口に出せたね。頑張ったね。だから、そんな切なそうな顔しないで良いよ」
「え?」
「眉下がってる」
 へにょんってなってるよ。そう言いながら、彼は自身の眉尻に人差し指を当てた。
 そう言われて、自分の眉が下がって間抜け面に変化した様子が思い浮かんだ。慌てて手で眉を隠す。今更意味はないだろうけれど。

「このまま、俺の話も、聞いてもらってもいいかな」
「っ! もちろん!」
「ありがとう」
 彼は礼を述べると、彼は自身の手に力を込めたのが分かった。
「俺は、竜神である父と人間である母の間に生まれた。だから、普通とは一歩離れた存在なんだって気づくのに、そんなに時間はかからなかった」
「うん」
「家だってこんな状態だから、誰かを家に呼ぶのは憚れた。そもそも、人と仲良くする方法が思いつかなかった」
「……うん」
 自分は普通の人とは違う。そう察すると同時に、大抵の人は恐怖する。そして、周りにバレないように、必死に隠そうとするだろう。それは、彼も例外ではなかった。
「もし、俺の家の事情を知って気味悪がられたらどうしようって、いつもそう思って怖くて仕方がなかった」
「そう、なんだ」
「うん。だから、中学生の時、曙美さんが声をかけてくれた時に、俺の世界が変わったと思う」

『希龍くんって優しい人だね』
『希龍くんは私の話を聞いてくれるし、一緒にやってくれるし。とっても嬉しいよ。私、一緒に課題をやるの、希龍くんで良かった。ありがとう』

「例え君からすれば些細なたった一度の出来事でも、俺にとっては大事なことだった。たった一度じゃない。あの日の事が、その後の俺を何度も救ってくれている。きっと一生、糧になる」
「……ふふ、それ、アオさんにも言われた」
「なんだ、これまでばらされたのか」
 一言一句、ほぼ同じ言葉を再度聞いて、思わず笑みがこぼれた。だからこそ、あの時話してくれたアオさんの話は嘘ではなかったのだと、私は彼に何かができていたのだと安堵した。
「だから、曙美さんが困ってた時、このりさんが助け出した瞬間、はじめてどうして自分は神様じゃないんだろうって思った」
「うん」
「今まではずっと、こうした家庭で人と関わるのが難しいとか勝手にぼやいておきながらね。どうして俺は助けられないんだろうって思った」
 彼の家に訪れる前の、あの時の出来事。このりに助けてもらった後、彼は小さく呟いていた。『そう、だね。僕は、人間だからね。神様では、ないから』という言葉は、そういう意図が含まれていたのか。
 それがなんだかうれしくて、むず痒くて、少し顔に熱が集まったのが分かる。
「でも、あの時も曙美さんは俺を救い上げてくれた。感謝してもしきれないよ」
「……そんな大したことは、していない気がするけれど」
「ふふ、そういうところが、曙美さんの良いところだね」
 彼は真っ直ぐと私の目を見て、私の手を取って、力強く拳を握った。
「大丈夫だよ。君には俺達が居る。そして、君は頑張ってきた。だから自信持って、ご両親に、素直に伝えてみよう」
「……うん、頑張る」
「話はまとまったか?」
 ふと後ろから声がして、二人で振り向いてみると、障子戸に背を預けて立っているこのりの姿が見えた。
「ずっと水に浸かってると冷えるぞ。人間はすぐに体調を崩す」
「そうだね。曙美さん脚を上げて。脚を温めよう」
 雫玖くんはどこから取り出したのか、ふかふかのタオルを両手で開いて、そちらに足を差し出すように言ってくる。が、流石にそれは恥ずかしい。
 大丈夫だと必死に訴えて、タオルだけお借りすることをお願いすれば、彼も察したのか顔を真っ赤にして、了承してくれた。
「寝れそうか?」
「……うん、多分」
「……よし、竜の子! お前の部屋から布団持ってこい! 3人で並んで寝るぞ!」
「ええ!?」
 思わず雫玖くんと共に声を上げたが、このりは謎にてきぱきと動いて、寝るスペースを一つ確保した。
「ほら早く。曙美の手助けしたいんだろ? 人肌があると安心する。安心出来る奴がいるだけで、きっと眠れるはずだ」
 に、と彼は笑みを浮かべる。少し強引ではあるけれど、彼のこうした優しさにいつも救われていたんだなと再確認してしまった。
 雫玖くんと顔を見合わせれば「大丈夫?」と言わんばかりの表情をしている。小さく笑いながら「お願いします」とお願いしてみれば、彼は力強く頷いて自身の部屋に駆けだした。
「……きっと、明日、俺に出来る事は少ない」
「ん?」
「だから、今日だけはお前の助けになりたい」
 このりは真っ直ぐと私を見てそう言った。その言葉の深い意味も、なんとなく察せれる。だからこそ、彼の心遣いが嬉しいのだ。
「ありがとう」
 礼を述べれば、ふ、と彼は笑みを浮かべた。
 そしてすぐに雫玖くんが布団を持って部屋にやってきた。
「曙美を真ん中にするか。俺の尻尾に抱き付いても、竜の子に抱き付いても、どっちでも良いぞ」
「こ、このりの尻尾で……!」
 流石に後者は難しいでしょ!
 顔を真っ赤にして前者を選べば、雫玖くんとこのりは顔を見合わせて笑い合っていたのだけれど。
 2人に挟まれて布団にもぐれば、何故だろう。あんなに騒がしかった心臓も落ち着きを取り戻し、とくんとくんと優しく音を奏でていた。