二十二の秋


 光がひとかけらもない闇の中、痛みが身体じゅうを駆け回る。

 たとえるなら縄でぎりぎり縛られているような痛みだ。胸が苦しくて、息をすることすらままならない。

 痛みと苦しさで呻(うめ)いている俺の耳朶(じだ)に、低い声がねじ込まれる。

『どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして――……』

 声に返事をしたくても、喉が圧迫されてどうしようもない。

 お前は何が言いたいんだ? 俺に何を訊きたいんだ?

 なんだってこんな苦しい思いをしなきゃいけないんだよ……。

 ピリリリリリリ。

 スマホのアラームが、意識を夢から現実へと切り替える。現実に戻った途端、さっきまでの痛みと苦しさは消えて、代わりにずっしりとした重みを身体に伝えてくれる。

 ピリリリリリリ。ピリリリリリリリリリ。

 アラームはしつこくて、俺はやっとのことでスマホに手を伸ばし、アラームを停止させる。頭は痛いし身体は重いし悪夢は見るわで、最悪の目覚めだ。まぁ、こんな悪夢を見るのは高校生の頃からだから、もう慣れっこなんだけど。

 ベッドから起き上がりながら、隣に寝ている女の子の寝顔を見やる。アラームに気付きもしない、眠りの世界に頭まで浸かってる幸せそうな寝顔。

夕べ飲み会で持ち帰りしたこの女の子は、二十代前半をターゲットにした雑誌で読者モデルをやっている子だ。

マネージャーからは恋愛は禁止だと言われているけれど別に付き合っているわけじゃないし、一夜限りの関係なんだから問題はない。

だいたいこの子だって、別に俺のことを本気で好きなわけじゃない。今若手俳優の中でも一番の注目株の三嶋(みしま)夏樹と関係した、という事実がほしいだけなのだ。

たとえスキャンダルになったところで、むしろこの子からしたら儲けもの。自分の名前が芸能ニュースで報じられるんだから。この子だけじゃない、俺に近づいてくる女の子のほとんどは半(なか)ば売名行為だ。


「お疲れさん。売名行為」


 独りで女の子に向かって呟いた後、スマホで今日のスケジュールを確認する。今日は十三時からライブで、会場入りは九時。今は七時だ、あと二時間しかない。

ライブが終われば雑誌のインタビュー、深夜に来年一月から放送のドラマ撮影がある。俺は今日も忙しい。日本でいちばん忙しい。なんせ、日本じゅうの女の子が憧れるイケメン俳優なんだから。


 バスルームに行き、鏡に映った自分の身体を見る。中学生までは百六十五センチしかなかった身長は二十二になった今百八十センチまで伸び、一月からのドラマの役作りのために鍛えた身体には、硬い筋肉がみっしり詰まっている。

顔だって、自分で言うのもなんだけどそんじょそこらの男に負けちゃいない。浅黒い肌は少し減点だが、輪郭がきれいな卵型で、目は切れ長で凛々しく、鼻筋もスッと伸びている。整形疑惑だなんて一年前雑誌に書かれたが、とんでもない。全部生まれ持ったものだ。





 シャワーを浴びてメンズ用の化粧水で顔の手入れをし、買い置きしているチューブゼリーだけで朝食を摂って着替える。ぐうぐう眠り続ける女の子の枕元に合鍵とメモを置いた。

「夕べは楽しかった。鍵はポストに入れておいてね」と。昨日初めて会ったばかりの女の子に合鍵を渡すのはちょっと抵抗があるが、向こうも世間に顔を出して活躍している身。変なことはしないだろう。


朝八時十五分、迎えに来た事務所の車に乗る。俺の定位置は後部座席、運転手の斜め後ろ。隣にはマネージャーの櫛笥(くしげ)。歳は聞いたことがないが、たぶん二十代の後半。髪の毛を七三分けにした、真面目だけが取り柄ですって感じの男だ。


「三嶋さん、この車禁煙車です」


 ジーンズのポケットから取り出したセブンスターに火を点けていると櫛笥が言った。俺は窓を全開にし、外に灰を落とす。


「うるせぇな。窓開けて吸えば平気だろうが」

「三嶋さん、お酒、入ってます? 息が酒臭いですよ」

「夕べ飲み会だったからな」

「どれくらい飲んだんですか」

「ビール二杯とウイスキーのロック、あと芋、お湯割りで。ワインもグラスで二杯飲んだな」

「飲み過ぎです」

「うるせぇよ! 俺はもう、未成年じゃないんだよ! 毎日じゃないんだからいいだろうが」

「お酒の飲み過ぎはダイエットによくありません。せっかくドラマ撮影のために身体を鍛えてるんですから、少し禁酒してください」

「はいはい」


 櫛笥はたとえるなら、風紀委員。学級委員長になれるほどのカリスマ性はなく、やれ煙草の吸い過ぎだの、やれ女の子と遊び過ぎだの、そんなことを口うるさく言ってくる。俺が生意気なキャラクターで売っているのも、あまり良く思っていない。


「三嶋さん、わかっていると思いますが、夜のインタビューでは真面目にお願いしますよ。あれは一月からのドラマに向けた、いわば宣伝なんですから。

世間は三嶋夏樹を生意気でいけ好かないイケメン俳優だと思っている、そのイメージを覆(くつがえ)すためのドラマなんです。三嶋さんにはファンが多いですが、アンチも多い。三嶋さんのアンチを、全部ファンにしちゃいましょう」

「わかってるよ、俺はプロだ。真面目な男の演技くらいできる」


 高校生の時に主役に抜擢されたドラマが生意気な不良役で、そのドラマがヒットしてしまって以来、俺には大人に反抗的な不良役や、今時のチャラくてドSな若者役ばかりが回ってくるようになった。

監督や演出家からも、「役作りはしないで、そのままの三嶋くんでいてくれ」なんて言われるので、俺はありのままの俺を演じてきた。

その結果、世間には「生意気でいけ好かないイケメン俳優」の三嶋夏樹のイメージが定着していて、嫌いな俳優ランキングで上位に入ることも多い。実際スキャンダルも起こしているから、俺は十代の若い女の子からは魅力的に映るらしいけど、大人たちからはよく思われていない。


 俺もそのへんは、そろそろ考えなきゃなと思っている。もう二十二。俳優としてステップアップするためにも、このへんでがらっとイメージを変えていかないと。

 二本目のセブンスターに火を点けていると、櫛笥が言った。


「三嶋さん」

「なんだ」

「社会の窓が開いています」


 いつものつっけんどんな口調でそんなことを言うので、つい顔が火照(ほて)る。大慌てでチャックを閉める時、右手に持っていた煙草から火種が落ちてジーンズに直撃した。


「熱っ! あっつ!!」

「大丈夫ですか」

「大丈夫じゃねーよ! あーあ、どうすんだよ! このジーンズ、穴が開いちまったじゃないか! 十五万もしたのに!!」

「それはお気の毒です」

「お気の毒、じゃねぇよ! 俺が火傷でもしたらどうすんだ! 俳優の身体は商売道具だぞ!?」


 思いっきり櫛笥を睨みつけると、櫛笥はどこ吹く風と言わんばかりに答えた。


「今のは僕のせいじゃなくて、三嶋さんのチャックが開いていたのが悪いんです。いくらイケメンでも社会の窓が開いているなんて、そんな俳優、笑いものにされますよ」

「……櫛笥。お前、最近生意気になったよな」

「そうでしょうか。三嶋さんの生意気な性格が移ったのかもしれませんね」


 まったく、食えない男だ。俺がハタチの頃からマネージャーをやっていてもう二年経つが、二年も一緒にいて笑ったところを一度も見たことがない。ポーカーフェイスから放たれる氷のような言葉は、いつも的確に俺の痛いところを突いてくる。

 車が大通りに出て、ライブ会場が近づいてきた。俺はまだだいぶ吸えるところの残っているセブンスターの火を消した。