せめて、結婚する前にちゃんと別れておけば。
 せめて、中途半端な気持ちで付き合っていなければ。
 せめて、真実を彼に告げておけば――。

 すっかり雨に濡れて温度を奪われた腕を掴んだまま、弱りきって儚く揺れる瞳を見ていたら、いくつものせめてを願わずにはいられない。


「……ああ、美希か」


 やっと目の前の“わたし”を認識して、大垣くんが溜め息のようにそう呟いた。

 残念そうに名前を呼ばれて、今この瞬間になってもお姉ちゃんがここに来てくれると期待していたのがわかる。

 そう期待したいほど、大垣くんはお姉ちゃんを信じきっていたんだ。それなのにお姉ちゃんは、いとも簡単に大垣くんを切り捨てた。

 ムカついて許せない。二人の問題なのかもしれないけど、やっぱりわたしにはどうしても口出しせずにはいられない。

 もどかしい感情を、目の前に彼にぶつけてしまう。


「あの女はやめておけって、言ったのにっ……!」


 わたしと大垣くんの頭上に掲げた傘を持つ手が震えて、雨に触れる面積が増えていく。

 ……全部、わたしだけが知ってたんだよ。
 大垣くんが、お姉ちゃんと付き合っている秘密を教えてくれたから。


『美希は友達だし、美保先生の妹だから』


 先生と生徒が付き合っているなんて、バレたらとても駄目なことなのに。そう言って、大垣くんはわたしだけに二人の関係を教えてくれたんだ。

 こっそり話してくれたときの笑顔は、本当に嬉しそうだった。幸せそうだった。

 秘密の関係なんてまったく壁に感じていないぐらい、本当にお姉ちゃんが好きなんだって思えた。

 あまり人が寄り付かないこの屋上が二人の特別な場所だったみたいで、屋上によくサボり来ていたわたしは何度か遭遇してしまったことがある。

 ときには二人が楽しそうに話しているのを見かけたり、キスしているところも見てしまった。

 そのときすでにお姉ちゃんは、旦那さんになった人と婚約していて。お姉ちゃんが大垣くんと浮気をしていることは明らかだった。


『大垣くんとは結婚前にちゃんと別れるし、婚約者がいることもちゃんと言う。だから浮気だってことは、まだ大垣くんには内緒にしておいて』


 でもそれをお姉ちゃんに問い詰めたら、そう言いきられてしまって。大垣くんだけが何も知らないことまで、そのときに同時に知ってしまった。
 お姉ちゃんのその言葉を聞くべきなのはわたしではなく、大垣くんのはずだったのに。


『大垣くん、お姉ちゃんとは早く別れた方がいいよ』

『なんで? それは相手が先生だから?』

『それもそうだけど……。とにかく、あの女はやめておいた方がいいよ。大垣くんが傷付くだけだから』


 口止めされてしまったけど、どうしてもお姉ちゃんのことは許せなかった。