雷帝の怒りが届いたのは、桜の木々が緑色に変わりつつあるころだった。

 まだ太陽が世界の真上に昇っている時間帯。
 寝所に侍らされる以外の用件で、雷帝に呼び出されるのは――嫁がされて以来、初めてのことだった。

 一面、翡翠色の冷たい世界。
 玉座に悠然と腰かける雷帝。
 周りには、雷帝に仇なす者はだれでも即座に排除する精鋭の武官たち。

「馬鹿げた噂があってな。十三番目の妃、知っているか」
「……どういった噂でしょうか」
「黒天狗と仲睦まじく遊ぶ雷帝の妃がおるなどと。ありえないのだが」

 はっ、と雷帝は吐き捨てるかのように笑った。

 だれかが、見ていた。
 見られていた……。

 隅とはいえ、後宮の庭園だ。そして私は、かりにも雷帝の妃。
 ……見られている、はずだった。

 当たり前、当たり前のことなのだけれど――雷帝の後宮の孕む粘っこい監視体制に、頭がくらくらした。

「そのような者がいたら、どうすればいいと思う? 十三番目の妃よ」
「……すみやかに、仇なす者として、排除を」

 します、とまで言い切れなかった。――語尾が、震えて。

「うむうむ。そうであるよな。排除とは――この場合、だれを?」
「皇帝の妃を」
「それと?」

 黒天狗を、と言うのが正解なのだろう――しかし、言えなかった。
 どうしても、言えなかった。

「お答えせぬか!」

 武官のひとりが、いきり立つ。
 彼らも、皇后や二番目の妃たちに対しては、こんな無礼な態度を取らない。私が十三番目の、賤しい出身だと思っているから、思い切り無礼な態度を取るのだ。雷帝も、そう望んでいる。

「よい、よい」

 雷帝はやたらに上機嫌な、ふりをして――武官を片手で制した。

「この者は、どうやら死にたいらしい……賤しい村でも、故郷は故郷。滅んでしまったのち生きることに悲観するあまり、自殺を希望したのだ」

 ねっとりと粘つく、張り付いた作り笑いで、雷帝は私を見る。

「我の問いに正しく答えないとは大罪。覚悟はできているな? かりにもおまえは我の妃。死に方くらい、選ばせてやろう。あるいは、生き地獄を選んでもよいぞ? 死罪に値するかそれ以上辛い極刑を、我が翡翠郷では、用意しているゆえ」

 そうだ、と雷帝はもったいぶって言った。

「おまえの代わりに、泥棒烏を処刑してもいい。おまえの手でかの者の命を断ち切ることができれば、褒美をやろう。もう一度、我の寝所に侍らせてやろう……どうだ? 悪い話では、ないだろう?」

 ――殺して、ください。

 そう叫べれば――どんなにか、よかっただろうか。

 けれど、私はそう言えなかった。
 雷帝の手で、私は両親や親しいひとたちを殺されている。
 無残で、一方的に、蹂躙されて――。

 死にたくは、ない。
 死にたくは、なかった。
 自分の気持ちを、いまさらのように自覚して――ああ、ひたすらに、令悧に会いたい。

 こんな、冷たい翡翠の床ではなく。
 彼のあたたかい懐のなかで――号泣したい。

 びりり、と。
 全身が跳ねて、……痛みが走った。

 雷帝が、土下座する私の背中に向けて雷を落としたのだった、――比喩ではなく。

 雷帝は、自由自在に雷を操れる。

「……うあっ……いたっ……」

 全身をかかえて、転げ回る。
 涙が、出てくる。
 みんな、みんなみんなみんな。こんな痛い目に遭って――死んでいったのか。

「ちょっと撫でる程度の威力よ。情けない」

 雷帝は言う。まわりの武官たちはくすくすと嘲るように笑う。

 ちょっと、撫でる程度の威力、……これが?
 うそでしょう――?

「言っておくが、おまえの両親や故郷の者は、こんなものよりずっとずっと痛み苦しんで、死んだ。我の雷術の力があれば、ひとの命と痛みなど、たやすく扱える。今回は灸を据えてやっただけだ、賤しき村の出身の、愚かな田舎娘よ。おまえが道化になればなるほど、俺はおまえに灸を据える。そして民は学ぶのだ……愚かな行為は慎もう、と」

 またしても、全身が跳ねた。
 痛い、痛い、――痛い痛い痛い!

「もうすこし、撫でまわしてやろうか。愛を込めて」
「やっ、やめてくださっ、も、もうしわけ――ああっ!」

 雷帝の雷が、容赦なく落ちる。
 あまりの痛みに、意識が、かすむ。

 ……懐から、令悧の羽がこぼれ落ちた。
 朦朧とする意識のなか、私は、その羽に手を伸ばして――ぴしゃん、とすぐに手に雷が落ちて、呻いて、叫んで、許しを乞うて、それでも――雷帝の怒りが収まることは、なかった。

「おまえの口から、泥棒烏に告げるのだ。穢れた民とは付き合えぬ、と。そうすれば、そうだな……おまえと泥棒烏の命だけは、助けてやろうか」
「……ありがとうございます……ありがとうございます、ありがとうございます……」

 私はこわれたように繰り返した。

 ……私は、愚かだ。
 それは、間違いない。
 だけど。

 雷帝の妃であるというのが、どういうことなのか。
 ほんとうの意味で、私はいま、理解していた。

 私は完全に雷帝の所有物なのだ。
 ほかの男性と寄り添うことも、口づけをすることも、添い遂げることも、当然――ゆるされることはない。

 たとえ、雷帝はまったく私のことを愛してなどいなかったとしても。

 ……だから。
 私はこれからやはり、生涯愛されることはない。

 私をいつでも愛おしく見つめ、好きなところはいくらでもあると、すべてが大好きだと言ってくれる彼だけが――私のむなしい生涯で唯一、私を愛してくれたひとになるのだろう。