今から、数百年前。
 わたしとルキは、天界で、対の天使として生まれてきた。
 対の天使。
 人間で言うと、双子みたいなものだ。
 でも、わたしたち天使には、両親がいない。正確に言うなら、創造主はいる。神界に暮らす神々だ。けれども、彼らは滅多に天界には降りてこないから、天使たちは自分の創造主の顔を知る機会もない。

 だから、ルキは、わたしにとってこの世界で唯一の家族と呼べる存在だった。

 わたしたちは、生まれた瞬間から、どこへいくのも常に一緒で。大人びていたルキは、子供っぽくはしゃぎまわるわたしを、静かな瞳で見守ってくれていた。
 数百年という時を、共に暮らしてきた。
 天界の時の流れは、人間界ほど厳密ではないけれど、とにかく永い時を共有したんだ。
 穏やかで、幸せな日々。
 ずっと一緒にいられると、信じて疑っていなかった。
 けれども、永遠ではなかった。

「また……また、わたしの、せいだ……」 
「……ちが、う。キミの、せい、じゃないよ」
「ううん、わたしのせいだよ……っ。あの日も、ルキは、わたしをかばって罰を受けた。本当に罰を受けるべきなのは、わたしだったのに……っ!」

 あまりにも永い時を天界で過ごしたわたしとルキは、天界のすべてを知りつくしてしまった。その頃の彼は、天界に存在する書物という書物をすべて読みつくしてしまい、どこか退屈そうな顔を見せるようになっていた。

 もう、天界には、ルキの好奇心をみたせるものがなくなっていた。
 そんなある時、彼に教えてもらったあることが、ふと頭をよぎった。

『ララ。地上にはね、花というものが咲くんだって。とってもきれいなんだってさ。実物を見てみたいなぁ』

 わたしは、ルキの喜ぶ顔が見たかった。
 いけないことだとは分かっていたけれど、一度浮かんだその考えは、とても魅力的に思えて。ルキに本物の花を見せてあげることを、どうしても、諦めたくなくなった。
 その浅はかな考えが、後に、あんなことに繋がるとは思いもせずに――

 運命の夜。
 わたしは隣ですやすやと寝息を立てているルキの隣から、こっそりと起きだした。そして、絶対に近づいてはいけないと言われていた禁忌の森に、足を踏みいれた。
 禁忌の森。
 天界から、別の世界へと繋がっている場所。
 ただ、花を摘んでくるほんの少しの時間だけ、人間界に滞在するつもりだった。
 でも――神の目には、たかが一天使の企みは、全てお見通しだったんだ。

『どこへ行くつもりだ、そこの天使』
『……っ』
『まさか、勝手に人間界へ行こうとしたのではあるまいな。そもそも、許可もなしにここにいること自体が罪にあたると、お前もよく分かっているはずだが』

 ああ。ほんの少しの時間ですら、赦されないのか。
 神に見つかってしまったからには、もう、逃げようがない。
 青ざめながら、自分の罪を正直に告白しようとした、次の瞬間だった。

『お待ちください、神さま! ララをけしかけたのは、ボクです』

 驚きすぎて、言葉を失った。

『罰するのならば、ボクを罰してください』

 ルキが、ここに付いてきたことも。
 神に向かって、落ちついた様子で言い返したことも。
 できれば、信じたくなかった。彼を、巻きこみたくはなかったんだ。

『ルキ……? なにを、いってるの』 
『ララが人間界に行こうとしたのは、ボクのせいです。だから、全ての責任は、ボクにある』
『ち、ちがいますっ! わたしは、他ならぬわたしの意志で、ここに来たんです。ルキは関係ありません……!』
『ララ! ボク、怒るよ』
『ルキこそ。なんで、わたしをかばったりするのっ』
『静まれ』

 神は、言い合いをはじめたわたしたちを、一言で制した。

『……互いが互いをかばうとは、対の天使らしいな』

 ぽつりと、呟いた後。
 まったく感情を読み取れない声で、ハッキリと告げた。

『しかし、秩序を乱す者には、等しく罰を与えねばならぬ。お前たちは、天界から追放する。ルキは、魔界へ行け。ララは、地上へ。百年後に、人間として生まれ変わりなさい』

 魔界行きとは、天使がもっとも恐れる、堕天を意味する。
 ありえない。神は、こんなにやさしい男の子に、悪魔になれと言うの?

『どうして!? なんで、罪のないルキが、悪魔にならなきゃいけないのっ』
『口答えはゆるさぬ。私の決めたことは絶対だ』
『っ』
『時間がない、もうゆくぞ。世があけたら、天界から出ていけ』

 神が、姿を消した直後。
 魔界行きを命じられたルキの白い翼は、墨を垂らしたように黒ずみはじめた。

『痛っ……』
『ルキっ。翼が……黒く、なって……』
 
 ルキは、白い翼が黒ずんでいく痛みに顔をひそめながら、やさしく笑った。

『そんな、顔しないでよ。ララ。キミが……最近、花の図鑑を眺めていたこと、気がついてた。ボクが花を見たいと言ったから……人間界に、行こうとしてくれたんでしょ?』

 唇が震えて、うまく、喋ることもできなくて。
 どうして。
 なんで、ルキは、そんなにやさしいの?
 言葉にもしていないのに、わたしの気持ちを汲み取って。
 勝手に人間界に行こうとしたバカなわたしを、怒ってもくれないなんて。
 ルキは……やさしすぎる。

『……ララが、ボクのためを思ってしてくれたこと。うれしくないわけが、ないよ』

 胸が震えて、言葉にならなかった。
 天界に日が差しはじめたころ、ルキの翼は、完全に漆黒に染めあげられていた。
 金の髪と蒼い瞳も失い、全てを黒に塗りつぶされて、彼は天使ではなくなった。

『もう、天界には、いられないみたい』

 悪魔に、なってしまった。
 こんなにやさしい悪魔が、いるわけがないのに。

『大丈夫。また、会えるよ。地の底に落ちたって、生き抜いてみせるから。キミに、もう一度、会うために』

 泣きじゃくるわたしを、ルキは、やさしく抱きしめた。

『それまでの間、またね。大好きだよ、ララ』

 それが、天界で過ごした日々の、最後の記憶だ。