憎たらしいほど晴れた空の下。気の早い桜が一輪、二輪、咲いている。ピンク色した可愛い花が、冷たい風の中で揺れている。
「はぁ~……」
 美里は渡り廊下の片隅に佇み、かじかむ手に息を吹きかけた。今日は高校の卒業式。明日からは皆、それぞれの道を行く。おめでたい門出の日ではあるけれど。晴れ渡る空が憎らしく思える程度には、高校生活への未練が残っている。
「はぁ~……」
 溜息と共に背中は丸くなり、美里の緩くウェーブした茶色の髪は揺れた。ロングヘアを念入りにセットしても気分は上がらなかった。溜息を吐いたところで事態が変わらないことも知っている。それでも、溜息は止まらない。

 初恋は実らない。

 使い古された言葉ではあるけれども、美里の場合にはピタリと当てはまった。
「美里~。こんなトコにいたんだ。探したよ」
 爽やかな声と共に、ショートカットの美少女が現れた。紺のボックスプリーツのスカートにジャケット、白いブラウスにチェックのリボン。スレンダーな体を包んでいる高校の制服は、真理にとても似合っていた。
「マリちゃん……」
 これも今日で見納めか、と、思った途端、美里の目には涙が溢れた。
「ああ、美里ってば。まだ早いよ。卒業式は、これからだよ?」
「でもっ、でもぉ~……」
 言葉は涙に飲み込まれ、途切れ途切れになっていく。
「もう、美里ってば。卒業したからって永遠の別れってわけじゃないんだから。家も近所なんだし。いつでも会えるでしょ?」
「ッん……ッん……」
「もう、しょうがないなぁ」
 真理は美里の髪にその細い指を入れて、クシャクシャっと撫でた。
「ッん……ッん……」
 美里は、いつものように憎まれ口の一つも返したかったが、嗚咽に邪魔されて言葉にならない。
「……もう、しょうがないなぁ」
 真理は呆れたような、愛しくてたまらないとでも言うような、柔らかな笑みを浮かべると、美里の体をふわっと抱きしめた。

 いい匂いがする。美里をウットリさせる匂いと共に、酔わせる言葉も降ってくる。

「安心してください。ずっと一緒だよ?」

 それは真実であり、見方を変えたら嘘である。
 だが、真理にとって真実ならば、美里に反論はない。

「ッん……ッん……」
 言葉にならない返事の代わりに、美里は真理の細い体を抱きしめ返した。

 カッコよくてカワイイ性格をしている真理は、美里にとって幼馴染というだけでなく、初恋の相手だ。美里が大好きだと伝えても、それが恋であるとは、真理は知らない。美里がそれを恋だと自覚してからも、真理がそれを知ることはなかった。

 性別。

 その一点のみで、最初から恋の相手からは弾き出されているのだ。ずっと一緒でも。それを美里が自覚してから少しの間だけ、微妙な距離が出来たことがある。美里が気持ちを整理するのには少しだけ時間がかかった。そのことを真理は知らない。思春期だから、とか、単純に受け止めているのだろう。人間、全てにおいて初めてを繰り返して積み上げる作業の繰り返しだ。比較するものを持たないのだから、美里の変化に真理が気付かないのも無理はない。言葉にすることのない美里の恋心は知られぬまま、永遠の時を刻むのだ。仕方ない。それでも、毎日のように会える状況を失うのは悲しい。二人とも地元で進学するが、学校は違う。今までのようにはいかないだろう。

「生徒会長~。卒業式、始まっちゃいますよー」
 後輩の声が聞こえた。
「今行くー。でも、私はもう生徒会長じゃないからねー」
 真理が笑いながらこたえる声が、嗚咽に邪魔されながらも美里の耳にも届いた。
「さぁ、行こう。美里」
「……うん」
 美里は、差し出された真理の手をとった。これが最初でも最後でもないけれど、ひとつの区切りになることを美里は知っていた。

 卒業式は滞りなく進んでいく。その間も、美里は泣いた。美里だけでなく、号泣している生徒は他にもチラホラいる。ハンカチではなくハンドタオルを持ってきて良かった、と、思っているのは美里だけでないことを知り、少しだけ安堵した。

 卒業は、終わりではない。それでも、涙は出るのだ。

 美里は次から次へと溢れてくる涙を拭いながら、一瞬一瞬を閉じ込めておけたらよいのに、と思った。流れ落ちては消えていく涙のように、時間もまた儚い。

 美里の居る位置からは、真理の横顔が見えた。愛しい人には、美里とは別の恋しい人がいる。大人しくてオタクっぽい一個下の少年、若林。それが真理の恋する相手だ。二人並ぶ姿は可愛くてお似合いだと思うのだけれど、ちっとも前に進まない。このまま卒業したら確実に、真理ちゃんの初恋は実らない。それではイヤなのだ。真理ちゃんには幸せになって欲しいのだ。いつも助けてくれる優しい真理ちゃん。真理ちゃんの恋の成就は、私の失恋を意味する。それでもいい。愛しい人の幸せに染まる笑顔が見たい。

 三年生の一年は慌ただしい。責任ある立場に置かれたかと思うと、あっという間に引継ぎだ。その慌ただしさも、美里の目はごまかせない。真理が生徒会に所属する一年後輩の若林のことを好きになったのは、すぐに分かった。あれは夏の日の午後。生徒会室に二人きりになった時、美里は聞いた。
「若林君のことが好きなんでしょ」
 単刀直入に問う美里の言葉に、真理は頬を染めた。美里が一生かかっても成し得ないことを、いとも簡単にこなした若林に対して、黒い気持ちが湧かなかったとは言えない。それでも、幸せそうに頬を染める真理のことを思えば、邪魔をする気にはなれなかった。
「どうするの? 告白する?」
「えっ。なに、ちょっと。わかんない」
「自分で言えないなら、私が間に入ろうか?」
 邪魔をしないなら協力するのが一番だ。頭では分かっていても。幸せそうに動揺する真理を見ていると、若林への嫉妬心を美里は止められない。いっそ満身創痍になってしまえ、と、ばかりに協力を申し出るも、真理はいい顔をしなかった。
「それは……若林君に迷惑がかかるといけないから」
「若林君も、マリちゃんのことを好きだよ?」
「だって……私、年上だし……」
「一個上くらい、イマドキ、気にするほうがオカシイ」
「ん……んん。いい。いいの。そっとしておいて」
 真理は頬を染めたまま、そそくさと何処かへ行ってしまった。ひとり生徒会室に残された美里は、胸中複雑だ。しかし、真理を理解している、という一点においては自信をより深めた。確信を持ったところで気になるのは、恋の行方だ。美里は思った。放っておいたらタイムアウトになりそうだ、と。実際、美里の予感は的中した。卒業式当日に至っても、二人はどうにもなっていない。

 背中を押しても動かない真理に業を煮やした美里は、木枯らしが吹き始めた頃、生徒会室で二人きりになった若林に言ったことがある。
「キューティクルの天使、若林よ」
「美里先輩。そのキャッチフレーズみたいのやめて下さい」
「いやだ」
 若林は嫌がったが、実際、その髪にはキューティクルの輝きがあった。嫌味なくらいあった。ツルツル、サラサラの真っ黒なストレートヘアは、女子一同の嫉妬を買うくらいには美しかった。だから、美里が若林への嫌がらせに使っても罪はないハズだ。その程度の意地悪な気持ちはあったものの、真理の気持ちを放置するほど美里は冷酷にはなれなかった。
「キューティクルの天使、若林よ」
「もうっ。なんですか美里先輩」
「お前はぶっちゃけ、マリちゃんのことをどう思っているのだ?」
「……はっ?」
 不意を突かれて真っ赤になる少年の純情さを、美里は意地悪な気持ちで見ていた。

 赤くなるがいい。冷や汗をかけばいい。心臓なんてドキドキのバクバクになればいい。マリちゃんの恋心をかっさらっていった男など、健康を害するほど感情を乱せばいい。乱して当然だ。

 そのくらいの気持ちで、美里は若林を眺めていた。
「キューティクルの天使に飽き足らず、恋にうつつを抜かす少年、若林よ。お前の気持ちは分かった」
「ちょっ、美里先輩っ! 勝手に分からないでくださいよ」
「分かっても、分からないでも、どっちでもいい。若林よ。好きなら好きって本人に言っちゃいなさい。キューティクルの天使よ」
「いや、だめですよ」
「なんで?」
「真理先輩は、ボクなんて相手にしてくれない」
「いや、そんなことはないよ?」
「ボクは……いいんです、ボクなんて……」
「……」
 美里はキューティクルの天使の横っ面をはり倒したくなったが、こらえた。恋の前では誰しも臆病なのだ。それは分かっている。だが。
「時間がないよ?」
「……」
「枯れ葉は落ちても、季節がくれば、また迷惑なくらいに茂るけど。卒業したマリちゃんは、卒業したままだからね」
「……」
「キューティクルの天使よ。若林よ。後悔したくなくば、動くのだ……動くのだ……動くのだ……」

 最後の一葉が落ちても、若林は動かなかった。

「寒っ」
 卒業式会場も寒かったが、外はもっと寒かった。美里は寒さに体を縮ませたが、急速に冷えていく涙で湿ったハンドタオルは手放さなかった。
「ホント、寒いね」
 真理はそう言いながら、美里の背中をさすった。温もりが服を通して伝わってくる。美里は目の奥が再び熱くなっていくのを感じた。他愛ない思い出話をしながら渡り廊下に差し掛かった時。美里は校門にいる若林の姿に気付いた。いつもより大人びた表情で佇む若林を見て、美里は、この先に起きることを予感した。
「行ってきなさいよ」
 美里は真理の背中を押した。成就せずとも終わらぬ恋を心に抱きながら、不器用な恋が花開くさまを見守るために。

 遠くにいる二人の会話は聞こえない。若林が何かを真理に言い、それに彼女が何か答えたのが見えた。それから美里のように真理が泣き、真理が美里にしてくれたように若林が彼女を抱きしめる。驚いたように彼を見上げた彼女の笑顔は、涙に汚れながらも輝いていた。

 いま目から溢れ出る涙は、卒業がもたらす悲しくも寂しく、それでいて晴れやかで穏やかな涙だと美里は思った。痛みは後からやってくるかもしれない。恋する二人の側に居るのは、心を底から切り刻まれるように辛いかもしれない。それでも、美里は自分の恋は手放さないし、真理を、二人を応援するのも止めないだろう。

 それでもいい。あの笑顔をみられたのだから。