夜の空気の冷たさが増してきたのを理由に、私は玄関先に出なくなった。
もちろん、朝陽と顔を合わせるのが気まずいからだけなんだけど。
そんなこと説明しなくても、だいたいの人が予想できる。
朝登校する時間もいつもは合わせるようにしていたけど、朝陽よりも早めに家を出るようにした。
こういう時、学校が別でよかったと思う。

朝陽と顔を合わせない日々。
それなのに、頭の中はいつも朝陽のことでいっぱいになる。

__それでも彼女が、好きなんだから。

思いっきり突き付けられて十分理解したはずなのに、私はいつまでも、朝陽から私に向けられる矢印の名前を探している。
そして、私から朝陽に向ける矢印の名前を、知りたいと思っている。
今夜は、何百年に一度しか見られない流星群が見られるらしい。
別に天体ファンとか、星とか宇宙に詳しいわけじゃない。
ただ、そういうめったにないイベントごととかニュースとかってワクワクして好きだ。
しかも夜中。
誰も起きていないような静かな夜に向けて準備するのって、楽しい。
コットンとウールの靴下を重ね履きして、裏起毛パジャマに、もこもこのポンチョを羽織って、厚めのひざ掛けを腰に巻いて、準備は万端だ。
こういうイベントごとにはだいたい朝陽を誘うんだけど、今回ばかりはそんな気になれない。
朝陽も誘われたところで迷惑だろう。

流星群が一番多く流れるとニュースで言っていた午前3時ごろに合わせて、私は外に出た。
午前3時はお化けや幽霊が出る時間って聞いて、そんな時間に絶対トイレに行きたくないと、聞いた当時は思っていた。

__「でもそう思っているときに限って、トイレのタイミングって午前3時なんだよね」

と言ったのは、その話を一緒に聞いていた朝陽だった。

恐る恐るドアを開けて、その隙間から微かに流れ込んできた外気を、私は鼻から大きく吸った。
空気は信じられないくらい澄んでいた。
呼吸をするたびに、冷え切った空気が喉を通過して、肺を巡って、温かな呼気となって出てくるのがリアルに感じられた。
何度かその作業を繰り返してから、私は夜空を見上げながら外に出た。
空には、確かにちかっちかっと星が小さく瞬いていた。
だけど、星が流れてくる気配はなかった。
空を仰いで探していると、

「凪咲」

と小さく声が放たれた。
囁くような声だったのに、私の体は大袈裟にびくりと反応して「ひゃっ」という高い悲鳴が上がった。
声の方を見ると、玄関先の階段に、朝陽が「しっ」と口元に人差し指を置きながらこちらを見ていた。
およそ二週間ぶりだろうか。
隣に住み始めてこんなに会わない日々は初めてだ。
いつもなら、意識しなくても一日一回は顔を合わせるのに。
久しぶりすぎるのと、二週間前の出来事もあって、一気に緊張が高まった。

「な、何してんの?」
「今日、流星群ってニュースで言ってたから、ちょっと外出てみようと思って」

そう言いながら、朝陽は夜空を仰いだ。

「ほんとはトイレに行きたくなって、そしたら目が冴えてきて」

朝陽は肩を小さく揺らして笑った。

「流星群っていうから、大量の流れ星が流れてくると思ったけど、そうでもないんだね。まだ10分ぐらいしかここにいないけど、まだひとつも見てない」
「そんな恰好で、寒くないの?」

朝陽はパジャマにしているスウェットの上から薄そうなダウンジャケットを羽織って、両手をそのポケットに突っ込んでいる。
足元は、裸足にサンダルだった。

「うん、ちょっと寒いかな」

そう言いながら、ダウンのファスナーを首の一番上まで上げた。
その恰好が、ちょっとダサい。

「凪咲は暖かそうだね。ちゃんと準備してたんだ」
「うん、まあ」
「凪咲は昔からこういうイベントごと好きだもんね。何年に一度のイベントとか、オリンピックとかワールドカップとか。そんなに詳しいわけでもないのに」
「うるさいなあ」

朝陽と久しぶりに話せたのがなんだか嬉しかった。
いつもと何も変わらないやり取りに、自然と頬が緩んだ。
でも、にやけた理由はそれだけじゃない。
朝陽が私のことを、知っててくれたことが嬉しかった。
覚えててくれたことが嬉しかった。
朝陽の心の中にも、私がちゃんといることが嬉しかった。
「とくべつ」になれた気がした。
私は口元が緩むのを誤魔化すように、階段に座った。
そして夜空を眺める朝陽に倣って空を仰いだ。
しばらく眺めていたけど、星はいっこうに流れてこない。
その代わり、朝陽の声が夜空に放たれた。

「あいつ、告られた」
「えっ?」

思わず大きな声が出た。
その声は、静かな夜の空気をどこまでも震わせた。
慌てふためく私の様子を、朝陽はふふっと肩を揺らして笑った。

「彼女じゃないよ」
「え?」
「あいつに告白したのは、学校の、マドンナ」
「な、何それ、マドンナって。何時代?」

私の質問に、朝陽はまたおかしそうに笑う。
肩の揺れがさっきよりも大きくなった。

「別に普通じゃない? 凪咲だって、中学ではマドンナ的存在だったでしょ? 
美人で、明るくて、みんなから頼られて、友達もたくさんいて、人気者で……。つまり、そういうこと」
「別にそんなんじゃ……」

私の場合、もちろん性格もあるけど、朝陽の自慢の幼馴染みでいたかったから、なんというか、それは演出だ。
明るい性格の主人公にツンデレな幼馴染みがいるのはよくある設定だ。
朝陽はツンデレではなく、ただの自信のない地味な男子だったけど。
だけど朝陽に面と向かって「美人」とか「明るい」とか言われると、かなり恥ずかしい。
寒さの中で、頬だけがかあっと熱くなるのが分かった。

「僕の手には、絶対届かない存在だよ」

夜空に放たれた小さな声は、そう言ったような気がした。
だけど、どこまでも広がる真っ暗闇の中を探しても、その声はもうどこにもなかった。

「で、マドンナとはどうなったの?」
「付き合ってる人がいないなら付き合ってほしいって。あいつ、付き合ってる人はいないけど、付き合えないって」

そう言って、朝陽は私の顔をフェンス越しに覗き込む。

「あいつ、付き合ってる人、いない」

そう言った朝陽の顔の背景で、星がきらりと流れたのが見えた気がした。

「そっか。彼女と、まだ付き合ってなかったんだね」
「うん。凪咲の言う通り、付き合ってなくても……その……、ああいうこと、するんだね」

私はちょうど二週間前に朝陽にした行動を思い返した。
頭の血がさっと引いていくのがわかった。
朝陽も勝手に思い出して、自分で言っておきながら、急に気まずそうに言葉を濁した。
でもすぐに、はっきりとした声で言った。

「この間は、ごめん。突き飛ばして。その……肩、痛かったでしょ」
「ああ、ううん、全然平気」

あの時のことを思い出して、さっきまで何ともなかったはずなのに、朝陽に突き飛ばされた部分がズキンと疼いた。

「それに、あんなことさせて、ごめん。僕なんかのために」
「別に、謝ることじゃないよ。あんなの普通だって。それに、私たち、幼馴染みだし」

ほんの少し前みたいに、自信を持って強く言えない自分が今日はいる。

__幼馴染みだったら、ああいうこと、普通にするのかな。

私が心の中で思った疑問に、朝陽は答えてくれた。

「普通じゃないよ。そういうのはやっぱり、大切な人にするもんだよ。……好きな人、とか」

最後の言葉を、朝陽は本当に小さな声で呟くように言った。

「あいつも彼女も、好きだからそうしたんだよ。好きだから、できるんだよ」

__好きだから……。

「凪咲は、違うでしょ?」
「え?」

私に向けられた朝陽の目に、私は戸惑った。

__私が朝陽にあんなことしたのは……、私は、朝陽のことが……

私が何か言う前に、朝陽は真剣な顔で話を戻した。

「あいつ、彼女とは付き合ってないけど、彼女のことは好きだって。僕にはっきりそう言ったんだ」

朝陽の声は震えていた。
寒さだけが原因ではないことぐらい、私にもわかる。

「かつみのくせにさ、恥ずかしげもなくはっきり言うからちょっとムカついて、僕聞いたんだ。彼女がまだ、本田のことが好きだったらどうするって」

私はその答えを、息をするのも忘れて待った。

「そしたらあいつ、それでもいいって。好きだからしょうがないって。それでも彼女のことが、好きなんだって」

その言葉を聞いて、二週間前の朝陽の言葉が再び脳裏をよぎっていく。

__「それでもやっぱり、彼女が好きだから」

思い出して、また胸の辺りがもやりとする。

「そのあと、あいつも僕に聞いたんだ。お前はどうなんだって。もし彼女がまだ、本田のこと好きだったら、お前は諦められるのかって」

その言葉の意味が、私にははじめ理解できなかった。
何度も何度も頭の中で、朝陽が今言った言葉を反芻した。
そしてその意味に行きついたとき、朝陽は私の方に、切なげな目を向けていた。
そして口を半開きにしたままの私に、朝陽が優しい口調で、ゆっくりと丁寧に教えてくれた。

「あいつ、僕が彼女を好きなこと、知ってた」

その報告に、半開きになっていた私の口が、ほんのもう少しだけ開いた。
「はあ……」

これは、私のため息。
眠れなかった。
3人の間を行きかう矢印が絡まって、私の頭の中をぐちゃぐちゃにしていた。
朝陽は彼女のことが「好き」
朝陽とあいつは「友達」
あいつは彼女が「好き」
彼女はあいつが「好き」
朝陽と彼女は……何だろう。
友達? クラスメイト? 好きな人の、友達? 友達の、好きな人?

__私と朝陽は……。

私は四つに折りたたまれたルーズリーフを取り出した。
もう何度見返しただろう。
ルーズリーフはすっかりボロボロになっていた。
「幼馴染み」を消した私たちの名前の間に、矢印はなかった。
その代わり、消しゴムで何度も消した跡が、そこの部分を真っ黒にしていた。
ルーズリーフを睨んで、思い悩んだ末にシャープペンをとった。
そして、もう何度書いたかわからない矢印を、お互いから一本ずつ、丁寧に出した。

朝陽は私のこと……「?」
私は朝陽のこと……。

昼休みになっても、放課後になっても、いつも同じ場所が「?」と空白のままだった。
教科書を見ても正解は書いていない。
先生はこういうことには答えてくれない。
誰だったら教えてくれるんだろう。
何を見たらわかるんだろう。
数学のベクトル問題を解くのと変わらない難しさ。
ただ、私から朝陽に伸びる矢印の空白部分にだけ、シャープペンの芯先で付けられた小さな点々が無数に残されていた。
何度もそこに書きたそうとした言葉。
それに、私はとっくに気づいてた。

__「好きだからそうしたんだよ」

昨夜の朝陽の言葉を聞いて。
いや、その前から。
朝陽の頭を、大事に抱えたあの夜から。
あの夜を思い出せば、その感覚は呼んでもいないのにやってくる。
それはいつから私の中にあったのだろう。
いつの間に芽生えていたのだろう。
その気持ちの名前を、私はもう知っている。
だから、ここの部分は、本当はもうとっくに埋められるはずなのに。
その答えを書くのが怖いから、わからないふりをしている。
書いた瞬間に傷つく自分に出会うから。
だからいつまでも、空欄のままだった。
ぼんやりと空を眺めていると、星がキラキラと輝いていた。
珍しく満天の星空だった。
あの流星群の日よりも、はるかに美しい星空だった。
だけど、空に輝く星にさえ、私は星座ではなく3人の関係図を結んでしまう。
そこにポツンと佇む、私の星。
どの星とも結ばれない、小さくて、見つけてもすぐにどれだかわからなくなってしまうような星。
「はあ……」と今日何度目かのため息をついたとき、園田家の扉が開いた。

「あれ?凪咲、今日は早いね」
「え?うん、まあ……」

朝陽はスウェットに厚手のパーカーを羽織っている。
何だかもこもこしていて、やっぱりダサい。
ファッションセンスも、平凡よりちょっと下なのだ。

「星、きれいだね」

朝陽は夜空を仰いでそう言った。
女子にかける言葉選びのセンスとしては、合格だ。
朝陽の言葉に、もう一度空を仰ぎなおした。
しばらく何も言わず、二人で空を眺めていると、いつものように、星空の中に朝陽の声が放たれた。

「告白、したよ」
「……へ?」

私の思考も、心臓も、息も、その一言で一瞬止められた。
でも朝陽は、そんな私を気にもとめていない様子だった。
その続きを、言おうともしなかった。

「……え?で、どうなったの?」
「付き合うことになったよ、……あいつと、彼女」

最後に付け足された答えに、止まっていた私の呼吸がはーっと吐き出されて再開した。

「あいつ、空気みたいにすーっと彼女に近づいていって、歩きながら二人で何か話して、途中彼女が立ち止まって、泣いているように見えたから、僕、泣かせたら絶対許さないって思ったんだ。飛び出していく勇気なんて、僕にはないんだけど。でもその時は、行けそうな気がしたんだ。でも僕が決断する前に、あいつ、めちゃめちゃ自然に彼女の手を握ったんだ。それでそのまま、歩いていった」
「告白するとこ、見てたの?」
「うん、見てたよ。告白して、二人の気持ちが通じ合って、付き合い始めた瞬間」

朝陽は平然とそう言った。
その目は夜空を見ているんだけど、見ているのは星じゃなくて、もっと他の何かを思い描いているようだった。

「朝陽は、それでいいの?」

__「しょうがないじゃん」

いつもの朝陽なら、きっと情けない顔してそう答えるだろう。
だけど私はわかっていた。
朝陽はもう、私の知っている朝陽じゃない。

「ダメだよ」

朝陽は短く、低い声でそう言った。

「あいつ、告白する前に僕に聞いたんだ。ほんとに告白していいのかって。だから僕、言ってやったんだ、「だめ……」って」

「だめ」の声だけ、微かに震えたのがわかった。
その声に、私の心まで震えだす。

「ダメに決まってんじゃん。なんでそんなこと聞くんだよ。ダメに決まってんのに、どうして行くんだよ。僕がダメって言っても行くくせに、なんでわざわざ聞くんだよ。なんで僕の気持ち知ってて告白しに行くんだよ。なんで付き合うんだよ」

そう言いながら、朝陽は膝小僧にうずもれていく。
膝小僧から洩れる朝陽の悲痛な声が、私の胸まで締め付ける。

「なんであいつなんだろう。僕の方が先に彼女のそばにいたのに。出席番号だって前後で、サッカー部で、存在感薄くて、イケメンでもないのに。僕と同じなのに」
「……そう、だね」

思わず小さな声が漏れだした。
同情じゃない。
慰めでもない。
私も、朝陽と同じだから。

どうして朝陽の好きな人は、いつも私じゃないんだろう。
私は幼馴染みなのに、家も隣同士なのに、毎日こうして話しているのに。
朝陽のことは、私が一番よくわかっているのに。
私の体がまた疼き始める。
あの時みたいに、腕を伸ばしたくなる。
そのもさもさとした髪に触れたくなる。
頼りない背中や肩に、そっと触れたくなる。
フェンスの向こうの、特別な人に。

「はあ……カッコ悪」

__イケメンじゃなくても、一生懸命リフティング練習している朝陽はかっこよかったよ。
いまだに下手くそだけど。


「なんか、情けない」

__当たり前の親切を地味にできる優しさがあるの、知ってるよ。
それ、誰でもできるわけじゃないから。


「諦めなきゃって、頭ではわかってるんだよ」

__高校受験のために、パッとしない成績をぐっとあげるための地道な努力をしてたのも見てたよ。
ほんとは頭いいんだよ、使う分野が違うだけで。


「だけどやっぱり、無理なんだ」

__ネガティブなりの諦めの悪さ、嫌いじゃないよ。


私は朝陽のこと、ちゃんと見てるよ。
いつもそばにいるよ。
これからも、朝陽のこと見てるよ。
私は朝陽のこと、特別な存在だと思ってるよ。
だから__

「私が、いるじゃん」
「……え?」
「朝陽のそばには、私がいるじゃん」
「……凪咲?」
「朝陽にはいいとこいっぱいあるよ。それを一番わかってるのは、私じゃん。
小さい頃からずっと一緒にいて、朝陽のことずっと見てきたんだから。だから、そんな恋、もう忘れてさ、もういっそ……私と、付き合っちゃえば?」

玄関の温かなライトに照らされた朝陽の目が一瞬大きくなった。
何でもないふりして、明るく勢いつけて言ったけど、本当は恥ずかしくて、心臓はバクバクしていた。
勢いは、勇気だ。
寒いのに、顔だけがかあっと熱くなってくる。
それを表に出さないように平静を装って、私は朝陽の視線から逃げない準備をした。
口元がまだ何か言いたげに、ふるふると震える。
それはもしかしたら言い訳かもしれない。
自分の気持ちを誤魔化す準備なのかもかもしれない。
だから、その口をぐっと結んだ。
これ以上、何も出てこないように。
出てきてほしいのは、もっと、別の言葉。

朝陽はしばらくそのまま固まっていたけど、ふっと鼻から小さく息を吐いて肩をガクンと落とした。

「え? なんでそうなるの?」
「だって、私たち、幼馴染みだし」
「だからって付き合うって……、好きでもないのに?」

真正面から受けたその言葉に、顔中の熱がさーっと引いていくのが分かった。
動揺している自分を誤魔化そうと、私は早口で朝陽に言った。

「幼馴染みの恋愛にはよくあるパターンだよ。好きかどうかわからないなら、一回付き合ってみるパターン。そこから少しずつ相手のこと恋愛対象として見始めて、やっぱり自分の運命の相手はこの人だったんだなって気づく感じ。大切な人は、自分の一番近くにいる的な」

__そんなめちゃめちゃで、チンプンカンプンな幼馴染みのパターン、今までお目にかかったことはない。

「恋愛って、好きから始まるとは限らないでしょ? 幼馴染みの恋はその代表格だよ」
「そういうもん?」
「そういうもんだよ」

「へえ……」と朝陽は私から視線を夜空に向ける。
朝陽はぼんやりと空を眺めるだけで、何を考えているのかさっぱりわからなかった。
私の鼓動だけが、静かな夜の空気をうるさく揺する。

「でも……」

冷たい空気の中で、朝陽の声が震えた。

「それはやっぱり、違うよ」

朝陽が切なげな目を再び私の方に向けた。

「そういうのって、普通、好きな人でしょ?」

朝陽の目が、少しだけ厳しくなる。

「凪咲は、違うの?付き合うなら、好きな人じゃないの? 誰でもいいの?」

__そんなわけない。

誰でもいいわけないのに。
私には、朝陽しかいないのに。
それはもう、幼馴染みだからじゃない。

「だからそれは、これから好きになっていけばいいんじゃん。私たちもう10年以上一緒にいるし、毎日のようにこうして話してるし、お互いのことよくわかってるし。少なくとも、一目惚れして、まともに話したこともない彼女よりは全然付き合いやすいし、恋に発展しやすいと思わない?」

朝陽は少しぽかんとしていたけど、ふっと大人びた笑顔をせた。
 
「そんなんありえないよ。だって僕たち、ただの幼馴染みだよ」

__ただの、幼馴染み……

「そりゃあ僕たちいつも一緒にいるし、こうやって話したり、中学までは一緒に帰ったりもしてたけど、それはたまたま家が隣同士だからってだけで……。それに凪咲だって、僕と一緒にいて冷やかされたりするたびに言ってたじゃん、「そんなんじゃない」って。「ただの幼馴染みだ」って」

__それは、幼馴染みの恋では定番のセリフじゃん。

「それに、凪咲が親しくする男子って、いつも僕とは正反対の見た目と性格じゃん。同情や慰めで、無理してタイプでもない僕と付き合うことないよ」

__それは、嫉妬してほしかったからだよ、朝陽に。
幼馴染みの恋に嫉妬はつきものだから。

「凪咲は明るいし、誰とでも仲良くできるし、しっかり者だし……美人だし。僕とは全然釣り合わないよ。凪咲は、マドンナだから。僕の手の届く相手じゃない。凪咲が僕と付き合うなんて、僕なんかを好きになるなんて、ありえないでしょ」

朝陽が力なく笑って言った。

「じゃあ、朝陽は?」

私の口から、吐き出された声は思いのほか小さかった。
だけどその声を朝陽はちゃんと拾い上げて、優しい目を私に向けた。

「朝陽は、私のこと、好きだったことはないの?」
「え?」
「朝陽はこの11年、一瞬でも私のこと好きだったことはないの?」

少しずつ強く大きくなる声は、その分だけ震えていた。
カタカタとなる歯を食いしばって、震えを何とか抑えた。
そんな必死な私の姿にきょとんとした顔を向ける朝陽の答えが、私にはもうその表情でわかるような気がした。
朝陽はふっと力を抜いて、穏やかな微笑みで私に言った。

「あるわけないじゃん」

朝陽の口元から、白い吐息がふわっと出てきた。
その吐息は、真っ黒な闇の中にさらさらっと消えていく。

「凪咲だって、僕を好きだったことなんてないでしょ?」

まるで当たり前のように、朝陽は私に聞いた。

「僕たちは、ただの幼馴染みなんだから」

朝陽はまたそう言って、小さな私の、幼いままの恋心にさっと傷をつけた。

「確かに凪咲と付き合ったら、凪咲は自慢の彼女だけど。凪咲には、もっとカッコよくて頭も良くて、優しくて、凪咲をいつも守れるような相手が相応しいよ。僕みたいな地味で、情けなくて、いるのかいないのかもわからないような頼りない男子じゃなくて。そもそも、僕と凪咲は幼馴染みって感じじゃないよね。凪咲が言うような、恋に発展しちゃう関係でもないし。「友達」は……男女間では成立しないって言うし」

__だったら、私たちの関係って、なに?

その答えを、朝陽はおかしそうに笑いながら、さらりと言った。

「結局僕たちは、お隣さん、だね」
「……おとなり、さん」

胸の真ん中を、冷たい風がさーっと貫いていく。
その部分が、かなり痛い。
息が吸えない。
いや違う、息が吐けない。
もうどっちでもいい。
指先から順番にカタカタと体が震え始める。
その震えを抑えようと、私は自分の手を、自分で温めるように力強く握りしめた。
その手を優しく包み込んで温めてくれる人は、こんなに近くにいると思っていたのに。
その相手は、どこかすがすがしい顔で、夜空を見上げている。
切なげな朝陽の目が、目を見張らないと分からないような小さな小さな星をとらえる。
朝陽はまるでその小さな星に囁きかけるように、切ない声で言った。

「僕、やっぱり彼女じゃなきゃ、ダメだな。たとえ好きな人がいても、彼氏がいても、それが友達だったとしても、僕はやっぱり、彼女のことが、好きだ」

さっきまでなかった風が吹き始めた。
その風は私の体や頬を冷たく切り付けるように流れていく。
それなのに、朝陽は顔色ひとつ変えずに、その風に吹かれている。

「どうしてかな、いつもならすぐに諦められるのに。凪咲の一声で、僕はいつだってその恋に線引きしてきたのに。だけど、今回は違うんだ。一目惚れだからかな。一瞬で「この子だ」って思ったからかな。こんなの、初めてだから。僕の人生にもこんな運命的な出会いがあるんだね。そんなの、これからの人生で、もうないかもしれないでしょ、こんな僕に。だから、諦めたくないのかも」

そう言って照れながら笑う。
これもまた、初めて見る朝陽の表情。
私の知らない朝陽が、溢れ出ている。
こんなに一緒にいるのに、私はまだ、朝陽のこと、何も知らない。

「それとも、彼女が好きになった相手が、あいつだからかな」

__朝陽と似ていて、朝陽とどこか違う、しかも全然違う、「あいつ」……だから。

「凪咲だったらどうする?」

不意に朝陽が聞いた。

「好きな人に、他に好きな人がいたら、凪咲だったらどうする?」

穏やかで優しくて弱々しい朝陽の笑顔が、月明かりの下で切なく、寂しげに映る。

「……私は……」

小さく放たれた私の声は、ヒューッと音を立てた風に連れ去られていく。
まるで、その続きを言わせまいと、意地悪しているみたいに。
だから朝陽は、

「なんか寒くなってきたね」

そう言って両手で体をさすりながら立ち上がった。

「凪咲ももう中入りなよ。風邪ひくよ」

そうして私に背中を向けた。
その背中を、私はじっと目で追った。

__朝陽。

その名前を呼びたいのに、呼び止めたいのに、声が出なかった。
喉がぐっと締め付けられて、声が出てこない。
体が震えて、勝手に歯がカタカタと鳴った。
喉元から込み上げるものが鼻の方に向かって、情けなくたらたらと流れ出てくる。
鼻が詰まって、息が吸えない。
濡れた目元が、風に痛い。

「じゃあ、おやすみ」

朝陽の頼りない背中がドアの向こうに消えようとしている。
その背中を追いかけるように、私も立ち上がる。
声にならないのに、心の声ばかりがあふれ出がる。

__私には、朝陽しかいない。
 朝陽じゃなきゃ、ダメなんだ。

イケメンじゃなくていい。
地味でもいい。
優しい爽やか王子様じゃなくてもいい。
頼もしいワイルドな俺様じゃなくてもいい。
もう、幼馴染みじゃなくてもいい。
ただのお隣さんでもいい。
他に好きな人がいてもいい。
諦められなくてもいい。

私の「とくべつ」は、今も、朝陽だけ。

「私は……」

ようやく出せた声に、もう朝陽は気づいてくれない。
それでも私は、声を振り絞る。
諦めの悪さは、きっと、あいつにも、朝陽にも、負けない。

だから私は、それでもやっぱり……

「朝陽が、好き」

扉がパタンと閉まる音が、私のその小さな声に重なった。

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