「ただいまー。あーお仕事頑張ってきたー」
いつも通り元気な声を出して、カノジョが帰ってきた。ぐだぁーと今にも玄関にも倒れ込みそうな勢いだ。ていうか、普通にバタンと倒れやがった。
チラチラと頭を動かして見てくる。どうやら助けに来て欲しいらしいが、俺は動かなかった。
「もうぉー。労いの言葉さえなしですか……」
床に手を付き、むくりとゾンビみたいに立ち上がった。ほっぺたを膨らませ、わざとらしく疲れたーと呟いてきた。だが、俺は何も言葉を掛けなかった。
「何か不満でもあるの? 何か私悪いことした?」
自分の行動を振り返っているのか、目が斜め上向きになる。真剣に考えているのか、うーん、うーんと頭を捻らせて唸っている。それでも結論が出なかったのか、カノジョはキッチンへと向かい、手洗いうがいを行った。家に帰ると真っ先に行うルーチンである。
本来ならば、玄関を開けた瞬間に俺に抱きつきたいんだと。
でも、外で汚いものを触ってきた手では触れられないんだとさ。
石鹸を泡だてゴシゴシと指と指の間まで洗い切ったカノジョは満面の笑みを浮かべて近寄ってきた。
迷うことなく、一目散に。抱きしめて欲しい一心に。
だが、真実を知った俺が受け入れるはずがない。
「触るな」
両手を伸ばして迫ってくるカノジョの手を振り払う。
「えっ……?」
もう一度両手を広げてくるが、抱きしめるはずがない。
それから何度も何度も試みてくるが、結果は同じ。
バチンバチンと痛そうな音が部屋の中を包み込むのみ。
「どうしてイジワルするの? 私の楽しみを奪うなんて酷いよ」
拒絶の意を示されるとは思ってもなかったのだろう。
知らない土地に一人で立ち尽くす人みたいだ。
と、カノジョは何か異変に気付いたのか、顔色を変えて。
「あれ……変な臭いがする。誰か家に入れたでしょ?」
「母親を入れたよ」
「どうしてそんなことするのッ!?」
今までに見たことがないほどの怖い顔。睨むことは一切ないのだが、何か恐ろしいことを企んでそうな。得体の知れない恐怖。
立ち竦む足を叩き、俺は逃げも隠れもせず、対峙することにした。
「お前は白川結奈じゃない。彼女はもう死んだんだ」
「生きてるよ、ここに居るじゃん。目の前に居るじゃん」
そう言って、自称白川結奈は笑みを浮かべて腕を伸ばしてきた。
が、徐々に崩れていく。笑みが。表情が。切羽詰まったかのように。
自分が養ってきた男が全く動かない事実に対面してしまって。
まるで愛していたペットが命令に反した行動をしたかのように。
「そっかそっかそっかそっか……全部バレちゃったんだ、あはは」
はああぁーと深い溜め息。数秒間にも数十秒間にも聞こえた。
それからカノジョは頭を抱えて。
「あはああはあははあははあははあははは」
狂ったかのように笑い始めた。耳に残る異様な甲高い声で。頭をガシャガシャと掻いて。手元にあったティッシュを何枚も何枚も引っ張り出して。
空を舞う白い紙切れが全て床に落ちると。
突然、笑いは止まった。何の前触れもなく、唐突に。
カノジョはゆっくりと立ち上がり、小首をぐにゃりと曲げて。
「だから? 何か問題があるの?」
そう吐き捨て、俺との距離を一歩進めてきた。何事もなかったかのように。
「はぁ……? お、お前……な、何を言ってるんだよ」
顔が引きつる。指に感覚が殆どない。恐怖から来たものだ。
肌に突き刺さるような謎の痺れ。震えは全く治らず、俺はもうたじたじ状態。
「こっちに来るな……ど、どうして……お前こっちに来てるんだよ」
「だって、あたしたち夫婦だもん。離れたらダメでしょ?」
当然の如く、うふふと不気味に微笑むカノジョ。空気がどんよりと重く感じた。本能が訴えている。この場から逃げ出した方が良いと。
「狭い部屋の中で鬼ごっこでもするつもりなのかなー?」
一人暮らし専用のワンルーム。一番距離が取れる壁際にまで走った。
と言えど、これで問題が解決したわけでない。逃げ場は何処にも無い。
肌が異様に白い女の後方に玄関があるのだ。窓を開けて、飛び降りるか。
いや、無理だ。ここは四階。即死を免れても、後遺症が確実に残る。
「一体誰だ? 名前を教えろ、名前を」
一番の疑問をぶつけてみると。
「白川結奈だよ」
悪気を一切見せることなく、淡々と答えてきた。
怒りを示す俺に対し、不思議そうな瞳で見据えてくる。
「違う。お前の本当の名前だ。一体何者なんだよ」
「————」
俺の意図を掴んだのか、カノジョは本当の名前を教えてくれた。
『好きです。佐藤一樹くんのことが大好きです』
カノジョ——生まれて初めて告白してくれた女の子。
『お前が消えれば、佐藤くんはあたしのものなんだ』
そして、何はともあれ、俺と白川結奈が結ばれる機会をくれた人物。
「う、嘘だろ……ど、どうして……お、お前が」
数十秒間に及び黙り込み、そして思わず声を漏らしていた。
目前に居るカノジョと、俺の記憶に蘇るカノジョが全くの別人だから。
「整形したんだよ。一樹くんに認められる為に。頑張ったの」
カノジョは、俺と白川結奈が結ばれることを望んでいたらしい。
高校を退学する結果になったとしても、自分が大好きな人が幸せになってくれればそれで良いと思っていたそうだ。けれど、突如起きた不慮の事故。
誰も予想が付かなかった白川結奈の死。
それを機に、次第に壊れていく俺を見て、カノジョは思ったそうだ。
『あたしが……白川結奈になればいいんだ。あたしが幸せにすれば』と。
元々、勉強だけは優秀だったらしく、現役で旧帝大学に合格。大学在学中に水商売を始め、終いにはお金を稼ぐ為に、自らの体さえも売りに出してしまったらしい。
それもこれも白川結奈へと変わる為に。
もう俺を悲しませない為に。俺を幸せにする為に。
たとえ、カノジョの家族から絶縁を申し付けられたとしても。
『お願いします。白川結奈みたいな顔にして下さい』
欺くして、カノジョは整形し、新たな自分へと生まれ変わったのだ。
『だぁーれだぁ?』
そして、俺の前に姿を現したのだ。白川結奈を名乗って。
久々の再会を装って。更には、わざわざ隣の部屋までもを借りて。
全てが運命だと主張するかの如く。
全てを計算し尽くした状態でカノジョは俺に会いに来たのだ。
「狂ってるよ。イカれてるよ……普通そこまでするかよ」
「頭……おかしい? そうかな? 普通の女の子は好きな人が喜んでくれるなら、どんなことでもやってのけると思うんだけどなぁー」
「普通の女の子は成り済ます為に整形なんてしない」
「ただあたしは一樹くんが好きなだけ。喜ばせたかったの」
この女は加減を知らないのだ。善意だけで動いているのだ。
心の底から俺が喜んでくれると思って、行動しているのだ。
それで——と続けるカノジョに向かって、俺は大声で叫んだ。
「俺が喜ぶと思ったか! ずっと騙されてたんだぞ」
白川結奈の死を受け止められなかった俺は自分の記憶を改竄した。
自分の隣には居なくても、最愛の彼女が俺の知らない場所で俺の知らない誰かと共に笑顔溢れる平穏な暮らしをしている世界を夢想していたのだ。彼女が生きていると思い込みたかったのだ。
だが、その隙を突かれた。
「騙したんじゃないよ。優しい嘘で包み込んだだけだよ」
「普通に会いに来れば良かっただろ……普通に励ましてくれれば」
俺もカノジョも間違っていた。彼女の死を受け入れ、前へと突き進むべきだったのだ。そして、カノジョも白川結奈と名乗ることもなく、普通に俺の元へ会いに来れば良かったのだ。それだけで俺とカノジョは幸せになれたかもしれないのに。それなのに——。
「なら、ブスなあたしを愛してくれた? 選んでくれた? してないよね? あのとき、あたしを拒絶したでしょ。愛してくれなかったよね。白川結奈が好きだからと言って断ってきたよね。あたしがブスだから、あたしが可愛くないから選んでくれなかったよね?」
言い淀む。カノジョの言葉は図星だった。全て正しかった。
当時の醜い顔だったなら、俺はわざわざ食事に付いて行っただろうか、わざわざ自分の部屋まで上げただろうか、何よりもカノジョと一夜を共にすることがあっただろうか。全て無かっただろう。
暫くの間、長い沈黙が訪れた。
先に切り出したのは、カノジョだった。
ごめんね、と軽く謝ってきたのだ。
それから何か言葉が続くのかと思いきや、今までのことが何も無かったのかのように平然と喋りかけてきた。
「それでさ、今日の夕飯はどうするー? 今週末はさ、一緒に水族館とか行くのはどうかなー? ねぇーねぇーどうする?」
「お、お前……な、何言ってるんだよ。普通……俺たち……」
「騙したと言われても仕方ないことをしたのは事実だけどさ」
一度言葉を止めて、カノジョはニッコリと笑みを浮かべて。
「私と居て楽しかったでしょ? 幸せだったでしょ? ならそれで良いじゃん。何も迷うことないじゃん」
「お、俺は……き、記憶を取り戻して——」
俺の言葉は呆気なく遮られてしまった。
「記憶が元に戻ったなら、もう一度記憶を消しちゃえばいいじゃない? 協力するよ。次はさ、もうあたしと一樹くんが最初から付き合ってたように自己暗示掛けようよ。大丈夫だよ、痛くしないから」
「俺は……俺は……白川結奈が好きなんだ……彼女が好きなんだよ」
「もう死んでるじゃん。アイツ、もうこの世界から居ないじゃん」
「そ、それでも……お、俺は……俺は……結奈が」
「良いことを教えてあげるよ、一樹くん」
そう言って、カノジョは俺の首へと白い腕を掛けてきた。
もう逃げられないようにと軽めに締めながら。
尚且つ、端正な顔を俺の耳元まで近付けて。
「死んだ人間はね、生きてる人間を不幸にすることはあっても、幸せにすることはできないんだよ。だって、アイツら何もできないんだからさ」
小馬鹿にする言い方だった。
それから俺の顔を覗き込むように見つめてきた後。
それに引き換え、と小さな声で呟いて。
「あたしなら幸せにできるよ。一樹くんが求めるなら、どんなことだって何でも頑張れちゃう可愛いお嫁さんだよ」
目と目が合う。濁り切っていた。下水みたいだ。
だが、カノジョは表情だけで笑みを作った。
瞳は全く笑ってない青白い顔を近付け、そのまま無理矢理キスをしてきた。
「もう忘れちゃおう。あの女のことなんて。もうあたしに乗り換えてよ。
一樹くんが苦しむ姿は……も、もう見たくないんだよ。あたしが幸せにするから。一生掛けて面倒を見るから」
だからさ、と呟き、カノジョは星空が消えた夜空みたいな瞳で縋ってきた。もう救いの手が、俺しか居ないみたいに。
「ねぇー選んで、あたしを。あたしも一樹くんを一人にしない。その代わり、一樹くんもあたしを一人にしないで……あたし、全部全部捨てたんだよ。家族も体も……全部全部捨てた。だからさ、愛して……あたしも愛してあげるから。あの女よりも、あたしの方が絶対に……絶対に……愛してあげるから……だ、だからひ、一人にしないで……お願い。頑張ったあたしを……今まで頑張ってきたあたしを……選んでよ。お願いだからァ」
いつも通り元気な声を出して、カノジョが帰ってきた。ぐだぁーと今にも玄関にも倒れ込みそうな勢いだ。ていうか、普通にバタンと倒れやがった。
チラチラと頭を動かして見てくる。どうやら助けに来て欲しいらしいが、俺は動かなかった。
「もうぉー。労いの言葉さえなしですか……」
床に手を付き、むくりとゾンビみたいに立ち上がった。ほっぺたを膨らませ、わざとらしく疲れたーと呟いてきた。だが、俺は何も言葉を掛けなかった。
「何か不満でもあるの? 何か私悪いことした?」
自分の行動を振り返っているのか、目が斜め上向きになる。真剣に考えているのか、うーん、うーんと頭を捻らせて唸っている。それでも結論が出なかったのか、カノジョはキッチンへと向かい、手洗いうがいを行った。家に帰ると真っ先に行うルーチンである。
本来ならば、玄関を開けた瞬間に俺に抱きつきたいんだと。
でも、外で汚いものを触ってきた手では触れられないんだとさ。
石鹸を泡だてゴシゴシと指と指の間まで洗い切ったカノジョは満面の笑みを浮かべて近寄ってきた。
迷うことなく、一目散に。抱きしめて欲しい一心に。
だが、真実を知った俺が受け入れるはずがない。
「触るな」
両手を伸ばして迫ってくるカノジョの手を振り払う。
「えっ……?」
もう一度両手を広げてくるが、抱きしめるはずがない。
それから何度も何度も試みてくるが、結果は同じ。
バチンバチンと痛そうな音が部屋の中を包み込むのみ。
「どうしてイジワルするの? 私の楽しみを奪うなんて酷いよ」
拒絶の意を示されるとは思ってもなかったのだろう。
知らない土地に一人で立ち尽くす人みたいだ。
と、カノジョは何か異変に気付いたのか、顔色を変えて。
「あれ……変な臭いがする。誰か家に入れたでしょ?」
「母親を入れたよ」
「どうしてそんなことするのッ!?」
今までに見たことがないほどの怖い顔。睨むことは一切ないのだが、何か恐ろしいことを企んでそうな。得体の知れない恐怖。
立ち竦む足を叩き、俺は逃げも隠れもせず、対峙することにした。
「お前は白川結奈じゃない。彼女はもう死んだんだ」
「生きてるよ、ここに居るじゃん。目の前に居るじゃん」
そう言って、自称白川結奈は笑みを浮かべて腕を伸ばしてきた。
が、徐々に崩れていく。笑みが。表情が。切羽詰まったかのように。
自分が養ってきた男が全く動かない事実に対面してしまって。
まるで愛していたペットが命令に反した行動をしたかのように。
「そっかそっかそっかそっか……全部バレちゃったんだ、あはは」
はああぁーと深い溜め息。数秒間にも数十秒間にも聞こえた。
それからカノジョは頭を抱えて。
「あはああはあははあははあははあははは」
狂ったかのように笑い始めた。耳に残る異様な甲高い声で。頭をガシャガシャと掻いて。手元にあったティッシュを何枚も何枚も引っ張り出して。
空を舞う白い紙切れが全て床に落ちると。
突然、笑いは止まった。何の前触れもなく、唐突に。
カノジョはゆっくりと立ち上がり、小首をぐにゃりと曲げて。
「だから? 何か問題があるの?」
そう吐き捨て、俺との距離を一歩進めてきた。何事もなかったかのように。
「はぁ……? お、お前……な、何を言ってるんだよ」
顔が引きつる。指に感覚が殆どない。恐怖から来たものだ。
肌に突き刺さるような謎の痺れ。震えは全く治らず、俺はもうたじたじ状態。
「こっちに来るな……ど、どうして……お前こっちに来てるんだよ」
「だって、あたしたち夫婦だもん。離れたらダメでしょ?」
当然の如く、うふふと不気味に微笑むカノジョ。空気がどんよりと重く感じた。本能が訴えている。この場から逃げ出した方が良いと。
「狭い部屋の中で鬼ごっこでもするつもりなのかなー?」
一人暮らし専用のワンルーム。一番距離が取れる壁際にまで走った。
と言えど、これで問題が解決したわけでない。逃げ場は何処にも無い。
肌が異様に白い女の後方に玄関があるのだ。窓を開けて、飛び降りるか。
いや、無理だ。ここは四階。即死を免れても、後遺症が確実に残る。
「一体誰だ? 名前を教えろ、名前を」
一番の疑問をぶつけてみると。
「白川結奈だよ」
悪気を一切見せることなく、淡々と答えてきた。
怒りを示す俺に対し、不思議そうな瞳で見据えてくる。
「違う。お前の本当の名前だ。一体何者なんだよ」
「————」
俺の意図を掴んだのか、カノジョは本当の名前を教えてくれた。
『好きです。佐藤一樹くんのことが大好きです』
カノジョ——生まれて初めて告白してくれた女の子。
『お前が消えれば、佐藤くんはあたしのものなんだ』
そして、何はともあれ、俺と白川結奈が結ばれる機会をくれた人物。
「う、嘘だろ……ど、どうして……お、お前が」
数十秒間に及び黙り込み、そして思わず声を漏らしていた。
目前に居るカノジョと、俺の記憶に蘇るカノジョが全くの別人だから。
「整形したんだよ。一樹くんに認められる為に。頑張ったの」
カノジョは、俺と白川結奈が結ばれることを望んでいたらしい。
高校を退学する結果になったとしても、自分が大好きな人が幸せになってくれればそれで良いと思っていたそうだ。けれど、突如起きた不慮の事故。
誰も予想が付かなかった白川結奈の死。
それを機に、次第に壊れていく俺を見て、カノジョは思ったそうだ。
『あたしが……白川結奈になればいいんだ。あたしが幸せにすれば』と。
元々、勉強だけは優秀だったらしく、現役で旧帝大学に合格。大学在学中に水商売を始め、終いにはお金を稼ぐ為に、自らの体さえも売りに出してしまったらしい。
それもこれも白川結奈へと変わる為に。
もう俺を悲しませない為に。俺を幸せにする為に。
たとえ、カノジョの家族から絶縁を申し付けられたとしても。
『お願いします。白川結奈みたいな顔にして下さい』
欺くして、カノジョは整形し、新たな自分へと生まれ変わったのだ。
『だぁーれだぁ?』
そして、俺の前に姿を現したのだ。白川結奈を名乗って。
久々の再会を装って。更には、わざわざ隣の部屋までもを借りて。
全てが運命だと主張するかの如く。
全てを計算し尽くした状態でカノジョは俺に会いに来たのだ。
「狂ってるよ。イカれてるよ……普通そこまでするかよ」
「頭……おかしい? そうかな? 普通の女の子は好きな人が喜んでくれるなら、どんなことでもやってのけると思うんだけどなぁー」
「普通の女の子は成り済ます為に整形なんてしない」
「ただあたしは一樹くんが好きなだけ。喜ばせたかったの」
この女は加減を知らないのだ。善意だけで動いているのだ。
心の底から俺が喜んでくれると思って、行動しているのだ。
それで——と続けるカノジョに向かって、俺は大声で叫んだ。
「俺が喜ぶと思ったか! ずっと騙されてたんだぞ」
白川結奈の死を受け止められなかった俺は自分の記憶を改竄した。
自分の隣には居なくても、最愛の彼女が俺の知らない場所で俺の知らない誰かと共に笑顔溢れる平穏な暮らしをしている世界を夢想していたのだ。彼女が生きていると思い込みたかったのだ。
だが、その隙を突かれた。
「騙したんじゃないよ。優しい嘘で包み込んだだけだよ」
「普通に会いに来れば良かっただろ……普通に励ましてくれれば」
俺もカノジョも間違っていた。彼女の死を受け入れ、前へと突き進むべきだったのだ。そして、カノジョも白川結奈と名乗ることもなく、普通に俺の元へ会いに来れば良かったのだ。それだけで俺とカノジョは幸せになれたかもしれないのに。それなのに——。
「なら、ブスなあたしを愛してくれた? 選んでくれた? してないよね? あのとき、あたしを拒絶したでしょ。愛してくれなかったよね。白川結奈が好きだからと言って断ってきたよね。あたしがブスだから、あたしが可愛くないから選んでくれなかったよね?」
言い淀む。カノジョの言葉は図星だった。全て正しかった。
当時の醜い顔だったなら、俺はわざわざ食事に付いて行っただろうか、わざわざ自分の部屋まで上げただろうか、何よりもカノジョと一夜を共にすることがあっただろうか。全て無かっただろう。
暫くの間、長い沈黙が訪れた。
先に切り出したのは、カノジョだった。
ごめんね、と軽く謝ってきたのだ。
それから何か言葉が続くのかと思いきや、今までのことが何も無かったのかのように平然と喋りかけてきた。
「それでさ、今日の夕飯はどうするー? 今週末はさ、一緒に水族館とか行くのはどうかなー? ねぇーねぇーどうする?」
「お、お前……な、何言ってるんだよ。普通……俺たち……」
「騙したと言われても仕方ないことをしたのは事実だけどさ」
一度言葉を止めて、カノジョはニッコリと笑みを浮かべて。
「私と居て楽しかったでしょ? 幸せだったでしょ? ならそれで良いじゃん。何も迷うことないじゃん」
「お、俺は……き、記憶を取り戻して——」
俺の言葉は呆気なく遮られてしまった。
「記憶が元に戻ったなら、もう一度記憶を消しちゃえばいいじゃない? 協力するよ。次はさ、もうあたしと一樹くんが最初から付き合ってたように自己暗示掛けようよ。大丈夫だよ、痛くしないから」
「俺は……俺は……白川結奈が好きなんだ……彼女が好きなんだよ」
「もう死んでるじゃん。アイツ、もうこの世界から居ないじゃん」
「そ、それでも……お、俺は……俺は……結奈が」
「良いことを教えてあげるよ、一樹くん」
そう言って、カノジョは俺の首へと白い腕を掛けてきた。
もう逃げられないようにと軽めに締めながら。
尚且つ、端正な顔を俺の耳元まで近付けて。
「死んだ人間はね、生きてる人間を不幸にすることはあっても、幸せにすることはできないんだよ。だって、アイツら何もできないんだからさ」
小馬鹿にする言い方だった。
それから俺の顔を覗き込むように見つめてきた後。
それに引き換え、と小さな声で呟いて。
「あたしなら幸せにできるよ。一樹くんが求めるなら、どんなことだって何でも頑張れちゃう可愛いお嫁さんだよ」
目と目が合う。濁り切っていた。下水みたいだ。
だが、カノジョは表情だけで笑みを作った。
瞳は全く笑ってない青白い顔を近付け、そのまま無理矢理キスをしてきた。
「もう忘れちゃおう。あの女のことなんて。もうあたしに乗り換えてよ。
一樹くんが苦しむ姿は……も、もう見たくないんだよ。あたしが幸せにするから。一生掛けて面倒を見るから」
だからさ、と呟き、カノジョは星空が消えた夜空みたいな瞳で縋ってきた。もう救いの手が、俺しか居ないみたいに。
「ねぇー選んで、あたしを。あたしも一樹くんを一人にしない。その代わり、一樹くんもあたしを一人にしないで……あたし、全部全部捨てたんだよ。家族も体も……全部全部捨てた。だからさ、愛して……あたしも愛してあげるから。あの女よりも、あたしの方が絶対に……絶対に……愛してあげるから……だ、だからひ、一人にしないで……お願い。頑張ったあたしを……今まで頑張ってきたあたしを……選んでよ。お願いだからァ」