きちんと片づいたリビング。壁には車のカレンダー。出窓には車の模型。車が好きなんだ……初めて知った。
 机の上のパソコンは起動していて、書きかけの文書が表示されている。仕事していたのかな?
 示された座布団にそっと座る。彼はあたしの前に、ペットボトルから注いだコーラの入ったコップを置いてくれる。
 部屋全体に嗅いだ事のない匂い。男の人の部屋の匂い。これが、彼の部屋の匂い。なんだか、不思議な感じ……。

「えっと……」
「野中留里です」
「野中さん……」

 彼の表情がふと揺れる。でも、魔法にかかった彼の反応はそれだけだった。

「留里って呼んで下さい」
「うん……? 留里ちゃん……」

 沈黙。俯いたあたしは彼の顔を見れない。顔を上げられない。でも。それじゃ勿体ない。こんな間近にいるのに……彼の顔を見ないなんて。あたしは顔を上げた。

「白瀬さん」

 彼の目を見る。二重の大きな目。それから、ちょっと整った彫りの深い顔、薄い唇。

「あたし、ずっとあなたが好きでした。あなたの事、見るだけで幸せだったんです」
「……ありがとう」

 彼は言った。

「そんな風に想われていたなんて知らなかった。その……嬉しいよ」

 穏やかな低い声が耳に快い。

「隣に、行ってもいいですか?」
「いいよ」

 あたしは、彼の傍に座った。彼が言う。

「どっか行く? それとも……」
「ここに。一緒に、いて下さい……」

 それから、彼の家にあったビデオを一緒に観て過ごした。
 だいぶ昔の映画。『レオン』を見た。ひとりぼっちの少女の為に死んでいく殺し屋の話。彼は勿論ストーリーを知っていたから淡々と見ていたけど、あたしは泣いてしまった。
 こんな風に、自分の為に死ぬ人がいるってどんな気持ちなのかな。そんなにまで、誰かの『大事』になれるって、どんな気持ちなのかな。ふと、そう思った。

 恋愛映画とかいうのではないけれど、映画が終わる頃、彼はあたしの肩を抱いていた。あたしは彼の肩に頭を預けていた。
 彼はぽつぽつと話した。好きな映画とか、車とか。あたしには、何もかも新鮮だった。あたしから話す事は何もなかった……ただ、好き、という以外には。

「ずっとずっと、好きだったの。あなただけを見てた。あなたに逢えて本当によかった」

 独りよがりなそんな言葉を、彼は黙って頷いて聞いてくれた。

 日が傾きかけていた。
 そろそろ帰らなきゃ、とあたしは言った。
 彼は黙ってあたしを抱き寄せた。あたしは目を瞑った。彼はキスをした。
 柔らかさと温かさに、あたしの哀しみはすべて溶けてなくなってゆく。
 ただただ、幸せだった。この瞬間の為に生まれてきたんだ、と確信できた。

 玄関まで見送ってくれた彼にさよならを言った。

「さよなら……ありがとう。」
「さよなら、またね」

 またね、と優しい目で、笑ってくれた。

 ドアが閉まり、階段を下り、マンションから路地に出た。

『満足できた?』

 りるりるの問いに、大きく頷く。

「ありがとう、りるりる。あたし……幸せだよ」
『留里……よかった。じゃあ、帰る?』
「うん」

 応えると同時に、あたしの身体は、融けてゆく。薄れて、消えてゆく。
 あたしは、本来の姿に、還る……。