翌朝。
久世は登校してくるなり、俺の席のほうへ歩いてきた。
「おはよう、成田くん」
「あ、おはよ……」
挨拶を返そうと顔を上げたところで、ぎょっとした。
そこに立っていた久世の顔が、ひどかったから。
「ちょ、なにそのクマ」
まず目についたのは、目の下にあるくっきりとした濃いクマだった。寝不足です、と顔に書いてあるみたいな。それだけでなく顔色も悪い。普段から青白い顔していることが多い彼女だけれど、今日はいつにも増して蒼白だ。おまけに髪まで乱れている。適当に梳かしてきただけなのか、なんだかぼさぼさだ。
ひどい。
「あ、うん……ちょっと寝不足で」
困ったように苦笑しながら、久世が答える。その笑顔も、どこか力なかった。
「寝不足?」久世とはあまりに縁遠い気のする単語に、俺は思わず聞き返してしまう。
「なんかしてたの? 昨日の夜」
「うん。これ」
久世はおもむろに肩に掛けていた鞄を開けると、中から一冊のノートを取りだした。
「写してたんだ、昨日の夜。それでちょっと……。一日中借りちゃっててごめんね」
そう言って差しだされたそれは、昨日俺が貸した数学のノートだった。
思いも寄らない言葉に、え、と困惑した声が漏れる。
正直、俺はすっかり忘れていたから。そのあとに起こった出来事が鮮烈すぎて、久世にノートを貸していたことなんて。
「……まさか、これ写すために夜更かししたって?」
「うん。ほんとに助かったよ。成田くんのノート、すごくきれいでわかりやすくて」
もう誰に何度向けられたかわからない褒め言葉は、ほとんど耳に入らなかった。
それより、俺は久世の顔から目を逸らせなくなっていた。
徹夜でもしたのかというほど、彼女のクマはひどい。顔色も本当に、すこぶる悪かった。
だけど昨日貸したノートは、そこまでページ数は多くなかったはずだ。二三時間もあれば、余裕で書き写せるぐらいの量だった。ここまでやつれるほど、夜更かしする必要があっただろうか。
少し怪訝に思ったけれど、深く考えている余裕はなかった。
「ちょっと来て」
「へ」
俺は立ち上がると、久世の手を引いて、半ば強引に教室から連れだした。
人のいない場所を探してしばし歩いたあとで、見つけたのは中庭だった。
ベンチに久世を座らせ、その隣に俺も座る。そうしてポケットからコンシーラーを取りだすと、
「こっちに顔向けて」
「え、え、あの」
なんだかおろおろしている久世にかまわず、キャップを外した。
ペン先を久世の目の下に当て、二本の短い線を引く。そうしてその上に、中指の腹で軽く触れた。トントンと、均等になるようなじませていく。
そのあいだ、久世はじっと固まったように、身じろぎひとつしなかった。ただ、目線だけを落ち着きなく泳がせていた。
「――はい、できた」
すぐに、クマはほとんど目立たなくなった。できれば仕上げにファンデーションものせたかったけれど、仕方がない。これでも充分きれいだし、問題はないだろう。
さすが、俺のコンシーラー優秀。満足のいく出来映えにほくほくしながら、俺は手鏡を取りだすと、
「ほら」
仕上がりを見てほしくて久世へ向けたのに、彼女はちらっとそれを見ただけで、すぐにぎくしゃくと視線を落とした。
「あ、え……えっと、ありがと……」
もごもごと呟きながら、こちらへ向けていた顔を前へ戻す。そうしてうつむいた彼女の横顔が少し赤くて、そこでようやく、俺ははっとした。
あまりのひどいクマに、つい、いてもたってもいられなってしまったけれど。
もしかして、というか、これはたぶん、まずかった。
さっきの俺、当然のように久世の顔を触ってたし。というか今のこの距離も、冷静に考えたらだいぶ近い。膝とかもう触れそうだし。
気づいた途端、あ、と乾いた声がこぼれる。
そうして、ごめん、とあわてて謝ろうとしたとき、
「――ね、ねっ、今日!」
急に勢いよくこちらを振り向いた久世が、上擦った声で口を開いた。
気恥ずかしさに耐えかねたみたいに、やたらと大きな声で、
「約束、忘れてないよねっ?」
「あ、お、おう。もちろん!」
今更おそってきた恥ずかしさのせいで、俺のほうもやたら大きな声が出た。
「放課後な。昨日の空き教室で!」
「うん! 楽しみ!」
わざとらしく確認し合ったのは、昨日の最後に、彼女と交わした約束。
――俺が久世に、メイクを教えてやるという約束だった。
久世は登校してくるなり、俺の席のほうへ歩いてきた。
「おはよう、成田くん」
「あ、おはよ……」
挨拶を返そうと顔を上げたところで、ぎょっとした。
そこに立っていた久世の顔が、ひどかったから。
「ちょ、なにそのクマ」
まず目についたのは、目の下にあるくっきりとした濃いクマだった。寝不足です、と顔に書いてあるみたいな。それだけでなく顔色も悪い。普段から青白い顔していることが多い彼女だけれど、今日はいつにも増して蒼白だ。おまけに髪まで乱れている。適当に梳かしてきただけなのか、なんだかぼさぼさだ。
ひどい。
「あ、うん……ちょっと寝不足で」
困ったように苦笑しながら、久世が答える。その笑顔も、どこか力なかった。
「寝不足?」久世とはあまりに縁遠い気のする単語に、俺は思わず聞き返してしまう。
「なんかしてたの? 昨日の夜」
「うん。これ」
久世はおもむろに肩に掛けていた鞄を開けると、中から一冊のノートを取りだした。
「写してたんだ、昨日の夜。それでちょっと……。一日中借りちゃっててごめんね」
そう言って差しだされたそれは、昨日俺が貸した数学のノートだった。
思いも寄らない言葉に、え、と困惑した声が漏れる。
正直、俺はすっかり忘れていたから。そのあとに起こった出来事が鮮烈すぎて、久世にノートを貸していたことなんて。
「……まさか、これ写すために夜更かししたって?」
「うん。ほんとに助かったよ。成田くんのノート、すごくきれいでわかりやすくて」
もう誰に何度向けられたかわからない褒め言葉は、ほとんど耳に入らなかった。
それより、俺は久世の顔から目を逸らせなくなっていた。
徹夜でもしたのかというほど、彼女のクマはひどい。顔色も本当に、すこぶる悪かった。
だけど昨日貸したノートは、そこまでページ数は多くなかったはずだ。二三時間もあれば、余裕で書き写せるぐらいの量だった。ここまでやつれるほど、夜更かしする必要があっただろうか。
少し怪訝に思ったけれど、深く考えている余裕はなかった。
「ちょっと来て」
「へ」
俺は立ち上がると、久世の手を引いて、半ば強引に教室から連れだした。
人のいない場所を探してしばし歩いたあとで、見つけたのは中庭だった。
ベンチに久世を座らせ、その隣に俺も座る。そうしてポケットからコンシーラーを取りだすと、
「こっちに顔向けて」
「え、え、あの」
なんだかおろおろしている久世にかまわず、キャップを外した。
ペン先を久世の目の下に当て、二本の短い線を引く。そうしてその上に、中指の腹で軽く触れた。トントンと、均等になるようなじませていく。
そのあいだ、久世はじっと固まったように、身じろぎひとつしなかった。ただ、目線だけを落ち着きなく泳がせていた。
「――はい、できた」
すぐに、クマはほとんど目立たなくなった。できれば仕上げにファンデーションものせたかったけれど、仕方がない。これでも充分きれいだし、問題はないだろう。
さすが、俺のコンシーラー優秀。満足のいく出来映えにほくほくしながら、俺は手鏡を取りだすと、
「ほら」
仕上がりを見てほしくて久世へ向けたのに、彼女はちらっとそれを見ただけで、すぐにぎくしゃくと視線を落とした。
「あ、え……えっと、ありがと……」
もごもごと呟きながら、こちらへ向けていた顔を前へ戻す。そうしてうつむいた彼女の横顔が少し赤くて、そこでようやく、俺ははっとした。
あまりのひどいクマに、つい、いてもたってもいられなってしまったけれど。
もしかして、というか、これはたぶん、まずかった。
さっきの俺、当然のように久世の顔を触ってたし。というか今のこの距離も、冷静に考えたらだいぶ近い。膝とかもう触れそうだし。
気づいた途端、あ、と乾いた声がこぼれる。
そうして、ごめん、とあわてて謝ろうとしたとき、
「――ね、ねっ、今日!」
急に勢いよくこちらを振り向いた久世が、上擦った声で口を開いた。
気恥ずかしさに耐えかねたみたいに、やたらと大きな声で、
「約束、忘れてないよねっ?」
「あ、お、おう。もちろん!」
今更おそってきた恥ずかしさのせいで、俺のほうもやたら大きな声が出た。
「放課後な。昨日の空き教室で!」
「うん! 楽しみ!」
わざとらしく確認し合ったのは、昨日の最後に、彼女と交わした約束。
――俺が久世に、メイクを教えてやるという約束だった。