その日の夜。俺は自分の部屋のベッドの上で、唸っていた。
「張りきりすぎた……」
目の前に並んでいるのは、先ほど調達してきたメイク用品。
アイラインを引くためのアイライナーに、久世の言っていた、水色のアイシャドウ。最初に買う予定だったのはそれだけだったのに、気づけば予定外のものまでもりもり増えていた。
初心者に水色のアイシャドウはなかなか難易度が高い気がしたので、無難そうなブラウンとベージュも買っておきたくて。さらに久世の顔立ち的に似合いそうな気がしたので、ピンクとオレンジも欲しくなって。アイライナーも、どのタイプが久世に合うのかわからなくて、けっきょく三種類も買ってしまった。
おかげで財布はすっからかんだ。こんな散財をしたのは、たぶん、生まれてはじめてだった。
自分でも驚くほど舞い上がっている自分に、戸惑ってしまう。
――たしかに、興味はあった。ずっと。
だから久世の言うように、やりもしないのにメイク動画なんて熱心に見ていたのだ。
きっかけは、小学三年生の頃。はじめて、コンシーラーを顔に塗ったときだった。
俺の顔には、生まれたときから赤い痣があった。
額の右下のほうだから、前髪を伸ばせば隠すことはできたし、大きさも十円玉ぐらいだったから、それほど気になるような痣ではなかったけれど。
少なくとも、小学三年生の春までは。俺はまったく、気にしてなんていなかった。
だから、
『うわ、なにそれ、傷? 痛そう。やだー、怖い』
クラスメイトの女子に言われたその台詞は、衝撃的だった。
視界が揺れて、つかの間、目の前が真っ暗になったぐらい。
嫌そうにぎゅっとひそめられた眉や、歪んだ口元といっしょに、一瞬で記憶にこびりついた。
今までまったく気にしていなかったこの痣は、他の人から見れば“痛そう”で“怖い”ものなのだ。はじめて突きつけられたその事実に、愕然とした。
それから俺は、痣を隠すことを意識するようになった。
最初はただ前髪で隠していたけれど、身体を動かしたり風が吹いたりする拍子にあらわになってしまうのが嫌で、母の使っていたコンシーラーに目をつけた。
はじめてコンシーラーで痣を隠して、過ごした日。
あの日の安心感は、ずっと忘れられない。
久しぶりに、クラスメイトと真正面から目を合わせて話すことができた。ずっと怖かった視線に、びくつかなくなった。なにも気にせず、大口を開けて笑うことができた。
小さな痣に、上から色を塗って、隠しただけ。
ただそれだけのことだったのに、あのコンシーラーは、俺を守ってくれる鎧みたいだった。
怖かったものが怖くなくなった。堂々と前を向けるようになった。世界の色すら、変わったような気がした。そしてそれは、今もずっと。
メイクに興味を持ちはじめたのは、間違いなく、そんなコンシーラーへの敬愛と感謝からだった。
メイクをすることでぱっと華やぐ女性の顔や、なにより、それによって表情まで自信や喜びに満ちる。そんな様を見るのが好きだった。
俺があの日、コンシーラーに救われたみたいに。メイクをすることで、明るく変わる人たちを。
だけどこんな趣味、誰にも言う気はなかった。
俺がコンシーラーを使うことにすら、渋い顔をする母だ。メイクに興味があるなんて言えばどんな顔をされるのか、想像するだけでぞっとした。
ただでさえ、俺は兄に比べると圧倒的に出来損ないで、なんの期待もされていないのに。
そのうえこんな女みたいな趣味があるなんて、きっと、もういい加減にしてくれと思われることだろう。
だからこのまま誰にも言わず、ひっそりと楽しむつもりだった、のに。
並べたさまざまな色のアイシャドウを眺めながら、俺は久世の顔を思い浮かべる。
――彼女の瞼に、色をのせるとしたら。
そんなことを考えるだけで、遠足前の子どもみたいに気持ちが浮き立った。
明日が楽しみだと、思ってしまった。
久世に、早く会いたい、なんて。
「張りきりすぎた……」
目の前に並んでいるのは、先ほど調達してきたメイク用品。
アイラインを引くためのアイライナーに、久世の言っていた、水色のアイシャドウ。最初に買う予定だったのはそれだけだったのに、気づけば予定外のものまでもりもり増えていた。
初心者に水色のアイシャドウはなかなか難易度が高い気がしたので、無難そうなブラウンとベージュも買っておきたくて。さらに久世の顔立ち的に似合いそうな気がしたので、ピンクとオレンジも欲しくなって。アイライナーも、どのタイプが久世に合うのかわからなくて、けっきょく三種類も買ってしまった。
おかげで財布はすっからかんだ。こんな散財をしたのは、たぶん、生まれてはじめてだった。
自分でも驚くほど舞い上がっている自分に、戸惑ってしまう。
――たしかに、興味はあった。ずっと。
だから久世の言うように、やりもしないのにメイク動画なんて熱心に見ていたのだ。
きっかけは、小学三年生の頃。はじめて、コンシーラーを顔に塗ったときだった。
俺の顔には、生まれたときから赤い痣があった。
額の右下のほうだから、前髪を伸ばせば隠すことはできたし、大きさも十円玉ぐらいだったから、それほど気になるような痣ではなかったけれど。
少なくとも、小学三年生の春までは。俺はまったく、気にしてなんていなかった。
だから、
『うわ、なにそれ、傷? 痛そう。やだー、怖い』
クラスメイトの女子に言われたその台詞は、衝撃的だった。
視界が揺れて、つかの間、目の前が真っ暗になったぐらい。
嫌そうにぎゅっとひそめられた眉や、歪んだ口元といっしょに、一瞬で記憶にこびりついた。
今までまったく気にしていなかったこの痣は、他の人から見れば“痛そう”で“怖い”ものなのだ。はじめて突きつけられたその事実に、愕然とした。
それから俺は、痣を隠すことを意識するようになった。
最初はただ前髪で隠していたけれど、身体を動かしたり風が吹いたりする拍子にあらわになってしまうのが嫌で、母の使っていたコンシーラーに目をつけた。
はじめてコンシーラーで痣を隠して、過ごした日。
あの日の安心感は、ずっと忘れられない。
久しぶりに、クラスメイトと真正面から目を合わせて話すことができた。ずっと怖かった視線に、びくつかなくなった。なにも気にせず、大口を開けて笑うことができた。
小さな痣に、上から色を塗って、隠しただけ。
ただそれだけのことだったのに、あのコンシーラーは、俺を守ってくれる鎧みたいだった。
怖かったものが怖くなくなった。堂々と前を向けるようになった。世界の色すら、変わったような気がした。そしてそれは、今もずっと。
メイクに興味を持ちはじめたのは、間違いなく、そんなコンシーラーへの敬愛と感謝からだった。
メイクをすることでぱっと華やぐ女性の顔や、なにより、それによって表情まで自信や喜びに満ちる。そんな様を見るのが好きだった。
俺があの日、コンシーラーに救われたみたいに。メイクをすることで、明るく変わる人たちを。
だけどこんな趣味、誰にも言う気はなかった。
俺がコンシーラーを使うことにすら、渋い顔をする母だ。メイクに興味があるなんて言えばどんな顔をされるのか、想像するだけでぞっとした。
ただでさえ、俺は兄に比べると圧倒的に出来損ないで、なんの期待もされていないのに。
そのうえこんな女みたいな趣味があるなんて、きっと、もういい加減にしてくれと思われることだろう。
だからこのまま誰にも言わず、ひっそりと楽しむつもりだった、のに。
並べたさまざまな色のアイシャドウを眺めながら、俺は久世の顔を思い浮かべる。
――彼女の瞼に、色をのせるとしたら。
そんなことを考えるだけで、遠足前の子どもみたいに気持ちが浮き立った。
明日が楽しみだと、思ってしまった。
久世に、早く会いたい、なんて。