できるなら、俺が、久世を――。
 ふいに頭の片隅を、そんなあり得ない願望がよぎったとき、

「ね、ね、成田くん。あのね」
 久世がうれしそうに続けたのは、まるで、そんな俺の頭の中を見透かしたような言葉だった。
「成田くんって、普段からお化粧してるんだよね?」
「いや、化粧っていうか、ただファンデ塗ってるだけ……」
「でも、日頃からそんなふうに化粧品扱ってるっていうことは、私よりずっと経験値は高いはずだよね!」
「……経験値?」
 急に力強く語りはじめた久世の意図がわからず、戸惑いながら聞き返すと、
「そう、お化粧の経験値! 私ね、生まれてこの方、本当に一回もお化粧やったことないんだ。だからお化粧のこと、なんにもわからないの。でもね、成田くんの言葉聞いたら、今、やってみたくてたまらなくなっちゃったんだよ。だからね」
 久世はこれ以上ない名案が見つかったという様子で、熱く言葉を継いだ。こちらへぐっと顔を突き出し、本当に食いつきそうな勢いで俺を見て、
「成田くん、私にお化粧教えて!」
「……は?」
「さっき言ってたアイシャドウの使い方とかも、ぜんぜんわかんないんだ。だから成田くんに教えてほしいなって。そもそも、私が今こんなにお化粧がしたくてたまらなくなってるのも、成田くんのせいだし!」
「……いや、ちょ、待って」
 めちゃくちゃな理論についていけずになりながら、久世の言葉を制するように片手を挙げる。もう片方の手は、知らず知らずのうちに額を押さえていた。
「言っただろ。俺も経験値なんてない。アイメイクなんてしたことないんだって」
「でも成田くん、メイクのことくわしそうだから。さっきも、的確なアドバイスしてくれたし」
「く……くわしくねえよ」
 さらっと久世の口にした言葉にぎょっとして、うっかり口調が乱れた。
 それにまた焦ってしまったけれど、久世はそんな俺の動揺などかまう様子もなく、
「ううん、ぜったい私よりはくわしいよ。間違いない。私、本当にド素人なの。メイク用品の名前すらわかんないの」
 なぜかドヤ顔でそんなことを言ってくる久世に、俺は思わず眉を寄せ、
「……じゃあ、勉強すりゃいいだろ」
「勉強?」
「スマホ持ってんなら、ネットで簡単に調べられるだろ。メイク用品の名前も手順も、今は動画とかもいっぱい上がってるし、そういう見ながらやればド素人でも」
 あまりの他力本願ぶりにちょっと苛立ちながら、俺はポケットからスマホを取りだす。そうしてお気に入り登録していた動画を開き、「ほら」と画面を久世のほうへ向けた。
「これとか、マジの初心者向けに作ってあるやつだし。こういうの見れば、久世も――」
「えっ!」
 俺の言葉をさえぎり、久世がすっとんきょうな声を上げる。
 驚いたように目を見開いた彼女が見ていたのは、画面ではなく俺の顔だった。
「すごい! 成田くん、こういうの見て勉強してるんだ!」
 ――そして俺はまた、墓穴を掘ったことに気づいたのだった。

「わー、わー」と興奮気味に声を上げながら、久世はスマホの画面に目を戻す。今更引っ込みもつかなくなって、俺はその体勢のまま、しばし久世にその動画を見せていた。
 人気の美容家が、メイクのやり方を一から丁寧に解説している動画を。
「すごいねえ。成田くん、学校の勉強だけじゃなくて、メイクのこともこんなに勉強頑張ってるんだね。さすがだなあ」
 いや、と言い訳のために口を開きかけたけれど、なぜだか声は出てこなかった。
 称賛してくれた久世の表情も声も、あまりにまっすぐで。彼女が心からそう思ってくれているのが、わかってしまったから。
 久世は子どもみたいに輝く目で、かじりつくようにスマホの画面を凝視している。
 その幼い表情を、俺はまた無言で見つめた。
 久世の言葉を必死に否定して取り繕おうという気持ちが、あまり湧いてこないことに気づいていた。
 墓穴を掘りすぎてあきらめた、というのもあるけれど。
 久世ならいいや、と、心のどこかで思っていた。
 彼女がバカだから、とか、友達がいないから、とか、そういう理由もあったけれど、それより。なんだか、――久世に、言いたいと思ってしまった。少しだけ。
 そして彼女の言うように、彼女にメイクをしてやりたい、なんて。

「……言っとくけど」
「うん?」
「俺、本当にアイメイクは一回もしたことない。動画でやり方を見てるぐらいで、実践は」
「え、動画を見たあとで自分にやってみたりしないの?」
「するわけないだろ」
 不思議そうに向けられた質問に、俺はあきれて首を振ると、
「俺がアイメイクなんてしても似合わないし、きもいだけだし。それぐらい、自分でよくわかるから」
「えー、でも、やってみたくならない? メイク動画を見るのは、アイメイクにも興味があるからでしょ?」
「……それは、まあ。でも自分の顔にはしたくないんだ。するなら、もっと」
 ――アイメイクが映えるような顔に、したかった。
 そこでまた、真正面にいる久世とまっすぐに目が合う。胸の奥のほうが、淡く疼く。
 もう無視できないぐらい、心の片隅で湧いたその衝動は、膨らんでいた。

 コンシーラー、と俺は乾いた声で呟く。
「え?」
「コンシーラーのこと、誰にも言わないでくれるんだよな」
「あ、うん。成田くんが言ってほしくないなら」
「じゃあ」
 気を抜くとにじみそうになる感情を必死に抑えつけながら、俺はできるだけ、平淡な声で告げる。
「いいよ」
「へ」
「化粧、久世に教える。俺も素人には変わりないし、あんま期待はしないでほしいけど」
「えっ、ほんとにっ?!」
「コンシーラーのこと、マジで黙っててほしいから。交換条件ってことで」
 ――そう、交換条件。
 自分の口のした単語が妙に心地良く胸に落ちて、言い聞かせるように心の中で繰り返してみる。
 これは、交換条件だ。
 俺は彼女に、知られたくない秘密を知られてしまったから。いわば弱みを握られたようなもの。だから彼女の頼みを聞くのは、致し方がない。
 そう、仕方がない。
 べつに、俺が望んだわけではない。断じて。
 俺がやりたかった、わけではない。