その後もなんとなく気持ちが落ち着かなくて、昼休みになると俺は教室を出た。
最初はトイレに入ろうとしたけれど、中で数人の男子がしゃべっていているのを見て、すぐにやめた。
どこか人のいない場所はないかと探しながら、校内を歩く。
そうしているうちに思い当たったのは、北校舎の空き教室だった。
北校舎にあるのは音楽室や美術室といった特別教室ばかりで、どの教室も基本的に授業中以外施錠させている。だから休み時間の北校舎は、いつもほとんど人がいなかった。
だけどその中にひとつだけ、なににも使われずあまっている教室があるのを、前に見つけていた。三階のいちばん奥、汚れた机や椅子がいくつか乱雑に置かれているだけの、空き教室を。
渡り廊下から北校舎に移り、迷いなく階段を三階まで上がる。そのあいだ、ほとんど無意識に指先で前髪をいじっていた。
先ほど、宇佐美がなにげなく、ここに触れようとしたときから。
授業中もずっと、気になって仕方がなかった。落ち着かなくて、じっとしていられなくなって、それで視線から逃げるように教室を出てきたのだ。
わかっていた。べつに宇佐美はなにかに気づいたわけではない。ただ、糸くずをとろうとしてくれただけだ。なのに。
気になりはじめたら、もうだめだった。一度、鏡で確認したくてたまらなくなった。手鏡なら日頃から持ち歩いているし、今も制服のポケットに入っている。けれどさすがに、教室で堂々とそれを取りだすのは憚られて。
――男の子なんだから、そんなに気にしなくてもいいじゃない。
いつだったか、母に言われた言葉。
あきれたような、どこか少し、悲しそうにも見える顔で。
たぶん小学生の頃の俺が、あまりに額の痣を気にして、顔を隠してばかりいたから。
その表情と声が、今でも奇妙なほどくっきり、脳に焼きついていた。
早足に廊下を奥へ進み、空き教室に入る。そうして窓際まで歩いていくと、壁にもたれかかり、ポケットから手鏡を取りだした。
長めに伸ばした前髪の、右のほうをかきわける。その下に隠れていた額を、鏡に映してじっと見る。
今朝もそこに塗った、コンシーラー。それは今日も完璧に、本来そこにある赤い痣を、隠してくれている。
大丈夫だ。いつもどおり。――ちゃんと、隠せている。
息を吐いて、今度は反対側のポケットに手を入れた。教室を出る前、クラスメイトにバレないようこっそり鞄から持ち出してきた、それを取りだす。
手のひらに収まるサイズの、黒いスティック。キャップを外すと、マジックペンのような先端に、肌色のクリームがにじんでいる。
せっかくだし、塗り直しておくか。
ふとそんなことを思い立って、鏡を見ながらそれを顔につけようとしたときだった。
がたっ、と物音がした。教室の後ろのほうから。
びくりと肩が揺れる。本当に一瞬、心臓が止まりかけた。
弾かれたように振り返ったそこにいたのは、人だった。
教室の後方に備えつけられた棚の上。ひとりの女子生徒が、横向きに寝ころんでいた。
「は……? え?」
理解が追いつかなくて、引きつった声がこぼれる。
カーテンだけが閉められた教室内は、薄暗くはあった。だけど日の光はカーテンを透かして差し込んでいるし、真っ暗というわけではなかった。
だからこちらを向いていたその女子の見知った顔も、すぐに捉えることができて。
「く、久世……?」
え、いつから? いつからいた?
混乱する頭で俺は必死に考える。
最初、この教室に入ったとき。そういえば俺は、中を確認しただろうか。誰もいるはずはないと思い込んでいて、教室の後方なんて見もしなかった気がする。
――だったら、最初から。
久世は、ずっと……?
思い至った途端、ざあっと顔から血の気が引いた。
拍子に指先からコンシーラーがすべり落ち、床にぶつかる。かん、という固い音が、いやに大きく響いた。
久世の目は開いていた。
まっすぐに、こちらを見ていた。
さっきみたいな寝起きのぼんやりした目ではなく、大きく見開かれた、しっかりとした双眸で。
「えっ」
驚いたようなその表情のまま、久世が勢いよく身体を起こす。
「それって!」
興奮したように声を上げた彼女が指さしたのは、床に転がるコンシーラー。
それに気づいた途端、よけいに絶望感が増した。
――終わった。完全に。
手鏡で顔を確認する姿だけでなく、コンシーラーまで。しかもそれを自分の顔に塗ろうとしていた姿まで、ばっちり見られた。
理解が追いつくと同時に、頭の中が暗くなる。指先から熱が引く。
咄嗟に考えを巡らせたけれど、ここまで見られておいてうまい言い訳なんてできそうにもなくて。
――もうだめだ。終わった。
男のくせにコンシーラーを持ち歩いている、きもいやつ。
今後クラスメイトから叩かれることになるであろう陰口を想像して、凍ったようにその場に立ちつくしていたとき、
「すごーい! それ、ファンデーションってやつだよね!」
「……は?」
ぱっと顔を輝かせた久世が、コンシーラーを指さしたまま弾んだ声を上げた。
彼女の口にした見当外れな単語に、思わず間の抜けた声をこぼせば、
「わあ、いいな! ね、ちょっと見せてもらってもいいかな?!」
言うが早いか、彼女は棚から下りてこちらへ駆け寄ってきた。
俺がなにも答えていないうちに、床に転がるコンシーラーを拾う。そうしてキラキラした目で、顔の高さに持ち上げたそれを眺めながら、
「すごい、すごい。これ、顔に塗るんだよねっ? 塗ったらすごいきれいになるんでしょ?」
「……まあ」
「わー、いいな。ファンデーション、すごいなあ。成田くん、こんなの持ってるなんて!」
お宝でも見つけたみたいに、ひとりで興奮気味に久世がまくし立てる。
頬を上気させ、ひどく熱心にそれを見つめる彼女に、
「……ファンデーションじゃなくて、それはコンシーラーだけど」
「へ、なんて? こん?」
「コンシーラー。……久世って、普段化粧とかしないの?」
その小学生みたいな反応に、つい気になって訊いてしまうと、
「うん、しない。したことないなあ、そういえば。朝は時間もないし」
あっけらかんと答える久世の肌は、たしかに化粧なんて必要ないぐらいきれいだった。あまりに日に当たっていないのか、抜けるように白い肌には透明感があって、毛穴も目立たない。もちろん傷もシミもひとつもない。……うらやましいぐらいに。
「ね、ね、それよりっ」
はじめて間近で見たそのきれいさに、一瞬目を奪われかけたときだった。
ぱっと顔を上げた久世が、満面の笑顔で俺を見て、
「お願い! これ、少しだけ使っちゃだめかな?」
「……え」
「本当に少しだけでいいの。少しだけ、塗ったらどんな感じになるのか見てみたいなって……」
期待に満ちた幼い表情で、じっと俺の顔を見つめてくる久世の目を、俺も黙って見つめ返した。
彼女の表情にも口調にも、なにも裏なんて見えなかった。
本当にただ、今の彼女はコンシーラーに心を奪われていて、それ以外のことなんてなにも考えていないのだろう。きっと。
「あ、だめ、かな……?」
俺が答えないことになにを思ったのか、彼女の表情が少し曇る。
その子どもみたいな顔と弱くなった言葉尻に、いつの間にか強張っていた身体から、ふっと力が抜けるのを感じた。
――さっきは、もう完全に終わった、なんて思ったけれど。
やっぱり、たぶんセーフだ。まだ。
だって、相手は久世みのりだった。クラスで思いきり浮いている彼女に、そもそも俺の秘密を言い触らすような友達もいないはずだし。
それにちょうどよく、俺はさっき彼女に恩を売ってもいる。定期テストの出題範囲を的確にまとめた、これ以上なく有用なノートを貸してやったばかりではないか。泣いて感謝してもらってもいいぐらいのことをしてやっているのだ。そのわりに久世の反応は薄かったけれど、ともかく。
――これなら、たぶんまだ、なんとかなる。
「……久世」
「うん?」
覗き込むように俺の顔を見つめていた久世の手から、俺はコンシーラーを取る。
そうしてまっすぐに、久世の目を見ると、
「だめじゃないからさ、ひとつ、約束してほしいんだけど」
「え、なに?」
「このことは、誰にも言わないって」
じっと久世の顔を見つめたまま、出来る限り真剣な表情を作って、ゆっくりと告げる。口調も、できるだけ切実な、訴えかけるようなものを意識した。
「このこと?」
「だから、俺が……これを、持ってたこと、とか」
「えっ、なんで?」
久世からはきょとんとした調子で聞き返され、俺は一瞬、あっけにとられた。
「いや、なんでって」困惑しながら早口に突っ返す。
「知られたらやばいだろ。男のくせに化粧してるとか……」
当然のことを言ったつもりだったのに、そこでなぜか「えっ」と驚いたような声が上がった。久世が目を丸くして俺を見る。
「成田くんって、化粧してるの?!」
……あ。
墓穴を掘ったことに気づいたのは、そこでだった。
間抜けに口を開けたまま、思わず固まる。
そうだ。べつに化粧道具を持っているところを見られたからって、それが俺の私物かどうかなんてわかりようがなかったのだ。落とし物を拾っただけだとかクラスの女子にちょっと借りただけだとか、いくらでも嘘のつきようはあったのに。
「あ、い、いや」咄嗟に弁明しようと、俺は口を開きかける。
だけどうまい言い訳が思いつかないうちに、「え、すごい、すごいね!」と久世がますます興奮したように高い声を上げた。
「じゃあさ、もしかしてこれ以外にも化粧道具持ってたりするの? あっ、そうだ、あれは? アイシャドウ、だっけ。あれも持ってる? 私ね、あれ憧れてるの。前にね、女優さんが水色のきれいなやつつけてるの見て、私も一回つけてみたいなあって思ったんだ! 化粧道具見たら急に思い出した! ね、ね、持ってる?」
よりいっそう目を輝かせた久世が、食いつくような勢いでまくし立ててくる。顔までぐっとこちらに近づけてきた彼女に、思わず身体を引かせながら、
「……いや、持ってるわけないだろ。化粧するって言ってもファンデとコンシーラーぐらいだし。アイメイクとかしないから」
そもそも俺は、きれいになるために化粧をしているわけではない。ただ、顔の痣を隠すため。それだけだ。断じて趣味だとかではなく、不可抗力のようなものなのだから。
「えー、なんだ、そっかあ」
俺の返事を聞いて、久世はあからさまにがっかりした顔になる。
だけどすぐに、気を取り直したようにまた笑顔になって、
「じゃあとりあえず、その、コンシーラー? だけでもちょっと使わせてほしいな。ほんの少しでいいから。どんなふうにきれいになるのか見てみたいんだ」
言って、久世はとんとんと自分の頬に指先で触れる。
透けそうに白いその肌を、俺は思わずじっと眺めた。眉を寄せる。
……どこに使うというのだろう。
コンシーラーは、肌の気になる部分を隠すためのものだ。
久世の肌の、いったいどこを隠すというのか。
思ったら、声が知らぬ間に、喉から転がり落ちていた。
「……ない」
「へ?」
「ないよ。久世の顔に、コンシーラー塗るところなんて」
隠すような傷もシミもニキビ跡も、そこにはなにひとつないのに。
むしろ塗ったほうが、肌の色がくすみそうだった。そもそもこのコンシーラーは俺の肌色に合わせてあるから、間違いなく久世には合わない。
だから、
「塗らないほうがいいと思う。久世、せっかくきれいなんだし、なんかもったいないっていうか……」
そこではっとして言葉を切ったときには、もう遅かった。
目の前にある久世の目が、大きく見開かれる。頬が上気して、薄く開かれた唇から、声がこぼれる。
「……きれい」
ぼそっと呟かれたのは、数秒前の俺の言葉で。
久世が繰り返したその響きを聞いた途端、いっきに顔が熱くなった。
「あっ、い、いや、その」あわてて口を開くと、ひどく不格好に上擦った声があふれる。そのことによけいに焦って、
「肌が! 肌がさ、傷とかなんにもなくて、きれいだから、久世」
「あ、う、うん……」
「化粧するなら肌じゃなくて、久世は目とか口元とか、そっち系のほうがいいんじゃないかって。さっき久世も言ってた水色のアイシャドウとかさ、たしかに似合いそうだし、そっちしてみればいいんじゃ」
「えっ……ほ、ほんとに?」
咄嗟にまくし立てていた言葉を、久世が驚いたように拾って聞き返してくる。
え、と俺もちょっと驚いて言葉を切れば、
「ほんとに私、そういうの似合うかな? 水色のアイシャドウとか……」
少し恥ずかしそうな、だけどキラキラとした期待に満ちた目が、じっと俺を見つめてくる。子どもみたいな、心底まっすぐな視線だった。
その顔を、俺もしばし無言で見つめた。
思えば、こんなにも近くで真正面から久世の顔を見たのは、はじめてだった。いつもは机に突っ伏して寝ている、そんな姿しか印象になかったから。
全体的にパーツは小ぶりで、決して派手な美人というわけではない。けれど配置は悪いないし、目鼻立ちは整っている。肌は本当に白くてきれいだし、少しアイメイクでもしたら、いっきに華やぎそうな気もする。
「……似合うと、思う」
こぼれ落ちるように返していたのは、きっとなんの混じりけもない、本心だった。
――見たい、と。
一瞬、思ってしまった。
最初はトイレに入ろうとしたけれど、中で数人の男子がしゃべっていているのを見て、すぐにやめた。
どこか人のいない場所はないかと探しながら、校内を歩く。
そうしているうちに思い当たったのは、北校舎の空き教室だった。
北校舎にあるのは音楽室や美術室といった特別教室ばかりで、どの教室も基本的に授業中以外施錠させている。だから休み時間の北校舎は、いつもほとんど人がいなかった。
だけどその中にひとつだけ、なににも使われずあまっている教室があるのを、前に見つけていた。三階のいちばん奥、汚れた机や椅子がいくつか乱雑に置かれているだけの、空き教室を。
渡り廊下から北校舎に移り、迷いなく階段を三階まで上がる。そのあいだ、ほとんど無意識に指先で前髪をいじっていた。
先ほど、宇佐美がなにげなく、ここに触れようとしたときから。
授業中もずっと、気になって仕方がなかった。落ち着かなくて、じっとしていられなくなって、それで視線から逃げるように教室を出てきたのだ。
わかっていた。べつに宇佐美はなにかに気づいたわけではない。ただ、糸くずをとろうとしてくれただけだ。なのに。
気になりはじめたら、もうだめだった。一度、鏡で確認したくてたまらなくなった。手鏡なら日頃から持ち歩いているし、今も制服のポケットに入っている。けれどさすがに、教室で堂々とそれを取りだすのは憚られて。
――男の子なんだから、そんなに気にしなくてもいいじゃない。
いつだったか、母に言われた言葉。
あきれたような、どこか少し、悲しそうにも見える顔で。
たぶん小学生の頃の俺が、あまりに額の痣を気にして、顔を隠してばかりいたから。
その表情と声が、今でも奇妙なほどくっきり、脳に焼きついていた。
早足に廊下を奥へ進み、空き教室に入る。そうして窓際まで歩いていくと、壁にもたれかかり、ポケットから手鏡を取りだした。
長めに伸ばした前髪の、右のほうをかきわける。その下に隠れていた額を、鏡に映してじっと見る。
今朝もそこに塗った、コンシーラー。それは今日も完璧に、本来そこにある赤い痣を、隠してくれている。
大丈夫だ。いつもどおり。――ちゃんと、隠せている。
息を吐いて、今度は反対側のポケットに手を入れた。教室を出る前、クラスメイトにバレないようこっそり鞄から持ち出してきた、それを取りだす。
手のひらに収まるサイズの、黒いスティック。キャップを外すと、マジックペンのような先端に、肌色のクリームがにじんでいる。
せっかくだし、塗り直しておくか。
ふとそんなことを思い立って、鏡を見ながらそれを顔につけようとしたときだった。
がたっ、と物音がした。教室の後ろのほうから。
びくりと肩が揺れる。本当に一瞬、心臓が止まりかけた。
弾かれたように振り返ったそこにいたのは、人だった。
教室の後方に備えつけられた棚の上。ひとりの女子生徒が、横向きに寝ころんでいた。
「は……? え?」
理解が追いつかなくて、引きつった声がこぼれる。
カーテンだけが閉められた教室内は、薄暗くはあった。だけど日の光はカーテンを透かして差し込んでいるし、真っ暗というわけではなかった。
だからこちらを向いていたその女子の見知った顔も、すぐに捉えることができて。
「く、久世……?」
え、いつから? いつからいた?
混乱する頭で俺は必死に考える。
最初、この教室に入ったとき。そういえば俺は、中を確認しただろうか。誰もいるはずはないと思い込んでいて、教室の後方なんて見もしなかった気がする。
――だったら、最初から。
久世は、ずっと……?
思い至った途端、ざあっと顔から血の気が引いた。
拍子に指先からコンシーラーがすべり落ち、床にぶつかる。かん、という固い音が、いやに大きく響いた。
久世の目は開いていた。
まっすぐに、こちらを見ていた。
さっきみたいな寝起きのぼんやりした目ではなく、大きく見開かれた、しっかりとした双眸で。
「えっ」
驚いたようなその表情のまま、久世が勢いよく身体を起こす。
「それって!」
興奮したように声を上げた彼女が指さしたのは、床に転がるコンシーラー。
それに気づいた途端、よけいに絶望感が増した。
――終わった。完全に。
手鏡で顔を確認する姿だけでなく、コンシーラーまで。しかもそれを自分の顔に塗ろうとしていた姿まで、ばっちり見られた。
理解が追いつくと同時に、頭の中が暗くなる。指先から熱が引く。
咄嗟に考えを巡らせたけれど、ここまで見られておいてうまい言い訳なんてできそうにもなくて。
――もうだめだ。終わった。
男のくせにコンシーラーを持ち歩いている、きもいやつ。
今後クラスメイトから叩かれることになるであろう陰口を想像して、凍ったようにその場に立ちつくしていたとき、
「すごーい! それ、ファンデーションってやつだよね!」
「……は?」
ぱっと顔を輝かせた久世が、コンシーラーを指さしたまま弾んだ声を上げた。
彼女の口にした見当外れな単語に、思わず間の抜けた声をこぼせば、
「わあ、いいな! ね、ちょっと見せてもらってもいいかな?!」
言うが早いか、彼女は棚から下りてこちらへ駆け寄ってきた。
俺がなにも答えていないうちに、床に転がるコンシーラーを拾う。そうしてキラキラした目で、顔の高さに持ち上げたそれを眺めながら、
「すごい、すごい。これ、顔に塗るんだよねっ? 塗ったらすごいきれいになるんでしょ?」
「……まあ」
「わー、いいな。ファンデーション、すごいなあ。成田くん、こんなの持ってるなんて!」
お宝でも見つけたみたいに、ひとりで興奮気味に久世がまくし立てる。
頬を上気させ、ひどく熱心にそれを見つめる彼女に、
「……ファンデーションじゃなくて、それはコンシーラーだけど」
「へ、なんて? こん?」
「コンシーラー。……久世って、普段化粧とかしないの?」
その小学生みたいな反応に、つい気になって訊いてしまうと、
「うん、しない。したことないなあ、そういえば。朝は時間もないし」
あっけらかんと答える久世の肌は、たしかに化粧なんて必要ないぐらいきれいだった。あまりに日に当たっていないのか、抜けるように白い肌には透明感があって、毛穴も目立たない。もちろん傷もシミもひとつもない。……うらやましいぐらいに。
「ね、ね、それよりっ」
はじめて間近で見たそのきれいさに、一瞬目を奪われかけたときだった。
ぱっと顔を上げた久世が、満面の笑顔で俺を見て、
「お願い! これ、少しだけ使っちゃだめかな?」
「……え」
「本当に少しだけでいいの。少しだけ、塗ったらどんな感じになるのか見てみたいなって……」
期待に満ちた幼い表情で、じっと俺の顔を見つめてくる久世の目を、俺も黙って見つめ返した。
彼女の表情にも口調にも、なにも裏なんて見えなかった。
本当にただ、今の彼女はコンシーラーに心を奪われていて、それ以外のことなんてなにも考えていないのだろう。きっと。
「あ、だめ、かな……?」
俺が答えないことになにを思ったのか、彼女の表情が少し曇る。
その子どもみたいな顔と弱くなった言葉尻に、いつの間にか強張っていた身体から、ふっと力が抜けるのを感じた。
――さっきは、もう完全に終わった、なんて思ったけれど。
やっぱり、たぶんセーフだ。まだ。
だって、相手は久世みのりだった。クラスで思いきり浮いている彼女に、そもそも俺の秘密を言い触らすような友達もいないはずだし。
それにちょうどよく、俺はさっき彼女に恩を売ってもいる。定期テストの出題範囲を的確にまとめた、これ以上なく有用なノートを貸してやったばかりではないか。泣いて感謝してもらってもいいぐらいのことをしてやっているのだ。そのわりに久世の反応は薄かったけれど、ともかく。
――これなら、たぶんまだ、なんとかなる。
「……久世」
「うん?」
覗き込むように俺の顔を見つめていた久世の手から、俺はコンシーラーを取る。
そうしてまっすぐに、久世の目を見ると、
「だめじゃないからさ、ひとつ、約束してほしいんだけど」
「え、なに?」
「このことは、誰にも言わないって」
じっと久世の顔を見つめたまま、出来る限り真剣な表情を作って、ゆっくりと告げる。口調も、できるだけ切実な、訴えかけるようなものを意識した。
「このこと?」
「だから、俺が……これを、持ってたこと、とか」
「えっ、なんで?」
久世からはきょとんとした調子で聞き返され、俺は一瞬、あっけにとられた。
「いや、なんでって」困惑しながら早口に突っ返す。
「知られたらやばいだろ。男のくせに化粧してるとか……」
当然のことを言ったつもりだったのに、そこでなぜか「えっ」と驚いたような声が上がった。久世が目を丸くして俺を見る。
「成田くんって、化粧してるの?!」
……あ。
墓穴を掘ったことに気づいたのは、そこでだった。
間抜けに口を開けたまま、思わず固まる。
そうだ。べつに化粧道具を持っているところを見られたからって、それが俺の私物かどうかなんてわかりようがなかったのだ。落とし物を拾っただけだとかクラスの女子にちょっと借りただけだとか、いくらでも嘘のつきようはあったのに。
「あ、い、いや」咄嗟に弁明しようと、俺は口を開きかける。
だけどうまい言い訳が思いつかないうちに、「え、すごい、すごいね!」と久世がますます興奮したように高い声を上げた。
「じゃあさ、もしかしてこれ以外にも化粧道具持ってたりするの? あっ、そうだ、あれは? アイシャドウ、だっけ。あれも持ってる? 私ね、あれ憧れてるの。前にね、女優さんが水色のきれいなやつつけてるの見て、私も一回つけてみたいなあって思ったんだ! 化粧道具見たら急に思い出した! ね、ね、持ってる?」
よりいっそう目を輝かせた久世が、食いつくような勢いでまくし立ててくる。顔までぐっとこちらに近づけてきた彼女に、思わず身体を引かせながら、
「……いや、持ってるわけないだろ。化粧するって言ってもファンデとコンシーラーぐらいだし。アイメイクとかしないから」
そもそも俺は、きれいになるために化粧をしているわけではない。ただ、顔の痣を隠すため。それだけだ。断じて趣味だとかではなく、不可抗力のようなものなのだから。
「えー、なんだ、そっかあ」
俺の返事を聞いて、久世はあからさまにがっかりした顔になる。
だけどすぐに、気を取り直したようにまた笑顔になって、
「じゃあとりあえず、その、コンシーラー? だけでもちょっと使わせてほしいな。ほんの少しでいいから。どんなふうにきれいになるのか見てみたいんだ」
言って、久世はとんとんと自分の頬に指先で触れる。
透けそうに白いその肌を、俺は思わずじっと眺めた。眉を寄せる。
……どこに使うというのだろう。
コンシーラーは、肌の気になる部分を隠すためのものだ。
久世の肌の、いったいどこを隠すというのか。
思ったら、声が知らぬ間に、喉から転がり落ちていた。
「……ない」
「へ?」
「ないよ。久世の顔に、コンシーラー塗るところなんて」
隠すような傷もシミもニキビ跡も、そこにはなにひとつないのに。
むしろ塗ったほうが、肌の色がくすみそうだった。そもそもこのコンシーラーは俺の肌色に合わせてあるから、間違いなく久世には合わない。
だから、
「塗らないほうがいいと思う。久世、せっかくきれいなんだし、なんかもったいないっていうか……」
そこではっとして言葉を切ったときには、もう遅かった。
目の前にある久世の目が、大きく見開かれる。頬が上気して、薄く開かれた唇から、声がこぼれる。
「……きれい」
ぼそっと呟かれたのは、数秒前の俺の言葉で。
久世が繰り返したその響きを聞いた途端、いっきに顔が熱くなった。
「あっ、い、いや、その」あわてて口を開くと、ひどく不格好に上擦った声があふれる。そのことによけいに焦って、
「肌が! 肌がさ、傷とかなんにもなくて、きれいだから、久世」
「あ、う、うん……」
「化粧するなら肌じゃなくて、久世は目とか口元とか、そっち系のほうがいいんじゃないかって。さっき久世も言ってた水色のアイシャドウとかさ、たしかに似合いそうだし、そっちしてみればいいんじゃ」
「えっ……ほ、ほんとに?」
咄嗟にまくし立てていた言葉を、久世が驚いたように拾って聞き返してくる。
え、と俺もちょっと驚いて言葉を切れば、
「ほんとに私、そういうの似合うかな? 水色のアイシャドウとか……」
少し恥ずかしそうな、だけどキラキラとした期待に満ちた目が、じっと俺を見つめてくる。子どもみたいな、心底まっすぐな視線だった。
その顔を、俺もしばし無言で見つめた。
思えば、こんなにも近くで真正面から久世の顔を見たのは、はじめてだった。いつもは机に突っ伏して寝ている、そんな姿しか印象になかったから。
全体的にパーツは小ぶりで、決して派手な美人というわけではない。けれど配置は悪いないし、目鼻立ちは整っている。肌は本当に白くてきれいだし、少しアイメイクでもしたら、いっきに華やぎそうな気もする。
「……似合うと、思う」
こぼれ落ちるように返していたのは、きっとなんの混じりけもない、本心だった。
――見たい、と。
一瞬、思ってしまった。