「久世」
翌日。一限目の数学が終わったところで、俺は久世の席へ行き、声をかけた。
ちなみに先ほどの授業も、彼女は九割方寝ていた。
もちろんノートなんて一文字もとっていなかったし、日直がさっさと黒板を消しはじめた今も、まだ机に突っ伏したまま動かない。
「授業終わったけど。起きて」
我ながら変な台詞だと思いつつ、彼女の後頭部にそんな声を落とす。
しかしそれでも、彼女は起きなかった。ちょっとためらったあとで彼女の肩に触れ、軽く揺する。
「久世ってば」
そこでようやく、彼女は夢の世界から帰ってきたようだった。
ぴくっと頭が動いてから、伏せられていた彼女の顔がゆっくりと上がる。
「……え」
長い前髪のあいだから、まだぼんやりとした双眸が俺を見上げた。
「成田くん?」
「うん。ほら、これ」
彼女が完全に覚醒しきるのを待たず、俺は手にしていたノートを彼女に差しだした。さっきの、数学の授業のノート。
突然眼前に突きつけられたそれを、久世は寝起きのあいまいな目で眺めながら、
「えっと……なに?」
「なにって、ノート」
昨日も同じやり取りをしたな、と思いながら、俺は短くまばたきをしている彼女に突っ返す。
「数学のノート。貸してやるよ」
久世はなんだかきょとんとした目で、俺の顔を見た。戸惑ったように、また何度かまばたきをする。
「え、なんで」
「さっきの授業寝てたから。ノートとってないだろ」
「でも私、もういいんだって……」
「久世があきらめてるのはわかったけど。でも進学はしないにしても、定期テストぐらいは赤点とらない程度に頑張っとかないと、留年するかもしれないし。だから」
つらつらと並べた理由は、なんだか自分へ言い聞かせる言い訳のようだった。
――そう、久世のため。
久世が、困るだろうから。
「このノート、とにかくテストに出そうなところまとめてるから。このノートだけでも完璧に覚えとけば、最低でも七十点は」
「あ……あの、あのね、成田くん」
つい早口にまくし立てていた俺の言葉を、久世がおずおずとさえぎる。
そうして申し訳なさそうに眉を下げた笑顔で、
「ごめんなさい」
だけどはっきりとした声で、そう告げた。
「私ね、たぶん、成田くんが思ってるレベルじゃないっていうか……。本当にぜんぜん、わかってないんだ。授業にもぜんぜんついていけてないの。だからせっかくだけど、成田くんのノート借りたところで、どうにかなるような成績じゃないというか……」
――それはお前が、真面目に授業を受けてないからだろ。
困ったように指先で頬を掻きながら、言いづらそうにそんなことを言う久世に、喉まで出かかった言葉をなんとか呑み込む。
代わりに、「大丈夫」と出来る限りの笑顔を向けてみせ、
「今までの授業、理解できてなくても。このノート覚えれば、次の定期テストはなんとかなるから」
「えっ、今までの内容ぜんぜんわかってなくても?」
「大丈夫だよ。定期テストぐらいなら、わかってなくてもとれる」
「え、うそ。そうなの?!」
「そうだよ」
だって俺は、ずっとそうだった。
たぶんもう長いこと、理解なんてできていない。ただ定期テストは範囲が決まっているから、その範囲だけ完璧に暗記すれば、案外なんとかなっただけで。英語の文法も、数学の数式も。
そんなやり方で、今までずっと、乗り切ってきた。
自分の頭の悪さを、取り繕ってきた。
「だからとにかく、このノート貸すから写してみて。あとで英語とか日本史のノートも貸すよ。まとめてるから」
そう言って久世の机にノートを置けば、久世はしばし無言で俺を見た。
なにかを探すみたいにじっと、俺の目を見つめる。
その視線になんだか少し気恥ずかしくなって、俺が目を逸らそうとしたとき、
「なんでそんなに、親切にしてくれるの?」
純粋に理由がわからない、というようなまっしろな口調で、久世が訊ねてきた。
だから俺は逸らしかけた視線を、久世の顔に戻した。
その口調と同じぐらい彼女の目もまっすぐで、一瞬、胸の奥が嫌な感じに波立つ。だけどそれを押さえつけ、俺も彼女の目を見つめ返すと、
「なんか、心配だから」
笑顔を崩さないよう努めながら、言葉を返した。
「心配?」
「久世、このままだと赤点とって留年しちゃうんじゃないかと思って。よけいなお世話かもしれないけど、せっかく同じクラスになれたんだし、みんなでいっしょに進級したいじゃん。だから」
言いながら、あまりの安っぽさに笑ってしまいそうな台詞だった。
だけど久世は食い入るように俺の顔を見つめたまま、じっとその台詞を聞いていた。だから俺も、視線を動かせなかった。作った笑顔を崩さないまま、久世の顔を見つめる。そうして続けた。
「頑張ろう。ぜったい、なんとかなるよ」
――本当に。
反吐が出そうな、台詞だった。
翌日。一限目の数学が終わったところで、俺は久世の席へ行き、声をかけた。
ちなみに先ほどの授業も、彼女は九割方寝ていた。
もちろんノートなんて一文字もとっていなかったし、日直がさっさと黒板を消しはじめた今も、まだ机に突っ伏したまま動かない。
「授業終わったけど。起きて」
我ながら変な台詞だと思いつつ、彼女の後頭部にそんな声を落とす。
しかしそれでも、彼女は起きなかった。ちょっとためらったあとで彼女の肩に触れ、軽く揺する。
「久世ってば」
そこでようやく、彼女は夢の世界から帰ってきたようだった。
ぴくっと頭が動いてから、伏せられていた彼女の顔がゆっくりと上がる。
「……え」
長い前髪のあいだから、まだぼんやりとした双眸が俺を見上げた。
「成田くん?」
「うん。ほら、これ」
彼女が完全に覚醒しきるのを待たず、俺は手にしていたノートを彼女に差しだした。さっきの、数学の授業のノート。
突然眼前に突きつけられたそれを、久世は寝起きのあいまいな目で眺めながら、
「えっと……なに?」
「なにって、ノート」
昨日も同じやり取りをしたな、と思いながら、俺は短くまばたきをしている彼女に突っ返す。
「数学のノート。貸してやるよ」
久世はなんだかきょとんとした目で、俺の顔を見た。戸惑ったように、また何度かまばたきをする。
「え、なんで」
「さっきの授業寝てたから。ノートとってないだろ」
「でも私、もういいんだって……」
「久世があきらめてるのはわかったけど。でも進学はしないにしても、定期テストぐらいは赤点とらない程度に頑張っとかないと、留年するかもしれないし。だから」
つらつらと並べた理由は、なんだか自分へ言い聞かせる言い訳のようだった。
――そう、久世のため。
久世が、困るだろうから。
「このノート、とにかくテストに出そうなところまとめてるから。このノートだけでも完璧に覚えとけば、最低でも七十点は」
「あ……あの、あのね、成田くん」
つい早口にまくし立てていた俺の言葉を、久世がおずおずとさえぎる。
そうして申し訳なさそうに眉を下げた笑顔で、
「ごめんなさい」
だけどはっきりとした声で、そう告げた。
「私ね、たぶん、成田くんが思ってるレベルじゃないっていうか……。本当にぜんぜん、わかってないんだ。授業にもぜんぜんついていけてないの。だからせっかくだけど、成田くんのノート借りたところで、どうにかなるような成績じゃないというか……」
――それはお前が、真面目に授業を受けてないからだろ。
困ったように指先で頬を掻きながら、言いづらそうにそんなことを言う久世に、喉まで出かかった言葉をなんとか呑み込む。
代わりに、「大丈夫」と出来る限りの笑顔を向けてみせ、
「今までの授業、理解できてなくても。このノート覚えれば、次の定期テストはなんとかなるから」
「えっ、今までの内容ぜんぜんわかってなくても?」
「大丈夫だよ。定期テストぐらいなら、わかってなくてもとれる」
「え、うそ。そうなの?!」
「そうだよ」
だって俺は、ずっとそうだった。
たぶんもう長いこと、理解なんてできていない。ただ定期テストは範囲が決まっているから、その範囲だけ完璧に暗記すれば、案外なんとかなっただけで。英語の文法も、数学の数式も。
そんなやり方で、今までずっと、乗り切ってきた。
自分の頭の悪さを、取り繕ってきた。
「だからとにかく、このノート貸すから写してみて。あとで英語とか日本史のノートも貸すよ。まとめてるから」
そう言って久世の机にノートを置けば、久世はしばし無言で俺を見た。
なにかを探すみたいにじっと、俺の目を見つめる。
その視線になんだか少し気恥ずかしくなって、俺が目を逸らそうとしたとき、
「なんでそんなに、親切にしてくれるの?」
純粋に理由がわからない、というようなまっしろな口調で、久世が訊ねてきた。
だから俺は逸らしかけた視線を、久世の顔に戻した。
その口調と同じぐらい彼女の目もまっすぐで、一瞬、胸の奥が嫌な感じに波立つ。だけどそれを押さえつけ、俺も彼女の目を見つめ返すと、
「なんか、心配だから」
笑顔を崩さないよう努めながら、言葉を返した。
「心配?」
「久世、このままだと赤点とって留年しちゃうんじゃないかと思って。よけいなお世話かもしれないけど、せっかく同じクラスになれたんだし、みんなでいっしょに進級したいじゃん。だから」
言いながら、あまりの安っぽさに笑ってしまいそうな台詞だった。
だけど久世は食い入るように俺の顔を見つめたまま、じっとその台詞を聞いていた。だから俺も、視線を動かせなかった。作った笑顔を崩さないまま、久世の顔を見つめる。そうして続けた。
「頑張ろう。ぜったい、なんとかなるよ」
――本当に。
反吐が出そうな、台詞だった。