家に帰ると、母がやたら上機嫌だった。晩ご飯の準備をしながら、鼻歌なんて歌っている。
 理由はすぐにわかった。俺の少しあとに兄が帰ってくると、
「日向。どうだった? 結果」
 期待を隠しもしない弾んだ声で、母が真っ先に兄へ訊ねていた。料理の手を止め、タオルで手を拭ってから、兄のもとへ歩いてくる。
 そして兄はいつだって、その期待を裏切らない。
「ん、こんな感じ」
 鞄から取り出した細長い紙を、兄が母へ差し出す。
 それを受け取った母は、ぱっと表情がほころばせ、
「さっすが! 頑張ってたもんね」
「まあ、前回よりは落ちたけど」
「充分充分。また一位じゃない。難しかったんでしょ、今回のテスト」
 うれしさと誇らしさに満ちた母の高い声が続くのを、俺はリビングのソファでぼんやり聞いていた。
 しばらく成績表を眺めてから、母は満足そうな様子で料理に戻る。さっきより音量を上げて、鼻歌も再開する。
 今日の母は、朝からこんな調子だった。
 兄の、定期テストの結果が返ってくる日。母はこの日が大好きだ。
 兄の結果はぜったいに、母を喜ばせてくれるから。

 その少し音が外れたスタンドバイミーを聞きながら、俺はスマホに視線を戻す。
 おもしろくはないけれど他にすることもないので、クラスのグループラインで交わされている会話をなんとはなしに眺めていたら、
【今日返ってきた中間やばい。ぜったい親にキレられる】
 と誰かが発言した。
 それにぽんぽんと、適当なスタンプが返ってくる。笑っていたり、慰めていたり。
 眺めているうちに口の中に苦いものが広がってきて、俺はスマホを閉じた。
 ソファから立ち上がり、リビングを出ていこうとすると、
「あ、晴。もうすぐご飯できるからねー」
 という母の声が背中にかかった。
 うん、と返事をしながら振り返る。母は手元のフライパンを見ていて、目は合わなかった。

 自分の部屋に戻り、鞄から成績表を引っ張りだす。さっき兄が母に見せていたものとよく似た、細長い紙。奥のほうに乱雑に突っ込んでいたせいで、ぐしゃぐしゃになっていた。
 しわを伸ばそうとして、すぐに、まあいいか、と思い直す。
 どうせ誰も見ないから。

 77、80、85、82……。
 歪んだ文字で、なんともぱっとしない数字が並んでいる。
 いちばん端に載っている校内順位は、十七位。本当に、ぱっとしない。
 まあ、仮にここが一位だったとして、通っている高校の偏差値自体が低いので、兄に比べればたいしたことはないのだけど。現実はそんな低ランクの高校でこの順位なのだから、もう救いようがない。

 今日は俺の高校でも中間テストの結果が返ってくる日だったなんて、きっと母は知らない。訊かれていないから、教えていないし。
 いつから訊かれなくなったのだろう。
 入学したばかりの頃は、訊ねられて成績表を母に見せていた気がする。だけどそのたびこんなぱっとしない結果を見せられて、母も嫌になったのだろう。兄の成績表みたいに、見るだけでテンションが上がるようなものでもないし。
 母の気持ちはよくわかる。だからべつに、それについてなにか思うことはない。当然の差だと思うだけ。おまえはだめだ、とか、お兄ちゃんに追いつけるように頑張りなさい、とか、きついことを言われるわけでもないし。昔はちょっとだけ言われていたような気もするけれど、今はもうなにもない。だからなんの問題もない。いたって平和。
 ただ、期待されていないだけ。
 あきらめられた、だけ。

 ふと思い立って、俺はまたスマホを取りだした。さっきまで眺めていたグループラインの、メンバー一覧開く。ずらっと並んだ名前を、上から順に眺めていく。
 ほとんど全員のクラスメイトが参加しているその中に、やはりというか、久世みのりの名前はなかった。