飛行機の中で、麻衣子は退職願を書いていた。
 12月という中途半端な時期で、簡単に受理されるとは思えない。けれど書かずにはいられなかった。
 璃子を裏切って、晃に二度と顔を見せられないようなことをした。
 ペンを走らせながら、十年間積みあげたキャリアを手放すのが惜しいと思ってしまった自分が嫌だった。
 友人としても同期としても自分は失格なのに、ひとり立ちを支えてくれた会社まで飛び出して、どこへ行けるというのだろう?
 どこへも行けなくなってしまえばいい。
 よりどころの無い異国で、食べるものにも困る生活に落ちて、自分のしたことの罰を受ければいい。
 退職願を書き終えて、麻衣子はそれを膝に置いて目を伏せた。
 空港に着いたら、その足で支社に向かうつもりだった。退職願の提出先は本社だが、その前にせめてお世話になった同僚たちに一言詫びたかった。
 けれど空港のロビーに着くと、モニターにテロップが流れていた。
『中心街で大規模デモ。治安部隊と衝突の恐れ』
『火急の用でない限り外出は控えるよう』
「マイコ、よかった会えて!」
 出口で麻衣子を待っていたのは、支社の現地社員のジャイコブだった。
 浅黒い肌に緑の目をした彼は、悪い人ではないが仕事とプライベートを混同して言い寄るから、麻衣子は苦手だった。
「文句は後でいくらでも聞くから。今は僕を信用して車に乗って」
「嫌よ。あなた、前もそれで」
 キスしようとしたくせに。先日の告白騒動を思い出して顔を背けたら、麻衣子は信じられないものを見た。
 モニターの電源が、唐突に落ちた。一瞬遅れて、電気も消える。
 沈黙は一瞬。悲鳴が上がったロビーで、ジャイコブが麻衣子の手を取った。
「こっち! 大丈夫、落ち着いて!」
 何が起こったのかわからない麻衣子には、つないだ手だけが生命線のような気がした。
 暗がりの中、混乱する人たち。ぶつかりながら、必死で空港の外に出た。
 その夜起こったことは、海外を走り回った麻衣子にとっても異常な事態だった。
 反政府デモと治安部隊が各地で衝突、一晩で死者は500人を超えた。
 非常事態宣言が発令され、外国人も含めて出入国が無期限で停止される。
 各国は自国人の帰国を交渉したが、今度はデモが空港で起こって、外国人が犠牲になった。
 政府間交渉がかえって危険と見た各国は、現地にネットワークを持つ企業に助力を求める。
 企業と現地社員が中心となって懸命に交渉が行われた結果、なんとか外国人の出国のめどが立った。
 このとき、最初のデモから三か月が経っていた。
「マイコ、会社から連絡があったよ。帰国できるって」
 それをジャイコブから聞いた麻衣子は、うつろな目で首を横に振った。
 デモの夜から会社も閉鎖され、麻衣子はジャイコブの家に避難していた。寝込みがちで、体重も十キロほど減っていた。
「帰れない……」
 洗面台でうずくまる麻衣子に、ジャイコブが沈黙したのはほんの少しの間だった。
「……そっか」
 ジャイコブは苦いようで安心したようにつぶやいた。
 ジャイコブは洗面台の前にしゃがみこんで、麻衣子の頬を両手で包む。
「マイコ、僕と結婚したら帰らなくて済むよ。今出国できるのは「外国人」だけなんだ」
「……ほっといて」
 麻衣子は少しだけ力を取り戻して、怒ったようにジャイコブをにらむ。
 ジャイコブの優しさにつけこむつもりはない。今麻衣子が抱えている罪も、麻衣子ひとりで背負うつもりなのだから。
「はは。嫌われちゃった」
 ジャイコブはにこっと笑って、麻衣子の体に腕を回す。
 抵抗しようと麻衣子は腕を上げたが、耳元でささやかれた言葉に動きを止める。
「明るい話をしよう。麻衣子の友達の話。璃子、結婚したらしいよ」
 麻衣子は目を見開いて震えた。
 誰と? それを聞く余裕もなく、麻衣子はもう顔を覆っていた。
 麻衣子の指の隙間から流れていく涙に唇を寄せて、ジャイコブは笑う。
「ほら、安心しただろ? ベッドに行こう、マイコ」
 抱き上げられて口づけられた。麻衣子はだらりと腕を下げて、しゃくりあげながらうなずいた。