視界が再び暗転した。もやのような空気に包まれた後、晴れていった視界には、駅前の白いキャンパスが広がっていた。と同時に、僕も学生服姿のいつもの姿に戻っていた。

「由紀!」

 さっき歩いてきた道の上に、由紀が横たわっているのを見つけ、降り積もった雪の中を駆け出した。

「由紀、大丈夫?」

 路上に倒れていた由紀は、いつもの小豆色のジャージ姿だった。金髪の髪に綺麗な化粧は相変わらずで、だから、その顔からは由紀が大病を患ってるなんて想像もできなかった。

 痩せ細った体を抱き抱えると、由紀の右手から何かが落ちた。何が落ちたのか確認すると、雪の上に落ちていたのは注射器だった。

 背中に、嫌な気配が滑り落ちていった。恐る恐る由紀の腕を捲ってみると、兄が言ってた通り、おびただしい数の注射痕があった。

 思考が停止しかけたまま、僕は雪の積もった由紀の頭を撫でた瞬間、思考が完全に停止した。

 軽い抵抗の後、由紀の頭から髪の毛が抜け落ちた。いや、抜けたというよりもずれたといった感じで、由紀の髪の毛がかつらだと気づくと同時に、由紀の頭部には髪の毛が一つもないことがわかった。

 その姿を見て、僕ははっきりと由紀の身に起きていることを自覚した。兄から話を聞いた時には、どこか夢物語のようにしか半分思っていなかった。

 でも、夢物語じゃなかった。震える手で積もった雪を払いのけながら、変わり果ててしまった由紀の姿を見て、ひどく怖いとさえ思えてきた。

「由紀、しっかりして」

 由紀は苦しそうな顔で、何かを呟いていた。そして、ぎこちない動きで、僕に左手を向けてきた。

 由紀の左手には、写真が握られていた。手に取って確認してみると、そこには、桜吹雪を背にして満面の笑みを浮かべる大柄な男と、肩車された笑顔の由紀が写っていた。

「うぅ、お父さん――」

 由紀の口から、微かに苦しみながらも父親を呼ぶ声が漏れ聞こえてきた。何かを必死で呟いているみたいで、聞き取ろうと耳を近づけた時、熱い吐息と一緒に由紀の想いが聞こえてきた。

「っ、っ、会いたいよ、お父さん」

 痛みと闘っているのか、眉間に深いしわが刻まれていた。身をよじり、時折大きなうめき声を上げなら、何度も何度も「お父さん」と繰り返していた。

「由紀、しっかりして」

 動揺する気持ちを抑え、抱き抱えた由紀の体をそっと揺さぶってみた。由紀は苦しそうに呻いた後、うっすらと瞼を開けた。

「賢くん?」

 視線が合うと同時に、由紀は驚いたみたいに体を震わせた。

「由紀、帰ろう。病院に行かないと」

「待って」

 由紀は僕の言葉を遮ると、僕の手にある写真を指差した。

「見つけた、の。お父さん、の、手掛かり。写真だけだけど」

 由紀は荒い息を繰り返しながら、キャッスルに来た理由を教えてくれた。

 今のお父さんが亡くなったことで、自分には他に本当のお父さんがいることを知り、会いたいと思った。ずっと心の奥にもやのように何かがあって、そのせいで上手く笑えないと由紀は考えていた。

 きっと、本当のお父さんに会えば上手く笑えるようになるはず。だから、記憶を思い出す為にキャッスルに来た。そこで、やっと手掛かりとなる写真を見つけたらしい。

「私、ちゃんと笑えてるよね? だから、この写真みたいになりたいの」

 由紀はゆっくりと起き上がったけど、よろけて僕の胸に倒れてきた。

「賢くん、お願い。あそこまで、連れていって」

 由紀の指差した方を見ると、いつの間にか先ほどの交差点と野次馬たちが、目の前に広かっていた。

 よく見ると、まだ事故が起きた直後みたいで、僕が見た光景がこれから再現されるところみたいだった。

「あそこに、お父さんがいる気がする」

 由紀の瞳が大きく開いた。懇願する声が、胸を激しく突き抜けていった。

「由紀、帰ろうよ」

 僕は頭をふりながら、きつく由紀を抱き止めた。今の状態で、あの光景を見せるわけにはいかなかった。あの光景には、由紀が望むものは一つもない。それに、見てしまったら由紀の身体がもたない気がした。

 今の由紀は、お父さんに会うためだけに生きてる感じがした。本当は、もう動けないんじゃないかって思えるくらい細い身体を引きずってでも前に進んでいたのは、写真に写る本当のお父さんの笑顔を見たからだろう。

「いや、離してよ」

 由紀が身をよじって抵抗してきた。余力を振り絞るような激しい動きに、由紀の強固な意思を感じた。

 でも、僕は絶対に離すつもりはなかった。あそこには、辛すぎる現実しかない。たとえ由紀が最後の時間に選んだ相手がお父さんだったとしても、それだけはさせたくはなかった。

 ――そう、由紀が残された時間を使う相手に選んだのは、結局僕じゃなかったんだ

 言い様のない虚しさと悔しさが、胸の内を占めていく。考えてみればわかることだけど、最初から勝てる相手じゃなかった。

 写真に写る満面の笑顔。それを作り出したのはお父さんであって、僕にはそれができなかった。いつも一緒に過ごしてきたけど、一度も僕は、由紀をこの写真のように笑わせることができなかった。

 絶望のような敗北感を感じながら、でも、やっぱり会わせるわけにはいかないと、ひたすら歯を食いしばって耐え続けた。

 今の由紀のお父さんは、写真のような笑顔を見せることも、由紀を笑わせることもできないし、やろうともしないだろう。

 どのくらいそうしていたのかはわからない。ただ、嫌がる由紀をずっと抱き締めていた。この腕を離したら、由紀がもう戻ってこない気がして、それがとても現実感がありすぎて怖くなっていた。

 やがて、由紀は急に抵抗をやめた。代わりに、僕の頬をぎこちない動きで撫で始めた。

「泣いて、いるの?」

 由紀の掠れた声に、自分の頬を触ってみた。熱く火照った頬に冷たい筋ができていた。

 いつの間にか僕は泣いてたみたいだ。涙の理由は自分でもわからなかった。多分、色んな感情が混ざりあって、でも、最後には由紀を失いたくないという気持ちが形になったのかもしれなかった。

「ごめん。でも、やっぱり今は帰ったほうがいいと思う」

 誤魔化す理由を考えながら、たどたどしく由紀を説得する。とにかくあの光景のことだけは、由紀に見せるわけにはいかなかった。

 でも、それだと由紀は納得しそうにない。かといって、僕が見た光景を教えてやるのも、結局は由紀を苦しめるだけだった。

 時間だけが、降り積もる雪と共に流れていく。早く病院に連れていきたい僕と、諦めきれない由紀との狭間で、僕はどうしたらいいのかわからなくなっていた。

 ――そうだ! 僕にできることは、これしかない

 絶望の淵にわいた一つのアイデア。それは、由紀の願いを叶えることだった。

 由紀の願いはただ一つ。お父さんに会うことだ。それなら会わせてあげればいい。このキャッスルにいるお父さんじゃなくて、現実のお父さんに。

 それができるかどうかはわからない。でも、由紀のお母さんに聞けばわかるかもしれない。それに、兄に頼めば、悪いことかもしれないけど個人情報を得ることができるかもしれない。

 そして、事情を話して会いに来てもらえばいい。その時、この写真の頃みたいに演技してもらえば、きっと由紀は満足してくれるはず。

 できそうな気がした。いや、必ず見つけて実現させてやると自分を奮い立たせた。由紀を説得するには、もうこの方法しかなかった。

 そう固く決意して、由紀に思いをぶつけた。

「相変わらず、だね。賢くんは」

 由紀は困ったように笑うと、ぎこちない動きで僕の涙の跡を拭った。

「私の為なら、いつも一生懸命だね」

「今さら言われても困るんだけど」

 由紀の雰囲気が柔らかくなったところで、僕は精一杯おどけてみせた。

「帰ろっか」

 吹雪に消えそうな声が、微かに聞こえた。

「賢くん、一緒に、帰ろ」

 由紀は微かに微笑むと、僕の胸に顔を預けてきた。その声は、小学校で再会した時に、初めて由紀が一緒に家に帰ろうと誘ってきた時と同じだった。

「そうだね。一緒に帰ろ」

 由紀の体を受け止めながら、僕もあの日に帰ったような気持ちで返事をした。

 由紀を抱えて立ち上がろうとした時、急に視界がぼやけていった。

 それが終わりを告げる合図かはわからなかったけど、僕らは一瞬にして何もない闇の中に落ちていった。