ゆっくりと雪の中を動き出した電車の中で、由紀は背伸びした窓から見える景色に、息つく暇もなく歓声を上げていた。
僕はその間、ずっと頭の奥に沈んだ記憶をもがきながら探し続けていた。
でも、発作のように鳴り響く警報は収まらないし、記憶の映像もずっと黒塗りのままだった。
いつもなら十分で着く無人駅に、三十分かけて電車はとまった。一面は希に見る銀世界で、足跡とタイヤの跡が、淡く照らす街灯に消えていっていた。
おぼろ気だけど、記憶が微かに蘇ってきた。確かこの辺りは、一面が田園風景だったはず。今は白いベールに包まれて、巨大なキャンパスになっていた。そのキャンパスに描かれた車の轍を、時々滑りながら、まるで遠足みたいに市街地目指して歩き続けた。
――そう、まるで遠足みたいだった
初めての経験だった。由紀と二人、寄り添いながら、しっかりと手をつないで歩いていたことを思い出した。
時折通る車の明かりに驚きながら、どこか心細くて、でも、それでも由紀と一緒なら楽しかった。どこまでも、二人なら歩いて行けるんじゃないかって思ってた。
ゆっくりと舞い落ちる雪に包まれた静寂を、突然、虎の咆哮みたいなサイレンが切り裂いていった。
驚いてふり返ると、赤色灯を回したパトカーが、唸りを上げて通り過ぎていった。一台、二台と続いた後に、救急車が遅れまいといった感じで、パトカーを追いかけていった。
「びっくりしたね」
由紀が胸に手を当てて、白く長い息を吐いた。
僕も驚いて更に心音が跳ね上がったけど、でも、この胸を締め付けるような乱れは驚きだけではない気がした。
市街地の灯りが見え、大きな交差点が見えてきた。さっき走っていったパトカーと救急車が見え、交差点には人だかりができていた。
その人だかりを見て、また強烈な頭痛に襲われた。警報音が更に高くなって、咄嗟に僕は由紀の手を掴んだ。
「この先は行っちゃ駄目だ!」
不意に言葉が漏れた。自分でもびっくりするような大きな声を出していた。
由紀の肩が大きく跳ね、不安そうな顔で僕を見ていた。
「あそこには、行ってはいけない気がするんだ」
嫌な予感を抑えきれなかった。あの交差点がひどく怖いと思えた。あそこには、見てはいけないなにかがある気がして落ち着かなくなった。
「由紀、待って!」
視線を由紀から交差点に向けた時だった。
由紀は僕の手から飛び出すように、交差点めがけて走り出した。
「由紀、行っちゃ駄目だ!」
叫ぶと同時に追いかけたけど、鉛のように重く感じる足が上手く回らなかった。
追いつかない背中を目指して交差点に入った時、目に飛び込んできたのは凄惨な事故現場だった。
路上に男性が血を流して倒れていた。そばには大破したバイクと車が横たわっていた。
救急隊員の人が、ヘルメットを脱がそうとしていた。その様子を野次馬たちが固唾を飲んで見守っている。その光景を、由紀は驚いたような落ち着かないような表情で見ていた。
男性の頭からヘルメットが脱げた瞬間、由紀は「パパー!」と叫んで交差点内へ駆け出した。
世界がスローモーションになった。
走り出した由紀を追いかけて、僕も交差点へ入った。驚いた警察官の横をすり抜け、そして――。
救急隊員の横をすり抜け、交差点を渡りきった由紀は、人混みの中で小さな女の子を抱いた大柄な男の前で立ち止まった。
「パパー!」
由紀は甘えた声を出しながら、丸太のような足にしがみつこうとした。
けど、男は由紀を避けて、明らかに困惑した表情をした。
「パパ?」
きょとんとした顔で、由紀は男を見上げる。そばにいた女性が「誰?」と男に尋ねると、男は動揺した様子で「知らない子」と答えていた。
「由紀だよ!」
男の声に反応するみたいに、由紀が声を張り上げた。
「パパ、わたしだよ。由紀だよ。ねぇ、パパ、わたし、会いに来たんだよ」
由紀はつぶらな瞳に涙を溜めていた。でも、それを絶対に溢したくないといった感じで、震えながらも笑顔を浮かべていた。
由紀の声に、野次馬の注目が集まってくる。場の雰囲気に耐えられなくなったみたいに、男は迷惑そうな顔で由紀を見つめ返していた。
「人違いだ。私は君のパパじゃないんだ」
男はそう吐き捨てると、体の向きを変えて足早に人混みの中に消えていった。
「パパ?」
由紀の声が、吹雪の音に消えていった。目を凝らしていないと見失いそうなほどの小さな体が、大きく揺れ始めた。
警報が消えていくと同時に、鮮明に記憶が蘇ってきた。
―― そうだった。僕は、はっきりと見ていたんだ
由紀が、本当のお父さんに拒絶される瞬間を。
何もしてやれずに、ただ黙って俯いた由紀の背中を見ているしかなかったことを。
そして、僕は大切な事を思い出し始めた。
しばらくして、由紀は乱暴に両目を擦ると、ゆっくりと僕の方へふり返った。
心臓が一拍だけ、強く胸を押し上げる感じがした。
由紀は笑っていた。でも、そこには今までの笑顔はなく、少し困ったようないつもの笑顔ができあがっていた。
「けんくん、あそぼ」
由紀は、困ったような笑顔を浮かべたまま僕のそばに歩み寄ってきた。
その瞬間、僕は全てを思い出し、そして、全てを理解した。
僕らが互いに拒絶し合った理由。
それは、由紀が本当のお父さんに拒絶されたという事実を、互いに共有してしまったからだ。
そして、由紀はその事実を記憶の底に沈めた。目の前にいる由紀からは、もうさっきの出来事は覚えていないという雰囲気しか感じられなかった。
だから、僕も忘れることにした。いや、忘れる以外に選択肢がなかった。幸か不幸かはわからないけど、この日から、小学校で再会するまで僕らは出会うことはなかった。
それが心理的にも影響してたのかもしれないけど、僕らは互いに出会ったことさえも記憶から消していた。
だから、お互い再会しても気づくことはなかった。
でも、気づかないだけで、思い出さないとは限らない。いつも一緒にいたら、何かのきっかけで思い出すかもしれない。
本能がそれを恐れたんだと思う。だから僕らは、お互いに惹かれながらも、深い仲になることを拒絶してしまった。今見た光景を思い出さないようにするために。
謎が解けた気がした。でも、少しも嬉しくなかった。
僕らの間を遮るもの。
それは、由紀が本当のお父さんに見捨てられたという、僕と由紀が共有し、互いに封印していた記憶だった。
僕はその間、ずっと頭の奥に沈んだ記憶をもがきながら探し続けていた。
でも、発作のように鳴り響く警報は収まらないし、記憶の映像もずっと黒塗りのままだった。
いつもなら十分で着く無人駅に、三十分かけて電車はとまった。一面は希に見る銀世界で、足跡とタイヤの跡が、淡く照らす街灯に消えていっていた。
おぼろ気だけど、記憶が微かに蘇ってきた。確かこの辺りは、一面が田園風景だったはず。今は白いベールに包まれて、巨大なキャンパスになっていた。そのキャンパスに描かれた車の轍を、時々滑りながら、まるで遠足みたいに市街地目指して歩き続けた。
――そう、まるで遠足みたいだった
初めての経験だった。由紀と二人、寄り添いながら、しっかりと手をつないで歩いていたことを思い出した。
時折通る車の明かりに驚きながら、どこか心細くて、でも、それでも由紀と一緒なら楽しかった。どこまでも、二人なら歩いて行けるんじゃないかって思ってた。
ゆっくりと舞い落ちる雪に包まれた静寂を、突然、虎の咆哮みたいなサイレンが切り裂いていった。
驚いてふり返ると、赤色灯を回したパトカーが、唸りを上げて通り過ぎていった。一台、二台と続いた後に、救急車が遅れまいといった感じで、パトカーを追いかけていった。
「びっくりしたね」
由紀が胸に手を当てて、白く長い息を吐いた。
僕も驚いて更に心音が跳ね上がったけど、でも、この胸を締め付けるような乱れは驚きだけではない気がした。
市街地の灯りが見え、大きな交差点が見えてきた。さっき走っていったパトカーと救急車が見え、交差点には人だかりができていた。
その人だかりを見て、また強烈な頭痛に襲われた。警報音が更に高くなって、咄嗟に僕は由紀の手を掴んだ。
「この先は行っちゃ駄目だ!」
不意に言葉が漏れた。自分でもびっくりするような大きな声を出していた。
由紀の肩が大きく跳ね、不安そうな顔で僕を見ていた。
「あそこには、行ってはいけない気がするんだ」
嫌な予感を抑えきれなかった。あの交差点がひどく怖いと思えた。あそこには、見てはいけないなにかがある気がして落ち着かなくなった。
「由紀、待って!」
視線を由紀から交差点に向けた時だった。
由紀は僕の手から飛び出すように、交差点めがけて走り出した。
「由紀、行っちゃ駄目だ!」
叫ぶと同時に追いかけたけど、鉛のように重く感じる足が上手く回らなかった。
追いつかない背中を目指して交差点に入った時、目に飛び込んできたのは凄惨な事故現場だった。
路上に男性が血を流して倒れていた。そばには大破したバイクと車が横たわっていた。
救急隊員の人が、ヘルメットを脱がそうとしていた。その様子を野次馬たちが固唾を飲んで見守っている。その光景を、由紀は驚いたような落ち着かないような表情で見ていた。
男性の頭からヘルメットが脱げた瞬間、由紀は「パパー!」と叫んで交差点内へ駆け出した。
世界がスローモーションになった。
走り出した由紀を追いかけて、僕も交差点へ入った。驚いた警察官の横をすり抜け、そして――。
救急隊員の横をすり抜け、交差点を渡りきった由紀は、人混みの中で小さな女の子を抱いた大柄な男の前で立ち止まった。
「パパー!」
由紀は甘えた声を出しながら、丸太のような足にしがみつこうとした。
けど、男は由紀を避けて、明らかに困惑した表情をした。
「パパ?」
きょとんとした顔で、由紀は男を見上げる。そばにいた女性が「誰?」と男に尋ねると、男は動揺した様子で「知らない子」と答えていた。
「由紀だよ!」
男の声に反応するみたいに、由紀が声を張り上げた。
「パパ、わたしだよ。由紀だよ。ねぇ、パパ、わたし、会いに来たんだよ」
由紀はつぶらな瞳に涙を溜めていた。でも、それを絶対に溢したくないといった感じで、震えながらも笑顔を浮かべていた。
由紀の声に、野次馬の注目が集まってくる。場の雰囲気に耐えられなくなったみたいに、男は迷惑そうな顔で由紀を見つめ返していた。
「人違いだ。私は君のパパじゃないんだ」
男はそう吐き捨てると、体の向きを変えて足早に人混みの中に消えていった。
「パパ?」
由紀の声が、吹雪の音に消えていった。目を凝らしていないと見失いそうなほどの小さな体が、大きく揺れ始めた。
警報が消えていくと同時に、鮮明に記憶が蘇ってきた。
―― そうだった。僕は、はっきりと見ていたんだ
由紀が、本当のお父さんに拒絶される瞬間を。
何もしてやれずに、ただ黙って俯いた由紀の背中を見ているしかなかったことを。
そして、僕は大切な事を思い出し始めた。
しばらくして、由紀は乱暴に両目を擦ると、ゆっくりと僕の方へふり返った。
心臓が一拍だけ、強く胸を押し上げる感じがした。
由紀は笑っていた。でも、そこには今までの笑顔はなく、少し困ったようないつもの笑顔ができあがっていた。
「けんくん、あそぼ」
由紀は、困ったような笑顔を浮かべたまま僕のそばに歩み寄ってきた。
その瞬間、僕は全てを思い出し、そして、全てを理解した。
僕らが互いに拒絶し合った理由。
それは、由紀が本当のお父さんに拒絶されたという事実を、互いに共有してしまったからだ。
そして、由紀はその事実を記憶の底に沈めた。目の前にいる由紀からは、もうさっきの出来事は覚えていないという雰囲気しか感じられなかった。
だから、僕も忘れることにした。いや、忘れる以外に選択肢がなかった。幸か不幸かはわからないけど、この日から、小学校で再会するまで僕らは出会うことはなかった。
それが心理的にも影響してたのかもしれないけど、僕らは互いに出会ったことさえも記憶から消していた。
だから、お互い再会しても気づくことはなかった。
でも、気づかないだけで、思い出さないとは限らない。いつも一緒にいたら、何かのきっかけで思い出すかもしれない。
本能がそれを恐れたんだと思う。だから僕らは、お互いに惹かれながらも、深い仲になることを拒絶してしまった。今見た光景を思い出さないようにするために。
謎が解けた気がした。でも、少しも嬉しくなかった。
僕らの間を遮るもの。
それは、由紀が本当のお父さんに見捨てられたという、僕と由紀が共有し、互いに封印していた記憶だった。