気がつくと、僕は駅の構内にいた。夕方にしては西日が弱く、夜の戸張が落ちはじめていた。どうやら季節は冬みたいで、構内にはコート姿の人たちがたくさんいることから、帰宅ラッシュの最中だとわかった。

 頭がぼんやりする中、とりあえず状況を確認してみる。すぐに、いくつか異変に気づいた。その中でも一番の異変は、僕の体が見えないことだった。

 試しに腕を動かしてみたけど、手を上げる感覚しかなかった。まるで意識だけが存在しているみたいで、脳みそだけが宙に浮いているような感じだった。

 違和感は他にもあったけど、とりあえず今は状況確認を優先することにした。駅の構内にいることはわかったけど、どこの駅かまではすぐにわからなかった。

 でも、答えは目の前にあった。駅名が書かれた看板を見つけて、ここは僕が住む町にある駅だとわかった。

 ただ、わかったとしても実感がなかった。僕の町にある駅は、そこから東西南北に乗り換えがある大きめの駅なんだけど、ここは記憶にある駅とは違っているように見えた。

 改札口から流れてくる人たちを無意識に避けながら、探索を続けていく。本当ならあるはずの店や売店がなく、代わりに覚えのない店が並んでいた。

「けんくん」

 不意に呼ばれてふり返ると、そこには赤い半袖シャツにベージュの半ズボンをはいた保育園児くらいの女の子が立っていた。

 ――ひょっとして、由紀?

 最初気づかなかったけど、よく見るとその顔には由紀の面影が見え、うっすらと赤みを帯びた白い肌が、どこか懐かしく感じられた。

「あそぼ」

 由紀は僕の姿が見えているみたいで、見えない僕の手を掴むと、構内を引っ張り回した。その感覚がやっぱり懐かしくて、そこでやっと、僕はここで由紀と出会っていたことを思い出した。

 ――なんで、忘れてたんだろう

 一度思い出したら、後は芋づる式に記憶が蘇ってきた。子供の頃、母親に連れられて父親の迎えに行っていた。その時、僕は確かに由紀と出会っていた。

 大きな駅はまるで迷路みたいで、僕らはお互いの手をしっかり握りながら、今みたいに大人たちの群れの中を駆け回って遊んでいた。

 やがて探索に飽きると、僕らは決まってパン屋さんを覗き込んだ。甘くていい香りがする中、僕はいつもチョコレートパンを買っていたことを思い出した。

 僕の見えない手から離れた由紀は、半ズボンのポケットから、百円玉を二枚取り出し、手のひらに並べてうんうんうなり始めた。

 ――ちょっと待って。何で半袖に半ズボンなんだ?

 腕をさすりながら考え込んでいる由紀を見て、今更ながらおかしなことに気づいた。僕は寒さを感じないけど、辺りの様子から、今が冬だということは間違いない。けど、由紀の格好は間違いなく夏の格好だ。

 理由を思い出そうとしている僕のそばで、由紀が大きく頷いた。

「おまもりだから」

 由紀はそう呟くと、百円玉を握りしめてポケットに戻した。

 そうだった。いつも由紀は買い物するか迷って、でも結局は買わずに我慢していた。だから僕は、百円で買えるチョコレートパンを一つ買って、由紀と半分ずつ食べていたことを思い出した。

 蘇った記憶の通りにパンを買って、半分を由紀に渡した。由紀は、いつもの困ったように笑う笑顔じゃなくて、快晴の空に輝く太陽のような笑顔を見せてくれた。

 ――由紀、普通に笑えるんだ

 いつもの笑顔じゃない、純粋な笑顔がひどく懐かしくて、なんだかくすぐったいような嬉しさが込み上げてきた。

 二人並んで座っていると、パン屋さんのおじさんが写真を撮ってくれた。写真屋さんで現像するものじゃなく、すぐに写真が出てくるもので、パン屋さんの店内にはお客さんの写真がたくさん飾られていた。

 一枚目を由紀が受け取り、二枚目を僕が受け取ろうとした時だった。

「由紀!」

 近くで男の人の怒声が響き渡った。由紀は小さな肩を大きく跳ね上げると、時間が止まったように体も表情も硬直させていた。

 もう一度怒声が響いたところで、声の主が由紀のお父さんだとわかった。スーツ姿は見慣れてたけど、いつも見ている姿よりか若い感じがした。

 少し強面のお父さんは、由紀の姿を見つけると眉間に皺を寄せて近づいてきた。そして、由紀の前に立つと同時に、由紀へ平手打ちをした。

「ちょっと、おじさん!」

 乾いた音に呆気にとられたけど、すぐに立ち上がって二度目の平手打ちを制しようとした。

 でも、それは無駄に終わった。僕の姿がお父さんには見えないらしく、さらには、お父さんの腕が僕の体をすり抜けていくせいで、結局、由紀は無抵抗のまま両頬を打たれ続けて肩を震わせていた。

 胃の底がひっくり返るような怒りが湧いてきた。乱暴に由紀の手を掴んだお父さんは、まるで荷物を引っ張るかのように由紀を連れていった。

 ぶつけようのない怒りを抱えたまま、僕は茫然と立ちつくしていた。

 ――そうだった。今さらだけど、やっと思い出した

 由紀は、お父さんにいつも怒られて、叩かれていた。僕はその様子を、いつも脅えながら見ているだけだった。助けることもできなくて、こうして見送るだけしかできなかったということを、悔しさと悲しさと共に思い出した。

 一度だけふり返った由紀が、小さく手を振った。

 懐かしさは完全に消え、代わりに息苦しいほどの虚しさに包まれていった。