ありさたちと別れた時には、午後七時を過ぎていた。
全速力で自転車を漕ぎ、この町を見下ろせる小高い丘の上にある公園を目指す。由紀と出会ってから毎年行っている恒例の儀式だけど、今回はかつてないほどの緊張に包まれていた。
公園の薄暗い街灯が見え、駐車場を抜けると、そこそこの広さの公園がある。それなりの遊具は揃っていて、ブランコが風に揺れて寂しげな音を奏でていた。
息を整えながら辺りの様子を伺ってみたけど、人の気配は感じなかった。やっぱり駄目だったのかなと激しく肩を落としたところで、落とした肩を優しく叩かれた。
「賢くん、来てくれたんだ」
ふり返ると、由紀がいつもの小豆色のジャージ姿で困ったように笑っていた。その姿を見た瞬間、跳ね上がった心臓で喉が塞がれ、呼吸も声を出すこともできなかった。
「誕生日、おめでとう」
何とか声を絞り出して伝えると、由紀の外灯に照らされた頬が少しだけ赤くなった。
「今日言われた中で、一番嬉しいよ」
少し照れながらもはっきりと由紀が口にした言葉。その思いがけない言葉に、恥ずかしい気持と嬉しい気持ちで顔が熱くなるのを感じた。
久しぶりの二人だけの世界。何となく居心地が悪い雰囲気だったけど、どちらからというわけでもなく歩きだした時には、僕らはかつての僕らに戻っていた。
一緒に色んな時間と経験を共有した相手。
いいことばかりじゃない。時には、口をきかなくなるほどの喧嘩も一杯した。
けど、それでも僕らは、互いが磁石みたいに気がつくと二人で過ごしてきた。
――そう、あの日までは
去年の夏祭りの帰り道だった。薄闇の中、僕らは互いの想いを確かめ合うように顔を近づけた。でも、後僅かな距離まで近づいた時に、僕らは互いを拒絶してしまった。
理由はわからない。まるで磁石の同極が反発するように、僕らはお互いを突き放してしまったのだ。
由紀は、そのことをどう思っているんだろう。あの日以来、なんとなく距離ができてしまった感は否めなかった。
そんなことを、見慣れた横顔に問いかけてみる。はっきりとした答えはないけど、お互いに恋人がいるという現実だけはあった。
――それでも
今日、久しぶりにあの頃に戻ったような感覚を実感して改めて思う。
やっぱり僕は、由紀が大好きだってことを。
「うわ、綺麗だね」
ブランコに揺られながら他愛のない話をしていたところに、由紀が公園を囲むフェンス越しにキャッスルを指さして声を上げた。
ブランコからおり、少しよろけながらフェンスにしがみついた由紀が、宝物を見るような目でキャッスルを眺め始めた。そんな由紀にならい、僕も由紀の隣に並んだ。
視界の先には、夜を彩る街の明かりが天の川のように煌めいていた。その先、この丘と同じ高さから下界を見下ろすキャッスルが蒼白く輝いていた。
「由紀は、キャッスルに行ったことある?」
さりげなく問いかけた僕を、由紀は不思議そうに見つめてきた。
「ないよ。賢くんは?」
一瞬考えて、僕は「ない」と返答した。実は一度だけ、由紀との間に生じた拒絶の正体を知りたくて、過去にキャッスルに行ったことがある。キャッスルには、忘れた記憶を取り戻すだとか、知りたいことに答えてくれるといった言い伝えがあったからだ。
そんな迷言を信じて忍び込んだけど、結局薄暗い場所で意味もなく朝を迎えるはめになっただけだった。
「忘れてしまった記憶を思い出すって話、本当かな?」
「どうだろう。 知りたいことに答えてくれるって話もあるけど、迷信だと思うよ」
「でも、去年だったかな、調査に来た大学の先生がそんな経験をしたって話をしてたよ」
由紀によれば、去年の調査中に大学の教授が不思議な体験をしたとして話題になったらしい。キャッスルの中で苦い過去の記憶を思い出し、まるでバーチャルリアリティのような世界で再度苦い体験と向き合ったって話だ。
当時は話題になったらしいけど、あまり信用できない性質の人だったらしく、一部のマスコミが取り上げただけで、信用できる話かどうかは微妙なところらしい。
「私、行ってみたいな」
穏やかに吹いた風にさえも消されそうか弱い声が聞こえてきた。由紀の横顔を見ると、由紀はまばたきを忘れたみたいに、キャッスルを見つめていた。
――由紀には思い出したい何かがあるの?
それは僕と同じ想いだろうか。僕らが互いに拒絶しあった原因を、由紀は探そうとしているんだろうか。
だとしたら、それは素直に嬉しく思う。と同時に、それはないなとも思えてくる。由紀と出会ってからの記憶で、僕が忘れてしまっているものは一つもないはずだから。
――でも、忘れていることさえ忘れていることがあったら?
ふと、そんなことを考えていると、由紀がふらふらと動く気配がした。どうしたんだろうと思った瞬間、由紀が僕の胸に顔を埋めてきた。
「しばらく、このままにさせて」
胸の中から聞こえてきた声は、泣き声だった。由紀は、僕に体を預けると小さな肩を震わせ続けた。
「少しだけ、抱きしめて欲しい」
「え?」
急なことに驚いたけど、僕は由紀に言われるまま、小さな肩を抱き寄せた。
由紀の肩は思った以上に細かった。柔らかくて暖かい温もりが伝わってくるけど、力を込めれば簡単に壊れそうなくらい小さな肩を、静かに震わせ続けていた。
まるで、由紀は小さな体では抱えきれない何かを背負っているように感じた。
それが何かはわからない。だから、少しだけでもいいから教えて欲しいと思った。そうすれば、今までみたいに二人で分かち合えるような気がした。
でも、その願いが叶うことは最後までなかった。
結局、その後も由紀は、僕の心にしがみつくかのようにずっと泣き続けるだけで、理由を最後まで語ることはなかった。
全速力で自転車を漕ぎ、この町を見下ろせる小高い丘の上にある公園を目指す。由紀と出会ってから毎年行っている恒例の儀式だけど、今回はかつてないほどの緊張に包まれていた。
公園の薄暗い街灯が見え、駐車場を抜けると、そこそこの広さの公園がある。それなりの遊具は揃っていて、ブランコが風に揺れて寂しげな音を奏でていた。
息を整えながら辺りの様子を伺ってみたけど、人の気配は感じなかった。やっぱり駄目だったのかなと激しく肩を落としたところで、落とした肩を優しく叩かれた。
「賢くん、来てくれたんだ」
ふり返ると、由紀がいつもの小豆色のジャージ姿で困ったように笑っていた。その姿を見た瞬間、跳ね上がった心臓で喉が塞がれ、呼吸も声を出すこともできなかった。
「誕生日、おめでとう」
何とか声を絞り出して伝えると、由紀の外灯に照らされた頬が少しだけ赤くなった。
「今日言われた中で、一番嬉しいよ」
少し照れながらもはっきりと由紀が口にした言葉。その思いがけない言葉に、恥ずかしい気持と嬉しい気持ちで顔が熱くなるのを感じた。
久しぶりの二人だけの世界。何となく居心地が悪い雰囲気だったけど、どちらからというわけでもなく歩きだした時には、僕らはかつての僕らに戻っていた。
一緒に色んな時間と経験を共有した相手。
いいことばかりじゃない。時には、口をきかなくなるほどの喧嘩も一杯した。
けど、それでも僕らは、互いが磁石みたいに気がつくと二人で過ごしてきた。
――そう、あの日までは
去年の夏祭りの帰り道だった。薄闇の中、僕らは互いの想いを確かめ合うように顔を近づけた。でも、後僅かな距離まで近づいた時に、僕らは互いを拒絶してしまった。
理由はわからない。まるで磁石の同極が反発するように、僕らはお互いを突き放してしまったのだ。
由紀は、そのことをどう思っているんだろう。あの日以来、なんとなく距離ができてしまった感は否めなかった。
そんなことを、見慣れた横顔に問いかけてみる。はっきりとした答えはないけど、お互いに恋人がいるという現実だけはあった。
――それでも
今日、久しぶりにあの頃に戻ったような感覚を実感して改めて思う。
やっぱり僕は、由紀が大好きだってことを。
「うわ、綺麗だね」
ブランコに揺られながら他愛のない話をしていたところに、由紀が公園を囲むフェンス越しにキャッスルを指さして声を上げた。
ブランコからおり、少しよろけながらフェンスにしがみついた由紀が、宝物を見るような目でキャッスルを眺め始めた。そんな由紀にならい、僕も由紀の隣に並んだ。
視界の先には、夜を彩る街の明かりが天の川のように煌めいていた。その先、この丘と同じ高さから下界を見下ろすキャッスルが蒼白く輝いていた。
「由紀は、キャッスルに行ったことある?」
さりげなく問いかけた僕を、由紀は不思議そうに見つめてきた。
「ないよ。賢くんは?」
一瞬考えて、僕は「ない」と返答した。実は一度だけ、由紀との間に生じた拒絶の正体を知りたくて、過去にキャッスルに行ったことがある。キャッスルには、忘れた記憶を取り戻すだとか、知りたいことに答えてくれるといった言い伝えがあったからだ。
そんな迷言を信じて忍び込んだけど、結局薄暗い場所で意味もなく朝を迎えるはめになっただけだった。
「忘れてしまった記憶を思い出すって話、本当かな?」
「どうだろう。 知りたいことに答えてくれるって話もあるけど、迷信だと思うよ」
「でも、去年だったかな、調査に来た大学の先生がそんな経験をしたって話をしてたよ」
由紀によれば、去年の調査中に大学の教授が不思議な体験をしたとして話題になったらしい。キャッスルの中で苦い過去の記憶を思い出し、まるでバーチャルリアリティのような世界で再度苦い体験と向き合ったって話だ。
当時は話題になったらしいけど、あまり信用できない性質の人だったらしく、一部のマスコミが取り上げただけで、信用できる話かどうかは微妙なところらしい。
「私、行ってみたいな」
穏やかに吹いた風にさえも消されそうか弱い声が聞こえてきた。由紀の横顔を見ると、由紀はまばたきを忘れたみたいに、キャッスルを見つめていた。
――由紀には思い出したい何かがあるの?
それは僕と同じ想いだろうか。僕らが互いに拒絶しあった原因を、由紀は探そうとしているんだろうか。
だとしたら、それは素直に嬉しく思う。と同時に、それはないなとも思えてくる。由紀と出会ってからの記憶で、僕が忘れてしまっているものは一つもないはずだから。
――でも、忘れていることさえ忘れていることがあったら?
ふと、そんなことを考えていると、由紀がふらふらと動く気配がした。どうしたんだろうと思った瞬間、由紀が僕の胸に顔を埋めてきた。
「しばらく、このままにさせて」
胸の中から聞こえてきた声は、泣き声だった。由紀は、僕に体を預けると小さな肩を震わせ続けた。
「少しだけ、抱きしめて欲しい」
「え?」
急なことに驚いたけど、僕は由紀に言われるまま、小さな肩を抱き寄せた。
由紀の肩は思った以上に細かった。柔らかくて暖かい温もりが伝わってくるけど、力を込めれば簡単に壊れそうなくらい小さな肩を、静かに震わせ続けていた。
まるで、由紀は小さな体では抱えきれない何かを背負っているように感じた。
それが何かはわからない。だから、少しだけでもいいから教えて欲しいと思った。そうすれば、今までみたいに二人で分かち合えるような気がした。
でも、その願いが叶うことは最後までなかった。
結局、その後も由紀は、僕の心にしがみつくかのようにずっと泣き続けるだけで、理由を最後まで語ることはなかった。