久しぶりに実家に帰った俺は、すっかり変わった町並みを、春の陽気の誘いもあって家族で散歩することにした。
驚いたことに、キャッスルがある丘は、今は公園になっていた。もともと桜が多い所だったことと、キャッスルの調査が打ち切りになり、パワースポットとして売りだしたこともあって、今ではちょっとした観光地にもなっていた。
あの日以来、登ることはなかった丘を妻と五歳になる娘と一緒に登っていく。来るのは実に十五年ぶりだった。
丘一面に広がった桜並木の下では、花見で盛り上がる人たちと観光客たちで賑わっていた。観光客の中には学生服の姿があり、大型バスがとまっているのを見ると、県外からも人が訪れているようだった。
トイレと愚図りだした娘を妻に預け、ふと、満開の桜を眺めてみた。なんだか久しぶりに桜を見たような気がして、どこかくすぐったい気持ちになった。
由紀と別れてからは、何となく高校、大学と進学し、それなりの企業に就職した。時々息が詰まりそうになることもあるが、多分、このまま何となく生きていくんだろうなと感じている。
「何考えてるの?」
不意に声をかけられ、振り返るとジャージ姿の女の子が力強い眼差しで俺を眺めていた。
「ちょっと昔のことかな」
「ふーん、そうなんだ。でも、それはいけませんね」
女の子が首を傾げる。その姿が、一瞬由紀と重なって見えた。
「何がいけないんだ?」
まさかと思い、とりあえず話を続けてみた。
「昔のことにとらわれては駄目って、よく言うじゃないですか」
女の子は得意気に笑うと、由紀との約束とは関係ないことを語りだした。
――だよな
一瞬でも由紀を重ねたことに、俺は苦笑するしかなかった。
「君、名前は?」
「おじさんが女子中学生に名前を聞いたら、犯罪になりますよ」
「すごい世の中だな。それは知らなかった」
「常識ですよ。あ、でも、おじさんから名前を名乗ったら、ギリ、セーフです」
要するに、名前を知りたければ先に名乗ってくれとのことらしい。俺は頭をかきながら、名前を告げた。
「私は、ありさって名前だよ」
女の子の名前に、予想外の角度から攻められた感じがして反射的に吹き出した。
「ちょっと、失礼なんだけど。おじさんだって、けんいちって、堅物な名前じゃん」
「あ、いや、違うんだ。ちょっと知った人と同じ名前だったんだ」
適当にごまかしていると、友達が女の子を迎えにきた。
「さよなら、けんくん」
悪戯っぽく笑いながら、女の子は手を振って友達の所へ戻っていった。
――けんくん、か
女の子が走り去った後、そう心で繰り返した瞬間、俺はあることに気づいて慌てふり返った。
――けんくん? 俺のことをそう呼ぶのは由紀しかいなかったはず
慌てて振り返ったけど、人混みに消えた女の子の姿はもう見えなくなっていた。
あり得ない話だった。由紀が会いに来たんじゃないかと、一瞬思ってしまった。
だが、あり得ない話だと思い直した。ただの偶然が重なったか、あるいは、キャッスルが見せた幻か――。
俺は自分の妄想に苦笑し、もう一度桜越しに空を眺めた。
「どうしたの?」
トイレから戻ってきた二人が、不思議そうに俺を見ていた。
「女の子が急に話しかけてきたんだよ」
「何言ってるの? ずっと一人でいたじゃない」
「え?」
「ちょっと、変な動画観すぎじゃないの?」
呆れたように呟く妻に、娘が非難めいた視線を重ねてきた。
――まさか、いや
突然のことに動揺しながらも、再び女の子を探してみたが、結局視界の中に女の子が映ることはなかった。
――さよなら、けんくん、か
胸に僅かに走った痛みに苦笑し、桜並木に目を向ける。ひょっとしたら、由紀が本当に会いに来て、今の俺を見てもう大丈夫だと言ってくれたのかもしれない。
そう考えた瞬間、一気に視界が滲むのを感じた。
「パパ、泣いてるの?」
不思議そうな声で、娘が心配そうに見上げてきた。
「いや、桜の花びらが目に入っただけだよ」
その頭を撫でながら、俺は無理に笑ってみせた。
あの頃と違い、俺にも家族ができた。背負う物は重いが、前に歩ける力は貰えるようになった。
それにつれて、由紀のことも段々と薄れていった。いいのか悪いのかわからないが、事実として俺の中ではそう変化していた。
それでも、やはり全てを忘れることはできなかった。全力でかけ抜けたあの初恋は、今も形を変えて歪に輝いているのだから。
もしかしたら、思い出とはそういうものかも知れない。長い時間に晒されても記憶として残るものなら、由紀には内緒だが、こっそり胸にしまっておこうと思う。
快晴の空を見上げ、俺は久しぶりに胸を張って言えそうな気がして、いつもの言葉を思い出に向けて叫んでみた。
由紀、俺は今日も何とか生きてます――。
<了>
驚いたことに、キャッスルがある丘は、今は公園になっていた。もともと桜が多い所だったことと、キャッスルの調査が打ち切りになり、パワースポットとして売りだしたこともあって、今ではちょっとした観光地にもなっていた。
あの日以来、登ることはなかった丘を妻と五歳になる娘と一緒に登っていく。来るのは実に十五年ぶりだった。
丘一面に広がった桜並木の下では、花見で盛り上がる人たちと観光客たちで賑わっていた。観光客の中には学生服の姿があり、大型バスがとまっているのを見ると、県外からも人が訪れているようだった。
トイレと愚図りだした娘を妻に預け、ふと、満開の桜を眺めてみた。なんだか久しぶりに桜を見たような気がして、どこかくすぐったい気持ちになった。
由紀と別れてからは、何となく高校、大学と進学し、それなりの企業に就職した。時々息が詰まりそうになることもあるが、多分、このまま何となく生きていくんだろうなと感じている。
「何考えてるの?」
不意に声をかけられ、振り返るとジャージ姿の女の子が力強い眼差しで俺を眺めていた。
「ちょっと昔のことかな」
「ふーん、そうなんだ。でも、それはいけませんね」
女の子が首を傾げる。その姿が、一瞬由紀と重なって見えた。
「何がいけないんだ?」
まさかと思い、とりあえず話を続けてみた。
「昔のことにとらわれては駄目って、よく言うじゃないですか」
女の子は得意気に笑うと、由紀との約束とは関係ないことを語りだした。
――だよな
一瞬でも由紀を重ねたことに、俺は苦笑するしかなかった。
「君、名前は?」
「おじさんが女子中学生に名前を聞いたら、犯罪になりますよ」
「すごい世の中だな。それは知らなかった」
「常識ですよ。あ、でも、おじさんから名前を名乗ったら、ギリ、セーフです」
要するに、名前を知りたければ先に名乗ってくれとのことらしい。俺は頭をかきながら、名前を告げた。
「私は、ありさって名前だよ」
女の子の名前に、予想外の角度から攻められた感じがして反射的に吹き出した。
「ちょっと、失礼なんだけど。おじさんだって、けんいちって、堅物な名前じゃん」
「あ、いや、違うんだ。ちょっと知った人と同じ名前だったんだ」
適当にごまかしていると、友達が女の子を迎えにきた。
「さよなら、けんくん」
悪戯っぽく笑いながら、女の子は手を振って友達の所へ戻っていった。
――けんくん、か
女の子が走り去った後、そう心で繰り返した瞬間、俺はあることに気づいて慌てふり返った。
――けんくん? 俺のことをそう呼ぶのは由紀しかいなかったはず
慌てて振り返ったけど、人混みに消えた女の子の姿はもう見えなくなっていた。
あり得ない話だった。由紀が会いに来たんじゃないかと、一瞬思ってしまった。
だが、あり得ない話だと思い直した。ただの偶然が重なったか、あるいは、キャッスルが見せた幻か――。
俺は自分の妄想に苦笑し、もう一度桜越しに空を眺めた。
「どうしたの?」
トイレから戻ってきた二人が、不思議そうに俺を見ていた。
「女の子が急に話しかけてきたんだよ」
「何言ってるの? ずっと一人でいたじゃない」
「え?」
「ちょっと、変な動画観すぎじゃないの?」
呆れたように呟く妻に、娘が非難めいた視線を重ねてきた。
――まさか、いや
突然のことに動揺しながらも、再び女の子を探してみたが、結局視界の中に女の子が映ることはなかった。
――さよなら、けんくん、か
胸に僅かに走った痛みに苦笑し、桜並木に目を向ける。ひょっとしたら、由紀が本当に会いに来て、今の俺を見てもう大丈夫だと言ってくれたのかもしれない。
そう考えた瞬間、一気に視界が滲むのを感じた。
「パパ、泣いてるの?」
不思議そうな声で、娘が心配そうに見上げてきた。
「いや、桜の花びらが目に入っただけだよ」
その頭を撫でながら、俺は無理に笑ってみせた。
あの頃と違い、俺にも家族ができた。背負う物は重いが、前に歩ける力は貰えるようになった。
それにつれて、由紀のことも段々と薄れていった。いいのか悪いのかわからないが、事実として俺の中ではそう変化していた。
それでも、やはり全てを忘れることはできなかった。全力でかけ抜けたあの初恋は、今も形を変えて歪に輝いているのだから。
もしかしたら、思い出とはそういうものかも知れない。長い時間に晒されても記憶として残るものなら、由紀には内緒だが、こっそり胸にしまっておこうと思う。
快晴の空を見上げ、俺は久しぶりに胸を張って言えそうな気がして、いつもの言葉を思い出に向けて叫んでみた。
由紀、俺は今日も何とか生きてます――。
<了>