こじんまりとした個室のベッドに、由紀は静かに横たわっていた。点滴の管に心電図のコード、酸素マスクを付けた姿を見ても、まるで実感のない映画を観ている気分だった。

 由紀は僕に気づいたのか、ぼんやりとした瞳を向けてきた。

「由紀、屋上に行こうか」

 由紀はしばらくぼんやりしてたけど、微かに、でもはっきりと頷いてくれた。

 そうと決まればと、僕は由紀の体に付けられたものを外し、急いで由紀を抱き抱えて部屋を飛び出した。

 廊下の突き当たりが非常階段になっていて、そこから屋上へかけ上がった。狭苦しい部屋から出たせいか、それとも僕の無茶な冒険を昔みたいに楽しんでいるのか、由紀の表情が少しだけ和らいだように見えた。

 屋上に出ると、すっかり町は夜の顔に変わっていて、満天の星空の下、いくつものイルミネーションが夜の景色を彩っていた。

 フェンス越しの風景の中に、蒼白く輝くキャッスルが見え、由紀がゆっくりとキャッスルを指差した。

「由紀、遺言書を読んだよ」

 そう切り出すと、由紀は小さく震えた。

「お父さんに会わせてあげられなくてごめんね」

 僕の言葉に、由紀が小さく首をふった。その姿を見て、僕はずっと考えてたことを口にする決心をした。

 由紀の本当の望みは、昔みたいに笑うことだ。だとしたら、どうやって笑わせられるか。お父さんに会うことで笑うようになれるかもと由紀は思ってたけど、それは違う気がした。

 由紀を笑わせることができるのは、僕だけだと思った。その方法はわからないけど、一つの賭けにでることにした。

「由紀、お願いのことなんだけど、由紀の言う通り、僕に恋人ができたら由紀のことは全て忘れるよ。昔のことを忘れたくらいだから、今までのことも忘れて、由紀を解放してあげるから。それは約束するよ」

 言葉にしながら、少しずつ緊張が喉を締め付けてきた。

 僕の言葉に、由紀が大きく目を開いた。

 視線が絡んだと思った。

 言うなら今しかないと思った。
 
「由紀、僕は君が大好きです」

 ずっと言えなかった言葉を、やっと口にすることができた。ずっと想い続け、なかなか伝えることができなかった想いを、精一杯言葉に詰め込んだ。

 随分と遠回りで、不器用な片想いだったかもしれない。

 たった一枚の写真の存在ですれ違ってしまった僕らだけど、全てを思い出した僕は、由紀が望む笑顔を浮かべてみせた。

「もう時間はないとしても、由紀の恋人になりたいんだ。そして、あの頃みたいに、駅の中を冒険してた時のように、一緒に笑いたいんだ」

 僕の賭け。それは、由紀が抱えているトラウマを壊すくらいの想いをぶつけることだった。

 由紀は黙って僕を見つめていた。

 僕が昔のことを思い出したことに気づいたみたいで、震える手で僕の頬を撫でてきた。

 夜空の星が、僕らを見守るようにどこまでも輝きを広げていた。

 流れ星が一つ、由紀の背中越しに遠くの空から落ちていくのが見えた。

 そして――。

 一度目を瞑った由紀が、はっきりとあの頃の笑顔を見せてくれた。

 その笑顔を見て、僕も自然と顔が綻ぶのを感じた。

 最後に笑いあえてよかった。

 笑顔の由紀と目があった。

 僕は、由紀に誘われるようにゆっくりと由紀と口づけを交わした。

 長いようで、でも、一秒間ほどの時間だったと思う。

 それでもよかった。確かに一秒間だけは、僕らは恋人になれたのだから――。

 唇を離すと同時に、由紀は最高の笑顔のまま、僕の腕から満天の星空へ旅立っていった。