太陽がキャッスルの陰に落ちていった頃、僕はもつれる足を酷使しながら、病院に駆け込んだ。
フロアに人気はなかったけど、すぐに由紀のお母さんが声をかけてくれた。
「あの、由紀の具合は?」
僕の問いに、お母さんは涙をこぼしながら弱々しく首をふった。お母さんいわく、もういつ亡くなってもおかしくないらしい。
「最後に、あの子に会ってくれるよね?」
お母さんの祈るような言葉に罪悪感が増す中、僕は顔を伏せて首を横にふった。
「僕には由紀に会う資格はありません」
「どうして?」
「由紀は、最後の時間を使ってお父さんを探してました。だから、僕もお父さんに会わせるって約束したんです。なのに、僕はそれすらもできなかったんです」
ずっと悩んでいたことが、堪えきれない嗚咽となって漏れた。約束一つ守れなかったのに、のこのこ由紀に会いになど行けるわけがなかった。
「それは違うんじゃないかな」
疲れた顔に笑顔を浮かべたお母さんが、そっと僕の肩を撫でてくれた。
「多分賢一くん、何か勘違いしてると思うよ」
「勘違い、ですか?」
お母さんの意外な言葉に、僕は掠れた声で聞き返した。お母さんは微笑みながら大きく頷いていた。
「由紀に頼まれてたんだけど、今、渡したほうがいいみたいね」
お母さんは諭すように呟くと、『遺言書』と書かれた白い封筒を僕に手渡してきた。
「あの子、遺言書の意味を勘違いしてて。本当は、財産の処分を家族に伝えるものなのに、故人の最後の意志を伝えるものってだけ覚えてしまってたみたい」
お母さんは困ったように笑っていた。その笑顔が、由紀とそっくりに見えた。
「あの子が最後に願ってたもの、受け取ってもらえる?」
お母さんの言葉に促されるように、僕は封筒を開けた。中には、可愛いらしいデザインの用紙が入っていて、由紀のちょっとだけ丸い癖のある文字が並んでた。
「由紀がいなくなる直前に書いたものよ。あ、それと、これね。由紀が大事に握りしめてた写真」
お母さんが手渡してきた写真は、多分、由紀が見つけたお父さんの笑顔が写った写真だと思った。
でも、受け取って目を落とした瞬間、僕は世界の時間が止まってしまったみたいに写真に釘付けになった。
「その写真は、小さい頃からあの子の宝物なの」
お母さんの言葉が遠くに聞こえた。震える手で写真を眺めたまま、僕は記憶にある光景を思い出した。
写真には、パン屋の前で手をつないで笑う小さい頃の僕と由紀が写っていた。
ちょっと恥ずかしそうな顔で笑う僕の隣で、由紀は満面の笑顔を浮かべていた。
――確かあの時
パン屋のおじさんに写真を撮ってもらったとき、一枚目を由紀は受け取っていた。でも、その後、由紀の亡くなったお父さんが来たから、僕は写真を受け取れてなかった。
「ということは、由紀は――」
「そうよ。賢一くんは忘れてたみたいだけど、あの子はずっとその写真と一緒に覚えてたの。全部じゃないけど、賢一くんのことだけは、小学校で再会した時にはちゃんと覚えていたんだよ」
お母さんは笑いながら、でも、優しく包み込むように全てを教えてくれた。
――忘れて、なかったんだ
写真を見ながら、色んな事実に頭が混乱しそうになった。それでも、僕はなんだか温かい空気に包まれるのを感じた。
お父さんが由紀を拒絶したせいで、僕は由紀の存在ごと記憶の底に沈めていた。
でも、由紀は違っていた。僕のことをちゃんと覚えていてくれた。
けど、ふと疑問を感じた。
今まで由紀は、僕のことを覚えているような素振りは見せなかった。覚えてるなら、昔のことに触れてもいいはずなのに、そんな気配さえ出していなかった。
その答えは、遺言書にあると思った。一度お母さんの顔を見て、お母さんが頷くのを確認してから文字に目を落とした。
賢くんへ
この手紙を賢くんが読んでいる頃は、多分私はもうこの世にいないと思います。だんだん身体も思うように動かなくなってきたから、今のうちに賢くんへの想いを残しておこうと思います。
保育園の頃に出会った時から、私は賢くんのことが好きでした。駅の中での大冒険は今でも大切な思い出の一つです。
しばらく会えなかったけど、小学校で再会した時はとても嬉しかったです。でも、賢くんは私のこと全部忘れてたみたいで、ちょっとだけ悲しくもありました。
でも、すぐに賢くんは私と仲良くしてくれたよね。まわりに冷やかされても、賢くんは相変わらず私と一緒にいてくれたから、昔に戻ったみたいで嬉しかったです。
実は私、ずっと悩んでいたことがありました。それは、私は笑い方を忘れてしまったということです。あの時みたいに、なぜか素直に笑えなくて、ずっとそのことが気になっていました。
多分、私が上手く笑えないことと、賢くんが私を忘れてしまっていることに、何か意味があるような気がして、私が覚えていることは黙っておくことにしました。
でも、その理由を知るきっかけになりそうな事実に最近気づきました。お父さんだと思ってた人が亡くなって、そのことがきっかけで、私には別に本当のお父さんがいることを知りました。
記憶の中に、うっすらとお父さんの影が見えた時、私は笑えなくなった理由と賢くんが私のことを覚えていない理由が、そこにあるんじゃないかって思いました。
もう賢くんの知っている通り、私は癌に冒されています。お医者さんが言うには、もう助からないそうです。
あの日、賢くんと一緒に行った花火大会のこと覚えてますか? ずっと好きだった賢くんとキスするんだって思った瞬間、私はもの凄く怖くなりました。
あのとき既に、私は癌の告知を受けてました。だから、これ以上仲良くなって、いつかくる別れを考えると、怖くて、悲しくて、私は賢くんを拒絶していました。
ただ、賢くんも私のことを拒絶してましたね。理由はわからないけど、これがいいきっかけだと思い、私は賢くんから離れることにしました。ちょうど告白してきた人がいたし、賢くんもありさちゃんと付き合うようになったから、これでいいのかなって思いました。
でもね、賢くん。私、賢くんと離れてわかったんだ。私、賢くんのこと、やっぱり大好きだってことが。ありさちゃんと仲良くしてるのを見て我慢我慢と思ってたけど、やっぱり無理でした。
だから私、決心しました。残された時間を使って、お父さんに会うと決めました。私が上手く笑えない理由を見つけ、そして、もう一度昔みたいに笑えるようになったら、その時、もう一度だけ賢くんと昔みたいに笑いたいと決めました。
その為に、私、キャッスルに行ってきます。キャッスルが受け入れてくれるか、どんな結果になるかはわかりません。上手く笑えなくなった理由にちゃんとたどり着けるか、今からちょっとどきどきです。
最後に、一つだけお願いがあります。
優しい賢くんのことだから、きっと私のことを忘れずに生きていくでしょう。忘れてと言っても忘れてくれないと思うから、私も賢くんの思い出と共にしばらくはそばにいたいと思います。
でもね、いつか賢くんを必要とする人が現れて、同じ月日を過ごすようになる日が来るでしょう。
海に行ったり、映画を観たり、旅行にも行くのかな? 賢くん、動物好きだったから動物園に行ったりするんだろうね。
私にはできないことを、きっと賢くんは誰かと過ごしていく日がくるでしょう。もし、その日が来たら私を解放してください。ありさちゃんと過ごしている賢くんを見て、私には賢くんが誰かと過ごしているのをそばで見守る自信がありません。
だから、賢くんを必要とする人が現れた時に、私たちは本当のさよならをしましょう。その時は、賢くんも私のことは忘れてしまってください。私も天国で、賢くんに似たいい人を見つけたいと思います。
最後までわがままな私だけど、賢くんと出会えて幸せでした。宝物を手に旅立つ私を、どうか悲しまないでください。私たちには笑顔が一番だと思います。
P.S 賢くん、大好きだよ。初めて会った時から、今この瞬間も気持ちはかわりません。どさくさに紛れて告白したところで終わりにします。さようなら、賢くん。
読み終えた途端、言葉にならない感情が襲ってきた。多分僕は泣いているんだろうけど、それさえもどうでもよくて、とにかく今すぐに由紀に会いたいと思った。
「由紀はね、今も昔も、ずっと賢一くんのことが一番だったの。だから、由紀に会ってくれるよね?」
お母さんの優しい言葉に、僕は声を出せない代わりに深く頷いた。
今すぐ、由紀に会いたかった。
ただその想いだけを胸に、僕は教えてもらった病室を目指して走り出した。
フロアに人気はなかったけど、すぐに由紀のお母さんが声をかけてくれた。
「あの、由紀の具合は?」
僕の問いに、お母さんは涙をこぼしながら弱々しく首をふった。お母さんいわく、もういつ亡くなってもおかしくないらしい。
「最後に、あの子に会ってくれるよね?」
お母さんの祈るような言葉に罪悪感が増す中、僕は顔を伏せて首を横にふった。
「僕には由紀に会う資格はありません」
「どうして?」
「由紀は、最後の時間を使ってお父さんを探してました。だから、僕もお父さんに会わせるって約束したんです。なのに、僕はそれすらもできなかったんです」
ずっと悩んでいたことが、堪えきれない嗚咽となって漏れた。約束一つ守れなかったのに、のこのこ由紀に会いになど行けるわけがなかった。
「それは違うんじゃないかな」
疲れた顔に笑顔を浮かべたお母さんが、そっと僕の肩を撫でてくれた。
「多分賢一くん、何か勘違いしてると思うよ」
「勘違い、ですか?」
お母さんの意外な言葉に、僕は掠れた声で聞き返した。お母さんは微笑みながら大きく頷いていた。
「由紀に頼まれてたんだけど、今、渡したほうがいいみたいね」
お母さんは諭すように呟くと、『遺言書』と書かれた白い封筒を僕に手渡してきた。
「あの子、遺言書の意味を勘違いしてて。本当は、財産の処分を家族に伝えるものなのに、故人の最後の意志を伝えるものってだけ覚えてしまってたみたい」
お母さんは困ったように笑っていた。その笑顔が、由紀とそっくりに見えた。
「あの子が最後に願ってたもの、受け取ってもらえる?」
お母さんの言葉に促されるように、僕は封筒を開けた。中には、可愛いらしいデザインの用紙が入っていて、由紀のちょっとだけ丸い癖のある文字が並んでた。
「由紀がいなくなる直前に書いたものよ。あ、それと、これね。由紀が大事に握りしめてた写真」
お母さんが手渡してきた写真は、多分、由紀が見つけたお父さんの笑顔が写った写真だと思った。
でも、受け取って目を落とした瞬間、僕は世界の時間が止まってしまったみたいに写真に釘付けになった。
「その写真は、小さい頃からあの子の宝物なの」
お母さんの言葉が遠くに聞こえた。震える手で写真を眺めたまま、僕は記憶にある光景を思い出した。
写真には、パン屋の前で手をつないで笑う小さい頃の僕と由紀が写っていた。
ちょっと恥ずかしそうな顔で笑う僕の隣で、由紀は満面の笑顔を浮かべていた。
――確かあの時
パン屋のおじさんに写真を撮ってもらったとき、一枚目を由紀は受け取っていた。でも、その後、由紀の亡くなったお父さんが来たから、僕は写真を受け取れてなかった。
「ということは、由紀は――」
「そうよ。賢一くんは忘れてたみたいだけど、あの子はずっとその写真と一緒に覚えてたの。全部じゃないけど、賢一くんのことだけは、小学校で再会した時にはちゃんと覚えていたんだよ」
お母さんは笑いながら、でも、優しく包み込むように全てを教えてくれた。
――忘れて、なかったんだ
写真を見ながら、色んな事実に頭が混乱しそうになった。それでも、僕はなんだか温かい空気に包まれるのを感じた。
お父さんが由紀を拒絶したせいで、僕は由紀の存在ごと記憶の底に沈めていた。
でも、由紀は違っていた。僕のことをちゃんと覚えていてくれた。
けど、ふと疑問を感じた。
今まで由紀は、僕のことを覚えているような素振りは見せなかった。覚えてるなら、昔のことに触れてもいいはずなのに、そんな気配さえ出していなかった。
その答えは、遺言書にあると思った。一度お母さんの顔を見て、お母さんが頷くのを確認してから文字に目を落とした。
賢くんへ
この手紙を賢くんが読んでいる頃は、多分私はもうこの世にいないと思います。だんだん身体も思うように動かなくなってきたから、今のうちに賢くんへの想いを残しておこうと思います。
保育園の頃に出会った時から、私は賢くんのことが好きでした。駅の中での大冒険は今でも大切な思い出の一つです。
しばらく会えなかったけど、小学校で再会した時はとても嬉しかったです。でも、賢くんは私のこと全部忘れてたみたいで、ちょっとだけ悲しくもありました。
でも、すぐに賢くんは私と仲良くしてくれたよね。まわりに冷やかされても、賢くんは相変わらず私と一緒にいてくれたから、昔に戻ったみたいで嬉しかったです。
実は私、ずっと悩んでいたことがありました。それは、私は笑い方を忘れてしまったということです。あの時みたいに、なぜか素直に笑えなくて、ずっとそのことが気になっていました。
多分、私が上手く笑えないことと、賢くんが私を忘れてしまっていることに、何か意味があるような気がして、私が覚えていることは黙っておくことにしました。
でも、その理由を知るきっかけになりそうな事実に最近気づきました。お父さんだと思ってた人が亡くなって、そのことがきっかけで、私には別に本当のお父さんがいることを知りました。
記憶の中に、うっすらとお父さんの影が見えた時、私は笑えなくなった理由と賢くんが私のことを覚えていない理由が、そこにあるんじゃないかって思いました。
もう賢くんの知っている通り、私は癌に冒されています。お医者さんが言うには、もう助からないそうです。
あの日、賢くんと一緒に行った花火大会のこと覚えてますか? ずっと好きだった賢くんとキスするんだって思った瞬間、私はもの凄く怖くなりました。
あのとき既に、私は癌の告知を受けてました。だから、これ以上仲良くなって、いつかくる別れを考えると、怖くて、悲しくて、私は賢くんを拒絶していました。
ただ、賢くんも私のことを拒絶してましたね。理由はわからないけど、これがいいきっかけだと思い、私は賢くんから離れることにしました。ちょうど告白してきた人がいたし、賢くんもありさちゃんと付き合うようになったから、これでいいのかなって思いました。
でもね、賢くん。私、賢くんと離れてわかったんだ。私、賢くんのこと、やっぱり大好きだってことが。ありさちゃんと仲良くしてるのを見て我慢我慢と思ってたけど、やっぱり無理でした。
だから私、決心しました。残された時間を使って、お父さんに会うと決めました。私が上手く笑えない理由を見つけ、そして、もう一度昔みたいに笑えるようになったら、その時、もう一度だけ賢くんと昔みたいに笑いたいと決めました。
その為に、私、キャッスルに行ってきます。キャッスルが受け入れてくれるか、どんな結果になるかはわかりません。上手く笑えなくなった理由にちゃんとたどり着けるか、今からちょっとどきどきです。
最後に、一つだけお願いがあります。
優しい賢くんのことだから、きっと私のことを忘れずに生きていくでしょう。忘れてと言っても忘れてくれないと思うから、私も賢くんの思い出と共にしばらくはそばにいたいと思います。
でもね、いつか賢くんを必要とする人が現れて、同じ月日を過ごすようになる日が来るでしょう。
海に行ったり、映画を観たり、旅行にも行くのかな? 賢くん、動物好きだったから動物園に行ったりするんだろうね。
私にはできないことを、きっと賢くんは誰かと過ごしていく日がくるでしょう。もし、その日が来たら私を解放してください。ありさちゃんと過ごしている賢くんを見て、私には賢くんが誰かと過ごしているのをそばで見守る自信がありません。
だから、賢くんを必要とする人が現れた時に、私たちは本当のさよならをしましょう。その時は、賢くんも私のことは忘れてしまってください。私も天国で、賢くんに似たいい人を見つけたいと思います。
最後までわがままな私だけど、賢くんと出会えて幸せでした。宝物を手に旅立つ私を、どうか悲しまないでください。私たちには笑顔が一番だと思います。
P.S 賢くん、大好きだよ。初めて会った時から、今この瞬間も気持ちはかわりません。どさくさに紛れて告白したところで終わりにします。さようなら、賢くん。
読み終えた途端、言葉にならない感情が襲ってきた。多分僕は泣いているんだろうけど、それさえもどうでもよくて、とにかく今すぐに由紀に会いたいと思った。
「由紀はね、今も昔も、ずっと賢一くんのことが一番だったの。だから、由紀に会ってくれるよね?」
お母さんの優しい言葉に、僕は声を出せない代わりに深く頷いた。
今すぐ、由紀に会いたかった。
ただその想いだけを胸に、僕は教えてもらった病室を目指して走り出した。