気がつくと僕は、病院のベッドで眠っていた。ぼんやりとする頭のまま、意外と心配してくれた両親に怒られながら、とりあえずの状況は教えてもらえた。

 僕と由紀は、キャッスルの中で倒れているところを係員に発見してもらえたらしい。

 その後は病院で眠ってたらしく、でも、体に異常はないからと、迎えに来た両親と一緒に帰ることができた。

 由紀の容態については、心配して来てくれた由紀のお母さんが教えてくれた。

 今の由紀は、生きているのが不思議な状態らしい。疲れた顔をした由紀のお母さんには気の毒だけど、由紀との約束を守る為に由紀のお父さんがどこにいるのかを聞いてみた。

 けど、由紀のお母さんは驚いた顔をした後、既に連絡を取らなくなって随分経つから行方はわからないと首を弱くふった。

 それならばと、見舞いに来た兄に手がかりを得られないかと相談してみる。難しい顔をした兄からは、期待はするなと冷たく返されるだけだった。

 週が開けた月曜日、僕は自分の考えの甘さとこれから起きることへのため息をつきながら、恐る恐る教室へ入った。いくつもの刺すような視線の中、席につくと田村が心配そうに声をかけてきた。

「言いにくいんだけどさ、あっちの方は最悪かも」

 田村が視線をありさに向ける。僕も視界の隅でありさの様子を伺った。

 ありさは普段通り、友達と談笑していた。ただ、いつもならすぐに僕の所へ来るんだけど、さすがに今日は視線も合わせてはくれなかった。

 ――無理もないか。約束破ったあげく、由紀と一緒に見つかったわけだし

 周りの視線も同じ思いみたいで、僕に気を使ってくれるのは田村だけだった。

 午前中の授業が終わると同時に、ありさから手紙が回ってきた。『放課後に屋上。断れないよね?』と走り書きされた薄い文字からも、ありさの怒りが伝わってきた。

 放課後、不運が重なるかのように、タイミングよく兄から相談に対する答えが返ってきた。どうやら調査に相当な費用と時間がかかるらしく、由紀の残された時間内に見つけることは絶望的とのことだった。

 兄に力なく礼を伝え、重い足を引きずりながら屋上を目指す。ありさとの話の内容は予測できるけど、この状況でどんな話をしたらいいかわからなかった。

 普通に考えたら、気持ちがないのに付き合い続けるのはありさを傷つけるだけだと思う。でもそれは、僕の身勝手な逃げ口上にしか思えなかった。別れようと思えばいつでも別れられた。でも、それをしなかったのは、優柔不断な僕の弱さのせいだった。

 どんな結果になるとしても、ありさに会って話をしなければいけない。

 そう覚悟して屋上への階段を上り始めた時、再び僕の携帯が震え始めた。

 画面を見ると、由紀のお母さんからだった。

 嫌な予感が走った。電話に出ようとしたけど、一歩のところで着信が切れた。

 ――由紀に何かあったんじゃないよね?

 不安が一気に膨れ上がった。由紀にもしものことがあったら、電話して欲しいと伝えていた。ひょっとしたら今の電話が、そうじゃないんだろうか。

 階段の踊り場で立ち尽くしたまま、僕は携帯を片手に動けなくなった。ありさを待たせるわけにもいかないけど、ありさと話をしている時にまた電話がかかってきたらと思うと、次の階段を上ることができなかった。

 あれこれ考えていると、携帯の画面に留守電の案内がでてきた。僕は留守電サービスに接続して、擦りつけるように携帯を耳に押しあてた。

『白金です。由紀の容態が急変しました。急いで来てくれませんか?』

 涙混じりの声だった。それだけ告げると、電話は無機質な音声案内に切り替わった。

 頭を殴られたような衝撃と、走り出したい衝動が全身を突き抜けた。由紀のお母さんの声色が、緊急を告げていることは間違いなかった。

 ――どうする?

 今すぐにでも病院に走って行きたかった。でも、これ以上はありさを傷つけることはできない気がした。


 僕は壊れるほど携帯を握りしめて、階段をかけ上がった。やっぱり、これ以上はありさを苦しめるわけにはいかなかった。

 どんな結果や形になるとしても、けりをつけるべきだろう。そう覚悟して屋上のドアを開けると、昼下がりの日差しの中、ありさは転落防止用のフェンスに寄りかかって目を閉じていた。

「ありさ」

 名前を呼ぶと、ありさは目を開けた。無表情のまま、僕を観察するかのような視線を送ってきた。

 心臓が耳の側にあるみたいに、やけに自分の鼓動が高く聞こえた。暑苦しさも手伝って、僕は渇ききった口を半開きにして、なんとか呼吸をつなげた。

「賢ちゃん、ひどい顔をしてるよ」

 ありさの柔らかい声が耳に響く。怒ってる感じはなかったけど、別の何かを感じさせる声だった。

「今ね、なんで賢ちゃんのこと好きなんだろうって考えてた」

 ありさはフェンスから起き上がると、一歩ずつ僕の方に近づいてきた。

「最初ね、賢ちゃんのこと、勉強しかしない人って思ってたんだ。でも、ある時気づいたの。賢ちゃんの、白金さんを見る目が優しいなって。で、その優しさを私にも向けてくれないかなって思ったのが始まりだった」

 ありさはそこで何かを思い出したかのように、小さく笑った。

「私がアプローチしても、賢ちゃん全く興味なしって感じだった。これでも一応、男子には人気があることは自覚してたから、なんとかふりむかせようと努力したんだ。で、それがいつの間にか恋心になったって感じ。だから、告白を受け入れてもらった時は超嬉しかった」

 ありさの言葉が重くのしかかってきた。確かにありさは男子に人気がある。そんなありさが選んだのが僕だという事実に、今さらだけど痛いほど実感した。

「だからね、私なりに考えてみたの。賢ちゃんの今回の件、どうしようかなって」

「ごめん。謝ってすむとは思わないけど、でも――」

 とにかく謝るべきだと思い、僕はなんとか言葉を吐いた。けど、ありさは鋭い言葉で僕の言葉を遮った。

「ねえ賢ちゃん、戻ってきてよ」

 数秒の間、ありさは俯いていた。そして顔を上げると、そこには今まで見たことのない、ありさの泣き顔があった。

「私、なかったことにできるから」

 ありさの言葉が耳に届くと同時に、ありさが僕の胸に飛び込んできた。

「賢ちゃんが私のもとに戻ってきたら、私ね、何も聞かなかったことにできるから。何も見なかったし、何もなかったことにできるから。それで、今まで通り、隣で笑ってくれればいいから。だから、ね? お願い、私のもとに戻ってきてくれるだけでいいから」

 僕のシャツを掴むありさの手が震えていた。並ぶと同じくらいの身長だと思ってたけど、今のありさはひどく小さく見えた。

 ありさの行動は予想外だった。でも、なんとなくありさは不安だったのかなと思った。僕の行動もそうだけど、多分、僕の気持ちがないことも、薄々勘づいていたのかもしれない。

 だから、ありさは僕に本心をもう一度ぶつけてきたんだろう。見栄もプライドも捨てた姿に、これで関係が終わるかもしれないことに対するありさなりの覚悟が見えた気がした。

 ありさの頬を、涙がゆっくりと流れ落ちてゆく。気丈で、誰からも好かれるありさのいつもの姿はそこにはなくて、代わりに、どうしようもないほどか弱い女の子の姿があった。

 それがありさの本当の姿だと思った。美人で、大人びいていて、誰からも愛されている人柄というのは、みんなが作った虚像に過ぎなかった。

 本当は、みんなと同じように好きな人がいて、みんなと同じように恋に悩む一人のか弱い女の子だった。

 罪悪感と同情が顔を出そうとしてきたけど、無理矢理腹の底に沈めた。中途半端な情けは、今のありさにはかえって刃にしかならない。

 だから僕は、ありさの肩を抱かなかった。もしここで抱いてしまったら、由紀の所へ行けなくなる。ありさが僕を好きなように、僕の由紀への想いは、小学校で再会した時からの筋金入りだから。

「やっぱり、そうだよね」

 ゆっくりと僕から離れたありさは、乱暴に目を拭いながら弱く呟いた。

「賢ちゃんの優しい目は、白金さんを見る時だけだもんね」

 ありさらしい、嫌みのない声だった。やっぱり、ありさは結果を覚悟してたみたいだった。だから、最後に本心を晒して、後腐れないように散ろうとしてくれたのかもしれない。

「白金さんの所に行くの?」

「うん。さっき容態が急変したって連絡があって、あまり良くないみたいなんだ」

「それなのに、私に会いに来てくれたんだ」

 ありさはちょっと驚いた顔をした後、目を閉じて、うんうんと何度も頷いていた。

「賢ちゃん、ありがとね。私のことはもういいから、早く行ってあげてよ。白金さん、賢ちゃんのこと待ってると思うよ」

 ありさはそう言葉にして、無理矢理な笑顔を見せてくれた。

「ありさ、今までありがとう。こんな僕のせいで迷惑かけて」

「本当、迷惑だよ。いつか絶対、私を捨てたことを後悔させてやるから」

 ありさの言葉に、「もう後悔している」と言いかけてやめた。

「賢ちゃん、辛いかもしれないけどさ、白金さんのそばにいてあげて」

 ありさの言葉に、僕は黙って頷き、そして、心の中で一度だけさよならを告げた。

 背を向ける瞬間、ありさが両手で顔を覆うのが見えた。

 けど、僕は何も言わずに前へ向かって走り出した。それが今のありさにできる、僕の最後の役目だった。