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婚約者だった唯人は、絵に描いたような優等生だった。母子家庭で大変なことが多かっただろうに、そんなことを感じさせないくらいに勉強も学校生活も一生懸命頑張っていた。生きている、という言葉があんなにしっくりくる人はいないんじゃないかと思うくらいに、彼の生き様は私を虜にした。
「紬はさ、俺にとって木陰なんだ。なーんか疲れたなって思うとき、紬のそばにいれば自然と心が休まる。絶対に必要なんだ。俺にとってはその木陰が」
唯人が口癖のように言うことは最初、褒め言葉なのかどうか分からなかった。私はもっと、彼にとって心のど真ん中にいると分かる言葉で褒めて欲しかった。けれど、彼と付き合ううちに、彼が「木陰」をどれほど欲していたのか理解した。母親と二人で過ごしてきた幼少期、小学生になってできた義理の父親と「家族」をやった数年間。どの時間も、彼は精一杯泳いでは何度も息継ぎをしなければ、普通でいられなかったのだと思う。親の前でも友達の前でも肩の力を抜けなかったのだろう。
だから私が、彼の「木陰」として、これからずっと支えていこうと心に誓ったのだ。
「また、サボりですか?」
あっという間に4月が去り、ゴールデンウィークが明けるともう中間テスト前。先生たちはテストの問題をつくるのに必死になる時期だが、生徒も同じ気持ちでいてくれるとは限らない。
昼休み前の4限目の授業だった。三年二組の教室で、ある生徒がいないことに気がつき、私は思わず声を上げる。長谷翔。また彼だ。彼は授業中に居眠りを繰り返したりサボったりが常習していた。どうして。中学三年生にもなって。いくら進学しないのだとしても、空気を読むでしょう、普通。
私が本当にサボりの理由を問いたい張本人は、ここにはいない。だから、生徒たちは私の怒りが早くおさまるのを待つしかない。
……無駄なことはやめよう。心の中だけでため息をつく。これ以上、他の生徒を巻き込むわけにはいかない。
「……授業を始めます」
私は、黒板に大きく『檸檬』と書いてその下に「梶井基次郎」と記した。今日から『檸檬』の単元が始まる。昔、瑠璃子先生が私にしてくれた話が、鮮明に頭に残っている。初めての三年生。初めての『檸檬』の授業。できれば、このクラスの全員に聞いて欲しかった。
私は、初めて檸檬をかじった瞬間を思い出す。あの超酸っぱかった味。やっぱり私は、甘いレモンパイがいいと、唯人に話した時、彼はぷっと笑いを堪えきれずに吹き出した。そりゃ、そうだろう。生のレモンなんて、魚にかけるか味付けでかけるかしかしちゃダメだよって笑いながら諭された。
授業が始まるところだというのに、余計なことばかりが頭に浮かぶのがもどかしかった。
授業が終わると昼休みにどっと疲れが襲ってきた。ご飯を食べる手が、いつもより遅い。井上先輩が「どうかしたの」と声をかけてくれたけれど、「なんでもないです」と答えるしかなかった。
翌朝、昨晩あまり眠れなくて、ぼーっとした頭を抱えながら学校へ向かった。
毎朝8時に出勤し、朝礼が始まる前に今日の時間割を確認する。授業は全部で4時間。5限目だけが空いていた。主要語科目の先生は毎日ほぼ全ての時間に授業が入っているが、時々空きコマがあるのが普通だった。とはいえ、その空き時間には予習をしたりテストの問題を作成したりと、やることは尽きないため、心はずっと忙しない。とくに私のような新参者は特急列車のような日々を送っている。
「えー、今月末には進路懇談会があります。すでにお知らせのプリントは配布済みです。三者面談ですので、各自担任をしている者は生徒と日程を確認しておいてください」
朝礼で、3年生の学年主任である江藤先生が懇談会のリマインドをしてくれた。そうだ。目先の中間テストのことに気を取られていたが、テストが終わるとすぐに3年生は進路懇談会なるものが開かれるのだ。私、自分が中学だった頃、すっごい嫌だったなあ。先生と母親と私。「先生と私」や「母と私」という構図には慣れているのだが、その三者が集合するとなると、なんとなくむずがゆい気分になる。先生とお母さんが話している間、机の下で膝をぎゅっとつねっていたのが懐かしい。
その時、私は「生徒」だった。しかし今回は、立場が全然違う。あの時はただ黙って先生と親が話をするのを聞いていれば良かったが、今度は私が話の流れをつくらなきゃいけない。ああ、気が重い……。
なんだか余計に頭が重たくなった気がして、朝礼が終わると私はいつものようにレモンティーを淹れた。ふう。やっぱり朝からこれを飲むと頭が冴える。これで今日も乗り切れますように。
その日、3年2組で授業がなかったので、帰りのHRで三者面談の話をしたが、生徒たちはほとんど興味がないようだった。それも、そうか。私だって子供の頃、面談よりも今日の放課後の時間に何をするか、夕ご飯は何かということにしか関心がなかった。目の前の行事を一つずつこなしていくことで精一杯なのだ。それにしか興味がないのがむしろ正常だろう。
心の中でため息をつきながら、挨拶をして放課となった。さ、これから職員室に戻って明日の準備をせねば、と思ったが、ふと視界の隅に長谷翔の姿が見えたので、声をかけることに。
「長谷君、今日は起きてた?」
「はい。あ、でもしんどかったっす」
彼は一見話しかけづらいオーラを放っているのだが、一度話してみると意外にもよく喋る。前髪が長いからか? 髪の毛で目が半分隠れているせいで根暗なイメージがついているのかもしれないが、実際は性格の明るい子だ。すらっとしていて肩幅もあるため、所属しているバスケ部ではレギュラーとまではいかないものの、かなり上手なのだと花野さんが教えてくれた。
「あーあ、また? ゲームもほどほどにしないと。勉強、ちゃんとついていけてる?」
「違いますって。昨日は好きな漫画の発売日だったから」
「いや、一緒の意味でしょう。というか、勉強は」
「……母親みたいなこと、言わないでくださいよ」
彼の口から出た「母親」という言葉に不覚にもドキリとしてしまう。どうしたんだろう。私今、彼のお母さんのような口調になっていたんだろうか。それとも、発言の内容が似ていたのだろうか。教育熱心なお母さんらしいから、きっとどっちもだろう。少なくとも、私はショックを受けた。
昔、瑠璃子先生が私の担任だった頃。私は先生の言葉に親とは違う不思議な力を感じていた。それはきっと、私だけではないはずだ。瑠璃子先生は勉強のしない子を決して嗜めたりはしなかった。「勉強をしなさい」だなんて、ありふれた言葉で私たちをがんじがらめにしない。彼女はいつも、「勉強がいちばん大事だなんて、先生は思わない。ただ、勉強ほど努力が報われると感じるものは、これから先そうないわよ」と静かに教えてくれていた。その言葉を聞いて、はっとしたのを覚えている。
勉強をしなさいだなんて、あの人は言わない。
でも、それ以上に効き目のある魔法の言葉で、生徒の背中をそっと押す。そういうところが憧れでもあったんだ。
「……ごめんなさいね」
ふと、気がつけば長谷君に向かって謝っている自分がいた。
「いや、べつにそこまで真剣に謝ってくれなくても!」
長谷君からしたらほんの冗談で言った言葉だったのだろう。それが私があまりに真面目に反省するものだから、彼だって戸惑ったに違いない。
「そっか。ねえ、今度少しゆっくり話せないかな。3年生だし、もし困ってることがあればその時にいろいろ話して欲しい」
実は前々から、彼とは話をしたかった。勉強のこと、部活のこと、進路のこと。どうしたら授業中眠らないで済むようになるのか。
「分かりました。明日の昼休みなら大丈夫だと思う」
意外だった。彼が素直に私の提案にのってくれるとは思ってもみなかったから。きっとまたゆるっとかわされるのだとうと思っていた。
でも、鼻の頭を掻きながら肯く彼を見ていると、もしかしたら彼の方も私に話したいことがあるのかもしれないと感じて。自惚れかもしれないけれど、ちょっと嬉しかった。
「ありがとう。じゃあ明日、どこか教室を借りておくから、よろしくね」
職員室に戻ると、いつもよりどこか騒々しい雰囲気で何があったのかと不思議に思った。
「あの、何かあったんでしょうか」
隣の席に座っている3年3組の織田先生に声をかけた。
「あー、なんかさっき保護者の方から電話があったみたいで。三者面談の存在を知らなかったんだと。だいぶお怒りだったみたいだ。なんでもっと何回も知らせてくれないのかーって。今も江藤先生が事情を説明していて」
「はあ」
織田先生から言われて気づいたが、学年主任の江藤先生が電話の前でペコペコと頭を下げながら普段よりも高い声のトーンで「大変申しわけございません」を繰り返していた。
時々、こんなふうに学校に苦情の電話を入れてくる保護者がいる。こちらに非がある場合は誠心誠意謝罪するのだが、今回のように、明らかにこちらのせいではない場合、対応の仕方はその都度変わってくる。
「それでバタバタしているんですね。ちなみに、どなたでしょうか」
私は、電話の主について何の気なしに尋ねた。
「えっと、確か、長谷さんだったかな」
「ええ、本当ですか!」
長谷という名前を聞いた私は思わず大きな声を上げてしまい、職員室にいる先生の視線が一気に集まるのを感じた。
「……すみません」
急に恥ずかしさがこみ上げて、身体を小さくした。
それにしても、なんということだ。私は、三者面談についてクラスで説明した時のことを必死に思い出す。一度だけではない。二度、三度と面談については伝えているし、お知らせの手紙だってきちんと渡した。長谷君にだって、ちゃんと手に渡っていることはこの目で確認したはずだった。
それなのに、長谷君の親御さんから苦情の電話が来るなんて。確かに、あの長谷君のことだ。他の子たち以上に、いっそう気をつけて個別に声をかけるべきだった。それを怠ったのは私。それならば、今電話で謝るべきなのは江藤先生ではなく、私じゃないか。
「あ、2組の生徒だっけ」
「そうです……。あの私、電話代わった方が良いですよね」
私よりも10年先輩の織田先生に、どうするべきかを聞いた。
きっと、いや間違いなく、ここにいる全員が、「早く吉岡先生が代わってよ」と心の中で思っている。もしも他の誰かのクラスの保護者からクレームが来たら、私だって同じことを思う。自分の尻拭いは自分でしないと。
「いや、やめた方がいいよ」
しかし予想していたものとは違い、織田先生は冷静な声色で動こうとする私を制止した。
「どうしてですか」
「だって、今吉岡先生が電話代っても、解決しないと思うよ。それに電話に出てきた相手が吉岡先生みたいな若い女の先生だと、足元見られかねないからさ。いや、変な意味じゃなくて。こういう時は、ベテラン教師に任せるのが一番さ」
クレーム処理に慣れているのか、織田先生は手をひらひらさせてそう答えたのだ。
そういうふうに、考えるんだ。
呆気にとられた私は、「いや」「でも」と再び食い下がろうとしたが、真面目な表情の彼を目にすると、出しゃばったことはしない方が良いのだと教えてくれているようだった。
その日の夜、家に帰った私はクレームのことが頭から離れず、あまり眠ることができなかった。こちらに非がないにせよ、自分の担当するクラスの保護者から来た苦言。それを肩代わりして処理してくれた江藤先生。私の出る幕はないのだと、大人の態度で教えてくれた織田先生。
分かってはいた。
自分が、まだ社会に出たばかりのほんの小さな雛だということ。今まで順調に教師生活を送ってきて、「自分は意外といけるかもしれない」と自負していたこと。その傲慢さが、今回のミスを引き起こしたこと。
電気を消し、ベッドに寝そべって目を閉じる。頭が冴えて眠れない。こんなとき、ネガティブなことばかり考えてしまう。
唯人の死から、ようやく少しずつ立ち直れてきたと思っていた。けれど、心が不安定になったとき、いつだって彼の面影を探してしまう。絶対にもう会えることなんてないのに。「よしよし、大丈夫だよ」って頭を撫でてくれる彼を思い出す。
とたん、こみ上げてきた寂しさに、思わず嗚咽を漏らした。だめだ。どんなに月日が流れても、彼のことを思い出すとまだ心がずしんと重たくなる。胸の奥がきゅっと鳴る。行き場のない寂しさが、夜の闇の中に溶けて、私も一緒に消えてしまいたいと思った。
長谷君は、眠そうな目を擦りながら「社会科資料室」の扉を開けて中に入ってきた。
ゆっくり二人で話ができる教室を探していたところ、社会科の井上先生が快く「使っていいよ」と言ってくれたのだ。
資料室の中には当然社会科の先生が使う地図帳や参考書たちが置いてあるが、なぜかシンクやオーブントースターやポットまで置いてあって先生たちはここで一体何をしているのだろうと不思議に思う。
「いらっしゃい」
「失礼します」
ひょこっと頭を下げて椅子に座る長谷君を見ていると、小さな子供のようで可愛らしい。私は彼に椅子に腰掛けるように勧めた。
「紅茶、飲める?」
「え、あ、はい。飲めます」
「ちょっと待ってて」
沸かしておいたポットのお湯を職員室から持ってきたカップに注ぐ。もちろん今日もレモンティー。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
高校生のとき、私は紅茶なんて飲まない人間だった。というか、この年齢の子供は大抵背伸びしてコーヒーや紅茶を飲んでも、苦いと思うだけだろう。
だから、彼が紅茶を美味しいと思ってくれるかは分からなかった。
「……レモンだ」
「ええ。どう? ストレートより酸味があって好きなの」
「俺も、こっちの方が好きです」
「本当? 良かった」
意外にも長谷君はレモンティーを気に入ってくれたようで、美味しそうに飲んでくれた。
「それで、今日の話って」
「そうそう。今日は、長谷君のことを知りたいと思って」
「俺のこと……ですか」
「うん。何か困ってることないかなーって。授業、ついていけてるのかなとか」
「そんなの言わなくても分かってるでしょう」
うう、という呻き声が聞こえてきそうな感じで、彼は苦い顔をした。だよね。だって、いつも居眠りすごいもんね。
「ごめんごめん。勉強、嫌だよねえ」
他の先生たちに比べたら、私はまだ彼の年齢に近い方なので、自分の学生時代を鮮明に思い出せる。授業で分からないことがあるととたんにやる気が失せてしまうあの感じ。かと言って、自ら先生に質問をしに行くでもなく、「勉強したくない!」と親に反抗する日々。学校では真面目な生徒を装っていたけれど、家では年相応にわがままだった。今思えばすべて自分のための勉強なのに、それが分からなかった青臭い時間。
「本当ですよ。俺、教科書開くだけでもう嫌になっちゃうんです。だから開くのもやめようって」
笑い話のように答える彼。中学生にしては、大人の人との会話の受け答えがしっかりしているから、きっと地頭が悪いわけではないのだろう。
「なるほどね。親御さんはどう? 結構うるさい感じかな」
“うるさい”だなんて、実際に保護者の前では絶対言えないけれど、子供の心にできるだけ近づこうと思うと、自然に出てきてしまった。
「そうなんです! もううちの親、俺にどんだけ期待してんのか知らないですけど、すっごい量の課題を出してくるんですよ。宿題とは別ですよ? もうウンザリです。この間だって、『課題が終わるまで寝るな』って怒られて、夜中まで勉強させられて。それで昼間眠くなって保健室で寝てました」
深いため息をついて滝のように喋り出した長谷君は、普段の授業中のようにぼーっとしている感じは一切なく、ハキハキと言葉を発していてなんだかおかしかった。
「なに笑ってるんですか」
自分でも気がついていなかったのだが、私はまくし立てるようにして話す彼に、自然と笑がこぼれてしまっていたようだ。
「いや、こんなに話す人だったんだなって」
「俺は元来こういう人間です」
「そっかそっか」
口に含んだレモンティーが、いつもより甘く感じる。少し砂糖を入れすぎたのかしら。
「……本当は俺、ただ兄と比べられることが嫌なだけなんです」
彼は、私と同じようにレモンティーを一口飲むと、カタっと音を立ててカップを置き、真剣な表情で呟いた。
「兄? そういえば、歳の離れたお兄さんがいるって他の先生から聞いたわ」
「はい。まあ兄と言っても母親が再婚で父親が違うんですが」
なるほど、少し複雑な家庭なのか。
「そうなんだ。お兄さんは、どんな人だったの?」
私が尋ねると、彼はぱっと表情を明るくして、お兄さんについて話しだした。
「兄は格好いい人です。なんでもできて、父親の違う弟の俺に常に優しくて。10歳離れてるからか、喧嘩したことなんかないです。勉強ができて優しくて、大学もかなり良いところに進んで。母も兄のことは気にいっていました。誇りに思っていたんだと思います。だから、俺にも兄のようになって欲しいと思っているんです」
無意識のうちに、兄弟を比べてしまう親は少なくない。教師を始めた年にも、そういう親御さんからの相談を多々受けたことがあった。比べられた子供はプレッシャーを感じてしまうし、親にとっても、本当は比べるべきではないと分かっているのにやめられないというパターンが多く、子供がぐれてしまう原因になる。
たぶん、彼の親もその一人だ。
本当は、お兄さんと長谷君を比べたくないと思っているのかもしれない。でも、心とは裏腹に、彼を縛りつけ、その結果彼は疲れてしまっている。
私は、ずっと分からなかった長谷君の気持ちが、少しずつ理解できるようになった。
「そういう親御さん、たまにいるよね。そうね、面談のとき、ちょっと先生からお母さんに話してみましょうか」
「いいんですか」
「ええ、もちろん」
長谷君の親から、昨日面談についてのクレームがあったことは承知している。でも、それでも私は彼の担任として、彼の心を救いたかった。
もうすぐ昼休みが終わろうとしている。私も長谷君もちょうどレモンティーを飲み終えた。
「俺、本当はこの間の先生の授業、受けたかったんです」
「この間って?」
「檸檬」
そういえば梶井基次郎の「檸檬」の初回授業の際に、彼が授業をサボっていたことを思い出す。そうか、あの時彼は保健室で寝ていたのか。
「……兄が、好きだって言ってた話だったから」
どくん。
なんだろう。先ほどから嫌な感じに脈が乱れているのを感じていた。得体の知れない不安が突然大きく膨らんでゆく。
「お兄さんはいま、どうしてるの……?」
本当は聞くべきではなかったのだと思う。私は、ずっと前から予感していた。それに気づかないフリをして蓋をして。このまま、何も聞かなければ良かったんだろう。
だけど。
「半年前に、亡くなりました」
知っていた。私は、彼の兄の存在を、彼に聞く前から気づいていた。
婚約者だった人——長谷唯人のお葬式に出た際、確かに学ラン姿の長谷君がいた。当時の私は彼の顔を知らなかったので、ほとんど記憶に残っていなかった。でも、今彼に言われると思い出す。そこにいた少年は確かに、長谷翔だった。
「唯人……」
気がつけば彼の名を呼んでいた。長谷君は、突然私が教えてもない兄の名前を呟いたからか、「え」と目を丸くして驚いていた。
それからのことはよく覚えていない。確か、「ごめんなさい」と彼に頭を下げたあと、すぐに教室から出た。そのあとどうやって次の授業をしたのか、どうやって家に帰りご飯を食べたのか、食べたものはどんな味がしたのか、思い出せないのだ。
私はその日から一週間、体調を崩して休むことになった。
『吉岡先生。体調は大丈夫? 無理せず温かいご飯を食べて早く元気になってね』
『紬ちゃん、身体の調子はどうですか。先生たちはみんな心配しています。でも紬ちゃんのことだから、頑張りすぎるのも禁物。幸い、今週はテスト期間でこちらは大丈夫なので、安心してゆっくり休んでください』
家で寝込んでいる間、井上先輩や瑠璃子先生が何度もメッセージをくれた。本当は、体調は二日ほどで治っていた。しかし、思いの外心がへばっていて、このまま生徒たちに先生として会える気がしないのだ。
二人のメッセージを見ると、申し訳なさと情けなさで胸がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。でもそれ以上に、温かな気持ちが伝わってきて涙が止まらなかった。
あの日、長谷君と話した日。彼と婚約者だった唯人が兄弟だと知って、吐き気が止まらなかった。本当はずっと前から予感してはいた。同じ「長谷」という苗字。そもそも、唯人と同じ苗字だったからこそ、長谷君のことが気になっていたのだ。
しかし年齢もかなり離れているし、兄弟でなくとも偶然同じ苗字だということはありえる。「まさか違うよね」と自分の中で勝手に結論づけていた。
唯人と付き合っている間、彼の家族と会ったことはない。いや、実際はこれからお互いの家族に挨拶に行こうとしているところだった。彼はあまり家族の話をしない人で、弟がいる、と聞いたもの婚約する少し前のことだ。それを聞いた時も、「そうなんだ」というくらいで、長谷君についてほとんど何も情報がなかったのだ。
ベッドからむくっと起き上がり、私は時計を見た。午前11時。今日は中間テスト3日目。テストは12時までだ。
固まったままの心と身体を無理やり動かして着替える。いい加減、出勤しなければ。他の先生たちに多大な迷惑と心配をかけているのだから。
「おはようございます」
そっと、職員室の扉を開けた。ちょうどテストが終わる頃だった。試験監督をするのは若手の先生がほとんどで、瑠璃子先生が「あ!」と私を出迎えてくれた。
「おはよう。良かった、紬ちゃん。出てこられて」
「ご迷惑おかけしてすみませんでした。もう大丈夫です」
「本当に? また何かあったらすぐに言うのよ」
「ありがとうございます……」
あんなに迷惑をかけたのに。先生はどうしていつも、優しく許してくれるんだろう。唯人が亡くなった時も、たくさん迷惑をかけた。あれから少しずつ立ち直ってきたと思ったらまた、このザマだ。いい加減私も、強くならなくちゃいけない。
「テスト、終わる頃よね。HRだけでも出ましょう」
「はい」
久しぶりの3年2組の教室。生徒たちは私の長期欠席をどう思っているんだろう。
教室の扉を開ける際、自然と手が震えた。どうしよう。私、まともにみんなの顔を見られるのだろうか。
「あ、先生!」
ガララっと、教室の扉を開けると、明るい声が聞こえてはっと声の主を見た。
花野さんだ。隣にいた古田さんも「久しぶり!」と手を振ってくれていた。
他の生徒も、次々と私の方に寄ってくる。ほとんどが女子生徒だったけれど、男子も遠くから「センセ、今日のテストやばかったわ!」と叫んでいる。
すとん、と心がすっぽりと収まる心地がして、じわりと胸が熱くなった。私はこれまで、何をしていたんだろう。自分の殻に閉じこもって、生徒たちをほったからかしにして。それでも彼らは私を受け入れてくれている。ふがいない私を、先生だと認めてくれているのだ。
「……心配かけてごめんなさいね。みんな、元気だった? テストはどうだった? 『檸檬』の問題は解けた?」
「ばっちりです」
花野さんが胸を張って答える。彼女は成績も良いし、嘘ではなさそうだ。
「えー、やっぱり凛はすごいよ……。あたしなんか昨日一夜漬けだったわ」
古田さんはげんなりした様子。他の子たちもそれぞれに中間テストと戦って開放感に満ちた顔をしていた。
「先生」
女子たちに囲まれていたところに、長谷君がやってきて声をかけてくれた。一瞬、どきんと心臓が跳ねた。彼のことを意識するとどうしても、唯人の面影がチラつくのだ。
「後で話したいことがあります」
「フー!」とか「ええ!」とか、周りの女子、男子たちが冷やかしの声を上げた。
「……ええ、分かったわ」
彼は単に、この間のことを話たいだけなんだろう。それを何か勘違いしている思春期の若者たち。
私も、彼と話をしなければならないと思っていた。そうでなければ、この先私は彼の先生でいられる気がしないから。
「お待たせしてごめんね」
放課後、私は必要最低限の事務仕事を終え、彼と待ち合わせしていた社会科資料室を訪れた。彼は先に教室で待っていてくれていた。私は、職員室で淹れてきたレモンティーを2つ、テーブルの上に置いた。
「大丈夫です」
前回と同じようにぺこりと頭を下げる長谷君。
「この間は、いきなりあんなことになってごめんね。私、あなたのお兄さん、唯人さんの婚約者だったの」
私の告白に、彼はかなりびっくりした様子で、私の目をじっと見つめた。
そりゃ、そうだろう。
目の前にいる教師が、自分の兄の婚約者だったなんて突然言われても受け入れられないのが普通だ。
「……そっか。そうなんですね。知らなかったです」
なんでか彼は少し悲しそうな表情を浮かべ、手慰みにレモンティー入ったカップをすっと指でなぞる。
「ごめんなさい。私も、この前知ったの。あの人、長谷君のことはあまり教えてくれなかったから」
「いや、大丈夫です。びっくりしただけですから」
それから少しの間、沈黙が続いた。私も彼も、お互いの心を予測するけれど、言葉が出てこない。彼は何を望んでいるのか、私は彼に何を言いたいのか。自分の心すら手の中にないような気がして。
教室の中で古い書物の独特な香りが、いつもよりも強く感じられた。大好きなレモンティーは、いつもより酸っぱくて苦い。
「……俺、本当は」
不意に、彼が重たい空気を打ち破るように口を開いた。唇の皮が乾燥して少しむけていた。
「吉岡先生のことが、好きだったのかもしれないです」
今までに見た彼の、どんな彼よりも純粋で、心からの言葉が思わずに溢れでたような必死さがあって、私はとても苦しいと思った。
「兄貴が守れなかった先生のことを、俺は守りたいと思うんです」
中学3年生の男の子が言う台詞にしては大人びていて、でもきっと本当の大人は、こんなに美しく純な気持ちを言葉にはできないんだろうと思うと、やっぱり彼は思春期の男の子で。
私は、頭を埋め尽くす唯人の顔と、目の前にいる彼の弟の言葉とを、交互に胸に刻み付ける。
「……ありがとう。とても、嬉しい。先生も、長谷君のことが好き。でもそれは、男の子としてじゃない、かな。先生にとって長谷君は、大切な生徒だから」
彼の顔に、落胆する気持ちが広がってゆくのが、ありありと伝わってきた。心がつままれたように痛い。純粋な少年の心を傷つけてしまった自分が、痛い。
「それにね。唯人はちゃんと守ってくれてたよ。先生のこと、心から愛してくれた」
だけど、彼に伝えたかった。
あなたのお兄さんは、とても優しくて愛に溢れた人だったこと。
私はもう、かわいそうじゃない。唯人と会えて幸せだったこと。
「長谷君には、その気持ちを大切にして欲しい。私のわがままだけれど。いつか、その優しい気持ちで誰かを愛して欲しい」
少し、重すぎただろうか。
10歳も年の離れた少年に、私の言葉は響くのだろうか。
彼は何も言わずに目を伏せて、身体を硬らせていた。感情を表に出すことができない。そんなもどかしさを、確かに15の私も抱いていた。彼は子供だけれど、子供ではない。大人になる途中のサナギだ。
「梶井基次郎の『檸檬』、長谷君も好きだって言ってくれたよね。私もあの話が大好きなの。檸檬は、私にとって不安を吹き飛ばす幸せの象徴みたいなものだから」
将来への漠然とした不安を抱えていた際に唐突に現れる美しい「檸檬」。きっとあの話の主人公だって、異質の輝きを放つ檸檬に、心を揺り動かされたはずだ。
私は物心がつくまで、レモンの酸っぱさを知らなかった。
甘いお菓子に使われたレモンが大好きで。でも、酸っぱいレモンを知ってから、私の人生はようやく動き出したのだ。
「そう、ですね」
腑に落ちたかどうかは分からないけれど、長谷君はふっと肩の力を抜き、表情を緩めた。
「……決めました。明日からちゃんと、授業を受けます」
予想とは違う答えが出てきて、私はちょっと拍子抜けしてしまったのだけれど。それでも、彼が前を向いて歩き出そうとしてくれていることが嬉しかった。
「ありがとう。『檸檬』、一緒に復習しましょう」
「はい。あ、でも」
酸っぱくて苦くて甘いレモンティーを啜る。今はこのなんとも言えない味わいが心に染み入る。
「諦めたとは言っていませんから」
いたずらっ子の笑みを浮かべる彼が、いつになく眩しい。中学3年生。子供だと思っていた彼らが、どんどん成長し、蝶になり羽ばたいてゆく。
「分かったわ。私も、あなたを最後まで見守ることを諦めない」
立ち止まってはいられない。
私だって、長谷君をなんとかして志望校に合格させてみせる。まだもうちょっと先だけれど。
いつか、唯人が言っていた。私は木陰なんだと。疲れた時に休める場所なのだと。私だって、同じだった。唯人といるだけで心が癒されて幸せだった。
失ってしまったものは戻らない。でも、心の中では守っていける。新しく大切なものをつくることだってできる。唯人が残してくれたものは、未知との遭遇なのだから。
ねえ、唯人。
私はなれているんだろうか。昔憧れていた「大人の女性」に。生徒たちから憧れる、井上先生や瑠璃子先生のような温かな人に。
まだ、分からない。分からないからこそ、追い求めるのだ。
私は、立ち上がって資料室の窓を開けた。5月の温かい風に、ほこりが舞っている。「わっ」と手で鼻を覆う。と同時に、まだカップに残っていた彼のレモンティーから爽やかな香りが漂ってきた。同じように席を立つ彼。すでに私よりも背が高い。隣並んでグラウンドの方を見下ろしながら、私はぽんと軽く彼の背中を押した。
【終わり】