その日の夜、家に帰った私はクレームのことが頭から離れず、あまり眠ることができなかった。こちらに非がないにせよ、自分の担当するクラスの保護者から来た苦言。それを肩代わりして処理してくれた江藤先生。私の出る幕はないのだと、大人の態度で教えてくれた織田先生。
分かってはいた。
自分が、まだ社会に出たばかりのほんの小さな雛だということ。今まで順調に教師生活を送ってきて、「自分は意外といけるかもしれない」と自負していたこと。その傲慢さが、今回のミスを引き起こしたこと。
電気を消し、ベッドに寝そべって目を閉じる。頭が冴えて眠れない。こんなとき、ネガティブなことばかり考えてしまう。
唯人の死から、ようやく少しずつ立ち直れてきたと思っていた。けれど、心が不安定になったとき、いつだって彼の面影を探してしまう。絶対にもう会えることなんてないのに。「よしよし、大丈夫だよ」って頭を撫でてくれる彼を思い出す。
とたん、こみ上げてきた寂しさに、思わず嗚咽を漏らした。だめだ。どんなに月日が流れても、彼のことを思い出すとまだ心がずしんと重たくなる。胸の奥がきゅっと鳴る。行き場のない寂しさが、夜の闇の中に溶けて、私も一緒に消えてしまいたいと思った。

長谷君は、眠そうな目を擦りながら「社会科資料室」の扉を開けて中に入ってきた。
ゆっくり二人で話ができる教室を探していたところ、社会科の井上先生が快く「使っていいよ」と言ってくれたのだ。
資料室の中には当然社会科の先生が使う地図帳や参考書たちが置いてあるが、なぜかシンクやオーブントースターやポットまで置いてあって先生たちはここで一体何をしているのだろうと不思議に思う。
「いらっしゃい」
「失礼します」
ひょこっと頭を下げて椅子に座る長谷君を見ていると、小さな子供のようで可愛らしい。私は彼に椅子に腰掛けるように勧めた。
「紅茶、飲める?」
「え、あ、はい。飲めます」
「ちょっと待ってて」
沸かしておいたポットのお湯を職員室から持ってきたカップに注ぐ。もちろん今日もレモンティー。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
高校生のとき、私は紅茶なんて飲まない人間だった。というか、この年齢の子供は大抵背伸びしてコーヒーや紅茶を飲んでも、苦いと思うだけだろう。
だから、彼が紅茶を美味しいと思ってくれるかは分からなかった。
「……レモンだ」
「ええ。どう? ストレートより酸味があって好きなの」
「俺も、こっちの方が好きです」
「本当? 良かった」
意外にも長谷君はレモンティーを気に入ってくれたようで、美味しそうに飲んでくれた。
「それで、今日の話って」
「そうそう。今日は、長谷君のことを知りたいと思って」
「俺のこと……ですか」
「うん。何か困ってることないかなーって。授業、ついていけてるのかなとか」
「そんなの言わなくても分かってるでしょう」
うう、という呻き声が聞こえてきそうな感じで、彼は苦い顔をした。だよね。だって、いつも居眠りすごいもんね。
「ごめんごめん。勉強、嫌だよねえ」
他の先生たちに比べたら、私はまだ彼の年齢に近い方なので、自分の学生時代を鮮明に思い出せる。授業で分からないことがあるととたんにやる気が失せてしまうあの感じ。かと言って、自ら先生に質問をしに行くでもなく、「勉強したくない!」と親に反抗する日々。学校では真面目な生徒を装っていたけれど、家では年相応にわがままだった。今思えばすべて自分のための勉強なのに、それが分からなかった青臭い時間。
「本当ですよ。俺、教科書開くだけでもう嫌になっちゃうんです。だから開くのもやめようって」
笑い話のように答える彼。中学生にしては、大人の人との会話の受け答えがしっかりしているから、きっと地頭が悪いわけではないのだろう。
「なるほどね。親御さんはどう? 結構うるさい感じかな」
“うるさい”だなんて、実際に保護者の前では絶対言えないけれど、子供の心にできるだけ近づこうと思うと、自然に出てきてしまった。
「そうなんです! もううちの親、俺にどんだけ期待してんのか知らないですけど、すっごい量の課題を出してくるんですよ。宿題とは別ですよ? もうウンザリです。この間だって、『課題が終わるまで寝るな』って怒られて、夜中まで勉強させられて。それで昼間眠くなって保健室で寝てました」
深いため息をついて滝のように喋り出した長谷君は、普段の授業中のようにぼーっとしている感じは一切なく、ハキハキと言葉を発していてなんだかおかしかった。
「なに笑ってるんですか」
自分でも気がついていなかったのだが、私はまくし立てるようにして話す彼に、自然と笑がこぼれてしまっていたようだ。
「いや、こんなに話す人だったんだなって」
「俺は元来こういう人間です」
「そっかそっか」
口に含んだレモンティーが、いつもより甘く感じる。少し砂糖を入れすぎたのかしら。
「……本当は俺、ただ兄と比べられることが嫌なだけなんです」
彼は、私と同じようにレモンティーを一口飲むと、カタっと音を立ててカップを置き、真剣な表情で呟いた。
「兄? そういえば、歳の離れたお兄さんがいるって他の先生から聞いたわ」
「はい。まあ兄と言っても母親が再婚で父親が違うんですが」
なるほど、少し複雑な家庭なのか。
「そうなんだ。お兄さんは、どんな人だったの?」
私が尋ねると、彼はぱっと表情を明るくして、お兄さんについて話しだした。
「兄は格好いい人です。なんでもできて、父親の違う弟の俺に常に優しくて。10歳離れてるからか、喧嘩したことなんかないです。勉強ができて優しくて、大学もかなり良いところに進んで。母も兄のことは気にいっていました。誇りに思っていたんだと思います。だから、俺にも兄のようになって欲しいと思っているんです」
無意識のうちに、兄弟を比べてしまう親は少なくない。教師を始めた年にも、そういう親御さんからの相談を多々受けたことがあった。比べられた子供はプレッシャーを感じてしまうし、親にとっても、本当は比べるべきではないと分かっているのにやめられないというパターンが多く、子供がぐれてしまう原因になる。
たぶん、彼の親もその一人だ。
本当は、お兄さんと長谷君を比べたくないと思っているのかもしれない。でも、心とは裏腹に、彼を縛りつけ、その結果彼は疲れてしまっている。
私は、ずっと分からなかった長谷君の気持ちが、少しずつ理解できるようになった。
「そういう親御さん、たまにいるよね。そうね、面談のとき、ちょっと先生からお母さんに話してみましょうか」
「いいんですか」
「ええ、もちろん」
長谷君の親から、昨日面談についてのクレームがあったことは承知している。でも、それでも私は彼の担任として、彼の心を救いたかった。
もうすぐ昼休みが終わろうとしている。私も長谷君もちょうどレモンティーを飲み終えた。
「俺、本当はこの間の先生の授業、受けたかったんです」
「この間って?」
「檸檬」
そういえば梶井基次郎の「檸檬」の初回授業の際に、彼が授業をサボっていたことを思い出す。そうか、あの時彼は保健室で寝ていたのか。
「……兄が、好きだって言ってた話だったから」
どくん。
なんだろう。先ほどから嫌な感じに脈が乱れているのを感じていた。得体の知れない不安が突然大きく膨らんでゆく。
「お兄さんはいま、どうしてるの……?」
本当は聞くべきではなかったのだと思う。私は、ずっと前から予感していた。それに気づかないフリをして蓋をして。このまま、何も聞かなければ良かったんだろう。
だけど。
「半年前に、亡くなりました」
知っていた。私は、彼の兄の存在を、彼に聞く前から気づいていた。
婚約者だった人——長谷唯人のお葬式に出た際、確かに学ラン姿の長谷君がいた。当時の私は彼の顔を知らなかったので、ほとんど記憶に残っていなかった。でも、今彼に言われると思い出す。そこにいた少年は確かに、長谷翔だった。
「唯人……」
気がつけば彼の名を呼んでいた。長谷君は、突然私が教えてもない兄の名前を呟いたからか、「え」と目を丸くして驚いていた。
それからのことはよく覚えていない。確か、「ごめんなさい」と彼に頭を下げたあと、すぐに教室から出た。そのあとどうやって次の授業をしたのか、どうやって家に帰りご飯を食べたのか、食べたものはどんな味がしたのか、思い出せないのだ。
私はその日から一週間、体調を崩して休むことになった。