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「ね、ねえどこ行くの、相馬くん」
「涼しいとこ」
「目的地が無いのって、ちょっとまずいかもだよ」
「俺はそっちのがワクワクしていいいけど。つか目的地あるって。涼しいとこ」
「えぇ~…?」
「もう着く、もう着くから、あとちょっと!」
自転車を濃いで40分。真夏の朝に自転車爆走は、現役高校生といえど正直ちょっときつい。想像以上に上り坂も多かった。学校から離れた場所――人通りがあまりない郊外。私たちが住む街は、元々それほど栄えたところではないから、自転車を数十分走らせただけで、街並みは驚くほどに変わる。
「ほら八月朔日、着いた!」
昔ながらの布団屋さんとか、時計屋さんとか、レトロなお店が並ぶ街に自転車を走らせ、最後の最後に襲い掛かってきた坂道を上り終えた頃、汗だくの私を差し置いて涼しい顔をした相馬くんが語尾を上げた。
青空の下、ブラウスの隙間を細やかな風が吹き抜ける。チリンチリン……と、全開の引き戸のすぐ横に掛けられた風鈴が鳴った。
「みずがめざ……」
商店というのか、駄菓子屋というのか。屋根看板に貫録のある字で『みずがめざ』と、そう書かれてあった。知らないお店だった。けれど、相馬くんは違うみたいだ。
「ここの店主が水瓶座だったから『みずがめざ』」
「え?」
「ごめんくださーい」
紺色の暖簾をくぐり抜け、相馬くんが慣れた口調で言う。慌ててその背中について行くと、白髪に丸眼鏡、白の割烹着といった、いかにもなおばあさんがレジのところに座って本を広げていた。相馬くんの来店に気づくと、おばあさんはしわくちゃな目尻にさらに皺を作って笑った。
「あらぁなっちゃん。制服着て……学校かい?」
「んーや、サボリサボリ」
「あらあら」
「ラムネ2本、冷えてるやつ。今日友達連れてきてんだわ」
「あらまぁ、そうかい、いいねえ。ゆっくりしてきなさい」
「ありがとー」
サボリ発言にも動じないところをから察するに、相馬くんとそこそこ付き合いが長いのだろう。自転車で40分のこの場所に、相馬くんはどのくらいの頻度で来ているのか。まだ知らない相馬くんの部分が見え隠れしてワクワクする。
レトロで趣のある店内。何気なく中をぐるりと見渡すと、ふと見覚えのあるタッチのイラストが目についた。額縁に入れられた1枚の紙。記憶に残るそれよりは少々粗削りではあるものの、思わず見つめてしまうほど、優しい愛が籠ったような、おばあさんの似顔絵だった。
「結構、似てるっしょ」
私に気付いたのか、いつの間にかお会計を済ませていた相馬くんが言う。昨日、木下先生の似顔絵をくれた時と同じ台詞だ。
「う」
ん。そう言おうとして顔を上げた時、思ったより近くに相馬くんがいて思わず仰け反った。身長はいったい何センチあるのか、教室にいた時では把握しきれなかったけれど、思っていたよりずっと高身長。斜め下から覗く顎のラインが、とても綺麗だった。
「近……いなぁ相馬くん」
「え?ごめ」
「う……うん、あのほんと、気をつけてもらえると」
「うん。あ、うん。ごめん?」
頬が火照るのは暑さのせいか。ぺこりと頭を下げられ、半人分の距離をとる。相馬くんは全然動揺なんてしていないようで、まるで私だけが意識しているかのような空気が、少しだけ恥ずかしかった。
「それねぇ、なっちゃんが昔描いてくれたのよねぇ。いつだったかしら、中学生の頃?上手よねぇ」
「うーん、多分?そんくらい」
なっちゃん。相馬 夏芽くんだから、なっちゃんなのか。かわいい、とぼんやり思う。
「なっちゃんは本当に凄いのよ、昔から。私もなっちゃんの絵が大好きでねぇ、私の似顔絵だけじゃないさ。この辺りに住んでいた子たちの絵だってたくさん飾って───」
言いかけて、おばあさんがハッとしたように言葉を止める。何か口に出すのは気が引ける内容だったということは察したものの、何もわからない私は相馬くんとおばあさんの顔を交互に見るしかできなかった。ラムネを2本抱えた相馬くんが気まずそうに目を逸らす。
「……あー、はは。ごめんなばーちゃん、気使わせて」
「なんだって考えるより先に言葉が出てきてしまうかね……」
「いーよいーよ。大丈夫だから気にすんな。ラムネありがと、ベンチ借りるね」
相馬くんはそう言うと暖簾を潜って外に出て行ってしまった。取り残された私に、おばあさんが申し訳なさそうに眉を下げる。
「……なっちゃんに、昔の話は禁句だったんだけどねぇ…。お友達を連れてきたのは久しぶりだったからって舞い上がってしまったね、ごめんねお嬢さんも」
弱い声が落ちる。口を滑らせてしまったことをとても後悔しているように思えた。おばあさんは、おもむろにアイスのショーケースをあけるとカップに入ったシャーベットフロートを2つ取り出し、木箆を添えて私に手渡した。
「なっちゃんとふたりでお食べ」
「え、いいんですか?」
「外は暑いでしょう。ゆっくりしていきなさいな」
相馬くんに対してのお詫びの意味も兼ねているのかもしれない。断る理由が私にはなかったので、それを受け取りぺこりと頭を下げた。氷の冷たさが、暑さで熱を帯びた皮膚に溶け込んでいく。外の気温は何度あるのだろうか。
「八月朔日ー?早く」
「あ、うん、今行きます。あの、ありがとうございます、アイス」
おばあさんの優しい笑顔に送られてお店を出る。入り口にぶら下げられた風鈴が、真夏の風に吹かれてちりんと揺れた。