朝、布団の温もりがやたら恋しい。気温が一段と下がり、最高気温が一桁の日が続いている。


毎年のこととは言え相変わらず仕組みがよくわからない年末調整を書かされ、「年末年始の出勤協力たのみます」と泣き顔の絵文字付きの文章がバイト先のグループラインに送られてきた。

年末年始は時給が100円アップするらしい。俺が働く飲食店の基本自給は900円で、バイト歴3年目でバイトの中じゃそこそこベテランの俺の時給は920円。つまるところ年末年始は時給1020円になるわけで、おまけに帰省予定がない俺にとっては年末年始は稼ぎ時。10万が手の届く位置にいる。年明け、給料日が来たらひとりで焼肉にでも行こうか。ハードルは少し高いが。



バイトをしている時間はある意味憩いだ。大学3年の冬、着実に準備をしている人は就活に励んでいるわけで、インターンやら説明会やらでせわしなく動いているようだが、俺はまだ、何もできていない。将来について考えるだけで吐き気がする。中学・高校の成績は中の下。大学には卒単を取りに行くためだけに通っている。趣味で少しかじった程度のギターは何の役にも立たないだろう。どうせ、数年後にはガラクタだ。



人見知りで、友達は片手で数えられる俺だが、1年生の頃はまだもう少し社交的だったように思う。

なんとなくで入った飲みサーで、未成年でも関係なく朝まで飲み倒し始発で家に帰ったり、どうせそこまでアルコールが回っていないくせに酒のせいにして食ってやろうという魂胆が見え見えの先輩に捧げたこともある。若気の至りって多分俺みたいな阿保のことを指していうんだろうなと、自分に跨がる先輩を見ながら思っていた。


性交は好きじゃない。男として持っているものは機能しているものの、欲がそこまで湧かないのだ。食に関心はない。3食卵かけご飯でも全く問題がない。夜更かしを夜更かしと呼ばなくなったのはいつからか? 朝方ようやくひょっこり顔を出した睡魔に誘われて眠りにつくもきまって7時に目が覚める。



人間の三大欲求すらまともに求められない生活。満足感は10段階評価で言ったら2が妥当だ。







師走。何も変わらないままの俺に迫りくるニューイヤーからの圧に嫌気がさす。






「やっぱさぁ、Air Pods便利だよねぇ」



木製のテーブルに肘をつき12月の最終講義までに提出しなければならないレポートの作成をしていた俺に、向かいに座る女が唐突にそんな話題を持ち掛けた。

女の名前は素直な花と書いて、素花(もとか)。俺の幼馴染であり、かつ数少ない友達のひとりに値する。



「性能的にはProのが良いんだけどさあ、値段で言ったら初代が妥当だよねぇ。初代の方、ノイキャンないらしいから。電車とかめちゃくちゃ煩いって、友達が言ってたんよぉ。いやあでも、イヤフォンに3万って痛くない?」


レポートの調べものをしたページのまま開きっぱなしだった俺のiPhoneが、Air Podsの開閉によって反応する。充電、右86%、左70%。両耳分同時に充電しているはずなのになんで差異がでるんだろう。Air Podsを使い始めて1年弱。未だ消えない疑問である。


(なお)は、なんでAir Pods買ったんだっけ」
「誕生日に、兄ちゃんが」
「あーね。いいなー、私の誕生日にも誰かくれんかな。12月30日なんだけど」
「こっち見んな。買わねーよ」
「だめかぁ」
「だめです」
「くっそー…」



12月30日。シフト希望を出した日だ。時給アップ対象の初日。


俺と素花は付き合っているわけでもその予定があるわけでもないただの幼馴染かつ友人であるが、十数年来の仲だから、一応プレゼントは毎年あげるし俺ももらっている。お菓子だけの年もあれば持ち運び充電器やユニクロのトレーナーの年もあったが、さほど高価なものではなかった。

Air Podsは、例年の流れからすると少し高い。






「てか話変わるけどさ、尚、就活いつからはじめる予定?」
「わかんね」



等々に問われた質問に雑な返事をすると、「私も」と返された。

素花の一人称は音が繋がって「わたし」が「わし」に聞こえる時がある。それが昔からひそかに気に入っているということは墓場まで持っていくつもりだ。そんなこと言ったとて、何にもならないから。


「そろそろ始めないとまずいかなぁ」
「素花はなんだかんだうまくいきそうじゃん。コミュ力あるし」
「尚からしたらそうかもだけど、周りに比べたら言うほどないよ。あーあ、やだなぁ、髪もネイルも辞めなきゃいけないのとか、生きるモチベない」



素花が机に上半身を倒し、自分の腕に顎を乗せた。生え際から地毛の黒が垣間見えるラベンダーアッシュとかいう色の髪。大学生になってから随分と痛めつけている気がするが、それで可愛さには抗えないとかなんとか言っていた。顔を合わせるたびに変わる素花の髪色が、俺は嫌いじゃない。

就活をはじめたら、そのうち素花の髪も真っ黒に染まってしまうのだろうか。そう思ったら少しだけ寂しくなった。




「あーあ。自分のこと嫌いになりたくないなー…」


俺も、これ以上何もない自分を認めるのは嫌だな。声には出さず心の中で返事をする。素花は数秒俺を見つめ、それから。




「尚もさぁ、しんどくなったら泣きついてきていいよ」



そう言って口角をあげて笑った。全部見透かされているみたいで恥ずかしかった。










12月30日。いやだなんだとほざいたところで時間は人類平等に流れていくわけで、当然のことながらニューイヤーも着実に俺の元に近づいてきていた。


無事レポートを提出し、冬期休暇に入り、彼女のいないクリスマスはバイトで終えた。12月ももう終わる。どうにもできない時の流れが憎い。



年の瀬、19時。3連勤目を終えたその日、本来シフトは17時までで組まれていたものの、なかなか混雑が緩和されず結局俺が店を出たのはつい15分前のことだった。普段あまり歩かない時間は、帰宅中とみられるサラリーマンが多い印象だった。仕事に追われ定時上がりができなかったのだろうか。

社会人の仕組みはよくわかっていないが、年末は忙しいと聞く。俺も2年後、そんな現実を体験するのか。想像しかけて、やめた。自分の将来なんか、どうせろくなものになりはしない。


吐いた息が白い。澄んだ冷たい空気が頬を切る。誰かのやさしさに触れたいと思ってしまったのは、きっと寒さのせいだ。




「ありがとうございましたっ」



語尾が弾んだ幼い声に、足元ばかり見て歩いていた俺はふと顔をあげた。

穏やかな雰囲気の老夫婦が出てきたのは、街角のちいさなケーキ屋だった。にこやかに微笑みながら手を振っている。


流れるままに視線を移すと、一目見てケーキ屋だとわかる城を基調とした店の制服を着た少年がショーケースの上からひょっこり顔を出していた。その横で、同じ白の制服を着た女性が「またいらしてくださいね」と頭を下げている。想像するに、息子に手伝いをしてもらっている個人経営のケーキ屋みたいだ。



微笑ましい。あの少年は、将来実家のケーキ屋を継ぐのだろうか。就活を避けて過ごせる代わりに、それはそれで葛藤がありそうだな。自分が焦っていることもあり、就活に結び付けて考えてしまう思考にため息が出た。






再び足を動かそうとした矢先、ケーキ屋のショーケースのそばに「たんじょうびケーキあります」と手書き風フォントでかかれた看板が置いてあるのを見つけた。



たんじょうび。今日は素花の誕生日だ。


そうだ、なんて心の中で言ってみたけれど、最初から忘れてなどいない。毎年なんだかんだ祝ってきた日だ。


俺たちは付き合っているわけでもその予定があるわけでもないただの幼馴染で友人である。当然、誕生日当日に会う約束を取り付けているはずもない。素花からは先日会った時に「尚今年もバイトがんばれよぉ」とエールを貰っていた。



お互いの誕生日は、会った時に適当に選んだ、高すぎないプレゼント渡すだけ。毎年そうだった。

そうしてきたのだ、俺だけが、ずっと。




「おにいちゃん、ぼくんちのケーキ買いますかっ!?」
「え」



看板を見つめたまま立ち止まる俺にそんな声がかけられる。少年の弾んだ声に、「あ、いや俺は」と否定しようとしたけれど、それより先に口を動かしたのは少年だった。こらだめよ、と言う母親の声なんてお構いなしに「あのね、すっごいんだよ!」と少年は言葉を続ける。


「ぜんぶぼくのパパが作ってるんだ!」
「え、ああ……うん、すごいね」
「ぼくがいちばん好きなのはチョコとイチゴなんだけどね、さっきのおばあちゃんたちはシフォンケーキと、あと、栗のやつが好きって言ってたよ!」



少年がにかっと白い歯を見せて笑った。瞳があまりにも真っすぐできらきらしていたものだから、俺は返す言葉に詰まってしまった。母親が申し訳なさそうに眉尻を下げて俺を見ている。大丈夫ですよ。その意味を込めて軽く会釈をした。


ショーケースに並ぶケーキを今一度よく見つめる。レジ脇にはクッキーやフィナンシェなど焼き菓子も並んでいる。どれもとてもおいしそうだ。

ケーキを眺めている間は少年からの視線を感じたが、嫌な気はしなかった。



「……あの」 



一通り眺めて、ようやく俺は口を開く。少し掠れた声が出た。


「はいっ」
「看板、の……えーっと、誕生日、21歳の……、いや、」
「たんじょうびけーきありますっ」





緊張しているのは何故なのか。頭の中で思い浮かべた言葉が文として成り立たないまま音になる。少年の眼差しが眩しい。


そのだんじょうびケーキっていうのは何号のホールケーキで何味ですか。ネームプレート書いてもらえますか。全部詳細に聞いたうえでそのケーキを購入すると決めたとて、たかが幼馴染の俺がホールケーキを買うのは重いですか。ケーキならまだ、ゆるされますか。

21歳の誕生日──たかがケーキで、俺と素花の関係は変わると思いますか。




「おにいちゃん、チョコになまえ……」
「まってナオ、ホールケーキはさっきもうないってパパが」
「え~っ!?」



……ああ、またくだらないことを考えてしまった。

少年と母親のやりとりを聞き、ハッと我に返る。ふと少年の瞳と目が合う。潤んだそれは俺の代わりに流れてくれているようにすら感じた。



「申し訳ございません……ホールケーキ、さっき全部売れちゃったんです」



母親が申し訳なさそうに言うので、俺は「いえ、それならいいんです」と無理やり口角をあげた。素花との関係に見返りを求めるだけ無駄なのだ。良い、むしろこれで良かった。危なく素花との間に変化を求めてしまうところだった。



「ごめんなさいね……」
「いえいえ。じゃあ、えーっと……チョコレートケーキとショートケーキ、ひとつずつください」
「あらあら、すみません。ありがとうございます。ご自宅用ですか?」
「あー…、はい、自宅用で」



バイト続きで脳が疲れていたんだきっと。帰ろう。帰って部屋着に着替えたら、プレゼントにと買っておいた素花の好きなブランドのマフラーを持って家に向かおう。「暇だから来てやったわ」って偉そうに言ってやろう。


俺は今年もそんな理由でしか、素花に会いに行けない。