ジャックと呼ばれて理由アリの旅をする



 話をしているうちに、前方にビルが立ち並ぶポートランドが見えてきた。

 ここで、ジェナの指示があり、その通りに進むとウィラメット川に架かる『バーンサイドブリッジ』にやってきた。

 これは大きな船を通すときに、真ん中でパカッて開いて二つに割れる跳ね橋だ。

 前方の茶色いビルの屋上に鹿のシェイプと『Portland Oregon』と綴られたネオンのサインが掲げてあった。

 まさにポートランドに来ましたという気分にさせられる。

 そのまま真っ直ぐ行けば、ダウンタウンに入り、右手にチャイナタウンの入り口みたいな門が現れた。

 パッと見、治安が良くなさそうで怖い雰囲気がした。

「昔はチャイニーズレストランで賑わって、中国人が一杯いたけど、今は中国人が全くいないチャイニーズタウンになってしまった。すごくさびれて、夜とかは近づかない方がいいと思う」

 苦笑いして肩を竦めたジェナも、それとなく危ないと体で示しているようだ。

 その後何も言われずまっすぐ行くと、あっという間にダウンタウンの外れになって、ポートランドを飛び越えて山間へと続いてしまった。

「どこ行くの?」

 俺が不安になってると、「次の信号左に曲がって」と指示された。

 曲がった途端大きくカーブして坂道を上がって行く。

 金持ちそうな家が立ち並んでる通りに出て、しばらくしたら駐車場のある場所に辿り着いた。

「ジャック、あそこ、車止められる。早く」

 ジェナは俺を急かした。

 すでに車で詰まってしまった場所に一台だけ停まれるスペースが開いていた。

 そこに車を停めると、ジェナはほっと一息ついた。

「ここ、車止めるところが少なくて、それでいて、沢山人が来るから、スペースを見つけると焦ってしまうの」

「一体何があるの?」

「この前のテニスコートの向こうにはローズガーデン。後ろのあっちの森の奥が、ジャパニーズガーデン」

 二つのガーデンは道を挟んで向かい合っている。

 ローズガーデンは無料だが、ジャパニーズガーデンは入場料がいるらしい。

 全米にある日本庭園の中で一番美しく、世界からも評価が高いと聞いたら、どんな庭なのか興味が湧いた。

 そこで入ってみた。

 日本人なら見慣れた光景なので感動はそんなになかったのだが、これがアメリカで作られてると考えたら、かなり忠実に再現されてるのはすごいことだった。

 寺院を思わせる建物、枯山水、池、松、桜、竹、椿、そういったものがテーマに沿って、上手く配置されている。

 まさに日本で良く知られているイメージそのままの庭園だった。

 でも何かがピタッと当てはまらない。

 どこか違和感を覚えた。

「どう思う、ここ。日本の庭園と同じ?」

「かなりレベルが高いと思う。だけど、ここが全くの日本に見えるとは言い切れない」

「どうして?」

「うーん、なんでそう思うんだろう。こんなに日本なのに」

 俺たちは順序に沿って、庭園を歩いていた。

 そこで俺は気が付いた。

「あっ! 木と草だ」

 森の中にあるから、周りの木が高すぎて、日本ぽくなく、自然に生えている草も種類が日本と違っている。

 そのことをジェナに伝えてみた。

「ああ、あの高い木ね。あれはダグラスファー。オレゴン原産の木。クリスマスツリーにも良く使われる」

「どおりで、洋風っぽい」

 それは仕方のないことだった。

 それでもこの日本庭園は限りなく日本に近い場所だった。

 アメリカ人なら、こういうのが好きだろう。

 京都に沢山外国人の観光客が押し寄せるように。

「日本ってどんな国?」

 苔が生える小道でジェナが立ち止まり訊いた。

「うーん」

 一言で言い表せないし、何を言っていいのかわからない。

 自分の国だというのに、俺はジェナに上手く伝えられないでいる。

 焦って、思った事をとりあえず言ってみた。

「狭くて住みにくい国かな」

「どうして住みにくいの?」

「みんな、自分の意見をはっきり言わずに、人が察することを当たり前に思っているから」

「どういう意味、それ?」

「周りと同じようにしなければならないってこと」

「なんかつまらなくない?」

「その通り、つまらない」

「でもさ、ジャック、どうして悪い所を先に言うの?」

「えっ?」

 自分で気が付いてなかった。

 なぜか俺は自分の国を蔑んで見る癖がついている。

「それでいいところは?」

「えーっと、それは……」

 咄嗟に出て来ず、俺は目を泳がせる。

 あまりにも日本に似た場所に来て、感覚が麻痺してここがどこだかわからなくなってくる。

「私は日本が好きだよ。本当に文化、習慣も独特だよね。昔からの伝統が受け継がれてる」

「そうかな」

「そうだよ。それって大切な事だと思うよ」

 アメリカ人のジェナに日本のいいところを教えられてるように思え、俺は恥ずかしかった。

 自分の国の事も何一つ満足に紹介できない。

 ジェナは少なくとも自分の生まれ故郷、オレゴンについてはたくさんの事知ってそうだ。

 だからこうやって俺を色んな所へと案内できるし、自慢もできる。

 もし、ジェナが日本に来た時、俺はこんな風に案内できるのだろうか。

 そして同じように自慢できるのだろうか。

 それでも俺はジェナに言った。

「いつか、日本においで。俺が案内するから」

「それ、いいね。ありがとう。でも実現するかな」

 あれ、なんかジェナらしくない消極的な返事。

 ジェナだったら、「絶対行く!」とか言い出すと思ってたのに。

 時々寂しげな目をして、モチベーションが下がるから、女心はよくわからない。


 日本庭園を出た後、向かいのローズガーデンに寄った。

 ふんわりとした柔らかな空気が流れたように感じたのは、あまりにも多くのバラが咲き誇り、それらの香りが漂ってるように思ったからだろうか。

 見事な沢山のバラが、色とりどりに美しい。

 そこは広大な範囲で、全てバラで埋め尽くされていた。

「ちょうどローズの季節で、ローズフェスティバルの期間なんだ」

 毎年5月下旬から6月中旬にかけて、ポートランドの街全体で、色んなイベントが催されて賑わうそうだ。

 各高校でローズクィーンを選出してグランプリを決めたり、パレードがあったり、川でボートレースがあったりと、多彩に催される。

 ローズクィーンと聞いて、ジェナなら選ばれてもおかしくないと思った。

「ジェナはローズクィーンに選ばれた事あるの?」

「ううん、私、ホームスクールだから、高校には行ってない」

「えっ? でも高校卒業したって」

「うん、だから、高校卒業と同じカリキュラムを終えたってこと」

「でも、ホームスクールって家で勉強するってこと?」

「そうだよ。オレゴンはホームスクールが全米一盛んで、そのためにわざわざこっちへ引っ越してくる家族もいるの。カリキュラムがしっかりしてて、ホームスクラー同士助けあったり、そういう組織があって、たまにものすごい数のホームスクラーとその親たちが集まって集会なんかも開かれる。学力も定期的に試験を受けたりして自分で力をつけていくの」

「すごいな」

「だって、学校は予算がないと、すぐ休みになったり、先生がストライキ始めたり、銃乱射事件があったり」

「おいっ!」

「本当のことだもん。学校で銃乱射の避難訓練までさせられるんだよ。そんな学校他の国にある?」

「それはそうだけど、しかし怖い」

「そうだよ、ほんと怖いよ。でも私がホームスクール始めたのは、それが理由じゃないけどね」 

 そういって、ジェナはバラの花が咲き誇る中へと進んでいった。

 バラを見ていると、心が癒されていく。

 とにかくここは平和だ。

 こんなに美しい場所があっても、アメリカはどこかに闇が潜んでいる。

 光と影のコントラストがとても激しいように思えた。


 朝、早く出かけたせいでもあったけど、色んな所に行って結構ハードなスケジュールだったように思う。

 つい大きな欠伸が出てしまう。

「疲れたね、ジャック。泊まるところどうしようか」

 疲れてベンチに座ってる俺の横にジェナも腰掛けた。

 俺はスマホを取り出し、この近辺のホテルを検索し出した。

 ダウンタウンのはずれに安いホテルがあったので、ブッキングしようとしたが、すでに満室だった。

「この辺周辺はフェスティバルで旅行者が多くなってホテルはほとんど満室かも」

「別にダウンタウン付近じゃなくてもいいじゃないか」

 今度は広範囲で探せば、隣の街にリーズナブルな値段の宿を見つけ、部屋に空きがあるのがわかった。

 そのホテルの近くには路面電車マックスの駅もある。

 ジェナも気にいってくれたようだった。

「ねぇ、明日はマックスでダウンタウンに行けばいいけど、そうしたら、もう一泊そこで泊まった方がよくない?」

「そっか、車置いとかなくっちゃいけないし、それならこの宿に置いとけばいいし、そうだね、ここで2泊した方がダウンタウンでゆっくりできるね」

 善は急げ、すぐさまネット予約した。

「やっぱり部屋は二つ?」

 スマホの画面を見ながらジェナが訊いた。

「当たり前じゃないか」

「別に一緒の部屋でもいいよ。その方が割り勘できるし」

「そこはダメだ」

 ジェナは俺を信じ切ってるから、そんな風にいってくれるのかもしれない。

 でも俺の方が自分を信じ切れない。

 どうせ、お互い一人旅してたのだから、そこは別々に宿をとっても、なんの問題もないだろう。

 そこだけは一線を分けとかなくっちゃって、俺は頑なにそう思っていた。

 ジェナは、俺のジェントルマンな態度にくすっと笑っていた。

「それじゃ、行こうか」

「あっ、その前にもう一つだけ、行きたいところがある。車で5分くらいで、すぐそこなの」

 夕方だけど、日はまだ明るい。

 本当はかなり疲れていたけど、もうひと踏ん張りしようと、俺は立ち上がった。


 次、ジェナが案内してくれたのは、ピトックマンションと呼ばれる昔ながらの豪邸だった。

 オレゴン新聞の創始者が100年以上も前に建てたらしい。

 それはそれは馬鹿でかい、赤いお屋根の立派なお屋敷だった。

 中は見学できるが、俺たちがついた時にはすでに営業時間は終わっていた。

 ここでまたジェナが残念な顔をするのかと思いきや、そのまま屋敷を素通りして、建物の裏側へと向かっていった。

 小高い丘の上にあるその建物の裏庭からは、なんとポートランドダウンタウンとマウントフッドが一望できた。

「ねぇ、素敵な場所でしょ。建物の中も、アンティークな家具が一杯で豪華だけど、私はこの景色見るのが好きなの」

「ほんとだ。すごい!」

「もうちょっと暗かったら、夜景が綺麗なんだよ」

 そういえば、カップル達が寄り添って景色を眺めていた。

 俺たちもロマンティックな気分に浸り、疲れてるのも忘れる程、暫くずっとその景色を見つめていた。

 豪華なピトックマンションを見た後に、安ホテルを見るのは辛いが、最低限の物は揃った落ち着きがあるその宿の部屋は、十分居心地よかった。

 ここに来るまでに、食べ物を調達し、それを持ち込んで食べると、俺はベッドにバタンキューだった。

 一応ジェナには朝早くだけは勘弁してくれとは言っておいたが、案内することに使命を燃やす性格だから、朝7時には起こしにくるかもしれない。

 思えば、この二日間で恐ろしく全力で観光しているような気がする。

 撮った写真を見て、この日を振り返ると、自然と顔がにやけていた。

 アメリカ生活の最後で、こんな事が起こるなんて思ってもみなかった。

 一年間の留学中、俺はできるだけ日本人を避け、英語を話すことに専念した。

 最初はホームステイをし、慣れたらルームメイトとアパートをシェアして暮らした。

 友達もそれなりにできたけど、日本人の友達は少なく、ほとんど英語しか通じない他の国の連中とつるんでいた。

 国という単位だと、色々と言われるけど、中国人、韓国人も、個人的に付き合えば皆いい奴だった。

 英語を学びたいという目的で、俺たちは必死に英語で話し合った。

 俺は普通の日本人じゃない、国際人だ! って意識してたように思う。

 それは今でもそうだけど、それが『スマッグ』なのかもしれない。

 スマッグ──この日、俺の態度を見て、ジェナが発した言葉。

 調べたら、『自惚れ、独りよがり、気取った』という意味が出てきた。

 その時の事を思い出すと、なんだかぐっと体に力が入って、恥ずかしさがこみ上げてくる。

 なんであの時俺は、あの日本人女性に冷たかったんだろう。

 そして、ジェナから日本の事を聞かれて、どうしてネガティブな事を言ってしまったのだろう。

 アメリカでの留学は、俺に自信をつけてくれたと同時に、謙虚さが消えてしまった。

 昔はこんな性格じゃなかったのに。

 それはいいことなのか、悪い事なのか、日本に帰る直前になって、俺はなんだかわからなくなっていた。

 これもジェナに会ったからだろうか。

 ジェナはなんで俺と旅行しようと思ったのだろう。 

 ジェナにとって、ジャックってなんなんだろう。

 現実と夢とのまどろみの中でとりとめもなく色んなことが浮かんでは、混ざり合って訳のわからないものへと変わっていく。

 俺は次第に眠りについていく。

 ジェナと一緒にいる今が夢そのものに感じていた。


 目が覚めた時、時計を見れば8時を回っていた。

 どうやらジェナは気をきかして、ゆっくりと俺を寝かしてくれたようだ。

 ジェナはまだ寝てるのだろうか。

 俺の方からジェナの部屋へ電話を掛けてみた。

「ハロー」

 電話はすぐさま繋がり、ジェナの声が聞こえた。

「グッモーニング、起きてた?」

「さっき起きたところだけど、そっちは準備整ってるの?」

「俺も今起きたとこなんだ。これから身支度する」

「急がなくていいよ。ジャック、疲れてない?」

「よく寝たから、元気!」

「そう、よかった」

「ジェナは、大丈夫?」

「大丈夫。ちょっと目がアレだけど」

「あっ、メガネ! それどこかですぐに作れないの?」

「それは無理。検査して処方箋がいる」

「でも、なんとかしないと。なんか手立てはないの?」

「心配しないで、なんとかなるから。それにちゃんとジャックと観光できてるでしょ」

「君がそういうのなら」

「それじゃ、今からシャワー浴びるから、支度できたら連絡する」

 電話はそこで切れた。

 俺も、同じくシャワーを浴びるとしよう。

 今日はどこへ案内されるのか、急に楽しみになってきた。



 ブレックファーストが無料だったので、軽く朝食をホテルで済ませた後、俺たちは外に繰り出した。

 俺は背中にリュックを背負って、観光客丸出しの格好になっていた。

 ホテルのすぐ隣には、前日ずっと走り続けていたハイウェイ26号線と他のハイウエイが混ざりあってぐるぐるとハイウエイが渦を巻いているようだった。

 車の通りが激しいが、先を少し行ったところでハイウエィ26号線の頭上に歩道橋が架かっていて、それを渡ると路面電車マックスの駅に続いていた。

 バスも何台か止まって、ここから色々な場所へ行けるようだ。

 その隣には4階建ての巨大駐車場があったが、どこも車で埋まっている様子。

 利用客は多そうだった。

 小さな売店の側に、四角い箱型の切符の自動販売機があった。

 デジタル画面の操作の仕方が、なんかややこしい。

 先にボタンを押すのだが、一度で済まされない。

 色々なオプションがあって、英語だから余計によくわからなかった。

 ジェナが操作を手伝ってくれたおかげで助かったが、初めてだと、一人で買うのは難しかった。

 切符買うだけの事に恥ずかしいけど。

 一日乗り放題の5ドルのチケットを選んだのだが、5ドル札がなかったので20ドル札入れたら、残りの15ドルのおつりが全て1ドルコインで返ってきて驚いた。

「ファー?」

「ジャックポットだ!」

 ジェナがしゃれたジョークを言った。

 スロットマシンじゃあるまいし、あまり流通してない1ドルコインを貰っても、逆に使うのに不便だ。

「おつり出てきただけましだよ」

 ジェナはさらりと怖い事を言う。

 時には現金を受け付ける販売機が壊れている時もあったり、クレジットカードしか使えない販売機もあるという。

 たかが数ドル払うだけなのに、なんとも性能の悪い。

 そう思えば、日本の切符売り場はお札でおつりが返ってくるし、性能もいい。

 そういうところだけ褒めても、今更何をと、怒られそうだけど。

 じゃらじゃらと両サイドのズボンのポケットにコインを分けていれた。

 階段を降りたところにホームがあり、そこで電車を待つこと数分。

 タイミングよくすぐ来てくれて、さほど混んでもなさそうで、俺たちは座る事ができた。

 車内は自転車を乗せてる人もいて、電車ですらアウトドア的な雰囲気がした。

 英語でドアが閉まりますと言った後に、スペイン語の案内も流れた。

 ヒスパニックの人種が多いらしい。

 その他、色んな国の言葉で書かれた案内があったが、中国語も韓国語もアラビア語もあるのに、日本語だけなかった。

 そのことをジェナに言えば、「ね、日本人観光客が少なくなったのわかるでしょ?」と返ってきた。

 本当にそうなのだろうか。

 半信半疑に首を傾げると、電車はトンネルの中に入っていった。

 窓はずっと暗く、どこまでトンネルが続くのだろうと思ってた時、そのトンネル内で電車は止まった。

 そこが駅だった。

「オレゴンズーがあるの」

 ジェナは教えてくれる。

「ここに動物園?」

「ここからエレベーターに乗るの。かなりここ深いんだよ。地上まで260フィート」

 換算すれば約79mになる。 ビルにしたら25,6階分はありそうだ。

 どうかエレベーターが壊れませんように。

 トンネルがふさがれませんように。

 そんな事をつい願ってしまう。

 でも子供たちが親に連れられて沢山降りていく姿は微笑ましかった。

 その後、地下からやっと地上に出てきたとき、なんだかほっとした。

 いくつかの駅で止まりながら、ダウンタウンの中心へと電車は向かう。

 そんなダウンタウンの中に球場があったのには驚いた。

「野球場?」

「昔はそうだったんだけど、今は改装されてサッカースタジアムになってる。メジャーリーグのポートランド・ティンバーズと女子チームのポートランド・ソーンズの本拠地」

 サッカーの事は興味がなくてわからなかったが、なんにせよ、街の真ん中にあるのは珍しい。

 地元でもかなり熱狂してサポートしているのだろう。

 そうしているうちに、ジェナが腰を上げ、降りる事を示唆した。

 ビルが立ち並んでるが、コンパクトな街の印象。

「なんか治安よさそう」

 俺が言った。

「うん、比較的安全ではあると思う。かなり開発されて、すごくお洒落に便利になった。その開発事業に日本人スタッフもいるんだって」

「へぇ、日本人が係わってるのか。すごいな」

「今もまだ変わり続けて、この先もっと奇妙に変わるかも」

「奇妙に?」

「”Keep Portland Weird”ってこの街のスローガンになってるの」

 ポートランドを変にし続けろ?

「変があたりまえのように、皆自由に自分を表現している。『Portlandia』っていうコメディドラマ観た事ある?」

「知らない」

「ここで撮影されて、ポートランドの変な人が一杯でて、それを皮肉ってる話で面白いよ。機会があったら観て」

「それで、ほんとにそんな変な人ってこの街に一杯いるの?」

「いるよ! 私も良く見る」

「どんな感じの人?」

「例えば、ストリートカーの中でギター持って歌いだす人とか、自分で装飾した車に乗って走ってる人とか、車にクウガ乗せてた人もいた」

「実際遭遇したら二度見しちゃいそうだね」

「マックス(路面電車)乗ってたとき、駅で暫く止まってたんだけど、外に向かって手を振ってたおじいちゃんがいたの。その先には女性がいたんだけど、気が付いてないのか、全然反応してなかったの。それで、おじいちゃん、隣に座ってる人にも手伝ってくれって一緒に手を振ってもらったの。でも電車が動いちゃった後で、ちらっとその女性がやっとおじいちゃんを見たんだけど、すでに遅かったの。それで一緒に手を振るのを手伝った人が『残念でしたね』って労ったら、『全然知らない人だからいいよ。私は手を振るのが趣味なんだ』って言ってた。なんか吹き出しそうになった」

「ええ、巻き込まれた人、かわいそう」

「手をずっと振られてた人もかわいそうだったかも。ほんとは気がついてたけど、知らない人だから戸惑ってたんだろうね」

「それはほんと変な人だ」

「で、そのおじいちゃん、鞄からマッシュルームのパックを出して、これ安かったんだって自慢してた。だけど、それ痛んでくさりかけてたから、見せられても困ってたよ」

「自由だね」

「ほんと自由だよ」

 そんな話をしながら歩いているうちに、変なオブジェが目に付いた。




 三つ又の足、真ん中に大型線香花火のようなものがあって、それが振り子のように動かせる、訳の分からない形をしていた。

「ポートランドにはたくさんのパブリックアートがあるよ」

 ジェナはその丸い部分の振り子に触れようと手を伸ばした。

「これを見に来たの?」

「ううん、もっと有名なのが、あそこ」

 道路を挟んだ向かい側に『Powell’s Books』とでかでかとサインを掲げた店があった。

 その名のごとく本屋さんだ。

「ジャック、写真撮ってあげる」

 俺のスマホをジェナは手にして、その看板を背景に俺の写真を撮ってくれた。

「ここへきたら、パウエルズをバックにみんな写真撮るんだよ」

「そんなに有名な本屋なの?」

「うん、一ブロック丸ごと本屋さん。中古本と一緒に売ってるから本の数も100万冊以上ある」

 なんか知らないけど、ものすごく大きな本屋らしい。

 その店の前に新聞の束を手にして立ってる人がいた。

 髭が長く、服も着崩れてるというのか、ちょっと普通の人と違った雰囲気がした。

「あの本屋の前で立ってる人も、ポートランドの変な人?」

 俺が訊くと、ジェナは首を軽く横に振った。

「あれは、ホームレス」

「えっ、でもなんか新聞売ろうとしてるよ」

「うん、あれは地元の新聞社が協力して、ホームレスたちで作ってる『Street Roots』っていう15ページほどの新聞なの。それをホームレスが一部25セントで仕入れて、一般に1ドルで販売するの。差額はもちろん自分の売り上げ。そうやってホームレスを支援してる」

「へぇ」

「お金を恵んでくれって大胆にいう人もいるけど、新聞を売る方がスマートだよね」

「ホームレスの人、多いの?」

「昨日、チャイニーズゲート見たでしょ。あの近くにシェルターがあって、夕方から朝までそこでホームレスが過ごせるの。でもベッドに限りがあって早い者勝ちで、溢れる人もいるくらいだから、結構いると思う」

 ポートランドは変で楽しい雰囲気があるけど、ここでも影があった。

 信号が青に変わり、俺たちは本屋に向かった。

 そういえば、俺のポケットには一ドルコインがいっぱいある。

 これ使ってみようか。

 そのコインを一枚、「1ドルコインだけど……」と言って差出してみた。

 パッと見たら25セント硬貨に間違われそうだから、敢えて1ドルを強調した。

 新聞を売ってるホームレスはにこやかに笑って、「お金はお金だ! サンキュー」と新聞を一部手渡してくれた。

 英語で新聞を読むのはちょっと苦手だったが、ホームレスが書いた記事は興味深いモノを感じた。

 時間はかかるかもしれないけど、後でゆっくりと読んでみよう。

 それを背中に背負っていたリュックにしまいこんだ。

 後ろを振り向けば、また誰かが購入し、ホームレスの男性は笑顔になっていた。

 たくさん売れるといいね、と俺も願ってしまった。


 アメリカの本屋はほとんどが英語の本だから、はっきり言って、俺は興味はなかったが、ジェナが「日本語の本もある」と教えてくれた。

 奥へ行けば、下へ降りる階段、上に向かう階段、奥行き深く本当に迷路のようにでかい。

 壁に貼ってあった地図を見て、ジェナが位置を把握すると、そこを目指して俺たちは行った。

 アルファベットが氾濫してるその中で、日本語だけがはっきと意味を成して俺の目に飛び込んでくる。

 漫画や一昔前の本が少しだけ置いてあった。

 日本人が売ったのだろう。

 状態が悪く、汚い割に値段が割高だったので、これなら新品を送料払ってでも買った方がいいような気がした。

 中には掘り出し物もあるかもしれないが。

「なんかいいのある?」

「ない」

 即座に俺が答えると、ジェナは笑っていた。

「だけど、日本の有名な作家もここに来た事があるらしいよ。ここの本屋さんで働いてる人は世界の作家に通な人が多いから、そういうの敏感らしい」

「え、誰が来たの?」

「えっと、『Hear the Wind Sing』を書いた人」

「日本人なのに英語で?」

「そう。翻訳もしてる人だって」

 あまり本を読まないし、英語のタイトルだからその時ピンとこなかった。

 後でわかったけど、本をあまり読まない俺でも、その作家の名前は良く知っていた。

 本を出版したら必ずベストセラーになる程、本当に有名な作家だった。

 本好きの人にはこの本屋は聖地らしい。

 欲しい本もなく、観光がてらに来た俺たちは、今度は反対側の出入り口から外にでた。

「本好きにはたまらない場所なんだろうね」

 俺が感想を述べるとジェナは少しだけ深刻な顔をした。

「本に熱中し過ぎるのも危ないんだよ。そのせいで置き引きとかも実際あってね。どこに居ても油断はできない」

 なるほど、アメリカは常に危険と隣り合わせってことか。

 こんなに平和そうに見えるポートランドでも油断はならないらしい。



 本屋がある辺りが、パール地区と呼ばれ、元工業地帯で倉庫が沢山あるだけの地域だったらしい。

 そこを改造して、店やレストラン、アートギャラリー、おしゃれなアパートが集まる地区になってきている。

 まだ開発中らしく、工事中な所もあった。

 その中でもポートランドに来たら、絶対に食べないといけないパン屋があるとジェナが教えてくれた。

「パールベーカリー。ここは全米でも5本の指に入るくらい美味しいパン屋さん。ずっと前だけどフランスのパンコンテストで2位を獲った事があるってママが言ってた」

「へぇ、フランスで2位って、結構すごい成績だね。1位はやっぱりフランスだったの?」

「ううん、優勝は日本なんだって」

「ええ!」

 それって日本すごいじゃないか。

 俺も日本のパンはどこよりも美味しいとは思うけど、世界に認められてるとはすごいな。

 本屋を出て、1ブロック歩いたその先にそのパン屋があったので、俺たちはそこへ入ってパンを一つ買った。

 カウンターの後ろにラックに乗ったパンが見える。

 飾り気のない、パンだけを売ってる素朴な感じがした。

 それを持って、また一ブロック歩くと木が生い茂げった縦に長い公園に出くわした。

 子供たちが遊ぶ遊具や、ベンチがあり、俺たちはそこでパンを頬張った。

 鳥がさえずり、鳩が足元に寄ってくる。

 微笑み合ってジェナとおいしパンを頬張ってたとき、目の前を変なものが通っていった。

 車輪がついたバーのカウンターのような屋台。

 大勢がそれを囲んで座りながら、座席に添えられていたペダルをこいでいた。

 先頭はハンドルをもってそれを引っ張るようにペダルをこいでいる。

「あれはビール飲みながら自転車に乗れるツアー。ブリューサイクルっていうの」

「何それ」

「ブリューバージって船バージョンもあって、川の上をビール持って足でこぐみたい」

「ええ、何それ」

「だから言ったでしょ、ポートランドを変にし続けるって」

 ほんと変な発想だ。

「ねえ、ジャックはビールが好き?」

「好きって、まあ飲むけど足でこぎながら飲むのは、あまり」

「別に、あれに参加しなくていいけど、ポートランドはブリューワリーで有名で、色んなビールが飲めるよ」

「ノーサンキュー」

 ビールは味の違いが判るほどの通じゃないし、昼間から飲むのもあれだった。

 パンを食べたところで、俺たちはさらに観光を始めた。

 ブティックやレストランがたくさんあるお洒落な『NW 23rd Avenue』は歩いていける距離だったが、ショッピングには興味がなかったのでパスした。

 でもジェナの話によるとゆっくり散策するにはもってこいらしい。

 そこが新しく開発されたときは、ダウンタウンの中で一番ホットだったらしいが、今はもっとおしゃれな通りが増えてきて、絶えずホットな場所が変化しているそうだ。

 他にも『N Mississippi Ave』や 『N.E. Alberta St』などダウンタウンからウィラメット川を越えた方面もおしゃれになってきているそうだ。

 そんな事を説明されても、俺にはちんぷんかんぷんだったが、ジェナはそういう情報に敏感らしい。

 さらに『SE Division Street』は朝昼晩1週間食べ歩きしても足らないくらいのレストランが並ぶストリートで、美味しいものが一杯あるという。

 2005年にオープンして以来、瞬く間に全米にも知れ渡るくらい有名なレストランが誕生しているという。

 アメリカ料理って大雑把で大味が多いけど、ポートランドはどうやらグルメな街らしい。

 そんな話を聞きながら、ブロードウェイ通りを真っ直ぐ北に向かっていた。

 ホテルやオフィスといったビルが立ち並んでる中に、緑が混じっている。

 落ち着きがあるその街並みの中、レンガを引きつめた広場──パイオニア・コートハウス・スクウェア──が現れた。

「誰か傘持ってる」

 俺が指を差す。

 傘をささないと聞いていたし、雨は降ってないし、その広場の端に傘を差した黒っぽい人影が立っていたのが違和感だった。

「あれもパブリックアート」

 ジェナが言った。

 近づいてみたら、ほんとに銅像だった。

 他にもその広場周辺に動物の銅像が多数あって、これは可愛かった。

 その1ブロック先にも『ディレクター・パーク』があり、規模は小さいけど、直接地面から水が出てくる噴水や、両手で抱えないと持てない駒と大きなチェス盤が地面に描かれていて実際遊べるなど、そこはコンクリート的なモダンなデザインで人々の憩いの場となっていた。

「ここはできてまだ間もない新しいところ。イベントが良く催される」

 だれかがベンチに座ってPCを操っていた。WiFiも設置されている! すごい。

「技術の先端いってるね」

 俺は感心してしまった。

「今もまだ色んな工事があちこちで行われてるから、この先もっと変わると思う」

「どんな風に変わるんだろう。楽しみだね」

 ワクワクしている俺の隣でジェナはまた寂しげに辺りを見ていた。

 そうだ、ジェナはオレゴンから出ていくかもしれないんだった。 

「ジャック、疲れてない?」

「大丈夫。散策するのが楽しい」

「よかった」

 まだまだ俺たちはさらにその先を歩いた。



 ダウンタウンなのに、緑が多く、その先もストリートに沿って街路樹が一杯連なっていた。

「この先にポートランド州立大学があるの、この秋、私が通うところ」

「えっ?」

 てっきり他の州にいくのだと思っていた。

「ちょっと不安なんだ。ちゃんと勉強できるかなって」

 ああ、なるほど、大学生になるのが不安なのか。

「大丈夫だよ。ジェナならしっかり勉強できる」

「だといいんだけど」

「何を勉強するの?」

「アート」

「へえ、芸術分野なんだ。絵を描いたりするの?」

「うん。でも……」

「でも、どうしたの?」

「ううん、なんでもない。ちょっとやっぱりやっていけるか不安」

「ホームスクールで、自分で勉強してきたんだろ。絶対大丈夫だよ」

「ありがと」

 アートを学ぼうとしているなんて意外だった。

 ジェナの事少しだけわかった気がして、俺はなんか嬉しかった。

「ジャックは日本に戻ったら何するの?」

「また日本の大学に戻る」

「ジャックは何を学んでるの?」

「経済」

「すごい」

「別にすごい事ないんだけど、就職に有利かなって、ただそれだけの理由。そして英語も話せたらいいだろうって、そこで一年留学したんだ」

「そうだったんだ。将来、アメリカで働けるかもしれないね」

「そ、それはどうだろう。そこまでビジネスの英語力ないかも」

「じゃあ、日本の大学卒業したら、こっちの大学院にくればいい。MBA(経営学修士)がとれるよ」

「簡単に言ってくれるけど、難しそう」

「ジャックならできるって。そしたらまた一緒にいられる」

 懇願するジェナの瞳に、俺はどう受け答えていいかわからない。

 英語『を』勉強するだけでも大変だったのに、英語『で』勉強するなんて俺には苦しい。

「そうなれるように、もっと英語頑張らないと」

 へへへと笑ってごまかすも、またここに戻ってきたい気持ちもあった。

 その後、ジェナが通う大学を一緒に見に行った。

 街の中心部なのに緑が一杯で落ち着いて、学びの場所にはいいところだと思った。

 しかしジェナの瞳はどうしても暗かった。

 そんなジェナを励ましたくて「ガンバレ!」と俺は日本語で叫んだ。

「GAMBARE? どういう意味?」

「うーん、この場合はYou can make it!」

「ガンバレ?」

「そう、ガンバレ。ジェナならできる!」

「ジャック、ありがとう。やっぱりあなたはジャックだ」

 ジェナの目が潤んでいる。

 それを見られたくないのか、くるっと背を向けた。

「次の場所にいこうか」

 ジェナが先を行ってしまった。

「ちょっと待って」

 追いかけるも、さっきのジェナの言葉が気になった。

 俺がやっぱりジャック?

 一体ジャックってジェナにとってなんなんだろう。

 ジェナはそれを俺に教えようとしない。

 帰るときには教えてくれるのだろうか。

 帰る?

 そっか、俺、いつまでこうしてればいいんだろう。

 なんだか寂しくなってる。

 もう一度ポートランド大学を振り返った。

 MBAか。

 ハードルの高さに溜息が漏れた。




 ポートランドは端から端まで歩けるほどの大きさではあるが、さすがに何ブロックも歩いて、また元に戻るとなると疲れるので、バスを利用して北へと向かった。

 一日乗り放題のチケットはバスにも適応される。

 途中、昨日素通りしたチャイニーズゲートの前をまた通り、危ないイメージがすでに出来上がってただけに、そこからあまり離れてない場所で降りた時はなんだか不安になった。

 一分ほど歩いたところで、長蛇の列ができていて、人が沢山いる様子に随分ほっとした。

 古ぼけたビルに並ぶ観光客。

 何があるんだと思ったら、ジェナもその列に並びだした。

「ここは何?」

「ブードゥドーナツ」

「ブードゥってあの悪魔崇拝の?」

「そう、とてもすごいドーナツが一杯あるの。これもポートランド名物だから」

 建物の角に、変なキャラクターが描かれたピンクの看板が掛かっていた。

 ブードゥ教でピンを刺して呪いを掛けそうなキャラクターだ。

 なんとも滑稽でいて、不気味な看板だった。

 沢山買ったのか、ピンクの箱を抱えて店の中から出て行く人がいる。

 こんなにも人が並んで買いたいなんて、余程美味しいドーナツなんだろうか。

 一つくらい食べてもいいかと軽い気持ちで並んでいたが、いざ店に入って見たら、そのド派手さに驚いた。

 店の中が奇抜に趣味悪い。

 ドーナツも色取り取りに雑なデザイン。

 ベーコンまでのってるのもある。ひたすら甘そう。

 24時間営業と知って、二度びっくり。

「噂では日本にも進出するとか言ってるらしいけど」

 ジェナが半信半疑に言った。

「えっ、これが日本にも来るの?」

 三度びっくりだった。

 話のネタに、ベーコンがのったドーナツを買ってみる。

 ジェナは、ブードゥ人形のを買っていた。

 これがここでは一番人気らしい。

 ご丁寧に、棒状のプレッツェルで胸が突かれていて、そこからイチゴのジャムがでてくる。

 悪趣味。

 変なドーナツだと、怖々と口にほうりこんでみた。

 やっぱり甘い。これは日本人向けじゃないと思う。

 日本にきても珍しさで最初は買いに来るだろうけど、途中で飽きられそう。

 でもジェナは美味しそうに食べてるし、味覚がやっぱりアメリカンなんだろう。

 思わず顔を見合わせて、お互い笑ってしまった。

 いい経験になりました。


 ドーナツを平らげた後、ジェナは言いにくそうに俺に提案した。

「あのね、ジャックは日本人でしょ。それで、やっぱり見てほしい所があるの」

「なんでも見るよ」

「でも、日本人にとったら、それは怒るかもしれない」

「えっ、怒る? どうして」

「とにかく、行こう。すぐそこだから」

 腕時計の時間を気にして、ジェナは歩き出した。

 それは『NW 2nd Ave』を2ブロック程、北に向かって歩いたところにあった。 

 知らなければ素通りしそうに、通りに面したゴシック調の建物の中にあった。

 ガラスの窓に『Oregon Nikkei Legacy Center』と書かれている。

 かつて太平洋戦争が起こった時、アメリカに移民した日本人が強制収容されてしまった。

 ポートランドにもたくさん日系人がいたが、全て、本当に全ての日本人が最悪な条件の収容所に無理やり入れられてしまった。

 そういう事があったとはなんとなく知っているが、ここにはその収容された当時の資料が展示されていた。

 あの当時は仕方がなかった──などとは軽く言えない歴史がここには刻まれている。

 俺は恵まれて楽しくアメリカ留学したが、アメリカには日系人に過酷な時代があり、辛い歴史として残っている。

 いくら戦争で日本人が憎いといっても、すでに市民権を持ってアメリカ人として生きていた日本人までもが全てを奪われて収容された。

 人種問題も関係していたのがあきらかだ。

 そのミュージアムは外見も目立たず、あまりにも小さい。

 営業時間も午後三時までって短すぎる。

 まるで勤勉で真面目で控えめな日本人気質のように、それでいて静かにそこで何かを伝えようとしていた。

「いくら戦争をしたからと言っても酷いよね」

 収容所の住居を再現したセットを見ながらジェナがぽつりと呟く。

「でももう過去は変えられない。だからこんな過ち二度と繰り返さないようにしなくっちゃ」

 ありきたりだけど、それ以上言えなくて、俺はしんみりとしていた。

 他にどんな言葉を用いて、言えばいいんだろう。

 こういう話題も俺は苦手だ。

「移民してきた日本人って、それこそ苦しんでアメリカで必死に生きてきたんだろうなって思う。正直、こういう事ってアメリカの学校ではあまり教えないから、知らない人もいるんだ」

「でもジェナは知ってた」

「知らなければならないと思った」 

「偉い」

「でも、ほんとはね、映画がきっかけだったの。『Come See the Paradise』(邦題:愛と哀しみの旅路)って知ってる?古い映画だけど、日系二世の女性とアメリカ人男性が恋に落ちる話。実話を元に作られてて、そこで強制収容の様子が出てきたの」

 きっかけはなんであれ、日系人のアメリカでの歴史を知ろうとするところが素晴らしい。

 俺なんて、そういう事は何となく歴史の一つとして知っていても、詳しい事までは興味なんてなかった。

 自分がアメリカにきても、アメリカの日系人について知ろうとも思わなかった。

 彼らが一生懸命になってアメリカで築き上げたもの。

 これらは日本人も忘れちゃならないと思う。

 少なくとも、当時の日系人が写った写真は、アメリカで必死に生きようとしている姿が見受けられた。

 過酷で条件が悪い場所であっても、何かを見つけ希望を見いだそうとしている姿は、大切な何かを教えられている気分になった。

 この先しがみついてでもやらなければならないような覚悟が、この日系人たちから見えた。

 辛いのに希望をもってるような──

「あっ、シルバーライニング……」

「えっ? シルバーライニング?」

 シルバーライニングは英語のことわざだ。

「うん、なんか辛いのにそこから良い部分もあるって希望を忘れないものが見えた」

「あっ……」

 ジェナの目が潤みだした。

 それを隠そうと少し顔を横にして、息を整えてから俺を見つめニッコリと微笑んだ。

「そうだよね。どんなにつらくても希望はどこかにあるって信じて頑張るってことだよね。シルバーライニング。いい言葉だね」

 ジェナもどこか心に響いたみたいだった。

 実際、辛い思いをしてきた人には場違いな言葉かもしれない。

 うまく英語で、強制収容についても語れないけど、これだけは言える。

「ここへ連れて来てくれてありがとう、ジェナ」

「私こそ、一緒にきてくれてありがとう」

 歴史を知ることは、過去を責める事でもない。

 でも、そこから学ぶ事がある。

 いつかどこかで、俺のようなものにも、何かを訴えて気づかせてくれるだけの力があった。

 それはアメリカ人のジェナにも影響を与えるくらいに。

 あまり、色々と考えを巡らせたら、却って口先だけの偽善者になりそうな気がした。

「そろそろ、行こうか」

 俺たちと入れ違いに、数人のアメリカ人たちが入って来た。

 すれ違いざまに、目が合ったので「ハーイ」って声を掛けた。

 相手も笑顔で挨拶してくれ、とても気持ちがよかった。


 そこを出た俺たちは、ウィラメット川に向かって歩いた。

 色んな橋が見渡せ、川沿いに桜の木が植えられて、犬を連れての散歩やランニングにはもってこいの場所だった。

 春には日本のような桜がこの川沿い一面に咲くらしい。

 その一部分に石碑が建てられて、ここを『ジャパニーズ・アメリカン・ヒストリカル・プラザ』と呼んでいた。

 日系アメリカ人の歴史を忘れないようにと作られた場所だった。

 過去の変えられない歴史を、この先も伝えなければならない思いでここは作られた。

 冷たい空気の中、言葉にできない思いがしんみりとさせる。

 ポートランドは色んな面を持っている。

「ポートランドの街って素敵だね」

 俺が言った時、ジェナは「That's right」と答えた。

「だから私は大好き。歴史も含めて、この風景、街並み、この景色、全てを忘れたくない」

 俺たちは一緒に周りの景色をしっかりと見つめた。

 俺も忘れたくない、ジェナと二人で見たもの全てを。

 ダウンタウンにはフードカートが沢山あり、様々な料理を屋台のように提供している。

 それらが集まって村みたい──フードカート・ポッドと呼ばれてる──になってたり、数だけでも600軒以上あるらしい。

 パンやドーナツしか食べてなかった俺たちは、遅い昼食、または早い夕食として、そこで食べる事にした。

 どれも美味しそうで、迷ってしまうがジェナと違うものを買って分け合った。

 それからはまた路面電車に乗ってホテルへと向う。

 吊り革を持って揺られながらジェナが気遣ってくれた。

「疲れたね。大丈夫?」

「大丈夫。とても充実した一日だった」

「明日はどうする?」

「ジェナはいつまで旅行するつもり?」

「私はたくさん時間がある。ジャックは?」

「俺は、あと数日かな。戻って荷造りしなくちゃいけないし、車も売らないと」

「じゃあ、その間、私とまだ一緒にいてくれる?」

「うん」

「よかった」

「明日もジェナに任せる。変なところ連れてって」

「変なところか」

 ジェナは笑っていた。

 自分であと数日一緒にいられると言ったものの、もう少し延長してもいい。

 それよりも、いずれジェナと別れなければならない事が寂しい。

 電車は楽しかった街並みを後に、街のはずれへと向かっていく。

 この変な街とさようならだと思うと、一層寂しさを感じてしまった。

 電車の中は適度に混み合い、座れずに立っていたが周りを見渡せば、ほとんどの人が片手にスマホを持って、いじって下を向いていた。

 その光景は日本も同じだ。

 手元しか見ていない事がなんだか勿体ないように思えた。

 でも自分もジェナが傍にいなければ、きっとそうしていた。

 いずれ自分もつまんないと思う事を当たり前にするようになるのだろう。

 日本に戻った時、自分は彼らとは違うと思ってスマッグになり、そして彼らと同じことをしていながら偉そうになるのだけは嫌だった。

「ジャック、何考えてるの?」

「ん? 別に何も。ねぇ、なんか面白い話してよ」

「面白い話?」

「電車で見かけた変な人とか他にいないの?」

「あっ、いるいる。ほら、ここの吊り革が連なってるバーで、いきなり運動し出した人がいた」

「運動?」

 ジェナはジェスチャで懸垂の真似を披露してくれた。

「腕は筋肉が盛り上がってたんだけど、体は小柄だった。最後に、わざとらしく額の汗を拭いて、『ふぅ』って息ついてるの」

「筋肉を見せびらかしたかったんだろうね」

「あんなこと電車の中でしたら恥ずかしいだけなのにね」

 俺たちはそのバーを見上げた。

 その他にも、電車にコヨーテが乗り込んで座席で寝てたことを話してくれた。

 コヨーテって、発音はカヨティって聞こえる。

 狼みたいな野生の動物だけど、森から出てきて住宅街でもうろちょろするらしい。

 見かけは足の長い犬みたいで、人間を見たら恐れて逃げるらしいが、たまに猫を捕食したりしていくそうだ。

 自然の生き物だから仕方がない。

 それがゆったりと座席に丸くなって寝ていたらしいから、見た人みんな驚いていたそうだ。 

 そんな話をしてるうちに、目的地の駅についた。

 結構な数の人が降り、俺たちもその流れに沿って階段を上っていく。

 ほとんどが駐車場やバス停へと向かう中、周りに人がいなくなると、またジェナは話し出した。

「変でも面白い事なら、それでいいんだけど、中には本当に頭が変な人がいて、悲しい話もあるんだ」

「悲しい話?」

「ヒジャブってわかる?」

「イスラム教の女性が頭に覆っている布?」

「そう。あれを被った女性が、変な人に絡まれて、アメリカから出て行け、とか罵声を浴びせられてたの。それを二人の男の人が助けようとするんだけど、罵っていた人はまともじゃない狂った人だったから、ナイフで二人を刺してしまった」

「えっ、その二人はどうなったの?」

「二人とも亡くなった」

「電車の中で殺人事件!?」

「うん。それはもうショックな出来事だった」

 俺は言葉を失くして黙り込んでしまった。さっきまで面白い電車だと思っていたのに、そんな出来事もあったなんて、恐ろし過ぎる。

「ポートランドの人たちは正義感溢れるとてもリベラルな人が多いの。偏見や差別に勇気を出して立ち向かう。亡くなってしまったのは本当に悲しくて悔やまれるけど」

 本当にお気の毒としかいえない。

 楽しい話ばかりではないと、ジェナは闇の部分も隠さずに話してくれたけど、これは重い。

 いい面も悪い面もどちらも極端になるのがアメリカだと思う。

 どちらか片方だけ知って、判断してはいけないものを感じた。

 アメリカで生きていくのって、日本で生きるよりも大変なんじゃないだろうか。

 日本が狭くて住みにくいなんて言ってしまった俺だけど、日本の治安の良さはアメリカよりもずっといい。

「アメリカは今、不穏になって、みんな不安になってきてる気がする。誰のせいとは言わないけど、何かのバランスが崩れていくような感じがする」

 これって、あの大統領のせいかな。

「あっ、ごめん。なんか暗くなっちゃったね」

「ううん、アメリカって俺にとったら偉大で、憧れてしまうけど、それは上辺しか見てなかったんだって思ったよ。そして自分の祖国の事を考えるきっかけにもなった」

「外の世界を知って、自国を知るって感じ?」

「うん、まさしくそう」

 お互い何かを感じながら少し黙り込んでしまった。

 俺は頭上に広がった、まだ明るい空を仰いだ。

 ギラギラと差し込む西日が眩しかった。



 その翌日、ビーバートンという昔ビーバーが生息したらしいという街でガソリンを補給した後、ジェナの提案でルート99ウエストに乗り、ここから南西の『マックミンヴィル』へ行くことになった。

 そこには、実在した大富豪ハワード・ヒューズの若き頃を描いた映画「アビエーター」にでも出てきた、有名な飛行機があるそうだ。

 それは映画で使われたものじゃなく、ハワード・ヒューズが実際に制作した世界最大の木造飛行機の事である。

 映画は観た事があったので、ちょっと好奇心が疼いた。

「あの飛行機の名前、なんだっけ」

 信号が赤になり、ブレーキを踏みながら、俺は思い出そうとしていた。

「ハーキューリーズ」

 ジェナが教えてくれたが、なんかピンとこない。

 英語ではそう発音するけど、日本語だとヘラクレスになる。

「でも、ニックネームはなんたらグースとか」

「スプルース・グース」

「そうそう、それ!」

「あっ、青だよ、ジャック」

 考え込んでたので、信号が青に変わった事に気づかず、後ろからクラクションを鳴らされて、慌ててアクセルを踏んだ。

 そうだった、スプルース・グースだ。

 スプルースは木の種類の名前で、クリスマスツリーやギターの素材になったりする木だ。

 グースはガチョウ。

「映画ではスプルース・グースって呼ぶと、レオナルド・ディカプリオが演じたハワードは怒ってたから、それからハーキュリーズって呼ばなくっちゃって思った」

 ジェナはもしかしたら映画に影響されやすいのかな。

 そんな事も訊けないまま、俺は車を走らす。

 ハイウェイの時と違って、街の中を抜ける道路だから信号が多くて、絶えず引っかかってしまう。

 街並みも、大型ショッピングセンターがたまにあって、小さなローカルな店が並んで、あまり都会ではない。

 かといって、緑が広がる田舎でもない。

 ポートランドばかりに観光地が濃縮されて、こっちは何もなさそうだ。

 ジェナにそれを言うと、首を横に振られた。

「こっちはワイナリーで有名だよ。ブドウ畑が広がって、ワインテイストができるところが多数ある。ワイン好きにはたまらないと思う。オレゴンは特に、ピノ・ノワールで有名。約北緯45度だから、フランスと同じくらいでブドウの育ちがいいんだって」

「へぇ、ジェナはワインにも詳しいんだ」

「両親が好きだから。ジャックはワイン好き?」

「俺はあまり飲まないから、味の良さがわからない」

 ビールの時と同じだ。

 オレゴンはお酒好きにならないとわからない部分がある。

 逆に、ビール、ワインが好きだと魅力ある州なのだろう。

「私は甘い白ワインが大好き」

「リースリングかな。あれ? でもまだ未成年だよね」

「あっ、ちょっとだけ、親が買ったワインを味見しちゃったんだ。ほんとに舐めた程度だよ」

「別にいいよ。警察にいう訳じゃないし」

「でも、親が子供にお酒を飲ませると、ばれると捕まっちゃうんだ。だから、私の両親のためにも内緒にしててね」

「わかった。わかった」

 お酒ぐらい、俺だって味見程度に未成年の時に飲んだ事がある。

 梅酒だってお酒だけど、家で梅酒を作った時、日本人は水で薄めて子供にも飲ませてないだろうか。

 甘くておいしいから、アルコール入ってても飲めちゃうんだよな。

 お正月の御とそだって、子供でも縁起物だからってお酒のまされたりする。

 そのことをジェナに教えたら「羨ましい」って笑いながら返ってきた。

「ほんのちょっとなら問題ないさ。昔はもっとひどくて、お酒とたばこの自動販売機があって、誰でも買えるようになってたんだ」

「ほんと?」 

「今はそれはできなくなった。それでも子供って好奇心からあの手この手で手に入れてるから、日本はあまり厳しくないかも」

「子供はついついお酒やたばこに手を出したくなっちゃうんだろうね。だけど、オレゴンはそこにマリファナが入っちゃう」

「カリフォルニアもそうだけど、合法になったね」

「うん、オレゴンなんて自分で育てられるんだよ。3株まで栽培許されてるんだから」

「ホームメイド?」

「うん。目立たないところだったら、家に植えてもいいの。今マリファナが合法になる州が増えてるけど、自分で育てられるのはオレゴンだけ」

「うわぁ」

「ジャックは吸った事ある?」

「ええ、ない、ないない」

「折角のチャンスなのに」

「何がチャンスだよ。日本人は、アメリカで合法でもマリファナを所有したことがばれると、日本で捕まっちゃうんだ」

「そうなの。でもばれなきゃいいんでしょ」

「それはそうだろうけど、でも、いいや、俺、煙草吸わないし」

「ジャックって真面目なんだ」

 ワインから何の話をしてるんだろう。

 そうしているうちに、ニューバーグという街の近くまでやってきた。

 俺たちが行こうとしているマックミンヴィルの街の少し手前だ。