──翌日。


 全てを告白した時の両親の表情を、この先忘れることはないだろう。


 酷く傷付いて、苛立って、悲しんで、何故もっと早く相談してくれなかったんだと、母には泣かれ、父には髪の毛をくしゃくしゃに撫でられた。


 少しも幻滅されなかったし、抱き締めてもらえた。


 祖父母の家の居間で、久しぶりに本来の家族としてあるべき姿を取り戻した私達を見て、祖父母は嬉しそうに笑っていた。


 打ち明けてよかった。心からそう思えた。そして、とても洸に会いたくなった。








「都? 今から洸くんのところに行くの?」
「うん。暇だから」
「そう、雨が降りそうだから気を付けて」




 朝早くから話し合いをし、両親は午前中で帰って行った。祖父母の家は居心地はいいが暇を持て余す。家を出ようと靴を履いていると、祖母に声を掛けられる。


 天気も悪くなりそうだが、そんなことよりも洸に会いたかった。


 私の背中を押してくれた洸に、今日の出来事を話して、ありがとうとお礼を言いたかったから。


 私が立ち上がり、つま先をトントンと鳴らし、引き戸を開けた。空はどんよりとした灰色の雲が覆っていて、多分帰りには雨に降られてしまう。傘を借りようと振り返ると、祖母が何か言いたげに私を見つめていた。



「おばあちゃん?」



 祖母は躊躇いがちに口を開く。



「……洸くん、最近変わりない?」
「え? 特には……なんで?」
「ほら、ついこの前だったじゃない。都と洸くんが初めて会ったあの日、確かあれくらいが丁度────」





 


 気付いたら、いつの間にか洸の店の前に辿り着いていた。湿度も気温も高く、とても蒸し暑いのに、私の身体は何故か冷え切っていた。


 『paradise』の重いドアを開く。いつも通りのルーティンだ。ただ、いつもと時間が違うだけ。


 中を覗き込むと、初めて洸に出会った時に嗅いだ煙草の匂いが強く香った。のろのろと下げていた視線を店内に向けると、私がいつも窓を開け、読書をするソファーに洸が座り、窓の縁に手を掛け煙草を吸っていた。



 ドアがガチャリと音を立てて閉じ、洸がこちらを振り返る。



「──都?」



 驚いたのか、目を大きく見開いた洸は、煙草を雑に灰皿に押し付けると、大股でこちらに近づいてくる。そして目の前で立ち止まった。



「お前、どうだったんだよ……大丈夫だったか?」
「……うん」
「ちゃんと話せたか?」
「うん、平気」
「自分の気持ちとかも、全部」
「言えたよ」



 私の言葉を聞いて安心したのか、洸は私の頭を大きな手でくしゃくしゃと撫でた。 



「頑張ったな、都」


 
 洸の掌の熱を感じた瞬間、私は堪らなくなり、その手を取って両手で握った。カサついていて分厚くて、血の通った、温かい手だ。


 ──私、洸のこと、何も知らなかった。



「……私と出会ったあの日」
「都?」
「洸の婚約者さんの命日だったんでしょ?」
「…………は」
「あそこから、落ちたんでしょ?」



 祖母が洸を心配し、良かれと思って私に伝えてきた事件は、とても心を抉られるものだった。洸が塞ぎ込むのも納得出来るほど、他人の私でさえ深い悲しみに襲われるような事故。


 真っ直ぐ見つめた洸の表情が、不自然に固まる。そして、誤魔化そうと笑みを作ろうとしているのか、口角が片方だけひくりと上がった。



「……お前、それは」
「悲しい事を掘り返して、ごめんなさい。けど」



 私は別に、洸の過去を掘り起こして傷付けたいわけではない。


 本当に聞きたいこと、それは──。



「あ、あの日……洸、あそこで何をするつもりだったの」

 

 だっておかしい。洸は行かなきゃいけない気がしたと言っていた。行かなきゃいけないって、あんな時間に、何故?


 私が居なかったらどうしていたの?


 声が震える。こんな予想外れればいい、早く否定してほしい。


 けれど、私が両手で握っていた洸の手が、スルリと抜け落ちた。洸は俯き、どんな表情をしているのか分からない。


 糸がピンと張り詰めたような沈黙。外からは地面にぶつかる大粒の雨の音がパタパタと響き始める。


 そんな中、これまで聞いた中で一番静かで、ハッキリとした洸の声が聞こえた。



「死ぬつもりだった」

 

 ──耳鳴りがした。自分で聞いておいて、聞きたくないと心が拒否する。



「……プロポーズして三日後に、父親の釣りに付き合って、俺が渡した結婚指輪をあそこから落としたって。俺は何度も新しい物をやるからって言ったのに。危ないからあんな所降りたらダメだって、止めたのに──俺に黙って指輪を探しに行って、落ちたんだ」
「……洸」
「俺が死なせた、俺がプロポーズしなきゃ、指輪をやらなきゃ、アイツは生きてた。アイツが居ない日々なんて、生きてるだけ無駄だって思った。けど、俺の店の予約はずっと埋まってる。せめて、アイツが頑張れって言ってくれてた店だけは、予約を終えるまでは生きてようと思ってこれまでやってきた」
「…………」
「──それであの日、やっと予約分を掘り終えた。やっとアイツのところに行けると思ったんだ」



 洸は窓の外を見る、開いた窓から雨が吹き込み、ソファーや床を濡らしていた。けれど洸は、その光景を見ても微動だにしなかった。


 私は足の裏が床に張り付いたかのように、その場から動けない。



「なのに、都が居た」



 洸が振り返る。自嘲気味な笑みを浮かべたその表情に、心を抉られる。


 あの夜の、表情が抜け落ちた洸を思い出す。



「死にに行ったのに、目の前で海に落ちるお前を見て放っておけなかった。ムキになってお前を色んなところに連れて行った」
「……洸」
「矛盾してたのは分かってる。けど、一緒に過ごせば過ごすほど、知れば知るほど──」



 洸の薄い唇から、消え入りそうな言葉がこぼれ落ちる。



「余計に都には、死んでほしくなくなった」



 洸の言葉が、私の心に波紋を立てる。それはどんどん大きくなり、じんじんの私の鼻の奥を熱くした。


 自分のしていることと、考えていたことのギャップに、洸は人知れず悩み苦しんだのかもしれない。


 けれど、洸が私に死んでほしくないと思ったように、私も洸に死んでほしくないと思う。


 自分勝手な願いだと分かっているけど、洸が好きだから、この先もずっと生きていてほしいと思う。笑っていてほしいと思うの。


 すると、自然と心の声が零れ落ちていた。




「……私も、私だって洸に生きてて欲しいよ」


 
 遠くで、雷が地響きのように鳴っている。雨の勢いは増すばかりだ。そして、洸はとても傷付いた表情をして、声を振り絞った。



「ごめんな、自分勝手に生かしたくせにこんな風に隠し事して……裏切って」
「洸っ」
「……今日は帰れ」



 私と洸の間に、分かりやすい一線が引かれた。
 







「おい、都。もう九時だ」
「……は、理玖?」
「暗いな。人でも死んだ?」
「洒落にならないんだけど……なんで来たの」
「洸に行けって言われた」
「……そう」



 私は溜息混じりに答える。


 洸と会わなくなり三日が経った。もう夏休みも終盤だ。


 どんな顔をして会いにいけばいいのか分からないし、自分の発言で傷付けてしまったと自覚していたから余計だった。


 私が自殺しようと思った要因は解決できる物だ。けれど、洸は違う。簡単に取り除ける物ではない。


 布団の中で頭を抱えていると、無遠慮に理玖が和室の扉を開いたのが今現在の状況だ。しかも洸に頼まれて来たって、もう洸は私と会うつもりはないのか。胸にモヤが広がる。


 理玖は私の被っていたタオルケットを剥いだ。



「……人と話す気分じゃない」
「俺だって頼まれて来てるんだよ。洸と何かあった?」
「…………洸の、過去を知った」
「……あー」
「それで……その件に触れた」
「馬鹿だな」
「……ねぇ、理玖。洸とその婚約者さんって、どんな感じだったの」
「…………はぁ、そんなん聞いてどうすんだよ」
「どうするって」
「都は洸のこと好きだろ」



 理玖は布団の上にぺたりと座る私を見下ろす。


 まさかバレていたとは。私が呆気に取られていると、理玖は呆れたように首を傾げた。



「お前、自分で思ってるより顔に出る」
「本当に……?」
「聞いたところで何の為になる。傷付くだろ」
「……けど」



 そんなこと言われなくとも分かってる。でも──。



「私の心を、否定せず掬い上げてくれたのは洸なの。だから、私も洸を知りたい」



 わたしの言葉に、理玖は驚いたように目を見開いた後、深い溜息を吐き、髪の毛をガシガシと掻いた。


 そして、諦めたかのように此方に視線を再び向ける。



「──あの二人は、幼馴染でいつでも二人一緒だったんだよ。俺が最初に洸に出会った記憶も、横に彼女が居た。お互いが居て当たり前、口には出さないけど、二人も周りの人間も当たり前に洸達のことをそう思ってた」
「…………」
「彼女が迷子になった時、見つけてくるのは洸だったし、洸が荒れてる時のストッパーも彼女だった。大人になってもずっと二人は支え合ってたし、洸がプロポーズしたって聞いてやっとかって思ったくらい」
「……そっか」
「だから、そんな二人の片割れが居なくなる、その痛みは計り知れない。彼女があの海に落ちて亡くなってからの洸は、とても見ていられなかった。仕事をする以外ずっと篭りっきりで、街のみんなもずっと洸を心配してた」



 理玖の声には温度がなかった。


 私は、当たり前に洸の隣に居た存在のその大きさを、じわじわと目の当たりにして動揺する。



「だから、洸の苦しみとか悲しみは、俺達がどう頑張ろうと取り除けるものではない」



 そんなこと言われなくとも分かってる。そんなに大きな存在を失くして、無理に立ち上がれなんて言えるわけがないし、言うつもりもない。


 洸は後悔していた。自分がプロポーズしなければ、指輪を渡さなければと。


 けれど、彼女は洸からの指輪が大切で、一人それを探しに行ったんだ。あげなければよかったなんて、そんなわけない。


 その時、私の脳裏にある光景が浮かんだ。



「……あれ?」



 私は海に飛び込もうとしたけれど、あれは落ちたが正しい。だってあの時私は岩場の隙間になにかを──。



「…………あっ」
「やっぱりショックだろ? だから聞くなって……」
「理玖、手伝って欲しいことがあるの」
「は?」
「今日自転車で来たでしょ? 後ろ乗せて」
「なんで」
「後で説明する! 着替えるから出て!」



 私は立ち上がり、理玖の背中を押して扉を閉めた。


 そうか、あの日私が見たのは──。



 




 濡れたTシャツは水分を含んで肌に張り付いて気持ちが悪いし、髪の毛だってパリパリになっている。自転車とはいえ坂道を上るのは疲れるし、日差しは容赦なく私に照り付ける。


 けど、私は止まれなかった。ただ真っ直ぐ、会いたい人のいる場所を目指した。




 やっとたどり着いた先、通い慣れた店のドアを開こうとしたけれど、closeの看板がぶら下がっている。


 もしかして、いない……? いや、昼間洸は絶対に店にいるはず、本人が言っていたから。


 私は自転車を停め、どんどんとドアを叩く。



「洸、開けてっ」



 洸は私にもう会いたくないかもしれない。勝手に過去を掘り返して、辛いことを思い出させ、無遠慮に踏み込もうとした私との関わりなんて断ちたいのかもしれない。


 だけど──。



「洸、会いたい──」



 洸が私を認めてくれたから、私はこの先も生きていこうと思えたの。


 学校に行けない、自分のことを恥ずかしいと思っていた私を肯定してくれた。


 逃げていい、死ななくていい、違う場所で幸せになっていいと言ってくれた。


 だから、私も少しでも洸の力になりたい。


 その時、店のドアがゆっくりと開いた。そこには、出会ったころのように表情が抜け落ち、気怠げにタバコを咥えた洸が立っていた。



「……都、なんだよ。理玖は」
「理玖は、家に帰った」
「…………悪い、ちょっと今日は、人と話す気分じゃねぇんだ。……ってお前、何でそんなに濡れてんだよ。早く帰って風呂入れ」



 ずぶ濡れのわたしに驚きつつ、手早く私を帰そうとする洸に、胸がずきりと痛む。


 けれど、これを渡すまでは引けない。私は洸に向かって手を握り差し出した。



「分かった。帰るから。けど、帰る前に手を出して」
「なんでだよ」
「いいから、早く」



 洸が大きな手のひらをこちらに差し出す。私はその上で、握った手をゆっくりと開いた。重力に従い、コロリと洸の手のひらに落ちた、ところどころ錆びた銀色の輪っか。それを見て洸は、目を見開いた。



「────これ、なんで」



 洸の声は掠れていた。


 やっぱり、そうだった。あの日、光ったのは婚約者さんの指輪だったんだ。


 
「私、洸と出会った日、確かに自殺しにあの堤防に行ったけど、その前にこの指輪が光ったのに気付いて覗き込んで滑ったの」
「…………どうやってこれ、拾って来たんだよ。そんなの、危ねぇだろ」
「最初理玖と二人で長い棒で引っ掛けようとしたり頑張ってたんだけど無理で、最終的に理玖の叔父さんの船で近付いて、岩場に飛び移ったの。けど最終的に頭から海に落ちちゃって、理玖に引き上げられた」
「何してるんだよ……危ねぇだろうが」
「けど、無事に取れたし死ななかった」



 私がへらりと笑って見せると、洸はぐっと何かを堪えるように唇を噛んだ後、私の腕を掴んで店内に引き込んだ。


 バタンと後ろでドアが閉まり、大雨だったあの日のように、静かな店内に二人きりになった。


 洸はタバコを灰皿に押し付け、指輪を見つめている。



「……洸、それ、婚約者さんに返してあげて」
「っ、けど、これがあったから……アイツは……」
「止められても探しに行くくらい、大切な物だったんだよ。だからあの日の夜、光って指輪が居場所を教えてくれたのかもしれない」
「…………」
「婚約者さんは、洸のせいだなんて絶対に思ってないよ。だって洸は、こんなにも優しいんだから」



 洸は指輪をぎゅっと握りしめ、胸に押し付ける。洸の肩が震え、顔から雫がぽたぽたと床に落ちて染みを作った。


 ──ああ、好きだ。この人が好きだ。


 誰よりも優しいから、ずっと一人きりで自分を責めていた。失くなった片割れを想って、責任を全うしようと、孤独に入れ墨を掘り続けていた。


 不器用で、けれど人想いで、真っ直ぐで。知れば知るほど好きになってしまう。


 けど、だからこそ分かる。この恋は絶対に叶わない。だって洸は今も尚、ずっと居なくなった彼女を想っているから。

 
 だから、私に出来ることは──。



「大丈夫だよ、洸。もう自分を赦してあげて」



 洸が私にくれたものを、ただ返すだけ。


 震える洸の両肩を摩る。少しでも楽になれるよう、落ち着くまで続ける。


 心の傷は簡単には癒えないし、後悔は何度でも蘇る。けれど、その度何度でも立ち上がれるように、苦しみで身を縮め動けなくならないように。願いを込めて。


 その時、上擦り掠れた声が、私の耳に届いた。



「……ありがとう、都」



 その血の通った言葉に、私の目から一筋涙が溢れた。


 
 



 ──夏休み最終日。天気は快晴。空には大きな入道雲が浮かんでいる。
 

 私は車に荷物を積み終え、祖父母と会話をする両親から離れ、見送りに来てくれた洸と理玖に話し掛ける。



「帰りたくないな」
「何だよお前、都会に住んでるくせに贅沢言うな」
「私はこの街のが好きだし」
「わけわかんな」
「そっちこそ」
「お前ら、最後に喧嘩すんなよ」



 理玖とはこの短期間で、昔からの友人のように距離が縮まった。理玖は都会が羨ましいからいちいち突っかかって来て、口論になるまでが最近の流れだ。


 けれど、それも今日限り。次にここに来れるのはきっと冬だ。


 ポケットに手を突っ込み、気怠げな理玖に笑い掛ける。



「自転車、いつも乗せてくれてありがとう。楽しかった」
「は? まぁ、また乗せてやってもいーよ」
「あと、今度うちに遊び来れば? 向こう案内するし」
「それは絶対行く。無かったことにするなよ」
「しないってば」
「……都、また来いよ」



 理玖が私の背中をぽんと叩く。その表情は見間違えでなければ寂しそうなものだった。そして理玖は乗って来た自転車に跨り、ひらりと手を振る。



「じゃあ、俺はこの後海の家の手伝いあるから。またな」
「は? お前最後まで都を見送らねぇのかよ」
「若者はSNSで頻繁にやり取りするからいいんだよ。じゃーな、都」
「うん、またね理玖」



 理玖は坂道を勢いよく下って行った。私と洸はその背中を見送る。


 多分理玖は私と洸を二人きりにしてくれたんだ。正直ありがたい。


 私は洸の顔を見上げる。相変わらず見た目は厳つくて怖い。



「洸、私が帰ったら寂しいんじゃない?」
「確かに寂しいな。都を海に投げるの楽しかったのに」
「いや、そんな理由なの?」
「うそうそ、冗談だよ。寂しくなるな」



 洸は私の髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でる。この手のひらの温かさを、感触を、きっと忘れることはないだろう。



「都、お前学校どうするんだ」
「辞めて定時制に行くことにした」
「おー、思い切ったな。いい決断だと思う」
「もうあそこに居る人間から自分がどう見えてるかなんてどうでもいい。新しい場所で頑張る」
「その粋だ」
「……洸が私の背中を押してくれなきゃ、こんな決断できなかったよ」



 洸が居なければ、きっと私は両親に本当のことを話せなかったと思う。


 学校を辞める決断をした私を、両親は肯定し、そして、直接学校に掛け合いイジメの問題を浮き彫りにしてくれた。


 自分一人ではここまで状況を動かすことはできなかったはずだ。


 風が海の匂いを運んでくる。私は、深く深く深呼吸をした。



「それで、帰ったら小説も書き始めるんだ。海の話にしようと思う」
「未来の売れっ子作家、頑張れよ」
「もし叶わなくても、本に携わる仕事に就きたいな」
「都なら、何にでもなれる」
「……そうかなぁ」
「絶対大丈夫だ」



 その優しい眼差しに、溢れそうな気持ちが、痛いほど押し寄せる。


 ──洸が好き。


 けれど、大切だからこそ、この想いは胸の奥にしまっておくと決めた。


 洸には忘れられない人が居る。答えなんて分かりきっているんだから。


 この人の気持ちが救われますように、優しい洸が幸せでありますように。



「洸、私はもう死のうなんて思わないから」
「ああ」
「だから、洸も──」



 次の瞬間、手首を引かれ、洸の胸に抱き寄せられる。洸の香水とタバコの匂いに包まれ、私は固まった。ドキンドキンと心臓の音が身体中に響く。


 そして、耳元で優しい声が聞こえた。



「都、元気でな。お前に出会えて良かった。……この夏をお前と過ごせて、幸せだった」



 トンと、身体が離される。


 私は洸の顔を見上げる。洸は優しくこちらを見下ろし、私に白い封筒を差し出した。



「それ、約束のやつ。車の中で見ろよ」
「え? 約束のやつ……?」
「忘れてんのかよ! ったく……」
「待って、今思い出すからっ」
「そんなこと言ってたら日が暮れちまうよ。ほら、親が呼んでるぞ」



 肩を掴まれ、くるりと方向転換させられる。そして背中を押され、両親の乗り込んだ車に押し込まれた。文句を言おうとすると、バタンとドアが閉められる。洸は窓の外から、笑顔でこちらを見つめていた。


 ──また冬に来れる。なのに何故か、この別れがとても名残惜しかった。



「それじゃあ、出るよ」



 父が私に声を掛け、ゆっくりと車が動き出す。私は思わず窓を開けた。そして──。



「──洸、私も幸せだったよ!!」



 車がどんどん進み、遠さがる洸に、人目を気にせず叫んだ。


 洸はそんな私を見て破顔して、両手を大きく振っていた。そうして、洸の姿は見えなくなった。

 
 何で笑うの、こっちは涙が止まらないのに。


 潮風を感じながら、ここへ来た時の海沿いの道路を、車は反対方向に進んでいく。私は段々と見えなくなる海を最後まで見つめていた。


 そして海が見えなくなり、洸から貰った封筒をそっと開く。すると、中から出て来たのは、私がキレイだと言った薔薇の蕾のデザイン画だった。


 洸はずっと、覚えていてくれたんだ。


 ──連絡先も家も知っている。冬になったら会える。分かっているのに、どうしようもなく別れが惜しい。違和感がある。


 この時は、あれが最後に見る洸の姿だなんて、私は夢にも思っていなかった。


 




 ──その一ヶ月後、洸は真夜中にあの堤防から飛び降り、亡くなった。


 自分の部屋で理玖からの知らせを受け、私の中にあった違和感がやっと正体を現し、膝から崩れ落ちた。


 
『この夏をお前と過ごせて幸せだった』



 耳の奥で、洸のあの言葉が蘇る。


 ──そうか、そうだったんだね、洸。


 最初からずっと彼女のところに行きたかったのに、私を生かす為に、一緒に最後の夏を生きてくれたんだね。



「……洸」



 死なないでほしかった、どんな形でも生きていてほしかった。


 けれど、それは私のエゴだ。分かっている。なのに、どうしても胸が張り裂けそうなくらい痛い。苦しい。涙が次々に溢れて止まらない。



「失うって、辛いね、洸っ……」



 洸は今、彼女の元に還れて、幸せ?










「──都」



 声が聞こえる。名前を呼ばれてる。けど待って、私まだ寝足りないの。眠らせて──。



「都っ!!」
「ひぇっ!」



 耳元で響いた声で驚き、寝心地の良いベッドから勢い良く起き上がる。


 そんな私を、カーテンを開けながら呆れた顔で見下ろしているのは理玖だ。しかもなんだか髪の毛にパーマが掛かっているし、背も大きい。


 ……あぁ、そっか。もう私達、二五歳だ。



「……夢か」
「夢って何。今日は洸の命日なんだから、墓参り行くってずっと言ってただろ?」
「分かってるよ……けど昨日やっと締め切り終わって、気が抜けちゃって……」



 ただ今朝の八時、仕事部屋の散らかった机の上には積み重なった資料やエナジードリンクの缶、ノートパソコンと、恐ろしい散らかりっぷりだ。締め切り前の修羅場感が見て取れる。


 洸が亡くなってから暫く何も手につかなかったけれど、定時制高校に通いながら徐々にWEB投稿サイトに小説を出し始め、大学在学中に運良くコンテストに入賞した。


 そこからまた、運良くコンスタントに仕事を貰えている現状だ。


 本もそこそこ売れているらしく、先日担当さんから重版の連絡が来た。


 まさか自分が作家になるなんて、洸に出会う前は想像もしていなかったのに、不思議なものだ。



「都、着替えたら行こう。朝飯は行きながらでいいよな」
「そうする」



 理玖が部屋を出ていき、やっと静かになる。後五分くらい寝たらダメかな。ダメだよね……。


 ふと、壁に飾った絵を見つめる。洸がくれたタトゥーのデザイン画、薔薇の蕾。夢と希望。



「……洸」



 ──現在、私は理玖と結婚を前提に同棲している。


 洸が亡くなった事で、お互いの傷に触れぬよう、一度私達は疎遠になった。


 しかし、理玖が美容専門に通うのに上京したことがきっかけで、また連絡を取り始め今に至る。洸が繋いでくれた縁だ。



「都、まだ?」
「はーい」




 毎年洸の命日になると、二人で海辺の街へ墓参りに行く。


 そして何度でも思い出す。忘れられないあの夏を。


 私は洸を生かすことは出来なかった。けれど、洸の人生の最後に、何かを残せたのかな。


 もう、あの優しく大きな手のひらに触れることは出来ないし、声や笑顔は日を追うごとに私の記憶から薄れてしまっている。


 けれど、洸を想い感じた恋の痛みだけは、ずっとずっと私の胸に鮮明に残り、燻り続けた。


 永遠に燃え盛ることはなく、潮風に吹かれ、けれど消える気配はない。


 苦しくて愛おしいこの想いと共に、私は生きていく。



 ──伝えられなかったあの初恋は、まだ海に還らない。