次の日、小雨がしとつく中俺は大学の図書館に居た。
普段は読まない法律の小難しい文章を無理やり眼球の奥に押し込み続ける。
目的は大石の謎に何か一つの理屈をつけてやるため。
半ばやけになって思いついたこじつけとそれを立証するための情報を意地になって集めていた。
矮小で情けない俺の恋心で中断した音羽の相談に答えることが今の自分にできる唯一の事のような気がしていた。
音羽の相談に俺なりの屁理屈をどうにか形にして外に出るとすでに辺りは暗く、雨の音だけが静かに響いていた。
こんな日でも東雲音羽は喫煙所に居るのだろうか。
あの魅力的な後輩はまだ俺なんかの話を聞いてくれるだろうか。
何もない俺は彼女に何か渡せるのだろうか。
そんな気持ちがないまぜになって胸の中で渦巻く中、俺はぴしゃりと浅い水たまりを踏み抜いて喫煙所へと向かった。
*
「遅かったっすね」
「別に待ってろなんか言ってねえぞ」
「私だって待ってた訳じゃないっすよ」
音羽はいた。
「あーなんだ、悪かったな、昨日は」
「いえいえ、嘘ついてたのこっちっすから」
なんとなく、ぎこちない会話。
いたたまれなくなった俺はとりあえず煙草に火をつけた。
しかし、音羽は煙草に火をつけようとはしない。
代わりに忙しなく所在なさげに貧乏ゆすりをしていた。今までそんな落ち着かない姿など一度も見たことは無かったのに。
昨日までと何かが決定的に変わってしまった。そんな雰囲気。
「大石の話、聞きたいか?」
俺がそう言うと音羽は少し悲しそうな顔をして
「聞きたいです」
と言った。
*
「大石は男手一つで育てられたって言ってただろ? それにここ数年地元に帰る必要がなくなったとも」
「ええ」
「想像だけどさ、その親父さんが亡くなったんじゃないか? そして身の丈に合わない、大石本人が運転していたらつかないような傷がいくつもついた車は死んだ父親から相続したものなんじゃないか?」
「……筋は通ってますね」
「大石の謎の借金も父親の遺産を相続したと考えれば納得できる」
「借金が遺産ですか?」
「ああ、車みたいな資産を正の遺産とするなら。借金も立派な負の遺産だ。相続したなら支払いの義務がある。そして正の遺産だけを相続して負の遺産を放棄することはできない。両方放棄するか、両方相続するか。今の日本の法律制度はそうなってる」
「なら……普通は放棄しますよね。車もらっても借金ついて来たら意味ないですもん」
「まぁ普通はそうするだろうな。相続しても車の資産価値が借金を上回っていたならとっとと車を売って借金を返して浮いた金を自分のものにすればいい。そうしなかって事はよっぽど車と父親に思い入れがあったんだろうな」
――こんな喫煙所でコソコソ想像することしかできない俺なんかでは思いもよらないほどに。
そんな自虐的な言葉が喉まで出かかったが辛うじて押しとどめた。
「父親の思い出の車を手元に残し、自分とは関係ない借金を身を粉にして返し続ける。大石は立派な人間だよ。全部俺の想像だけどな」
「……そうですか」
少しの沈黙。俺の煙草を吸う息の音、音羽が貧乏ゆすりをする音だけが響いた。
「なんで俺に声をかけたんだ?」
「はい?」
唐突に顔も見ずに尋ねた俺に音羽が突飛な声を上げる。
「ほら、四月に初めてここに来た時だよ。大学が面白くないとかなんとか。なんで知り合いでもない、歳も離れた俺に関わろうと思ったのかなって」
「……言葉の通りっすよ。必死こいて勉強して入った大学はただの動物園で、石を投げれば当たりそうな猿しかいない。そんなふうに絶望してた時に先輩の話を聞いたんです。留年しまくっても気にも留めない時代錯誤のヤバイ妖怪がいるって」
音羽も俺の顔を見ず、正面をむいたまま、まるで幻影を見ているかのように話し続ける。
「何とか見つけて、話しかけて二日連続無視された時なんて身震いしましたよ。噂通りのひねくれ具合。得体のしれない、それでいてどこか変な魅力のある人間。こりゃお近づきにならないとって思いましたね」
「俺、人生でこんなに褒められたの初めてかもしんねぇ」
「あはは、実際に話すようになってからも楽しかったっすよ。ほんとに」
「過去形かよ」
「ええ、過去形です」
音羽も俺も少し目を伏せた。
雨の音が少し強くなって喫煙所のプレハブの屋根を叩く。
「私、大石さんと付き合おうと思ってるっす」
「そうかい、そりゃよかった」
屋根を叩く雨の音がさらに強くなった。
「大石は、良い人間だと思うよ」
「……なんでそんな事言うんですか」
「そう言ってほしかったんだろうが。金巻き上げられたなんて嘘までついて」
俺はそう言うために、大石がこの魅力的な後輩と交際するに足る人物であると保証するために足りない脳みそをこねくり回し、図書館に籠って必死になって大石の謎に理屈をつけた。
それだけが音羽に対して俺ができる事の全てだと、そう思ったからだ。
「ひねくれ具合もそこまで行くと最早病気っすね」
そんな俺の考えを知ってか知らずか、相変わらずタバコの火をつけようとしない音羽は若干イラついた口調で俺を糾弾する。
そんなに苦しいなら煙草を吸って落ち着けばいいのに。
「確かに私は先輩の食いつきそうな話をでっちあげたっす。嘘ついてまで意見を聞きたかったっす。でもその理由は決して大石さんの善良さを保証してもらおうとかそんなつもりじゃないっす。むしろ逆で……」
そこで音羽は少し言葉を切って口ごもる。
しかし意を決したような表情でその続きを話し始めた。
「先輩から聞きたかった言葉は……先輩じゃなきゃ聞けない言葉は……悪く言ってくれそうな気がしたんすよ。いつも斜に構えながら世の中を小馬鹿にしている先輩なら、大石さんの悪いところを見つけ出して、軽妙で笑える悪口に仕立て上げて、あることないこと機関銃みたいにポンポン放り投げてそれにつられて笑っているうちに私も大石さんの事を嫌いになれるんじゃないか、それでもいいなって思ったんっすよ」
「そいつは……卑怯だな」
「卑怯っすね。でもそれは中身の無い会話しかしようとしない先輩も同じでしょう? 私を好きなくせに」
「んなワケねーだろ。お前自己評価高すぎ」
俺の言葉に音羽は悲しそうに笑った。
それを直視できずたまらず目をそらして俺は煙草の煙を深く吸い込んだ。そうしないと余計な言葉まで一緒に出てきそうだったからだ。
「だから最後の忠告っす。あまり斜に構え過ぎないで、もっと他人に心を開いて、素直に生きた方が良いっすよ。先輩は普通のいい人なんですから」
そう言うと音羽はすくっと立ち上がり雨の中を歩き出した。
大石のところへ行くのだろうか。
「おい待てよ、最後ってどういうことだ」
俺は情けなく追いすがるように音羽に声をかけた。
「大石さん重度のぜんそく持ちなんすよ、だから彼女が横で煙草スパスパ吸ってるわけにいかないでしょう。禁煙ですよ禁煙。だから喫煙所も先輩と会うのもこれが最後っす」
「そんな、別に喫煙所以外でも……」
言いかけて俺は気づいた。音羽との喫煙所以外での関係を拒否してたのは自分だ。そんな俺がどうしてその先を言えようか。更に相手はこれから彼氏持ちになる。尚更だ。
ふと見るとベンチの上には決別のためか置き去られたアメスピとライター。
それを掴み立ち上がると小雨の中をどんどん遠ざかる音羽の背中を見る。俺に何が言える、何も無い俺が最後に音羽にかける言葉……
「音羽ァ!」
とりあえず叫んだ。
離れていく彼女に向かって俺は恥も外聞もなく叫んだ。
びっくりした様子で振り向く音羽。
その時、俺の頭の中にあったのは喫煙所で交わした音羽との他愛もない会話の数々、雨の日も、晴れの日も、風の日も、朝も、昼も、夜も、出会えば交わしたくだらない、たわいない話の数々。
それらが混ざり合い、弾けた時に口から言葉が勝手に飛び出した。
「大学は今でもつまんないところだと思うか?」
一瞬の硬直の後音羽は笑い出した、いや、泣いている様にも見える。
俺の位置からは遠すぎて、雨のカーテンは厚すぎて音羽の感情は判別できない。
そして一言。
「大学って思ってたより楽しいところっすね!」
そう叫ぶと今度こそ振り向かずにどこかへ消えて行ってしまった。
俺は深く息を吐いてベンチに倒れるように座り込むと手に持ったアメスピとライターを近くに備え付けられたゴミ箱に放り投げ、自分の煙草を取り出し、火を点けた。
――もっと素直に生きた方が良いっすよ。先輩、普通のいい人なんですから。
頭の中で響く音羽の声に
「出来たら苦労しねぇよ」
一言返すと後は黙って煙草を口に運んで苦み走った煙の味に集中した。
気が付いた時にはハイライトは燃え尽きて、煙だけが名残惜しそうに漂っていた。いつまでも、いつまでも。
*
十三時五分
午後の講義に向かう学生達がおしゃべりをしながらゆっくり波のように目の前を通り過ぎる
十三時十五分
午後の講義に遅れた学生が数人走りながら目の前を横切っていく。
十三時二十五分
掃除のおばちゃんが灰皿を変えに来る。
人目につきにくい、いつ撤去されてもおかしくない屋外の喫煙所のルーティーンなどこの程度。
俺は立ち上がり大きく背伸びをする、身体中の関節がパキパキと音を立てて気持ちがいい。
吸殻を灰皿に押し込み、悲しいほどに軽い財布の中身を確認する。
「ふぁーあ、うどんでも食って帰るかぁ」
そう独り言ちて俺は振り返らず喫煙所を後にする。
そして十三時四十五分
喫煙所には、誰も、いない。
<了>
普段は読まない法律の小難しい文章を無理やり眼球の奥に押し込み続ける。
目的は大石の謎に何か一つの理屈をつけてやるため。
半ばやけになって思いついたこじつけとそれを立証するための情報を意地になって集めていた。
矮小で情けない俺の恋心で中断した音羽の相談に答えることが今の自分にできる唯一の事のような気がしていた。
音羽の相談に俺なりの屁理屈をどうにか形にして外に出るとすでに辺りは暗く、雨の音だけが静かに響いていた。
こんな日でも東雲音羽は喫煙所に居るのだろうか。
あの魅力的な後輩はまだ俺なんかの話を聞いてくれるだろうか。
何もない俺は彼女に何か渡せるのだろうか。
そんな気持ちがないまぜになって胸の中で渦巻く中、俺はぴしゃりと浅い水たまりを踏み抜いて喫煙所へと向かった。
*
「遅かったっすね」
「別に待ってろなんか言ってねえぞ」
「私だって待ってた訳じゃないっすよ」
音羽はいた。
「あーなんだ、悪かったな、昨日は」
「いえいえ、嘘ついてたのこっちっすから」
なんとなく、ぎこちない会話。
いたたまれなくなった俺はとりあえず煙草に火をつけた。
しかし、音羽は煙草に火をつけようとはしない。
代わりに忙しなく所在なさげに貧乏ゆすりをしていた。今までそんな落ち着かない姿など一度も見たことは無かったのに。
昨日までと何かが決定的に変わってしまった。そんな雰囲気。
「大石の話、聞きたいか?」
俺がそう言うと音羽は少し悲しそうな顔をして
「聞きたいです」
と言った。
*
「大石は男手一つで育てられたって言ってただろ? それにここ数年地元に帰る必要がなくなったとも」
「ええ」
「想像だけどさ、その親父さんが亡くなったんじゃないか? そして身の丈に合わない、大石本人が運転していたらつかないような傷がいくつもついた車は死んだ父親から相続したものなんじゃないか?」
「……筋は通ってますね」
「大石の謎の借金も父親の遺産を相続したと考えれば納得できる」
「借金が遺産ですか?」
「ああ、車みたいな資産を正の遺産とするなら。借金も立派な負の遺産だ。相続したなら支払いの義務がある。そして正の遺産だけを相続して負の遺産を放棄することはできない。両方放棄するか、両方相続するか。今の日本の法律制度はそうなってる」
「なら……普通は放棄しますよね。車もらっても借金ついて来たら意味ないですもん」
「まぁ普通はそうするだろうな。相続しても車の資産価値が借金を上回っていたならとっとと車を売って借金を返して浮いた金を自分のものにすればいい。そうしなかって事はよっぽど車と父親に思い入れがあったんだろうな」
――こんな喫煙所でコソコソ想像することしかできない俺なんかでは思いもよらないほどに。
そんな自虐的な言葉が喉まで出かかったが辛うじて押しとどめた。
「父親の思い出の車を手元に残し、自分とは関係ない借金を身を粉にして返し続ける。大石は立派な人間だよ。全部俺の想像だけどな」
「……そうですか」
少しの沈黙。俺の煙草を吸う息の音、音羽が貧乏ゆすりをする音だけが響いた。
「なんで俺に声をかけたんだ?」
「はい?」
唐突に顔も見ずに尋ねた俺に音羽が突飛な声を上げる。
「ほら、四月に初めてここに来た時だよ。大学が面白くないとかなんとか。なんで知り合いでもない、歳も離れた俺に関わろうと思ったのかなって」
「……言葉の通りっすよ。必死こいて勉強して入った大学はただの動物園で、石を投げれば当たりそうな猿しかいない。そんなふうに絶望してた時に先輩の話を聞いたんです。留年しまくっても気にも留めない時代錯誤のヤバイ妖怪がいるって」
音羽も俺の顔を見ず、正面をむいたまま、まるで幻影を見ているかのように話し続ける。
「何とか見つけて、話しかけて二日連続無視された時なんて身震いしましたよ。噂通りのひねくれ具合。得体のしれない、それでいてどこか変な魅力のある人間。こりゃお近づきにならないとって思いましたね」
「俺、人生でこんなに褒められたの初めてかもしんねぇ」
「あはは、実際に話すようになってからも楽しかったっすよ。ほんとに」
「過去形かよ」
「ええ、過去形です」
音羽も俺も少し目を伏せた。
雨の音が少し強くなって喫煙所のプレハブの屋根を叩く。
「私、大石さんと付き合おうと思ってるっす」
「そうかい、そりゃよかった」
屋根を叩く雨の音がさらに強くなった。
「大石は、良い人間だと思うよ」
「……なんでそんな事言うんですか」
「そう言ってほしかったんだろうが。金巻き上げられたなんて嘘までついて」
俺はそう言うために、大石がこの魅力的な後輩と交際するに足る人物であると保証するために足りない脳みそをこねくり回し、図書館に籠って必死になって大石の謎に理屈をつけた。
それだけが音羽に対して俺ができる事の全てだと、そう思ったからだ。
「ひねくれ具合もそこまで行くと最早病気っすね」
そんな俺の考えを知ってか知らずか、相変わらずタバコの火をつけようとしない音羽は若干イラついた口調で俺を糾弾する。
そんなに苦しいなら煙草を吸って落ち着けばいいのに。
「確かに私は先輩の食いつきそうな話をでっちあげたっす。嘘ついてまで意見を聞きたかったっす。でもその理由は決して大石さんの善良さを保証してもらおうとかそんなつもりじゃないっす。むしろ逆で……」
そこで音羽は少し言葉を切って口ごもる。
しかし意を決したような表情でその続きを話し始めた。
「先輩から聞きたかった言葉は……先輩じゃなきゃ聞けない言葉は……悪く言ってくれそうな気がしたんすよ。いつも斜に構えながら世の中を小馬鹿にしている先輩なら、大石さんの悪いところを見つけ出して、軽妙で笑える悪口に仕立て上げて、あることないこと機関銃みたいにポンポン放り投げてそれにつられて笑っているうちに私も大石さんの事を嫌いになれるんじゃないか、それでもいいなって思ったんっすよ」
「そいつは……卑怯だな」
「卑怯っすね。でもそれは中身の無い会話しかしようとしない先輩も同じでしょう? 私を好きなくせに」
「んなワケねーだろ。お前自己評価高すぎ」
俺の言葉に音羽は悲しそうに笑った。
それを直視できずたまらず目をそらして俺は煙草の煙を深く吸い込んだ。そうしないと余計な言葉まで一緒に出てきそうだったからだ。
「だから最後の忠告っす。あまり斜に構え過ぎないで、もっと他人に心を開いて、素直に生きた方が良いっすよ。先輩は普通のいい人なんですから」
そう言うと音羽はすくっと立ち上がり雨の中を歩き出した。
大石のところへ行くのだろうか。
「おい待てよ、最後ってどういうことだ」
俺は情けなく追いすがるように音羽に声をかけた。
「大石さん重度のぜんそく持ちなんすよ、だから彼女が横で煙草スパスパ吸ってるわけにいかないでしょう。禁煙ですよ禁煙。だから喫煙所も先輩と会うのもこれが最後っす」
「そんな、別に喫煙所以外でも……」
言いかけて俺は気づいた。音羽との喫煙所以外での関係を拒否してたのは自分だ。そんな俺がどうしてその先を言えようか。更に相手はこれから彼氏持ちになる。尚更だ。
ふと見るとベンチの上には決別のためか置き去られたアメスピとライター。
それを掴み立ち上がると小雨の中をどんどん遠ざかる音羽の背中を見る。俺に何が言える、何も無い俺が最後に音羽にかける言葉……
「音羽ァ!」
とりあえず叫んだ。
離れていく彼女に向かって俺は恥も外聞もなく叫んだ。
びっくりした様子で振り向く音羽。
その時、俺の頭の中にあったのは喫煙所で交わした音羽との他愛もない会話の数々、雨の日も、晴れの日も、風の日も、朝も、昼も、夜も、出会えば交わしたくだらない、たわいない話の数々。
それらが混ざり合い、弾けた時に口から言葉が勝手に飛び出した。
「大学は今でもつまんないところだと思うか?」
一瞬の硬直の後音羽は笑い出した、いや、泣いている様にも見える。
俺の位置からは遠すぎて、雨のカーテンは厚すぎて音羽の感情は判別できない。
そして一言。
「大学って思ってたより楽しいところっすね!」
そう叫ぶと今度こそ振り向かずにどこかへ消えて行ってしまった。
俺は深く息を吐いてベンチに倒れるように座り込むと手に持ったアメスピとライターを近くに備え付けられたゴミ箱に放り投げ、自分の煙草を取り出し、火を点けた。
――もっと素直に生きた方が良いっすよ。先輩、普通のいい人なんですから。
頭の中で響く音羽の声に
「出来たら苦労しねぇよ」
一言返すと後は黙って煙草を口に運んで苦み走った煙の味に集中した。
気が付いた時にはハイライトは燃え尽きて、煙だけが名残惜しそうに漂っていた。いつまでも、いつまでも。
*
十三時五分
午後の講義に向かう学生達がおしゃべりをしながらゆっくり波のように目の前を通り過ぎる
十三時十五分
午後の講義に遅れた学生が数人走りながら目の前を横切っていく。
十三時二十五分
掃除のおばちゃんが灰皿を変えに来る。
人目につきにくい、いつ撤去されてもおかしくない屋外の喫煙所のルーティーンなどこの程度。
俺は立ち上がり大きく背伸びをする、身体中の関節がパキパキと音を立てて気持ちがいい。
吸殻を灰皿に押し込み、悲しいほどに軽い財布の中身を確認する。
「ふぁーあ、うどんでも食って帰るかぁ」
そう独り言ちて俺は振り返らず喫煙所を後にする。
そして十三時四十五分
喫煙所には、誰も、いない。
<了>