「ふんふんふーん」
 よろず屋に入ろうとしたら、中から鼻歌が聞こえてきた。
 カウンターの上の帽子から聞こえてくる。

「こんにちは」
 帽子がくるっと回ってこっちを向いた。
「おや? えいむさん、こんにちは!」
 帽子の中に、ヤドカリのように入っているスライムさんがいた。

「なにしてるの?」
「みだしなみ、ですよ」
 スライムさんは、ふっ……、と変な笑い方をした。
 かぶっている帽子も、日よけ目的で使うようなものではなく、かっこつけている大人がかぶっている帽子、というものだ。

「身だしなみって、どこか行くの?」
「どこにいかなくても、つねに、ととのえておく。こどもには、わからないかもしれませんね……」
 またスライムさんは、ふっ……、と笑った。
 あまり気にしなくてよさそうだ。

「きれいな鏡だね」
 スライムさんが自分の姿を確認していた鏡は、私の顔よりも小さい。
 鏡の面のまわりには、植物を金色の金属で形作ったような装飾がしてあった。

「そうでしょう!」
 スライムさんがほこらしげに言う。
 私はスライムさんの横から鏡をのぞいた。
 鏡は、私とスライムさんと、その後ろにある出入り口を見せてくれていたが……。

 私は後ろを見た。
 誰もいない。

 もう一度鏡を見ると、鏡の中には、スライムさんと、私と、その後ろに知らない人がいる。
 よく見るとそれは、人に見えるけれども、目が真っ赤だ。
 白目に網目のように細い血管が広がる充血状態の真っ赤、ではなく、赤い絵の具で描いたような、本当の赤だった。
 私はぞっとして振り返ったけれど、誰もいない。

「ちょっと別の帽子を持ってきますね」
「え?」
 スライムさんは、ぴょん、とカウンターを降りると奥へと行ってしまった。
 気づかなかったのだろうか。

 見る。
 鏡の中の赤い目の人は、一歩、また一歩、と近づいてくる。


 私は鏡をカウンターの上に倒した。
 はあ、はあ、はあ、という音が聞こえた。
 それは私の呼吸だった。


 自分の呼吸音がおさまってから、私はゆっくり鏡を立たせた。
 人影は、私の真後ろにいた。
 口が笑っていた。真っ赤な口の中が見えていた。
 目も、口も、ただただ真っ赤に塗りつぶされているような色だった。
 あまりに真っ赤で、目が痛いほどだ。

 私は身動きがとれなかった。
 いざとなると、悲鳴も出ないのだと知った。
 人生が終わるかもしれない。
 そういう予感がした。
 ひやりとするような冷たい感覚だった。

 私はただ、黙って鏡の中を見ていた。


 黙って鏡の中を見ていた。


 ……黙って鏡の中を見ていた。

 ……あれ?

 なにかされるのかと思ったけれども、人影は、私の後ろにいたままだった。
 笑っていた口元も、無表情になってしまって、それから、ちょっと困ったような表情に変わった。
 目の赤さはまだ気になるものの、それ以外は、ふつうの知らない人だった。


「ぎゃくに、どうですかね!」
 とつぜんスライムさんがカウンターの上にぴょん、と飛び乗ってきたので、私は叫びそうになった。

 スライムさんは、黄色と赤と緑の羽根がところせましと刺さっている、派手な帽子をかぶっていた。

「えいむさん、どうでしょう! はでですかね?」
「あの、スライムさん、これ……」
 私は鏡の中を指さした。

 スライムさんはまわりこんで、のぞきこむ。
「あ、こんにちは! きょうはなんですか!」
「え?」
 スライムさんの言葉に、鏡の中人は、パクパクと口を動かす。

「ふむふむ。すぐもってきましょう!」

 スライムさんが持ってきたのは、青い葉っぱだった。
「これを、いつものように、3まいですね? はい、わかりました」
 スライムさんが言うと、人影は、ちょっと頭を下げて、店を出ていった。

 私はすっかり人影が見えなくなってから、スライムさんに言った。
「いまのは?」
「おきゃくさんですよ!」
「お客さんって……、鏡の中に……」
「かがみのなかにしか、いられないたいぷです」
 そんなタイプがあったのか。

「だいじょうぶなの……?」
「なにがですか?」
「だって、こわくない? 誰かかわからないんでしょ?」

 スライムさんは不思議そうに私を見た。
「だれだかわからないひとも、おきゃくさんですよ?」
「え、まあ、それは、そうだけど」
「おきゃくさんのことなんて、だいたいしりませんよ!」

 言われてみれば、だいたいはそうなのかもしれない。
「かがみのなかにすんでたら、いけないんですか?」
「それは、ええと……」

 鏡の中に住んでいるなんてふつうじゃない。姿も、私には恐怖しかなかった。

 そう思うのだけれども、ちょっと困った顔や、頭を下げて帰っていく様子を思い出すと、ちょっと変な気分になった。
 笑っていた顔も、私を見つけて、子どもがいたから、笑ってくれていただけなのかもしれない。

「うーん。いけなくはないけど、でも、ちょっとこわいし……」
「こわいですか?」
「うん」
「でも、かがみのなかのひとは、ずっとかがみのなかですから、こわいことはされませんよ。このかがみでしか、みえませんし!」
「そうなんだ」
「はい! あんしんしましたか!」
「うん」
「よかったです!」

 本当のことをいえば、あんまり安心はしてないけれども、スライムさんを見てると、そういうものなのかもしれないな、と思った。
 鏡から出てこないなら、まあ、いいかな、というくらい。

 それに、あの人にとっては、私たちが鏡の中人、なのかもしれないし。
 それがふつうで、私たちがおかしいのかも。

 私はつい笑っていた。
 スライムさんの方がよっぽど変かも。

「? どうしてわらってるんですか?」
「なんでもない!」