私が眠れなくなったのは、いつだったろう。もう覚えていないくらい昔な気もする。


 ベッドに潜り込んで、ギュッと目を瞑り、それでも少しの音も聞き逃さぬよう、睡魔が訪れるのを待つけれど、それはどんなに待っても訪れてはくれない。


 天井の木目を数え、羊を千匹数え、九九を反芻する。そうしているうちにやっと睡魔は訪れるけど、決まってそれは朝方。うとうと、やっと意識が沈むと、直ぐに眩しくて鬱陶しい朝が来る。


 私にとって、眠ることほど難しいことはなかった。



 ────なのに。







「本日、添い寝サービス50%オフで販売しておりまァす」
「……いいから黙って」
「オイオイ、もしかしてお金払わないつもりなの? うわ〜、タダとか」
「黙れ。ほら、いいからぎゅっとしてよ」
「はい、出た。暴君、クソワガママ」



 ある日、睡眠不足で限界が来て、移動教室途中に廊下でぶっ倒れた。


 隈は念入りなコンシーラーと派手なメイクで隠していたから、誰も私が不眠症なんて気付いていない。


 騒然とする廊下で、いち早く生徒達を掻き分け私を担ぎ保健室に運んだのが、たった今私とその保健室のベッドで添い寝している、柏原だ。


 柏原は同じクラスのめちゃくちゃ元気で明るい奴。いつも周りに人が絶えなくて、厚化粧で本来の自分を覆い隠し強気ぶって、本当は夜が来るのが怖い私なんかと大違いだ。


 だから自然と遠ざけていた。


 けど、柏原に初めて保健室に運ばれた時、私がベッドで眠るのを拒否すると、なんとコイツは自分も同じベッドに潜り込んだ。


 最初はめちゃくちゃ驚いて拒否したけど、宥められ、よく分からないうちに柏原の子供体温がシーツを伝ってきて、気付けば意識が飛んでいた。


 そして、目が覚めると柏原も眠っていて、私の靄が掛かった思考はクリアになり、身体は軽くなっていた。柏原も、いつもよりもずっとよく眠れたらしい。


 それ以降、私達は何となく養護教諭のいない時間帯を狙っては、保健室で添い寝をするようになった。そして、徐々に私達の距離感は可笑しくなり、抱き合って眠るようになった。


 ────今日も今日とて、私と柏原は保健室のベッドの上でお互いの体温を移しあっている。



「アンタって本当、体温が高い」
「お前は冷たいな。冷え性? 死人みたい」
「ガキの体温のくせに何言ってんの?」
「死んだばーちゃんも最後こんな体温だったな〜」
「は? ウッザ」
「わははっ」



 柏原は、ああ言えばこう言う奴で。お互い深い話はせず、いつも上部だけの冗談を繰り返し、いつの間にか深い眠りに落ちていく。


 お互いがなんとなく不眠なことを察していても、深掘りしない。


 私達の間に必要なのは、お互いの存在と深い眠りだけのはずだった。


 ────今日までは。



「柏原」



 とろんとして、瞼が落ちそうになっている目の前の男の名前を呼ぶ。すると、至近距離でパチリと視線がぶつかった。


 柏原の目はキレイな黒。異物が混じっていない、吸い込まれそうな深い色。


 それに誘われるように、ずっと心の奥に閉まっていた秘密が、扉を開けて漏れ出していく。



「私、アンタに会うまで眠れなかったの」
「なんとなく、わかってた」
「私が眠ると、人が死ぬから」
「なんだそれ」
「中学の時……私が眠ってる時にね、酒飲んだ親父が投げた灰皿が母さんが抱いてた妹の頭に当たって」
「は? なんだそれ」
「命に別上なかったんだけど。私が眠ってて止められなかったからだって、そんな大変な時に眠ってたせいだって。それ以来、夜酒飲んで暴れる親父止めるのに、少しの物音にも気付けるように、徐々に眠れなくなって」
「…………」
「眠ることは、罪だと思ってた。眠れないことが、私への罰だと思ってた」



 私の言葉を、柏原は表情を変えずに、ただ黙って聞いていた。


 いつものように茶化したりせず、ただ真剣に。


 けど、今日自分の秘密を打ち明けようと思ったのには、理由がある。



「──親、離婚するんだ」
「そっか」
「親父と離れて生活できるから、もう眠れる」
「…………」



 キュッと、いつも何も面白いことがなくても上がっている柏原の口角が、一直線に結ばれている。


 きっと、柏原は私がこの関係を解消しようと切り出すと思っている。


 けど、違う。そんなことじゃない。私が言いたいのは。



「────アンタは、何で眠れないの」
「……俺は、夜、ゲームとかしてて、それで」
「私が本当のこと言ったのに、なに嘘ついてんの」
「嘘なんてついてねーよ」
「ついてる」
「ついてねーから!!」








「だったら、脇腹のそれは何」



 私は起き上がり、怒りを露わにした柏原のシャツを捲り上げる。すると、脇腹に青痣、それ以外にも切り傷や火傷をした痕。古いものから新しいものまで、夥しい程の傷跡があった。


 柏原は顔を真っ青にすると、私が捲り上げたシャツを下ろす。


 そして、驚き震える唇を開いた。



「な、んで」
「まさか、明るいムードメーカーのアンタがね」
「…………」
「ねぇ、眠ると増えるの? この傷が」
「……うるさい」
「うるさくない」
「……なんで、なんでだよ。俺は」



 柏原は顔を歪め、ぽろりと一筋涙を零した。



「ただ、お前と、こうやって眠れるだけでよかったんだ」



 二人で眠れば、辛い現実から逃げられた。


 けど私は、そんな辛い現実から一人抜け出してしまった。


 ────それじゃあ、取り残されたコイツは?



「もう、一人で耐えるな。笑うな」
「…………」
「抜け出すんだよ。アンタも、そんな現実から」
「……できる、のかよ」
「出来る。私がそれまで、アンタが安心して眠れるようになるまで、一緒に眠るから」



 手を繋いで、今度は二人で。


 柏原は喉の奥から引き攣るような音を出すと、子供のように次々大粒の涙を零した。


 もうすぐ、もうすぐ。


 安心出来る、私達の眠りまで、あと少し。






『 シーツの中、たった二人の楽園 』