鬼神の愛犬になりました

 黄見さんが語ってくれたお話によると――。

 そもそも「あやかし」というのは人間がつくった概念であって、あやかしと呼ばれる存在のほうからすれば、正しい概念ではない。
 あやかしには、神々にルーツをもつ者もいるし、狸や狐など動物にルーツを持つ者や、唐傘や幽霊といった人間社会から生まれ出る者など、実に多様な存在がいる。
 本来、彼らは一言で括れる存在ではなく、それぞれがまったく別の存在なのだという。

 そして、そのなかでも――鬼神と天狗は。

六道(りくどう)の呪い、と申しまして。歌子様。六道という言葉を聞いたことは、御座いますでしょうか」
「いえ……」
「即ち、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道です。人間たちの信じる仏教では、悟りを得て涅槃に至れるまで、この六つの道を繰り返すと言われているのですよね。外道として、天狗道というのも御座いますね」

 難しい話だ。
 つまり……?

「えっと、私たちは輪廻転生している……ってことですか?」
「それは神仏のみ預かり知るところです。歌子様。六道の呪いは、仏教の教える六道とは異なります。六道をもとに、つくり出されたのであろう呪い――とでも申しましょうか」
「……どういうことですか?」
「なぜ、あやかしたちが明治維新後に人間社会に出てきたか? 考えたことはおありでしょうか」
「……ありません」

 明治維新後に、あやかしたちは人間社会に出てきた――でも、どうして?
 理由の説明を、私は中学で聞いたことがないし、日常生活でも聞いたことがなかった。

 考えてみたこともなかった……。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の時代をご存じですか」
「はい、えっと、一応は。歴史の授業で習いました……明治時代に、仏教のお寺や仏像を壊したんでしたっけ……?」
「おおむねは、そのようなことです。日本は長らく、神仏習合(しんぶつしゅうごう)と言いまして――神道と仏教は、混然一体となっていたのです。明治時代になって、当時の人間社会の政府は、神道と仏教を分けようとしました。巡り巡って、その果てに起こったのが廃仏毀釈。人間たちの意図はどうあれ、……御仏(みほとけ)への冒涜でした」

 若々しく美しい容姿の黄見さんは、ゆっくりと。
 昔語りをする老婆のように語る。
「神々は、実在したのですよ。長い歴史を経て、神々のなかには、御仏と一体となった者もおりました。御仏は既に神々の一部だったのです。なのに、寺院が壊され、仏像が壊され、民衆の御仏への信仰が次第に弱くなってまいりました。結果、御仏の力に依り頼んでいた神々たちは、そのままの暮らしを続けられなくなり、力も失い――やむを得ず、人間社会へ降りていったのです。神々は正体を隠し、人々から物を盗んだり、美貌を生かして芸能の道を歩んだり、用心棒となったり、商売を営んだりしました。弱くなったとはいえ残っていた、神々の力をもってして。神々の身でありながら、俗へ堕ちたのです。……そして罰があたりました」

 罰――?

「人間社会で暮らしていたあたくしたちのご先祖は、神々の力を用い、用心棒をつとめておりました。そしてある日、神々の頂点とされる方から、このようなお告げを受けたそうです。……『戦いに明け暮れる神々よ。貴様らは鬼神なり。鬼神とは、鬼に堕ちた神々なり。我は貴様らを呪う。六道のうち、この世にありながら修羅道を歩むべし。地獄の前にこの世で修羅道を歩むべし。修羅道をこの世で全うせよ』と。お告げを受けてから、あたくしたちの先祖は戦いの才能を得て……結果、戦いの欲にまみれるようになりました。あまりに強い力を。あまりにも、戦いに向いた能力を得たために。戦いたくて、戦いたくて、戦いに明け暮れる……そのような存在と成り果ててしまいました」

 戦いに明け暮れる――修羅道を歩む、鬼神たち。

「……星夜様のように、力はお持ちになるのに心は優しいという御方も、たまにいらっしゃいましたが。たいていの鬼神は、戦いを好みました。戦わないと、苦しくなるほど。そして、お告げを懸命に解釈し、こう信じるようになりました。この世でひたすらに戦い、修羅の道を全うすることこそ、真の救いにつながるのだと」
「……そんなこと、本当に、あるんですか」

 失礼だと思いつつも、私は思わずそう言ってしまった。
 黄見さんは、微笑する。

「すくなくとも、あたくしどもはそのように信じております。戦い続けることで……やがては、このような戦いの欲から解放され、元の清浄な神々に戻れるのだと」

 神々――。
 もともとは、神様だったってことなんだろうけれど……まだ、ぴんとこない。

「天狗族にも、同様のお告げがあったそうです。彼らは芸能の道を歩んでいた神々でした――天狗道とは、騒乱を起こし続ける外道の道です。彼らもまた、騒乱を起こしたい欲に苦しんでいるようですね……そして歌子様。――貴女様もよくわかるはずではありませんか」
「え――?」
「貴女様は、六道のうち――畜生道の呪いを受けられた御方でしょう」

 ……そんな……。
 私が?

「そんなの……聞いたこと、ないです。私のご先祖様に、そんな人がいたとも聞いていないですし」
「六道の呪いは血筋のみならず、輪廻転生でも受け継がれると言われております。実際、まれにですが、夜澄島の外でも鬼神の力を持った鬼神族の子が生まれます。ごく普通の人間の両親から、生まれます。彼らのうち一部は夜澄島に参りますが、そのまま出生地で暮らし続ける者も珍しくありません」

 ……地理の授業で、断片的にだけれど習った。
 夜澄島は、明治時代に鬼神の一族が東京湾につくった、森深き禁忌の島――そこに、日本全国あわせても数百名しかいない鬼神の九割以上が、ともに暮らしているのだという。
 そのおそろしい霊力を秘めて――。

 と、いうことは。
 一割くらいの鬼神たちは……夜澄島の他のところで暮らしている、ということで。
 それが……血筋ではなく、輪廻転生で受け継がれた鬼神族ってことなのか……。

「畜生道の呪いを受けた者もまた、神々であったはずです。歌子様。貴女様は、ただの人間では御座いませんよ。あたくしたちと同じ……もとは神々であった者のはずです」

 黄見さんは、ほとんど完璧に、微笑む。

「ひとならざるもの。ひとはそれをあやかしと呼びます。であれば、歌子様はあやかしです」

 そんなこと……。
 急に言われたって。すぐには、信じられないけれど――。
「……もし、私がそうだとすれば――星夜を、助けられるんですか?」
「おっしゃる通りです。なにしろ歌子様、貴女様もまたあやかし。鬼神や天狗と同じように、力があるはずなのですよ」
「教えてください。私には、何の力があるんですか?」
「ひとつはもう、ご存じのはずですよ。歌子様、貴女様は、他のあやかしの力を高めることが御出来になります。他の神々とともに征き、他の神々を助ける……それこそが、畜生道の呪いを受けられた神々の固有の力です。そして、もうひとつは――貴女様が見つけるしかないものです」

 私が、見つける……?

「いまの歌子様は、失礼ながら、大変弱くていらっしゃいますね。いくら星夜様のお力を高めるとしても、とても戦場に連れ出せる能力ではございません。しかし、あやかしは本来、超越的な身体能力を持ちます。修行次第では、そのお力を見出せるやもしれません。……それこそが活路になり得ます」
「私が、強くなったら――戦場で、星夜を助けることができるかもしれないってことですか?」
「その通りです。星夜様はもともとかなりのお力をお持ちですが、天下を取るまでには至っておりません。そこで歌子様のお力添えがあれば、天狗たちも含め、勢力図をひっくり返せると思われておりました――であるからこそ、鉄の掟を破ってまで、あたくしどもは歌子様を夜澄島に迎え入れようと思ったのです。……いまでも。その目的が果たされるならば、貴女様を歓迎したいと思っております。ですが貴女様がやはり夜澄島の、鬼神族の弱みで居続けるようでしたら、実家にお帰りいただきたいという、至極単純なお話なのです」

 私が強くて役に立てるなら、夜澄島にいられる。
 弱くて役立たずなら、追い出される。
 ……確かに、シンプルな話なのかもしれない。

 自分が、呪いを受けた神様の生まれ変わりとか。
 実はあやかしだったとか。
 そういうのは、まだ全然……ピンとこないけど……。

 わかっているのは、……星夜のそばに居続けたい、ということ。

 私は背筋をまっすぐに伸ばして、真正面から、言った。

「――私。強く、なります」

 お荷物の、私じゃなくて。
 願わくは……星夜の重荷さえ、一緒に背負えるほどの。

 星夜のとなりにいて、相応しい私に、なりたい。
 そうすれば……きっと。

 彼を守ることができる。
 これからも、ずっと一緒に……いることができる。
 黄見さんは、私の言葉を受けて、大きくうなずいた。

「承知いたしました。では……修行の手配を」

 黄見さんは立ち上がると、左手を水平に振って、結界を消した。
 そして、外にいた鬼神族の人に話しかける。

「すみませんが、夕樹さんをお呼びいただけますか」

 鬼神族の人は頭を下げて、階段を上っていった。

「夕樹さんにも、協力していただきましょう。この部屋にはいくつか牢屋が御座いますね。現在はほとんど使っておりませんから、夕樹さんに壁をすべて破壊してもらい、この部屋をひとつの大きな修行場として使いましょう。あたくしが結界を張ります」
「……だ、大丈夫なんですか? 部屋を壊しちゃって……」
「星夜様があたくしどもに命じたのは、地下で確実に歌子様を御守りすることのみ。あたくしが常に結界を張っていれば、それは達成できますもの。……結界のなかで、あたくしたちが何をしているかは、星夜様であっても知ることができません」
「星夜も、なんですね……」
「結界の能力はあたくしの家系のみが受け継いでおりますの。星夜様とて感知はできません」

 黄見さんの力も、やっぱり、相当のものなんだよね……。

「歌子様。星夜様は、助けには来ませんよ。しかし――それでも、強くなりたいのですね?」
「……はい!」

 私は、かたくうなずいた。

 強くなる。
 絶対に。

 そして、星夜の隣にいることのできる自分になるんだ。
 これからもずっと……夜澄島で、星夜と一緒にいるんだ!

「貴女様が星夜様をお助けくださるはず。信じております。……頑張ってくださいましね」

 黄見さんはそう言って、にっこりと笑った――このひとの目が笑っているところを、私は、初めて見た。
 その後、夕樹がやってきて、軽々と壁を壊してくれた。

「歌子! 黄見さんから話を聞いたよ、僕も応援してるからね! 歌子とこのまま一緒に過ごせた方が、楽しいもん!」

 夕樹の明るさは、やっぱり、とってもありがたい……。

 そして、修行の日々が始まった。
 星夜には秘密で――。

「歌子様。犬の御姿であることを前提に、修行をなさったほうがよろしいかと。貴女様は、人間の御姿でも周りの霊力を高めますが、どうも犬の御姿のほうがより霊力を高められるようですから」
「でも……それって、満月の前後しか戦えないってことですか? 天狗との戦いって、いつなんですか?」
「七日後です」

 もう、七日しかないのか……。

 それに。
 だとすると、私は、そのときには……。

「私は戦争のときには、人間のすがたのはずですけど――」
「修行が進めばわかります。まずは、犬としてお強くなってくださいまし。お話はそれからです」

 黄見さんは、私にとって急に厳しい存在になった――いわば戦いの師匠。
 修行は、覚悟をしてほしい、という言葉に(たが)わないものだった。
 黄見さんは、自身は強くないと言っていたけれど……戦いのコツはよく知っているようだった。

 まず与えられたのは、宝剣だった。
 霊力を高め、妖力を断ち切る宝剣で、夜澄島の宝物庫に保管されていたものらしい。

「あやかしの力も、霊力、妖力と言い分けるのはなぜだか、考えてみたことがおありですか」
「……ありませんでした」

 言われてみれば、たしかに……幽玄学院でも言い分けているんだけど……。

「このようにお考えくださいまし。霊力は、その本質が神々である存在の力。妖力は、その本質が妖しい存在の力。たいていのあやかしは、後者です。外道である天狗もそうです。しかし、鬼神は鬼になった――すなわち修羅道の呪いを受けた神々であり、その本質はあくまで神々。すなわち、妖力ではなく霊力を使いこなします。そして歌子様――貴女様も、本質は鬼神と同じ。畜生道の呪いを受けた神々です」

 私と鬼神は……本質が同じ……。

「私が使う力も、霊力――ってことですか?」
「そういうことです。この宝剣を携えていれば、鬼神と歌子様の霊力は高まりますが、天狗たちの妖力を遮断し――歌子様のお力が、無差別にあやかしたちの力を高めることを防げます」
「……わかりました」

 やっぱり、自分が霊力を使えるとか、ぴんとこないけど――。
 いまは、そんなことを言っている場合じゃない。

 宝剣を受け取ると、ずっしりと重みがある。
 歴史の刻み込まれていそうな、中くらいの大きさの日本刀。
 剣自体も重かったけど……。
 鬼神にとって、すごく重たい意味合いを持つものを、自分が受け取ったことは――さすがにわかった。
「宝剣をくわえて動き回れるようにおなりなさい。けっして、落とすことのないように。落とすとはすなわち、天狗たちに力を与えるということ。戦場では、終わりを意味します」
「人間の身体でも、ですか……?」
「だいたい、犬の身体を無視していたから、犬の身体となったときに上手く立ち回れないのです。貴女様は人間の身体と犬の身体、どちらのほうがより自由に動かせますか」
「……人間のほう、です」
「でしたら、まずは犬の身体に慣れることです。そのためには、常に犬の身体の自身をイメージすること。そして慣れることです」

 犬耳も尻尾もない期間に、剣をくわえて四つん這いで動き回るのには、抵抗があったけど……。
 強くなるためには、必要だったから、覚悟を決めた。

 私は口でくわえるには重い剣を持って、黄見さんの掛け声に合わせて、四つ足で走り回った。
 これがかなりの重労働で……。
 何度もへばっては床に崩れ落ちそうになったのだけれど、黄見さんはそのたび私に鋭く声をかけて立たせた。

 つらい……。
 でも、星夜のためなら……!

 だんだん犬の格好でも自由に動けるようになると、次は、黄見さんがまきびしを持ってきて、どんどん投げてくる。
 全部避けられるようにならなければならない。
 これもなかなかきつかった……。慣れるまではまきびしに当たってしまって、痛いし。
 四つん這いで細かく動き回れるようになるまで、相当のエネルギーが必要だった。どうにか、すばやく動けるようになったけど……。

 ここまでで、三日――。
 天狗族との戦いの日まで、……あと四日。
「動きはだいぶ洗練されてきましたね。では……実践といきましょうか」

 今度は夕樹がやってきて、戦いの練習。

「歌子、全力でかかってきて」

 これまでも、夕樹が強いと知っていたはずだけれど、実際に戦う彼女は本当にとっても強くて……。
 何度も何度も倒されて、アドバイスをもらって、そのなかでどうにか、戦いのコツを掴んでいった。
 夕樹のパワーにはかなわないから、私はスピードで戦う。

 やがて、安定して夕樹と戦えるようになってきた。
 とにかく私は夕樹の攻撃を避ける。
 すると、パワーを使う夕樹はだんだん消耗してきて――ほとんど互角になれることも、珍しくなくなってきた。

 ここまでで……二日……。
 あと、二日。

 そして、修行の六日目。
 夕樹が連れてきたのは、なんと――山華さんと氷子さんだった。

「山華様。氷子様。遠路はるばるありがとうございます」

 黄見さんが呼んだらしい……。
 なんでだろう?

 夕樹と戦う姿を二人に見せるように言われたので、私はそうした。
 二人とも、夕樹とそれなりに戦う私を見ると、感心してくれた。

「なんだ、あんた、強くなってるじゃんか」
「夕樹に向かっていけるなんて、すごいですね。犬の御姿で……」
「ね? 歌子、結構やるでしょ?」
「うん、気に入った! ごめん歌子、あんたが強くなったって聞いて、疑ってたんだけどさ」

 山華さんは、これまでに見たことない親しげな笑顔を向けてくれる。
 氷子さんも穏やかな顔を向けてくれた。

「あたしはあんたのことを誤解してたみたいだ。ただ守られるだけの理事長の贔屓かと思ってたけど、あんた、こんな短期間にここまで強くなって、夕樹に向かっていけるなんてさ。見直したよ」

 私が強くなったから、見直してくれる。
 さっぱりした性格のようだった。

 認めてもらえるのは、素直に嬉しくて――。
 自然と、こちらの頬もほころぶ。

「よし、協力してやるか!」
「ありがとうございます。山華さん――」
「山華でいいよ」
「わたくしのことも。氷子、と呼び捨てていただいてかまいません」

 そして、山華が教えてくれたのは――。
 狸の一族に伝わる、化術だった。

 化術を呪い持ちの私にも応用できないかと、黄見さんが呼んでくれたらしい。
 それは……つまり……。

「も、もしかして、ですけど……いつでも犬の姿になれるようにする――って、ことですか?」
「その通りです」

 黄見さんは肯定する。

「歌子様の場合は、化けるというより、化術を応用して自在に変化する――ということになりますが」

 山華は言う。

「狸でも狐でもないやつができるかなって族長に相談したらさ、身体が変化する存在なら、素質があるから出来るだろうって」
「ありがとう……そんな、狸の族長さんにまで相談してくれるなんて」
「大丈夫。あたしもあんたには強くなってもらいたいしね!」

 ありがたい……とっても。

 化術は……難しかった。
 自分の変身する姿を細かく思い描いて念じないと、変身できない……。

「犬の自分をよくイメージしてみて! 細かいところまで想像しないと、変身できないよ。あたしは化けた人間のこのすがたを徹底的にいつもイメージしてるんだ」

 犬の自分をイメージするって言われても、うまく思い描けない――。

 そんなとき。
 星夜の言葉を思い出した。

『おまえは可愛いな。もふもふで……白くて……水色の首輪がとてもよく似合っていて……抱きしめるのにちょうどいい大きさで……』

 星夜の言葉通りに、自分をイメージしてみると――。
 例の、強烈な予兆とともに。
 かっ、と全身が熱くなった。

 世界が小さくなる――ううん、私が縮んだんだ。

 満月の時でないのに、犬になった――。
 なれたんだ。
「できた!」

 山華が、飛び上がる。
 夕樹と氷子もはしゃいで喜んでくれた。

 人間の姿の自分はすぐに思い描けたから、戻るほうは簡単だった。
 一度できてしまえば――二度目、三度目は、そう苦労せずにできた。

 いつでも、自分の意志で犬に変身できるようになったのは――本当に、不思議な気分だ。

 そして、明日に天狗族との戦いを控えた日――。
 最後の最後に黄見さんに呼ばれて、暮葉さんがやってきた。

 結界のなかに、私と黄見さんが二人でいるのを見ると、心底驚いたように目を見開く。

「どういうことでしょうか?」

 黄見さんの説明を聞くと、暮葉さんはため息を吐いた。

「黄不本意ながら、まったく気づきませんでしたよ。星夜様も気づいておられませんでした。夜澄島で星夜様に気づかれずに動けるのなど、黄見さんだけでしょうね」

 はあ、と暮葉さんは更に深いため息を吐いて――。

「しかし……賭けではないのですか。歌子様を、よりによって、天狗族との決戦の場に出すなんて……」
「いいえ。いまの歌子様は、七日前の歌子様とは違います。宝剣で敵を攻撃し、敵の攻撃を素早くかわし、何より星夜様の霊力を高めることがおできになります。お強いですよ。いざとなればご自身で人間の御姿に戻ることもできます」
「歌子様がそこまで頑張られたのは……驚きですが……」
「……すべて星夜様のためになされたのですよ」

 黄見さんの言葉は、シンプルだったけれど――だからこそ、私の心にしみた。

「鬼神族の長たるもの、弱みを持ってはならない。であれば、歌子様を追い出すほかないと、ずっとおっしゃっていたのは黄見さんではありませんか」
「そうですね。歌子様があのまま、弱きまま、夜澄島を去ろうとすれば、あたくしは考えを変えなかったでしょう。……強くなりたい。鬼神の子らも、みなそう強く願うものです。七日前。歌子様の瞳には同じ光がありました。だからこそ、あたくしは賭けてみたいと思いましたの。歌子様に。……星夜様の弱みであった御方は、強みとなりうるのか」
「しかし――鉄の掟は、先代が護られた、代々続く掟です。歌子様に、このまま夜澄島にいていただくのですか? 代々の一族の想いを裏切ってでも?」
「……暮葉さん。ご存じでしょうけれども、あたくしはいま鬼神族でもっとも年長の者となってしまいました。あたくしよりも年上だった先代も、すでにこの世にはいらっしゃいませんから。代々の一族の想いは……あたくしは、よく存じておりますよ……もう思い出せないほど遠い、幼き日よりずっと、ここ、夜澄島で感じてきたのですから」

 暮葉さんは、黙り込む。
 彼にしては珍しく、うつむき、葛藤をあらわにして――。

「それで……いいのですか……黄見さんは。あれほど、先代の想いを大事にされてきたのに」
「先代の想いとは、常に鬼神族が強く在ること」

 黄見さんは長いまつ毛を伏せて、歌うように語る。

「きっと歌子様が新しい時代を見せてくださいましょう。そうでなければ――実家にお帰りいただくのみ」

 ……決戦は、明日。
 怖くないと言えば、もちろん嘘になるけれど。

 私はずっと星夜と一緒にいたい。
 離れたくなんかない。

 そのためになら、強くなれた。
 そのためになら、犬の身体で戦えた。

 そして、だれにも言ってはないけれど。
 もうあのひとに、私はひとりで戦ってほしくない。

 もう、あなたをひとりにはしない。
 争うことが嫌いなのに、修羅の道をこれからも進まねばならないのなら。
 せめて、私がそばにいる。

 ……私が自身の呪いを受け入れられたように。
 今度は――星夜の修羅の道を、私が一緒に進もう。
 決戦の日。
 戦争の開始時刻は、午後の五時。
 晩秋の日没は早い。もう既に、暗くなり始めていた。

 私は、黄見さんの運転する車でこっそりと吾妻橋に来た。
 ちなみに、いまはまだ人間の姿だ。化術もそれなりに気力を使う。戦いに備えて、少しでも気力や体力を温存しておきたかった。
 黄見さんが結界を張ってくれているおかげで、私の気配は、鬼神にも天狗にも気づかれていない。

 吾妻橋周辺は、大層賑わっていた。
 屋台でも出ていれば、お祭りなのではないかと思っただろう。

 血気盛んな鬼神族と、みな一様に団扇を持っている天狗族たちが集結している。
 互いに数百名いる夜澄島の鬼神族と神参山の天狗族が勢ぞろいしているのは、異様な光景だった。

 吾妻橋の西側には鬼神族、東側には天狗族が控える。
 橋は、戦い開始まで渡れない。
 西側の先頭には、星夜が。東側の先頭には、仙の後ろに、大団扇で自身を扇いで宙に浮く永久花がいた。

 星夜の殺気が……すごい……伝わってくる。
 紅い……どこまでも紅く、すべてを燃やし尽くしてしまうかのような。

 こんなに離れた距離なのに、びりびりと、空気を裂くかのような殺気だった。
 私が修行をしたから、感じられるのだろうか……。
 でも、鬼神のみなさんや警察のひとたちもかなり緊張した面持ちだったから、みんなが感じられるくらいに、強い殺気なのかもしれない。

 一方で、星夜の殺気に紛れて、永久花の殺気も感じられた……。
 笑顔で浮いてはいるけれど。
 飛空永久花……相当、怒っている……。

 それだけでも壮観なのに、更に、人間たちも集結しているのだ。
 原則、人間は立ち入り禁止。避難指示が出る。
 だけど警察、救急隊に消防隊、テレビ局や一部の動画配信者など、特別な許可を受けたひとたちは、あちらこちらにいた。
 なんとも、ものものしい……。

 治療や作戦のために待機する鬼神や天狗、それに許可を受けた人間たちは、吾妻橋をすぐそこに臨む隅田(すみだ)公園に集まっている。

 隅田公園は桜の名所。春なら、桜がこぼれるように咲き誇るだろう。
 だけど、晩秋の隅田公園もとてもとても美しかった――見渡す限り一面に、紅葉(もみじ)が深く色づいている。