私の半分は父で出来ていた。
 でも半分は、母ではなかった。

 私は半分すら、兄と繋がっていなかった。



【わたし と あに 。】



 私を育ててくれた母は、ある日兄を連れて家にやって来た。
 私を産んだ人は私が二歳のときに亡くなっていた。なので、母に対して私は、何の抵抗感を抱くことも無く受け入れてしまった。生みの母にとっては薄情なことかもしれないが。
 そして、兄のことも。
 兄は、西の生まれでやわらかい母に似て、とてもやさしい少年だった。
 私は、母のことを、好きになった。
 兄のことも、だいすきだった。



「お兄ちゃん、お母はんのお墓参り、いつ行く?」
 父は帰りが遅く二人だけの食卓で、私は兄へ問い掛けた。私は母を『お母はん』と呼んだ。母の訛りだとそれがしっくりとしていたし、何より兄が、母をそう呼んでいたから。ちなみに父は『お父さん』、実母は『ママ』だ。
 兄は一瞬、夕飯を突付く箸を止めきょとんとして、ああ、と一つ頷いた。
「もう、そんな時期……やったんねぇ」
 本人曰く、訛りが中途半端に消えなかった兄は吐息を混じらせ、ほっと息を吐くみたいに零した。私は兄のこの仕草にちょっと胸が痛んだ気がした。
 でも気のせいだったと、自分を誤魔化すように「お母はんの好きな、苺大福作ろうよ!」明るく提案した。私の様子に兄は、然も呆れた風で「あんたはんが食べたいだけなんと違いますかぁ?」と突っ込んだ。私は兄に悟られなかったことを安堵しつつ「それも有る!」返す。兄は、仕様の無い“妹”を見る目で苦笑していた。
「……」

 私は半分すら、兄と繋がっていない。その事実が、私に深く刺さったままだ。



 私はもうすぐ結婚する。兄より年上の人だ。七つ年上。そうでなければならなかった
 兄より年上で、兄より余裕が在りそうで、兄より私を巧く扱える人。
 そうでなければ、────彼でなければ、ならなかった。

「驚いたよ」
「え、」
「お義兄さんの前じゃ随分子供になるんだね」
 母の墓参りを思い出す兄との夕飯の、数箇月前。両家の顔合わせが終わって、彼の家で彼と二人お茶を飲んでいたときだ。彼と兄や父は顔見知り程度で、きちんと相対したのは今回が初めてだった。
 テーブルを挟んで向かいに座った彼の言葉に、血の気が引く。それでも、場まで凍らせるわけには行かなかった。私は若干瞠目した瞳を瞬きして、無理矢理笑みを浮かべる。
「そうかしら。まぁ、そうね、家族の前だし────」
「お義父さんよりお義兄さんといるときのほうが、何て言うか甘えている気がするよ」
「……そう?」
「うん、気を付けてね」
「……」
 家族離れ出来ていないなんて、お嫁入りはどうかなって言われちゃうよ? ────弓なりに細められた双眸が見透かしているみたいで、私は居心地が悪かった。
 私が、望んだことだけど。



 彼との出会いは私が通う私立校に、彼が教育実習で来たことだ。付属大学から来たイケメンで柔和な彼は、共学となった今でも中高一貫の女子校だった名残が濃いウチでは、早々に話題の的になっていた。
 とは言え、私は彼を少々苦手に感じて避けていたんだけれど。

 彼との距離が縮んだのは、彼の実習が終わってから。彼の母親が経営している雑貨屋で再会したのだった。
“中学生が寄り道しちゃいけないよ?”
“……先生?”
 そのころ家に早く帰りたくなかった私は、街をぶらり歩くことが多かった。ずっと行ってみたかった雑貨屋へ入ったところ、彼が店番をしていた。
“まぁ、いいか。こっちおいでよ”
 てっきり怒られると警戒していた私に、彼は説教も諭すこともしないで、ただお茶をご馳走してくれた。

 雑貨屋の経営者である彼の母親にも、また来てね、と言われ、行き場の無い私は雑貨屋に入り浸るようになった。何日か通うと、彼に対する苦手意識も幾らか薄れ私は彼とも普通に会話していた。

 あるとき、彼は先生になる気なんか無く、家の仕事を継ぐのだと私に言った。余りに楽しそうに手伝っていたので、雑貨屋のことかと思った私に彼は首を振った。もともと家は輸入雑貨の会社をやっており、雑貨屋は母親の道楽だからこれは無いよ、って……寂しそうに。
 このときの彼の笑顔が、母が亡くなったときの兄と重なった。

 実習中彼を忌避していたのも、兄に似ていて、兄と違い影を背負っていたからだと、私は思った。



 私は件の雑貨屋で現在働いている。幸い、義母となる彼の母親との関係は良好だ。むしろ私が高校を卒業するまでは、彼に目を光らせ厳しく接していたくらい、私をたいせつにしてくれる。
「そろそろお昼どうぞー。今日はね、あなたの好きな鯖の味噌煮にしてみたの。いっぱい食べてねっ」
 第三の母、と言っても過言じゃない。
 私は。
「ありがとう、ございます」
 私はこの結婚に関して、何の不満も無い。



 私の結婚が早過ぎることを、兄が心配していたのを知っていた。
 単純に、私の年齢のことを言っているのだ。私が高校を卒業して僅か一年で結婚するから。
 兄として。
 兄はいつだってそうだ。
 父と母が再婚したときも。
“大丈夫?”
 母が亡くなったときも。
“大丈夫か?”
 兄はいつだって、『妹』の私を一番に気に懸ける。
 半分も繋がらない、妹の私を。



“苦しいです”
 兄は私を優先する。兄がいれば私は甘える。
 まだ付き合っていなかった彼に、……先生に、私は思わず洩らしてしまったことが在る。
 外では大人びていると評判だった私は、家では兄にひどく甘えた。学校でも、しっかり者の優秀なクラス委員長。だと言うのに、私は家に帰ると兄には際限無く甘えていた。どちらが本性かって程、私は家と外で異なった。
 だからって、どちらが、なんてことを考えたことは無い。どちらも自分だと、ちゃんと認識していた。 それより。
 兄が、当時付き合っていた彼女どころか、自身のことすら二の次にして私に重きを置いていることが、つらかった。
 勿論最初こそ、子供の幼稚な自尊心や優越感でよろこんでいた。しかし成長するにつれ、私と兄と、お互いの感情にズレが生じて、次第に息が詰まって行った。
 私は、どこまで行っても兄の家族なのに。
 家族だから、兄は私を重要視し、私は限り無く兄を独占出来た。
 家族だから。
 家族だから、駄目なのに。
 でなきゃ、おかしくなる。
 家族なのに。
 私の悩みを余所に、兄は私を甘やかす。
“どうしたら良いか、わからない”
“誰も悪くないのに”
“痛い”
 雑貨屋の店内で二人、自然視線を下げた私はぽつぽつ、潜めた声で話した。静かな店内では充分聞き取れただろう。
 数瞬沈黙を挟んだあと、彼が言った。
“誰も悪くないなら、仕方ないね”
 床と、視界に入るスカートの襞を睨み付けていた私は、平坦な彼のトーンに顔を上げた。

“だって、誰も悪くないんでしょ?”
“うん”
“だけど、きみは、自分が悪いと思ってるんだ”
 淡々と説く彼の指摘に私は彼を凝視した。彼は笑っていた。
“罪悪感を抱いているみたいに見えるよ。悪くないはずなのに。……いや、悪くないからかな?
 自らを罰することも出来ないから、苦しいんだね”
“────”
 私が彼に抱いた、初めての特別な感情は、『畏怖』だった。

 私が彼を苦手に思っていたのは、彼が兄に似ているだけじゃなくて、私の内側に巣食って絡み合うどす黒さを察せられると、危惧していたからだった。



 あんなことが無かったら、私は彼と付き合うことも結婚しようとすることも、しなかっただろう。



 お墓参り当日、私は母の着物を着た。白い着物。上掛けはピンク。
 母が、兄を連れて来たとき着ていたものだ。
「寒ない? 今日天気はええけど風は冷たいし。もっとあったかい格好が良かったんと違う?」
「良いのー。この格好で来たかったの!」
 母の墓前で兄が渋い顔をした。私は唇を尖らせて反論した。父はいなかった。掃除して花を挿し、お線香を焚いて手を合わせたあと、お寺の住職さんと話して来ると行ってしまった。
「そうは言うてもねぇ。女の子なんやから、体を冷やすのはあきませんわ」
「だって、」
「ほら、これ着てなさい」
 私が何ごとか言い返す前に兄が己の上着を肩に掛けてくれた。私は突然のことに、二の句が継げなくなった。
 さっきまで兄が身に付けていたせいか、ほんのり兄のぬくもりを感じて面映ゆくなって。私は「お兄ちゃ、」何か言おうと口を開いて。

「あんたはんは、あとちょっとで結婚するんやから。大事にせんとね」

 閉じざるを、得なかった。
 ぐっと歯に力を入れて噛み締めて、喉奥から競り上がろうとするものを閉じ込める。でなきゃ、溢れそうだった。

 私の半分でも、兄と繋がっていたら。
 こうは、ならなかった。
 兄は上着を掛けてから私に背を向けてしまった。戻りの遅い父を捜しているのだろう。……ので、私の状態にも気付いていない、多分。

 半分でも、兄と繋がっていたら。
 私はきっと、彼と結婚しようとしなかっただろう。
 聡い彼は私の、全部じゃない告解で感付いている。
 私の、抱える全容を。
 私がなぜ彼と結婚するかを。

 兄を見た。兄の背に、窺える横顔に違和は無い。
 兄は知らないだろう。私のこと、意図も、何も彼も。
 彼は私のことを理解している。意図も、何も彼も。

 だから、私は結婚するんだ。

 半分でも、繋がっていられたら。
 家族のままで、いられたのに。






【 了 】