サマースマイル・アゲイン

「小秋ちゃんはさ」



 それは、まさにボクの邪な感情を見透かしたかのようなタイミングだった。



「小秋ちゃんは将来の夢とかあるの?」



「え?」



 あまりに突拍子もない質問に、ボクはずいぶんと間の抜けた声を漏らしてしまった。



 思えば、ボクは自分自身の将来について、さほど真剣に考えたことがない。つい先日も進路希望調査書を白紙のまま提出し、担任の藤沢多喜二、五十七歳児童買春疑惑ありに放課後、呼び出しを食らってしまったほどだ。



 ただ、夢がまったくないのかと問われたら、決してそんなことはなかった。実はボクには、児童文学作家になりたいという、偉く漠然とした夢があった。もうかれこれ十年来の夢になるだろうか。



 もっとも、物語の一つだって書き上げたことがないし、児童文学作家にこだわる理由も、小学生の頃に出会った児童文学作品に感銘を受けたからという、ただそれだけのことなのだけれど。



 夢と呼ぶのもおこがましい、読書好き女子高生の戯言を素直に打ち明けるのもどうかと思い、でもやっぱり真夏ちゃんを前にして適当にやり過ごすことはできない。



「ボクは、作家……児童文学作家になりたい」



 ああ、言ってしまった――。



 果たして、真夏ちゃんはどんな反応をするだろう。心に巣食う言いようのない不安が急速に肥大化し、けれど、



「小秋ちゃん、本が大好きだもんね。なんか妙に納得」



 杞憂は杞憂に終わった。



「とっても素敵な夢だと思うよ」



「あはは……でも、夢というよりは、なれたらいいなあっていう願望に近いかも」



「なれるよ、小秋ちゃんなら」



「本当にそう思う?」



「もちろん。それに、人間はなれるものを目指すんじゃなくて、なりたいものを目指すんだって、昨日の学園ドラマの中で先生役の人が言ってたもん。わたし、彼のその言葉にグッときちゃったんだよね。だから、うん。本当に、本っ当に応援してる」



「……ありがとう」
 このコを好きになってよかった。確信すると同時に、頬の紅潮を自覚する。



 なんだか急に照れくさくなったボクは、その気持ちを誤魔化すかのように、とっさに切り返した。



「真夏ちゃんは将来何になりたいの?」



 真夏ちゃんの親友を自称するボクは、彼女の夢を勝手にイラストレーターと予想している。真夏ちゃんは美術部の部長さんを務めているだけのことはあり、もうとにかく絵が上手いのだ。特に風景画。思わず息を呑んでしまうほどの繊細なタッチで描かれたその作品の数々に、ボクは幾度となく感服させられていた。



「わたしはねえ……」



 と、次の瞬間だった。



 不意に、潮風がボクらの前髪を数センチ揺らし、カモメの甲高い鳴き声が大気を震わせ、



「あ!」



 真夏ちゃんのびっくりしたような声に、ボクは思わず身体を仰け反らせた。



「ど、どうしたの?」



「イルカ! イルカがいるよ!」



 イルカ? イルカって、あのイルカ? 思いつつ、大海原を見渡すも、いやしかしイルカなんてどこにも見当たらない。


「……どこ?」



 凪いでいる海にじっと視線を据えたまま、ボクは尋ねる。するとどうだろう。



「空見て! 空!」



 真夏ちゃんがさらに声を張った。



 本日の最高気温、三十五・六度。もしやこの尋常ではない熱波にやられて、おかしくなってしまったのだろうか。



 興奮し切った真夏ちゃんを心の底から心配しつつ、それでいて一応、ボクは促されるままに頭上を見上げる。
「……あ」



 そして、



「……イルカだ」



 思わずつぶやいていた。



 いたのだ。イルカが、いたのだ。



 正確に言うと、限りなくイルカに近い形をした乳白色の雲が、茫漠とした青空をゆらりゆらりと揺蕩っていた。輪郭は大げさなくらいにイルカそのもので、まるで誰かの創作物かと思ってしまったほどだ。



 目をこすり、目を凝らす。やはり、いる。ボクは真夏ちゃんの気持ちを理解する。これは、興奮しないほうがおかしい。



「いたでしょ?」



「うん……すごいや」



 以前、深夜のバラエティ番組か何かで、世界の至る国々でイルカが幸福の象徴とされているという雑学を紹介していたのだけれど、ボクはこのとき、ふとそのことを思い出していた。



「ね! すごい!」



 普段味わうことのない昂りからか、お互いに語彙力が崩壊中。



 ボクらは一本のコーラを間に挟んで、すごい、すごい、と何度も同じ言葉を繰り返した。



 午後二時。イルカ発見以降も、ボクらは時間も忘れておしゃべりに興じた。将来の夢について、明日から始まる夏休みについて、レスターの風土について。気づけば、タイムリミットの一時間は、とうに過ぎ去っていた。



 そして――コーラの缶が空になった頃、ボクたち二人はS駅をあとにした。
 S駅からそれぞれの住まいがある最寄り駅に向かうまでの十分少々の間、誰もいない車内でボクらは、スマートフォンで撮ったイルカの画像を延々と眺めていた。二人だけの最高の思い出ができたね、だなんてお互いにキャッキャと笑い合いながら。



「じゃあね、小秋ちゃん」



「うん。また夏休み明けに」



 真夏ちゃんがE駅で降りたあと、ボクはその次のF駅で下車した。



 F駅西口を出てすぐ、上下真っ青な衣服に身を包んだ十数名の男女が、何やら解読不能な呪文のようなものを唱えながら、列を成して通路を闊歩している姿が見えた。地元を拠点とする某カルト宗教団体の信者たちだ。



 彼らの数メートル先では、東南アジア系の少女らが「アジアの恵まれない子供たちのために」と謳い、か細い声で通行人に寄付を募っている。そんな見慣れた光景を横目に、ボクは炎天下の中をマイペースに歩き進んでゆく。



 途中、何気なくスマートフォンのデータフォルダを開いたボクは、先ほど撮ったばかりのイルカの画像をあらためて確認した。



「…………」



 結局、ボクは自分の気持ちを、好きだという気持ちを、真夏ちゃんに打ち明けなかった。何せあのとき、あの瞬間。青空に浮かぶ大きなイルカが、ボクの心に語りかけたのだ。まだ早いよ、タイミングは今じゃないよ、とそう語りかけたのだ。



 今にして思えば、熱波にやられておかしくなっていたのは、ボクのほうだったのかもしれない。でもボクは、イルカのお告げを信じることにした。だって彼は幸運の象徴であり、幸福を運ぶ使者なのだから。



 高校卒業まで、あと約一年半。



「……何も焦ることなんかないよね」



 冷静さを取り戻した頭で、ボクは自分自身に言い聞かせるようにつぶやき落とす。



 その言葉は一瞬の涼風に吹かれ、やがて遠く、目に染み入るような青空へと運ばれていった。
 八月半ば。ジョーこと城ヶ崎太一(じょうがさきたいち)が二十三歳という若さでこの世を去った。溺死だった。



 旅先での海水浴中、離岸流に巻き込まれた現地の外国人女児を助けようとして、そのまま二人帰らぬ人となったという報せを、ボクはまずSNSで知り、次に地元ローカルのスポットニュースで知り、そして夏休み明けの二年D組で知った。



 何やらジョーは、ネット上ではちょっとした有名人だったらしい。チャンネル登録者数十万人を誇る人気配信グループではリーダーを担当、来月にはなんと歌手デビューを控えていたのだという。その事実をボクは、つい最近まで何も知らなかった。



 始業式当日。午前八時過ぎ。教室に入るや否や、クラス中がジョーの話題で持ち切りだった。さすがは小さな片田舎である。ジョーが真夏ちゃんの恋人だという事実はすでにクラスメイトのほとんどに知れ渡っているようで、派手グループを筆頭に、普通グループ、地味グループまでもが会ったこともない人気配信者の死について、



「離岸流かあ」



「かわいそう……」



「ネット情報だと彼、背中に『真夏』ってタトゥーを彫ってたらしいよ。一途な人だったんだね」



 などなど、ああだこうだと偽善者ぶって騒ぎ立てていた。



 今、真夏ちゃんがこの場に現れたら、奴らはきっと彼女の周りを一斉に取り囲むに違いない。恋人を亡くした級友の気持ちなんて露知らず、彼女の心に土足で踏み込むつもりなのだ。



 ボクは急にこめかみの辺りに鋭い痛みを感じ、そして同時に真夏ちゃんのことがひどく心配になった。今日くらいは欠席してほしい。奴らの退屈しのぎのネタになんかなってほしくない。そう願った。
 願いが通じたのか、この日、真夏ちゃんは学校を休んだ。体調不良とのことだった。ボクはほっと胸を撫で下ろす。でも、予想外な出来事が起きた。彼女の欠席は翌日も、翌々日も続いたのだ。



「突然だが……冬木が退学した」



 藤沢多喜二、五十七歳児童買春疑惑ありが神妙な面持ちでそんな発言をしたのは、九月下旬のことだった。



 一瞬にして教室中がざわめき出す。真夏ちゃんの中退を惜しむ声がそこらかしこで上がり始める。大粒の涙を流している者までいる。



 しかし――信じがたいことに、担任の口から告げられた驚愕の事実は、生徒らにとっては瑣末な出来事でしかなかったらしい。何せ次の日にもなると、真夏ちゃんのことを話題にする者は誰一人としていなくなっていたのだから。もうすっかりそれまでの日常を取り戻していたのだから。あいさつもなしに学校を去っていったクラスメイトを泣きながら憂いていた人間でさえ、今や人気アイドルの事務所退所報道に夢中になっているようだった。



 この教室で彼女のことを、冬木真夏のことを本心から思い続けている人間は、おそらくボクただ一人だけだ。
 十月に入り、夏服がその役目を終え、町を流れるそよ風に心地よい冷たさとキンモクセイの香りが感じられるようになった頃、ボクは真夏ちゃんの自宅に電話を入れた。夏休み明け以降、相変わらず彼女のスマートフォンには一切の連絡が取れず、そんな日々に業を煮やした結果、自ずと導き出された行動だった。



 放課後、午後五時。自宅二階の閉め切った部屋の中、帰宅するや否やボクは、スマートフォンの通話ボタンをタップした。六畳の空間を落ち着きなく行ったり来たり、心のざわめきを持て余しながら、やがて電話は六コール目で繋がった。



「……はい、冬木です」



 第一声、そのおっとりとした口調で、すぐに誰かわかった。真夏ちゃんのママだ。



 ボクは少し緊張しながら、



「もしもし、春原ですけど……」



「あ、小秋ちゃん?」



「はい、お久しぶりです」



「本当に久しぶりね」



 心なしか声のトーンが沈んでいる。



 結果から言うと、自宅に真夏ちゃんはいなかった。ジョーの死をきっかけとして精神を病んだ彼女は現在、市内にある総合病院の精神科に入院中とのことで、その旨を語りながら、真夏ちゃんのママはすすり泣いていた。



「真夏は今、誰かに会えるような精神状態ではないの」



 だから、そっとしておいてあげてほしい。静かにそう懇願されたボクは、



「わかりました」



 と肯くしかなかった。



 正直な話、ジョーが死んだという報せを聞いたとき、ボクは不謹慎にも歓喜してしまった。ライバルが、恋敵がいなくなった、そう思ったのだ。でも肝心の真夏ちゃんはというと、精神に異常を来し、高校を中退し、そして今もなお亡き恋人に操を立て続けている。



「どうしてやさしい心を持った人にほど、大きな悲しみが降り注いでしまうんだろうね」



「…………」



「小秋ちゃんは命を大切にしてね」



「……はい」



 十分ほどの通話を終えたあと、ボクは鬼灯色の夕陽が射し込む自室で一人、真夏ちゃんのことを思いながら、ちょっとだけ泣いた。



 季節は一つ、二つと移ろいでゆく。ボクらが泣こうが喚こうが、そんなことはお構いなしに、何もかも構わずに。すべては移り変わってゆく――。



 三年生に進級する頃にもなると、周囲や自分自身にいくつかの変化と呼べる出来事が起こった。



 まず一つ目。担任の、いや元担任の藤沢多喜二が警察に捕まった。女子中学生を買春したとのことだった。年齢は十四歳と十五歳。



 放課後、母校へ取材に訪れていたマスコミ関係者にたまたま声をかけられ、校門前でのインタビューを求められたボクは、藤沢容疑者に対し一言「いかにもやりそうな人でした」と答えた。



 その日のうちに放送された夕方のニュースでは、警察に連行される彼が、輝くばかりのハリウッドスマイルで「ロリコンで何が悪い!」などと叫び散らす異様な光景が映し出されていた。



「これはねえ、狂うてますよこの人は。顔を見てごらんなさい。目はつり上がってるし、顔はボォッと浮いているでしょう。こりゃあ完全にキチガイの顔ですわ」



「いや、谷崎さん。そういう発言はよろしくないかと……」



 上下真っ青な衣服に身を包んだ熟年男の卑劣な犯罪行為を、放送禁止用語を用いて批判した白髪コメンテーター。彼の発言がSNS上で物議を醸し、のちに大炎上したのは、また別の話だ。



 二つ目。梅雨真っただ中の六月、ボクは十万字程度の長編小説を書き上げた。地方都市の商業高校に通う凸凹女子二人組のひと夏の恋模様を描いた、いわゆる百合作品って奴である。本当は児童文学が書きたかったのだけれど、思いのほか行き詰まり、気分転換として書き始めたものがこの処女作だった。



 真夏ちゃんの中退をきっかけにボクのことを何かと気にかけてくれるようになったスターリンこと星野凛いわく、「いいじゃん。なんかよくわかんないけど、いいじゃん」な物語らしい。ちなみに、タイトルはまだ決まっていない。



 そして、三つ目。ボクは進路を東京都内の中堅私大に絞った。家賃以外の生活費をアルバイトで稼ぎながら、四年間の大学生活では真面目に民俗学を学びたいと力説すると、両親は拍子抜けしてしまうほどあっさりとボクの上京を認めてくれた。



 まあしかし、本音を言うと、大学進学は言わばモラトリアムを確保するための口実であり、民俗学なんてこれっぽっちも――いや、さすがにそれは言い過ぎかもしれないけれど、とにかくボクは社会に出るまでの猶予期間を心の底から欲していた。四年という限られた時間の中で、かっこよく言うと、自分探しをしようと目論んでいたのだ。



 このようにしていくつかの出来事を重ねながら、やがて高校生活最後の夏休みが幕を開けると、ボクは町の県立図書館に入り浸るようになった。何十万冊もの本に囲まれたもの静かで冷房の効いた空間は、受験勉強には打ってつけだった。



 その日も、八月十日も、ボクは図書館を訪れ、開館時間から現代文の過去問を解きまくっていた。
「小秋?」



 そんな声をかけられたのは、二階休憩スペースのベンチで一息ついていたときだった。



 誰だろう。思いながら、右方を向く。



「……青石くん?」



「白石だ!」



 ボクは白石くんの顔を見るとどうにも、脊髄反射的に名前を間違えたくなってしまう性分らしい。



 久々に会った白石くんは相変わらずイケメンだった。デザイナーズブランドのロゴTシャツにくたびれたチノパン、足元はスニーカーといったなんでもないような格好も、彼が着こなすと妙に様になって見える。



 でもいったい、どうして白石くんがこんなところにいるのだろう。間違っても彼は、読書なんかするようなキャラではない。



「こんなところで何してるの? 受験勉強か何か?」



 すると、白石くんは実にあっけらかんとした口調で、



「まさか。涼みに来ただけだって。さっきまでここの近くの霊園に墓参りに行ってたんだ、俺」



「白石くん、おじいちゃんもおばあちゃんもまだご健在じゃなかったっけ?」



「一年ちょっと前……確か、おまえとコンビニで鉢合わせた日の前日じゃなかったかな。野球部時代のチームメイトがバキュームカーにはねられて、あの世に逝っちまったんだよ。道路に飛び出したガキを助けようとして。即死だったらしい」