サマースマイル・アゲイン

 いったいどうしたというのだろう。疑問符を頭上三十センチに浮かべている間にボクの目の前までやって来た真夏ちゃんは、膝上のスカートを翻しながら後ろを振り返り、



「ごめんね。今日、小秋ちゃんと一緒に帰る約束してたんだ」



 始業式にまた皆、元気に集まろうね。微炭酸のような爽やかさと共に、四天王にそう言い放ったのだ。



 気づけば、四天王の面々が、一斉にボクへと視線を集めていた。



 威圧感たっぷりの視線に耐えながら、ボクは畢生の作り笑顔を浮かべる。すると、スターリンはすぐにボクから視線を外し、少し呆れたような感じでもって、



「真夏、ほんと小秋と仲良いよなあ」



「うん。だってわたしたち、二人で一つだし」



「もうヤッたの?」



「バカー! そんなんじゃないもん!」



 直後、ぎゃはは! という下卑た笑いがこだました。



 本当に下品な奴。ドス黒く渦巻く感情を胸の奥底に抱きつつ、けれども決して口に出すことはない。情けないけれど、ボクは真夏ちゃんの隣でただただ引きつった笑みを浮かべることしかできずにいる。



 それから二言三言交わしたあと、四天王は意外にもあっさりと真夏ちゃんを解放してくれた。
「ごめんね」



 真夏ちゃんがいつになく低いトーンでつぶやいたのは、ちょうど校門を抜け出たときだった。



「一緒に帰る約束なんてしてなかったのに、あんな嘘ついて」



「ううん」



「終業式の日は、どうしても小秋ちゃんと一緒に帰りたかったの」



 表情を陰らせる真夏ちゃんを真横に見ながら、ボクは激しく動揺してしまう。



 確かに一緒に帰る約束なんてした覚えはない。そもそも終業式でばたばたしていたということもあり、ボクらはつい先ほどまで会話らしい会話すら交わしていなかったのだ。でもそんなことは、もはやどうだってよかった。真夏ちゃんがついた嘘によって、今この瞬間が存在するのだから。



 真夏ちゃんに感謝しながら、ボクは努めて明るくこう言った。



「実はボクも、終業式の日は真夏ちゃんと一緒に帰れたらいいなあって、密かに思ってたんだよね」



「本当?」



「うん。だから、そんな顔しないで?」



「……ありがとう」



 白と青のコントラストが映える昼下がりの空の下、今日も夏らしく、じりじりと焼けるように暑い。



 どこからともなく漂う塩素の匂いを鼻先で感じながら、時折お互いの肩と肩を触れ合わせながら、ボクたちはきらきらとした光の中を同じ歩調で進んでゆく。
 やがて前方数十メートル先に陸橋が見えてきた。ここを通り過ぎれば、最寄り駅まであと少しだ。



「わたしたち、明日から会えなくなっちゃうね」



 不意に、真夏ちゃんの口からひどく悲しい言葉が漏れた。



 ボクはちょっぴり泣きそうになりながら、



「そんな悲しいこと言わないでよ。連絡するし、たまには会ってほしいな」



 限りなく本音に近い言葉だった。さすがに毎日会いたいだなんて自分本意なことは言えない。



 ボクの言葉の直後、なぜか数秒の間が空いた。疑問に思い、右方を向く。



「あのね、小秋ちゃん」



 そして、真夏ちゃんは気まずそうな、あるいは困ったような曖昧な笑みを浮かべ、言った。



「実はわたし、明日から丸々一ヶ月、イギリスに行くんだ」



「え」



「知ってると思うけど、わたしのおじいちゃん、イギリス人なの。でね、もう何年も会ってないから、今年こそは顔を見せにいくぞってパパがうるさくて……本当に困っちゃうよね」



 言いつつ、美少女は茶色がかった瞳を三日月形に細めるが、いやいや、笑いごとではない。断じて。
「黙ってたわけじゃないんだよ? でもほら、あえて伝えるようなことでもないかなあと思って」



 言葉が出てこなかった。真夏ちゃんに悪気がないということは百も承知している。でもやっぱり悲しいし、何より寂しかった。そんな大事なこと、真っ先に伝えてほしかった。



 陸橋を渡りながら、ボクはあれこれと考えを巡らせる。



 確かに、真夏ちゃんにとってはたったの一ヶ月なのかもしれない。けれど、ボクにはその一ヶ月が途方もなく長く、まるで今生の別れのように感じられた。



 今日中に、彼女に気持ちを伝えなければ後悔する――ボクが衝動的にそんなことを思ったのは、陸橋を渡り切ったときのことだった。



 冷静さを欠いている自分自身を、ボクは十二分に自覚していた。でも、その一方で昂り続ける感情は、いよいよ歯止めが効かないところまできていた。



「真夏ちゃん」



「ん?」



「今からちょっとだけボクにつき合ってくれないかな?」



「……うん。明日の準備がまだ残ってるから、あんまり遅くまでは無理だけど」



「大丈夫、本当にちょっとつき合ってくれるだけでいいから」



 ただならぬ決意を胸に、ボクは真夏ちゃんだけに黒目を縫いつける。



 真夏ちゃんはきょとんとした表情を浮かべながら、小首を傾げている。



 七月二十四日、火曜日。蝉のトレモロが脳天に響く、ひどく暑い午後のことだった。
 人生初の告白場所は、海と決めていた。



 遠い水平線を眺めながらのベタなシチュエーションに、昔からなぜか憧れがあったのだ。そして幸運なことに、ボクの住むA市には海がある。



「海なんて久々に来たなー」



 S駅のホームに降り立つや否や、真夏ちゃんが声を弾ませた。



 ここは、母校のあるA駅から私鉄でニ十分の距離に佇む無人駅。一日の乗車人数はグーグル調べによると平均で五十人程度らしい。地元でも非常にマイナーな駅であるため、実はボク自身ここに来るのは初めてだったりする。



 簡素な屋根と青いベンチが二つだけという、至ってシンプルな造りのホームから眺める景色は、控え目に言って絶景だった。



「小秋ちゃん、誘ってくれてありがとね」



「ううん、こちらこそ」


 あのね、真夏ちゃんと一緒に夏の思い出が作りたいの。そう言って彼女をここに誘い出したのが、ほんの数十分前の出来事。



 真夏ちゃんは明日、早朝の便でイギリスのレスターという街へと旅立ってしまう。そして、帰国は一ヶ月先。そんな事実を彼女の口から聞かされて間もなく、ボクは告白を決意した。なんとしてでも気持ちを伝えなければならない、と衝動的に思ったのだ。



 明日からのことを考えると、とてもつらい。一ヶ月会えないだけでこんなにも寂しく、切ない気持ちになるなんて、ボクは知らなかった。
「わたし、日焼け止め塗ってくるの忘れちゃったよ」



「あ、じゃあボクの貸してあげる」



「わー、ありがとう」



 ボクたちはホームのベンチに並んで腰かけている。真夏ちゃんとの距離はわずか二、三十センチ。心の距離はもっと近い――と信じたい。



 何気なくスマートフォンを確認すると、時刻はまだ十三時にもなっていなかった。もっとも、悠長に構えている暇はない。二人きりでいられる時間は限られている。



 一時間。きっと長くても一時間程度だ。真夏ちゃんの都合を考えると、それくらいが妥当だろう。けれど、つい数十分前までの勢いはどこへやら、ボクは完全に委縮し切っていた。人生初の愛の告白を前に、端的に言うとビビッていたのだ。



 ボクたちはもともと、それほどおしゃべりな方ではない。二人きりのとき、自然と沈黙が生まれてしまうことも珍しくはなかった。もちろん、お互いに気を許しているわけで、そこに気まずさのようなものは一切ないのだけれど、



「…………」



 会話らしい会話もないまま、気づけば五分、十分、二十分と、時はいたずらに経過してしまった。



 さすがに、これはちょっと気まずい。そして何より、真夏ちゃんに申し訳ないと思った。彼女は忙しい中、ボクにわざわざつき合ってくれているのだ。
「あのさ……」



 どうして、こんなにも声が震えてしまうのだろう。どうして、こんなにも息が詰まってしまうのだろう。



 寄せては返す波の音だけが慎ましく響くこの空間から、ボクはだんだんと逃げ出したくなり始めていた。



「ちょっと飲み物買ってくるけど、何かいる?」



 結局、告白の言葉を寸前で飲み込んだボクは、自分自身をいったん落ち着かせることにした。



 真夏ちゃんは唇に人差し指を添え、少し考えるような素振りを見せたあと、



「コーラが飲みたいかも」



「コーラね、了解」



「あ、でも全部は飲み切れないと思うから、二人で半分こしよう?」



「いいね、それ」



 直後、ボクはホームの端に設置された自販機まで小走りで向かい、缶コーラを一本買った。このとき、ボタンを押した指先は小刻みに震えていた。



 受け取り口に右手を伸ばし、痺れるほどに冷えたコーラを手のひら全体で感じながら、一度深呼吸。



「ふう……」



 お腹の底から勢いよく二酸化炭素を吐き出したあと、ボクは本日もう何度目かの覚悟を決める。今度こそ、今度こそ本気だ。
「お待たせ」



 ベンチに戻るや否や、ボクは真夏ちゃんにコーラを差し出した。



「ありがとう」



 と例の目のなくなる笑みを浮かべた彼女は、手のひらに六十円を用意していて、ボクはその律儀さをあらためていじらしく思い、危うく悶えかけた。



 すんでのところで持ち堪えたボクは、



「ボクのおごりだから、お金はいらないよ」



 だなんて精一杯のクールを気取り、真夏ちゃんの隣に腰かける。



「いいの?」



「もちろん。真夏ちゃんにはいつもお世話になってるから」



「あはは。全然そんなことないけど、でも嬉しいな」



 直後、真夏ちゃんがコーラを一口飲み、そして次にボクが一口。なんだかいつもより甘みが強く感じられる。気のせいなんかじゃない。真夏ちゃんのセクシャルなリップにはきっと、甘いものをよりいっそう甘くしてしまう特殊能力が備わっているのだ。



 そんなことを至って真剣に考えながら、ボクは真夏ちゃんの横顔を、口元を、じっと食い入るように見つめている。不意に、触れてみたい、と思った。この薄い唇を、彼女の厚く艶やかな唇に目一杯押しつけてみたい。そう思った。



 真夏ちゃんの唇は、いったいどんな味がするのだろう――。
「小秋ちゃんはさ」



 それは、まさにボクの邪な感情を見透かしたかのようなタイミングだった。



「小秋ちゃんは将来の夢とかあるの?」



「え?」



 あまりに突拍子もない質問に、ボクはずいぶんと間の抜けた声を漏らしてしまった。



 思えば、ボクは自分自身の将来について、さほど真剣に考えたことがない。つい先日も進路希望調査書を白紙のまま提出し、担任の藤沢多喜二、五十七歳児童買春疑惑ありに放課後、呼び出しを食らってしまったほどだ。



 ただ、夢がまったくないのかと問われたら、決してそんなことはなかった。実はボクには、児童文学作家になりたいという、偉く漠然とした夢があった。もうかれこれ十年来の夢になるだろうか。



 もっとも、物語の一つだって書き上げたことがないし、児童文学作家にこだわる理由も、小学生の頃に出会った児童文学作品に感銘を受けたからという、ただそれだけのことなのだけれど。



 夢と呼ぶのもおこがましい、読書好き女子高生の戯言を素直に打ち明けるのもどうかと思い、でもやっぱり真夏ちゃんを前にして適当にやり過ごすことはできない。



「ボクは、作家……児童文学作家になりたい」



 ああ、言ってしまった――。



 果たして、真夏ちゃんはどんな反応をするだろう。心に巣食う言いようのない不安が急速に肥大化し、けれど、



「小秋ちゃん、本が大好きだもんね。なんか妙に納得」



 杞憂は杞憂に終わった。



「とっても素敵な夢だと思うよ」



「あはは……でも、夢というよりは、なれたらいいなあっていう願望に近いかも」



「なれるよ、小秋ちゃんなら」



「本当にそう思う?」



「もちろん。それに、人間はなれるものを目指すんじゃなくて、なりたいものを目指すんだって、昨日の学園ドラマの中で先生役の人が言ってたもん。わたし、彼のその言葉にグッときちゃったんだよね。だから、うん。本当に、本っ当に応援してる」



「……ありがとう」