その日の夜、俺は新田に会いに行った。面会時間が何時までかはわからなかったが、後三十分は面会できるらしく、いつもの無機質な廊下を小走りで新田の部屋に向かった。


「美優、いるか?」


 耳鳴りがするほど静まり返っているせいか、自然と新田を呼ぶ声も小さくなる。だが、それでも俺の声に気づいたようで、車椅子のタイヤの音がドアに近づいてきた。


 ――待っていたのか?


 新田の名前を呼んだと同時に車椅子の音がしたということは、新田は既に車椅子に乗っていたのだろう。そう考えると、新田はひょっとしたら俺を待っていてくれたような気がして、ごちゃ混ぜになっていた胸の内が少しだけ軽くなった気がした。

『こんな時間に珍しいですね。でも、時間外のプレイは割増と相場は決まってますよ』

 渡されたメモを読み、「何のプレイだよ」とツッコミを入れる。だが、このズレた感覚が妙に懐かしい感じがして、俺は笑わずにはいられなかった。

『仲間とたむろってたけど、つまんなくて来た。ただの暇潰し』

 一瞬、新田に会いに来たと書きかけて、慌て取り繕いの言葉に差し替えた。会いに来たと書こうとした自分が恥ずかしくて、いつも以上に汚い字になってしまった。


『仲間がいるのは幸せなことですよ。私は、熊谷くんと仲良くなれてそう実感してます』


『そうでもない気がするが、てか、いつ俺が美優と仲間になったんだ?』


『ひどい人ですね。人目を忍んであんなことやこんなことをしたのを忘れたんですか?』


『てか、やってねえし。人に見られたら恥ずかしいことを書くなよ』


 相変わらずのノリの新田にツッコミを入れてやると、初めてドアの向こうから微かな笑い声が聞こえてきた。


 ――綺麗な声だな


 これまで新田の声を聞いたのは、数えるほどしかなかった。いつも消え入りそうな声だったが、今日は微かでもはっきりと笑った声が聞けたおかげで、再び俺の胸の中がざわつき始めた。


『熊谷くん、何かありましたか?』


 ドアの向こうにいる新田を近くに感じれた気がしていると、予想外の質問を渡された。どういうことかと考えてみたが、考えたところでわかるはずもなかったから、俺は『?』と書いて渡した。


『別に大したことではありません。ただ、いつもと様子が違うような気がしたのですから』


 返ってきた言葉に、俺は腕を組んで低く唸った。どうやら自分では気づかないうちに、俺はいつもの調子とやらを失っていたらしい。


『実は、色々と迷っている』


 どう繕うか考えてみたが、それよりも素直に自分の気持ちを晒してみることにした。どうせ新田は他の誰かと会うこともないし、俺の馬鹿話にも適当に付き合ってくれる期待もあった。


『何を迷っているんですか?』


『このままだと、俺はどうなるんだろうなって時々考えている』


『どうしてそう考えるのですか?』


『俺は学校にも行ってないし、実は少年院行きにもリーチがかかっている。美優は知らないと思うが、少年院に行ったら将来は絶望的になるんだ。中には這い上がってまともになる奴もいるが、そんなの一握り中の一握りだ。大半が日の当たらない日陰の中で、また悪さを繰り返すのがオチだ。だから、時々考えるんだよ。俺は何の為に生きてるんだろうなって』


 書き出した瞬間から手の勢いが止まらなくなり、気づくと情けないようなことを書いていることに気づいた。


 ――馬鹿か、俺は


 書き終えたメモをグシャグシャにしながらも、結局、俺は適当に広げ直して新田に渡すことにした。

 新田はどんな反応をするだろうか。自分に会いに来た人間が、やっぱりろくでもない不良だと知ったら、新田は俺のことを避けるようになるかもしれなかった。

 そんな一抹の不安を抱える中、時間だけがやたらとゆっくり流れていった。どんな反応をするのか気になって仕方ない俺に、ようやく返事が来たのは五分ほどしてからだった。


『何の為に生きているかは私にもわかりません。ただ、私は間もなく死ぬということだけはわかっています。そんな私でも、一つだけ心の拠り所にしているものがあります』


『心の拠り所?』


『そうです。私は、死ぬのがわかっていながらも、ずっと抱いていたものがあります』


『それは何だよ?』


『希望です』


 薄く弱々しい文字のくせに、その言葉からはなぜか力強いものを感じた。新田がどんなつもりで書いたかはわからないが、少なくとも俺を不良とわかって塩をまくことはないようだった。


『希望って、どんな希望を持っていたんだ?』


『好きな人を作ることです。私も年頃の女の子ですから、恋というものをしたいと思っていました』


 またしても予想外な言葉に、俺はどう反応していいかわからずにから笑いするしかなかった。それを新田は馬鹿にされたと勘違いしたのか、何度もドアを足で蹴っていた。


『で、好きな人ができたら何をするつもりなんだ?』


『海を見に行ってみたいと思っています。ほら、昔は熊谷くんともよく写真を撮ってましたよね?』


『撮ってねーし。てか、ぎりぎりアウトだからやめろ』


『でも、いきなり病院に来て、いつ空いてるのってメモをくれましたよね?』


『マジで訴えられるからやめろ。三年どころか一回も会ってねーし』


 新田の暴走が止まらなくなりそうだったから、とりあえずツッコミを入れて流れを断ち切った。


『こんな私でも、しぶとく希望を抱いているんです。希望を持つことで、私は辛い現実を何とか楽しく乗り越えてきました。だから、熊谷くんも何か希望を持つといいですよ』


 新田の文字を目で追いながら、ふと、進路希望調査のことを思い出した。新田にしたら、希望は生きていく過程で大切な心の支えだ。だから、希望を馬鹿にしたような俺に噛みついてきたのかもしれない。


『叶うといいな』


『半分は叶ってます。後は、熊谷くんが私を怪人二十面相のようにさらって海に連れていってくれれば、ミッションはコンプリートしますよ』


 ちょっと迷いのあるような弱い文字だったが、新田のメモにははっきり美優の気持ちが書かれていた。


 ――ちょ、どういうことだ?


 突然の展開にプチパニックになったところで、タイミングよく看護師が面会時間終了を報せにやってきた。


『また来るから』


 何をどう書いていいかわからなかった俺は、とりあえず書きなぐりのメモを渡すと、逃げるように病院から去っていった。