『ふざけんな。なにが愛の告白だ。俺は文句を言いに来たんだ』


 何を書くか迷いながらも、迷っていることが馬鹿らしくなり、結局ストレートに感情を書いてメモ用紙を投げ入れた。

 滑り落ちたメモ用紙を、細長く白い腕が拾い上げる。一瞬見えた点滴の管が気になったが、それ以上に綺麗な新田の手に、俺の胸が再びざわつき出した。


『モンク? 私はロープレのジョブではあまり使いませんね』


 返ってきた内容に、俺はつい笑ってしまった。この状況でゲームのボケをするあたり、新田は大分イカれているようだ。


『ふざけんな。この前の進路希望調査用紙にお前が書いたことに文句を言いに来たんだ』


『それは失礼しました。てっきりドアの前でモジモジしながら愛の告白をされるかと思ってました』


『馬鹿かお前。てか死ねよ』


 怒りに任せて書き殴ったメモ用紙を投げ入れる。想像以上に変な奴だったことにペースを乱されたことにさえ、俺はイライラして我慢ができなくなっていた。

 そんな俺に対し、新田の返事がいきなり止まってしまった。俺が書いた紙に返信を書くのだが、そのスピードは早いとはいえなくても遅いともいえなかった。

 だが、今は完全に手が止まったかのように静かになり、俺は妙な不安を感じてしまった。


『言われなくても、私は間もなく死ぬと思います』


 ようやく返ってきたメモ用紙には、これまでで一番の弱い文字が書かれていた。しかも、よく見ると何かで濡れたように所々文字が滲んでいた。その何かというのは、ドアの向こうのすすり泣く声でわかった。


 ――くそ、やっちまった


 怒りに任せて傷つく言葉を投げつけていたことに気づいた俺は、苛立ちが一気に冷めて頭をかきながら自己嫌悪に陥るしかなかった。


『悪かった』


 そう書くのに、途方もない時間が流れたような気がした。もう文句を言うこともどうでもよくなり、俺は今すぐにでもこの場を立ち去りたくなっていた。

 気が遠くなりそうなほどひどくゆっくりと時間が流れた後、ようやく届いた新田からのメモ用紙をひったくるように手にして開いてた。


『私を、お前ではなくちゃんと美優と呼んでください。呼んでくれたら許します』


 書かれた内容から、新田がさほど怒ってないことはわかった。だが、ほっとする間もなく出された提案に頭を抱えるしかなかった。

 気恥ずかしい気持ちが勝り、どうするか迷う俺を、新田が急かすようにドアをノックしてきた。


「美優、でいいのか?」


 顔が熱くなるのを感じつつ、裏返りそうな声で新田の名前を口にする。なんでこんなことになったのかと自問自答するのも馬鹿らしくなったが、微かに「ありがと」と消え入りそうな声がして、俺の胸のざわつきは鼓動の乱れに変わっていった。

 そこからは、ぎこちなさも少しだけ薄れたこともあり、 次第に話題は互いのことになっていった。

 新田は、生まれつき体が弱く、小学校の半分は病院で過ごしたという。元々は隣町に住んでたらしいが、本格的に病状が悪化したことで、この町に引っ越してきたらしい。


『熊谷くんはどんな人ですか?』


 当然の流れとして、新田は俺のことを尋ねてきた。新田にしたら、ごく自然な興味本位かもしれないが、俺には答えるのが億劫になるくらいに辛い質問でもあった。

 俺に関していえば、生まれつき体が悪いわけでも家庭環境に恵まれなかったわけではない。優しい両親と、十歳以上離れた大好きな兄がいた俺は、今のように落ちぶれる素質も要素もなかった。

 そんな俺の全てが変貌したのが、兄の死だった。大学卒業後、大手の会社に就職した兄は、両親はもちろん俺にとっても自慢で憧れの存在だった。

 そんな兄が自殺したのは、三年前のことだった。入社して一年、仕事には慣れたと笑いながら電話してきた兄は、その直後にマンションから飛び降りてこの世を去っていった。

 順風満帆だった兄の人生。名の知れた高校大学を卒業し、何より俺にとっては一番身近なヒーローでもあった兄。その兄が亡くなってからは、俺の家族は壊れたといってよかった。

 兄が自殺する理由について、会社はもちろん、会社の同僚も口を閉ざしたままだった。残された遺書に綴られた『ごめんなさい』というたった一言の文字では、兄に何が起きたのか知ることもできなかった。

 兄の死後、母親はアルツハイマーを発病して精神的にまいってしまった。頼りの父親も精神的に限界だったのか、一年前に蒸発して以降、音信不通になっていた。


『俺は、学校にも行ってないクズ野郎だ』


 辛い過去の記憶に気分が沈んでいた俺は、偽ることなく気持ちを文字に乗せた。受け取った新田はきっと笑うだろうと思ったが、意外にも声一つ発することなくメモ用紙を返してきた。


『熊谷くんはクズではありません。熊谷くんは、私に会いに来てくれました。それは、私にとってとても嬉しいことです。誰かを喜ばすことができる人に、クズはいないと私は思います』


 今日一番の力強い筆跡の文字に、俺は気落ちしていた感情が軽くなるのを感じた。不良や落ちこぼれと陰口叩かれるようになってからは、人に何かを認められることは一度もなかった。

 なのに、顔も知らない同級生に自分が肯定されたような気がして、俺はつい笑って胸の高ぶりを誤魔化すしかなかった。

 ナースステーションから看護師が来るのがわかり、俺はいつの間にか一時間以上もやりとりしていたことに気づいた。考えてみたら、時間を忘れて何かをやることも、今の俺にはなかったことだった。


『また、会いに来てくれますか?』


 やりとりの終わりを察したのか、新田は最後のメモにそう添えてきた。


『気が向いたらな』


 気のきいた言葉も浮かばず、そもそも気取る必要があるのかと自虐的になった俺は、看護師にやりとりの内容を盗み見られる前に一言だけ書いて、メモ用紙を隙間に投げ入れるしかなかった。