朝から起きて学校に向かうのは、久しぶりだった。いつもは昼過ぎに起き、学校に行くかを一瞬だけ考え、結局二度寝するのが俺の日常だ。中学三年生でこんなことしてたら終わりだと言われるが、どうせ学校に行っても「帰ってくれ」と担任に懇願されるのがオチだから、周りの忠告には唾を吐き続けた。

 そういうことだから、朝から姿を現した俺に対して、母親が驚いてショック死しそうになった。絶対に姿を現さないリビングに俺がいたのだから、母親が混乱するのは仕方がないといえた。


「直紀、まだいたの? 早くしないと大学に遅れるでしょ」


 気を取り直した母親が、いつものように俺を三年前に亡くなった兄貴と間違える。もう慣れたとはいえ、久しぶりの朝からこんな現実を見せられて、俺の怒りは瞬間湯沸し器よりも速く沸騰した。


「だから、俺は死んだ兄貴じゃないって言ってんだろ。俺は鷹広なんだよ。いい加減間違えんなよ!」


 怒りに任せて声を荒げると、長い髪を乱した母親が呆けたように声を失った。ちゃんとしていたら若くて美人だろうけど、兄貴の死をきっかけにアルツハイマーとなってからは、もう母親の面影も役割も消え失せていた。


「あらあら、鷹ちゃん、今日は早いのね」


 俺の怒鳴り声を聞いた婆ちゃんが、腰を曲げたまま間に入ってきた。母親がその役目を放棄してからは、実際に母親の役をしているのが婆ちゃんだった。

 婆ちゃんは母親をキッチンに連れていくと、泣き崩れる母親をなだめ始める。もう何回と繰り返されている日常だった。母親は毎日兄貴の死を忘れ、婆ちゃんによって兄貴の死を聞かされる。そんな繰り返しを続けているわけだから、まともになれと願っても無駄なのはよくわかっていた。

 母親の泣き顔を横目で見ながら、洗面所に向かう。金髪を短くした髪はセットの必要はないが、眉毛と髭剃りだけは欠かせなかった。わりとイケメンだと言ってもらえる顔立ちだが、鏡の中の瞳は鋭く光ながらも、どこか淀んでもいた。


「行ってくる」


 朝食を取る気が失せた俺は、進路希望調査の用紙をポケットにねじ込んで家を出た。当然ながらカバンといった類いはなく、婆ちゃんに無理言って買ってもらったスマホだけが相棒だった。


 ○ ○ ○


 外に出ると、朝から真夏の日差しに目がくらみそうになった。随分夜行性でいたから、太陽が大きくなったんじゃないかと勘違いするくらい、明るく眩しく見えた。


「熊谷君!」


 何が楽しくて毎朝登校しているんだと周りを馬鹿にしながら交差点に立った時、同じクラスの早川智輝に声をかけられた。

 早川は、俺とは真反対のタイプの人間で、分厚い眼鏡がよく似合うチビの優等生だ。幼なじみでなかったら瞬時にATMにしているところだが、数少ない話し相手だとして仲良くしていた。


「どうしたの? まさか真面目になったとか言わないよね?」


「馬鹿、今さら何言ってんだよ。今日は用事ができたから学校に行ってるだけだ」


「え、用事って、まさか誰かを(コンプラ)すの?」


「あほか、お前は」


 相変わらず遠慮なしにまくし立てる早川に、俺は呆れてデコピンをお見舞いした。普段は狂犬と呼ばれ、誰も近づかない俺に恐れることなく接するのは早川ぐらいだろう。


「これを書いた奴をつきとめるんだ」


 額を押さえる早川に、ポケットに丸めた進路希望調査の用紙を突き出した。


「このミスXって奴に、舐めたマネしたお礼をしてやりたいんだ。早川、何か知らないか?」


 まじまじと用紙を見つめる早川に、事の成り行きを説明する。学校から定期的に渡されるゴミの中に混ざっていた一枚。おかげで、怒りで寝つけず朝から行動するはめになってしまった。


「この東原総合病院て、確か新田美優って女の子が入院してなかったっけ」


 明らかに笑いを堪えている早川が、聞いたことのない奴の名前を口にする。笑ったことにツッコミを入れつつ詳しく話を聞くと、どうやら新田美優という奴は同じクラスの女子らしい。


「入院って、なんか怪我してんのか?」


「いや、確か何か重い病気だったと思うよ。ずっと入退院を繰り返してたみたいだし、学校に来ても保健室通いだったから僕もよく知らないかな」


 早川の情報では、新田美優というのがどんな奴か詳しくはわからなかった。とはいえ、新田美優が俺に喧嘩を売ってきたのは間違いない。今は病院にいるというのなら、乗り込んで文句を言うのが正しい対処方だろう。


「このミスXが書いた文字、ちょっと読みにくいのが気になるかな」


「どういう意味だ?」


「病気で入院しているなら、体調が悪いわけでしょ? ってことは、もうまともに字も書けないほど弱ってるのかなって思っただけ」


 早川の言う通り、書かれた文字は俺の汚い字よりもひどかった。所々文字がかすれ、ちょっとブレた感じになっているのは、手に力が入っていない証拠かもしれない。


「で、そんな女の子の喧嘩を買いに行くの?」


「当たり前だろ。馬鹿にされて黙っていられるかよ」


「まあ馬鹿にしているというか、もっともな意見だと思うけどね」


 再び笑い出した早川が、さりげなく俺を馬鹿にしてきた。もちろん、追加のデコピンを連打してやったが、早川の言うことも否定できない自分がいた。


「予定変更。とりあえず、どんな舐めた女か見てくる。喧嘩を買うかはその時次第だ」


 学校に新田が来ていないなら、学校に行く用事はなくなった。病院がいつから面会できるか知らないが、とりあえず会ってどういうつもりで喧嘩を売ってきたのか確認することにした。


「学校には来ないの?」


 学校へと続く道で立ち止まった俺に、早川が小さくため息をつきながら聞いてきた。


「行かねえよ。どうせ行ったって、担任のハゲに帰ってくれと言われるのがオチさ」


「そんなことないよ。大人しくしていれば問題ないと思うけど。それに、このままだと本当に駄目になってしまうんじゃないの? 気持ちはわかるけどさ、結局は自分のことなんだから、もっと自分を大事に――」


「ああ、もうわかったからそれ以上言うな。病院が終わって気が向いたら来るさ」


 早川からいつもの説得がくるのを感じた俺は、すぐに背を向けて話を打ち切った。


「絶対だからね」


 なおもしつこく言ってくる早川に手を上げ、俺は病院へと進路を変えた。

 早川の言いたいことはわかっていた。このままだと、どこの高校にも進学できないと言いたかったはずだ。

 だが、もう今の俺は手遅れだと自分でも薄々感じていた。このまま情けで中学を卒業しても、待っているのはお先真っ暗な底辺生活だけだろう。

 そうわかってても、今の俺にはどうすることもできなかった。

 なぜなら、兄貴が自殺してからの俺の日常は、母親と同じように狂いっぱなしだったからだ。