任意同行という強制連行に逆らうことなく従った俺は、クソジジィと一緒に警察車両の後部座席に座るはめになった。

 クソジジィの「しばらく帰れないからな」と呟いた言葉が、やけに弱く聞こえたおかげで、いよいよ俺も堕ちるとこまで堕ちたことを悟った。

 無言の重苦しい空気が漂う中、逮捕されることへの不安と恐怖をまぎらわせる為、新田の母親から受け取った手紙を読むことにした。

 真っ白な封筒に入っていた手紙は一枚。もう見慣れてしまったかすれた文字がやけに懐かしく感じられ、急に胸の奥に息苦しさに似た痛みがジクジクと沸き上がってきた。


 ――熊谷くんへ


 この手紙を熊谷くんが読んでいる時、私はおそらくこの世にいないでしょう。それがいつになるかはわかりませんが、手が動くうちに熊谷くんに伝えておきたいことを書いておこうと思います。

 熊谷くんは、自分のことや家族のこと、さらには将来のことで悩んでいるから、自分をクズだと思うくらいに間違った道を歩んでいることでしょう。

 でもね、熊谷くん。私は、熊谷くんが間違った道を歩んでくれてよかったと思っています。なぜなら、そのおかげで私は熊谷くんと仲良くなり、最後に希望を抱くことができたからです。

 自分勝手な想いだけど、私は熊谷くんと出会えて本当に幸せでした。最初に病院に熊谷くんが来た時の喜びは、今でも鮮明に覚えています。

 そんな幸せをくれた熊谷くんに、私なりに伝えたいことがあります。

 熊谷くんは、これから先もずっと思い悩みながら生きて行くことでしょう。でも、それは嫌なことではなく、生きていけることの一つの特権だと思います。

 私にあって熊谷くんにないもの。

 それは何だと思いますか?

 答えは、『命の期限』です。

 私は、早い段階から間もなく死ぬことが決まっていました。その瞬間から、私は夢を描くことができなくなりました。

 これは、生きている上で非常に辛い現実でした。生きているのに何も未来を描けないなら、なぜ私は生きているんだろうとずっと悩んでいました。

 でも、熊谷くんは違います。私と違って命の期限がありません。朝目が覚めた時に、今日死ぬかもしれないと考えることはないと思います。

 人は、生きている限り死にます。ひょっとしたら、今日何かの事故で亡くなる可能性だってあるのです。

 でも、多くの人はそんなこと考えることはありません。熊谷くんも、きっと考えたことはないと思います。

 それはつまり、自由に夢を描ける特権だと思います。死ぬことを考えなくていいから、いくらでも自由に未来を思い描くことができるのです。

 だから、熊谷くんにはもっと自由に未来を思い描いて欲しいと思います。私がどんなに望んだとしても手にできなかった特権を、熊谷くんにはちゃんと使って欲しいのです。

 また変なことを書いていると思われたくないので、ここで書くのを止めたいと思います。

 最後に、熊谷くんは私の初恋の人でしたから、一つお願いがあります。

 もし、遠い将来、私の心臓を受け取った人に出会うような奇跡があれば、私の初恋の答えを聞かせてもらえたらと思います。

 馬鹿で変な私でしたが、いつも付き合ってくれてありがとうございました。最後は、熊谷くんにエールを送ってお別れしたいと思います。


 熊谷鷹広、めげずに前に進め!!

               新田 美優


 所々滲んだ文字を追いながら、俺は溢れてくる感情のうねりに耐えきれなくなり、何度も両目を乱暴に擦り続けた。

 きっと、この手紙を書いた時の新田は辛かっただろう。さらに、手紙のやりとりをしていた時、何も考えずに馬鹿なことを書いていた俺が羨ましかっただろう。


 ――俺は本当に馬鹿だな


 手紙を読み終えた瞬間、心底自分の馬鹿さ加減が嫌になった。自分の置かれた環境を言い訳に馬鹿を繰り返しては、単に被害者面していたことを心底思い知らされた気がした。

 俺が置かれた境遇と新田の境遇を考えたら、新田の方が明らかにどん底だろう。なのに新田は、夢を描くことすら許されない世界で必死に希望を抱き続けようとしていた。

 それに比べて俺はどうだ。全てを環境のせいにして、大人たちを都合のいい言い訳に仕立て上げて逃げ回っているだけに過ぎなかった。


 ――ったく、何が前に進めだよ、美優


 かすれ滲んだ見慣れた文字から伝わってくる新田の想い。気づくと俺は、手紙越しに必死になって新田の姿を探した。

 だが、どんなに探しても見つかるのは思い出の新田の姿であり、俺はようやく新田がいなくなったことを実感した。


「じいちゃん、俺――」


 突然襲ってきた激しい息苦しさ。さらに声も出せないような胸の痛みに耐えきれなくなった俺は、大嫌いだったはずのクソジジィの腕にしがみついた。


「お前、その子のことが好きだったんだな」


 泣き崩れる俺を慰めるかのように、クソジジィが肩を抱いてきた。そんなクソジジィの何気ない一言に、俺はこの時になって、ようやく新田を好きだったことに気づいた。


「じいちゃん、もう馬鹿やめるよ。もうこんな生活卒業するから」


 新田の手紙を丁寧にしまい直しながら、そんな言葉を口にする。新田から受け取ったメッセージは、今より前に進めだ。このままどん底を足掻くくらいなら、少しでも前を見て生きた方がいいだろう。

 それに、新田は俺に希望を残してくれた。新田の心臓を受け取った誰かを、いつか必ず見つけだして約束を果たす必要があった。

 そんな希望を抱いた瞬間、なぜか肩の荷が下りたような気がして、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。


「間違いないな?」


「うん、約束する。もう馬鹿やってる暇はなくなったから」


「そうか。だったら後は俺に任せろ。いつでも支えてやるからな」


 クソジジィの優しい言葉に深く頷き返した後、俺は窓の外に目を向けた。


 ――初恋の返事に、海に連れていく約束か


 車窓を流れる景色を見ながら、新田と交わした約束を頭に並べる。どちらも今のままでは叶うことは難しいだろうから、せめて少しでもまともになるのが先に思えた。


 ――必ず、海に連れていくからな


 車窓の先のいつもの町並みに新田の姿を重ねながら、心の中で強く誓う。

 その瞬間、「時間外は割り増しですよ」という新田のボケが聞こえた気がして、再びゆっくりと景色が淡く滲んでいった。