なんとか昼過ぎには、病院にたどり着くことができた。電話の内容が内容だけに、不思議と覚悟はできていた。さらに言えば、実は新田が仕掛けたドッキリなんじゃないかとさえ思い始める余裕すらあった。

 だが、それが間違いだと知るには十分過ぎるぐらいの現実が目の前にあった。

 いつもの新田の病室は、今はドアが完全に開かれていた。新田が使っていたと思われる素っ気ない車椅子だけが、音のない無人の部屋で異彩を放っていた。


「熊谷くん、ですか?」


 半分呆然としていたところに、中年のおばさんに声をかけられた。にこやかに笑っていたが、真っ赤に腫れた目が全てを物語っていた。


「ごめんなさいね。本当は、最後に美優に会ってもらいたかったんだけど」


 言葉を震わせたおばさんが、深く頭を下げる。雰囲気からして新田の母親だろう。聞けば、新田は昼前に脳死状態になったという。

 慌てて連絡したが、時は既に遅かったようだ。俺の普段の行いを考えたら、神様からの当然の仕打ちかもしれなかった。


「美優は、今どこにいるんですか?」


 何度も頭を下げる新田の母親を制して、俺は新田がどうなったかを確認した。


「あの子は今、手術室にいるの」


 か細い声が伝えてきたのは、いつか新田が話していたことだった。新田は心臓移植のドナーになっていて、今まさに新田の心臓が誰かに受け継がれている最中だった。


「手術が終わって綺麗な身体に戻ったら、一目会えると思います。ぜひ、会ってもらえませんか?」


 新田の母親の涙声に、胸の奥に刻まれるような痛みが走った。その意味をなぜかぼんやり考えようとしたところで、廊下の先にクソジジィの姿を見つけた。おそらく、家にいないとわかってスマホの位置情報からここを探り当てたのだろう。


「大丈夫です。俺、美優とは会わないと決めたんです。それに、美優は今の姿を見られるのを嫌がってましたから。だから、会わないほうがいいと思います」

 新田の母親からの申し出に激しく心が動いたが、クソジジィがいる以上、警察はのんきに俺のワガママに付き合ってはくれないだろう。つくづく自分の運命を呪ったが、たとえクソジジィがいなくても、俺は新田の姿を直接見ることはなかっただろう。


「そうですか。でしたら、これだけでも受け取ってくれませんか?」


 落胆した新田の母親だったが、気を取り直したように真っ白の封筒を差し出してきた。


「あの子に頼まれてたものです。あの子に何かあったら、熊谷くんに渡して欲しいと」


 中身が何かと思案していたところに、新田の母親が説明してくれた。どうやら俺と手紙のやり取りを始めた際に、手が動くうちに俺への手紙を別に書いていたようだ。

 新田からの最後となった手紙を受け取り、新田の母親に頭を下げる。まさか娘がやり取りしていた相手がこんな金髪のろくでなしとわかって、さぞ嫌な想いをさせてしまっただろう。

 そんな予感を勝手に抱き、居場所を失ったかのように小走りに離れようとした時だった。


「貴方は、どうしようもないクズではありませんから」


「え?」


 いきなり背中に浴びせられた言葉に、俺は驚いて振り返った。


「あの子はね、ずっと一人だったの。友達もできなかったから、誰も病院に来てくれなかった。でも、貴方はあの子に会いに来てくれた。おかげで、久しぶりにあの子の楽しそうに笑う姿を見ることができたの。だから、あの子にとってはもちろん、私にとっても貴方はどうしようもないクズではありませんから」


 俺の勝手な勘違いを察知してか、新田の母親が力強く諭してきた。どうやら新田の母親にとっては、俺は恩人という扱いになっているようだった。

 なんと返事していいかわからず、がらにもなく何度も頭を下げるしかなかった俺は、結局返す言葉もなく小走りでその場から離れた。


 ――ったく、人の気も知らないくせに


 新田の母親の言葉にむず痒さを感じながら、俺は心の中で毒を吐いた。そもそも、俺が病院に来たのは新田から売られた喧嘩を買いに来ただけだし、ついさっきまでは罪を免れようと足掻いていたわけだから、どう考えてもクズでしかなかった。


 ――けど


 いつ以来かわからないが、久しぶりに自分が認められたような気がした。たったそれだけのことがなぜか嬉しくて、これから警察に捕まるというのに、ぐちゃぐちゃに感情をかき回されるはめになってしまった。


「病院で何かやっていたのか?」


 あえて新田の母親に見つからないように隠れていたクソジジィが、近づいてきた俺にさりげなく声をかけてきた。


「別に」


 神妙な顔つきのクソジジィに素っ気なく答えると、俺は逃げる意思はないことを示すようにクソジジィの隣に並んだ。